羽黒山

庄内地方の背景をかたどる出羽三山とは、「月山」「羽黒山」「湯殿山」の総称です。これらの山は、修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集めています。そして、それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社といいます。しかし、それぞれに詣でることは大変なので、羽黒山に三社の神を併せて祀る三神合祭殿があります。
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松尾芭蕉は、1675年に江戸に下り、神田上水の工事に携わった後、1678年に宗匠となり、職業的な俳諧師となります。そして、1680年に深川に草庵を結びます。そこに芭蕉の木を一株植えたのが大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けられました。
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しかし、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失してしまいます。その芭蕉が、弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文「奥の細道」はとても有名です。
芭蕉が、羽黒を訪れたのは1689年です。その時のことを「奥の細道」にはこう書かれてあります。
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「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。」芭蕉一行は、6月3日、出羽三山の門前集落・手向に到着後、図司左吉の案内で、日の落ちた羽黒山参道を登り南谷にたどり着いています。その日は、南谷の別院に宿泊したようですが、主から、思いやりの心で、情が細やかにもてなされたようです。
「四日、本坊にをゐて誹諧興行。」4日には、本坊で俳諧の会を催し、「有難や雪をかほらす南谷」という句を読んでいます。この句は、「旅に疲れた身にとってとても有難いのは、この霊山の谷あいから、雪の香の南風が吹き寄せてくることです。」
5日には、羽黒権現に参詣していますが、このときに羽黒山のいわれを書き記しています。「延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。」そして、この羽黒山について「当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。」(この寺は、武蔵国江戸の東叡山に属して、天台宗の止観の教えが月の光のように行き渡り、円頓融通の教えも合わせともって、僧坊が棟を連ね、修験者は修行に励んでおり、この霊山霊地のご利益を貴びながらも、そのあらたかさに人々は恐れを抱いている。そして、この繁栄は長く続くと思われ、実に立派なお山と言うことができるだろう)と書いています。
 芭蕉は、奥の細道すがら、山形県ではいくつかの有名な句を残しています。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」は、山形県立石寺で読んだ句ですし、「五月雨をあつめて早し最上川」は、山形県大石田町での句です。羽黒山の次に登る月山のことは、「雲の峰いくつ崩れて月の山」と詠んでいます。
 今回で私が羽黒山を訪れたのは、季節としては、芭蕉よりも3ヶ月ほど早かったのですが、なんだか、芭蕉の世界に浸ることが出来ました。

羽黒山” への6件のコメント

  1. 日本には出羽三山のように、その土地の代表的な山を、三つ集めて総称したものがたくさんあります。北から代表的なものをあげてみます。岩手三山(岩手山、姫神山、早池峰山)越後三山(越後駒ガ岳、中ノ岳、八海山)上毛三山(赤城山、榛名山、妙義山)立山三山(立山、雄山、別山)白馬三山(白馬岳、杓子岳、白馬鑓ヶ岳)鳳凰三山(地蔵岳、観音岳、薬師岳)白根三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)等々いずれも名山ばかりです。今まで登ったことのある思い出の山もあれば、いつかは登りたい久恋の山もあります。『梅が香に のつと日の出る 山路哉』たまには俳句でもひねりながら、山歩きを楽しむのもいいかもしれません。

  2.  松尾芭蕉は人物と知っていますが、なかなか詳しくは知りません。やはりブログが歴史の内容になってしまうと、なかなか難しいです。有名な俳優、歌手や歴史上の有名な人が訪れたところに自分も一緒の場所に行くと何だか不思議な気分になります。その人物はここで何を思って、考えて、何をしたのだろう?と考えてしまいます。とくに松尾芭蕉のような偉大な俳人であれば、様々な事を考えていたような気がします。有名な人が訪れた場所を巡るのも面白いのですね。

  3. どこかを訪れる際にその場所に関する歴史などを知っていることで見方が深くなる、ということは以前から言われていました。でもなかなかできてないのが現状です。昨日あるトイレで「本を読んでみよう。旅をしてみよう。そのことから何か学ぶことがあるはず。」といった感じの標語を見かけました。ただ旅をするだけでなく、事前にそこに関することを調べてみたり、旅の後に気になったことを調べてみたりすることは、少し違った学びがあると思います。そんな豊かな学びのある旅をすることは、考えを深めるためにも必要だろうと思ったりします。

  4. 記憶は定かではありませんが、大学院で学んでいた時友人の誘いで羽黒山中のペンションを訪れました。そしてどこの寺か忘れましたが、即身成仏と対面する栄に浴しました。当時は仏教学という学問の徒でしたので、「即身成仏」自体にはとても関心がありました。いざ、本物に直面すると自分の偽者性が覚知でき、その後その学問の道を断念しました。さて、芭蕉です。「閑さや」の句や「五月雨」の句の場所を訪れたことがあります。「月日は百代の過客にして云々」で始まる「奥の細道」は中高時代に関心の的となり、おかげで「夏草やつわものどもが夢の跡」の現場を訪ねたり「あー松島や」の地を訪れたりしたことがあります。ところで「古池やかわず飛び込む水の音」の「蛙」は果たして単数形か複数形か?日本語の奥行きの深さをあらためて認識させられます。

  5. 松尾芭蕉については私もあまり詳しくは知らないのですが、はるか昔の人も見た風景を今でも見ることができ、昔の人が感じた思いを感じることができるというのはとても不思議な感覚ですね。変化はもちろんあると思うのですが、自然というのは変化をしながらも長い間その土地の一部として残っている、残っていくのですね。だからこそ、その土地固有の自然、環境を守っていくことの大切さを感じるようでもあります。過去の人も現代の人も含め、多くの人がその自然を共有することができることというのがとても素晴らしいことであると思えます。そんな自然、風景は大切にしたいですね。

  6. 『延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。』などと、その土地の風景だけでなく、その土地名の由来などもしっかりと把握した上で俳句を作ることで、その場に流れてきた風や時代がやんわりと感じられるような俳句になるのですね。また、山形という名前もあって、多くの山々によって成る土地であることが想像できます。その山々に現代でも多くの修験者が訪れるというのは、それほど修行をする上では過酷で魅力的な場所なのでしょうね。松尾芭蕉も、修験者のような心持ちでその地を歩いていたのでしょうか。

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