紀州藩

 昨日の晩は、窓から見える景色は、「夏の思い出」の歌詞にも書いた「しゃくなげ色にたそがれる」がまさに再現したかのような夕焼けでした。このしゃくなげも熊野那智大社への参道で撮ったものです。
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 今、NHK大河ドラマで「篤姫」を放送しています。毎年、そのドラマにゆかりのある地を妻と訪れているのですが、まず、先日のブログで紹介した篤姫の墓所である上野寛永寺に行ってきました。今回訪れたのは、直接関係ないのですが、少し関係のある和歌山県です。篤姫が正妻として嫁いだのが、徳川13代将軍徳川家定ですが、その結婚に、実は次期将軍に一橋慶喜を押すようにという使命を斉彬から受けてきたのです。しかし、結局は、家茂に決まります。この家茂は、紀州藩主だったのを担ぎ出されたのです。
 和歌山県の旧国名は、紀伊半島の由来ともなった紀伊国(一部は三重県となっている)です。江戸時代は徳川御三家紀州徳川氏の領地(紀州藩)でした。御三家とは、徳川一門衆の中でも家康の九男・義直に始まる尾張家、十男・頼宣に始まる紀伊家、十一男・頼房に始まる水戸家の徳川三家のことを指し、江戸幕藩体制の下で特別な地位を与えられていました。しかし、その場所が私から見るとどうしてその地が選ばれたか不思議に思います。また、家康も、はじめからこの御三家を想定していたのでしょうか。どうも、家康はそうは思っていないで、五代・綱吉の時代まで紆余曲折の末に御三家の家格が成立したといわれています。
 では、どうして、紀州藩が御三家のひとつになったのでしょうか。
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紀伊国は関ヶ原の戦いの後、浅野幸長に与えられ浅野家の治める紀州藩(外様)が成立しました。1619年にその浅野氏が福島正則改易に伴い安芸国(広島藩)に移されると、これまで駿府藩主であった徳川家康の10男徳川頼宣が55万5千石で入封して紀州徳川家の治める紀州藩(親藩)が成立したのです。この頼宣については、ずいぶんと面白い憶測がされています。それは、かれは浪人を多く召抱えていたために将軍家に対する対抗心があるからではないかとか、由井正雪と関係があるのではないかと疑われましたが、その真意はよくわかりません。しかし、この紀州藩が一躍脚光を浴びるようになったのは、頼宣の孫である紀州藩5代藩主の吉宗が8代将軍に就任することになったからです。
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吉宗は、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれていますので、藩主となることも普通ではありえません。しかも、母親は紀州徳川家の召し使いでしたし、実家は、百姓の娘であったとも言われています。そこで、吉宗は、幼年は家老の元で育てられ、やがて城中へ引き取られます。しかし、長兄が死去、同年、父、やがて次兄の頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州藩第5代藩主に就任するのです。藩主就任後、藩政改革を行いますが、一方、第7代将軍・徳川家継がわずか8歳で亡くなり、徳川将軍家の血筋が途絶えた後を受け、御三家の中から家康に一番血統が近いという理由で、第8代将軍に就任します。その後、13代藩主慶福が11代将軍徳川家斉の孫でもあったため、14代将軍家茂となって、紀州藩主から出た2人目の将軍となるまで、将軍は全て紀州藩の系列になっています。
この吉宗にしても家茂にしても将軍になったいきさつをみると、人の人生というものはつくづくとわからないものなのだなあと思うと同時に、人生はそのように送るべくして送るのだという実感を持ちます。

紀州藩” への4件のコメント

  1.  旅行に行くときなど、私の場合は目的など詳細はあまり決めずに、いつも行き当たりばったりな感じです。先生のように大河ドラマのゆかりがある土地に訪れたりなど、目的を作って出かけるようにすれば、面白いと毎回思うのですが、なかなか難しいです。
     徳川家も代々将軍に任命するのも、なかなか苦労があったのですね。一番近い血統を選び、考えてもみなかった人物が将軍に任命されると選ばれた本人が一番驚きですね。急に日本の偉い人物になるのですから。今では、その時代みたいな、そこまで急な人生の変化というのはあり得ないかもしれませんが、本当に人の人生というのは、分からないものだと思いました。それに変化がある方が刺激があり楽しめる気もします。

  2. 紀州徳川家の祖、徳川頼宣は家康の十男ですか。調べてみたら、家康という人は、徳川の血筋を後世に残すために努力したんですね。正室、側室あわせて約20人。子供は、男が11人、女が5人、その他御落胤が約8人。これはあくまでも記録に残っているだけですが・・・。すごいですね。この辺がなかなか子に恵まれなかった豊臣秀吉とは違うところです。ところで、大河の「篤姫」もいよいよ将軍家にお輿入れになりますね。毎回、熱心に見ています。薩摩藩の人々が、標準語をしゃべっているのに違和感を感じますが、これはしょうがないですね。ネイティブの薩摩弁だと、他県の人のために字幕スーパーが必要になるでしょうから(笑)。島津家も徳川家と同じく、400年以上の歴史を持ち、明君を数多く輩出した日本の名家のひとつです。

  3. 徳川幕府の将軍の名前をこんなにたくさん見たのは久しぶりです。学校では将軍の順番と主な功績くらいしか習いませんでしたが、当然のことではありますがいろんなストーリーがありますね。テストには向かないかもしれませんが、こうした歴史に思いを馳せることも大切なことだと思います。そういえば「豊臣秀吉物語」などといった1人の人物の生涯を描いたマンガを図書館で借りてよく読んでいましたが、あれは面白かったです。急に思い出しました。
    今回のブログの最後の文章は考えさせられました。どこでどう転ぶか分からない人生ですが、どんな変化にも柔軟に対応できるかどうかは志の高さ次第だと思っています。送るべくして送るという実感はまだありませんが、志は高く持ち続け、何かの機会に振り返ってみてどう感じるか、楽しみにしておきます。

  4. 和歌山にはいつか行ってみたいですね。紀州の国には以前のコメントでも触れたように特別な思い入れがあります。何とか機会をつくって、と思っております。写真から和歌山を訪れた時の天気の良さが伺われます。青空の背景がとてもいいですね。少し暑かったかもしれません。兄たちの死去によって藩主となりやがて徳川幕府8代将軍となった徳川吉宗公はご自身の運の強さと同時に、その後の自らの子や孫を「御三卿」として将軍後継候補にするシステムを残すなど、その役割の大きさが伺われます。また御三卿の清水家から紀州徳川家の藩主となった父を持ちその後若くして藩主そして14代将軍となった家茂公は21歳の若さで遠征先の大阪城で薨去します。15代将軍が水戸徳川家の出自であるに対して8代から14代までが紀州徳川家の流れであることを振り返ると紀州徳川家の存在意義の大きさを思い知らされます。

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