毎年ドイツに行くことで、時代によっての取り組みの変化を見ることが出来ます。一昨年は、コープという新しい施設の取り組み、昨年は、就学前教育での文字、数、科学などの体験保育。今年は、少子化対策の取り組みと試行錯誤が見られました。
親手当てのような金銭的に援助する仕組みと同時に、0歳児から3歳児までの保育施設の要望が年々高くなる反面、その数が足りないことに対して、まず、3歳以上の施設であったキンダーガーデンが、0歳児から預かるようにした「コープ」(コーポレーション)という施設での試みがあります。これは、学校局が管轄します。一方、0歳児から3歳児までのキンダークリッペの整備です。これは、社会局での事業です。そして、このキンダークリッペを学校局の傘下にいれようという計画があります。しかし、この計画に対して、社会局やクリッペの現場では反対しているそうです。
今回は見なかったのですが、最近試みているのは、キンダークリッペと、キンダーガーデンを同じ施設で同居しようというものです。日本での「認定子ども園」と同じです。もしまた来年ドイツに行くようでしたら。その施設を見せてもらうことを約束しました。
世界ではいろいろな保育が提案されています。
マリア・モンテッソーリは、医師時代の障害児との出会いをきっかけに、子どもを観察することによって子どものさまざまな姿を発見しました。それまで子どもは、大人によって育てられる「受け身」の存在だと考えられていましたが、モンテッソーリの観察によって、「子どもはその時期その時期に身につけるべき発達の課題とうまく出会う環境さえ整えられれば、自ら育っていく」存在だということがわかりました。
レジオの保育についてこう書かれています。
「日本の幼稚園の制作と違うのは、「子ども主体」であることです。あくまでも制作の内容や目的などは子ども達の発想によるものなのです。ですから、完成時期もそれぞれに異なりますし、こういったこと以外にも「子ども主体」の保育がされています。」
その形態について、「レジオのクラスでは混合クラスが主流で、年齢の上の子ども達は、下の子どもの世話を見ることが出来ます。ジャケットを着させてあげたり、靴をはかせたり、あれこれとマナーを教えることが出来ます。下の子ども達は上の子ども達に見習いながら、マナーや言葉の能力など早く覚えるようになります。今度彼らが上の立場になったときには、同じことを下の子どもにしてあげることができます。」
そのほかにも、オールタナティブと呼ばれるようなシュタイナーやフレーベル、さまざまな保育があります。今回、ドイツに行って感じることは、各国で提案されているそれぞれの保育のよいところを取り入れ、ドイツ独自の保育を作り上げていることです。しかし、それらの保育にそれぞれの特徴や違いはあるものの、どの保育についても共通のとこはあります。それは、どこでも、子ども本来自ら育つ力を持っており、それが育つために環境を用意すること、子どもを主体的に捉えること。子どもの選択を大切にすること、そして、そのために子ども集団を柔軟的に考え、生年月日による均一的な発達として捉えないことなどです。
各国が参考にするような日本の保育があるでしょうか。どの国でも共通するべきところでさえ、怪しいものです。
(今回の報告に当たって、子どもの写真はなるべく写りの悪いものとか、後ろ向きを使ったので、見にくいかもしれません)
子ども主体という考えや子どもの持っている力を信じること。子どもを丁寧に観察していけば、今回書かれている「どの保育にも共通しているところ」は当たり前のことだと思うのですが、残念ながら日本の保育にも共通しているとはまだまだ言えないのではないかと思います。言われるとおりだと思います。では自分たちはその共通していることが出来ているだろうかと考えていると、自分の弱いところと向き合っているようで目をそらしたくなることも多くあるのですが、だからこそ素直さ・謙虚さ・柔軟さを常に持って、子どもの姿と常に向き合っていなければいけないんだろうとあらためて考えさせられました。
世界の保育を見たり報告を聞かせてもらったりすることは、本当に多くのことを考えさせられます。
モンテッソーリやレジオの保育など、世界には色々な保育がありますが、どの保育にも共通しているものは子どもを主体的に捉えていることですね。発達にしても遊びにしても、全て子どもが中心になっていて保育士や建物はそれを援助する役割です。日本は全く逆のような気がします。各国が参考するような保育が日本には藤森先生の考えの保育しか参考にならないような気がします。子どものことを第一に思うならドイツをはじめ各国のような形に自然となるような気がします。
以前、講演の中で藤森先生が就学前教育でなく、保育後教育にと提言されたのがとても印象に残っています。日本の幼児教育が諸外国と比べて発達の速度が著しく劣るのは、学校教育の下に位置づけられて、あまり重きを置かれなかったことにあると思っています。ですから、その基本的な教育概念は、子どもを教育を受けるべき「受け身の存在」として捉えているので、子どもは自ら環境を通して自ら育っていくという考え方はなかなか一般的にはなりませんでした。ある一時期、理念としては存在しても、現場に具体的な形として実現することは無かったように思います。それは、教育要領やそ保育指針がなかなか時代の変化に即応できなかったことや手本とすべき確かなモデルがなかったことに原因があると思います。しかし、今回の保育指針は、藤森先生やせいがの森の倉掛先生等の御努力によって、大人主体の保育から子ども主体の保育に一歩近づいたかに思えます。モデルもあります。藤森先生は謙遜されると思いますが、外国にもぜひ紹介したい保育が、日本にもあることを知ってほしいと思います。
日本の一般的保育教育は、「保育者主導」兼「親の満足度」に重きが置かれています。子どもに対する全幅の信頼のもとで保育教育が普通になされるにはもう少しの道のりを歩む必要があるかもしれません。それでも、子ども中心の保育、すなわち子どもが「依存症」に陥らない保育教育を意識化しなければ、現今われわれが遭遇する社会問題は解決しないような気がします。子どもたちが「選ぶ」ことを通してそのつど「意欲」を確認し、そして「自分自身」を確立して他者に「貢献」できるように諸々の「環境」整備にまい進することこそが私たち「大人」の役割でしょう。学校教育の大半は規律と秩序を重んじる「管理教育」であり、その教育が強化されればされるほど、学校が「危険」な場になりつつあります。私たちが勤める就学前施設は愚直なまでに「子どもの存在そのもの」を信じて保育者たちが仕事する場にしなければならいと強く思っているところです。