世界には素晴らしい庭園がいくつもあります。しかし、なんと言ってもすばらしいのは、日本庭園の気がします。自然の取り入れ方や、エコの考え方などは世界でも類にないほど高度な考え方をしています。それを感じるような記事が、今月号のWEDGEに掲載されています。
外国の庭園との違いについて、まず、「日本の庭」(立原正秋著 新潮社)から引用しています。「路地の石敷はそれぞれ形が違う石を敷きつめ、不完全ななかに美をもとめている。こうした美意識はどこからきているのだろう。ヨーロッパの石敷を知的構成によるものとすればこちらは感情的構成である」と書かれています。その文章に対して、WEDGEの林さんは、「ヨーロッパの装飾的な整然とした庭造りとは全く違う発想の庭がここにある。英国ガーディニング風のしつらえでもない。日本の里山を散策しているとふいに出会う雑木林、それを写し取ったような庭である。ナラやカツラ、モミジやヒメシャラといった落葉樹、それも森の木々のように幹や枝が曲がって幾重にも重なり、伸びた枝を風がやさしげに羽音とともに渡る。木立の下は大きな自然石によるせせらぎ。庭の奥を見やると築山、そこから水がさらさら流れてくる。水辺のシダやセキショウが濡れそぼち、もしや、ザリガニでもいるんじゃないかと、小石の水溜りを覗き込んだのである。こんな庭は、世界ひろしと言えども日本でしか見られず、日本人しか創り出せないだろう。まさしく日本の庭である。」
日本庭園には、平安時代にその様式が作られたという「寝殿造り庭園」というものがありますが、この庭園様式は、庭にいるだけで、山、川、海、など自然を目の当たりできるという庭です。その庭には、船を浮かべられるほどの大きな池、池を間近に眺める泉殿、釣殿といった建物が付属しています。そして、湧水とか、外部から水を取り込んだ遣水が特徴です。そして、狭い庭をひろく、雄大に見せるために、周囲の山々を借景として取り込み、後には庭に築山や石などを置くようにしていきます。この様式は、その後、築山泉水様式とか借景庭園となっていきます。
このような自然そのものを使うところから、庭の景色は、精神的なところへと昇華していきます。その究極の様式が、室町・戦国時代に多く作られていった「枯山水」です。この様式では、水を用いることなく、白砂や石、植栽で山や水を表現する庭園様式で、ごく限られた狭い寺院の中で、幽玄の世界と大自然を表す庭として造られました。狭いゆえに、白砂に熊手で描いた線を海や川に見立てたり、置かれた石を島に見立てたりと、日本庭園の技術の最高峰ともいわれ、この庭と対峙するときには、心を落ち着かせ、感性を研ぎ澄ます必要があります。
そのために日本では庭師になるために必要なことは、「庭師に必要なのは、茶道や華道だけでなく、歴史文学哲学の教養」と、WEDGEに紹介されている言葉は、とても深みがあります。「白砂の中に海を見る」という感性は、稟とした静けさの中に自分自身を見つめることができないとできませんし、また、その庭を感じることで、自分自身を見つめることが出来るのです。こんなに心に問いかける庭は日本独特なものかもしれません。
日本の庭師ということで、昨年NHKの「プロフェッッショナル仕事の流儀」で紹介された北山安夫さんのことを思い出しました。彼は東西の庭園様式の違いについてこう言います。『土の上の草木と石。形は丸いものと三角のものと四角いものしかあり得ない。庭はそれらの組み合わせで構成されている。違いがあるとすれば、直線的か、曲線的かといった見方の違い。あるいは、技術を追求するのか、精神をより追求するのかというアプローチの違い。造形美にこだわるのが西洋的な庭園、心の情景を表すのが日本庭園。でも、その構成要素は円と三角と四角にあることは変わりはない。』また、枯山水についてこうも語っています。『禅庭はモノは少ないほうがいいのやから、究極には木一本、石一つでさらに言えば何もなしで造りたい。要は、見る人の見立ての心をどうくすぐるのか。言葉はいらん。見たままでしかないんや。』彼は弟子に対していつもこう激励するといいます。『失敗を以後に生かさなければ失敗になる。せやから修業している間は失敗はあり得ない。すべてが素晴らしい経験なんや』どの世界であれ、一つの道を究めようと精進を続けている達人の言葉には、シンプルだけどわれわれの心を揺さぶるものがあるものです。
確かに日本庭園の石敷はいろんな形の石が敷きつめられていますが、不思議と安定感を感じてしまいます。木もまっすぐではなく曲がっていたりしても、不思議と落ち着きます。そうではあるんですが、日本庭園を見るたびに、こちらの感じ方を試されているような気持ちになります。落ち着くんですが心地よい緊張感が味わえるというか、「庭と対話する」楽しさを味わえるというか、とにかく不思議な気分になります。こういったことを通して自分自身を見つめているんでしょうか。
「庭師に必要なのは、茶道や華道だけでなく、歴史文学哲学の教養」という言葉は奥が深いと思いました。普通、庭師にとって必要なスキルといえば技術や経験、感性などイメージをしていましたが、歴史文学哲学の教養というのは想像もつかず何故それなのか?とブログを読んで思いました。日本庭園のような繊細なものを作り上げる為には、それだけ奥が深く、技術などではカバーできない部分が多いのですね。庭師に限らず日本の伝統的な仕事で必要なものというのは経験、技術より何か別物なのかな?と思いました。
「庭園」というものを意識し始めたのは日本の歴史で習った「寝殿造」庭園からでした。平安時代末期に創建され、今回「世界遺産」選考会で落選した奥州平泉毛通寺には「寝殿造」の跡があり、中学時代から繁く同地に足を運んでは在りし日を追想したものでした。池には竜頭鷁首の船が浮かび雅人の遊びのさまが目に浮かびます。池の真ん中には中島があり、本殿から橋が架けられ風流な趣きがあったろう、と思われます。その後は禅寺の「庭園」に興味を持ちます。鎌倉建長寺の心字池のある庭園、さらにはあまりにも有名な京都龍安寺の庭園。こうした禅寺の庭園が禅僧の修行の結晶、あるいは悟りの一表現、である事実を知っては、学問としての「仏教」を学んでいた自分自身に様々な内的問いかけをしたものでした。