給食発祥の地

最近のニュースで、「小麦や牛乳などの価格上昇は、家計だけでなく、学校給食も直撃している」というのが流れてきます。そのために、各自治体ではコストを抑えようと様々な工夫をこらしているようです。給食費を値上げるところ、デザートを減らしたり、地産地消の考え方を推進したり、素材の内容を見直すところなど様々です。
 週末訪れた庄内藩の山形県鶴岡市の大督寺は「学校給食発祥の地」です。
明治22年(1889年)学費が払えないため学校に通えない子ども達のために鶴岡市の各宗寺院住職ら相図り、大督寺境内に「忠愛学校」という学校を立て貧しい子ども達に学問を教えていました。ある日から数日続けて数人分のお弁当が盗まれる事件が発生しました。誰が盗んだか調べてみると犯人は子どもでした。しかも、その子は、昼はおろか朝晩もまともな食事をとることの出来ない家庭の子どもであることがわかりました。そのことを知って心を痛め、「なんとかしてあげたい」と思って知恵を出し合いました。そして、経をとなえ一軒一軒家を托鉢してまわり、お米や浄財を資金に弁当を持ってくることが出ない子どもたちのために昼食を作りました。最初のメニューは、おにぎり・煮びたし・塩引きだったそうです。
鶴岡市では、「学校給食発祥の地」を記念して、小中学校では毎年12月1日にケーキなどがつく特別給食と、12月中旬に、明治時代の献立を再現した「おにぎり給食」が行われているそうです。この給食メニューは具の入っていない塩おにぎり1個と塩引きのマスと大豆とコンニャク煮となめこのみそ汁と牛乳だそうです。
その後、昭和19年、6大都市の小学生児童約200万人に対し、米・みそ等を特別配給して学校給食を実施するに至ります。そして、昭和21年には、戦時中中断されていた学校給食が東京、神奈川、千葉で試験的に再開されます。その翌年、主要都市の約300万人の児童にララ物資を利用した学校給食が開始されるのです。
ところが、団塊の世代にとっては給食といえばあまりよいイメージを持たなくなる原因の「脱脂粉乳」が、昭和24年にユニセフ(国連児童基金)から贈られ、ユニセフ給食がおこなわれはじめるのです。そして、その翌年の昭和25年には、アメリカ合衆国が大量に残っていた小麦粉を日本に安く売り、それをパンにして提供し、都市で完全給食がおこなわれるとともに、給食はパン食が中心となり、国民全体の食生活にも影響を与えるようになっていくのです。
昭和29年、学校給食は教育の一環として学校給食法施行、昭和31年、「学校給食法」が一部改正され、中学校にも適用されるようになります。そして、昭和33年に悪評だった脱脂粉乳が牛乳へ、昭和51年には、今度は日本人の食事の洋食化に伴い、米の生産量の増大と反比例して消費量が減ってきたので、余った古米、古古米を処理するために給食ではパンは週1回程度になり、米飯給食が主食となっていくのです。
最初は、子どもたちの救済のために始まった給食も、時代によって、政策や国際間取引のかけひきに使われてきたのです。まずい脱脂粉乳を我慢して飲み、パン食のほうが体によいと教えられ、残すと居残りさせられたり、怒られた背景にこんな政治的なことがあったと思うと、なんだか切なくなりますね。

庄内藩の教育

 「たそがれ清兵衛」などの舞台である海坂藩は、原作者藤沢周平の故郷である庄内藩がモデルだといわれています。今、庄内に来ています。この庄内藩は、戊辰戦争で薩長軍と戦い、連戦連勝しながらも、会津藩の降伏などで勝ったまま降伏した話とか、その後の処置について、庄内講和を担当した西郷の計らいで、同様に降伏した会津藩や仙台藩と比べても、非常に寛大な処分で済んだことも知られています。そのときの西郷の人柄に庄内藩士らは感激して、明治になって「南洲翁遺訓」を編纂・発刊したほどです。
そんな庄内藩における教育も注目すべきことがありました。一昨年、当時の庄内藩であった山形県鶴岡市で、「第6回全国藩校サミット」が行われました。藩校サミットは、江戸時代の藩校が藩政改革や明治維新に大きく寄与したことを再認識し、今日の教育改革の糧にしようとするものです。鹿児島の郷中教育のように今の教育に参考になることが確かにたくさんあります。庄内藩の藩校「致道館」にも今に通じる考え方があります。
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「致道館」は、庄内藩の藩校として1805年に設立されていますが、当時の庄内藩は、飢饉のため農村は疲弊し、財政難のうえ武士の風紀も乱れていました。そこで、九代目藩主酒井忠徳が藩風の刷新と人材育成のために開設したのです。致道の名は、「君子は学んで以って其の道を致す」という論語の言葉から取ったものです。
藩校では、孔子を祭る聖廟を建て、学問の神として祭祀を行ってきました。ですから、名前には、このように論語から取った名前が多いようです。致道館のほか、里仁館(酒田市)、学習館(栃木県壬生町)、知新館(恵那市)、弘道館(彦根市)、伝習館(柳川市)、時習館(熊本市)などは、みんな論語から取っています。
致道館の教育の特色は、荻生徂徠の学を取り入れたことです。当時の学界は江戸の昌平坂学問所の影響で朱子学一辺倒だったのを、異学といわれる徂徠学を中心におきました。「学問の目的は世を治め民生を豊にするもの」と説く徂徠学は古文辞学ともいわれ、古典の注釈でなく原典そのものに帰り、孔子の教えを直接研究しようとする学問でした。詰め込み教育ではなく個人の天性と長所を伸ばす教育方針を主眼として自学自習して自得する、という自由で実践的な学風は、「沈潜の風」(副島種臣)といわれる藩風をつくりだしました。
 庄内藩の教育について、先日亡くなられた河合隼雄氏はこう書いています。
「その趣意書(被仰出書)を見ると、人間には「天性、得手不得手」がある。そして「天性の大なる者は大成し、小なるものは小成」するので、個々人の天性を見抜いて指導することが大切だと書いてある。これは「個性の尊重」ということです。入学したての少年たちの指導者に対する注意として、「学校の儀は、少年輩の遊び所」だから、「何事も寛大に取り扱い」、子どもたちが退屈しないように「面白く存じ業を教え遊ばせる」ように努力するべきである、というのである。これは個性を伸ばそうとする初等教育の方法として最高のことではないだろうか。上級者はどうなるのだろう。学風は荻生徂徠の教えによっているのだが、その教えに従って、指導者はあくまでも学生の自発性を尊び、自説を押し付けることのないように注意した。」
 学ぶべきことは、新しい理論からだけでなく、古い実践からも学ぶべきことは多いですね。

渾名

  一昨年、木村拓哉の主演で話題になった「武士の一分」の原作は、時代小説「盲目剣谺返し」(『隠し剣秋風抄』藤沢周平作)です。この映画は、監督の山田洋次の「時代劇三部作」と言われ、「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」についでの第3作目の完結作品です。私は、どの映画も見ていませんが、たそがれ清兵衛」は本で読みました。
  この文庫版の原作は短編集ですが、とても面白い作品の集め方をしています。それは、この短編集はある人物の人となりを中心に描かれていますが、その人をあらわすタイトルが、その人のあだ名になっているのです。あだ名のつけ方はいろいろとあります。このあだ名を「愛称」という場合は、とくに親しみを込めて対象を呼ぶために用いられる本名以外の名前の一種であり、幼児などはこの呼び方をする場合が多いようです。その場合は、例えば「カッキー」とか「タッキー」のように名前の一部を伸ばしたり、「まつ」「なか」のように短縮したりします。
  また、身体の特徴からつける場合もあり、この場合は可愛い場合はいいのですが、多くは馬鹿にしたり、からかったりする時に呼ばれることも多いようです。そのほかにも、性格や気質や雰囲気からつけることもあります。夏目漱石の小説「 坊っちゃん」は、その主人公のあだ名ですし、その小説の登場人物もみんなあだ名が付けられています。「赤シヤツ」、「野だいこ」、「マドンナ」、「山嵐」、「うらなり」など、その名前を聞くだけで、その人のイメージがわくようにできています。
  ところで、藤沢 周平の作品に出てくるあだ名は、その主人公の特徴を名前の前につけて、それがその小説の題名になっています。映画になった「たそがれ清兵衛」は、重度の痴呆症を抱える老母と幼い二人の娘の世話、そして労咳で死んだ妻の薬代や葬儀などで嵩んだ借金を返済するために家事と内職をするために夕方に仕事を終えると真っ直ぐ自宅に帰りことから付けられてことになっていましたが、原作では違います。
  「そうそう、たそがれ清兵衛という渾名で、一部にはよく知られておる男でござります」「たそがれ?何じゃ、それは?」「日暮れになると元気になるという意味でござりましょう」「わかったぞ」杉山は膝を打った。顔をしかめた。「その男、飲み助じゃな?」「いえいえ、違います。回りくどいことを申し上げて申訳ござりません」大塚は恐縮した顔になった。「井口はもっぱら家のことをいたしますので。それがし、見たわけではありませんが、城をさがると、飯の支度から掃除、洗濯と、車輪の勢いで働きますそうにござります」「その男、家の者はおらんのか?」「女房がおりますが、それが長年の患いで臥せっておりまして、しか致しておると聞いております」
 2作目が、顔の特徴から付けられた「うらなり与右衛門」、3作目は、へつらい者とか、ごますり男とかいうような武士にあるまじき芳しくない評判から付けられた「ごますり甚内」、4作目は、倅の名前も出て来ない「ど忘れ万六」、5作目は、極端な無口のために少々変わり者とみられている「だんまり弥助」、わずかな苦痛を大げさに言い立てて、周囲に訴えたりすることを指す国言葉から「かが泣き半平」、「日和見与次郎」、身の穢さから物乞いという意味の「祝い人助八」の8作が集められています。
 それぞれのタイプの人が身の回りにもいそうですね。

上野4

 国立科学博物館のほかに、先日もうひとつ上野で訪れた場所がありました。
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  それは、上野寛永寺です。今、NHK大河ドラマで「篤姫」を放映していますが、この寺にはこの篤姫の墓があるのです。私と妻で、毎年どこかに出かけるときにテーマを持ったほうが目的を持ちやすいということで、NHK大河ドラマの舞台とか、縁のある場所を訪れるということをしています。今年は、徳川家に関するドラマですので、そのゆかりの地をいくつか訪れるつもりです。
 昨年、「風林火山」のときは、最終回のときに「武田信玄」と「山本勘助」のお墓で締めくくったのですが、今年は、お墓から始まりました。徳川の菩提寺というと、私は芝の増上寺だと思っていました。また、徳川家康は、日光東照宮を代表として、久能山など全国に一時は500以上のあったといわれている神社があります。この上野にも、「上野東照宮」があり、ここには徳川家康のほか、徳川吉宗と徳川慶喜を祀ってあります。
 実は、江戸には徳川将軍家の菩提寺は、芝の増上寺と上野の寛永寺と2つあるのですが、どうして二つに分かれているのでしょうか。
まず、初代将軍家康は別格で、神として東照大権現と呼ばれ、墓ではなく神社としてはじめは久能山(静岡)に葬られたのですが、のちに日光に移されました。2代将軍秀忠になると、徳川家の宗祖である浄土宗のお寺である増上寺に葬られたのです。この増上寺は江戸麹町にあった古くからの浄土宗のお寺であり、この寺の住職が、徳川家が岡崎の一大名であった時からの菩提寺と縁があり、菩提寺は増上寺に決まったのです。
上野寛永寺を建立した天海は、京都比叡山で修業し、比叡山が織田信長によって焼き討ちにあうと、武田信玄に奇遇し、73才の時家康と出会って以来、家康、秀忠、家光と三代に亘って将軍の政治顧問的存在でした。特に家光は家康の身代わりのように頼りにしました。その寛永寺は、今の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立されましたが、この年が寛永寺の創立年とされていて、その当時の年号の寛永をとって寺号を「寛永寺」としました。京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」としました。
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  そして、江戸城鎮護の祈願寺として古い歴史と由緒をもつ浅草寺が決まっていたのですが、上野に寛永寺が建立されてから、以前の浅草寺の代わりに新しく祈願寺としました。同時に家光は、この寛永寺を、祈願寺であるだけでなく菩提寺にしたのです。家光は遺言で自分の葬儀は寛永寺で、遺体は日光に葬るよう指示しました。当然、増上寺側からは反発はありましたが、六代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、それが幕末まで続きました。ですから、同じ徳川家でも二箇所に墓地があるのです。
 そこで、上の寛永寺の霊廟には、四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の墓がありますが、慶喜以外の残りの徳川の将軍は、みんな増上寺です。大河ドラマの篤姫は十三代家定の正室ですから、寛永寺に夫と並んで墓が立てられています。しかし、その墓を一般には公開されていません。
 恥ずかしいのですが、私は上野がある台東区に何十年も住んでいて、上野には何十回といったことがあるのですが、一度も寛永寺には行ったことがありませんでした。今回のNHK「篤姫」のおかげでいって見ることが出来ました。熱中するものを見つけるためには、何かのきっかけがなければなりません。テレビか、書物か、あるいはこのブログかもしれません。ですから、「臥竜塾」というのです。

上野3

 最近、上野に行きました。そのひとつの目的は、国立科学博物館に“「進化」発見の旅へ!”ということで開催されているダーウィン展を見に行きました。この展覧会は、2005年から06年にかけて、アメリカ自然史博物館(ニューヨーク)で開催され、好評を博しましたもので、その後ブラジル・サンパウロ、ニュージーランドを経て、今年5月の連休まで東京で開催されています。そのあと夏休みには、大阪での開催になります。
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 チャールズ・ダーウィン(1809〜1882)は、進化論の創始者として、その代表的著書「種の起源」(1859年出版)とともに世界中で広く知られています。日本では江戸時代の頃のことです。ダーウィンの「進化」の考え方は、その後の世界を大きく変えました。子どものころにはよく偉人伝などを読む機会があり、その偉業や生涯、エピソードなどを知ることができたのですが、大人になってはなかなか知る機会がありませんので、人物像を描くような展覧会は新しい発見があります。
 今回の展覧会は、ダーウィンの人生をたどりながら、彼が生み出した偉大な業績に迫るもので、会場では、ダーウィンの進化論の着想のもとになったガラパゴス諸島の生物のはく製から、航海に使った「ビーグル号」の模型、航海日誌、身の回りの品々など、様々な資料が展示されています。その中で、印象に残ったエピソードだけを拾ってみます。
 ダーウィンは、当時の紳士階級の子どもたちと同じようにパブリックスクールに通いましたが、勉強が嫌いで決して優秀な生徒ではありませんでした。それよりも祖父の影響を受けて、博物学に興味を持ち自然観察や化学実験に熱中していたのです。パブリックスクールでの勉強に身の入らないダーウィンに対し、父は早いうちから医師として後を継がせるために、エディンバラ大学に通わせることにしました。しかし、ここでもダーウィンはあまり熱心には勉強しませんでした。この大学もやめて今度は牧師になるために、ケンブリッジ大学で神学を学ぶことにしました。そこでもあまり勉強せず、博物学をはじめ、乗馬と狩猟、昆虫採集に没頭します。しかし、ここでダーウィンの博物学嗜好に火が付き、後に偉業を果たすことになるのです。
人によって熱中するものが違います。それが何なのか、それを見つけるために人生があるのかもしれません。それが見つかり、それに取り組むことができたときには、「貢献」できる偉業を成し遂げるのかもしれません。その偉業は、本人のためではなく、人類、地球のためになります。しかし、その偉業は、考え方に変化をもたらしますし、今までの考え方を否定することになるかもしれません。
ダーウィンの進化論は、自然環境による「自然選択」と特徴的な形質が次の世代に引き継がれる「性選択」によるものでした。当時の英国での主流の考え方は、「神がすべての生物を作り出して以来、それらの生物はずっと不変である」というものでした。ですから、当然、ダーウィンの進化論は、宗教的価値観では、危険な思想だったのです。ですから、発表後に起きるであろう多くの反論と戦うため、できるだけ多くの研究を重ねていきました。発表当初、予想通り、激しい論戦が繰り広げられましたが、進化論の正しさはやがて広く認められていきます。
実践からの研究を積み重ね、過去からの刷り込みをなくし、時代の変化をよく見つめ、それに対して柔軟な対応をしていかなければ、その時代に貢献することはできないでしょう。
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上野2

 上野といえば、私は子どものころからとてもなじみのある場所です。私の出身幼稚園と小学校は上野と同じ台東区にあったので、幼稚園の遠足は上野動物園でしたし、小学校絵画展などは東京都美術館でやりましたし、中学校のときには、みんなで本物のミイラを怖いもの見たさで上野国立博物館に行きましたし、成人式は、招待されて東京文化会館で行いました。昨年度の園のお別れ遠足は、やはり上野の国立科学博物館でした。
 それぞれの場所には、それぞれのインパクトのある思い出が重なっています。
 上野動物園には、第二次世界大戦前の1935年にタイから寄贈された象の「花子」がいました。この花子は、戦争中の1943年、逃走したら危険と云う理由で餓死させられ、「かわいそうなぞう」という絵本にもなっています。その後、上野動物園には、象がいなくなってしまいましたが、戦後(1949年)、地元である台東区の子供たち(「台東区子供議会」)の象が見たいと云う願いが、連合軍占領下の日本における大人たちを動かして、インドのネール首相から贈られたメスの象が「インディラ」です。その骨格標本は国立科学博物館に展示されています。また、この動物園は、パンダが来て大騒ぎになったことでも有名ですね。
 また、東京国立博物館は、国宝87件、重要文化財610件を含む収蔵品の総数は11万件を超えています。ここは、1872年に創設された、日本最古の博物館です。ここでは、現在「国宝 薬師寺展」を開催しているように、所蔵も国宝が多いということもあり、なんだか日本の昔の美術品が多いようなイメージですが、この場所が有名になったのは、1974年に開催された「モナ・リザ展」でしょう。入場者数は、2ヶ月間で150万人以上にもなりました。昨年は、この作者ダ・ヴィンチのもうひとつの有名な絵画の「受胎告知」が、特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ — 天才の実像」ということで公開されています。
 美術展覧会といえば、もうひとつ有名なところが国立西洋美術館です。
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 ここの館外の庭には、オーギュスト・ロダンの「考える人」「地獄門」「カレーの市民」やエミール=アントワーヌ・ブールデル「弓をひくヘラクレス」などの彫刻が並べられ、いつでも見ることができます。また、この美術館の本館の設計は、近代建築の四大巨匠の一人であるル・コルビュジエの設計で、彼の作品は、日本国内ではこの建物しかなく、今年の1月に、世界遺産候補としてユネスコに推薦することが正式に決定されています。ここでは、所蔵だけでも有名な作品が多いのですが、展覧会でも有名なものがあります。特に記憶に残っているものは、1964年の「ミロのビーナス特別公開」です。ほぼ一月間でしたが、 この1点だけを見に来た人は、80万人以上でした。
 本館の実施設や監理に協力し、新館を設計したコルビュジエの弟子である前川國男は、この国立西洋美術館のまん前に立つ東京文化会館も設計しました。
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  この建物は、前川國男の代表作で、開館した1961年には日本建築学会賞作品賞を受賞しています。最近はほかにもっと音響のよいコンサートホールがたくさんありますが、本格的なクラシック音楽のホールとしては日本最初のものといえます。現在でも、東京都交響楽団が本拠地としているホールでもあります。
 繁華街とは、都市中心部でデパートや専門店、飲食店が立ち並ぶエリアのことを言いますが、上野は、美術館、博物館が並んでいるエリアとも言えそうです。

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ミシュランが選定した順位は、さまざまな分野に及んでいますが、その選び方にはずいぶんと偏りがある気がしますが、フランス人のある分野から見るとそう見えるのだという意味では参考になります。
 「東京の繁華街」という選定では、同時に日本人が選んだ順位も出ているのですが、面白い結果が出ていました。日本人が選んだ順位は、1、浅草 2、銀座 3、秋葉原 4、表参道 5、神楽坂 6、六本木 7、上野 8、お台場 9、日本橋 10、新宿でした。やはり、私は日本人だからか、この順位はわかりますね。ただ、日本人といっても、全国で調査をしたわけではないでしょうし、朝日新聞のアスパラ会員に取ったものですので、偏っているかもしれません。
たとえば、私の園が新宿にあるといえば、新宿のイメージとして、歌舞伎町やゴールデン街を思い浮かべますが、朝日の会員が選べば、歌舞伎町は13位ですし、新宿ゴールデン街は20位です。また、若い人が地方から出てくると行きたがる場所の渋谷は14位ですし、原宿は18位です。これが、フランス人のミシュランが選ぶと、その評価は、東京以外の人のイメージに近くなります。新宿歌舞伎町は二つ星ですし、渋谷、原宿、新宿ゴールデン街は、ひとつ星に選ばれています。
ミシュランの選定では、東京以外の人が選ばないであろう特殊な場所があります。まず、外国人が喜びそうな秋葉原は選ばれていません。その代わり、古い町の谷中は、二つ星に選ばれています。しかし、なんといっても、一箇所しかない三ツ星に選ばれたのが「上野」です。上野には、いくつもの博物館や美術館があり、とてもいいところなのですが、繁華街というイメージはありません。どうして上野なのかを、「大都会・東京の意外性を表す上野」ということで書いています。
「上野駅は首都の最も主要な駅の一つ。上野公園も広くて美しく、木立や花壇のなかに池(不忍池)と動物園、美術館がいくつかある。では、駅は賞賛の対象になるだろうか? もちろんなるが、上野駅は対象にならないだけだ。池の周囲の散策も、特に思い出に残るものではないとしか言いようがない。同じ評価は、白鳥の形をした足踏みボート(スワンボート)に乗って湖上へエスケープすることにも当てはまる。東京国立博物館をはじめとする美術館・博物館は、かなり変化があって面白いが、動物園はただの動物園でしかない。では、三つ星の評価はどこからくるのだろう?それはフランスで、東京のような巨大都市圏として思い描くものと、上野が一致しないことにある。実際、都会の中心というのに、これほど広大な公園がコンクリート至上主義に異議をはさむかのようにあるとは、フランス人は予想もしないし、周辺に網の目のように交差する路地に漂うのどかで田舎のような雰囲気も予想外。一歩路地に入ると、昔ながらの小旅館や小さな家、古い屋台店、目立たないバーやレストランがひしめき合っている。「田舎風の都会」を歩く感覚は、とくに谷中や根津地区で強く味わえる。そこでは、都会の鼓動はほとんど感じない。東京にいるという感覚がなくなり、消えてしまったようになる。」
私は東京育ちですので、東京というと上野や浅草など下町のイメージがありますが、確かに、地方の人や外国の人から見ると、東京はコンクリートで塗り固められ、緑もなく、高層ビルが建ち並び、人もわき目も振らずに急ぎ足で歩いている巨大都市と思うでしょう。そう思ってみると、上野や谷中は意表をつくかもしれませんね。

宝石の輝き

 富山湾の春の味覚であるホタルイカをいただきました。私はホタルイカは大好きですので、よくいただくのですが、ずいぶんとその年によって取れる量は変動します。今年は、3年ぶりに好調なようです。一昨年の4倍、昨年の2倍近い水揚げのようです。その好調の理由について、メカニズムは解明されていないのではっきりとはわからないようです。ホタルイカは、その生息だけでなく、全身が青白く光る、多くの謎につつまれた神秘的な生き物です。
「ホタルイカ」という名前の由来は、そのままで、「蛍のように光を放つイカ」というのですが、その昔は、地元では「まついか」と呼ばれていました。その名が「ホタルイカ」になったのは、明治38年、東京大学教授の渡瀬庄三郎博士の命名によるものでした。渡せ博士は、ホタルがどのような地域に棲んでいるかを調査しているときに、富山県に光を放つイカがいると聞ききつけて、このイカの研究をはじめるのですが、そのときにホタルのように美しい発光をするイカであることから「ホタルイカ」と名付けたのです。また、学名は博士の名前である「渡瀬」にちなみ「ワタセニア・シンティランス」と命名されています。
よくテレビでホタルイカ漁が放映されますが、水揚げするときにその光を放っている姿を映し出しますが、それにしてもその光は宝石のようで、綺麗ですね。 この発光は、発光物質に発光酵素が作用することによって起こります。その構造はいくらか異なってはいますが、昆虫のホタルの発光と同じしくみです。この熱を持たない「冷光」と呼ばれる光には、色々な役割があるようです。
まず、どんなときに光るかというと、刺激を与えたり驚かせたりすると簡単に発光します。ですから水揚げするときに光るのです。それは、暗い海中で外敵に襲われたときなど光を発することで相手を驚かせようとする目くらまし効果を狙った行動のひとつといわれています。また、昼間は上から照らす太陽光に反応して腹側にある発光器から光を出します。それは、ホタルイカは海中ではからだを水平にしているので、光が強すぎるとかえって目立ってしまうし、光が弱いとシルエットになり反対に敵に見つかりやすいので、光を上手に調節して敵から身を守っていると考えられています。
それから、その光り方は、蛍と同じようにその種類によって、それぞれの発光器の数や配列、種類の組み合わせなどは微妙に違います。また、眼は青、水色、緑の3種の色を識別でき、同じ仲間同士やオスとメスとの間で合図を送ったり、集団で行動したりすることができると考えられています。
この宝石な様な光りの美しさは、かなり昔から町おこしに利用とされていました。明治45年に、滑川を訪れた富山県知事より観光事業を行うことが勧められ、滑川におけるホタルイカ観光事業がスタートしています。そして、昭和36年頃には3隻の観光遊覧船が夜の海に出ており、また、ホタルイカ関連の加工食品の試作も始まっています。昭和62年には、早朝海上遊覧(定置網によるホタルイカ漁の様子を観光船に乗って見学)もはじまり、平成元年には漁民センターでの陸上観光(生けすにホタルイカを放し、発光する様子を見学)、平成10年には、ほたるいかミュージアムが完成しています。
春を感じるもの、町おこしの中心におかれるものは、その地にしかない様々な自然です。

日本庭園における関係性

日本庭園を形作っている大きな要素は、ブログで書いた「石」であり、「水」であり、もうひとつが「植物」です。その中心になるのが樹木です。庭の風致を描出するには、樹木の種類とその植え方に考慮しなければなりません。たとえぱ、遠い山や遠景の樹は、そこに林があるように見える木を踈密のバランスを考えながら植えます。また、近景としての木も重要です。その木は、余り多くは植えず、目の前でよく見えるために樹形や枝ぶりの良いものを選ぶ必要があります。まさに、それぞれ植える位置により、お互いの木の関係性を考えていくことが必要になるのです。
木の種類も、背の高くなる木は、もの静かで奥深い雰囲気になりますが、前方はるかに低い樹を点々と植えると、広々とした眺望の庭になります。また、常緑樹を多く植えると堅実な感じの庭園となりますが、落葉樹の多い庭は、淡泊な俗気のない気風となります。狭い庭を広く見せるためにも木を効果的に配置します。池の広さを感じさせないためにその端が見えないように、岩や植込みで隠したりします。またはその池の向こうに山を築いて、樹木をこんもりと茂らせたりします。ほかにも広く見せるために、庭に芝生や苔を敷き詰めたりすることも効果的です。このように日本庭園では、その庭を構成するさまざまなものの関係性で、その味わいを演出しているのです。
「庭と日本人」(新潮社)という書籍の中で、著者の上田篤さんは、最初のほうでこんなことを言っています。要約すると、「日本の庭は「文化的遺伝子」のダイナミックな発現である日本文化である。この世界は西洋の神のように絶対的な存在ではなく、見えないものでもない。それはしばしば見え、しかも変化する。といっても、それは物ではなく、“物と物との関係性”である。」そして、この関係を「時と場所と場合」の三者関係であり、日本の庭におけるこの関係が、見る人をしびれさせるのだと言います。確かに、時が関係します。季節の移り変わりによって、1日の日の動きによって、時間による影の動きによって庭の景色が変わってくことも楽しみの一つです。また、いわゆる「わび」「さび」の世界における味わいは、もっと長い時間の経過がもたらす味わいかもしれません。
そして、その庭のある場所も大きく関係します。日本の庭造りの手法に「借景」という方法があるように、その場所を上手に庭に取り入れます。「景色を借りる」とはまさに言いえていますね。私は、三者関係の中の「場合」というのはよくわかりませんが、私は、日本の庭における三者関係は、「場所、もの、時」だと思います。その庭がどの場所にあって、そこに何が配置されていて、それをどのくらいの時間の経過の中で見ていくか、それぞれの関係を見ていくことが庭の鑑賞だろうと思います。また、その庭に置かれているものにもそれぞれ関係性があります。その関係が、緩やかな空間を作ったり、時には緊張した関係を作ったり、相手の存在を際立たせる役目をしたりしています。また、だからといって物が多すぎると、騒雑に陥り、かえって不快に感じます。なるべくむだを省き、背景の景色を利用したりして、それ自体の存在を主張するようではいけないのです。それは、お互いのものの関係だけではなく、庭というものはもともと家屋を主とし、その家屋に一層の雅趣を添えることが目的だからです。
確かに、日本庭園は、文化的遺伝子の発現であるというのはわかりますね。

恵と脅威

 昨日、東京は大混乱でした。JR東日本の変電所で、漏電遮断器などが焼ける火事が起き、中央線快速が約7時間にわたって運転を見合わせたためです。この火災は午前6時半頃に起きたので、ちょうど通勤時間でした。朝の中央線は通勤のためにラッシュで非常に混雑をします。先日も八王子のほうから新宿に朝来た人は、「背骨が折れるかと思うほどだった。」と言っていました。毎日その電車で通勤している人は大変ですね。それが、その時間から7時間も止まったとなると混乱は起きるはずです。影響は、50万人にも及んだそうです。その火災は、漏電が原因とみられていますが、どうして漏電したかなど原因究明をして、再発を防いで欲しいと思います。
 この漏電の原因は、人的なものでしょうが、電気に関する事故は、主に自然によることが多いようです。例えば、同じ昨日の夜、岐阜県各務原市で停電がありました。この停電は、約500世帯が、最長約1時間40分にわたって被害を受けました。この原因も漏電ですが、なんと、鳥が運んだらしい食べかけのおにぎりの半分が、電柱上にある変圧器の充電部に接触したのが原因のようだと言うのです。鳥はいろいろなものを運びます。巣を、針金ハンガーを物干し場から運んで作ることも多いようです。この鳥は、食べるためでしょうが、おにぎりを運んだようです。
 今週の初めに、急速に発達した低気圧が関東の南海上を通過したため、関東地方は強い風雨に見舞われました。この強風や雨は、様々な被害をもたらしたり、交通機関を乱れさせました。日本航空と全日空では、羽田発着便を中心に計102便が欠航しました。東海道新幹線や東海道在来線や小田急線や千葉県内で、一時上下線で運転を見合わせたり、かなりの遅れをもたらしました。また、神奈川県では横須賀、川崎両市で宅地造成地などでがけ崩れが発生したり、横須賀市や川崎市で避難勧告や自主避難が行われました。静岡県では、風力発電施設2基の羽根がそれぞれ1本ずつ折れてしまいました。
4月は新しい年度の始まる月で、進学、進級、入学,就職,転勤を迎えます。また,4月は多くの地方でサクラが開花・満開となるのをはじめ,様々な花々が一斉に咲き誇ります。以前のブログではありませんが、きびしい冬を過ぎて暖かな、晴れやかで穏やかな天候の季節の春になったと思います。しかし、実は、4月という月は、天気が変わりやすく,寒暖の変動の大きい季節です。また、この季節には、低気圧が日本海を発達しながら通ることがあり、この低気圧にむかって南よりの強風が吹き,全国的に気温が上昇し、日本海側では山脈越えの暖かく乾いた強風が広い範囲で吹きます。このように、気持ちのよい春になる前にいくつかの試練があるのです。それは、今回の「春の嵐」と呼ばれる強風だけでなく、さまざまな気象用語があります。
一番恐ろしいのは、「雪崩」です。春先のくもりや雨の降る暖かい日に起きます。また、「雪解け」も川や池の水位を高くします。桜の花の咲く、四月初旬に冷え込むことを「花冷え」といいます。また、朝晩が冷え込むこともあり、その頃霜が降りることがあり、「晩霜」(おそじも)と呼びます。季節の変わり目に見られる気象現象です
 自然は、恵みだけでなく、脅威やきびしさももたらすことを忘れてはならないのです。