一本刀

 先日ある園の竣工式に出席しましたが、その席に来賓として浅香光代さんが呼ばれていました。彼女は、14才で浅香光代一座をたちあげ、女剣劇全盛時代を作りあげた人です。もうかなりのお年ですが、舞台に上がると突然と背筋が伸び、声は朗々と響き渡ります。その彼女は、祝辞とともに、名科白を披露してくれました。それは、「一本刀土俵入り」と「瞼の母」の中の名場面です。
 この二つの話はともに義理と人情話ですが、長谷川伸の作品です。彼は、新聞記者からのちに小説・劇作家に転じるのですが、この2作品や「沓掛時次郎」などは、繰り返し舞台にかけられ映画化もされています。しかし、その世界は今はもう絵空事のように思えるほど遠い世界になってしまった気がします。また、それぞれの話しは、もう若い人には伝承されていないでしょうね。この時代で消えていってしまうのでしょうか。せめて、その題名と同時に、あらすじだけでも知っておいて欲しい気がします。
 横綱になる夢を持っていた取的(番付が最下位の角力取りのことで、褌かつぎのことです。)の駒形茂兵衛が親方に一度は破門されますが、どうしても立派な横綱になって故郷(上州 駒形宿)の母親の墓の前で土俵入りの姿を見せてやりたいという夢を捨てきれず、もう一度弟子入りをしようと江戸に向かいます。途中、飲まず食わずの一文無しで困っていた母親想いの純情一途な茂兵衛の話に心をうたれた茶屋女のお蔦は、持っている巾着や櫛、かんざしまで受け取らせ、「立派なお角力さんになっておくれよ。そうしたら、一度はお前さんの土俵入りを見に行くよ」と励まします。茂兵衛はこの親切を生涯わすれないと感謝しながら立ち去っていきます。
10年後、望みを果たせず、やくざになっていた茂兵衛は取手に戻り、お蔦を探し、やがて再会を果たしますが、そこに死んだはずの夫・辰三郎が現れます。夫が戻ってきて喜びのつかの間、辰三郎はイカサマ賭博で追われる身で、たちまち一味がお蔦の家を取り囲みます。 茂兵衛は今こそ恩返しだと体を張ってお蔦たちを救い、借りた金を返し、3人を逃がします。そのときに晴れ晴れと静かに言い切るのが、「一本刀土俵入り」の名科白です。
「お行きなさんせ。仲よく丈夫でおくらしなさんせ。ああ、お蔦さん、棒ッ切れを振り廻してする茂兵衛の、これが、10年前に櫛、簪、巾着ぐるみ、意見をもらった姐さんに、せめて見てもらう駒形の、しがねえ姿の土俵入りでござんす」
 「一本刀」とは、「やくざ者」という意味です。武士は刀を二本させるので、武士のことを「二本差し」と呼ぶことがありますが、これに対して、町人ややくざは、刀を一本しか差せませんでした。この話の面白いのは、茂兵衛は、夢がかない横綱になるわけでもなく、たいしてハッピーエンドでもなく、義理人情だけに焦点を当てている点です。また、このようなストーリーを表現する歌も必ず歌われました。三橋美智也が歌った、作詞が高橋掬太郎で作曲が細川潤一の「一本刀土俵入り」があります。「1 角力名乗りを やくざに代えて 今じゃ抱寝の 一本刀 利根の川風 まともに吹けば 人の情けを 人の情けを 思い出す 2 忘れられよか 十年前を 胸にきざんだ あのあねさんを 惚れたはれたと 言うてはすまぬ 義理が負目の 義理が負目の 旅合羽 3 見せてあげたい 男の夢も いつか崩れた 一本刀 悪い奴なら 抑えて投げて 行くがおいらの 行くがおいらの 土俵入り」あらすじを知っていると、歌詞の意味もよくわかります。
こんな義理人情に夢中になった時代もあったのですね。

一本刀” への6件のコメント

  1. 「一本刀土俵入り」や「瞼の母」は、江戸時代の庶民の「義理人情」の世界を描いたものですが、今の日本ではこの言葉は死語になってしまったのですかね。子供が親を殺したり、親が家族を殺して心中をはかったり、なんともひどい時代相になってきましたね。私自身、営業の仕事をしていても、昔のように義理を感じてくれる先生が随分少なくなってきたような気がします。あれこれ世話を焼いてあげても、ドライに割り切られてしまい結果に結び付かないケースが増えてきました。くれぐれも骨折り損にならないように、相手を見ながらサービスをしないといけないですね。

  2. 「一本刀土俵入り」の話、初めて聞きました。義理人情のみを取り上げた話というのは変わっていますが、今でも人の心を揺さぶるだろうと思います。義理人情が薄くなったように思うこともありますが、それでも誰もがどこかでそうしたものを求めているようにも思います。こういう話があることを知っておくことも大切ですね。

  3. 今日のブログで紹介されていた「義理人情」物語。かつてこの国にそうした社会が存在していたんだ、と認識を新たにします。「義理」とか「人情」とかがどういうイメージで各個人の中にあるかはわかりませんが、私は人と人との粘着的関係を表していることなのではないか、と思います。今時はそうした「粘着的関係」は兎角敬遠されがちです。この「粘着」から想像されるのは、必要な時には傍にいて、そうでない時には少し距離を置いている、しかしそれぞれが繋がっている、ということです。「義理」とか「人情」とかということもそうしたことかな?と考えます。合理性や論理性は必要ですが、「義理人情」を成立させる土台となっている「結い」の精神こそ社会環境を通して再生させたいことのひとつです。

  4. fujimori さんのコメントに痛く感動しました。
    私の姉は一人暮らしで大きな畑があります。見かねて近くの定年になったご夫婦が、手弁当で手伝いに来て下さっています。姉は姉なりに気を遣って、心持ちのお金はもちろんのこと、あれやこれや品物を持って行くんですが、何度行っても一切受け取られないそうです。世の中には無償で心から手助けをしたいと思う人が本当にいらっしゃるのでしょ。今では相手の方も気疲れして、来て下さらないようです。相手のご夫婦は「骨折り損」と思っていらっしゃるかもしれませんね。

  5. 浅香光代さんがいらっしゃったというのには驚きました。小学校の時に「あたしゃね!」と友達なんかと真似をしていたのを思い出しました。「一本刀土俵入り」の話は初めて知りました。題名を見た時にいったいどんな話なのか想像もできませんでしたが、内容を知るとなるほどそういうことなのかと納得しました。なかなか粋な題名ですね。横綱にはなれなったけど、当時の恩を忘れずに、なんとか受けた恩を返そうとする姿、今できることで精一杯報いようとする姿は美しいです。義理人情は人と関わるからこそ、うまれるものですね。人と関わることが当たり前の世の中だからこそ大切にしたいことです。私はこの話をはじめて知りましたが、こういった内容の話が伝わっていくことで義理人情が当たり前にあった世の中を感じさせてくれますね。

  6. 「義理人情」という言葉は、将来聞かれなくなってしまうのでしょうか。言葉がなくなるというのは、その行為自体も失われてしまうようなイメージがありますが、そこに焦点を当てた取り組みやお話、実際の行動などでも引き継ごうとする人がいなければ、残っていかないものなのですね。一度受けた恩に報いろうとする姿勢こそが美しく、そういった美学のもと、日本人の特徴を構築してきているようにも感じています。「恩返し」という言葉が、これからも日本に溢れ、「情」という損得貸し借りを超えた人間同士の付き合いを楽しめるような人生を歩む人々の世界になればいいなと思います。

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