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2008年05月31日 [近頃思うこと]
微生物
昨年5月に、NASAは、火星探査機フェニックスをその年の8月に打ち上げることを発表しました。このフェニックスは火星の北極に着陸し、探査機としては初めて北極の気象を調査すると同時に、特徴的な長い腕を使って表面の地層を掘り、その下にある水の氷を直接調べることに挑戦します。2002年にNASAの火星の上空から観測する探査機マーズ・オデッセイが、腕の深さほどのところに氷が眠っている証拠を見つけたので、「着陸して直接氷を調べたい」という機運が再び高まっていたからです。
1999年火星の南極を目指した探査機「マーズ・ポーラー・ランダー」は、着陸に失敗して、灰じんと帰してしまいました。ですから、今回の探査機は、「灰の中からよみがえった不死鳥」ということで、「フェニックス」と命名されました。
このフェニックスの打ち上げは、昨年8月4日に見事成功しました。そして、先日、米国東部時間25日午後7時53分(日本時間26日午前8時53分ごろ)に火星に無事着陸したというニュースが流れてきました。そして、着陸後に届いた初画像から、探査機は良好な状態にあることが確認されました。その周りは岩石の少ない地点であり、地表に氷は見られないようですが、今後地面を掘削する探査で、どんな映像が送られてくるか楽しみです。
私たちは、宇宙人というと、「火星人」を思い浮かべます。それは、火星が太陽系の8つの惑星のうちで太陽との距離、公転周期などで地球と最も似ているということと、火星上の多くの場所に、 大洪水や小さな河谷系を含む侵食作用の非常に明らかな証拠が存在しているからです。しかし、過去のある時期には、確かに水が地表面に存在していましたし、大きな湖や海洋さえあったかもしれないといわれています。しかし、地球と同様に、ほとんどすべての二酸化炭素は使い尽くされ、炭酸塩岩を形成しました。しかし、地球のようなプレートテクトニクスが存在しないので、火星はこの二酸化炭素を大気中へ戻すことができず、その結果、十分な温室効果を維持することができずに、現在では、気候があまりにも過酷で、地表面付近の平均気温は地球の13度に比べて大幅に低い氷点下53度ということもあって、科学者たちは、人類のような知的生命体が存在するとは考えてはいません。しかし、火星には、微生物のようなものかもしれませんが、水が凍りついた大型湖が存在し、生命体が存在する可能性がある、と判断しています。今回、それが少しわかるようになるかもしれません。
火星人といえば、イギリスの作家H・G・ウェルズが1898年に発表したSF小説「宇宙戦争(原題The War of the Worlds)」が思い出されます。20世紀の初めに火星人が地球に到来し、武力で侵略していきます。そして、地球は征服されますが、最後は、こんな終わり方をします。
いよいよ、人類は滅亡すると思われたとき、主人公は、火星人がみんな死んでいるのを見つけます。その火星人をやっつけたのは、人間の武器や策略ではなく、太古に造物主が創造した微生物だったのです。微生物に対する免疫がない火星人は、地球に襲来し、地球で呼吸し、飲食することによって、微生物によって死に至らしめられたのです。
火星人ではありませんが、微生物に対する免疫がなくなってきている最近の子どもたちは、大丈夫でしょうか。
投稿者 fujimori : 20:42 | コメント (4)
2008年05月30日 [近頃思うこと]
高校生
毎朝、駅ではティッシュを配っています。そのほとんどは、サラ金のものが多いのですが、今日は、いつもと違っていました。
明日は世界禁煙デーです。毎年、世界禁煙デーのイベントは盛んになります。そんなイベントの中で、世界保健機関(WHO)主催のたばこ対策に貢献した個人や団体を毎年表彰するというイベントがあります。その世界禁煙デー賞の特別賞を静岡市の高校1年大石悠太君が受賞し、今夜、マニラで授賞式が行われることになっています。
彼は、小学4年の時、周囲のたばこの煙でぜんそくになったことを契機に、たばこの害の自由研究を開始し、2005年11月には「歩きたばこは危険」「一番の問題は受動喫煙」として「歩きたばこ禁止条例」の制定を求め、集めた24000人近くの署名を静岡市議会に提出しました。それらの活動が認められたのです。
「最近の若者は、」という言葉をよく効きますが、ずいぶん高校生が活躍をしています。
今月15日、「Intel ISEF 2008」で日本代表が特別賞を受賞したというニュースが流れました。このイベントISEFは、1950年アメリカではじまり、1997年からはインテル社がスポンサーとなっている国際学生科学フェアです。米国ジョージア州アトランタで開催されているそのフェアで、日本代表の高校生が特別賞を受賞しました。牧野さんは、「アスピレーターによる簡易放電管の製作」という研究でプラズマ科学連合賞(1等賞)を、三浦君、井上さん、鈴木さんは、「実用的な自動合成写真作成アルゴリズムの設計と実装」という研究で、人工知能振興協会賞(2等賞)と国際計算機学会賞(4等賞)を受賞しました。
続いて16日の優秀賞表彰式では、日本代表の坂口さんは、「ショウジョウバエの幼虫は餌によって唾液分泌量を調節する」という研究で、動物科学部門で2位を受賞、吉村君、谷口君、清本君は、「微風時における高効率縦型風力発電用風車の研究―風向きに対応した縦型回転翼可変迎角制御の開発―」という研究で、共同研究/エネルギー・輸送部門で、2位を受賞しました。そして、三浦君、井上さん、鈴木さんは、「実用的な自動合成写真作成アルゴリズムの設計と実装」という研究で、共同研究/コンピューターサイエンス部門で4位を受賞しました。
日本では教育力が低下しているといわれていますが、日本人の受賞ラッシュを見ると、日本の高校生は世界でトップクラスの頭脳を有しているとも言えるようです。
環境に関することでも高校生が活躍しています。環境省が主催する「ストップ温暖化『一村一品』大作戦全国大会」が今年の2月初めに開かれました。その大会で、各都道府県から地域の特色を生かした地球温暖化防止の活動について、自治体や企業、学校、NPOなど様々な団体から発表されました。ストップ温暖化「一村一品」大作戦は、日本各地から地球温暖化防止の取り組みを集め、全国的な盛り上がりを作るためのプロジェクトです。この中で、今年、最優秀賞を受賞したのは、高校生でした。輸入木材でなく地元産材を使うことが木材の輸送距離(ウッドマイレージ)を短くし、CO2排出量を削減することに着目し、地元の木材を利用した家具や山小屋作りなどの『地産地消』活動が評価されての受賞でした。私が先日ブログで書いた、価格に輸送距離を勘案するようにということを木材に適応したものです。
どの年齢にも、立派な人もいますし、ひどい人もいるものです。年齢では人は判断できませんね。
投稿者 fujimori : 23:17 | コメント (4)
2008年05月29日 [講演先にて]
水争い
先日、東京では大雨が降りました。水が地面に吸い込めず園内にも流れ込んでしまいました。これから梅雨の季節になります。今年の梅雨は、どのくらい雨が降るのでしょうか。大雨になるか、空梅雨になるかで今年の夏の水不足かどうかが関係してきます。水不足になると、生活がかかっている人々がいるので、こんな贅沢なことは言えませんが、園では子どもたちのプールでの水遊びが制限されることもあるので、暑い夏だと気の毒になります。
昨年11月に、アメリカ南東部で、長引く干ばつの影響で深刻な水不足に見舞われたというニュースが流れました。住民たちはペットボトルの水を買いだめしたり、朝のシャワーに使った水を植物にやったりして節約していましたが、フロリダ、アラバマ、ジョージア州3州では、水争いがおき、死者まで出るような事態にまでなりました。
このような水争いは、どこの国でも昔からよくありました。今日、訪れていた岩手県でもあったようです。岩手県中南部に位置する胆江地方は、北上川が中央を流れ、西の奥羽山脈、東の北上高地にはさまれ、胆沢川流域の胆沢扇状地と北上川流域の沖積平野を中心に拓けました。北上川西岸の胆沢地方、東岸の江刺地方の頭文字を音読みして「胆江地方」と呼ばれ、今は合併して奥州市となっていますが、昔から肥沃な大地に支えられ、稲作が盛んでした。
しかし、胆沢平野はよく水不足に悩まされていたので、1570年、平野の北側に北郷茂井羅という人が私財をなげうって「茂井羅堰」を開削しました。一方、1631年に後藤寿庵とその弟子・千田左馬、遠藤大学が「寿庵堰」を完成させました。ともに水不足の住民のために胆沢川から水を引くという先人たちの努力によって生まれた利水事業でしたが、胆沢川の水の量が足りなかったことと、水を流すためにつくられたこの大きな二つの堰の水の取り入れ口が、それぞれ上、下流にあり、その場所が2キロメートルに満たない距離で隣りあっているため、受益農民はこの400年間、血を流すほどの水争いを繰り返してきました。
その争いを解決する方法として採用されたのが、「円筒分水工」です。
この円筒分水工は、施設を人の手で動かすことなく、上流から取り入れた用水を、円の角度の大きさによって、寿安堰・茂井羅堰の水の道(水路)に配分する理想的な分水方法です。この分水工は、国家事業を導入して、昭和34年に完成し、夢にまで見た取入口の一本化が実現したのです。その後、これが使われるようになってからは、用水の配分についての争いは全くなくなりました。
もちろん、人々は大変喜んで、この地を聖地と定めて、当時の総代、役員、職印らが樹木や岩石を献じ労力を奉仕して、後藤寿庵、北郷茂井羅、千田左馬、遠藤大学の碑を並べて合祀したのです。そして、その場所を徳水園という名の公園として、先人の遺徳を永遠にしのぶために、水に関する他の仕掛けも展示されています。
水争いは、もちろん生活がかかっており、命にまで関わってきます。しかし、農民たちは好きこのんで争いをしたのではありません。ただ争うだけでなく、双方がともに益を得るような方法を知恵によって見出した良い例です。
投稿者 fujimori : 22:25 | コメント (4)
2008年05月28日 [近頃思うこと]
座る
最近、畳の使用が減ってきたというのは、仕事や生活における姿勢が変わってきたということにもなります。それは、椅子に座っての仕事や生活が増えたということにもなります。子どもたちも、勉強するときに、寺子屋とか藩校など江戸時代までは、畳や板の間に正座をして座卓といわれる低い机で勉強をしていました。それが、明治維新後、外国の教育制度を取り入れて、兵隊の宿舎をモデルとして学校建築が建てられ、教室内は、椅子に座って、先生の話を聞く形態になっていったのです。それ以後、現在に至るまで、その形態は変わりません。
家庭でも、私が小さかった頃は、茶の間で、裁縫やアイロンがけなどをしている母親の傍で、ちゃぶ台の前に正座して本を読んだり、勉強をしたものでした。それが、中学校になることには、子ども部屋に、いわゆる勉強机の前に椅子に座って勉強をするようになりました。何年か前にザルツブルグにあるシュタイナー学校に行って授業参観したときにびっくりしましたが、小学1年生は、座卓を机として、床に座って授業していたのです。もちろん、日本のような正座ではありませんが、尻の下に布団ようような物を入れて、ちょっと立てひざのような格好でしたが、この方が勉強に集中できるようですし、立ち歩くようなことをしないようですので、日本でも見直してもいいかもしれませんね。
しかし、このような椅子に座る生活は大人の社会でも同じです。厚生労働省の「健康づくりのための年齢別・対象別身 体活動指針」の中では、労働も含めた生活のなかで身体を動かすことの全てを「身体活動」と捉え、座る時間と立つ時間は、五分五分であることを望ましいと しています。約8万時間と言われるオフィスワーカーの生涯労働時間の中でどのように行動するかによって、オフィスにおける作業能率もワーカーの健康も多大に影響 されるようです。
とくに、オフィスの仕事では限られた感覚のみを使用して作業を進めがちであり、これが精神的疲労を招きやすいといわれています。オフィスとは働くための場であり、そのた め、リラックスするための空間は軽視されやすいのですが、実は、仕事によってストレスを感じている人が、自らの能力を十分に発揮できるようになるためには、オフィスに もストレスを軽減させるような環境作りが求められるのです。そのような環境は、人間の五感の活性化やストレスの軽減は知的生産活動に大きな効果を与えるのです。
学校でも、最近姿勢のわるい子、上半身を背もたれにぐったりとあずけて座る「安楽姿勢」の子が増えているようです。このような姿勢では、背骨に沿っている大動脈が圧迫され、勉強の能率は上がりません。この安楽姿勢やその言葉の通り、脳からは「安楽しなさい」という指令が出るので、当然、勉強するときには不向きです。それだけでなく、姿勢が悪いと骨格・筋肉・内臓に、余計な負担がかかります。ですから、腰痛・肩こりなど、身体に悪影響が出てきます。正しい姿勢は、身体にかかる負担が少なく、内臓の働きもスムーズになります。また、背すじを伸ばすことで、全身に適度な緊張感がいきわたり、ゆるんだ筋肉を引き締めることができます。
椅子に座る生活が基本となっている現代社会では、椅座以外の姿勢と感覚刺激を加えることによって、ストレス軽減効果や作業効率も上がり、身体的にも負担が軽くなるようですので、たまには、床に座ったり、立ち歩いたり、様々な五感を刺激することを取り入れていけるような環境が必要なようです。
投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (4)
2008年05月27日 [近頃思うこと]
畳
5月24日の新聞に、需要が落ち込む畳の人気を盛り返そうと、全国畳産業振興会が畳の良さをアピールする「畳ビズのうた」を作成したというニュースが掲載されていました。今、秋葉原などで人気のあるメードが、イグサが部屋の空気をきれいにし、地球環境にやさしいと強調した歌にあわせて踊りながら畳をPRしています。なんでメードなのかわかりませんが、畳には癒し効果があるといいたいのか、畳のエプロンと畳のネコ耳姿の「畳メード」が、畳を作るしぐさで歌にあわせて踊る趣向です。しかし、メードを使ったのは、どうも「畳の世界へお帰りなさいませ」と呼びかけたいようです。企画した振興会によると、畳表の需要はフローリングに押され、93年に4500万畳だったのが昨年は1900万畳と半分以下に激減し、熊本が中心のイグサ生産農家も10分の1近くまで落ち込んでいるといいます。
私は、園に「障子」「すだれ」「あかり」など色々な日本文化の見直しを訴えていますが、「たたみ」も見直されていいかもしれません。
たたみの材料は、乾燥させた稲藁を強く圧縮して縫い止め、板状に加工するのが最も伝統的な製法で、これが藁床とか畳床呼ばれます。稲作の副産物として生じる稲藁を有効に活用したもので、適度な弾力性、高い保温性、この歌にあるように、室内の調湿作用や空気浄化作用など高い機能をもちます。
そして、この芯材になる板状の畳床の表面を畳表でくるみます。この畳表は、い草または七島いの茎を乾燥させて織ったござで、様々な織り方で織ったものが使われます。しかし、畳表は、年月が経つと擦り切れるため、定期的に畳からはがしてひっくり返したり(畳返し)、新たな物に張り替える(表替え)ことをしなければなりません。最近、畳床の材料の入手が困難であること、製造が難しいこと、重くて取り扱いが面倒であること、ダニ等の害虫が繁殖しやすいこと、カビが生えやすいこと、などの理由から新素材が利用される場合が多くなりました。よく使われているものでは、木材のチップを圧縮成形したインシュレーションボードや発泡ポリスチレンを単板あるいは積層させたもので、建材畳床、または化学床と呼ばれているものです。これは安く、軽く、階下への防音性能に優れていますが、踏み心地や通気性では藁床に及ばないと言われています。その点、畳表は畳床と異なり現在でも天然素材が一般的です。
畳は、畳床、畳表のほかにもうひとつ重要な部分があります。それは、畳表をくるむときに、畳表を止める為と装飾を兼ねて縁につけるのが、畳縁と呼ばれる帯状の布です。この畳縁は目立ちますので、色や柄で部屋の雰囲気が大きく変わります。延喜式では、階級により大きさや縁の色が定められていましたし、身分等によって利用できる畳縁に制限があったくらいです。
今週の日曜日に目白界隈を歩いているときに、畳屋を見つけました。その店内には、様々な畳縁が棚にびっしりと積まれていました。
そして、その畳縁で作った小銭入れと、畳表で作ったコースターとランチョンマットを、来月訪れるドイツへのお土産として購入しました。そして、自分用として、小さな畳の敷物と、それと同じ畳縁で作った小銭入れを買いました。
畳は、中国から伝播したものではなく、日本で発展してきた敷物で、既に古事記の中に「皮畳」、「絹畳」、「菅畳」の記述が見られるほか、正倉院には聖武天皇と皇后が使用した畳(薄い筵にい草の表が張られ、縁かがりがされているもの)が残されています。もっと、大切にしたいですね。
投稿者 fujimori : 23:26 | コメント (4)
2008年05月26日 [講演先にて]
広告2
土曜日に、成田で講演がありました。迎えに来た車を駐車した場所が成田山表参道の一番奥でしたので、そこに行くまでずっと参道を歩いて行きました。その参道に軒を連ねる飲食店のほとんどが「うなぎ」を出しています。そして、うなぎを店頭でさばいている老舗らしい店も何軒かあります。ですから、午後からの講演の前に昼食にうなぎを食べることにしました。こんなに成田にうなぎ屋があるのは、この地が利根川と印旗沼に挟まれていて、最近は取れないようですが、昭和初期の漁業暦には、一年を通して「うなぎ」が獲れたと記してあるように、昔はずいぶんとうなぎが取れたようです。
また、平成20年は、成田山開基1070年の勝縁の年に当たるということで、そののぼりがあちこちに立っていましたが、この成田山新勝寺への参詣客が増えていった元禄年間と、ちょうどうなぎを食べる習慣が広まったのと相まって、成田といえばうなぎということになっていったようです。
うなぎといえば、「土用の丑の日」を思い浮かべますが、その日は、土用の間で日の十二支が丑である日のことをさし、今年は7月24日と8月5日です。この日のことに関して、天野祐吉氏は、広告批評についてこんな例を出しています。
「放っておくと暴力になりかねないような広告が、消費者に役立つ面白いものであってほしい。そういうことを見張るジャーナリズムとして広告批評を創刊したわけです。当時はやはり『広告の批評なんて成り立たないだろう』『金をとってスポンサーがやっている仕事を批評するなんて意味がないんじゃないか』と言われました。でも、表現という部分をとれば、批評は成り立つわけです。例えば、うなぎをもっと売るために、平賀源内さんが『土用丑の日にうなぎを食べると夏バテしない』というアイデアを考えた。それはすごいクリエイティブでしょう。うなぎ屋さんの存在とは関係なく、それ自体がすばらしい表現なのかつまらないのかというのは批評の対象になり得るはず。そういうふうに僕は思っていたし、曲がりなりにも広告の批評が成立するんだなということを分かってもらえたことで、この雑誌の役割がかなり果たせたと思っているんです」
ここに出されている広告の例は、200年以上経った今でも、土用丑の日にうなぎを食べる習慣が継承されているということで、日本の広告史上に残る成功例としてよく取り上げられます。
江戸時代、商売がうまく行かない鰻屋が平賀源内の所に相談に行ったところ、源内は、「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という民間伝承からヒントを得て、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めました。すると、物知りとして有名な源内の言うことなら本当だろうということで、その鰻屋は大変繁盛したので、その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着したというものです。このように、平賀源内は「名コピーライター」としても才能を発揮したようです。他にも、歯磨きや餅菓子の宣伝文を書いた「引札」(チラシ広告の原形)が残っているそうです。
バレンタインの日にチョコを送る習慣にしても、丑の日にうなぎを食べる習慣も、広告のおかげというか、広告による大衆操作がうまくいった例かもしれません。それらの広告をきちんと批評できるようになりたいものです。
投稿者 fujimori : 23:18 | コメント (4)
2008年05月25日 [近頃思うこと]
広告
価格を、地球への負荷の度合いも考慮して決めるべきだと私は思いますが、もちろん、一番負荷をかけないのは、余りものを買わないことかもしれません。
先日、あるインタビューの中で、来年4月の30周年記念号を最後に休刊する広告ジャーナリズムの雑誌「広告批評」(マドラ出版)の主宰者である天野祐吉氏がこんなことを言っています。
「今は物を買い揃えることが豊かな時代じゃなくて、物を買わないことが豊かさへの道だという逆説が出てくるような時代ですからね。広告批評は20世紀という時代に対する批評行為をしていたメディア。21世紀になってちょうど変わり目を迎えたという感じがあります」
広告は、ある商品を買ってもらおうとしたり、ある施設を利用してもらおうとするための宣伝活動のひとつです。それは、様々な媒体を利用して行われます。いわゆる「マスメディア」といわれるものは、放送、新聞、雑誌などで、特に一番目にするのはテレビコマーシャルでしょう。そのほかにも、鉄道駅、鉄道、バス車両などいわゆる中吊り広告などや、町のたて看板とか、電柱などに貼られるポスターとか、直接送りつけるダイレクトメールなどがあります。高田馬場駅前では、よくチンドン屋がいますが、これもそうです。
最近、そのほかにも様々な方法が行われてきています。例えば、今までのメディアは、基本的には視覚やラジオなどの聴覚にに訴えるものですが、アメリカで面白い試みがありました。
今年の春から米オムニホテルは、スターバックス、米紙USA Todayと共同で嗅覚広告キャンペーンを始めています。このキャンペーンは米紙USA Todayの特別版で行なわれたのですが、この紙面に「一日の始まりを淹れたてのスターバックスコーヒーと…」というメッセージが印刷された特製ステッカーが貼ってあり、その紙をはがすと「オムニホテルの新鮮なマフィンで」という二番目のメッセージとともにブラックベリージャムの香りが流れる仕組みになっているそうです。
このように時代で広告業界はどんどん進化しています。という時代の中で、テレビCMを中心に急拡大したマスメディア広告を大衆文化として取り上げてきた「広告批評」が、テレビに代わり、ウェブ広告が広がる今、「このへんでひとつの区切りをつけたい」ということで休刊に踏み切ったのです。
最近急激に増えたウェブ広告とは、Webサイトに掲載される広告のことです。パソコンを開く人は、必ずなんどかは目にすると思いますが、横長の画像をページ上下などに掲載するバナー広告や、1行から数行の文を掲載するテキスト広告、広告ページが別のウインドウで自動的に開くポップアップ広告や、最近でFlashアニメーションや動画を掲載する広告も出てきました。また、その効果を高めるために、検索エンジンの検索語に関連した広告を選択して掲載する検索広告や、その応用で一般のWebページの内容に連動して広告が選択して掲載されるコンテンツ連動広告なども開発されています。バナー広告のように、そこから広告主のWebサイトにリンクするようになっており、実際に何人くらいがクリックしたかの回数に応じて課金する方法(クリック保証型)や、実際に成約に至った件数に対して課金する方法(成果保証型)など、様々な課金方法が生まれています。
広告の方法だけでなく、価格の決め方も最近大きく変化しているようです。
投稿者 fujimori : 22:04 | コメント (4)
2008年05月24日 [近頃思うこと]
価格
商品を買うときに、何を基準としますか?当然、欲しいものについての機能がそろっているかということが第一条件ですが、それが満たされているとしたら、その次に何を優先するかは、その人によってさまざまだと思います。好きなメーカーや、信頼できるメーカーのものを選ぶか、デザインのよいものを選ぶか、使いやすさで選ぶかさまざまでしょう。しかし、誰もが選ぶ観点として重視するものに、「価格」があります。
では、その商品の価格はどのように決められているのでしょうか。
まず、多くは、製造原価に対して一定水準の利益率を上乗せして販売価格を決定する方法で、「原価基準型」と言われている、最も基本的な価格設定があります。この方法はメーカー側の都合だけで価格が決定されるために、消費者側の価値観に合わない場合があります。しかし、たとえば保育用品などは、消費者が少なく、販売予定数が少ないので、割高な利益率が設定されています。
また、独自性に欠ける商品やサービスの場合には販売シェアのランクによって価格を決定しなければなりません。特に後発商品の場合は、今までのシェアに食い込まなければなりませんので、利益率というよりも、先発メーカーよりも低い価格設定をしなければなりません。最近の、携帯電話のソフトバンク参入の最初の頃は、そのような「競合意識型」という価格設定が行われていたような気がします。
そのほかに、たとえばブランド名の知名度で価格が決められている場合があります。その場合は、周りの人への見栄や、なんとなく高いものはいいものだという錯覚を利用して価格を割高に設定する場合があります。それから、ペットボトルや缶ものの飲み物は、ほぼ値段が統一されています。ですから、最初の頃は、コーヒーとお茶が同じ値段であることに抵抗がありました。
しかし、私が最近よく人に言うのですが、これからの価格設定の要素に、「地球への負荷」を入れて欲しい気がします。どのくらい地球に負荷をかけているかを計算して欲しいと思うのです。そのように計算すると、たとえば、労働力が安い外国からの輸入よりも、安全な国内産のほうが安い場合が多くなり、各国、自給率を高める方向を考えると思うのですが。そんな観点から、今月22日に、面白いニュースがイギリスで流れていました。
「マッカートニー氏、ハイブリッド車で批判受ける」というものです。
元ビートルズのポール・マッカートニー氏は、動物・環境保護活動家として知られる存在ですが、彼が所有するハイブリッド車が、日本から貨物輸送機で運ばれてきたことが明らかになり、環境団体らから批判が出ているというのです。この車は、トヨタの高級車部門、レクサスのLS 600hで、ツアーのスポンサーを務めるなど、ポールと深いかかわりを持つトヨタが彼にプレゼントしたものだそうです。ハイブリッド車であるので、環境に考慮しているのでいいのではないかと思ったのですが、実は、指摘されているのは、その車種の問題ではなく、その車の輸送の問題なのです。
自動車を空輸で日本から英国まで輸送すると、自動車で地球を6周するのと同程度の二酸化炭素を排出することになると非難されているのです。レクサスは焦らず、船を使って輸送すべきだったというのです。
世界中が、早くそのような考え方にならないかなあと思ってしまいました。
投稿者 fujimori : 22:00 | コメント (4)
2008年05月23日 [近頃思うこと]
富と地位
人の欲望は、富だけに限りません。地位や役職なども欲しがることがあります。もちろん、その人の力を発揮することによって、結果的に与えられるものであればいいのですが、名ばかりを欲するはどうかと思います。また、その地位や役職に就くことによって、より社会に貢献できるのであれば、もちろん、それは必要ですが、その地位や役職のためにかえって何もしないようであれば意味がありません。また、その地位や役職は実践した結果であるのに、他人への見栄や威圧の材料にするのはどうかと思います。
論語の里仁篇にこんなことが書かれています。
「子曰、富与貴、是人之所欲也、不以其道、得之不処也、貧与賤、是人之所悪也、不以其道、得之不去也、君子去仁、悪乎成名、君子無終食之間違仁、造次必於是、顛沛必於是。」
孔子がこう言いました。「財産や地位は、世間の人は欲しがるものである。しかし、それは正しい方法で手に入れたものでなければ、財産と地位を得たとしても心安らかには過ごせない。もし、それなりの理由も特にないのに貧しくなったのであれば、なにもその貧しさや身分の低さから逃れようとは思わない。君子でも仁の徳から離れて名誉など得ることが出来るだろうか。君子とは、食事をしているあいだでも仁の徳から離れることはないはずである。徳を備えた立派な君子は、もし忙しく、時間的に余裕がないときでさえ、仁の徳にしたがって行動し、もし何かにつまづいて転んだとしても、仁の徳を忘れることはないのだ。」
孔子は、ただ、富や名声がいけないといっているわけでもなく、また、貧しく身分が低いことがいけないということではなく、どちらにしても、きちんと仁の徳を積む必要があると説いています。自分できちんと働き、それに見合う報酬を得ることは悪いことではありません。また、その努力が評価されて重要な地位に就くことも悪くありません。逆に、きちんと努力をしていながら、嫉妬や妬みなどで低い地位に落とされたり、貧乏になったのであれば何も恥じる事はないのです。どちらにしても、「仁」の実践を最優先事項におき、仁の徳を踏み外さないことが必要であり、他人を陥れて富や地位を築いても長続きせず、勤勉な努力、才能や高潔な人格といった正当な手段を用いて得た富や地位でなければ「真の幸福」は実感できないのです。
「子曰く、疎食を飯い 水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た その中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲のごとし」
孔子はこう言っています。「粗末な食事をして水を飲み、ひじを曲げてそれを枕にする。そんな生活の中にも楽しみは自然にあるものだ。いくら富や高い地位を得たところで、不当にそれを得たのであれば、自分にとっては浮雲のようにはかなく、実態を伴わないものだ。」
バブル真っ盛りの石油産油国の大金持ちにしても、中国や韓国の格差社会での勝者といわれる金持ちにしても、その富がどうということではなく、どんな徳を積んでいるか、また、学問の道の楽しさを知らなければ、毎日は満ち足りたものにはならないような気がします。そろそろ、心の富と、わが志の道の向上を求める価値観に変えていく頃かもしれません。
投稿者 fujimori : 23:26 | コメント (4)
2008年05月22日 [近頃思うこと]
沸騰
教育は、どんな生き方をするのかということに関係します。先週、NHKテレビで放送されていた「沸騰都市」という番組を見て考えてしまいました。この番組では、シリーズで、グローバリズムによって国境の意味が薄れ、新たに世界の主役を担うのは、国ではなく「都市」の時代が到来したということで都市に焦点をあてています。そして、世界を主導してきた超大国のアメリカの力が揺らぎ、急成長する新興国が主役交代の鍵を握る中、世界の地殻変動の舞台となっているのが、様々なエネルギーせめぎ合いぐつぐつと煮えたぎる「沸騰都市」であるということで、欲望・混沌・競争・矛盾。激動する世界はどこへ向かうのかを問いかけています。
その第1回は、ドバイを取り上げています。「世界最大の空港、世界最大の人工島、怒涛のようにオイルマネーが降り注ぎ、それを元手にあらゆる分野で世界一を目指す中東ドバイ。極めつけは、高さ800メートル、160階建て、世界最高の高さを誇る超高層ビル・ブルジュドバイ。2009年中の完成を目指して、今建設が24時間体制で進んでいる。ドバイ政府は、ブルジュドバイをピラミッド以来のアラブ社会の権威の象徴と位置づけている。」
ここでは、石油産油国として有り余るお金にものをいわせて、世界が不況に苦しむ中、世界の建設現場からクレーンを根こそぎ奪い、バングラデシュやパキスタンから母国の数倍の給料で労働者をかき集めるドバイに群がる人々の欲望の物語が描かれています。
「子曰、君子食無求飽、居無求安、敏於事而愼於言、就有道而正焉、可謂好學也已矣」(論語 学而篇)
孔子はこう言っています。「君子は腹いっぱいに食べることを求めず、安楽な家に住むことを求めない。事を起こすときには敏速に、言葉は慎み深く慎重に、道理を身に付けた人に、自分の言動の善し悪しを進んで正してもらおうとするのであれば、学問を好むといえるだろうね」
人の欲望は際限がありません。しかし、余りに食に贅沢すぎることによって、かえって健康を害し、自分相応な生活をしないと、住宅ローンで苦しみ、サラリーローンの返済に負われ、決して豊かな生活を送ることにはならないのです。お金が豊富にあることが必ずしも人を幸せにすることにはならないのです。では、「貧乏で卑屈にならず、金持ちで驕慢にならないというのはどうでしょうか?」と、子貢が孔子に尋ねています。
「子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如、子曰、可也、未若貧時楽道、富而好礼者也、子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂与、子曰、賜也、始可与言詩已矣、告諸往而知来者也。」
孔子はこう答えています。「それもいいだろう。しかし、貧乏であっても学問を楽しむもののほうが優れ、金持ちでいくら慢心しなくても、礼を尊ぶものの方が優れている」それに対して、子貢はこう言いました。「詩経に『切るが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し』と[妥協せずに更に立派な価値のあるものにすること]と謳っているのは、ちょうどこのことを表しているのですね。」
この例は、四書五経の「詩経」の一句にある切磋琢磨という人格を練磨することをいっています。
ドバイのありあふれる金に群がる人々を見るにつけて、何が生きている証なのかを考えてしまいました。
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2008年05月21日 [近頃思うこと]
数値2
各国が教育に投資するのは、なぜでしょうか。義務教育という言いかたがあるように、子どもにとっては権利であり、大人は子どもに教育をする機会を与えなければなりません。ですから、ある意味で、教育は、社会保障的な側面がありました。それが、最近は、社会あるいは個人の投資としての側面が重視されてきたと文科省では分析しています。ですから、教育費の高さが、各国の教育に対する熱心さ(重視度)、あるいは教育投資の程度をあらわしているといえるとしても、教育投資の効率が分からないので、実質的な教育投資の程度を必ずしも反映しているとは限らないとしています。
しかし、昨年末、来年度の国の予算を見て「少子化なのに、なぜ教育予算が増えるのか」という疑問がぶつけられました。確かに、数字的に見ると、公立小中学校の児童生徒数は1989年度の1488万人から2005年度には1043万人まで30%も減っているのに引き換え、小中学校にかかる費用は8兆6299億円から9兆977億円となり、5%増になっています。これが、教育投資の増加と見るか難しいところですが、この教育費増加の最大の原因は、教員の給料のベースアップや平均年齢の上昇によるようです。少子化でおのずと教員の定数も減りますが、給料の自然増で1兆円規模の引き上げ要因になっているといいます。
しかし、少子化で子どもが半分になったからといって、かかる費用が半分になるのかというとそうではありません。一クラスの子どもが半分になったから、教師も半分になるわけでも、給料を半分にするわけにもいかないのです。また、電気を半日つければ言い訳ではないのです。逆に、教育費の公的負担が、年金、福祉など高齢者対策に比して高い国ほど出生率が高く、逆に高齢者対策のみが大きくなると子育てを逃れる者(フリーライダー)が増えて出生率が低くなるという点もデータで示されています。このように、とくに教育や福祉などでは単純にある箇所だけの数字に表せるものでもない部分が多くあります。
また、平成16年度版「教育指標の国際比較」によると、我が国の進学率は高い水準を示しています。義務教育後中等教育への進学率は、日本が全日制進学者で94.3パーセント、定時制・通信制(本科)及び専修学校(高等課程)への進学者を含めると97.6パーセント(2003年)にもなります。アメリカ合衆国88.6パーセント、イギリス71.4パーセント、フランス87.6パーセント、ドイツ83.8パーセントと比べると確かに我が国は高い水準を示しています。しかし、この数字が果たして高い教育水準になるのかというと首を傾げたくなります。こんな数字を上げるのは簡単です。フランスでは約41パーセントである大学進学率を上げるために、1980年代半ばから,バカロレア(大学入学資格)水準に到達する生徒を80パーセントにするという目標を掲げ,後期中等教育以降の拡大政策をとった結果,1990年代に入ってバカロレアの取得率が大幅に上昇し,現在,同一年齢人口の約6割になっています。それは、バカロレア取得者は,原則として無選抜で大学に入学できるとしたためです。
しかし、みんな大学までいけてよかったよかったということではないでしょう。どの世界でも量と質のバランスが大切です。
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2008年05月20日 [新聞記事より]
数値
物事を決めたり、判断するときにはきちんとしたデータや資料が必要です。印象や刷り込みで判断すべきではありません。しかし、その数字や資料がどのような意味を持つか、その読み取り方が大切です。
今日の新聞に、「文部科学省は19日、財務省が12日に発表した、国の教育支出の大幅増額は必要ないとする「反論」に対する「再反論」の文書をまとめた。」という記事が掲載されています。これは、文科省が、今年度から5年間の教育政策の財政目標を定める「教育振興基本計画」を提出した中に「教育投資の数値目標を対国内総生産(GDP)比で「5%」と明記するように」ということを求めています。その根拠として、現在の教育投資のGDP比が、経済協力開発機構(OECD)諸国の中で2番目に低いというデータからの提案です。
しかし、それに対して財務省は、生徒1人あたりなら、米英独仏の平均とほぼ同水準であるというデータを示し、数値目標の明記についても、「教育投資や教職員定数の『投入量』でなく、どのような子供に育って欲しいかという『成果』で設定すべきだ」と否定的な見解を示したのです。それに対して、また文科省から「成果の実現には一定の条件整備が必要で、そのための投入量目標も重要だ」と反論が出されたのです。
どちらのデータも正しいものでしょう。このようなデータの提出に際し、平成17年に文部科学省生涯学習政策局からこんなことが付け加えられています。「社会事象を数量的にとらえ,客観的なデータにより科学的に分析する指標を提供する統計調査は,教育面においても益々重要になっております」
このデータの中でこんな結果が分析されています。学校教育費の対GDP比を公的負担と私的負担の内訳で表したものの結果です。(ただし、塾、家庭教師などの学校教育以外の費用は含まれていない)
「韓国は私的負担の高さが2.8%と目立っており、これが合計の学校教育費での第3位に結びついている。韓国の場合、学校教育費の他に、塾や家庭教師の私的負担もこれに加えて大きいといわれる。米国は第2位であるが、韓国と同様、私的負担の割合が高い。米国、韓国と並んで、アイスランド、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンといった北欧諸国の学校教育費比率の高さが目立っている。これらの諸国の場合は公的負担がほとんどである。日本は第25位(調査対象国29カ国)と学校教育費の対GDP比の水準は低い。ただし、私的負担の比率は対GDP比で1.2%となっており、低くはない。逆に公的負担の比率は3.5%と低く、ギリシャを除いてOECD最下位となっている。最近では格差社会論などとの関連で、教育費の社会保障的な側面、すなわち貧乏人でも良い学校へ行けるという機会の平等が日本では失われてしまっている証左として、こうした学校教育費の公的負担割合の小ささがあげられることが多い」
このデータを見ると、確かに日本は先進国といいながら教育貧困と思わざるを得ません。また、先週号の週刊東洋経済の「子ども格差」の特集ではありませんが、公的負担の大きさは、教育格差を生んでいるように思いますし、それが社会に様々な問題を引き起こしている気がします。
もっと、違うデータで見てみようと思います。(つづく)
投稿者 fujimori : 21:41 | コメント (4)
2008年05月19日 [近頃思うこと]
花の美
花には、けなげに道端で咲く花や、色や形は地味ではありますが、野に咲く花に美しさを感じます。しかし、花はそれだけのことを人に与えるだけでなく、華やかさや、香りの強さ、色の鮮やかさからも美を感じていたのです。それは、多分にその花の咲く地域性があるかもしれません。日本のように湿気が多く、温帯でなければ、「わび・さび」は生まれなかったかもしれません。それに比べて、熱帯地方では情熱的で、開放的な花が咲くのです。
それは、その花への命名の由来からもわかります。ギリシア語の睾丸を意味する「ορχις (orchis)」を語源として、英語で「Orchid(オーキッド)」(医学用語で「精巣」「睾丸」)と名づけられた花が「蘭(ラン)」です。ランは、クルミヤシャクヤクとともに今日の5月19日の誕生花です。ランというのは、ラン科の種の総称です。こんな語源を持っていながら、花言葉は「美人」「気品・清純」です。
最初に蘭のブームが起こったのは、イギリスだといわれています。なんと、最初はその花の美しさからではなく、コケや地衣類などの植物を送る際に、厚手のしっかりとした葉を持つ植物をパッキング材料として使用したのが蘭だったのです。それを送られたイギリスの園芸家、ウィリアム・カトレイはその植物を育てたところ、それが非常に美しい大輪の花をつけ、当時のイギリス人たちをビックリさせたのです。その後、この花をこのカトレイにちなんでカトレアと命名されたのです。そして、その花の美しさや華やかさから貴族の間で蘭がブームとなったのです。
ランというのはラン科の総称ですので、当然日本にランの花はあります。そのランは、西洋ランに対して東洋蘭、日本の蘭と呼ばれました。そのランは、日本独特の観賞の仕方や価値観があり、日本独特の園芸文化として発展しました。江戸幕府を開いた徳川家康や11代家斉は、ランと深い関わりがあったと言われ、武家や公家など、特殊な層の人達に愛され、現在も古典園芸として受け継がれています。特に「駿河蘭」と呼ばれるものは、建蘭の別名で中国は福建省より、家康に献上されて、駿府に広がりました。また、富貴蘭は姿かたちだけでなく、芳香もあるので、多趣味の11代家斉は、趣味の1つとして楽しんでいて、大名や武家の間でも流行っていました。手の油が付かないように、「ホヤ」(貴金属の金網)をかぶせ、刀剣の作法のように口には懐紙をくわえて観賞したとされています。江戸時代から蘭展や品評会も催され、大関とか前頭など格付けして楽しんでいました。
また、東洋欄も既に江戸時代には分類されていて、当時「葉蘭」と呼ばれていました。我が国では、30年位前までは「蘭」と言えば東洋蘭や日本の蘭を思い浮かべる人が多かったのです。
それが蘭といえば洋ランの女王「カトレア」を思い浮かべます。もともとは、中南米原産で、コスタリカの国花です。また、フラワーギフトの王様といわれているのが、「胡蝶蘭(コチョウラン)」です。学名のファレノプシスは、花が蝶の舞っている姿に似ているところからつけられています。そういえば、日本では、サギの飛んでいる姿から付けられているサギソウも、ラン科の仲間です。
華やかさは、それ自体は決して評価の基準ではなく、懸命に遺伝子を残そうと咲いている姿なのです。
投稿者 fujimori : 23:46 | コメント (4)
2008年05月18日 [地域を知る]
那古野(なごや)
私の園は、新宿という新しい宿場の中で、川が落ち合う場所の川下のほうにあるという落合という所にあります。その場所の地名というのは、自然であったり、その地形であったり、人々の生活であったり、そんなものからつけられていることがあります。
それよりも意外と多いのは、その地方を治めていた豪族なり、大名なりの姓からとった場合があります。都内は、様々な藩主の江戸屋敷があったことから、その藩の名前や大名の名前を付けました。紀尾井町は、千代田区の西部に位置し、港区(赤坂・元赤坂)・新宿区(四谷)との区境にあたる町名ですが、昔も三つの境にありました。ここにはかつて、紀州徳川家上屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷があり、それぞれの家の文字を1文字ずつとって町名としています。
新潮社編「江戸東京物語」には東京の地名の由来が書かれています。大名から取ったものとして、例えば、「神田錦町」は、一色家のお屋敷が2つあったから、「有楽町」は、そこに織田信長の弟で、高名な茶人の織田有楽斎の屋敷があったからで、「一石橋」は、橋の両岸にそれぞれ後藤家があったからです。
また、「水道橋」は、神田上水の掛け樋を渡す橋がかかっていたからであり、「お茶の水」は、高林寺の境内の井戸から湧き出る水が、将軍のお茶の用水とされたからです。「八重洲」は、日本に漂着したオランダ船員ヤン・ヨーステンの屋敷があったのが、かつてのヤヨス(八重洲)河岸でした。「数奇屋橋」は、江戸城で茶礼、茶器をつかさどり、数奇屋坊主を総括する数奇屋役人の公宅があったからです。
昨日から保育学会参加のために来ている名古屋も、もともとは駿河の今川氏が一時尾張守護を兼ねていた時期に庶流の那古野氏が領有していたので「那古野」といわれていました。斯波氏が尾張を領有した後、今川氏親が拠点としたあと、織田信秀は今川氏豊を滅ぼして城を奪い、拠点を置いたのが「那古野城」といわれた城名です。しかし、信秀の後を継いでいた織田信長は、一族の織田信友を滅ぼして清須城に移ったため、那古野城は廃城となっていったのです。
その50年後、徳川家康がこの城の故地に目をつけ、名古屋城を築城するのです。この築城にあたっては、加藤清正を総指揮官とし、20名の諸大名が動員され、諸国から職人や土工たちが結集して作られていきます。
このときは、城下は空前の人出で埋め尽くされ、清洲城下の武士、町人たちも一挙に移住し、神社・仏閣までもが移築されます。これが世に有名な「清洲越し」です。
それに比べて、北海道の地名には面白いいわれがあります。今年の3月に発売された新書「アイヌ語地名で旅する北海道」北道邦彦著には、なかなか興味深いことが書かれています。北海道の地名の約8割がアイヌ語に由来するというので。それは、彼らの自然と調和した暮らしの知恵を学び、「環境とともに生きる」というエコライフを先取りした知恵がその地名から見えてくるといいます。たとえば、町名などにある留辺蘂(るべしべ)。「る」は道で、「べし」(ぺシ)は「~に沿って下のほうへ下る」、べ(ぺ)は「もの=川」という意味で、アイヌの交通路を示しているのだそうです。ほかにも、アイヌ語で、「魚のいっぱいいる川」とか、「底つるつるすべる川」とか、そういった生活に密着した地名がいまも生きているのです。
以前にも書きましたが、簡単に町名変更をしないでもらいたいものです。
投稿者 fujimori : 22:58 | コメント (4)
2008年05月17日 [近頃思うこと]
敬語と漢字
今朝早く、NHKテレビで、この人に会いたいという番組で新村出さんが出ていました。彼は、広辞苑の編纂者として知られています。その編集の際、新仮名遣いに反対し、「広辞苑」の前文を新仮名遣いでも旧仮名遣いでも同じになるように書いたことはよく知られています。
今回、どうして「敬語に関する具体的な指針の作成」及び「情報化時代に対応する漢字政策の在り方」について検討することになったかというと、敬語に関してはわかる気がします。最近学力として必要な力の第一に挙げられているのは、「コミュニケーション能力」であることは何度もブログでも書きました。また、少子社会での人との「関係性」が構築しにくくなっています。その中で、敬語は,日本の大切な文化として受け継がれてきたものであるとともに,社会生活における人々のコミュニケーションを円滑にし,人間関係を構築していく上で欠くことのできないものであるという認識に立って見直そうというものです。
確かにそうかもしれませんが、最近の若者の会話を見ていると、必ずしも敬語が円滑にしているのではなく、ため口のほうが円滑にしている感もあります。話し相手を敬う気持ちは大切ですし、自分をへりくだる気持ちも大切でしょう。しかし、乱暴な言葉や人を傷つけるような言葉はいやですが、尊敬されるような言葉はかえって馬鹿にされているような気がすることもありますし、あまり自分のへりくだるのも自尊感情が育っていないかと思ってしまうこともあります。敬語は大切な日本の文化かもしれませんが、昔のように「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の区別のようなことをただ暗記するようなことはやめて欲しいと思います。他人を大切に思う気持ちのほうをつけて欲しいと思います。
次に,情報化時代に対応する漢字政策の在り方について検討する趣旨は、「パソコンや携帯電話等の情報機器の急速な普及によって,人々の文字環境は大きく変化してきています。これらの情報機器には驚くほどの数の漢字が搭載されており,その結果,社会生活で目にする漢字の数も確実に増えているように感じられます。このような変化に伴って,人々の漢字使用にかかわる意識もどちらかと言えば,より多くの漢字を使いたいという方向に動きつつあるように見受けられます。」
これもそうかもしれません。確かに、自分で字を書くとなると、使う漢字は限界があります。それが、パソコンで打つとなると、変換する漢字はそのまま使いますので、自分が知っている漢字を使うというより、変換する漢字を使うというようになります。そういう意味では、パソコンや携帯電話で変換する漢字を見直す必要があるでしょう。そこで使われている漢字がどんどん増えていく反面、手書きをすることが少なくなると、書くことができる漢字の量はどんどん減ってきます。このままいくと、ますますこの格差は広がっていくでしょう。すると、学校で子どもたちが習う漢字をどれにするかなどの問題が出てきます。
国際化・情報化の進展、価値観の多様化、科学技術の進歩等の社会変化は,人々の言語生活や言葉遣いにも様々な影響を与えています。ぜひ、漢字だけの世界の狭い範囲で考えずに、社会全体としての答申を出して欲しいと思います。
投稿者 fujimori : 21:26 | コメント (4)
2008年05月16日 [近頃思うこと]
漢字
最近、文字などをパソコンに打ち込むときに、その読み方から打ち込んでいきます。ですから、漢字などの読み方はずいぶんとできるようになっていく反面、書くとなるとその漢字を思い出せなくなってしまっていることが多くあります。講演などでホワイトボードに書いて説明しようとするときに、簡単な漢字が思い出せず困ってしまうこともたびたびあります。また、相手の名前を書くときに、どんな漢字か説明を受けてもその漢字が思い出せなくて恥ずかしい思いをしたこともあります。私の名前の「司」を説明するときにも、「つかさどるという字です」と言っても相手はわかりにくいので、最近は「司会の司です」と言うことにしています。
文章をパソコンで打ち込むときに、その漢字の読み方がわからない場合は困ります。あれこれ思いつくままに打っても、その漢字が出てこないことがあります。そんなときには皆さんはどうしているのでしょうか。普通はそんなときには漢字辞書を使います。漢字を引くときには普通は読みかたから見つけるのですが、それがわからないときには、画数か、部首から引きます。パソコンでも、同様の手続きを踏みます。
下のほうにある「言語バー」の中の「IMEパッド」のボタンをクリックすると、メニューが表示されます。その表示されるメニューは、「手書き」「文字一覧」「ソフトキーボード」「総画数」「部首」があります。この総画数と部首から見つけたい漢字を探すのは漢字辞書と同じです。しかし、パソコンならではのもので、私がよく使うのは「手書き」です。白い面にマウスを使ってその文字を書くと、それらしい文字が表示されますので、その漢字を選んでクリックして表示をします。しかし、その場合は、文章をそのまま写すときで、詠み方はわかりません。
また、記号を入力するときは、「文字一覧」を選びます。その一覧から選ぶのですが、あまりに多くて大変なときには、画面上部のメニューにある「記号」「単位記号」「省略文字」を選んで探している記号を絞ります。
平成17年2月,文化審議会国語分科会から「国語分科会で今後取り組むべき課題について」の報告が出されました。その中で、問題の緊急性,重要性から見て,「敬語に関する具体的な指針の作成について」及び「情報化時代に対応する漢字政策の在り方について」の二つの課題を今後取り組むべき大事な課題であると指摘されました。そこで、3月30日に文部科学大臣からこの二つの課題について諮問し、平成19年2月2日に「敬語の指針」が文化審議会から答申されました。
そのあと、もうひとつの課題である「漢字政策」に取り組み始めています。その手始めとして13日付朝刊に掲載されていましたが、「常用漢字表見直し候補案」を文化審議会が公表しました。現在、常用漢字は、1945字あるそうですが、2006年までの3年間の出版物を調べて漢字の使われ方を分析した結果、使われる頻度が多く、「基本的に(新漢字表に)加える方向」の42字(「藤」「岡」「誰」「阪」「奈」「鹿」「熊」「韓」「脇」「鶴」など)や「基本的に加えるが、不要なものは落とす」150字(「鷹」「鍵」「翔」「鍋」「梨」など)など220字を常用漢字表に加える候補に挙げています。
情報化時代に対応するということで、常用漢字が増えるということは、漢字というものを考えるうえでとても興味深いと思います。
投稿者 fujimori : 22:53 | コメント (4)
2008年05月15日 [記念日]
旅
5月病ではありませんが、この時期に「メランコリー」になりそうなときに、喜多条忠作詞、吉田拓郎作曲で、梓みちよさんが歌った歌「メランコリー」にあるように「男はどこかへ 旅立てば それでなんとか 絵になるけれど」という歌詞があります。この時期には、旅に出たくなるのでしょうか。明日の5月16日は「旅の日」です。これは1988年に日本旅のペンクラブが制定したもので、松尾芭蕉の「奥の細道」への旅立ちを記念するものです。
出羽三山のブログで何回か松尾芭蕉を取り上げましたが、彼が「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」と言って江戸を出発したのは元禄2年(1689)の3月27日でした。この日を新暦に換算すると、この年は閏1月があったために2ヶ月もずれこんで5月16日になります。ですから、明日5月16日が出発した日になるのです。
奥の細道の出だしは有名ですが、出発のあたりの文章は知られていません。彼は、どんな気持ちで旅立って行ったのでしょうか。旅立った朝、こんなことを書いています。
「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の嶺幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。行春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。」
まだ空がほんのりと明るくなった朝早く、まだ空にある月がうっすらと富士を照らしているようです。まだ、この頃は江戸から富士が見えたようですが、同じように深川から見渡せる上野や谷中の桜は、もう二度と見ることはできないだろうかと心細くなっているようです。前の日から自分のことを思ってくれている弟子たちが集まり、一緒に千住までの船に乗り込んでくれたようですが、そこで船を下りた瞬間からどうも胸がいっぱいになったようです。そのときに気持ちを「幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と言っていますが、どうも夢心地でありながら、涙が止め処もなく流れ落ちてくるようです。
そして、どうも5月病と同じように、華やかに花が咲き誇り、暖かく希望に満ちた春が去っていくような気がするこの季節に、自分の気持ちを映すかのように、鳥までもわびしさで泣いているように聞こえ、魚も目に涙を光らせているように思われるもののようです。「行春や鳥啼魚の目は泪」と言う句を旅の初めとして足を踏み出したようですが、名残が尽きず、どうもなかなか踏ん切りがつかないようです。その頃の旅に出るというのは、終の別れをするようなものだったのでしょう。自分が旅立つのを、道に立ち並んで見送ってくれるだろうか、姿が見えなくなるまで見送ってくれるだろうかと心配をしています。ずいぶんと正直な人ですね。
江東区芭蕉記念館で9日、松尾芭蕉の生涯を描いた伝記紙芝居を、高木孝さんが上演したことが新聞に掲載されていました。高木さんは、芭蕉が病に苦しみながらも、俳諧の道を究めようと旅を続ける姿に感動して、「死を覚悟してまで俳句の道に身をささげた芭蕉のすごさを、若い世代に伝えたい」と子どもたちに上演を続けているようです。そして、その生き方から、「芭蕉は2400キロにも及ぶ道中を地道に歩いて大作を完成させた。子供たちにも、行動力や努力の大切さを学んでほしい」と言っています。
そんな芭蕉でも、奥の細道の旅立ちのあたりを読んでみると、かなり不安や名残惜しさがあったようで、その人間味になんだかホッとします。
投稿者 fujimori : 23:22 | コメント (4)
2008年05月14日 [近頃思うこと]
毒の花
町や野山の木々は、初夏に向けて華やかな花から、目にも鮮やかな新緑に覆われています。そんな草花の中には、その美しさだけではなく、食べられるものもあります。しかし、毒成分を持つ植物も多くあります。これを食べると、薬になることもありますが、死に至るような毒性の強いものもあります。今日の新聞にこんなニュースが流れていました。
「ポピーの花畑をつくろうと種をまき育ててみたら、ケシだった」というもので、茨城県下妻市で行われる「フラワーフェスティバル」会場に、法律で栽培が禁じられているアツミゲシがあることが13日分かり、市職員とボランティアら約100人があわてて手で抜き、焼却処分にしたということです。今の時期は、色々な公園でポピーが咲き乱れる花畑を見かけます。私の園でも、季節ごとにその季節の植物をモチーフにした手ぬぐいを玄関に飾っていますが、今の時期はポピーの花の絵が飾られています。
このポピーは、ケシ科の一年草で、ヒナゲシとか虞美人草とかシャーレイポピーとも呼ばれているものですが、ケシ科ケシ属に属する一年草の植物であるケシは、日本ではあへん法で栽培が原則禁止されている種に指定されており、厚生労働大臣の許可を得ないと栽培してはいけないことになっています。
他にもよく見かけるものでもかなり毒性のあるものがあります。トリカブトは有名ですが、他にも有毒植物が身近なもので200種類くらいあるといわれています。先日のブログで取り上げたミズバショウも、葉などの汁が肌に付くとかゆみや水ぶくれを起こすことがあり、根茎を服用すると吐き気や脈拍の低下、ひどい時には呼吸困難や心臓麻痺を引き起こす危険があります。これからの時期、可愛い花を付けるスズランもどの部分を食べても、嘔吐、頭痛、眩暈、心不全、血圧低下、心臓麻痺などの中毒症状を起こし、重症の場合は死に至ります。スズランを活けた水を飲んでも中毒を起こすことがあり、これらを誤飲して死亡した例もあるほどです。
今の時期盛んに花を付けているレンゲツツジも全木に痙攣毒があり、花や葉は呼吸停止を引き起こすこともあります。ですから、牛や馬にとっても有毒なため食べ残すので、よく牧場ではレンゲツツジの群生地になっていることも多いくらいです。よく花には蜜があるので、子どもが吸う場合がありますが、それは危険なようです。
夏に小学生がみんな育てるアサガオにも毒があるようです。朝顔の種を下剤や利尿剤として利用していたことが5世紀にまとめられた中国の本草書「神農本草経集註」に書かれていますし、漢方薬として奈良時代に日本に伝えられたと推定されています。
アサガオと同様、かんぴょうの材料として知られるユウガオの成長した実は、苦味が強いものがあり、食べて中毒となった事例があります。
そろそろ花が終わり実をつけ始めた梅の未熟な果実や種の中心の部分には毒成分があります。これからの時期、生の梅を買ってきて梅酒や梅干しを作りますが、子どもが食べないように十分注意する必要があります。
普通にあるものでもよく知られているものにジャガイモの芽がありますね。この部分をきちんと取り除かないと、中毒を起こします。また、市販されているものからは検出されていないようですが、モロヘイヤの種子にも強い毒成分が含まれていることがわかっています。
美しいもの、薬になるもの、毒になるもの、それぞれを見分けるにはきちんとした知識と、深く見る目が必要です。
投稿者 fujimori : 22:45 | コメント (4)
2008年05月13日 [近頃思うこと]
黒石
私は、最近いろいろなもので「黒い」色のものを見ると反応してしまいます。先日訪れた那智では、いたるところの看板に「那智黒」と書かれているのを見かけます。この黒いものはなんだろうかと思っていると、それは碁石をかたどった「黒あめ」でした。
この那智黒は、100年の伝統を受け継ぐ独自の製法で、昔ながらの味です。奄美群島徳之島で栽培された良質のサトウキビの絞り汁を直火で炊き上げているそうです。
では、この地でどうして「碁石」をかたどった黒いあめなのかというと、この地方で「那智黒石」という多量の炭素を含んだ黒色硅質頁岩が取れるからです。この石は、わが国でも屈指の銘石のひとつに数えられています。よく「試金石」という言葉が使われますが、この意味は、「金の品位、真贋を試すために用いた条痕板。俗に那智黒と呼ばれる黒く硬い石が使われ、これにすりつけて条痕を調べる。」ということで、現在では、人物や物事の真価を問うことになるような試練をさすようになっています。このように那智黒石は古くから、この試金石として最良のものだったのです。
熊野三山は、平安の末期、仏法が衰えて社会は乱れ、世は末世と考えられ、人々は争って西方浄土に往生することを願った末法思想が起こります。そして熊野詣が盛んになるのですが、そこに行ったという証として、その黒石をもって帰ったり、山脈に露出した熊野の山岳に似た黒石を掘り出し、持ち帰った石に往生の念仏を念じ、手ですりあわせ磨いているうちに光沢が出てくるので、そこに「極楽世界」を思い描いたようで、その石のことが人々の口から口へと伝言でつたわり、いつのまにか那智黒石と言われるようになったそうです。いま、那智黒石は碁石の黒石、硯、床置石、装飾品、那智黒成型品などに加工され、伝統的な工芸品として販売されています。
石というと宝石を思い浮かべますので、色や形がきれいなものが大切にされがちですが、もともと大切な石は黒い色をしていました。鉄鉱石と石炭を混ぜて加熱すると、鉄ができます。この鉄は、鉄器として古代から利用されていましたし、機械や建築を支えたのも鉄でしたし、現代においても、鉄やその化合物は、いまだに大量に使われています。
また、近代産業革命は、黒光りする鉄で作られた蒸気機関車と、その燃料であるやはり黒光りする石炭が主役でした。私が小学生のころ、教室のストーブのために石炭係が石炭を教室まで運んだのですが、そのときの黒光りは忘れられません。今でも石炭は産業上でも重要な位置を占め、エネルギー源としてだけでなく、化学原料としても使われています。このように鉄にしても石炭にしても黒い石は、ずっと昔から現代に至るまで、人間の文明を支えてきた存在といえます。
そのほかにも、魅力的な黒い石があります。それは、オブシディアン(黒曜石)です。この石は、火山の回りにある、天然ガラスでできた岩石で、色々な成分が混在しているため、黒色ないし灰黒色です。そして割ると鋭利な割れ目を得やすいので、先史時代から世界各地でナイフや矢じり、槍の穂先などの石器として長く使用され、日本でも後期旧石器時代から使われていました。そして、黒曜石は特定の産地からしか取れず、その成分的な特徴から古代の交易ルートが推測できます。
宝石は、綺麗な色だけではないのですね。
投稿者 fujimori : 20:24 | コメント (3)
2008年05月12日 [近頃思うこと]
五月の頃
花が一斉に開き、暖かい春も次第に初夏に向かいはじめ、学生も社会人も新しい環境での生活がほぼ一月経ちました。こんな季節に新しい生活が始まるのは心がうきうきとしそうなものですが、同じ状況を反対に考えると憂鬱になることがあります。楽しみだったゴールデンウイークも終わり、このあとしばらく祝日はありません。周りは忙しそうに動き回り、なんだか自分だけ置いていかれそうな気がします。また、せっかくなれて安定していた生活から新しい環境に移り、今まではなんとなく無我夢中で動いてきたのがそろそろ落ち着いて周りを見ると、この新しい環境がなんだか不安になります。そして、最近なんだか「やる気が出ない」「食欲がわかない」「なんだかむなしく感じ」、そして実際に頭痛がしたり、不眠症になったりするときがあります。
このような症状が大学に入りたての学生に5月頃に見られるようになり「五月病」として一般に知られるようになりました。それが近年では、学生の五月病は減っているようですが、それに代わって新社会人や子どもを初めて保育園などに入園させる保護者などに同様の症状が見られることが増えてきています。新社会人の場合は、新人研修などが終わって実際の仕事をはじめた後の6月頃に症状が出ることが多いため、新五月病または「六月病」と呼ばれはじめています。しかし、この五月病と六月病、どちらも医学用語ではなく、医学的には、「適応障害」と診断されます。新しい生活に夢中でいる間はいいのですが、ひと段落する5月・6月頃に、知らず知らずに蓄積されていた心身の疲れが出てきたり、新しい環境や人間関係についていけなかったりと、大きなストレスを貯め込んでしまうことが原因で、実際は、それが現れるのは何も5月・6月だけに限るわけではなく、人によって、夏休みを終えた9月頃に出ることもありますし、さらに職場環境が変わったときに起きることも多いようです。
しかし、泉谷しげるの歌「白雪姫の毒りんご」ではありませんが、「むなしい、むなしいとつぶやいても また明日もむなしいだけ」です。これらの症状は新しい環境にきちんと向き合い、きちんと真面目に対応しようとした結果であることが多いので、何も自分を責めることはないのです。まあ、「明日があるさ」的な気持ちで自分ながらの気分転換を図ったほうがよさそうです。
そんなグッズもネットで紹介されていました。
アロマや良い音楽など、気分をゆったりさせるもののほかに面白いものがいくつかあります。例えば、「叫びの壺」というのは、このツボに口を当てて叫ぶと、特殊な内部設計により、小さな声に変えてくれるので、言いたくても言えない、人に聞かれてはいけない…そういったことを大声で叫んですべてを吐き出してしまおうというものです。また、「ムゲンプチプチ」というのは、シート状緩衝材の気泡をプチプチとつぶすと、スピーカーが内蔵されていて、つぶすときの音も再現してくれます。「パワータワー」は、本体に空気を入れ、台座に水などを注入して重しにするタイプのボクササイズ・トイで、ストレス源を思い浮かべながら連打して汗をかけば、心も体もスッキリするというものです。そのほかに高い防水性能をもつポータブルDVDプレーヤーで、風呂で映画を見るとか、お札を模した入浴剤を湯船に散らし入れれば、お札に囲まれて風呂には入れるなどさまざまです。
人によって解消方法は違いますので、自分なりの解消方法を見つけることが大切でしょうね。
投稿者 fujimori : 23:28 | コメント (4)
2008年05月11日 [近頃思うこと]
名刺
人から名刺をもらうことがありますが、それは自分の情報を相手に伝え、その情報を覚えてもらい、後で必要なときにその情報を振り返ることができるための手段です。ですから、そのために何の情報を伝えたいかを名刺に書きます。また逆に受け取る立場として欲しい情報があります。まず、名前です。そのときに思うことがあります。その名前を音だけで聞いているときに漢字でどう書くかを知りたいときがあります。それを、ローマ字だけやひらがなだけで表記されていると、後でその人に連絡をするときに困ってしまうことがあります。また、その漢字の名前の読み方を知りたいときもあります。特殊な漢字の読み方をする人は特にそう思います。耳からだけ聞くのと、きちんと文字から見るのと違っていることがあるからです。
次に、特に相手が会社員の場合は、役職が必要なことがあります。どのような部や課に属し、どのような役職の人であるかが必要なことがあります。そのときに、たまにそれを知らせるというよりも、こんなに役職についているのだということを知らせようといくつも書き並べている人がいますが、すごいなあと思うことはあるかもしれませんが、付き合う上での役職だけで私はいいのにと思うことがあります。
そして住所・電話番号ですが、この場合は、連絡をするときに必要です。しかし、住所の場合は、手紙を出すときに必要ですが、最近はなかなか手紙を出して連絡することは少なくなってきました。しかし、住所を書くことでいる場所がわかってしまい、いたずらなどの危険があることから、最近住所を書かなくなってきました。電話番号の場合は、まだまだ連絡をすることがあるので必要ですが、固定電話ではその場所にいつもいるとは限りませんし、もし相手が個人の場合は、携帯電話にすることのほうが多いので、最近は携帯電話番号を書く人が増えつつあります。しかし、私などは最近連絡をするのに、手紙でも電話でもなく、メールでの連絡のほうが助かります。携帯電話ですと、どこにいようが連絡がつくのはいいのですが、こちらが出ることができない場合があり、メールですと、受け手の都合のよいときに見ることが出来ますし、連絡内容が文字で残るので忘れたり、言った言わないでもめることが少なくなります。そういう人が増えてきたのか、メールアドレスを名刺に書く人が増えてきました。
このメールアドレスの真ん中に記号@(アットマーク)が必ず入っています。これは、アットマークをはさんで、左側が名前や略称、番号などのユーザー名、右側が契約しているプロバイダーや所属する組織などのホスト名となっていて、アドレスのユーザー名とホスト名の区切りに使われている記号です。
この@は、英語の”at”ではなくラテン語の”ad”からデザインされたものだそうです。”ad”は英語で言えば”at”や”to”を意味する接頭語で、addressの”ad”などに使われています。もともとは会計や、納品書や請求書等の単価を指すマークで、@$3とは、単価3ドルということです。それが「ユーザ名」という人が「ホスト名」という場所にいる、という意味に使い、電子メールのメールアドレスの中に用いられるようになりました。アットマークという呼び方は、日本における通称で、英語では俗にat sign、at symbolあるいは単にatなどと呼ばれ、そのほか国によって様々な呼び方があるようです。
象形文字ではありませんが、こうして新しい記号ができていくのですね。
投稿者 fujimori : 21:06 | コメント (4)
2008年05月10日 [近頃思うこと]
折り紙2
日本の折り紙は「儀礼折り紙」と「遊戯折り紙」の2種類があります。「紙」という漢字は、もともと絹で作った書写材料を指していたようです。日本語では、「紙」の語源は「樺」とも「簡」ともいわれています。樺の樹皮も、木簡や竹簡も、どちらもそこに書くためのものであり、折るという発想はなかったようです。それが、紙を折りたたむようになったのは、たぶん、紙を使って物を包むようになったからのような気がします。例えば、今日では、帖紙・畳紙といって着物などを包むのに使いますが、平安時代から懐紙や化粧道具などを包むために紙を四角に畳んだのです。また、最近、紙で「垂」「幣束」「形代」などのようにひとがたを作りますが、これらも、もともとは紙で作っていたのではなかったようです。
そんなことを考えると、遊戯折り紙が見られるようになったのは、江戸時代からのようで、浮世絵や、その時代の着物柄に、「折り鶴」や「奴さん」のような折り紙が、描かれています。しかし、その時代に出版された世界最古の折り紙文献といわれている「秘傳千羽鶴折形」は、大人向けに書かれており、今のように子どもの遊戯ではなかったようです。
それが、19世紀の中頃、フリードリッヒ・フレーベルが世界最初の幼稚園を作ったときに、その教育法のなかに、「手技」と呼ばれている遊戯がありますが、その手技の一つが折り紙でした。そのなかは「物品科」「美麗科」「知識科」という三つの範疇に分かれています。普通の折り紙は物品科で扱われ、座布団折りから対称的な模様を折るのは、美麗科で、知識科の折り紙では、簡単な幾何学を教えました。その幼児教育法が日本に取り入れられた際、ヨーロッパの古典折り紙も移入されたのです。反対に、欧米の幼稚園では、日本の古典折り紙を取り入れました。そのときの折り紙のレパートリーが、今日まで伝えられ、伝承折り紙の核になっています。
同時に紙の材質、形が変わってきます。日本では、和紙などを使っていましたが、フレーベル式の折り紙が入ってくることで、片面に色が塗られた正方形の洋紙という形式の折り紙用紙が作られるきっかけになりました。また、「折り紙」という言葉は、「折る」と「紙」とが合わさった言葉であるように、折り紙とは、紙を折ることによって成り立ち、一枚の正方形の紙を糊もはさみも使わずに折るというルールがなんとなくできています。そして、正方形の折り紙用紙さえあれば、ほかに糊など何の道具も使わずにできることが、折り紙の特徴であるともいうことがあります。
しかし、それは大人の世界であり、伝承折り紙の世界であって、子どもは、紙を使って様々な造形活動をすることでいいのではないかと思います。折ったり、切ったり、貼ったり、つないだり、そして創造的にいろいろなものを作り、表現していけばいいと思います。
折り紙は、基本形を折って、それを広げたときの、折り目の位置を示した図を、展開図といいます。いわゆる、図面でいう展開図と同じです。園に、正多面体の展開図が貼られています。その中の正6面体の展開図をある子が真似をして書き写し、さいころを作りました。それを何人かが作っているうちに、そのある面を長くして直方体を作り出しました。そして、それを電車に見立て数日間電車を作るのがはやりました。そのうちにある面を傾斜にしてみた子がいて、新幹線になりました。

それを見た私は感動してその作品を欲しがったので、競ってみんな作り始め、ついに展開図から車を作って私にくれた子がいました。子どもの想像力と、その製作意欲にまたまた感動してしまいました。
投稿者 fujimori : 20:49 | コメント (4)
2008年05月09日 [近頃思うこと]
折り紙
昨日、ある保育業者の展示会に行きました。そこで質問されたのは、「最近、園では折り紙を使っているのですか?どのように使っているのですか?」という質問でした。その業者は、もともと和紙などの紙の販売が特徴的でしたので、私の園では、以前は色紙といえば、その色彩などからその業者から購入していました。それが、最近園では使わなくなってきているそうです。ある園で折り紙を折らせている場面を見ていた人がびっくりしたそうです。それは、全員に折り紙を渡して、前で先生が折りかたの指導をします。まず、二つに折って、はい、いち!」「折りましたか?次にここを折って!はい、に!」と号令をかけながら折らせていたそうです。
昨日の質問に対して、私が答えたのは、「私の園では、折り紙指導は特にしません」「やはり、そうですか。どおりで、使わなくなってきているのですね」と言われたので、「いや、折り紙を棚にしまってあって、子どもたちはいつでもそこから出して使えるようにしてあるのですよ。折り紙は、とても子どもには人気がある教材です」と答えると、「では、どんどん無駄に使ってしまうでしょうね」「いや、人気があるということは、それを大切にするということです」と答えました。
先日、新聞に昨夏ニューヨークで教室を開いた小宮さんを訪ねました報告が掲載されていました。小宮さんは、35年のキャリアが支える熟達の技を更に広めるために海外で教室を開いています。
「折り紙との出合いは、保育園時代にまでさかのぼるんですよ」と言います。さらに、「折り紙で小さい頃から当たり前に鶴ややっこさんを折る日本人にとっては、折り紙は特に目新しいものではありません。しかし、考えてもみてください。平面が立体に仕上がるというのは、劇的な変化です。海外ではORIGAMIというローマ字で知られるようになりましたが、それでもまわりで見ている多くの人たちが、目の前で折る僕の様子を見ながら『魔法のようだ』と驚嘆します。折り紙って、本当にすばらしいコミュニケーションの道具なんですよ」「折り紙は『幾何学』です。とても面白い。大人の方にこそ、ユニークで、深遠な折り紙の世界を味わってほしいと強く思いますね」
私も、若い頃にカナダに行った時に、宿泊先の近くの小学校に一人で行って、中学年の子どもたちと触れ合うときに全員に折鶴の折り方を指導したことがありました。まず、対角線で二つに折ります。そこまでだけでも、なかなか上手に折りたためません。全員のところを回って何とか折らせたところ、子どもたちはその折ったところを手に持って、ヒラヒラさせながら、「鶴だ!鶴だ!」と喜んでいるのです。そのあと折っていくなど夢の夢とあきらめて、自分だけで折って仕上がりを見せたところ、みんなびっくりして感動していました。そのときに、カナダの子どもたちはなんて不器用なのだと思ったものでした。
だからと言って、必ずしも折り紙は日本のものとは限りません。例えば、ヨーロッパでは、スペイン語でパハリータ、フランス語でココットと呼ばれる折り紙が代表的ですし、また、洋食のときに折られているナプキンも、広い意味で言うと折り紙の一種です。それに似たようなものとして日本では、熨斗などの儀礼折り紙(または礼法折り紙)というのがあります。
ヨーロッパの折り紙は、フリードリヒ・フレーベルの幼児教育法に取り入れられ、日本の開国にともない日本に伝わりました。それが、日本の古典折り紙とどのように融合していったのでしょうか。
投稿者 fujimori : 22:27 | コメント (4)
2008年05月08日 [近頃思うこと]
PB
最近、いろいろなものの物価が上がり、家計を圧迫していることが話題になっています。一方、日本人は、世界ではブランド好きということで有名ですが、最近は銀座などでブランド商品を買いあさっているのは、韓国とか中国の人が多く、その姿を見るたびに、かつての日本人の姿を見る気がします。しかし、若い人にはやはりブランド品に人気があります。このようなメーカーが独自に掲げるブランドは、「ナショナルブランド」と呼びます。
それに対して、最近注目を浴びているブランドに、ナショナルブランドの対義語として「プライベートブランド」というのがあります。これは、小売店(グループ)独自のブランド(商標)で販売される、その小売店(グループ)の専用商品のことをいいます。これは、PBと略され、別名「ストアブランド」、日本語では「自主企画商品」と和訳されます。
今年の2月の「夕刊フジ」に、このプライベートブランドに関する記事が掲載されていました。
「天気も財布もお寒いこの冬。食品などの値上げラッシュも家計を直撃している。そんななか、消費者として覚えておきたいのが、スーパーのプライベートブランド(PB)。メーカー提供のナショナルブランド(NB)と同品質のものが安く購入できるとあって人気だ。」この記事の中では、価格の比較が掲載されています。PBは、小売業であるスーパーが、メーカーと共同開発して作られる。計画的な生産量が確保され、中間マージンも抑えられ、広告・宣伝費をかけないことにより割安な価格を実現しているのです。
例えば、「使う側の論理」で検討し、PBとして商品化している」というのはダイエーです。同社の第1号のPB「ダイエーインスタントコーヒー」からはじめて、現在では、ダイエーのPBでは、「セービング」のうち60品目を今年1月に値下げし、売上高は前年比約125%になり、今年3月には、「セービング」をイオンと共同開発する「トップバリュ」に切り替え、その「トップバリュ」も、売り上げ全体が伸びているようです。現在、経済性ブランド「セービング」(631品目)、食品の付加価値ブランド「おいしくたべたい!」(186品目)、生活用品の付加価値ブランド「サリブ」(213品目)など展開中です
一方、セブン&アイ・ホールディングスでも、昨年5月に「セブンプレミアム」というPBで新たに展開しはじめました。「グループ企業の情報量や物流量を集結することで、非常にコストメリットが出やすい」と傘下のイトーヨーカドーも、この商品を扱っていますし、生活協同組合連合会コープネットでも、PBは4428品目。コープPBの5食入りラーメン(しょうゆ、しお、みそ各178円)の売り上げが大きく伸びています。西友では、食品や日用品まで提供する「GreatValue(グレートバリュー)」などがあります。「無印良品」も、もともとは西友のPBでした。
先日の新聞にも、大手メーカー製の知名度の高いナショナルブランド(NB)に比べプライベートブランドのほうが1~3割ほど安いことが受けて、スーパー最大手、イオンの08年2月期の売上高は単体で前年比5.5%増で、そのうちPB商品は20%伸びたと書かれていました。
すでに欧米ではこのトレンドが無視できないものになっています。米国のスーパー業界ではすでに20%、ドイツでは29%、ベルギーでは36%、英国では実に45%がプライベートブランドのシェアだそうです。
時代によって、ものの売り方も変わってきますね。
投稿者 fujimori : 23:50 | コメント (4)
2008年05月07日 [近頃思うこと]
耳
最近ホテルなどに行くと必ずあるのが「エステ」です。それが、旅館に行くと「マッサージ」を頼む人がいます。私はあまり肩が凝らないので頼むことはありませんが、「マーサージ」や、いわゆる「按摩」は気もちがいいものなのでしょうね。もちろん、エステもしたことがありませんが、最近は男性でも多いようですが、日本でエステティックが初めて認知されたのは、1980年頃のことだそうです。もちろん、最初は女性対象だったのです。と言うのも、そもそも発祥は、フランスです。18世紀のマリー・アントワネットの時代のフランスでは、牛乳風呂に入ったり、植物の香りを使ってみたり、化粧品を使った美容が、お付の人によって行われていました。しかし、それ以前から、たぶんアロマやハーブ、中国の漢方などで「美しくなりたい」と思う女性の願望はあったでしょう。「エステ=美と健康を追求するところ」という定義からすると、人類にとっては永遠の課題なのでしょう。
それが、最近少し変わってきたようです。エステ発祥の地であるフランスでは、最近は、リラクゼーションのニーズが多いそうです。そして、東洋医学が注目され、アロマテラピーのような体内治癒力を高めることを目的としたトリートメントが話題になっています。ストレス社会と言われる現代では、日本も、ヒーリングとしての役割が大きくなってきたようです。
通勤途中に、「エステで癒やす」というのぼり旗がはためいています。それは、「耳エステ」です。「ミミカキスト」が、至福の体験を与えてくれるようです。東京・南青山にある「イヤーエステ」の店では、利用客は20歳代から80歳代まで幅広く、男性も4割ほどを占めるといいます。なんだか、私は、ただ耳の中を掃除してくれるだけにお金を払う気にはなりませんが、どうも耳の中を掃除するだけではないようです。コースは様々あるようですが、例えば、70分コースでは、まずは蒸しタオルを当て、ジェルを使ったマッサージを施し、血行をよくし、緊張をほぐしてから、耳のふち、耳たぶ、耳の中と、細いカミソリを小刻みに動かして産毛をそってくれます。それからやっと耳かきです。またこれが凄いようです。先が平たいもの、細いものなど約10種の耳かきを使い分けて耳あかをかき出し、綿でくすぐるようにゴミを払い、さらに化粧水をしみこませた綿で耳の中をぬぐい、耳から目、ほお、おでこ、肩までのツボを丹念にマッサージしてくれます。このコースで料金は8400円だそうです。これは、高いのか、安いのかわかりませんが、はやっているところをみると、ただ綺麗にするというよりも、かなり心の癒し効果があるのでしょうね。
そういえば、私も子どものころは、母親の膝枕でいつも耳掃除をしてもらっていましたし、わが子にもしていました。わが子は、かなり大きくなるまで、耳掃除をせがんできたのも、癒し効果があったのでしょう。
欧米人に湿性の耳あかが多いのに対し、日本人は乾性の耳あかが多いので、江戸時代には、耳かきの機能を備えたかんざしがブームとなり、「耳かき屋」も存在していたようです。
本来は、週に1回、ウエットティッシュで入り口を拭くくらいで十分だそうです。そもそも耳アカは耳の穴の皮膚を覆って守っているものなので、少しあるくらいの状態のほうがよく、またカサカサの耳アカの場合、自然とはがれ落ちて外へ出ていくものなので、無理に掃除をすることはないそうです。
子どもには、きれいにしようと思うよりは、癒し効果を与えてあげたほうがいいようですね。
投稿者 fujimori : 23:31 | コメント (4)
2008年05月06日 [旅先にて]
紀州藩
昨日の晩は、窓から見える景色は、「夏の思い出」の歌詞にも書いた「しゃくなげ色にたそがれる」がまさに再現したかのような夕焼けでした。このしゃくなげも熊野那智大社への参道で撮ったものです。

今、NHK大河ドラマで「篤姫」を放送しています。毎年、そのドラマにゆかりのある地を妻と訪れているのですが、まず、先日のブログで紹介した篤姫の墓所である上野寛永寺に行ってきました。今回訪れたのは、直接関係ないのですが、少し関係のある和歌山県です。篤姫が正妻として嫁いだのが、徳川13代将軍徳川家定ですが、その結婚に、実は次期将軍に一橋慶喜を押すようにという使命を斉彬から受けてきたのです。しかし、結局は、家茂に決まります。この家茂は、紀州藩主だったのを担ぎ出されたのです。
和歌山県の旧国名は、紀伊半島の由来ともなった紀伊国(一部は三重県となっている)です。江戸時代は徳川御三家紀州徳川氏の領地(紀州藩)でした。御三家とは、徳川一門衆の中でも家康の九男・義直に始まる尾張家、十男・頼宣に始まる紀伊家、十一男・頼房に始まる水戸家の徳川三家のことを指し、江戸幕藩体制の下で特別な地位を与えられていました。しかし、その場所が私から見るとどうしてその地が選ばれたか不思議に思います。また、家康も、はじめからこの御三家を想定していたのでしょうか。どうも、家康はそうは思っていないで、五代・綱吉の時代まで紆余曲折の末に御三家の家格が成立したといわれています。
では、どうして、紀州藩が御三家のひとつになったのでしょうか。
紀伊国は関ヶ原の戦いの後、浅野幸長に与えられ浅野家の治める紀州藩(外様)が成立しました。1619年にその浅野氏が福島正則改易に伴い安芸国(広島藩)に移されると、これまで駿府藩主であった徳川家康の10男徳川頼宣が55万5千石で入封して紀州徳川家の治める紀州藩(親藩)が成立したのです。この頼宣については、ずいぶんと面白い憶測がされています。それは、かれは浪人を多く召抱えていたために将軍家に対する対抗心があるからではないかとか、由井正雪と関係があるのではないかと疑われましたが、その真意はよくわかりません。しかし、この紀州藩が一躍脚光を浴びるようになったのは、頼宣の孫である紀州藩5代藩主の吉宗が8代将軍に就任することになったからです。
吉宗は、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれていますので、藩主となることも普通ではありえません。しかも、母親は紀州徳川家の召し使いでしたし、実家は、百姓の娘であったとも言われています。そこで、吉宗は、幼年は家老の元で育てられ、やがて城中へ引き取られます。しかし、長兄が死去、同年、父、やがて次兄の頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州藩第5代藩主に就任するのです。藩主就任後、藩政改革を行いますが、一方、第7代将軍・徳川家継がわずか8歳で亡くなり、徳川将軍家の血筋が途絶えた後を受け、御三家の中から家康に一番血統が近いという理由で、第8代将軍に就任します。その後、13代藩主慶福が11代将軍徳川家斉の孫でもあったため、14代将軍家茂となって、紀州藩主から出た2人目の将軍となるまで、将軍は全て紀州藩の系列になっています。
この吉宗にしても家茂にしても将軍になったいきさつをみると、人の人生というものはつくづくとわからないものなのだなあと思うと同時に、人生はそのように送るべくして送るのだという実感を持ちます。
投稿者 fujimori : 19:33 | コメント (4)
2008年05月05日 [旅先にて]
樟と楠
熊野三山のひとつである熊野那智大社の境内の一角に、天然記念物 那智の樟(くす)の大木が茂っています。樹齢約800年、樹高27m、幹廻り8.3m、枝張り約25メートルの巨木で、熊野三山造営の勅使として参った平重盛お手植えによるものと伝えられています。根元に人がくぐれる程の空洞があり、無病息災を願って胎内くぐりをすることができます。
クスノキは、暖地に野生し、しばしば公園や、社寺林に栽培される常緑高木で、大きく生長するために神社などで神木として崇められている巨樹も多くあり、「那智の樟」もそのうちのひとつです。クスノキという音は、全体に特異な芳香を持ち「臭し(くすし)」からきています。漢字に当てる場合は、「楠」という字を書くことがありますが、それは、「南から来た木」という意味で、「樟」と書く場合は、「薬(樟脳)の木」からきています。クスノキは、古くから葉や煙は防虫剤、鎮痛剤として用いられ、作業の際にクスノキを携帯していたという記録もあります。また、その防虫効能から家具や仏像などにも広く使われ、古代の丸木船の材料にも使われました。また、材や根を水蒸気蒸留して取り出したものが、よくタンスや引き出しに虫除けとして入れる樟脳です。
この「楠」という字を神社から名前につけてもらった人に「南方熊楠」(みなかたくまぐす)という人がいます。彼は、私と同じ誕生日だということと、出身が和歌山県で、熊野古道のひとつの登り口である田辺に晩年住んでいたこともあり、白浜に「南方熊楠記念館」があるので、訪ねてみました。

彼は反骨の世界的博物学者として、生涯、博物学や民俗学などを中心として研究に没頭し、英国の科学雑誌「ネイチャ-」などに数多くの論文を投稿し、また、国内では神社合祀反対運動や自然保護運動などにも論理と精力的な実践活動で尽力しました。
彼を評して、記念館には、前進座創作劇場「およどん盛衰記」より転記された次の一文が掲載されていました。「一切のアカデミズムに背をむけての独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は奇人呼ばわりされたが実はやさしい含羞の人であり、自然保護運動に命をかけて闘いぬいた巨人であった。」
彼が、「日本最初のエコロジスト」と呼ばれるのは、当時は誰も「生態系」という概念すら持っていない時代に、こんな運動を展開したからです。第一次西園寺内閣は神社合祀を全国に励行しました。各集落にある神社を1村1社にまとめ、日本書紀など古文書に記載された神だけを残そうというものです。そのひとつの理由に、ビジネスの側面がありました。神社の森は樹齢千年という巨木もあり、これが高値で売れたからです。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられました。これに対して、熊楠は激怒します。それは、何も宗教上の理由だけでなく、樹齢を重ねた古木の森にはまだ未解明の苔・粘菌が多く棲み、伐採されると絶滅する恐れがあったからです。「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」と言っています。熊楠は“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方に反対したのです。
そんなわけで、彼は国内の環境保護活動の祖となったのですが、いつの時代でも同じようなことを繰り返し、なかなか過去から学ぶことをしませんね。
投稿者 fujimori : 21:25 | コメント (4)
2008年05月04日 [旅先にて]
荘厳
「日本の○○100選」というものがよく決められています。その中で、「日本の秘境100選」が、1989年にJTBが雑誌「旅」9月号が創刊750号を迎えるのを記念して開いたシンポジウムにおいて、決められています。先日ブログで何回か取り上げた「出羽三山」も選ばれています。その百選の中のひとつである和歌山県「熊野古道」に妻と訪れました。この熊野古道は、「高野山」「吉野・大峯」とともに、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産登録されています。少し前に、やはり逆転で世界遺産に登録された「石見銀山」にも行ってきたのですが、銀山として世界でも珍しいのですが、ここは、道として選ばれています。高野、熊野、吉野・大峯の各霊場に至る参詣道として、霊場への信仰が拡大するともに整備され、今日においても周辺の景観とともに良好な形で維持されていることが貴重な文化遺産として評価されたのです。
熊野古道は、紀伊半島南部にあたる熊野の地と大阪や伊勢、高野及び吉野とを結ぶ古い街道の総称で、「熊野街道」とも呼ばれています。熊野古道の中心は、大阪から和歌山を経て、田辺から熊野本宮に向かう中辺路(なかへち)。そのほか、田辺から海岸線沿いに那智へ向かう大辺路(おおへち)、高野山から熊野本宮へ向かう小辺路(こへち)、吉野から熊野本宮へ向かう大峯奥駈道、伊勢と熊野速玉大社を結ぶ伊勢路など、いくつかのルートがあります。
私たちは、今回はずっと歩く時間を取ることができなかったので、とりあえず、那智勝浦からまず、大門坂あたりの古道を少し歩いて見ました。鬱蒼と繁る大杉が両脇にそびえている中を苔むした石段が続いています。その中を熊野詣が盛んだった頃の平安の衣装を着た女性が登って来ました。このあたりでは、この平安衣装体験ができるようになっているのです。
熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地でした。そして、出羽三山のように熊野三山ということがありますが、ここの場合は、三つの山ではなく、「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三つの神社の総称です。ここへは、907年の宇多法皇の熊野行幸が最初と言われていますが、参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野行幸からと言われています。江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようになり、一時は、熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が記録されたこともあったそうです。しかし、明治維新後、神仏分離令により熊野古道周辺の神社の数は激減し、熊野詣の風習も殆どなくなってしまいましたので、この古道は、周囲の生活道路として使用されていただけでしたので、当時の面影を残していることにもなったのかもしれません。
そのあと、「日本の滝100選」のひとつであり、「日本の音風景100選」にも選定されている「那智大滝」に行きました。ここは、落差133mの日本一の直瀑です。この滝は、その落差だけでなく、滝の背後や周囲の山々が濃淡のみどりで縁取られ、そこには、「那智原始林」と呼ばれる原生林も広がっていて、滝をより荘厳にし、神と崇められていたことが頷けます。
日本人は、荘厳さから神を感じていたようです。決して、強い力が神ではなかったこと、荘厳ということはどういうことかを考えさせられた熊野古道でした。
投稿者 fujimori : 20:53 | コメント (4)
2008年05月03日 [新聞記事より]
2030年の家庭
今年の朝日新聞東京本社発行1月1日付朝刊に2030年のある家庭の会話が掲載されていました。
「55歳おめでとう。あと定年まで10年だね」。朝食のテーブルで誠(55)は妻の陽子(56)と、長男の翔(しょう)(23)に祝福された。誠と陽子は団塊世代を親に持つ団塊ジュニアだ。「とにかく健康が一番ですよ」。誠の母で、入居中の有料老人ホームから遊びに来た幸子(83)も声をかける。生活習慣病予防の健診を受け、律義に医師の指導を守ってきたかいがあり、大きな病気はしていない。「病院の窓口負担は、あなたたちと同じ3割になった。これで病気になったら、ただでさえ色々と天引きされて少ない年金がなくなってしまうからね」と元気そのものだ。
誠の勤める製薬会社は、60歳だった定年を65歳に引き上げた。その後も嘱託やパートで働ける。地価も下がり、夢だった都内で3階建ての庭付き住宅も買えた。「35年の住宅ローンの返済もそれほど負担ではないな」と誠は感じている。「野菜サラダどう?レタスとトマトが新鮮でしょ」。陽子がほほえむ。農業に携わる人が高齢化し、耕作が放棄された農地が増えた。野菜は空洞化が進んだ都心のオフィスでも作られている。照明は発光ダイオード(LED)、室温や肥料もハイテク管理で、水耕栽培で育てる。
看護師の陽子が「うちの病院ではフィリピンの看護師が増えたわ」と話を切り出した。「そういえば、翔のベビーシッターもフィリピン人に頼んだこともあったね」と誠。「私の住んでいるホームでも、たくさん働いているわ」と幸子が相づちを打った。
朝食後、掃除ロボットで部屋を片づけ、留守番ロボットをセットして2人は職場に向かった。介護施設の見守りロボット、企業の受付や店舗で案内ロボット……人手不足を補うため、サービスロボットが大活躍だ。誠のオフィスは都心にある。新入社員時代は通勤ラッシュに悩まされたが、最近は電車の混雑もそれほどでもなく、座って新聞を読める日もある。翔は大学院へ向かった。電車の窓から、昔、通った幼稚園と保育園が一体化した総合施設が見える。「おふくろが迎えに来るのは、延長保育が終わる夜8時15分ぎりぎりだったな」。街の景色を見ながら、思い出が頭をよぎる。
小学校は自宅から5キロも離れていた。子供の数が減り、統廃合が進んだためだ。当時、30代前半でフリーターだった叔父が毎日、車で送り迎えしてくれた。「おれが大学生の頃は不景気で、就職できなかった。でも、組織に縛られない自由な生活もいいもんだぞ」と何度も聞かされた。
何年か前に鉄腕アトムのいる未来が予測されました。その時代が現実的に訪れ、その通りになったことと、そうではないことがあります。この記事の中で、何が本当になるでしょうか。今日の朝日新聞に、以前ブログでも書いた私の園で実験している水耕栽培の記事が掲載されました。いくら土があっても、その土を耕す人がいなくなったり、その土に生息する菌に人が弱くなり、農薬を大量に使うようになったりといろいろな問題が起きてきます。また、保育園、幼稚園も変わりつつあります。しかし、子どもに関する変化を、ただ、合理的とか、経済的とかいうことだけで行ってはいけないでしょう。
投稿者 fujimori : 22:21 | コメント (4)
2008年05月02日 [近頃思うこと]
デザイナーズ
最近、チラシ等で「デザイナーズマンション」という言葉を見かけます。マンションといえば、デベロッパーによる開発は、どこでも同じデザイン、画一的に計画され、一時期外国から「うさぎ小屋」などと称されたこともあります。それが、最近では、より個性的なもの、他と違うものを求める傾向が強くなりました。それらの好みを受けて、集合住宅にも単に建物を設計するという建築士から、デザインを重視する建築家が都市生活のクオリティーや様々な生活スタイルを提案し、また、その建物のデザインに都市景観を取り込もうとするなど、建築家のコンセプトが前面に表れた集合住宅が現れ始めています。
この「デザイナーズマンション」と言う言葉の発端はいろいろとあるようです。1つには、日経住宅サーチによると10年程前に、日経新聞記者が建築家設計のマンションの取材の際に「デザインマンション」と称して取材したのが始まりだそうで、それが次第に「デザイナーズマンション」となったといわれています。
同様に「デザイナーズホテル」というものも人気があります。これも、デザイナーや建築家によってプロデュース・設計された、個性的なこだわりやコンセプトを持ったホテルのことです。最近は、このように銘打って、斬新なアイディアや個性的なデザインが目を引き、モダンでスタイリッシュなホテルが次々とオープンしています。
ホテルには、ほかにも「スタイリッシュホテル」「ブティックホテル」「ファッションホテル」というような、何だか素敵に思えるホテルが誕生しています。
このように、さまざまな分野で著名デザイナーとコラボレーションした建物や、商品が次々に出されています。たとえば、「デザイナーズ携帯」「デザイナーズ家具」「デザイナーズ住宅」「デザイナーズ旅館」「デザイナーズ物件」「デザイナーズ年賀状」「ユニクロ デザイナーズ」「デザイナーズ チェア」などさまざまな分野に及びます。
先日、私の誕生日にデザイン事務所に勤めている娘から誕生日プレゼントをもらいました。それは、「DESIGNER'S DARUMA」です。

その説明書きには、
「cadere」とは「転ぶ」、「rialzarsi」とは「起きあがる」。達磨大師の教えである七転八起をイタリア語でデザイン。漢字「達磨」のごとく、目標に達する為に自分を磨く。これから、この達磨に出会う世界中の人たちにもそうあってもらいたいと願います。
達磨は、中国禅宗の開祖・菩提達磨に由来するといわれています。達磨は、「転んだら起き上がって、また一から始めよ」とも教えています。七転八起といわれるように、失敗しても、それはいい経験と自分の力を信じて、コツコツと努力していくことにより、心願成就、目標は達成されると説かれました。この故事にならい室町時代の頃、起き上り小法師として、おもちゃに作られたようです。赤い衣をまとい、手足のない僧の姿で登場しました。その後、江戸時代中頃に今のような「だるま」の姿になってきました。赤い衣は、天然痘除けのまじないとして、倒れないのは、餐蚕・豊作・大漁・商売繁盛の縁起物として、七転八起の福を呼ぶ、めでたい象徴として崇められるようになりました。
私がもらった達磨は、赤ではなく、黒い衣をまとっています。それは、以前のブログにも書いた私の部屋が、すべての光を受け入れ、すべての色を含んだ黒を基調にしているからです。
デザインは、赤を黒に変えて、よりモダンにするのですね。
投稿者 fujimori : 23:01 | コメント (4)
2008年05月01日 [近頃思うこと]
芭蕉
出羽では松尾芭蕉由来の地をめぐり、たまたま深川芭蕉記念館、芭蕉庵の地を訪れて、その時代に思いをめぐらせましたが、私の園の近くにもゆかりのある場所があるのです。
松尾甚七郎宗房(芭蕉)は、延宝元(1673)年、30歳で2度目の江戸入りをしたのは、藤堂家の下級武士として神田川堀割工事に従事するためでした。当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていたからです。その間、芭蕉は、工事現場小屋とも水番屋ともいわれる場所に3年間住んでいました。その場所は園から程近い神田川沿いにあります。ここに、後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建て、芭蕉の句を埋めた塚を築き、さらに後になって芭蕉の弟子たちの像を含めた芭蕉堂を建立しました。これが現在の関口芭蕉庵です。

この芭蕉庵隣には急坂「胸突坂」があり、坂を隔てた隣には、神田川の水神をまつる「水神社」が鎮座しています。その後、この建物は焼失してしまい、現在のものは第2次大戦後の建築です。
庵内に入ると、まず池が目に入ります。その池のほとりに芭蕉の句碑が立てられています。これは芭蕉二百八十回忌を期して立てられたもので、句碑には芭蕉の名句「古池や蛙とび込む水の音 松尾芭蕉」が記されています。

その後、沢山の木々草花が植られている順路に沿って庭を散策していくと、芭蕉堂があります。そして、所々には有名歌人の歌碑や句碑がみられます。
芭蕉といえば、もうひとつ、園にあるのが、琉球諸島で昔からその葉鞘の繊維で芭蕉布を織り、衣料などに利用していた多年草「ばしょう」があります。
江戸時代に、長崎にいたシーボルトがこの芭蕉を「ムサ・バショウ」という学名で発表しました。この「ムサ」とはバナナの仲間を意味する学名で、その後、イギリスでは、芭蕉を「ジャパニーズ・バナナ」と呼んでいます。この名前のように、この草は、中国が原産といわれていますが、とても花や果実はバナナとよく似ています。熱帯を中心に分布していますが、耐寒性に富み、関東地方以南では露地植えも可能ですので、主に観賞用として用いられています。
この芭蕉が、深川の自宅の庭にあったことから、自分の名前を芭蕉としたといわれているのが、松尾芭蕉です。そして、この芭蕉の葉に似ていて水辺に咲く花が、水芭蕉(ミズバショウ)です。この水芭蕉の花を、鶴岡で見ることが出来ました。白いのは花ではなく仏炎苞(ぶつえんほう)と言われるもので,本当の花は中心部の黄色いところについています。そして、その花の後に葉が出てきます。根出状に出て立ち上がり、長さ80cm、幅30cmにも達します。

「夏がくれば 思い出す はるかな尾瀬 遠い空 霧のなかに うかびくる やさしい影 野の小径 水芭蕉の花が 咲いている 夢見て咲いている水のほとり 石楠花色に たそがれる はるかな尾瀬 遠い空」余りにも有名な江間章子作詞、中田喜直作曲の「夏の思い出」ですが、先日この花を見たときに、何で夏がくれば水芭蕉を思い出すのだろうかと思ったのですが、実際に尾瀬沼でミズバショウが咲くのは5月末ごろで、これは尾瀬の季節でいうと春先にあたります。自生地では春の雪解けに合わせて姿を現すので、正確には「春の花」のようです。しかし、この歌は、江間章子が、終戦を迎え、荒廃した国土に暮らす日本国民に夢と希望を与えようと「ラジオ歌謡」にその詞を捧げたものですので、そんなイメージだったのでしょう。
色々と思い巡らすことができた、今回の庄内訪問でした。