寄付

 いま、日本では、少子化でありながら、保育園の数が足りません。しかし、保育園を数多く作ろうとしても、保育者が多く必要になりますし、用地が多く必要になります。とくに、保育園が必要な地域は、土地の価格が高い場所ですので、どうするのでしょうか。ドイツでも、まだまだ保育園が足りません。その拡大を打ち出したところは日本と同じですが、土地の確保については、子どもの施設に使ってくださいと寄付をする人が多く、その建物を使うことが多いということを先日のドイツ報告のブログの中で紹介しました。
よく、欧米人は寄付をする人が多いということが言われます。今週号のR25では、「欧米人の寄付金額が日本人より遥かに多い謎」という特集が掲載されています。そこに掲載されているのは、アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット氏が374億ドル(日本円にして約4兆円)を慈善団体に寄付したというニュースです。これは桁外れに多いとしても、アメリカ人にとっては、収入の1割を寄付することは特別なことではないといいます。このような傾向に対して、ボランティアの文化に詳しい天理大学人間学部の渡辺一城准教授は、このように分析しています。「出る杭は打たれるという言葉があるように、日本人は横並びを好む傾向にある。だから、一人だけ目立つ額の寄付はしづらいのでしょう。それに、日本は陰徳の文化なので“私が、私が”は嫌われ、匿名での寄付が美徳と考えられているんです」といいます。
更に、寄付行為としては、経済企画庁の調査では、寄付をする家庭の割合は日米とも75%前後とほぼ同じですが、金額は、年間3000円程度の日本に対して、アメリカは約9万円と30倍以上の開きがあるようです。これは、ボランティアに対する考え方の違いと渡辺氏は言います。「アメリカでは寄付はボランティアの一部と考えられています。ボランティアの精神をボランタリズムと言いますが、これには“自主性”という意味以外に“自立”や“反権力”といった意味もあります。アメリカは、移民が自ら建国しルールを作り上げてきた(自立)。いわば政府に必ずしも依存せず、自らの力で解決していこうとします(反権力)。コミュニティーづくりは自分たちの責任といった考えが寄付やボランティアを積極的に行う風土を生んだのでしょう」
しかし、私は日本人が寄付とか、ボランティアの意識が薄いとは思いません。奈良時代には行基などによって河川の堤防やため池・井戸などの社会インフラの整備や、利水・治水や橋・道路建設などの公共事業や大仏建立などのために勧進という寄付が行われ、托鉢も一種の寄付をを受けるやり方です。そして、中世は自力救済の時代でしたが、民衆の間に頼母子講などの相互扶助が始まります。相互扶助というのは、集団で金銭を貯蓄し貧困者などに順番で供与するという、寄付と同様の機能を持ったものであり、それは、近世に入ってもその伝統は継承されています。
また、先日のブログで大阪人は、杭倒れということを書きましたが、大阪の八百八橋は皆町人の寄付で作られたといわれています。大阪人の商売はきたないといわれますが、実は、商売上では、無駄を省いて倹約に倹約を重ねて資本を蓄えるのですが、商売から離れれば、人として、世のためや人のためにはできるだけの事をやるのが美徳であるとの価値観を持っていました。ですから、明治になっても、中ノ島公会堂の公共施設や美術館、小学校などが市民の寄付で作られています。
いつ、自分のものは自分のもの、人のものも自分のものという時代になったのでしょう。

トンボ

今日は、香川から福井への移動日でした。JRで坂出まで出て、そこからマリンライナーに乗って、瀬戸大橋を渡って岡山行き、そこから新幹線で京都まで行き、京都からサンダーバードに乗って福井まできました。そして、今日の宿泊先は、一昨年ブログで書いた「一筆啓上」で有名になった丸岡です。また、このあたりは、福井県出身の作家・故水上勉氏の小説「越前竹人形」でその名が全国的に知られるようになった越前竹人形が有名です。豪雪地帯の厳しい寒さに耐えうる良質の真竹や孟宗竹が育つ越前では、この竹を利用して籠や笊、花器などの竹工芸品が古くから作られてきました。その竹細工のなかで、特に真竹、孟宗竹など竹の持つ直線と曲線の美しさをそのまま取り入れて創られる竹人形は、今や伝統工芸にもなっていていますが、その繊細で美しい姿は素晴らしいものがあります。
今、夏休みで子どもたちは色々な体験をしていますが、このあたりでは、様々な竹工房があり、様々な竹細工工作教室が開かれています。その初級者対象として「竹とんぼ」があります。この竹とんぼとは、プロペラと軸によって構成される日本の伝統的な飛翔玩具ですが、その名前は当然、素材として竹が用いて、トンボのように飛ぶので、「竹蜻蛉」と書くことが多いようですが、実は、竹飛ぶ棒(竹トブボウ)から竹トンボ、また、竹品棒から竹トンボの名前となったともいわれています。
もうひとつ、竹細工でトンボといえば、以前、園の近所の方からいただいた「ゆらりトンボ」というものがあります。これは、「やじろべえ」の原理で、細い竹の絵での先端に、風の吹くまま気の向くまま、ゆらゆらゆらりとバランスを取って同じく竹で作ったトンボが乗っています。トンボといえば、校庭などでクラブ活動の最後にその土をならすために使う「T字型の整地用具」がありますが、これは、トンボの全身に似ていることからこの名が付けられています。
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なんで、こんなに「とんぼ」が話題になるかというと、移動の途中で時間が少しあったので散策した鴨川で、懐かしいトンボを見たからです。そのトンボは、真っ黒な羽根に、コバルトブルーの胴体をしています。「ハグロトンボ」です。
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河原や水辺に近い涼しい木陰を好むこの夏のトンボは、ここ数年は絶滅も心配されていたようです。私も、昔はよく見かけましたが、最近は余り見なくなりました。しかし、ここ数年は、各地で目撃されているようです。今日見かけたハグロトンボは、胴体がコバルトブルーをしていましたがこのように、体色が全体的に黒く、緑色の金属光沢がある胴体を持つのは、実は雄だけのようです。雌は黒褐色です。このトンボは、姿が他のトンボと違うだけでなく、その飛び方も他のトンボのように素早く飛翔したりホバリングしたりはしないで、蝶のようにひらひらと舞うように羽ばたきます。そして、止まるときは、羽をたたみます。これは、生きた化石といわれている「ムカシトンボ」のように、原始的な形が今でも残っていると聞いたことがありますが、ちょっと、定かではありません。
また、このハグロトンボのことを私は「おはぐろトンボ」と言っていました。ですから、「羽黒トンボ」という漢字を見たときに、「あれっ?」と思ってしまいました。この名前の由来は、翅が黒いことに由来するのではなく、婦人が歯を黒く染めた「お歯黒」に似た翅の色から「オハグロトンボ」と呼ぼれていたことに由来しています。また、歯を黒くすることを「鉄奬つけ」といったので「カネツケトンボ」と呼ぶこともあり、ゴクラクトンボ、ホトケトンボ、カミサマトンボなどの呼び方もあります。
梅雨が明けたあとの、夏本番になったという実感を持ったひと時でした。

夏の音

 昨日、木陰を歩いていてふと気がついたら、蝉が盛んに鳴いていました。「あれっ?梅雨って、明けたっけ?」と思ってしまいました。すると、今日になって、気象庁では関東甲信、東海、北陸、東北南部、東北北部が梅雨明けしたと思われると発表しました。すると、突然各地で気温が上昇し、猛暑日となったようです。これで、16日、近畿と中国地方が梅雨明けしたとみられるに続いての発表です。今年の梅雨は、梅雨前線の動きは平年より活発ではなく、例年に比べてずいぶんと雨量は少ないようです。関東甲信地方でも「太平洋高気圧の張り出しがまだ弱い」ために、実際は雨があまり降らず、もう明けているのではないかと疑う日が続きましたが、やっと今日の発表になりました。やはり、蝉のほうが先に梅雨明けを発表したようです。
 このように、音によって季節を感じることがあります。1971年の吉田拓郎の名曲に「夏休み」という歌がありますが、1番に歌詞に「麦藁帽子は もう消えた 田んぼの蛙は もう消えた それでも待ってる 夏休み」というのがあります。今日から小学生たちは夏休みに入ります。今、香川に来ていますが、夜は周りの田んぼから蛙の声がします。このように世界中で蛙は鳴くことで有名ですが、そのほとんどは、オスがメスを呼ぶために大声で鳴きます。しかし、日本では、それだけでなく、かえるの鳴き声で気候とか、季節を感じます。アマガエルなどは、その名のとおり、低気圧が近づいたり、雨が降っているときに鳴きだします。
 今日の夜聞いた水田で一斉に鳴きだした蛙の声は、「蛙の大合唱」といって夏から秋の風物詩となっています。この鳴き声は、「広告音」といって、繁殖期にオスが他の個体に対し、自分の存在をアピールして鳴くものです。そうすることによって、メスを引き付け、オスを排除しているのです。
その騒がしく聞こえる蛙の声とは逆に、蛙の鳴き声によって、静けさを感じることもあります。夜、家の外から静かに響いてくる蛙の鳴き声に美しさを感じるのは、日本人特有かもしれません。古くから、多くの俳句や歌に詠まれています。先日、テレビで特集していましたが、芭蕉の有名な句である「古池や蛙飛び込む水の音」は、その静けさを、蛙の声ではなく、飛び込む水の音で表現したのは当時非常に珍しく、名句といわれる所以だそうです。
このような聴覚も五感のひとつです。昨日のブログでやはり五感のひとつである視覚を刺激するために色彩を取り上げましたが、この聴覚への刺激も必要でしょう。聴覚といっても、音の強さ、音高、音色、音源の方向、リズム、言語など様々な音を認識する能力です。今年の園の夕涼み会では、五感を刺激するコーナーが、自然をテーマに作られます。その中で、聴覚についてのコーナーでは、4種類の音を聞かせ、それぞれの音はどの季節の音かを子ども達に当ててもらう予定です。準備の話し合いの中で何の音にしようかということで、、当然、夏の音は、蝉の鳴き声です。それから、春の音は、鶯などの鳥の声でしょうし、秋の音は虫の声でしょう。では、冬の音は何かという話になりました。たぶん、雪が深深と降っている音ということで、無音にしようという計画です。無音も、音のひとつかもしれません。

イタリアの色彩

昨日、イタリア文化会館、株式会社学習研究社、Shiodomeitaliaクリエイティブ・センター主催による「子ども、空間、関係性 ~子どもの環境のためのメタプロジェクト~」日本語出版発表会に参加しました。会場は、東京九段下にある「イタリア文化会館」でした。この建物は、2005年、イタリアの建築家ガエ・アウレンティのコンセプトデザインによって建てられました。外観は、コンクリートとガラスによるイタリア風のデザインが、日本の城壁や石垣、格子や障子を思わせる幾何学模様と巧みな融合をみせていて、とても美しい姿を見せてくれます。ところが、この建物の真っ赤な外壁色の是非が、景観問題として話題となりました。その理由のひとつに、この建物が東京都千代田区の一角にあり、皇居に近く、皇居周辺の美観地区として景観が守られてきた場所に建てられたということがあります。
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設計意図としては、内堀通りの広い道路を隔てて正面に学校、隣も学校とオフィスビルがあり、無彩色に近い穏やかな街並みに、格子のパターン+漆の赤色=日本のイメージによるものでした。しかし、住民アンケートによると、40%以上の人がこの色彩は問題であると答えており、日本を象徴する色として朱漆の赤に思いを込めたという色にしては、日本人から見るとかなり攻撃的なイメージを持ったようです。結局は、当初のプランより抑えた赤に変更し施行したそうです。
 色彩というものは、文化かもしれません。子どもたちの生活環境の中で大事な視点として「五感」を刺激するというものがありますが、そのひとつである視覚を刺激するものとして色彩は重要なものです。今回出版された「子どもの環境のためのメタプロジェクト」という書物では、「乳児保育所と幼児学校で蓄積された実践の批判的読解を通して、幼児期のための空間がどのような特徴を持つべきか」という課題について語られていますが、その実践は、数年前から世界的に注目されているイタリアのエミリア市レッジョ・チルドレンと、ドムス・アカデミーによる共同研究プロジェクトです。この本の中で、空間の特徴を「位置的指標とソフト・クオリティーズ(光、色彩、素材、嗅覚、音、微気候)を伴う設計上の手段に関する考察」という内容が2章で語られています。
 そこには、「子どもは生まれながら色彩が好きで、自然にそれに反応します」と書かれていますが、どの色が幼児期にふさわしいかについて、色を限定せず、より広範囲で、もっと変化に富む色彩の好みがあるとしています。「実際、植物やある種の昆虫に対する色彩の影響は科学的に照明されていますが、色彩の人間工学は、まだ人間に対する詳細状況の指標を提供し得ていません」として、「色彩の好みは文化的な現象です。厳密に生物学的心理的反応は非常に限られています」としています。
イタリアでは、あずき色的な「赤」は、至る所で見られます。役所や学校、図書館、美術館などの公共の建物の窓枠やカーテン、市内バス、公衆電話のボックス、ごみ入れ、などです。その色は、グレーやベージュの石やレンガ造りの建物にマッチして、大変落ち着いた環境を構成しています。その文化を、日本に持ってきても、風土や歴史が違うために「イタリア文化会館」の赤は、すぐには受け入れられなかったのかもしれません。

フレネ

 フランスにフレネという人がいました。フレネは、ニースの師範学校在学中に第一次世界大戦が勃発したために、卒業を待たずに代用教員になり、そして戦場へ送られます。その戦場で毒ガスに肺を侵され、70%肺を切除しなければならなくなります。その障害者になった彼が戦後学校に勤務したとき、大声を出せなかったために、一斉に声を出して知識を子どもに伝えるという授業に疑問を持ちます。しかも、今までの教育が戦争を起こし、自分が受けた傷のように、人々に悲惨な後遺症をもたらしていることに危機感を持ちます。2007年1月5日のブログでは、口のきけない「機関車先生」という映画の話をしました。2006年1月14日のブログでは、声が出なくなった実習生の話をしました。
大声が出せなくなったフレネは、どのような教育をしようとしたのでしょうか。彼は、子どもの生活、かれらの表現そのものを学習の中心にすえることに活路を見いだしていきます。知識の伝達ではなく、「子どもの生活、興味、自由な表現」からの出発は、いまだに教科書、知識中心の授業から脱皮できない日本の教育の課題でもあります。彼の最初の実践は、特に保育にも参考になります。
南フランスの山の中の小さな学校に赴任したフレネは、そこで行われている授業に愕然とします。子どもの世界とかけ離れた教科書とその説明に終始する教師、その反復練習のためにすっかり学習意欲を無くした子どもたち、まさに、今の日本の教室の中を見ているようです。そんな子どもたちに、まず、フレネは午後の時間を使って散歩教室を始めます。村の小川や野原を歩いたり、畑や職人達の仕事場を見てまわったりしました。すると、子どもたちは好奇心と活力にあふれた表情をみせ、教師とも親しげに語り合うようになりました。そして、教室に戻って、散歩から持ち帰った収穫物を見せ合ったり、見てきたことを話し合ったりしました。しかし、そこで限界があります。それは、教室に戻ると、再び、教科書を開いて、教師の話を聞くだけになってしまうからです。子どもたちが教科書に頼ることなく自分の力で研究を進めていくためには参考資料が必要になってきます。そこで、印刷機が導入され、子ども達が綴った文を印刷しそれを教科書にかえて「自由な教科書」として使うことを考えたのです。そして、プリントを交換する学校間通信が始まり、資料カードや小冊子が整えられることになり、学級文庫が誕生します。
しかし、学校教育の中ではもうひとつ問題があります。それは、そのようなやり方で自由研究は進んで行きますが、計算や文法のような基礎的学力といわれる力であったり、想像する上で必要な知識などを習得していくことの必要です。フレネは、これらの学習を、画一的に強制されるのではなく、個々のこどもが自分のレベルに合わせて自分のリズムで学習し、自分自身で誤りを訂正できることが望ましいと考えます。そこで、プログラム化された自己訂正式自習カードが作成され、自分でつくる学習計画表が生まれていきます。あくまでも、子どもの自発性から学習を進めていくのです。
年齢という外から見える形で子どもを分け、同じ年齢は均一的な発達をしているという刷り込みではなく、子どもの自治を大切にします。生活と教育を結びつけることを追求し、学校印刷所運動がその基礎に置かれます。昨日のブログの「おたのしみかいだより」も、そのような教育の試みでした。

おたのしみかいだより

 古い書類を整理していたら、こんな通信が出てきました。
それは、私が、学校建築の研究のために小学校に勤務していたときの通信です。1年生を担任していたとき、クラスの子どもたちが発行した「おたのしみかいだより」というもので、全部で4号までありました。
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  1号にはこう書かれています。「こんど1ねん1くみでおたのしみかいをやります。きめたこと(1)かいのなまえ…おたのしみかい (2)はん…バス、のこぎりざめ、あらいぐま、ひこうき、かに (3)せきにんしゃ…かわさき、みやざき (4)かくひと…わたなべ やっているときにふざけない(みやざき)はんでやることをきめておいてください(かわさき)おたのしみにね!」
これは、B5の更紙に印刷されています。この子たちは、今は30歳後半になっているでしょうが、子どもが自らつけた班の名前からも時代が感じられます。この計画に、私はどのくらい関わっているかわかりませんが、子どもたちだけで話し合いをして、自分たちでいろいろなことを決めているようです。第2号(12月10日)には、こんなことが書かれています。
「みんなでいろいろはなしあって、ひにちをつぎのようにきめました。12月23日(金)1,2じかんめ だいたいやることをきめました。ひこうき…かみしばい かに…にんぎょうげき あらいぐま…おりがみ のこぎりざめ…がっそう バス…げき」
こんな頃、ある子から私にこんな手紙がきました。「先生へ おたのしみかいについて 私はげきをやりたいとおもいます。しかし、はんのみんなはれんしゅうをしようとおもってもならいごとがあるからって あつまってくれません。どうしたらいいでしょう。わたしは一人でもやりたいとおもいますけど どうしたらいいの。えりこ」
この手紙に私はどう答えたのでしょうか。そのあと、その班はどうなったのでしょうか。3号(12月16日)には、日程表がカレンダーになっていてそこに予定が書かれてあります。
「よていひょう 17(土)かかりをきめる 19(月)~22(木)れんしゅう 21(水)ぷろぐらむをつくる 22(木)しょうたいじょうをつくる 23(金)おたのしみかい」
 出てきたこの「おたのしみかいだより」は、4号までしかありませんが、発行されたのも4号までなのかわかりませんが、プログラムも出てきたので、たぶん、この号で終わりでしょう。
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「かかり ぷろぐらむ…かに かいじょう…あらいぐま かざり…ひこうき しかい、うけつけ…のこぎりざめ どうぐ、あんない…バス りっこうほしてかざりかいがいいといったぐるーぷが、ひこうきとのこぎりざめです。はんちょうがじぶんのはんは、こうするといって みんなで手をあげて ひこうきにきまりました。」
 係りをきめるのは、どうもそれぞれが自主的に立候補しているようです。そして、競合した場合は、班長がどのようにやるかプレゼンをして、みんなで選んでいるようです。そして、プログラムがあります。「1、はじめのことば(かわさき みやざき)2、先生のことば 3、うた ぜんいん(むしむしむしめがね)4、かみしばい(ひこうき)5、げき(バス)6、にんぎょうげき(あらいぐま)7、がっそう(のこぎりざめ)8、にんぎょうげき(かに)9、がっそう ぜんいん 10、ぽんぽんぴあの 11、さんたのおじさんのことば 12、おきゃくさんのことば 13、おわりのことば(わたなべ)」
 どうも、最初の予定通り、劇をやったようです。このプログラムに、やっと私が登場します。もちろん、すべてを子ども達だけで進めているはずはありませんが、今これを読み返してみると、1年生が生き生きと自分たちで会の準備を進めていっている姿が伝わります。なんだか、もう一度教師をやりたくなりました。

便器

 ドイツ報告の中で、日本の保育園、幼稚園には必ずどの園にあるのに、ドイツの園にはないものに、プールがあるということを書きました。他にもいくつかあります。
 そのひとつが、トイレに小便器がないことです。小学校は見ていないのでわかりませんが、どの幼稚園、保育園にも小便器はありませんでした。
小便器の歴史は意外と古く、日本に小便器が登場したのは、平安時代だと言われています。そんなに歴史が古いのは、農村部では昭和初期まで女性も立って用を足していたというくらいに、立ったまま用を足すのは、自然なのかもしれません。実際に、商品として「サニスタンド」といって、欧米には女の人が立ったまま中腰で、後ろ向きにおしっこができる小便器があったようです。それは、1920年代に、アメリカの女性がナイロンストッキングをはき始めた頃に使われ出したのがはじまりといわれています。当時のストッキングは、まだ質が良くなかったので、ふつうの洋式便器にすわると、伸びたり伝線してしまうので、中腰の姿勢で出来る「サニスタンド」が考え出されたそうです。その後、日本でも発売されますが、やはり女の人が立ってすることに抵抗が強く、あまり広まらなかったようです。しかし、今から52年前にTOTOから発売され、1964年の東京オリンピックでは国立競技場に設置されて評判になったといいます。たしかに、スポーツ選手は、立ったまま出来るのは便利かもしれません。その後約20年間も販売されていたとは驚きです。
 日本では、平安時代の小便器は、木製で箱のような形をしていて、その中に尿を貯めたそうです。江戸時代になると、よく、昔の家など保存されているところで見るようなお風呂の桶を縦に伸ばしたような筒型の小便器が使われていたようです。それが、徐々に木製から陶器に進化して、明治・大正時代には、筒の上部が広がったような形の小便器になりました。特に、日本では、和式便器では、男性は立って小便をするときには、狙いが定めにくく、周りに飛び散り不潔だということで、特に公共の場などには大便器のほかに、小便器が取り付けられました。それは、特に設置義務はありませんが、保育園、幼稚園にも設置されています。
 2007年4月4日のブログでも書きましたが、小学校では、男子便所全個室化が進んでいる昨今、それでは最初から小便器なんて、取り付ける必要ないという意見があるのは当然かもしれません。それは、大便・小便とも同じ個室に入る女子に比べ、小便器がある男子トイレでは、「個室に入ること=うんちをする」ことになるから、からかわれやすいからです。また、洋式の場合は、立って小便をしても、小便器にするのと同じように出来るからです。しかし、ドイツで、個室で小便をするときに、立ったままするか座ってするかは、家庭でのしつけによって違うそうですが、どちらにしても家庭には小便器はないという考えです。
 また、0歳児から2歳児までの園を訪れたときにもうひとつ気がついたことは、便器が、日本のように小さくないことです。大人用に踏み台をつけて使用させます。
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保育園、幼稚園の目的は、家庭で、自分で出来るようにすることであり、そのためにできるだけ家庭と同じ環境にします。日本のように、大きさが何通りもある便器を使わせる丁寧さが、果たして、子どものためにしていることでしょうか。

ラジオ3

 iPhoneが話題の昨今、ラジオは生き残る道はあるのでしょうか。ラジオから初めて声や音楽が流れたとき、人々はびっくりしたことでしょう。それは、声が電波によって伝わってくるとは思いもよらなかったからです。それが、あっという間に茶の間の中心に置かれ始めました。そして、伝説の番組が生まれます。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というナレーションで始まる、脚本家・菊田一夫の代表作「君の名は」です。このラジオドラマは、1952年に放送され、「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯がからになる」と言われたほどの人気がありました。
  子どもたちも、夜の団欒のときに聴くラジオ番組を楽しみになります。私たち子どもたちはその番組に釘付けになります。1957年にラジオ東京 (現TBSラジオ)から放送された「赤胴 鈴之助」は、その主題歌と同時に必殺技である「真空斬り」はみんなマネをしたものです。そういえば、孫悟空をはじめ「ドラゴンボール」に登場する多くの戦士達が使用する「気功波」の原型かもしれません。この「赤胴 鈴之助」の声の出演に、公募で選ばれた当時小学生だった吉永小百合や藤田弓子が出演していたことでも有名です。
  このように、ラジオ放送は、新しい文化の誕生を告げるものでしたが、 その後、時代とともに、テレビという新しいメディアの発達により、次第に家族団らんのときの地位は取って代わられていきます。しかし、聞くだけのラジオは、かえってほかの事をしながら聞くことが出来るためにその存在意義は残って行きます。仕事や家事をしながら、また、コメントにあったように勉強しながらでも聞くことが出来るのです。また、戸外へ出て移動中に聞くことも出来ます。また、コメントにあったように、テレビでは電波が届きにくい、山の上とか、旅の友としても役に立ちます。しかし、今、政府は国策として、地上波テレビのデジタル化を進め、今のアナログ放送を2011年に中止し、デジタルに完全移行しようとしています。そうすることにより、テレビが、移動時でも高画質の映像を安定的に送れることができ、携帯電話でも地上波デジタル・テレビが受信できるようになります。
  それに対抗して、ラジオでも「デジタル音声放送」化に向かっています。そうすることにより、音楽などCD並みの高品質音声に加えて、文字・写真などの静止画・簡易動画を含むデータ放送まで多彩なサービスが提供できる新しい放送であり、しかも、屋内での受信はもとより、カーラジオなどの車載受信機やポケットタイプ、PDAタイプ、携帯電話一体型タイプなどの携帯受信機でもクリアーな受信ができるなど、場所、端末を選ばず、高品質なサービスが期待できるもののようです。
  いま、先端を行くネット業界のライブドアの堀江が、ニッポン放送の経営権を握ろうとし、ニッポン放送株を巡ってフジテレビの激しい争いをしたときに、何でいまさらラジオ局かと思ったものでした。しかし、ネット配信に積極的でないテレビ局にたいして、ラジオ局が動画放送のネット展開を積極的に推し進めていくでしょう。危機感のある業界ほど積極的に新しい試みを行おうとします。事実、既に、ニッポン放送のネット番組「ブロードバンド!ニッポン」のサイトなどではラジオも動画を流しているようです。今後も、インターネットと放送を融合させた事業がますます進み、ラジオ、テレビ、インターネット業などがそれぞれ融合させ、デジタル分野での競争が始まるといわれています。
  何にしても、現状に満足し、改革をしようとしない業界はどんどんおいていかれるでしょう。

ラジオ2

 私は、戦後生まれですので、ラジオについての戦前の強烈な思い出は、実体験からというよりも、映画などでよく見る戦況報告が流れるラジオの姿です。国民がラジオを通して正確な情報を得るというよりも、後でわかることですが、ラジオを通して情報を操作されていた媒体であったという印象があります。ですから、娯楽としてのラジオの姿はそこにはありませんでした。その集約された姿が、終戦を告げる「玉音放送」です。玉音放送という言葉を若い人は知らないと思いますが、生の声(肉声)のことを玉音ともいい、玉音放送というのは、天皇の肉声を放送することをいいます。その放送が有名になったのは、1945年(昭和20年)8月15日正午(日本時間)、昭和天皇による終戦の詔書を天皇自らの声で読んだのがラジオ放送されたときです。今は、テレビなどを通して天皇の声だけではなく、姿も見ることが出来ますが、当時は、天皇の声を聞くのは国民にとってこのときが始めてであった人が多く、この放送も本当に天皇の声かと思った人が多かったようです。
そんなこともあって、本格的にラジオが国民のものになったは戦後からかもしれません。1950年に放送の自由化に伴って、東京放送局が社団法人から特殊法人に改組され、GHQの指導でアルファベット3文字の略称を決めるようにいわれたため、NHK の名前が生まれました。その頃の私が聞いていたラジオ番組は、ずいぶんと古い話ですが、寝るときに親と聞いた「講談」です。なぜ、これが印象に残っているかわかりませんが、寝る前に聞く親の読み聞かせなどの声を全く反対に、しわがれ声で机をたたく音でリズムを取りながら語る不思議な世界に子ども心に強く残ったのでしょう。
そのあと、娯楽として聞いた番組で印象に残っているのは、1954年4月から1957年3月31日までNHKラジオ第1で放送されていたラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」です。主題歌の「しっかりものの ヤン坊 暴れん坊の ニン坊 可愛いちび助 トン坊 時々けんかもするけれど やっぱり僕らは兄弟だ …」というだけでなく、その子どもの役をやっている声優に大人の女性が演じたのは、この番組が始めてだそうです。特に、トン坊役の黒柳徹子は、これが初の主演番組です。
 そのあと、夢中になったのは、昭和27年から始まったNHK「新諸国物語」です。「白鳥の騎士」(27年)、「笛吹童子」(28年)、「紅孔雀」(29年)、「オテナの塔」(30年)、「七つの誓い」(31年)です。これらの番組は、主題歌もほとんど今でも歌えます。
最近のテレビ番組ドラゴンボールの七つの球は、里見八犬伝の八つの球から発想を得たと思われるように、この頃の話に原点を見ることがあります。「白鳥の騎士」という番組は、愛と正義を象徴する「白鳥珠」と、悪の象徴「されこうべ珠」をそれぞれ受け継ぐ一族の戦いと葛藤を描いていますし、「笛吹童子」は、奈良天平時代、父の城を奪われた双子の兄弟が力をあわせて城を取り戻すまでを描いています。「紅孔雀」は、南紀州に住む那智の嘉門が持つローマの聖者から授けられた「紅孔雀の宝庫」の鍵をねらう元海賊や妖術師との戦いを描いています。テレビのように実際の姿や光景を見ることが出来ない分だけ創造の世界を広げることにもなりました。
今後のラジオの役目を考える上で、ひとつのメリットでした。

ラジオ1

  先日、テレビ放送の開始について、何回かブログで取り上げましたが、そのときのコメントにもありましたように、私たちの世代は、テレビといえば、同時にラジオの時代でもあったのです。私が小さかった頃のラジオの思い出には、テレビの思い出同様、強い思いがあります。
  ラジオとともに生活をする印象は、子どものころの思い出だけではなく、受験時代での深夜放送、巨人全盛の頃の野球放送、ジェットストリームに代表される音楽放送など様々な年代に、様々な放送番組を楽しみました。
  そんなラジオの本放送は、1925(大正14)年7月12日、東京放送局(現在のNHK)が愛宕山でラジオの本放送を開始したのがはじまりでした。ですから、今日(7月12日)は、「ラジオ本放送の日」です。しかし、その前に仮放送をしていました。その仮放送が始まったのはその年の3月22日、東京芝浦の東京放送局仮放送所からで、アナウンサーは、その第一声、JOAKを「ジェーイ、オーウ、エーイ、ケーイ」と遠くに呼びかけるように読み上げたと伝わっています。このあと、初代の総裁である東京市長や逓信大臣・満州鉄道総裁などとしても知られる後藤新平初代総裁の後藤新平が、ラジオの機能について強調した挨拶をしました。その機能とは、「文化の機会均等」(文化の機会均等。放送は地域・年齢性別に関係なく聞くことができる)、「家庭生活の革新」(ラジオを取り囲んでの家庭内での団欒。外に行かなくても家で寄席などが聞ける)、「教育の社会化」(社会人でも放送を通して教育を受けることができる)、「経済活動の活性化」(経済機能の敏活化に寄与する)です。この仮放送した3月22日が「放送記念日 」となっています。
 初めて放送を開始した今のNHKの東京放送局は、もともとは電機メーカーや新聞社などが共同で設立した社団法人で、その開局に続いて、大阪・名古屋でも独立にあり、JOAK=東京放送局、JOBK=大阪放送局、JOCK=名古屋放送局、とコールサインは決められていました。
 開局が大正14年といえば思い出すのが、その2年前の12年には関東大震災が東京を襲っています。そのときに流言飛語してひどい目にあったのが、この震災は、外国の攻撃らしいなどといった全くのデマが飛び交い、朝鮮系の人たちが襲撃されて命を落とす事件が多数起きました。このように正しい情報が伝わらない悲劇を、当時の東京市長であった後藤新平は、ラジオ局開局に力を入れていたのでしょう。
 仮放送が開始された時点では、ラジオの受信契約者は5455人で、テレビの黎明期に、店頭に人だかりがしたように、ラジオの置かれた商店などの前には、毎日のように人だかりしていたそうです。それが、その年のうちにすでに聴取者は東京で13万人、大阪で5万人、名古屋で1.5万人にまで増えていきます。このときに、ある会社の転機が訪れます。それは、現在は液晶テレビなどでシェアを占めているシャープという会社です。シャープというと、もともとは、「シャープペンシル」のシャープなのです。そのシャープが、ラジオブームに乗って、開局した年の4月に鉱石ラジオを発売し、これが飛ぶように売れて今のシャープのような会社に変わっていくのです。
 明日は、このラジオでの番組の思い出と、ラジオの将来について書いてみようと思います。