昨日は、少し風邪気味でしたので、あまり遠くには行かず国分寺にある「お鷹の道」をのんびりと歩きました。
江戸時代寛延元年より国分寺市内の村々は、尾張徳川家の鷹場に指定されていました。それにちなんで地元では、崖線下の湧水が集まり、野川にそそぐ清流沿いの小径を「お鷹の道」と名づけ、現在約350mを遊歩道として整備されています。四季折々の散策路として人気がありますが、今は、沿道のいたるところに「カラー」の花が群生していて、白い色がきれいでした。
園の裏手にある「おとめ山公園」も、江戸時代に将軍家の狩猟地で、一般の人の立ち入りを禁止したので御留山といわれたように、ずいぶんと将軍家は狩りが好きだったようです。
三鷹という地名も、かつて徳川将軍家及び御三家が鷹狩を行なった鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領にまたがっていて「三領の鷹場」だったことに由来すると言われています。徳川家康や三代将軍・家光などもたびたび鷹狩りに訪れているようです。江戸城を中心に五里(20km) 以内の村々は幕府の鷹場、それより遠い外側の村々は尾張・紀伊・水戸の徳川家などの鷹場で、三鷹の地はその境界だったようです。
日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代の埴輪にはすでに手に鷹を乗せたものも存在しています。日本書紀には仁徳天皇の時代には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部が置かれたという記録があります。そして、そのころから鷹場が禁野として一般の出入りが制限されていました。中期以降になって、貴族層による鷹狩が主流となり、坂上田村麻呂、在原行平、在原業平は鷹狩の名手としても知られています。
江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んで、徳川家康や三代将軍家光は特に好み、将軍在位中に数百回も鷹狩を行ったようです。その後、五代将軍綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止しましたが、八代将軍吉宗の時代に復活しました。
目黒区に「鷹番」と言う地名があります。このあたりにも、江戸時代、代々の徳川将軍がしばしば鷹狩りに来ていました。鷹狩りは放鷹といい、飼い慣らした鷹を拳にすえ、山野に放って野鳥を落としたり捕らえさせたりする行事で、将軍が放鷹を行う場所を鷹場、御拳場、御留場などといいました。この放鷹は本来、武の鍛錬と娯楽を兼ねた行事でしたが、鷹狩りに託して領内の民情などをさぐろうとした傾向もありました。
三鷹を境とした5里の範囲内に6筋が設けられました。目黒筋の御鷹場もその一つで、鷹場組合、鳥見役所が設置され、鷹匠や鳥見の役などがおかれて鷹の飼養、訓練や鷹場の管理にあたりました。また、鷹場の各所に鷹番を置いて鷹場への立ち入りを禁じた高札をたてて村の連帯責任で見晴らせたりしました。目黒筋の鷹番が居住していた所が、鷹番と言う地名になったのです。
イギリスでも、貴族や名士のスポーツとして300年の歴史を持つとされるキツネ狩りを禁止する法案が可決されていますが、禁止反対の声は保守党支持の傾向が強い富裕層にとどまらず、「農村の伝統軽視」と反発する狩猟愛好者や農家にも広がっているといいます。一部の人の贅沢が、歴史と緑を都会に残しているとは、難しいですね。
東京と言うと、田舎の人間はすぐに新宿や渋谷の大都会の街並みを連想しますが、意外に自然が残っているところもあるんですね。学生の頃、中央線はよく利用しましたので、国分寺や三鷹はなじみのあるところです。武蔵野というくらいですから、江戸時代は見渡す限りの緑の原野だったのでしょうね。その中を徳川のお殿様が、鷹狩りに興じていた姿が想像できます。鷹狩りは日本固有のものかと思っていたのですが、中央アジアないしはモンゴル高原が起源で、世界中に広まったそうです。その国の権力者たちは、鳥の王である鷹に自らの姿を重ね合わせていたんでしょうね。
歴史上の有名な人物が鷹狩りをしていたのは知っていましたが、その鷹狩りをしていた場所、しかも江戸時代の将軍家が行っていた付近に新宿せいが保育園があるとは何かあるのかもしれませんね。その「おとめ山公園」や国分寺にある「お鷹の道」にしても緑を残した理由が狩猟の為とは何か複雑な気持ちです。今でも狩猟禁止の反対の声がある時点で残念です。もう少し地球環境の事や森の動物との共生を考えた上で緑を残す考え方に変わればいいと思いました。
ユネスコの世界遺産、のことを今日のブログを読んで考えました。自然遺産とは別に人間の手による遺産が「世界遺産」として登録されています。以前、田舎の菩提寺の住職さんと話をしていてユネスコ「世界遺産」の話に及んだとき、「あれはかつての権力者の遺産でしょ。」とその住職さんが仰られました。私たち大部分の先祖は「権力者」によってだいぶ苦しめられたかもしれません。しかし現在の私たちはその「権力者」の「遺産」を享受しています。今回紹介された「お鷹の道」や徳川将軍家あるいは御三家の狩場も「権力者」の象徴だったでしょう。その名残が地名になっていたり、あるいは「おとめ山」のように公園となっていたりします。「一部の人の贅沢が、歴史と緑を都会に残している」ことは名残の恩恵を被っている者のひとりとしてよくよく考えてみたいところです。
昔の権力者は、鷹狩のことだけを考えてもスケールが大きすぎますね。それと比べると、今の権力者はかわいいものかもしれません。一部の人の贅沢が歴史と緑を残していることについては考えさせられますが、こういう側面も必要なんだろうと思います。それにしても鷹狩から東京の緑を思うとこんな見方もできるんですね。ものの見方はいろいろです。