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2008年06月30日 研修

ドイツ報告のまとめ

 毎年ドイツに行くことで、時代によっての取り組みの変化を見ることが出来ます。一昨年は、コープという新しい施設の取り組み、昨年は、就学前教育での文字、数、科学などの体験保育。今年は、少子化対策の取り組みと試行錯誤が見られました。
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 親手当てのような金銭的に援助する仕組みと同時に、0歳児から3歳児までの保育施設の要望が年々高くなる反面、その数が足りないことに対して、まず、3歳以上の施設であったキンダーガーデンが、0歳児から預かるようにした「コープ」(コーポレーション)という施設での試みがあります。これは、学校局が管轄します。一方、0歳児から3歳児までのキンダークリッペの整備です。これは、社会局での事業です。そして、このキンダークリッペを学校局の傘下にいれようという計画があります。しかし、この計画に対して、社会局やクリッペの現場では反対しているそうです。
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 今回は見なかったのですが、最近試みているのは、キンダークリッペと、キンダーガーデンを同じ施設で同居しようというものです。日本での「認定子ども園」と同じです。もしまた来年ドイツに行くようでしたら。その施設を見せてもらうことを約束しました。
世界ではいろいろな保育が提案されています。
マリア・モンテッソーリは、医師時代の障害児との出会いをきっかけに、子どもを観察することによって子どものさまざまな姿を発見しました。それまで子どもは、大人によって育てられる「受け身」の存在だと考えられていましたが、モンテッソーリの観察によって、「子どもはその時期その時期に身につけるべき発達の課題とうまく出会う環境さえ整えられれば、自ら育っていく」存在だということがわかりました。
 レジオの保育についてこう書かれています。
「日本の幼稚園の制作と違うのは、「子ども主体」であることです。あくまでも制作の内容や目的などは子ども達の発想によるものなのです。ですから、完成時期もそれぞれに異なりますし、こういったこと以外にも「子ども主体」の保育がされています。」
 その形態について、「レジオのクラスでは混合クラスが主流で、年齢の上の子ども達は、下の子どもの世話を見ることが出来ます。ジャケットを着させてあげたり、靴をはかせたり、あれこれとマナーを教えることが出来ます。下の子ども達は上の子ども達に見習いながら、マナーや言葉の能力など早く覚えるようになります。今度彼らが上の立場になったときには、同じことを下の子どもにしてあげることができます。」
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そのほかにも、オールタナティブと呼ばれるようなシュタイナーやフレーベル、さまざまな保育があります。今回、ドイツに行って感じることは、各国で提案されているそれぞれの保育のよいところを取り入れ、ドイツ独自の保育を作り上げていることです。しかし、それらの保育にそれぞれの特徴や違いはあるものの、どの保育についても共通のとこはあります。それは、どこでも、子ども本来自ら育つ力を持っており、それが育つために環境を用意すること、子どもを主体的に捉えること。子どもの選択を大切にすること、そして、そのために子ども集団を柔軟的に考え、生年月日による均一的な発達として捉えないことなどです。
 各国が参考にするような日本の保育があるでしょうか。どの国でも共通するべきところでさえ、怪しいものです。
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(今回の報告に当たって、子どもの写真はなるべく写りの悪いものとか、後ろ向きを使ったので、見にくいかもしれません)

投稿者 fujimori : 23:22 | コメント (4)

2008年06月29日 研修

ドイツ報告5

 今日、ドイツから成田に帰ってきました。と言っても、時差の関係で、ミュンヘンを飛び立ったのは、土曜日の午後ですので、このブログを書き始めたのは土曜日の朝でした。
 ツアー最後の見学は金曜日でした。午前中の見学先は、初めて訪れる「キンダークリッペ」という社会局の管轄である0歳児から3歳児までの園です。ドイツでは、キンダーガーデンという3歳から6歳児までの施設と、最近0歳から6歳までの「コープ」という園の管轄は学校局であり、毎年このツアーをコーディネートしてくれるのは学校局ですので、キンダークリッペを見るのはとても珍しいことです。
 今回の見学先の園は、定員が63名で、毎年の入園可能数が25名に対して入園希望者は500名ほどいるそうです。年齢的には低年齢児だけですが、事情や内容は日本の保育園に似ているものがあります。待機児が多く、ミュンヘン市では、2013年までに定員を2000人増加する計画のようです。それに伴って、保育士もかなり増員しなければなりません。たぶん、場所の確保も問題ですが、どうするのでしょう。日本では、乳児一人あたり3.3㎡、幼児一人あたり1.98㎡が最低基準として決められていますが、ミュンヘンのキンダークリッペでは、寝室として一人あたり2㎡、遊ぶ場として一人当たり3.5㎡、合計5.5㎡が最低基準のようです。
 この施設では、コープなどと違って、食材や食育も大切にしています。ですから、ほとんど冷凍食品のキンダーガーデンと違って、出来るだけ地産地消の食材を使い、すべての料理は手作りで、アレルギー児にも対応しているそうです。多いアレルギーは、ミルク、トマト、魚だそうです。清潔そうで、働きやすそうな調理室ですが、私たちの見学のための立ち入りは自由ですし、床は土足で、日本とは感覚が違いますね。
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 同様に日本と違う感覚なものに、水遊びがあります。まず、キンダーガーデンを含めて、夏の日本の園の定番であるプールがありません。もしプールに入る場合は、業務委託で、希望者だけ費用を払って週1回連れて行ってもらうそうです。乳幼児期は、泳ぐことができるようになるというよりも、水と楽しくふれあい、感触、科学を体験するために水遊びをします。しかし、驚くのは、この写真の右側のほうの子が、その水を飲もうとしています。他の子でも、チューブから水を飲んでいた子がいました。しかし、保育者は止めようともしません。後の質問で、「水の中に薬か何かを入れないのですか?」の答えに、「何かを入れるときは、意図するときです。」と言ったのは、私たちの質問の意図が伝わらず、泡などの体験をさせるために、泡が立つものを入れることがあるということで、塩素などによる消毒という概念はないようです。
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 また、ドイツの園の園庭は、芝生が敷き詰められ、大木が多く、広々としているのですが、植物と同時にどの園にもあるのが大きな石です。この3歳までの乳児園でも、園庭の中心に大きな石の山がありました。その石の山の頂上から水が出るようになっていて、その水が石の間を縫って流れ落ち、下の砂場に流れ込みます。この石の山に、まだ歩くのもおぼつかない乳児一人で登って行きます。「危なくないのですか?」という質問に、「最初は、職員がみんな危ないのではないかと反対しましたが、様子を見ていたところ、子どもは、自分の能力に沿って登り方や、登る場所や、高さを調整しています。ですから、そのまま見守ることにしたところ、5年間一度も事故はありません。」
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 そこには、保育者の話し合い、理念、目指す保育があるだけで、保護者の苦情によってなどという言葉は出てきませんでした。

投稿者 fujimori : 11:51 | コメント (4)

2008年06月28日 研修

ドイツ報告4

 ミュンヘンには、オペラハウスをはじめとして、多くのコンサートホールや劇場や、博物館などがあります。中でも有名な美術館にノイエ・ピナコテークというゴッホのひまわりの絵があるところがあり、一昨日は、週1日だけ夜まで開館しているということで、幼児施設見学が終わって夕方5時からみんなで見に行きました。また、今回は時間がとれずに行けなかったのですが、いつもはオペラを見に行く参加者もいます。オペラや劇を見るときに、その質の高さを感じるのは、もちろんそれを演じる人が重要ですが、その演技を際立たせるような舞台という「空間」が重要です。そして、その舞台での演技をより具体的に表すための大道具や小道具という「もの」も重要です。それらの質の高さが、そこで演じられる内容を高めて行きます。そこで起きる出来事が観客の心を動かして行きます。
 建物が保育するというのは、どのような舞台を用意するかということに似ています。そして、園長は、その舞台の演出家であり、ディレクターでなければなりません。もしかしたら、デザイナーかもしれません。それには、演目をよく知り、演じ手をよく知らなければなりませんし、舞台を照らす照明や、音響や、色彩を計画しなければなりません。
このように、保育にも建物の外部の景観、内部の照明、色彩、空間構成などが重要な要素として必要になってきます。このことをきちんと実現している園の見学を昨日しました。それは、オーストリアのザルツブルグにあるシュタイナー園です。
 ミュンヘンの町のなかにある多くの建物の玄関のドアはとても大きく、いかつい色、四角に縁取られていますが、ここシュタイナー園では、やさしく子どもを包み込むかのような緩やかな曲線に形作られた入り口になっています。それは、曲線で形作られている自然界をあらわしています。
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中に入ると、独特の色使いである壁は、一昨日、美術館で見たモネの睡蓮の絵のようです。
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その色使いは、階段の壁面や保育室の壁だけでなく、普通は子どもの写真やマークで自分の場所をわかるようにする靴箱や、ロッカーのしるしのところにも丁寧に絵が描かれており、トイレのマークまでこだわった色使いの紙を使っています。
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このように空間演出をきちんとした理念の下に行うことの大切さ同様、その空間に置く「もの」もきちんと吟味をしなければならないのです。その点においても、昨日見学したシュタイナー施設は「もの」一つ一つに意味があります。
 例えば、ごっこをするときに、使われるであろう人形の顔は、目鼻がついていないことが多く、もし、ついても人形の表情を示すほどではないくらい小さく、目立ちません。それは、子どもたちの感情を人形に投影しやすいような配慮です。
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また、子どもたちが様々な表現活動をするための素材も自然界のものが多くあります。
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私は理念としてシュタイナー教育を知っているわけではありませんが、その理論よりも感情や意識を建物や空間、色使い、照明、そこに用意されたものなどから感じることが出来ます。見学に訪れた時間帯は、すでに子どもたちの大半が帰った後でしたが、この大きな空間が子どもを包み込んで、保育しているだろうということが容易に推測されます。
 世界遺産に指定されているザルツブルグの旧市街の町並みを歩いていると、その町という空間の中を人が歩き、その空間で人が生活していることを感じます。

投稿者 fujimori : 07:07 | コメント (5)

2008年06月27日 研修

ドイツ報告3

 昨日の見学先は、午前も午後も「コープ」と呼ばれる施設です。「コープ」と呼ばれるコーポレーションとは、バイエルン州郡ミュンヘン市学校局指導の下に作られている0歳児から就学前の子どもを預かる施設です。
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いわゆる3歳以上児を預かるキンダーガーデンを管轄している学校局が0歳児から預かる施設を作ったということです。ドイツでは、0歳児から3歳児まで預かる施設として社会局が管轄するキンダークリッペという施設があるのですが、その施設をコープのように学校局の傘下に入れようという動きに対して、社会局の人たちは反対しているそうです。「子ども園」を進めようとしている日本とまったく同じようなことが起きていますね。
 午前中見学したコープは、1998年に設立された生後9週間の乳児から就学前幼児までの子どもがいる、外観に描かれている絵の通り「ちょうちょう」と呼ばれている園です。園のしおりの序文の1節「建物の外壁は『建築物への芸術』という名の下にコンテストを行い、選ばれた芸術家ステファニー氏の手によるものです。外壁を覆う木材の青色は、芸術的な提案により、きらきら光る、銀色の蝶々によりデコレーションされています。
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ステファニー氏は更に園の入り口に、合計30匹の様々な種類の蝶々と蝶々が絡むえさとなる植物を、色筆で描きました。彼女の、建物正面から室内、そして外の領域までにいたるコンセプトは、幼少時から動物や植物と共生するという思想上のコンセプトに見合ったものでした。
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建物の構成は、人間が観察し、知識を得、自分の経験を通して、当たり前のようにここの仲間に入ることが出来ることを象徴しています。同じように、庭造りにおいても、蝶や青虫、賀などが集まってくるように餌場を配しており、それを通して子どもたちに自然の生命たちがどのように成長していくのか、1例を示します」というくだりは、3番目に建物が保育するという考え方が裏づけされています。ただ、面白そうな、斬新的な建物ということでなく、どのような保育を目指し、建物という空間の中で子どもたちのどのような活動が成されていくかをきちんと見ていく環境の作り方は素晴らしいですね。
 これらの建物に生命を与える存在として、136名の園児と26名のスタッフが共存の経験と、価値を発展させ、根付かせていくという考え方を持ちます。幼稚園を創設したフレーベルによって名づけられたキンダーガーデンは、まさに子どもの庭という空間であり、建物、その色彩まで意味を持たせたシュタイナー学校にもその精神が感じられます。初めて見学した人に強い印象を与える色彩、室内装飾も、教育的に意味のある働きかけをするものとして計画されます。この気持ちのよい雰囲気の中で、子どもたちは守られていることを感じ、豊かな社会的なコンタクトや発見する学びが促されると園のしおりにあります。
 次に、コープの特徴は、0歳児から6歳児まで異年齢で生活をしていることです。これについて、しおりには、「小さな子どもたちは大人からの援助を受けるだけでなく、年上の子達からも助けてもらえる。これは過小評価することの出来ないことである。子どもは、大人と他の子どもたちの二つの側面から成長の度合いを認められ、大きい子たちは小さい子を迎え、その子たちのリズムを考慮する。そして、任せられた責任を喜んで引き受け、毎日の生活の中で、小さい子たちを助けてあげる」とあります。
 午後は、建設省の建物に囲まれ、そこで働く人の子どもたちのために定員の30%余りが用意されているコープを見学しました。この園のテーマは、ジェンダーフリーでしたが、男性保育者が一人もいないことに、ちょっとがっかりしました。
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投稿者 fujimori : 05:55 | コメント (4)

2008年06月26日 研修

ドイツ報告2

 ドイツを訪れての研修は、参加者の第一印象は、とてもハードな研修だということです。それは、日程のほとんどは、乳幼児施設見学があり、夜は毎晩1日の振り返りによる研修があるからです。しかし、その日程の中で、1日だけ参加者がフリーな夜があります。それは、私がミュンヘン市の教育局の統括責任者のグレッチェさんに食事を招待されるからです。今年は、ほかに二人誘ってもいいということで招待を受けました。昨日の見学が17時頃終わって解散した後、少しおもちゃやさんや本屋さんを見て歩いた後、約束の7時までに指定された場所に行こうとタクシーに乗りました。住所を提示し、運転手さんはナビを見ながら現地に着きましたが、どう周りを見渡してもレストランらしい店は見当たりません。しかし、住宅街にひっそりと素敵なレストランがあることがあるので、そんな店だろうと思って住所の場所に行ってみると、そこは、グレッチェさんのご自宅でした。玄関で出迎えてくれたご主人と挨拶をして中に入って、部屋を突っ切り庭に出てみると、そこに食事の用意がしてあり、庭の向こうでご主人が肉を焼きはじめました。いわゆるガーデンパーティーです。なんとも、優雅な気分になりました。
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 その夜の会話の中で、グレッチェさんが、「一級の保育者が第一に保育し、二級の保育者(これは、保育助手のような資格)が第二に保育し、三番目に保育するものは建物である」と言いました。そのように、ドイツではとても建物が保育の質に影響すると思われています。昨日の見学先は、午前中に見たところも、午後に見たところも重要文化財として保存されているところでした。午前中の建物は、音楽学校と併設されており、一時は、保育者研修所としても使われていたところです。
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午後の見学先は、もと小学校として使われていたそうです。そういえば、昨年の見学先に、もと大衆浴場だったところがありました。このようにドイツでは、古い建物を改装したりしてキンダーガーデンにしたところが多くあります。
 そのほかに多いのは、遺言で幼児施設として使って欲しいと寄付された建物が多いそうです。なかには、狭すぎたり、使いにくい空間であったりすることもあるようですが、それを上手に改装し、古い建物を上手に活かしています。
 それらの見学先で、やはり参加者の気になるところは、怪我に対する保護者の苦情です。というのは、日本ではたぶん危ないと注意されるであろう箇所が多いこと、手すりなどの内側に子どもが登れる椅子が置いているなど危険防止のための配慮されていない箇所がずいぶんあるからです。そのために、保護者は怪我をさせることに対して、苦情を言わないのかという問いに対して、やはり苦情はあるそうですが、それを受けて未然に防いでしまったら、子ども自らの危機回避能力がなくなるから、怪我を余り恐れないということでした。これは、建物が保育するということのひとつの例でしょう。
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 また、今回も驚いたことのひとつに保育者の子どもへのかかわり方です。これも何度かブログで書きましたが、園庭で遊ぶ子等は、今の日差しが強い中でも、日向で遊ぶ子が多いこと、その子が帽子をかぶっていないことが多いこと、保育者が傍で、りんごをまるかじりしたり、お茶を飲んでいたりしていて、それほど子どもと一緒に遊んでいないことが多いことにびっくりします。
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投稿者 fujimori : 05:37 | コメント (4)

2008年06月25日 研修

ドイツ報告1

 昨日のドイツ研修では、午前9時から12時まで1箇所見学、午後2時から4時まで1箇所見学をし、夜の報告研修会を2時間行いました。
 昨日の見学先は、3歳児から6歳児までのいわゆるキンダーガーデンと呼ばれる施設です。午前中の見学先は、インクルージョンがテーマの園で、障害児を含めた統合保育を行っているところで、午後は、ダンスに力を入れている園です。
 朝早く訪問したのは、朝の集会(お集まり)を見せてもらうためです。時間になると3~5歳児が円形にお集まりをはじめます。欧米では、子どもの集会を行うときには、ほとんど円形に集まります。それは、全員の顔がお互いに見えるからです。大人でも、ワークショップを行うときには円形に集まることが多いです。この日の課題は、近々行われるサマーフェスティバルでの役割を決めることです。子どもたちは、そのときに、太鼓をたたく役割、火の踊りを踊る役割、ベリーダンスを踊る役割など三つに振り分けます。
 そのようなときの方法は、必ず、子どもの意志で決めさせるということです。1日の保育の流れは、ほとんど子どもたちが何をやるかを決めることになっています。まず、保育者が、表情豊かにそれぞれの役割を演じて見せます。そのあと、自分自身で石ころに装飾したものを持って、真ん中におかれたそれぞれの役割の小道具のところに、自分のやりたい意思を、石を置くことで表します。(しゃれではありません)ほとんどの子が太鼓の場所に置いていましたが、その調整はどうするのでしょうか。
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 このような自分の決定権は、すべてのものの中で行われます。例えば、保護者へのダンスの発表会で、エンデの時間泥棒「モモ」を演じたダンスの映像を見せてもらいましたが、どのような子が演じているのかというと、年長児は全員義務だそうですが、その他の年齢の子達は、演じたい子が参加するそうです。その振り付けも、基本的には場面ごとにどんな表現が適当かを子どもたちから出してもらい、その振り付けにあった音楽をあとから選ぶそうです。音楽を保育者が決め、その曲に合わせて教えられたダンスを必死に覚え、それを披露する日本の発表会とはだいぶ違うようです。ただ、この中で、どうしてもこのような太鼓を使わせたいとか、このリズムを体験させたいということが保育者の中にある場合は、子どもたちがそれを選ぶような誘導をすることはあるようですが、そこまでのステップは、マニュアルがないようで、その質問には答えることが出来ず困っていました。
 このように、見学先でよく聞く言葉の一つが「子どもの選択」です。日本でも、「子ども主体」という言葉をよく聞きますが、同時に「保育者の主体」も行われている気がしますが、こちらでは、徹底して子ども主体です。外でバルーンを使っての保育を見たときにも、「この子達はやりたい子が集まっているのです」という保育には、障害児が入っていても気がつかないほど自然に行われている姿が見えます。
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 これを一歩進めたのが評価です。昨年、ドイツに来たときに各園の玄関に掲示されてのが、親の保育に対する評価でした。それが、今年どの園にも掲示されていたのが、子どもからの評価です。
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3歳児から行うそうで、園が好きか?から始まり、どんなときにいやになるか、どんな先生が好きで嫌い家などの項目が並びます。「ストレスが溜まっていたり、いやな顔をしながら保育する先生は嫌い!」という評価は、当然ですね。

投稿者 fujimori : 07:20 | コメント (4)

2008年06月24日 研修

ドイツの少子化対策

 ドイツでの少子化対策がなかなか成果が上がらないのは、国の金銭的援助よりも託児サービスの充実が遅れているという点のようです。日本同様に公立保育所(これは、日本で言う公立保育園ということではなく、公的資金援助を受けている園というような意味で、その職員は、必ずしも公務員ではないようです)は待機児が多く、民間の保育所は空いていても、保育料が月1人900ユーロもかかるようです。また、労働局のウェブサイトからベビーシッターを頼んでも、月1000ユーロかかるようです。ですから、仕事との両立は子どもを預かってくれる祖父母が身近にいるかにかかっているというように日本と同じ状況です。
  もうひとつ、日本同様な状況に、「子育ては母親が一番」という風潮がまだ占めていることもあるような気がします。ドイツでの知り合いの方が、3月に三年間の育児休業があけて働き始めたのですが、何で3年間も育児休業を取ったかというと、それよりも早く職場に復帰すると、「よほど財政的に大変なんだね」といわれてしまうからというのも大きな理由だそうです。職場の観点からみると、早く職場復帰を果たす理由に、企業側から、専門職の女性が育児で職場を離れることになると、その補充要員の雇用に伴うコストの高くなるということと、親の立場から、めまぐるしく変化する企業環境の中で、専門知識をフォローアップできず、遅れを取り戻せなくなる危険性があるとするだけでなく、子どもにとって少子社会においては、乳児から子ども集団体験も必要であるということを社会的に認知してもらう必要がある気がします。ただ、今の日本のように、10時間も、12時間も園に預けざるを得ない社会はおかしいと思いますが。
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  北欧4カ国は合計特殊出生率1.7以上と欧州で最も高いレベルにあります。マックスプランク人口研究所の調査報告書(04年)によると、北欧の共通点は、託児および育児インフラが充実していること、仕事と育児の両立を援助する政策方針がとられていることだとしています。この両立援助は父親も対象としています。結果的にどの国も女性の就労率が約80%(20、30代)と高く、例えばデンマークでは1~3歳児の親の8割が保育所を利用しており、育児か仕事かの二者択一の必要がない環境にあるようです。
ですから、私たちがうらやましいと思う「親手当て」は、余り効果は期待されておらず、ドイツ経営者連合は、託児施設の整備を優先するべきだとしています。そこで、保育所増設計画が始まりましたが、以前のブログでも書きましたが、早くから子どもを預けることに対して、反対は多いようです。ドイツ南部のカトリックの司教が、女性が出産直後に職場復帰を果たさなければならなくなるのは、女性から育児の機会を奪うことになり、「女性を『産む機械』におとしめるものだ」と批判したことは以前に書きましたが、この発言は、出産・育児をめぐる女性の役割へと議論を巻き起こしているようです。「シュピーゲル」(電子版)誌では、ドイツ社会に根強く残る「育児は女性の仕事」という伝統的な性役割認識を改める必要があると主張しています。女性が各分野で活躍している国は出生率も高いとして、アイスランド、スウェーデン、ノルウェーを取り上げ、これらの国では仕事と育児を両立できる環境が整備されていると指摘しています。
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 しかし、私はもっと、子どもにとっての乳児保育の研究を進めて欲しい気がします。やはり、女性は出産をする体であり、育児は母親の役割が大きい気がします。だからといって、母親だけで育てればよい訳ではありません。また、社会は、権利ではなく、男女両性がいてこそ作られていくものです。少子化は、育児のあり方、社会のあり方を問う問題です。

投稿者 fujimori : 06:05 | コメント (4)

2008年06月23日 研修

ドイツの少子化

 今回のドイツでのホテルは、珍しくネット環境が良いので、ブログでドイツ事情を報告しようと思います。今日は、まだ着いたばかりなので、見学先の報告はありませんが、ドイツの少子化について書きます。
各国が少子化対策をしているのですが、そのやり方は必ずしもわが国でも行えばいいのではないような気がします。なぜかというと、微妙なところで、子どもを生まない理由が違うからです。それは、その国の歴史や風土にも関係しているからです。ただ。おおむね傾向は似ているので、参考にはなります。
ドイツで高学歴の女性ほど子どもを生まない傾向があることは、日本でも同じような傾向があります。それは、ドイツでは、かなり多国籍の人が住んでいるからです。といって、多国籍の人が低いということではなく、まだまだ、その人たちを支援する体制が取れていないこともあるようです。ですから、ただ「産めや増やせ!」ではなく、将来専門能力をもつ人材の不足が懸念されるというように、どのような人材を今後確保するかという視点もあるということでしょう。そのひとつが、「親手当て」です。
Elterngeld (=親手当て)については、「Harenburg Aktuell 2007」にこのように書かれてあります。
「2007年1月1日以降に生まれた子供に適用される。親が育児のために休職する場合、または週30時間以内のパートタイム勤務をする場合、産後一年間にわたり所得に応じた金額を受給できる。受給額は月1800ユーロを上限に育児休職前の手取り所得の67%。パートナーが追加的に2カ月休職または週30時間以内の時短勤務をする場合、また片親しかいない場合は、支給期間が14カ月に延長される。失業者や無収入者には300ユーロの定額支給」
この制度についてドイツミュンヘンの教育委員会の局長さんに聞いたところ、その意図をこう話していました。今までは、親が自分の下で3年間育児を出来るように3歳まで育児休業が取れました。しかし、近年、少子社会では、OECD(経済協力開発機構)のECEC(乳幼児期における教育と養護)ではありませんが、乳児保育の重要性が見直されてきたのです。それは、乳児にとってもある時間、子ども集団の中での育ちが必要ではないかということで、少子社会では、家庭で3歳まで育てられるとしたら親子関係でしかなくなってしまうから、育児休業を減らして、その代わり1歳までの育児休業を手厚くするのだと言っていました。もちろん、これは教育委員会での見解であり、国としては女性の社会進出、育児つぃごと両立支援ということからもあるでしょう。
その流れから、数年前からキンダーガーデンといわれる幼稚園では、0歳から子どもを預かる施設が急激に増えました。そして、そのほかには、産休中の所得保障はドイツが100%、日本は60%。児童手当はドイツが子供1人月額154ユーロ(ほぼ26000円)に対し、日本は5000円。給付期間は、ドイツは原則学業修了までで、最長25歳までですが、日本は小学校修了までで、しかも、高所得者は対象外です。さらにドイツでは昨年、年間1人4000ユーロを上限に託児費用の税控除制度が導入されました。
しかし、それでもなかなか少子化は解消できないようです。日本と同様に、産まないのは、ただお金の問題だけではないようです。OECDの研究では、金銭的援助より託児サービスの充実度が出生率に与える影響力が強い、という結果がでています。もちろん、この充実は、数の問題だけではなく、質の問題ですが。

投稿者 fujimori : 05:07 | コメント (4)

2008年06月22日 研修

ドイツへ

 私は、毎年ドイツのミュンヘンに行っています。昨年もその研修報告を現地からお送りしました。しかし、毎年心配なのは、現地でインターネット環境が整っているかということです。毎年行っていると、その日進月歩のごとくその環境は整備されていると思いますが、印象としては、日本ほど進んでいません。日本は、携帯電話にしても、ホテルでのネット環境は年々整えられていますが、ドイツでは意外とそうでもありません。ですから、出発前に心配なのです。
 しかし、幼児教育、学校教育への取り組みは年々新しいものが見られます。特に、毎年同じ都市を訪ねて、じっくりと園や学校を視察してみると、新しい流れが見られます。それは、欧米の先進国といわれている国々に共通して見られることです。逆に日本では、なかなか変えようとしません。極端なことを言えば、明治時代に視察に来た人が、最近もう一度学校をたずれたら、たぶん変わっているのは、前のほうにあった一段高くなっている教壇がなくなっているくらいでしょう。
少子化は、先進国家に共通して見られる現象です。少子化が将来国家として大変になるという実感はどの国も同じようで、様々な施策を出しています。これは、日本でも同様です。そして、欧米では、保育、教育内容を見直して行きます。ですから、昨年よりも今年は、このように変化をしてきて、これからどのようにしようとしているのかが、わかります。日本でも、ここで、保育所保育指針と幼稚園教育要領の改訂が行われました。それに伴って、どのように現場が変わっていくのでしょうか。特に、保育所は、指針がガイドラインから最低基準として大綱化になったことで、それぞれの園がどのような創意工夫のある保育を展開するでしょうか。
ドイツ連邦統計庁によると、2006年の新生児出生数は約67万人で第2次大戦後最低を記録しました。特に旧東ドイツ地域では社会主義体制の余波で経済成長が遅れ、旧西ドイツ地域に流出する若者が続出しています。東側では90年代、合計特殊出生率が0.7~0.8台と危機的水準に達しました。06年には1・30(旧西側は1・34)まで回復しました。特に、西部デュッセルドルフや毎年私が訪れている南部ミュンヘンなど一部の富裕都市では、逆に出生数が増加しました。それによって、経済格差が少子化に反映する状況が浮き彫りになりました。
少子化は先進国共通の悩みですが、中でもドイツと日本は少子化の指標である出生率が際立って低いレベルです。同じ欧州でもフランスや北欧などが出生率を持ち直す中、世界で最も低い部類に属しています。このため、連邦政府は人口減に歯止めをかけようと、今年から少子化対策として、従来の「Erziehungsgeld(養育手当)」に代わって新たな子育て支援制度「Elterngeld」(親手当)を導入しています。親手当とは、生後間もない子どもの世話のために休職する親の収入損失を補うものです。原則的には産休前の手取り所得の67%が補償されます。従来の養育手当では、手取り年間所得が両親合わせて3万ユーロ以下の比較的低所得の人を対象とし、額も一律月300ユーロだったのに比べて、新制度は高所得者にも受給資格を与える上、高所得者ほど金額が高くなるという、公的年金や失業手当と似た仕組みです。
このような制度改革と同時に、保育内容はどのような変化をしているでしょうか。

投稿者 fujimori : 10:20 | コメント (4)

2008年06月21日 講演先にて

食事と授業1

食事は、朝ごはんだけでなく、とても重要なものです。先週の日曜日に長野県小諸に講演に行ったときに控え室で同席した人がいました。その人は、別の講座で講演をした、上田市の前教育長の大塚貢さんです。上田市は、以前、非行、犯罪が絶えなかったのですが、現在、非行、犯罪ゼロ、いじめもゼロ、そして全国平均より抜きん出て学力が高いそうです。それは、「授業改善、米飯給食、花作り」によって子どもたちの心身を甦らせたからだといいます。ジャーナリストの櫻井よしこさんとある雑誌で対談をしています。
 まず、授業改善です。大塚さんが平成4年に中学の校長になったとき、学校はとても荒れていました。強盗、窃盗など非行というより犯罪も多く、学校の廊下をバイクで走ったり、窓ガラスは次から次へ割られ、全校生徒1200名の大規模校でしたが、不登校も常に60~70名はいたそうです。そこで、教室を見て回ったところ、とにかく授業がつまらない。何を教えているかも大塚さんでもちっともわからない。だから机に伏している生徒が多い。大塚さんは、民間会社にいたこともあり、そこではこんなつまらない授業をしていたら首になるだろうというレベルだったそうです。そこで徹底的に研究授業をやり、先生同士がお互いに切磋琢磨しあう。また、それぞれが教材研究や指導方法を研究していく。すると、次第に授業のレベルが上がってきたといいます。授業が面白いかどうかは、子どもの姿勢でわかるといいます。次第に、机に伏している子がほとんどいなくなり、姿勢を正して授業を聴くようになって行きました。「学級崩壊とか子どもが本気で勉強しないといいますが、99%は授業がつまらないのを子どものせいにしているだけだと思います。」と言い切ります。
 しかし、それだけでは完全に非行やいじめはなくなりません。そんな時、朝礼でバタバタ倒れたり、遅刻したり、登校しても保健室にいる子たちを見て、まだ、食育など言われなかったころでしたが、もしかしたら食と関係しているのではないかと思ったそうです。そこで、朝早くからコンビニエンスストアで張り込みをして、様子を見たのです。また、食の調査もしてみました。すると、お金だけを持たせてコンビニで好きなものを買わせる母親、朝食を食べてこない子が38%、食べてきた子でも合成保存料や着色料、合成甘味料だらけの食材、夜はハンバーグや焼肉ばかりで、カルシウムやミネラル、亜鉛、マグネシウムといった血液を柔らかくしたり、血をきれいにする栄養素は全く摂取できていないことを知ります。だから子どもたちの血液がドロドロで、自己コントロールが出来ない体になって、普段は無気力でありながら、突如自分の感情が抑えきれなくなってしまう。「これでは、いくら、非行を起こすな、いじめるな、勉強を本気でやれと言ったところで、体がついていかないのです」と大塚さんは言います。
では、母親たちに何とかバランスの良い食事を作ってくださいと呼びかけたところで、今のお母さん方には全く聞き入れてもらえなかったそうです。それが、大塚さんの他の人と違うところです。「全く、今の親は!」とか、「親がそれだから仕方がない」ではなく、「では、学校給食の改善をしよう!」ということで、取り組みを始めたのです。なるべくお腹にたまる米飯に切り替え、野菜や魚を中心にしたバランスの良い献立の給食にしようとします。しかし、それは、はじめは「子どもの好きなものを食べさせろ!」という親からだけでなく、教師からも配膳が大変になるなどと反対を受けます。(つづく)

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2008年06月20日 近頃思うこと

朝からカレー

「早寝・早起き・朝ごはん」と園で保護者に言ったときに、「何時に寝れば早起きになりますか?」という質問を受けましたが、同様に「何を食べれば朝ごはんになりますか?」また、「何時に食べれば朝ごはんですか?」と聞かれそうです。
数年前の読売新聞に医学博士の米山公啓さんがこんなことを書いています。
「脳はとても食いしん坊な臓器です。体の中では、体重の2%の重さしかないのに、エネルギー消費量では18%も占めています。脳の唯一のエネルギー源はブドウ糖ですが、脳はブドウ糖をためておくことができません。常に血液中からブドウ糖を補給してもらわないと駄目なのです。脳はエネルギーとして、1日120グラムものブドウ糖を必要とします。糖にはいろいろな種類がありますが、脳のエネルギー源になるのはブドウ糖だけです。驚くことに、血液中にあるブドウ糖の何と50%が、脳によって消費されているのです。ブドウ糖は主に体の中で、ご飯やパン、めん類などのでんぷん質の食物からつくられます。ご飯やパンを食べて30分くらい経つと、血液中のブドウ糖(血糖)はピークになり、次々と脳に送り込まれていきます。脳に供給されずに余ったブドウ糖は、肝臓にグリコーゲンとして備蓄され、必要に応じてまたブドウ糖に変換されます。しかし、この蓄積も12時間が限界なので、血糖値は一日のうちで朝食前に最も低くなります。つまり、朝起きたとき、脳はすでにエネルギー不足に陥っているというわけです。何も食べないで会社へ行けば、脳が働かないのも無理はありません。」
 では、朝食に何を食べるかは国によってかなり違うようです。しかし、どの国でも、まだ消化器官が活発に活動していない時間帯ともあって、消化しやすい炭水化物であるパンとかシリアルが中心となる傾向が強いようです。
日本では、ごはん、味噌汁、納豆、生卵、焼き魚、漬物、海苔加工品など、洋風ならパン、目玉焼き、コーヒーやスープなどが多く、外食の朝食定食などはこれらが組まれています。しかし、たまに朝食メニューに「カレー」があるところがあって、「朝からカレー?」と思ってしまうのですが、そうでもないようです。
カレーを東洋医学の立場から10年ほど前から実験を重ね、体への効果を調べてきた日本薬科大教授の丁宗鉄さんはこう言います。
 「実験の結果、最も劇的な効果があったのが脳の血流量だった。脳の血流量が増えると酸素が脳に行き渡り、脳が活発に動き出す。個人差はあるが、集中力が高くなる人もいるという。交感神経と副交感神経が切り替わる朝に食べるのが効果的だ。受験生にもおすすめです」その反面、夜カレーを食べると、人によっては活性化されすぎて寝られなくなることもあるといいます。しかも、野菜がたくさん入り、ご飯も一緒に食べられるなど、栄養バランスがいい。週に1回、冷蔵庫の整理を兼ねて作れば食材の無駄が出ない、冷凍もできると、作る側にとっても、いいことだらけだそうです。そして、スパイスは熱に弱いので煮込まないこと。食べるときには、体を温める効果が台無しになるから冷たい水を飲みすぎないように。辛すぎるカレーは実は邪道で、辛さの元の唐辛子には一時的な効果しかなく、他のスパイスは、子ども向けのマイルドなカレーでも十分効くといいます。
 だからと言って、朝からカレーを食べる気はしませんが、一度食べてみようかとも思います。

投稿者 fujimori : 23:05 | コメント (4)

2008年06月19日 近頃思うこと

体操着

 最近、どの水着を着装するかで色々と論議を呼んでいます。水の中で速く泳ぐためには、なるべく水の抵抗をなくせばいいということは昔からわかっていました。しかし、水の抵抗をなくすというのは、なるべく水着は小さく、水着は抵抗を生むものだと思ってきました。しかし、最近はそうではなく、肉体そのものは、水の抵抗を生み、人工的に作ったものの方が水の中では抵抗がないようです。それは、もちろん人間は水の中で生活する生き物ではなく、その体は陸上での生活に向いているわけですから。ですから、今回話題の水着を見ると、水の中を自由に、速く泳ぐことが出来るイルカの肌の表面のような気がします。
 それと同様に陸上で体操をしたり、運動するときにはどのような服装が一番記録を出せるかということで各スポーツによって様々なユニフォームがあります。しかし、オリンピックの創世記は、運動するのに一番いいのは肉体そのものだという考えから全裸で競技をしていました。もちろん、そのような効率からだけ考えるのでなく、古代ギリシャのスポーツの習慣であったということや、すばらしい肉体を披露することは名誉と考えられたためで、不正を防止する意図もあったとされています。
学校の体操着もずいぶんと変化してきました。私が小学生の頃は、上は男女とも、白綿のブロード地の開襟シャツで、下は、男子は白のブロード地の短パン、女子は紺サージのちょうちんブルマーでした。それが、中学校に入ると、下は白のトレーニングパンツという長ズボンになりました。私の頃のイメージは、小学生は短パン、中学生以上は長ズボンというイメージです。それが、3歳年下の弟の頃は、中学生は、男子は白のメリヤス地のトレーニングシャツに白サージの短パン、女子は白のメリヤス地のトレーニンクシャツに紺サージの半ズボン型ショートパンツとなりました。
体操着は、各学校単位で決められており、その移行期は、採択の仕方でずいぶんと学校によって違っていました。1970年代初めには、多くは、男女とも白のメリヤス地に青や紺のラインの入ったトレーニングシャツ、当時「サッカーパンツ」「カラーパンツ」と呼ばれていた紺や青のナイロン製のトランクスタイプの短パン、そして女子用として紺ニット生地ショーツ型ブルマーが一般的になりました。そして、1980年代末になると、当時「バレーパンツ」と呼ばれた紺のコットン合繊の短パンになり、1990年代に入ると多くの学校では、女子もブルマーから「バレーパンツ」へと移行します。そして1990年代中ごろにニット生地の「ジャージ」や「ハーフパンツ」が考案され、全国に普及しました。
ハーフパンツは、もともとは、ヨーロッパのアルプス地方、ドイツのバイエルン州南部からオーストリアのチロル地方で、Lederhoseという名で成人男性の伝統衣装として着用されていた皮製のパンツです。それが、ドイツ文化圏の中での民族性を象徴するものとしてのハーフパンツ、特にカーキー色のそれは、ズボン吊りと鍵十字の腕章と共に、第二次世界大戦中、ドイツ国内の青少年組織、ヒトラーユーゲントのユニフォームとしても知られるようになります。「独裁者」という映画の中でもヒトラーもどき人物を演じたチャップリンがはいていました。それを、1980年代末に、アメリカ黒人の若者が遊び着として考案したものが、ハーフパンツの呼び名で若者文化の中に普及したのです。
そのパンツをNBAがユニフォームとして採用したことから世界中の主要なスポーツのユニフォームとしてはかれるようになり、日本では体操着として決められています。欧米では体育の授業の際は各自で運動しやすい服装や靴を自由に着用するのがほとんどであり、日本のような体操着の着用強制はないようです。

投稿者 fujimori : 18:08 | コメント (4)

2008年06月18日 近頃思うこと

バミューダ

  バミューダパンツの発祥の地のバミューダ諸島には、とても面白い話がいくつもあります。この諸島の面積は世界224位で、総面積は53.3 km²です。人口は、2007年推計で、66,163人で、人口密度は1,239人で、世界8位ですので、かなりの密度ですね。しかし、このバミューダが世界一のものがあります。それは、ここは、北大西洋にあるイギリスの海外領土ですが、イギリスの海外領土の中でも金融部門と観光産業に支えられているために政治的・経済的な自立度が非常に高く、2005年一人当たりのGDPが世界で最も高い数値を記録しました。
 イギリス女王を国家元首とする独立国に近く、単にバミューダとも呼ばれ、1995年、イギリスからの独立の賛否を問う住民投票が行われましたが、独立は否決されています。どの国でも独特の文化を持っていて、経済的にも自立をしていると独立したがるのに、珍しいですね。
  この諸島が有名なのは、「バミューダ・トライアングル」といわれている、フロリダ半島の先端と、大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域です。
 「のび太の海底鬼岩城」というドラえもんの長編アニメ映画がありました。この映画は、伝説として有名なムー大陸、アトランティス大陸の両者を冷戦時の2大大国に見立てた重厚感ある物語に、ミステリー地帯として有名なバミューダ・トライアングルの要素や日本海溝、マリアナ海溝など海底に関する情報がたくさん盛り込まれた作品です。この映画で設定されている「バミューダ三角海域」をこのように描いています。
  「かつてムーと敵対していた海底人の国であるアトランティス連邦が存在した海域として描かれています。強力なバリアーで囲まれており、放射能やテキオー灯の光も及ばないため、永遠の闇が支配する世界としてムーの人々に恐れられています。中には鬼岩城と鬼角弾(核ミサイル)が未だに存在しています。昔核実験に失敗し、国中に放射能が広がり、滅びてしまって、現在、この海域を通過しようとした艦船や航空機はそのバリアーに触れるがために行方不明となるケースが少なくないと言われる。」
 どうして、このような設定になったかというと、この海域は、昔から船や飛行機、もしくは、その乗務員のみが消えてしまうという伝説があることで有名だからです。ここで、100年以上前から100を超える船や飛行機、1000以上の人が消息不明となっているとされています。この伝説に基づいて、このドラえもんだけでなく、多くのフィクション小説、映画、漫画、また、超常現象を取り扱う書物やテレビ番組の報道が何度となく取り上げています。シンセサイザー音楽家として有名な冨田勲は、「バミューダ・トライアングル」という6作目のアルバムを作曲しています。
  実際は、「魔の三角海域」というようなミステリアスなものではなく、多くの場合はハリケーンなどの悪天候時に起こったものや操縦ミス、計器の確認ミスであり、特にこの海域が船や飛行機などの遭難件数が他の一般的な海域よりも多いということではないようです。
 しかし、「トライアングル」ということで、「三角形の内部に入ると三位一体を犯すので不幸が起こる」とする、キリスト教文化圏に普及している迷信に関係があるのかもしれません。
 バミューダパンツというファッションからでも、ずいぶんと新しいことがわかっていきます。

投稿者 fujimori : 23:27 | コメント (4)

2008年06月17日 近頃思うこと

パンツの長さ

 今日は、私が評議員をやっている「才能開発教育財団」の評議会でした。その会の理事、評議員の方々は、教育界での重鎮揃いで、みんな80歳を超えているようです。ですから、私はいつもの癖で気楽に出かけたのですが、事務局、事業責任者等を含めて35名余りの参加者の中で、ノーネクタイは私一人でした。クールビズということもあり、最近はノーネクタイの人は増えたといえ、年配の方々はやはりきちんとするときはネクタイをするようです。
 どんな服装がきちんとした服装なのかということはもちろんその国の文化があるので若干違うようです。1930~40年代にかけて、代表的リゾート地だったアメリカのノースカロライナ州東方の大西洋上にある英国植民地であるバミューダ諸島では、女性が脚をあらわにすることが禁じられていたため、膝丈でやや細めのズボンをインド駐留のイギリス軍が発明し、着用しました。ここで以後リゾートウェアとして定着し、男女ともに着用されるようになりました。そして、このバミューダ諸島においては公式の場(仕事やパーティなど)においても着用が許され、正装と同じ扱いになります。(ただし、正装においてはふくらはぎが隠れるような長い丈の靴下と合わせることになっている)これが、「バミューダパンツ」といわれるもので、英語では、バミューダショーツといいます。
 このバミューダショーツは、1960年代に米国で流行し、これは日本などにも波及し、1970年代後半頃に流行がありました。ですから、私は膝までのパンツを見ると、バミューダと言ってしまいますが、どうも若い人にはわからないらしく、日本では最近は死語になっているようですが、外国人は、年配の男性がよくはいていますし、正式な場でもはいているのを見かけることがあります。
ファッション用語は、日本では使われ方が変化するので、年を取ってきたことを感じます。ボトムというのは、下半身に付ける服一般のことを言い、スカートとパンツのことです。もともとはフランス語の「パンタロン」から生まれた英語で、アメリカでズボン類のことの総称として用いられていました。しかし、日本では、もともとは下着の意味で使われていましたが、その後はカジュアルなズボンの意味として使われだしました。そのパンツにも様々な種類があります。
イージーパンツとは、楽にはけるパンツということで、だいたいウェストにゴムがはいっていて、紐で結んでしめるパンツを指します。ゆっくりとくつろいだ感じのパンツなので、主として室内用や普段着として履くことが多いようです。
サブリナパンツとは、長めのパンツで、7~8分丈のものをいいます。カプリパンツとは、短めのパンツで、バミューダより長くサブリナより短いものを指し、膝上ギリギリくらいの長さから8分丈程度のものをいいます。この語源は、ラテン音楽の「カリプソ」から来たという説と、バミューダ同様「カプリ島」で流行ったからという説があります。ショートパンツは、非常に短い丈のパンツです。一般には股下が10センチ以内程度のものをいいます。それよりもっと短いものはホットパンツといいます。ピチっとしたスポーティーなものから、たっぷりフレアした一見スカートに見えるようなものまであります。
パンツを丈で区分すれば短い方からホット、ショート、バミューダ、カプリ、サブリナ、ということになります。ただ、ハーフパンツというパンツはそれと違った特別ないきさつをたどります。スカートだけでなく、パンツもその長さによる歴史とファッションがあるのですね。

投稿者 fujimori : 23:39 | コメント (3)

2008年06月16日 近頃思うこと

他人のブログ

 私のメールにいくつかの他の人からのメルマガが送られてきます。そのひとつに「日本財団会長笹川陽平ブログ」があります。今日、送られてきた記事は、6月13日に発足した「たばこと健康を考える議員連盟」の設立総会に先立ち、笹川さんが国会議員有志による勉強会に呼ばれて、日本とは異なる世界のたばこ文化も紹介しながら「たばこ1箱1000円」について講演した内容です。
 笹川さんが講演したのは、産経新聞の2008年3月4日付けコラム「正論」で、たばこ「1箱千円」への値上げをということを書いたからです。その後、それは議論を呼び起こしています。しかし、喫煙している議員を含めてタバコについて考えるきっかけになったようです。「正論」で論じられたことを要約すると以下のようなことです。
 「ロンドンの街角で世界的に人気のある銘柄のたばこ1箱(20本入り)の値段は、5ポンド(1045円)、ニューヨークでは、8ドル(最近まで960円、円高の現在は約850円)に対して、日本は同じたばこが320円です。そこで、日本も1箱1000円とするよう提案します。また、日本では、62.3%が税金であるのに対して、英国の税率が82.4%、仏80.9%、毒80.4%、伊74.9%(05年実績)で、税率でも日本の低さが目立っています。一方、07年の国内消費量は国産、外国産を合わせ年間約2700億本で、これに伴う税収は約2兆2000億円。1箱1000円に値上げした場合、これに伴う税収増は9兆5000億円になり、仮に喫煙率、消費量が3分の1に落ち込んだ場合も3兆円を超す税収増が見込める計算になります。また、1箱1000円になると、たばこは「高級な嗜好品」となり、ほぼ間違いなく未成年者の喫煙は抑制できます。」
笹川さんは、講演会で、自分は決して禁煙論者ではないということを前置きして、世界保健機関(WHO)のハンセン病制圧特別大使として世界を回っていて、世界と比べ日本のたばこ文化は、大変遅れていることを実感したといいます。例えば、外国のたばこのパッケージには「たばこは人を殺します」と書かれていますし、WHOの事務局長を務めたグロ・ハーレム・ブルントラント氏は「たばこは殺人の道具だ」と公式に発言しています。それにもかかわらず、日本のメディアは両論併記でたばこを吸う庶民をいじめるなという論調にもなっていると指摘しています。
それは、たばこを吸う人たちを一方的に悪と考える嫌煙家になれということではなく、喫煙が本人の健康に良くないことと、それ以上に多くの受動喫煙者に迷惑をかけているということ、それから青少年の不良化や喫煙による害の大きさ、そして火災の問題等を喫煙者が十分に理解をした上でたばこを吸うことが、これからの新しいたばこ文化として日本に定着することを望んでの提案であるといいます。
タバコを吸う人には、こんな喫煙のスタイルを提案しています。1000円が高すぎるというなら、本数を三分の一に減らし、今までのような無秩序にたばこを吸う習慣を改め、例えば朝食後に一服、10時に一服、昼食後に一服、3時に一服、夕食後に一服、そしてカラオケに行って2本というように節度を持ち、計画的な喫煙に改めてはどうかといいます。
そして、日本のたばこが外国で売られると健康被害者の写真等がパッケージに貼られている写真を提示しています。日本で売られる日本製のたばこのパッケージはスマートですが、タイで売られている日本製のマイルドセブンは酸素吸入器が着けられた患者の写真が貼られています。
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成人識別たばこ自動販売機のためのICカード「taspo(タスポ)」も導入され、今後、タバコ文化についてさまざまな論議がされることを望みます。

投稿者 fujimori : 23:33 | コメント (4)

2008年06月15日 近頃思うこと

テレビ2

昭和28年に開局したテレビ放送も、昭和30年になると民放第2局目(ラジオ東京テレビジョン→TBS)が開局します。そして、翌年には、CBCテレビ、大阪テレビ放送(現・朝日放送)開局し、名古屋・大阪でも民放テレビがスタートしました。そして、34年1月に、NHK東京教育テレビジョン放送開始、2月に、初の民間教育専門局、日本教育テレビ(NETテレビ、現・テレビ朝日)開局、3月に、フジテレビジョン開局します。このあたりは、ものすごい勢いで次々に新しいテレビ局が開局して行きます。
テレビ時代が始まったときに、人々はどのくらいテレビ視聴に時間をかけていたのでしょうか。また、その中で、子どもたちはどのくらいテレビを見ていたのでしょうか。アメリカのある州では、2歳までの子どもにテレビを禁止しているところもあるようですし、日本でも、日本小児科学会がこんな提言をしています。1.2歳以下の子どもには、テレビ・ビデオを長時間見せないようにしましょう。内容や見方によらず、長時間視聴児は言語発達が遅れる危険性が高まります。2.テレビはつけっぱなしにせず。見たら消しましょう。3.乳幼児にテレビ・ビデオを一人で見せないようにしましょう。見せるときは親も一緒に歌ったり、子どもの問いかけに応えることが大切です。4.授乳中や食事中はテレビをつけないようにしましょう。5.乳幼児にもテレビの適切な使い方を身につけさせましょう。見おわったら消すこと.ビデオは続けて反復視聴しないこと。6.子ども部屋にはテレビ・ビデオを置かないようにしましょう。
そんな話の中で、私はよくこんなことを言います。「私は、テレビを見ることがとても大好きです。しかし、2歳過ぎるまでは、決してテレビを見ることはしませんでした」この話しをすると、若い人は感心してくれますが、同じ世代ではすぐにわかってしまいます。私が乳幼児の頃は、テレビは開局していなかったからです。日本テレビの開局の日のテレビ番組が掲載されていました。
 この日は開局初日のため、挨拶実況と祝賀番組があるので11時20分に放送を開始していますが、次の日からは、0時に放送開始で、午後1時過ぎに放送終了し、次に夕方の5時に始まり夜9時代のニュースで番組が終わります。また、子ども用の番組も1日にせいぜい一つか二つです。昭和28年開局の年に「ジェスチャー」「私は誰でしょう」、29年に「こんにゃく問答」、30年に「日真名氏飛び出す」「私の秘密」、31年に「ハイウェー・パトロール」「名犬リンチンチン」「スーパーマン」「チロリン村とくるみの木」「お笑い三人組」と、子どもにも大人気になる番組が始まります。
 その後、34年の皇太子結婚パレード実況中継によって、テレビ普及200万台を突破することになり、テレビ視聴時間が世界一長くなっていくのです。
それが最近、テレビ離れが、若者のあいだで起きているようです。2005年度のNHKの「国民生活時間調査」によれば、日曜日にテレビを見る時間は10代男性が1995年の3時間34分から2005年に2時間52分、20代男性は3時間48分から2時間45分に減少していますし、行為率(テレビを観る人の割合)も同様に10代が94%から84%へ、20代は85%から74%に減少しています。
これは良い傾向と思いきや、そうではなくて、テレビからインターネットをやる時間が増えてきているからです。また、イギリスの高級紙タイムズの取材によると、ゴールデンタイムにテレビを見る代わりにWiiで遊んで過ごす家族が増えつつあり、日本のテレビ局でも視聴率が減少する最も大きな要因がWiiによるものではないかと述べています。どちらにしても、子どもたちには、もっと実体験を多くしてもらいたいものです。

投稿者 fujimori : 22:52 | コメント (4)

2008年06月14日 近頃思うこと

テレビ

日本は、昭和40年を底として、再び景気は上昇期に入り、昭和45年夏までのいわゆる「いざなぎ景気」を謳歌した。昭和41年度から45年度までの経済成長の実質成長率は年平均11.6%に達しました。GNPが世界第二位になったこのころから日本のことを「経済大国」「エコノミックアニマル」と言われるようになりました。そして、団塊の世代の台頭で、昭和40年代は、文化的にも多様化の時代になりました。このような成長に伴って、テレビも成長してきます。
 昨日のブログで書きましたが、私が「七色仮面」を見たことがないのはテレビが6チャンネルまでしか見ることが出来なかったからと書きましたが、どうしてかというと、今の人にはわかりにくい大きな二つの理由があります。ひとつは、その頃のテレビは、チャンネルを変えるのは、テレビの前面にあるダイヤル式のつまみを回して変えていたのです。ですから、その一周には1から6までしかないと、それ以上のチャンネルは見ることが出来ないからです。もうひとつの理由は、東京では、テレビ局が6チャンネル(TBS系列)まで開局してないころの早い時期にテレビを購入したからです。
昭和28年2月1日午後2時「NHK」がテレビジョン放送を開始しました。この初日の受信契約数866件で、受信料月額200円でした。この年の8月28日午前11時20分民間放送初のテレビ本放送が「JOAX-TV、こちらは日本テレビでございます」の第一声とともにかいしされます。この言葉は、その後も何度も聞くようになり、子どもたちもその真似をしました。
プロ野球、プロボクシング、大相撲など、特に話題のスポーツ中継がある日には、都心で都電が止まり、窓ガラスが割れ、百貨店の床が抜けるほどの大混乱を引き起こしたほどです。まず、開局の翌日には、早くも後楽園球場から「巨人×阪神」のナイターを生中継しています。そして、秋には、大相撲秋場所を初中継が行われます。また、日本ボクシング界では、初めて世界チャンピオンとなった白井義男が開局の年にテリー・アレンと、翌年にエスピノザと、タイトル防衛戦が中継されました。また、日本初のプロレス公開試合では、力道山とシャープ兄弟の対戦が3日間にわたって中継され、それ以後力道山の人気はうなぎのぼりとなり、全国的なプロレス旋風が巻き起こります。もちろん、その頃は各家庭にテレビがあったわけではなく、テレビ屋さんの店先とか、多くは、関東一円に設置された街頭テレビで見ることが多く、これが爆発的な人気を呼び、この成功で開局7ヶ月にして黒字達成します。
その頃から我が家にはテレビがあったので、プロレス中継の日には、夕方から部屋に布団を敷き詰め、近所の人たちが集まってみんなで観戦しました。しかし、私の子どものころのプロレスについての思い出は、日本テレビで放送開始と同時に金曜日の8時から放送されていた「三菱ダイヤモンドアワー・ディズニーランド」です。この番組は、ウォルト・ディズニー自らが出演し、「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」「開拓の国」の4つの国のひとつが週によって放送されます。しかし、この番組は、「プロレス中継」と週ごとの入れ替わりで放送されていました。大人たちは、プロレスでの力道山が楽しみだったようですが、私は、プロレスの週はがっかりしたものです。
テレビの歴史は、番組が少なく、放送時間も短かったために、誰とも共有できる子ども時代の思い出と重なるものでした。しかし、まだまだ8チャンネル、10チャンネルの開始の時代にはたどり着けません。(続く)

投稿者 fujimori : 20:46 | コメント (4)

2008年06月13日 近頃思うこと

家電

 先日、You Tubeで、懐かしいテレビ主題歌を聞き始めて、どんどん深入りしてしまいました。その中で、「七色仮面」の主題歌にぶち当たりました。「とけない謎を さらりとといて この世に仇なす者達を でんでんどろりこ やっけろ でんでんどろりこ やっけろ ななつの顔の おじさんの 本当の顔は どれでしょう」
「七色仮面」は、1959年に製作された特撮テレビ番組で、月光仮面の川内康範が、七つの顔を持つ男・多羅尾伴内をモチーフにして作り上げた番組です。1960年の第5部からは、「新七色仮面」として新人の千葉真一が演じています。この頃流行のヒーロー物で、この主題歌は、子ども達の間でよく歌われ、私も一緒にそのまねをしたり、その主題歌を歌ったものでした。しかし、実は、私はこのテレビ番組は見ていなかったのです。というのは、この番組は、NET(現:テレビ朝日10ch)系で放映されたもので、我が家のテレビは、6チャンネルまでしか映らなかったので、見ることが出来なかったのです。
 昭和28年は、「家電元年」といわれ、テレビ放送が開始されました。その頃、ちょうど朝鮮動乱の特需で好景気が続く中でのテレビ放送の開始は、それに続く昭和30年代前半の「三種の神器」といわれた「白黒テレビ/電気冷蔵庫/電気洗濯機」の爆発的ヒットになっていくのです。この「家電元年」といわれる昭和28年と前年度との家電出荷台数を比較すると、ラジオは、108万台から140万台(29%増)、扇風機は、29万台から43万台(48%増)に、冷蔵庫は、3600台から7500台(108%増)に、洗濯機は、1万5100台から10万4700台(593%増)に、アイロンは、77万台から91万台(18%増)への急激な伸びをしています。
また、昭和26年ころまでは、ラジオのほか、レコードプレーヤー、電気スタンド、アイロン、扇風機、電気ストーブくらいしか家電がなかったのですが、テレビ放送開始と同時に早川電気(現在のシャープ)が14型の白黒テレビを175,000円で販売して、この年に14,384台販売しています。また、28年には、三洋電機が、角型噴流式洗濯機を28,500円で販売し、大ヒットします。
先日、凄惨な事件をおこした「秋葉原」は、戦前、戦後の混乱期にはラジオ部品の販売をしていましたが、この家電元年を境にテレビ・洗濯機の販売を飛躍の時期を迎え、卸商の小売併売、店舗の大型化が進んでいきます。その後、東京オリンピックの準備の特需と、30年代の高度成長、そして、テレビ購入のピークが昭和39年の東京オリンピックの開催でしょう。その後も、家電業界は「カラーテレビ」という大黒柱が急成長し、団塊世代の消費需要もあり、好調な成長を続けていきます。テレビの世帯普及率は、昭和40年に8.3%であったものが、昭和45年には91.7%、カラーテレビの普及率は、昭和45年7.1%から、昭和50年73.1%と大幅に伸びて行きます。そして、昭和40年代後半には、テレビ以外にも、ステレオ、カセット式レコーダー、冷凍庫付冷蔵庫、クーラーも出回るようになり、家電メーカーが量産体制を整えることで価格も低下し、その結果また需要が拡大するという「大量生産・大量消費」の好循環を生み出していきます。そして、三種の神器もカラーテレビとクーラーに、自動車(CAR)を加え、「新三種の神器」「3C」という言い方をし、その購入が庶民のあこがれになって行きます。
秋葉原という町は、その時代を反映してきました。今回の事件も、時代を反映しているのかもしれません。

投稿者 fujimori : 22:11 | コメント (4)

2008年06月12日 近頃思うこと

ブロックで子どもたちは、高いもの、広いものを作ると同時に、橋を作り始めます。同じ鹿島建設のHPの建築博物誌の中の「橋」には、こんなことが書かれています。「人類が最初に手にした「橋」それは、おそらく自然界からの授かりものであったに違いありません。偶然、谷や川をまたぐように倒れた木。その木の上を渡っていく動物たちの姿から、太古の人々は橋という概念を学んだのだろうと考えられています。」
しかし、子どもたちのブロックでの活動を見ていると、人間は、高いところと高いところをつなぐように自然と橋を作ろうとする遺伝子を持っているのではないかと思うほど、自然と作り始めます。それは、作っている本人もたぶんそれを渡ろうとか、何かを通そうとかいう意識はなく、トンネルを作るようにそれをつないでいる気がします。
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HPには、橋の歴史が書かれていますが、「神話や伝説にでてくる橋は、人が橋に架ける夢を語っているように思われます。日本の神話にでてくる最初の橋は「天の浮き橋」で、日本列島を作る際に、この橋を通って、天の神々が自由に天と地の間を行き来したと伝えています(古事記)。福井県の「天橋立」の言い伝えは、日本列島をつくったとされるイザナギの尊が天に上る橋をつくったが、それが横に倒れて天橋立になったという内容です。世界の神話を見ても、たとえば、空に架ける橋が、神が天に昇る橋であるといった神話が多く、そのほとんどは、空にかかる虹を天と地を結ぶ橋としています。」
空高くにあるであろう天に少しでも近づこうと、建物を高くしようとしたように、天に橋をかけようという気持ちは持ったでしょう。虹をそれに見立てたり、遠くまで続く島々や半島をそれに見立てたりはしたでしょう。また、古事記からこんな例を出しています。
「大国主の国曳きの神話で有名な出雲には、『いなばの白兎』という伝説があり、白兎が鮫をだまして、鮫の橋をつくらせ、それを伝って向こうの島を渡ったという話が伝えられています。
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国曳き神話は、たとえば北欧のデンマークなどにも残されており、『遠くのものを引き寄せたい、歩いていけないところへ行きたい』という願いは、人類共通 の夢なのかもしません。」
 園の近くには神田川が流れているために、いくつもの橋があります。また、丘陵地帯でもあるために坂や、道に段差があるので、いくつもの有名な橋があります。そのひとつが、明治通りと目白通りが交差するところに架かる千登世橋・千登世小橋です。この千登世橋は高台を走る目白通りと明治通りの高低差を生かした優美な曲線を持った橋で、造られたのは1933(昭和八)年、その土木的価値から「東京都の著名橋」に指定されています。鋼ヒンジアーチ構造で、橋長は27.81m、幅員18.182m、総鋼重130.0トンです。橋の東側の端に、スコップとハンマーを持った二人の労働者の像が立っていて、その下に「東京府土木部長来馬良亮の記念碑、千登世橋上に建つ」「昭和九年十一月二十二日」「知人相寄りて此を建つ」とあります。
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 この橋の上で何回も追跡が繰り返されたのは、映画「少年探偵団」です。これは、原作者の江戸川乱歩が池袋に在住していたからのようです。
 橋も子どもにとっては、魅力のある建造物です。

投稿者 fujimori : 23:12 | コメント (4)

2008年06月11日 近頃思うこと

さまざまな建築

鹿島建設株式会社のHPの中に「建築博物誌」というサイトがありますが、私にはとても興味深いものがあります。その内容はいくつかに分かれていて、「超高層」「橋」「大空間」「トンネル」「ダム」です。まず、この分け方の中に「大空間」という建築カテゴリーがあるのは面白いですね。建物は、「より高く」を目指してきたことがバベルの塔でわかりますが、同様に大空間の歴史を見ると、「より広く」も目指してきたことがわかります。そう考えると、橋やトンネルは、「より長く」を目指してきたのかもしれません。
より高くを目指してきたのは、「高い建造物は、単に権力や経済力の象徴であるだけでなく、古来より続く人類のあこがれともいえます。それゆえ、「超高層」という言葉は、私達に広大なパノラマを紡ぎ出して見せてくれるのです。」と書かれてあるように、神は空の上のほうの高いところにいるというイメージなので、高いところというのは、地位が高いとか、高貴とかとダブってみてきたのかもしれません。また、日本語では超高層といいますが、英語ではスカイスクレーパーといいます。これは、「空をひっかくもの」という意味です。
それにたいして、広い空間とはどんなイメージを持ったのでしょう。「古来、大空間は神聖な場所であり、造られた時代時代の世界観が強く表れていました。そして今、コンサートやスポーツ観戦など、大空間の利用範囲は広がっています。より身近になった現代の大空間には、どんな夢や世界観が表れているのでしょうか。」大空間は、やはり神の住む場所とか、大勢の人が集うというところから、神に祈る場所としてはじまったようです。神殿とか、協会などに広い空間が作られていきました。同じように、日本では祈る場所というより、祀る場所として作られてきました。今でも、東大寺大仏殿は木造建築の中で最も広い空間を持っています。ですから次第に、当然これは富や権力の象徴にもなっていきました。
トンネルについても、とても面白い見方ができます。「古代人のすみかだった自然の洞窟。やがて人類は、自ら掘ることを覚え、トンネルが生まれました。そして、トンネルは、険しい山や崖、海峡など、大自然によって隔絶されていた地域間をつなげて、国と国、人と人を結びつけてきたのです。」トンネルというと、穴を掘るという意味であれば、最初は当然住まいや貯蔵の場所としての穴だったでしょう。先日職員と「アリババと40人の盗賊」という話をきちんと覚えているかという話をしましたが、この話に出てくる盗賊たちが奪った宝を隠している洞穴の扉を開ける呪文が「開けゴマ」という言葉で、その英語が「オープンセサミ」ということで、テレビ番組の「セサミストリート」は、魔法の扉が開いた先にある町ということではないかということになりました。
子どもたちが積み木で何かを造ろうとするとき、まず、高く積もうとします。背が届かないくらい高くなると、椅子をもってきて、それに乗って積もうとします。
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また、ブロックで広く作ろうとします。大きな空間を作り、その中に動物や人を入れます。
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そして、砂場で遊ぶときには、トンネルを作ろうとします。大きな山を作って、穴を掘っていきます。もっと高度になると、両側から掘り進めて行き、真ん中で穴を開通させます。
誰が教えたでもなく、何かを読んで学んだわけでもありませんが、子どもたちは、人間としての技術を学んでいっているのです。

投稿者 fujimori : 21:27 | コメント (4)

2008年06月10日 近頃思うこと

農事

 園の外壁の隙間に湧き水を利用して水を張り、そこにめだかを放ち、睡蓮が花を咲かせ、地域の人たちの憩いの場所になっています。以前のブログでも予告しましたが、そのすぐ上の段の隙間は、田んぼにしようということで、今日、田植が行われました。田植えの時期としてはだいぶ遅いので、苗はかなり大きくなっています。
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 いつ頃田植えをすればよいかは、人々は暦を見て判断するのですが、稲の生育は自然条件の影響を受けることが大きく、特に稲作の始まりと終わりはいずれも気象的な制約を受けます。ですから、昔から田植えの時期は、暦はあくまでも目安で、周囲の山の雪型とか、鳥の初鳴きなどで季節を察知し、農事の時期を判断していました。
 そのひとつは、日本列島が新緑で包みこまれる頃、各地の山肌に、「雪形」が現れます。この雪形を人や動物などに見立てて、それが少しずつ変わっていく形で農業の作業時分を判断していました。残雪量は積雪量や気温に左右され、その後の用水の多寡にも反映されるため、農業にとっては、とても重要な目安になるのです。積雪量が少なく雪形が早く消えた年は水不足が懸念され、またいつまでも消え残る年は冷害が予見されます。
富士山に現れる雪形は「農鳥」と呼ばれ、その出現を合図に麓の町では田植えを始めたといわれています。しかし、富士山はどこからでっ見ることが出来、また、雪がいつまでも残っているので、色々形がいろいろな方向に現れます。豆まき小僧、農牛、お犬雪、農男などに見立てられます。
また、全国に多い「駒ケ岳」とか「白馬」という山は、ほとんど雪形が馬の形であることから付けられています。残雪の形は農事の時期を判断するだけでなく、様々な伝説も生み出しています。北アルプス白馬岳も、農家の娘と白い馬が恋仲になり、それに反対する父親が殺してしまった白馬を追って「毎年苗代のころにはきっと姿を見せるようにします」と言って、天にのぼっていったという話です。
2千年以上前から日本で栽培されてきた稲を育てる農業は、古くから日本人の生活に密着してきました。また、稲が実るまでに様々な手順を踏んで行きます。「米」という字は、八十八の手間暇を現した象形文字で、たくさんの手間隙を費やして育てるという意味です。ですから伝説を生んだり、農事をさまざまなたとえとしてあらわしたりしています。「早乙女」という言葉もその一つです。
土を掘り、水を張り、代掻きをして田植えの準備をします。園でも、土を入れてから、しばらく水を張り準備をしました。そして、苗代で育てた稲の苗を大切に植えます。昔から田植えをする女性のことを、田の神様に仕えるという意味から早乙女(さおとめ)と呼んできました。私たちの園では、不耕起栽培という農法を取るために、少し土は固めです。それを掘り起こしながら植えて行きます。早乙女は、田の神様に豊作を祈って田植えをし、収穫に感謝します。
稲作は、約1万5千年前、世界の稲作はインドのアッサム地方、中国雲南省、タイ、ミャンマーから始まったと考えられています。現在では世界の人口の半数がお米を主食にしていると言われ、国連食糧農業機関(FAO)による2005年の世界の生産量は6億1500万トンで、中国とインドで半数を占めています。
日本もまたお米の国です。平成19年産の水稲収穫量は870万5千トンで、品種はコシヒカリ、ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまちが上位を占めています。日本の稲作は2000年の歴史を有するといわれていますが、このような品種の分化が進んだのは室町時代以降です。それまでは、せいぜい早生と晩生、もちごめとうるちが区分されていた程度にすぎなかったようです。日本の稲が現在のような姿になったのは、長い栽培の歴史の中で時間をかけてそうした方向に変えてきたからで、日本で稲作を始めた時からずっと、おいしい米を、たくさんとる、そのためには人手を惜しまない、という先祖代々の共通の思いがありました。
 園のほんの小さな水田にも、日本人の長い知恵の歴史を伝える役目があります。

投稿者 fujimori : 22:52 | コメント (4)

2008年06月09日 記念日

1秒という「時」

 明日の「時の記念日」に向けて、読売新聞にこんな記事が掲載されていました。
「23年前、美しい詩に彩られた時計会社のCMが、テレビで一度だけ放送された。評判が口コミで広がり、詩は今年、教科書にも載った。その“幻のCM”が時の記念日の10日、ハイビジョンのリメーク版で復活。民放系BS5局で、それぞれ一回だけ放送される。詩の作者は、本紙夕刊で「ドッポたち」を連載している漫画家の小泉吉宏さんだ。」
リメークされたのは、セイコーウオッチの「一秒の言葉」(60秒)です。

「はじめまして」 この一秒ほどの短い言葉に 一生のときめきを感じることがある
「ありがとう」 この一秒ほどの短い言葉に 人の優しさを知ることがある
「がんばって」 この一秒ほどの短い言葉で 勇気がよみがえってくることがある
「おめでとう」 この一秒ほどの短い言葉で しあわせにあふれることがある
「ごめんなさい」 この一秒ほどの短い言葉に 人の弱さを見ることがある
「さようなら」 この一秒ほどの短い言葉が 一生の別れになる時がある
一秒に喜び 一秒に泣く 一生懸命 一秒 一生懸命 コミュニケーション

この詩は、1984年にラジオCMとして制作され、翌85年にテレビCM化、同年暮れの民放「ゆく年くる年」で放送されたものです。校舎を背景に、詩が流れるイメージCMでした。短い言葉で人生を切り取り、一生懸命生きる姿勢に声援を送る内容の詩と、美しい映像が、公開と同時に大きな話題を集めました。セイコーホールディングス株式会社は、6月10日「時の記念日」にちなんで、この「一秒の言葉」をラジオCMおよびテレビCMのリメイク版(オリジナルと同じ詩に、全く新しい映像、音楽、ナレーションをのせたもの)を製作したのです。
当時の日本人に欧米人なみに時間を尊重する意識を持ってもらうことを目的とし、生活改善同盟会が「日本書紀」の天智天皇の条、水時計創設の記によって6月10日を1920(大正9)年に時の記念日として制定されました。
この「一秒の言葉」を書いたのは、今は、漫画家であり絵本作家である小泉 吉宏さんです。彼は、1993年「ブッタとシッタカブッタ」(メディアファクトリー)でデビューし、その3巻目「なぁんでもないよ」で第45回文藝春秋漫画賞受賞しています。このシリーズは、ブタが主人公の4コママンガが中心の本で、「心の運転もまた同じこと 運転の仕方を知らないと、心は迷い、悩み、どこかへ行ってしまうだろう。」ということで、サブタイトルに「心の運転マニュアル本」とつけられています。本の解説には、「ギターの弦は張りすぎると切れ、ゆるめすぎると変な音になる。心も無理やり運転しようとしても苦しいし、ほったらかしでもろくな事にはならない…。自分を運転するあなたに贈る、心の運転マニュアル本。」
 賞を取った3巻目は、四苦八苦の説明に始まり、主に「ものの見方」の誤りからくる苦しみをテーマにしています。
 『誰かからもらった価値観で生きているから 退屈を感じる 誰かからの評価にとらわれているから 苦しみを感じる』小泉吉宏「ブッタとシッタカブッタ3なあんでもないよ」(メディアファクトリー)より

投稿者 fujimori : 22:26 | コメント (4)

2008年06月08日 近頃思うこと

富士測候所

 藤原正彦さんは、数学者でもありエッセイストですが、父親は、直木賞作家である新田次郎で、母親は、やはり作家の藤原ていで、姉も家族を書いた小説を発表している咲子です。
父親である新田次郎は、私の先祖の郷里である長野県諏訪郡上諏訪町の少し山側よりの角間新田(かくましんでん)というところの次男として生まれたので、「新田次郎」というペンネームを使っています。彼は、現在の電気通信大学を卒業して、富士山頂測候所に勤務しました。その経験をもとに、富士山の強力の生き様を描いた「強力伝」で直木賞を受賞しています。また、次郎のおじも気象学者の藤原咲平です。
 一昨日、測候所10カ所を9月末で廃止することが発表されました。新田次郎が勤めたことのある富士山測候所をはじめとして、寿都(北海道)、留萌(同)、小名浜(福島県)、西郷(島根県)、米子(鳥取県)、室戸岬(高知県)、屋久島(鹿児島県)、沖永良部(同)、与那国島(沖縄県)です。
富士測候所は、04年には無人化されていますが、この測候所の役目というのは、「目視による雲量や雲の種類などの天気観測、桜の開花状況、生物季節観測など」です。このIT時代に、実際に目で見て計る「目視」ということが行われているのです。そういえば、桜の開花宣言も、人が実際に見て宣言します。地上気象観測では、さまざまな測器や目視観測によって地上付近の気象現象を観測すると定められています。
目視観測される大気現象には次のようなことがあります。まず、「大気水象」という、水滴または氷粒が大気中を落下したり、浮遊したり、地面から風によって吹き上げられたり、あるいは地面または地面に付着している現象があります。こんな難しい言い方をしますが、気象といわれる雨、あられ、雪などは大気水現といいます。
また、「大気じん象」というのは、水滴または氷粒をほとんど含まない主として固体の粒が、大気中に浮遊していたり地面から風によって吹き上げられたりしている現象のことをいいます。今、問題になっている黄砂や煙霧などはこれに含まれます。「大気光象」というのは、太陽または月の光の反射、屈折、回折、干渉によって生じる光学現象のことをいい、虹、日のかさ、月のかさ、彩雲などを指します。「大気電気象」とは、大気中の電気現象のうち、目視または聴音により、観測される現象のことを言い、雷電、雷光、雷鳴などをいいます。
 空を覆う雲の量や、雲の形、その形ごとの雲量、雲の動く向き、雲の高さ、雲の状態などは、やはり機械では判断できません。これらの大気現象と雲の状態によって天気の観測がされます。また、大気現象がない場合は雲の量によって決まり、全天空の1割以下の場合を「快晴」、2割~8割を「晴れ」、9割以上を「曇り」となりますし、見かけ上、上層の雲「巻雲(すじ雲) 、巻積雲(うろこ雲、いわし雲)、巻層雲」の割合が多い場合は「薄曇りと言います。
富士山測候所は平成16年10月1日に常駐観測を終了し、山頂の気象観測は、自動観測となっていますが、これから人が少なくなって大変ですが、人しか出来ないことも多い気がします。

投稿者 fujimori : 21:44 | コメント (4)

2008年06月07日 地域を知る

水の益と害

 今日は、園の遠足でした。遠足のテーマ「地域を知ろう!」ということで、昨年は園の北東周辺を、親子で、ウォークラリー形式で歩いてもらいました。今年は、園の南西周辺のウォークラリーです。
 何度もブログで書きましたが、今回の遠足のひとつのポイントになっているのは、ちょうどそこで妙正寺川と神田川が落ち合っており、落合地域(中落合・上落合・西落合・中井)全体の地名の由来になったところです。神田川は、歌でも有名になったので、日本中の人、特に団塊の世代にはよく知られている川ですが、もうひとつの妙正寺川は、杉並区の妙正寺公園内妙正寺池に源を発し、途中中野区松が丘二丁目で江古田川を、新宿区の西武新宿線下落合駅付近で落合水再生センターからの放水路とそれぞれ合わせ、新目白通りの下を流れ、新宿区のこのあたりの高田橋付近で神田川に合流しています。
 この落合水再生センターも、今回の遠足のポイントであり、昼食を食べる「せせらぎの里公苑」は、この水処理施設の上部空間です。
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この水再生センターは、新宿副都心に極めて近く、住宅地に囲まれた水再生センターとして環境に配慮した管理を徹底しています。処理区域は、中野区の大部分と新宿・世田谷・渋谷・杉並、豊島、練馬区の一部で、面積は3,506haだそうです。
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 この施設のHPには、都心ならではの記載があります。私たちは、下水処理水というと、汚泥が発生する汚い水を思い浮かべますが、ここでは、下水処理水のことをこう書いています。「下水処理水は水量が豊富で、また水質も安定しており」ということで、ほとんど処理した水は神田川に放流していますが、ここで高度処理した再生水を西新宿の新宿副都心水リサイクルセンターに送水して、西新宿や中野坂上地区のビルのトイレ用水として活用され、都市の水循環に貢献しているそうです。また、一部は西新宿や中野坂上地区のビルのトイレ用水や城南三河川の清流復活事業にも活用しているそうです。下水は、都会では、とても有効な水源なのですね。
 もうひとつ、都会ならではのことがあります。それは、これから梅雨に入ると大雨が降ることがあり、そのときの水害についてです。水害というと、川が氾濫して起きるものですが、「都会型水害」という、川がなくても水害が起きることがあります。それは、雨の量が多いと、下水道が処理しきれずに、マンホールから雨水があふれて床上浸水をしたり、道路が冠水したりすることがあるのです。平成17年8月15日には、1時間当たり最大124mm、総雨量126.5mmの雨で中野区だけで浸水被害が280件あり、同年9月4日には、1時間当たり104mm、総雨量227.5mmの雨により中野区で浸水被害1530件も出しています。
 この総雨量とは、「雨水が別の場所に流れず、蒸発せず、地面などに染み込まない状態でどのくらいの深さになるか」という水深を示しています。底の平らな入れ物に10分間雨をためてその水の深さを測り、それを6倍したものが1時間の雨量です。普通は、1時間当たりの雨量が30~50mmだと激しい雨になり、50~801mmで滝のように降る激しい雨になります。
都会では、川がないから、崖がないからといって安心はできません。災害は、どこからやってくるかわかりません。

投稿者 fujimori : 21:19 | コメント (4)

2008年06月06日 近頃思うこと

数学

 藤原さんの話でありませんが、最近、わたしは職員に数学の話をよくします。特に好きな話は、2進法の話です。私たちが普段使っているのは10進法で、10種類の数字を使ってすべての数を表します。それを2種類の数字だけですべての数を表せるのが2進法です。これで足し算や掛け算をやって見せると、職員は感動します。そして、2種類だけで表せるということは、たとえば「はい」「いいえ」だけですべての言葉を話せるということで、宇宙への手紙は2進法で書かれているということ、また、電気の「ON」「OFF」とか、「穴が開いている」「開いていない」というだけで計算できるので、コンピューターはそれで計算していたのだという話にも感動してくれます。
 もうひとつ、数学者のガウスの幼児期の話もします。これは2006年01月22日のブログにも書きましたが、有名な話です。これと同じ内容の話を藤原さんが話しています。
「1から10まで足すと55になるやり方にいろいろあるということです。1から9までの平均は5だから5×9=45で、それに10を足して55になるとか、1+10=11、2+9=11、3+8=11、4+7=11、5+6=11、11が全部で5つだから55。というように小学生にどれだけの足し算があるかを考えさせればいいのです。すると、発見の喜びとか、ものを考える喜びがでてきます。テクニックでなく、そういう喜びを教えない限り、嫌いになるのが普通だと思います。」
また、子どもながらの刷り込みのない世界のすばらしさにも触れています。
「夜の10時頃の混んでいる車内での話です。そんなときに、シートの上に新聞が乗っかっていたりすると、われわれなら、その下にゲロでもあるんじゃないかと思ってそこに座りません。しかし、子どもならパッとどけて座っちゃう。そこには何もなくて、ただ新聞紙が乗っかっていただけ…。これはわれわれには常識があるからそれが邪魔して新しい席を発見できないわけです。分別がついてしまうとだめなのです。だから、50歳を過ぎると数学的な大発見というのはできません。」
私は、職員にこういう問題を出します。
「納屋の四方の隅に藁の山がありました。ある隅には、ひとつの山ありました。ある隅にはふた山、ある隅には三つの山、残りの隅には四つの山がありました。それらの山を真ん中に集めると、山がいくつできるか暗算で答えなさい」
すると、職員は一生懸命計算をして、「10の山」と答えます。答えは、みんな集めると、ひとつの山になると言う話です。大人は、計算ができる分だけ刷り込みがあるのです。
そういうことで、子ども、若者の頃の「無鉄砲」「無邪気」は宝物だと言います。そういう意味で、数学は「情操教育」だと言います。私が、数学が好きなのは、計算ができるわけでも、公式を知っているわけでも、数学の成績がよかったわけでもありません。まさに、藤原さんが言っていることです。
「数学でも音楽でも詩でも、美しいものには共通した感動がありますね。それは音楽でただひとつドをレにしても、またその句読点を一つずらしただけでも全体がダメになるといったような、きわどい緊張感ですよね。それが数学にもあるんです。」

投稿者 fujimori : 23:22 | コメント (4)

2008年06月05日 近頃思うこと

人は成長しても

 人は成長しても、成熟してくることはあっても基本的な考え方はあまり変わるものではありませんね。
少し前に、保護者から店で使っていた様々な容器を園がいただいたことがありました。その容器が包まれていた新聞は、赤茶けて、かなり劣化しており、少し触っただけでもボロボロと破片になってしまうような古いものでした。それをソーッとごみ箱に捨てたのですが、その破片の中に面白い記事を見つけました。その新聞は、日付のところは昭和五十何年かしか判りませんが、当時上映されていた映画案内で見ると、たぶん1977年か1978年だと思います。そこには、数年前に賛否両論まで引き起こしたベストセラー「国家の品格」を書いた藤原正彦さんの対談が掲載されていたのです。当時は、まだ御茶ノ水大学の助教授で35歳を超えたあたりの年齢です。その前に、アメリカのコロラド大学の助教授などをしていたので、最初の記事は、アメリカと日本の違いについて述べています。
アメリカと日本の学問の仕方の一番違うところはどこかと聞かれてこう答えています。
「日本では、先生も、学生も生徒もひっくるめて、知識のある人がえらいことになっていますが、アメリカでは、新しいものを創ることに力を入れます。日本では、過度に知識が偏重されていて、世界で一番長い川は何だとか、数学なら公式をどれだけ知っているかが問題になります。知識も大切だが、アメリカでは、それよりも物事をどう考えるかに、高校までの教育の重点が置かれます。」
だからどのような教育がいいのかというところはどこかにいって読めませんが、この違いは、ずいぶんと昔から言われていることです。その二カ国の違いについて、どちらがいいかと聞かれて、藤原さんはこう答えています。
「高校までは論理的な考え方、表現のほうに力を入れるべきだと思います。というのは、そういう基本的な態度は年取ってからでは身につかないからで、知識は必要とあればすぐに身につく。しかし、日本の現実は、受験地獄に結びついているし、受験地獄は日本の人口と国土の大きさに結びついているからかなり複雑です。」
私も、おおむね同じように思います。いま、コンピューターが普及している時代に必要とされている論理的な考えや表現力、もっと基本のコミュニケーション能力や問題解決能力は乳幼児期における親子の関係から身についていくものです。しかし、少子社会で、保護者の養育力低下などから見ると、子ども集団体験からの乳幼児教育が大切になってきます。高度な知識は、高等教育から、それぞれの専門分野において身につけていけばいいものだと思います。ただ、受験地獄は国土の広さと人口の問題でもないような気がします。いま、国土の広い中国でも受験地獄のところがあります。それよりも、どんな力がこれからの子どもに必要なのかという、先を読む力が国家にあるかだと思います。
もうひとつ、対談の中で藤原さんが話している内容に、専門分野である数学についての部分がありますが、私も全く同感です。
「韓国にも4、5歳で微分積分ができる子の話がありましたが、ああいうのはテクニカルなものなんです。微分積分などはちょっとその方に向いている頭の子なら、教え込めば学校へ上がる前でもできるんですよ。それよりも、どういう考え方をしたかが問題なんです。それによって数学者になれるかどうかが決まると思う。」

投稿者 fujimori : 23:03 | コメント (4)

2008年06月04日 近頃思うこと

少子化対策

 今年の1月1日の朝日新聞に書かれていた少子社会の将来の姿を以前のブログで紹介しましたが、その記事の中で、過去の少子時代のことが書かれていました。
まず、縄文時代での話しです。近年まで縄文時代の人口については漠然としか分かっていませんでした。それを、国立民族学博物館の小山修三・名誉教授は縄文遺跡の分布をもとに時代別・地域別に人口を推計してみました。それによると人口は縄文時代早期には2万人ほどだったのが、最盛期の中期には26万人程度まで増加したということがわかったと書かれていました。この頃は、当然子どもは労働力だったのでしょうから、また、避妊などの知識などもなかったために、子どもは増えていったと思います。しかし、私は、もうひとつ子どもが増えて行った理由がある気がします。それは、人々が集落を作り、社会を作っていったからです。弥生時代では、農耕が中心でしたので、集落が必要であり、社会が必要だったでしょうが、縄文時代は狩猟民族なので、最初はそれ程集落が必要ではなかったかもしれません。しかし、青森の三内丸山遺跡を見ると、縄文時代でも大きな集落を持ち、高度な文化を持っていたことがわかります。ごみの捨て方にしても、完全な分別をしていることから見ても、快適な生活を送るために社会を築き、社会の財産として子どもを育てていった気がします。また人口密度の地域格差は大きく、東日本が高く、西日本が低い「東高西低」だったとされていますが、西日本は気候もよく、食糧が容易に得られる地域では、それ程の社会は必要なかったかもしれませんが、東日本では、きびしい自然なだけに、協力が必要だったのでしょう。
豊かでないと子どもを産まないといわれ、少子化対策では、子どもに関しての費用がかからないようにしたり、何とか育児を楽をさせようとしていますが、果たしてそうでしょうか。縄文時代には、少ない食料を確保するためには人口が少ないほうがいいと思うのに、逆なのです。それが、他の時代でもわかります。新聞にこんなことも書かれていました。
江戸時代にも少子化対策は行われていたというのです。今と同じように、江戸時代末期の人口停滞の背景には、女性の晩婚化や少子化があったといいます。特に北関東では18世紀前半から後半にかけて、江戸など都市への流出も影響し人口が20%以上も減ったそうです。人口減に悩んだ藩の中には少子化対策を行うところもあり、妊娠した女性を登録して江戸版「母子手帳」を作成、それにもとづき米や金などの養育手当を出すというものだったようですが、残念ながら効果のほどは不明だそうです。
この時代にも、江戸という都会に人々は出たがったのですね。それは、必ずしも生活のためではなく、江戸という刺激的な町にあこがれてということもあったのでしょう。ですから、手当てなどお金で引きとめようとしても、それ程効果がないのです。そして、その刺激が、自らの快楽のためとなると、当然江戸に出ても子どもは生まないでしょう。
 それは、外国でも同じようです。ギリシャ時代にも人口減少があったといいますが、その理由がこう書かれています。「人口減少のわけは人間が見栄を張り、貪欲と怠慢に陥った結果、結婚を欲せず、結婚しても生まれた子供を育てようとせず、子供を裕福にして残し、また放縦に育てるために、一般にせいぜい1人か2人きり育てぬことにあり、この弊害は知らぬ間に増大したのである」これは、紀元前2世紀半ばに書き残された文章だそうです。「村川堅太郎古代史論集I」
社会の成熟が、人のつながりを希薄にし、個人的な楽しみが優先され、それが少子化を招いていることを考えないと、対策が空回りになりかねません。

投稿者 fujimori : 23:54 | コメント (4)

2008年06月03日 近頃思うこと

料理

 私の園では、子どもクッキングの日があって、その月に誕生日が来る子どもたちが誕生日会のおやつ作りをしたり、手打ちうどんやクッキー作りをしたりします。これは、食育の一環で、料理をすることで、食材への理解を深め、食事の意義などを感じてもらおうというものです。
 しかし、大人になると、料理店では男性が主ですが、家庭で料理をするのは女性が主に担っていました。いわゆる家事の一環だからです。そして、そのため料理を習う学校があちらこちらにできてきました。しかし、いわゆる家事とは、炊事、洗濯、掃除が主なものですが、基本的には洗濯や掃除は習いに行くものではなく、習い事となると、料理、お茶、お花となるのでしょうか。
 それが最近は変わってきているようです。専門家になるための調理学校ではなく、料理教室というものは、本来は主婦になる方が生活の料理をマスターするために通うのが普通だったのですが、男性が通う男向け料理教室が多くなってきています。料理教室に通おうという男性の場合は、料理をマスターして毎日料理を作るというよりは、むしろ定年後の趣味としてたしなむ傾向が強いとのことです。「料理師」の専門学校のような場所にも通えますが、それよりも同好会のような形で仲間作りをした方が良いということで、そんな同好会的であったり、研究会的なものが人気になっています。
書店にも、「男の料理」というタイトルがついた料理本でコーナーができているほど、ブームのようです。そば打ち教室も人気で、この教室は、ほとんど「男性専科」となっているようです。この傾向の面白いのは、現役時代は仕事一筋、料理はもちろん家事もほとんどしてこなかった男性たちが、定年になった途端に「趣味は料理」になることだそうです。定年後、何かしたいと思ったときに真っ先に思い浮かぶのが、「料理」というのはどうしてでしょうね。生きるための基本であり、人生の最大の楽しみだからでしょうか。
しかし、実は、この楽しみである「食」が、シニア世代になると「食をいかに楽しめるか」が課題になってくるようです。年をとると量は食べられなくなり、だからこそ、食べることをいかに楽しくできるか、ということを農業関連ビジネスに従事する人や企業は考えていかなければならないようです。
もうひとつの目的は、シニアコミュニティの構築です。シニア向けに、アクティブに生きるための仲間つくり、活躍の場作り、仕事作りを支援しようというのです。料理を作る会が、次第に接待に使える店を開拓したり,異業種交流などをする会から、話題の店などへ行く「食べ歩き会」や,泊まり込みで燻製などを作る「夏季合宿」,毎年お正月に行われる「干支を食する会」などの発展する会もあるようです。
それが、こんな形のものまで登場しています。「料理作りを通して男女が出会う事をテーマにした料理教室合コンです。」すごいですね。テーマが「愛は食卓にある 恋は素材の中にある」とは、たくましい商魂を感じます。
 それと、最近驚くのが、「花婿修行」だそうです。「料理のできない男なんて結婚できない」という時代になったようです。

投稿者 fujimori : 22:08 | コメント (4)

2008年06月02日 由来

 昨日は、少し風邪気味でしたので、あまり遠くには行かず国分寺にある「お鷹の道」をのんびりと歩きました。
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江戸時代寛延元年より国分寺市内の村々は、尾張徳川家の鷹場に指定されていました。それにちなんで地元では、崖線下の湧水が集まり、野川にそそぐ清流沿いの小径を「お鷹の道」と名づけ、現在約350mを遊歩道として整備されています。四季折々の散策路として人気がありますが、今は、沿道のいたるところに「カラー」の花が群生していて、白い色がきれいでした。
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園の裏手にある「おとめ山公園」も、江戸時代に将軍家の狩猟地で、一般の人の立ち入りを禁止したので御留山といわれたように、ずいぶんと将軍家は狩りが好きだったようです。
三鷹という地名も、かつて徳川将軍家及び御三家が鷹狩を行なった鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領にまたがっていて「三領の鷹場」だったことに由来すると言われています。徳川家康や三代将軍・家光などもたびたび鷹狩りに訪れているようです。江戸城を中心に五里(20km) 以内の村々は幕府の鷹場、それより遠い外側の村々は尾張・紀伊・水戸の徳川家などの鷹場で、三鷹の地はその境界だったようです。
日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代の埴輪にはすでに手に鷹を乗せたものも存在しています。日本書紀には仁徳天皇の時代には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部が置かれたという記録があります。そして、そのころから鷹場が禁野として一般の出入りが制限されていました。中期以降になって、貴族層による鷹狩が主流となり、坂上田村麻呂、在原行平、在原業平は鷹狩の名手としても知られています。
江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んで、徳川家康や三代将軍家光は特に好み、将軍在位中に数百回も鷹狩を行ったようです。その後、五代将軍綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止しましたが、八代将軍吉宗の時代に復活しました。
 目黒区に「鷹番」と言う地名があります。このあたりにも、江戸時代、代々の徳川将軍がしばしば鷹狩りに来ていました。鷹狩りは放鷹といい、飼い慣らした鷹を拳にすえ、山野に放って野鳥を落としたり捕らえさせたりする行事で、将軍が放鷹を行う場所を鷹場、御拳場、御留場などといいました。この放鷹は本来、武の鍛錬と娯楽を兼ねた行事でしたが、鷹狩りに託して領内の民情などをさぐろうとした傾向もありました。
三鷹を境とした5里の範囲内に6筋が設けられました。目黒筋の御鷹場もその一つで、鷹場組合、鳥見役所が設置され、鷹匠や鳥見の役などがおかれて鷹の飼養、訓練や鷹場の管理にあたりました。また、鷹場の各所に鷹番を置いて鷹場への立ち入りを禁じた高札をたてて村の連帯責任で見晴らせたりしました。目黒筋の鷹番が居住していた所が、鷹番と言う地名になったのです。
 イギリスでも、貴族や名士のスポーツとして300年の歴史を持つとされるキツネ狩りを禁止する法案が可決されていますが、禁止反対の声は保守党支持の傾向が強い富裕層にとどまらず、「農村の伝統軽視」と反発する狩猟愛好者や農家にも広がっているといいます。一部の人の贅沢が、歴史と緑を都会に残しているとは、難しいですね。

投稿者 fujimori : 21:00 | コメント (4)

2008年06月01日 近頃思うこと

開く

 その年に初めて登山が許される日のことを「山開き」、海水浴場を開場する日のことを「海開き」といいます。昔から神様がいる山には夏の間しか登ることが許されなかったため、入山できる最初の日に山開きの行事を行うようになり、それにならって海開きの行事が行われるようになりました。私は、この海開き、山開きは、7月初めのころの日で、さあ、もうすぐ夏休みだと思ったものでした。
 ところが、先日講演の帰りに連れて行ってもらった奥州市江刺区伊手の阿原山高原には、「山開き」ののぼりがいたるところではためいていました。実は、ここでは5月25日に山開きが行われました。一関市大東町と隣接するこの高原は、蓬莱山と種山高原の中間にあり、標高七八〇メートルの展望舎周辺からは、北上山地や奥羽山脈などたたなずく青垣山が一望できます。というよりもできるはずでした。というのも、当日は、霧に包まれ、あたり一面真っ白でした。
 しかし、この高原は、江刺の花レンゲツツジの群生地として有名で、霧の晴れ間からは、山一面、色鮮やかな姿を見せてくれました。
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また、この高原は、放牧場としても有名で、あちこちに黒毛和牛が牧草を食んでいました。この奥州市は、前沢牛で有名な前沢町も合併されていますが、この牛は、江刺牛と呼ばれています。うたい文句として、「澄んだ空気とやさしい大地、そして、古来より家畜を朋友として農業に生きた人々のたゆまぬ努力と情熱によって改良が加えられ、陸中牛と江刺牛が生まれました。」とあります。
このように、夏の日差しが強くなる5月の終わりから7月にかけて全国各地で「山開き」「海開き」「川開き」が行われます。その中で、「山開き」が最初です。富士山では7月7日浅間神社での山開祭、木曽の御岳では7月10日、岩手山は6月15日などいろいろのようです。それに比べて、海開きは海水浴の解禁日で、地方によって異なりますが一般的には7月1日あたりが多いようです。
山開き、海開きと語呂がいいので二つ一緒に言われることが多いのですが、もうひとつ興味深いものに「川開き」があります。川開きは、もとは川遊びの解禁日ですが、川遊びといっても海水浴とは違って、川で泳ぐわけではありません。特に有名なのは、江戸時代から行われている「両国川開き」です。両国橋を中心とした隅田川の下流一帯の茶店や食べ物屋、見せ物小屋などは通常夕方までの営業でしたが、旧暦5月28日から8月28日までの納涼期間中は夜半までの営業が許可されました。その始めの合図として花火大会が行われました。現在の隅田川花火大会は7月下旬ですが、第1回の川開きは享保18年(1733)5月28日に、幕府の許可を得て両国橋畔において行われました。
このとき、横山町の鍵屋弥兵衛と両国広小路の玉屋市郎兵衛が夏の夜空に華々しい技を競いました。ですから、花火が上がるたびに叫ぶ「たまや!」「かぎや!」は、この玉屋、鍵塵から来ています。そして、最後に日は、「川じまい」という行事がありました。これが旧暦の八月二十八日で、今の暦では十月中旬です。
本来、都会の河川はレジャーの対象ではなく、水運の通路でした。ですから、川遊びの船が何艘も浮かんでいては邪魔になるので、期間が決められていたのでしょう。
 期間にしても、時間にしても、きちんと遊びと仕事のけじめが出来ていたようです。

投稿者 fujimori : 10:14 | コメント (4)