今週の日曜日に、江戸東京博物館に、特別展「ペリー&ハリス ~泰平の眠りを覚ました男たち~」を見に行きました。今年は、1858年(安政5)に米艦ポーハタン号上で日米修好通商条約締結から150年にあたります。そこで、ペリー来航から日米和親条約締結、そして日米修好通商条約に至る一連の推移と同時に、米海軍提督ペリーと初代駐日米国総領事ハリスに焦点をあてて、様々な資料が展示されています。
展示資料のなかに、ペリー艦隊の同行画家ハイネが描いた油絵原画があります。ドイツに生まれたウィリアム・ハイネは、アメリカへ亡命し、ペリー艦隊随行の「画家」として、各寄港地で、遠征先の風景をスケッチ画として残していますが、特に異国の地日本に魅せられました。そして、帰国後、ペリー艦隊日本遠征記の挿絵として掲載されたほか、石版画の画集として出版され人気を博しました。
その中に「寺子屋」を描いた絵がありました。その絵のコメントに「寺子屋の子ども達は様々な方向を向いていて、必ずしも先生のほうを見ていません。また、やっていることをさまざまです。それは、日本では、一斉の教えることはせず、子ども自ら学ぼうとすることを大切にするからです。その自発的な学びは、とても高い学力を生み出しています。」というようなことが書かれていました。
江戸東京博物館学芸員の市川寛明さんは、「江戸の学び」の本の中で、「体罰をめぐる日欧比較」という章でこんなことを書いています。
「ルソー以前における西欧の教育観の中核にあったのは、人間は教え込むべき存在であるとする考えであった。幼い子どもは、動物的な存在であり、これを調教することによって一人前の人間に育てあげるのだ。きわめて単純にいえば、ルソー以前の西欧社会では、こうした調教的な教育観が主流だったといわれている。」
ですから、よく西欧の学校を描いた絵画では、教師はむちを持っていることが多いのです。物事を教え込むための体罰は許容されていたのです。
「学ぶという行為が純粋に能力や技術の習得として考えられていた西欧社会と異なり、日本では学ぶことを通じて道徳の実践者になることに目的があると観念され、学ぶことと道徳とが不即不離の関係にあった。寺子屋において体罰がほとんど存在しなかったのは、主体的に学ぶことができる能力の涵養を重視した主体的な学習観の結果であった。」
このように、江戸時代の寺子屋は、主体的に学ぶ姿勢のために、一斉授業とは異なる個別指導が行われていたのです。市川さんは、寺子屋教育が近年注目されている理由をこう言っています。
「寺子屋は、起立、気を付け、礼の号令で始まり、教師の書く黒板に全員が注目し、また全員の注視の中で教師との問答を行う現代の教室風景とは全く異なっていたことは、教育制度の質的な違いを指し示す重要な論点である。」
これが、そう単純にいいとは言えませんが、少なくとも、当時、義務教育ではない時代に世界に稀な高い就学率であったり、高い識字率であったことを考えると、確かに学ぶべきところはあるかもしれませんね。江戸時代の寺子屋や藩校教育をもう一度検証する必要がありそうです。