上野4

 国立科学博物館のほかに、先日もうひとつ上野で訪れた場所がありました。
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  それは、上野寛永寺です。今、NHK大河ドラマで「篤姫」を放映していますが、この寺にはこの篤姫の墓があるのです。私と妻で、毎年どこかに出かけるときにテーマを持ったほうが目的を持ちやすいということで、NHK大河ドラマの舞台とか、縁のある場所を訪れるということをしています。今年は、徳川家に関するドラマですので、そのゆかりの地をいくつか訪れるつもりです。
 昨年、「風林火山」のときは、最終回のときに「武田信玄」と「山本勘助」のお墓で締めくくったのですが、今年は、お墓から始まりました。徳川の菩提寺というと、私は芝の増上寺だと思っていました。また、徳川家康は、日光東照宮を代表として、久能山など全国に一時は500以上のあったといわれている神社があります。この上野にも、「上野東照宮」があり、ここには徳川家康のほか、徳川吉宗と徳川慶喜を祀ってあります。
 実は、江戸には徳川将軍家の菩提寺は、芝の増上寺と上野の寛永寺と2つあるのですが、どうして二つに分かれているのでしょうか。
まず、初代将軍家康は別格で、神として東照大権現と呼ばれ、墓ではなく神社としてはじめは久能山(静岡)に葬られたのですが、のちに日光に移されました。2代将軍秀忠になると、徳川家の宗祖である浄土宗のお寺である増上寺に葬られたのです。この増上寺は江戸麹町にあった古くからの浄土宗のお寺であり、この寺の住職が、徳川家が岡崎の一大名であった時からの菩提寺と縁があり、菩提寺は増上寺に決まったのです。
上野寛永寺を建立した天海は、京都比叡山で修業し、比叡山が織田信長によって焼き討ちにあうと、武田信玄に奇遇し、73才の時家康と出会って以来、家康、秀忠、家光と三代に亘って将軍の政治顧問的存在でした。特に家光は家康の身代わりのように頼りにしました。その寛永寺は、今の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立されましたが、この年が寛永寺の創立年とされていて、その当時の年号の寛永をとって寺号を「寛永寺」としました。京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」としました。
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  そして、江戸城鎮護の祈願寺として古い歴史と由緒をもつ浅草寺が決まっていたのですが、上野に寛永寺が建立されてから、以前の浅草寺の代わりに新しく祈願寺としました。同時に家光は、この寛永寺を、祈願寺であるだけでなく菩提寺にしたのです。家光は遺言で自分の葬儀は寛永寺で、遺体は日光に葬るよう指示しました。当然、増上寺側からは反発はありましたが、六代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、それが幕末まで続きました。ですから、同じ徳川家でも二箇所に墓地があるのです。
 そこで、上の寛永寺の霊廟には、四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の墓がありますが、慶喜以外の残りの徳川の将軍は、みんな増上寺です。大河ドラマの篤姫は十三代家定の正室ですから、寛永寺に夫と並んで墓が立てられています。しかし、その墓を一般には公開されていません。
 恥ずかしいのですが、私は上野がある台東区に何十年も住んでいて、上野には何十回といったことがあるのですが、一度も寛永寺には行ったことがありませんでした。今回のNHK「篤姫」のおかげでいって見ることが出来ました。熱中するものを見つけるためには、何かのきっかけがなければなりません。テレビか、書物か、あるいはこのブログかもしれません。ですから、「臥竜塾」というのです。