富と地位

人の欲望は、富だけに限りません。地位や役職なども欲しがることがあります。もちろん、その人の力を発揮することによって、結果的に与えられるものであればいいのですが、名ばかりを欲するはどうかと思います。また、その地位や役職に就くことによって、より社会に貢献できるのであれば、もちろん、それは必要ですが、その地位や役職のためにかえって何もしないようであれば意味がありません。また、その地位や役職は実践した結果であるのに、他人への見栄や威圧の材料にするのはどうかと思います。
論語の里仁篇にこんなことが書かれています。
「子曰、富与貴、是人之所欲也、不以其道、得之不処也、貧与賤、是人之所悪也、不以其道、得之不去也、君子去仁、悪乎成名、君子無終食之間違仁、造次必於是、顛沛必於是。」
 孔子がこう言いました。「財産や地位は、世間の人は欲しがるものである。しかし、それは正しい方法で手に入れたものでなければ、財産と地位を得たとしても心安らかには過ごせない。もし、それなりの理由も特にないのに貧しくなったのであれば、なにもその貧しさや身分の低さから逃れようとは思わない。君子でも仁の徳から離れて名誉など得ることが出来るだろうか。君子とは、食事をしているあいだでも仁の徳から離れることはないはずである。徳を備えた立派な君子は、もし忙しく、時間的に余裕がないときでさえ、仁の徳にしたがって行動し、もし何かにつまづいて転んだとしても、仁の徳を忘れることはないのだ。」
 孔子は、ただ、富や名声がいけないといっているわけでもなく、また、貧しく身分が低いことがいけないということではなく、どちらにしても、きちんと仁の徳を積む必要があると説いています。自分できちんと働き、それに見合う報酬を得ることは悪いことではありません。また、その努力が評価されて重要な地位に就くことも悪くありません。逆に、きちんと努力をしていながら、嫉妬や妬みなどで低い地位に落とされたり、貧乏になったのであれば何も恥じる事はないのです。どちらにしても、「仁」の実践を最優先事項におき、仁の徳を踏み外さないことが必要であり、他人を陥れて富や地位を築いても長続きせず、勤勉な努力、才能や高潔な人格といった正当な手段を用いて得た富や地位でなければ「真の幸福」は実感できないのです。
「子曰く、疎食を飯い 水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た その中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲のごとし」
孔子はこう言っています。「粗末な食事をして水を飲み、ひじを曲げてそれを枕にする。そんな生活の中にも楽しみは自然にあるものだ。いくら富や高い地位を得たところで、不当にそれを得たのであれば、自分にとっては浮雲のようにはかなく、実態を伴わないものだ。」
 バブル真っ盛りの石油産油国の大金持ちにしても、中国や韓国の格差社会での勝者といわれる金持ちにしても、その富がどうということではなく、どんな徳を積んでいるか、また、学問の道の楽しさを知らなければ、毎日は満ち足りたものにはならないような気がします。そろそろ、心の富と、わが志の道の向上を求める価値観に変えていく頃かもしれません。

富と地位” への6件のコメント

  1. 順調に進んでいるときには気づきにくいのですが、いざ困難な場面に出くわしたとき、自分のとってきた行動を振り返ってみると「仁の徳」が備わっていないと分かります。場面ごとにどんな感情で対処してきたか考えても、自分の感情が豊かに育っていないことを実感させられます。どんなときでも自分の一番の目的を見失わず、しっかりとした強い芯を持ち、変化に柔軟に対応できるできるよう、自分の志の道を地道に歩んでいかなければいけないと思います。

  2. 「富と地位」にこの人ほど固執しなかった人はいないと思うのは、幕末の薩摩の英雄西郷隆盛だと思います。先日、藤森先生が紹介された庄内藩の有志が残した「南州翁遺訓」には次のように書かれています、『命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬというような人は処理に困るものである。このような手に負えない大人物でなければ、国家の大きな仕事を大成することはできない。』これは西郷自身の生き方ですね。西郷のような人物が今一人でもいれば、日本の政治も少しは良くなるかもしれませんね。藤森先生のお話の中の「心の富と、わが志の道の向上を求める価値観」が人を幸せにしてくれることを大いに訴えたいですね。

  3.  私は今までクラブのキャプテンを二度ほど任されたことがありますが、なかなか難しかったです。その役職をさせてもらって私自身が何が変わったのかな?と今でも思います。ですが、今の職場での私の立場というのは、地位も役職でもなんでもありませんが、毎日がとても満たされていますし、自分の道を十分に向上できるものだと感じています。

  4. およそ平均寿命からすれば折り返し地点を曲がって久しくなる今日この頃、「富と地位」についてブログを読みながら敢えて考えると実に当たり前の話ではありますが現生に「富と地位」を得て死んだ後はどうするの?と思ってしまいます。子々孫々を営々として残したければ「富や地位」はないほうが良い場合もあります。私が関わる業界の団体にも「地位」に拘る人たちは多いですね。子どもや職員、あるいは地域のみなさんを「踏み台」にしてでも「地位」に拘る方々にお会いするととても嫌気がさします。客観的にあの世へのカウントダウンを意識し始めている今、会うべき人々と会い、「富や地位」に拘る人たちからは直感的でもいいから離れていたい、そんなことを考えました。

  5. 孔子の「正しい方法で手に入れたものでなければ、財産と地位を得たとしても心安らかには過ごせない」という言葉が印象的でした。よく、宝くじで高額当選した方が、数年後にはまた元と同じような生活に戻っているという話を耳にします。それは、そのお金を活用し、そこからお金を生産する能力が身に付いていないということになるのでしょうか。また過剰な地位や名誉を得たときというのは、その地位や名誉に相当する努力を怠れば、長期的な周囲からの指示は得られないのだと思います。そして、「きちんと努力をしていながら、嫉妬や妬みなどで低い地位に落とされたり、貧乏になったのであれば何も恥じる事はない」という言葉も心に残りました。恥じることはありません。

  6. 「粗末な食事をして水を飲み、ひじを曲げてそれを枕にする。そんな生活の中にも楽しみは自然にあるものだ」というのは沁みます。幸せとは自分の心持ち次第なのだということを感じるようです。地位や名誉を得たとしても満足のしない、満たされない思いを常に持っている人は終わりのない欲望に苦しんでしまうのかもしれませんね。人は幸せを追求しながら生きていくのかもしれません。「真の幸福」とありましたが、この「真の」という部分を間違ってしまうことが幸福への道を閉ざしてしまうことにもつながるのかもしれません。本当の意味での幸せとはなんなのかということに気がつくことが大切ですね。

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