藤原さんの話でありませんが、最近、わたしは職員に数学の話をよくします。特に好きな話は、2進法の話です。私たちが普段使っているのは10進法で、10種類の数字を使ってすべての数を表します。それを2種類の数字だけですべての数を表せるのが2進法です。これで足し算や掛け算をやって見せると、職員は感動します。そして、2種類だけで表せるということは、たとえば「はい」「いいえ」だけですべての言葉を話せるということで、宇宙への手紙は2進法で書かれているということ、また、電気の「ON」「OFF」とか、「穴が開いている」「開いていない」というだけで計算できるので、コンピューターはそれで計算していたのだという話にも感動してくれます。
もうひとつ、数学者のガウスの幼児期の話もします。これは2006年01月22日のブログにも書きましたが、有名な話です。これと同じ内容の話を藤原さんが話しています。
「1から10まで足すと55になるやり方にいろいろあるということです。1から9までの平均は5だから5×9=45で、それに10を足して55になるとか、1+10=11、2+9=11、3+8=11、4+7=11、5+6=11、11が全部で5つだから55。というように小学生にどれだけの足し算があるかを考えさせればいいのです。すると、発見の喜びとか、ものを考える喜びがでてきます。テクニックでなく、そういう喜びを教えない限り、嫌いになるのが普通だと思います。」
また、子どもながらの刷り込みのない世界のすばらしさにも触れています。
「夜の10時頃の混んでいる車内での話です。そんなときに、シートの上に新聞が乗っかっていたりすると、われわれなら、その下にゲロでもあるんじゃないかと思ってそこに座りません。しかし、子どもならパッとどけて座っちゃう。そこには何もなくて、ただ新聞紙が乗っかっていただけ…。これはわれわれには常識があるからそれが邪魔して新しい席を発見できないわけです。分別がついてしまうとだめなのです。だから、50歳を過ぎると数学的な大発見というのはできません。」
私は、職員にこういう問題を出します。
「納屋の四方の隅に藁の山がありました。ある隅には、ひとつの山ありました。ある隅にはふた山、ある隅には三つの山、残りの隅には四つの山がありました。それらの山を真ん中に集めると、山がいくつできるか暗算で答えなさい」
すると、職員は一生懸命計算をして、「10の山」と答えます。答えは、みんな集めると、ひとつの山になると言う話です。大人は、計算ができる分だけ刷り込みがあるのです。
そういうことで、子ども、若者の頃の「無鉄砲」「無邪気」は宝物だと言います。そういう意味で、数学は「情操教育」だと言います。私が、数学が好きなのは、計算ができるわけでも、公式を知っているわけでも、数学の成績がよかったわけでもありません。まさに、藤原さんが言っていることです。
「数学でも音楽でも詩でも、美しいものには共通した感動がありますね。それは音楽でただひとつドをレにしても、またその句読点を一つずらしただけでも全体がダメになるといったような、きわどい緊張感ですよね。それが数学にもあるんです。」
今回は、常識や分別ってなんだろう?と考えさせられました。常識や分別はある方がいいと思っていましたが、それらがあることで見えなくなっているものがあることを同時に理解しておかなければいけませんね。
数学はこんなに楽しめるものだと気づけずに勉強してきたため、あくまでも受験のためのテクニックであり、とにかく公式を数多く覚えた方がいいというくらいの認識しかもてずに学生時代を過ごしました。楽しさや美しさ、また発見の喜びなど、様々な要素が詰まっていることを思うと、子どもたちにはぜひそうした体験をさせてあげたいという気持ちになります。全ての子どもがこんなスタートをきることができたら将来が楽しみになります。
今日、久しぶりに藤森先生の「やってあげる育児から見守る育児へ」を再読しました。今、なんか満足感に浸っています(笑)。今回は特に乳幼児期から脳の前頭前野の発達を促すことの重要さを再認識しました。人間の思考力や想像力はおもにここがつかさどるんですね。ということは数学に必要な論理的な思考力や柔軟な発想を養うには、前頭前野を鍛えることが大事なんですね。数学が情操教育であるということの意味がわかるような気がします。もう、数学的な大発見ができない年齢になりましたが(笑)、今日の二進法の話で、俄然数学に興味が湧いてきました。(もう遅いか…)
私は小中高と算数・数学が苦手でした。公式を覚えて、それに数字をあてはめるという考えがどうも苦手で、本当に嫌いでした。ですが、ブログのような話を子どもの頃に聞いていたら、きっと算数、数学に対しての考えはきっと違っていた気がします。そう意味では本当に算数、数学は情操教育ですね。子どもの頃、若者の頃に持っている「無鉄砲」「無邪気」な気持ちというのは大切にし、いつまでも忘れないようにしたいです。
「数学的な大発見」が不能になる年齢差し掛かった今悔やまれることは「中学受験」の勉強をやっておけばよかった、ということです。私が通っていた公立の小学校は知識を習得すればよし、というどこにでもある小学校でした。また田舎でもあったので「中学受験」ということさえ無縁でした。覚えていさえすれば点数が取れるテストで点数をとり、後は何だかそこそこに中高大学へと進みます。大学時代の家庭教師、塾の経営者兼講師をしていた時実ははじめて「中学受験」の準備というものを経験しました。殊に「算数」は「驚き」の連続でした。しかし、いかんせん、「教師」ではあっても「受験準備当事者」ではありません。何と申しましょうか、肝心要のところが身についていない、ことが今になってわかります。後戻りはできません。この先は息子をうまい具合にさそって、国語算数の醍醐味を味わえるようにしていきたいと思いました。