« 2008年03月 | メイン | 2008年05月 »
2008年04月30日 [近頃思うこと]
寺子屋での体罰
今週の日曜日に、江戸東京博物館に、特別展「ペリー&ハリス ~泰平の眠りを覚ました男たち~」を見に行きました。今年は、1858年(安政5)に米艦ポーハタン号上で日米修好通商条約締結から150年にあたります。そこで、ペリー来航から日米和親条約締結、そして日米修好通商条約に至る一連の推移と同時に、米海軍提督ペリーと初代駐日米国総領事ハリスに焦点をあてて、様々な資料が展示されています。
展示資料のなかに、ペリー艦隊の同行画家ハイネが描いた油絵原画があります。ドイツに生まれたウィリアム・ハイネは、アメリカへ亡命し、ペリー艦隊随行の「画家」として、各寄港地で、遠征先の風景をスケッチ画として残していますが、特に異国の地日本に魅せられました。そして、帰国後、ペリー艦隊日本遠征記の挿絵として掲載されたほか、石版画の画集として出版され人気を博しました。
その中に「寺子屋」を描いた絵がありました。その絵のコメントに「寺子屋の子ども達は様々な方向を向いていて、必ずしも先生のほうを見ていません。また、やっていることをさまざまです。それは、日本では、一斉の教えることはせず、子ども自ら学ぼうとすることを大切にするからです。その自発的な学びは、とても高い学力を生み出しています。」というようなことが書かれていました。
江戸東京博物館学芸員の市川寛明さんは、「江戸の学び」の本の中で、「体罰をめぐる日欧比較」という章でこんなことを書いています。
「ルソー以前における西欧の教育観の中核にあったのは、人間は教え込むべき存在であるとする考えであった。幼い子どもは、動物的な存在であり、これを調教することによって一人前の人間に育てあげるのだ。きわめて単純にいえば、ルソー以前の西欧社会では、こうした調教的な教育観が主流だったといわれている。」
ですから、よく西欧の学校を描いた絵画では、教師はむちを持っていることが多いのです。物事を教え込むための体罰は許容されていたのです。
「学ぶという行為が純粋に能力や技術の習得として考えられていた西欧社会と異なり、日本では学ぶことを通じて道徳の実践者になることに目的があると観念され、学ぶことと道徳とが不即不離の関係にあった。寺子屋において体罰がほとんど存在しなかったのは、主体的に学ぶことができる能力の涵養を重視した主体的な学習観の結果であった。」
このように、江戸時代の寺子屋は、主体的に学ぶ姿勢のために、一斉授業とは異なる個別指導が行われていたのです。市川さんは、寺子屋教育が近年注目されている理由をこう言っています。
「寺子屋は、起立、気を付け、礼の号令で始まり、教師の書く黒板に全員が注目し、また全員の注視の中で教師との問答を行う現代の教室風景とは全く異なっていたことは、教育制度の質的な違いを指し示す重要な論点である。」
これが、そう単純にいいとは言えませんが、少なくとも、当時、義務教育ではない時代に世界に稀な高い就学率であったり、高い識字率であったことを考えると、確かに学ぶべきところはあるかもしれませんね。江戸時代の寺子屋や藩校教育をもう一度検証する必要がありそうです。
投稿者 fujimori : 23:26 | コメント (3)
2008年04月29日 [講演先にて]
出羽三山
羽黒山参道には、「奥の細道」には書かれていないいくつかのシンボル的な場所があります。
宿坊が立ち並ぶ道から随神門をくぐると、2446段の石段からなる参道に入ります。
その道の両脇には、樹齢300年から600年の老杉が鬱蒼と繁っています。その杉並木を歩いていくと突き当たるのが、シンボル的存在の「爺杉」です。
推定樹齢は1000年を超え圧倒的迫力があります。周囲11m50cm、樹高は48mを越える羽黒山内一の巨木で、国の天然記念物に指定されています。以前は同様の老杉、婆杉と並んでいたそうですが、今は、台風で失われてしまって、現在は爺杉のみとなっています。
その手前を右に折れて少し行くと、今度は「神橋」を渡ったところに、わずかな流れですが「原賀の滝」が見えてきます。修験場には、身を打たせる滝があることが多いのですが、この滝はどうも打たせるほどの水の流れではありませんが、かつては激しかったのでしょうか。一の坂の上り口である杉並木の中に、とても美しい姿を現したものが、東北地方では最古の塔といわれ、創建は平安中期、平将門の建立と伝えられていますが、定かではないようです。
純和様の伝統的な手法を厳格に守った素木造りの外観が特徴となっていて、古式の技法を伝える中世五重塔の代表的な例です。出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)では、奈良時代後期より月山神を奉じ、平安から鎌倉にかけて盛んとなった神を仏の仮の姿とする本地垂迹思想により神仏習合の修験道(教団)が成立しました。明治の神仏分離令(廃仏毀釈)により多くの堂舎が破壊されましたが、この五重塔は破壊を免れています。現在は出羽三山神社が奉戴し仏塔ではあるのですが、祭神を祀っています。
出羽三山のうち羽黒山のほか月山には、8日に芭蕉は登っています。「木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月顕る。」
この登るときに首に巻いていた「木綿注連」を、今週の日曜日にたまたま深川にある芭蕉記念館に展示されているのを見ることが出来ました。
月山は、今でも夏にスキーが出来る山として有名ですが、7月に芭蕉が登った時にも「氷雪を踏んで八里ばかり登れば」とあるように雪があったようです。私もこのあいだ羽黒山に登ったときにも、周りにはずいぶんと雪が残っていました。
そして、次の日、芭蕉は三山のもうひとつの湯殿山の方へ下っています。
「谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。」(谷の傍らに鍛冶小屋というのがある。この国の刀鍛冶である月山という人が、霊験あらたかな水をここに選び、身を清めて剣を打ち、ついに「月山」と銘を刻んで世にもてはやされた。これは、中国のかの龍泉の水で鍛錬したというのに通じるものだろうか。その昔、名剣を作り上げた干将と妻の莫耶の故事を慕うものである。熟達した技を身につけるには、それに深くこだわることが大切と知られたことである。)
良い剣や刀は、良い水が必要なようです。そして、そのこだわりがプロなのでしょう。
投稿者 fujimori : 23:31 | コメント (3)
2008年04月28日 [講演先にて]
羽黒山
庄内地方の背景をかたどる出羽三山とは、「月山」「羽黒山」「湯殿山」の総称です。これらの山は、修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集めています。そして、それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社といいます。しかし、それぞれに詣でることは大変なので、羽黒山に三社の神を併せて祀る三神合祭殿があります。
松尾芭蕉は、1675年に江戸に下り、神田上水の工事に携わった後、1678年に宗匠となり、職業的な俳諧師となります。そして、1680年に深川に草庵を結びます。そこに芭蕉の木を一株植えたのが大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けられました。

しかし、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失してしまいます。その芭蕉が、弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文「奥の細道」はとても有名です。
芭蕉が、羽黒を訪れたのは1689年です。その時のことを「奥の細道」にはこう書かれてあります。

「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。」芭蕉一行は、6月3日、出羽三山の門前集落・手向に到着後、図司左吉の案内で、日の落ちた羽黒山参道を登り南谷にたどり着いています。その日は、南谷の別院に宿泊したようですが、主から、思いやりの心で、情が細やかにもてなされたようです。
「四日、本坊にをゐて誹諧興行。」4日には、本坊で俳諧の会を催し、「有難や雪をかほらす南谷」という句を読んでいます。この句は、「旅に疲れた身にとってとても有難いのは、この霊山の谷あいから、雪の香の南風が吹き寄せてくることです。」
5日には、羽黒権現に参詣していますが、このときに羽黒山のいわれを書き記しています。「延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。」そして、この羽黒山について「当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。」(この寺は、武蔵国江戸の東叡山に属して、天台宗の止観の教えが月の光のように行き渡り、円頓融通の教えも合わせともって、僧坊が棟を連ね、修験者は修行に励んでおり、この霊山霊地のご利益を貴びながらも、そのあらたかさに人々は恐れを抱いている。そして、この繁栄は長く続くと思われ、実に立派なお山と言うことができるだろう)と書いています。
芭蕉は、奥の細道すがら、山形県ではいくつかの有名な句を残しています。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」は、山形県立石寺で読んだ句ですし、「五月雨をあつめて早し最上川」は、山形県大石田町での句です。羽黒山の次に登る月山のことは、「雲の峰いくつ崩れて月の山」と詠んでいます。
今回で私が羽黒山を訪れたのは、季節としては、芭蕉よりも3ヶ月ほど早かったのですが、なんだか、芭蕉の世界に浸ることが出来ました。
投稿者 fujimori : 20:50 | コメント (4)
2008年04月27日 [地域を知る]
日本の風景
いろいろなところを訪れてみて、日本はとても美しい国だとつくづくと思います。それは、四季を巡る自然であったり、変化に富んだ海や山などの自然の景色であったり、人と自然が共生している里山であったり、人々の暮らしであったりします。
それらの美しさは、実際に展開されるだけでなく、小説や映画の世界でも展開されます。先週訪れていた庄内平野にある鶴岡市は、まさに春の盛り、藤沢周平が描いた世界と、その原作を基に黒土三男監督が映画化した世界とが微妙に重なり合って、美しい世界を表現しています。
映画「蝉しぐれ」のオープンセットが残されています。
ここは、当然架空の藩を舞台にした原作を基にして、架空の主人公の世界を残しているのですが、日本のある美を実際に見せてくれます。この「蝉しぐれ」は、藤沢周平作の長篇時代小説で、藤沢作品のなかでも代表的な小説のひとつであり、1986年から山形新聞」夕刊で連載され、その後文藝春秋社 から単行本として刊行されました。
この小説のストーリーは、幕末時代の山形県庄内地方に設定された架空の藩、海坂藩を舞台に、政変に巻きこまれて父を失い、家禄を没収された少年牧文四郎の成長を描いています。木立と清流に囲まれた組屋敷は、長屋の構造をしていて、庭は隣と繋がっています。
隣に住んでいるのは、お福という年下の女の子です。この組屋敷という長屋の構造が、主人公たちの人の付き合いを表しており、進んでいくストーリーの環境として物語に情感を与えています。小説の中で生き生きとした文体で表現される日本の自然は、映画の中でも再現されています。それは、この舞台であるひろく広がる庄内平野に整然と区画された水田、その周りにはみどりに茂る林と、長屋の周りにわずかにある木立、屋根の上に草が生えている家、その背景しての出羽三山、オープンセットを訪れると、まさに小説の世界がそこにありました。
「蝉しぐれ」の原作者藤沢周平は、その小説の中での自然描写が多く、まさに東北の小藩「海坂藩」がそこにあるように、地形、気候、生活が描かれています。ですから、読んでいてもそれがイメージでき、映画化された風景を見ても違和感がないのでしょう。それは、この文庫版の目次を見ても、如何に自然とかみ合った話であるかということがわかります。小タイトルの中で自然が入っているのをあげてみると、「朝の蛇」「夜祭り」「嵐」「雲の下」「黒風白雨」「蟻のごとく」「落葉の音」「梅雨ぐもり」「暑い夜」「秘剣村雨」「春浅くして」「行く水」そして、最後の章の「蝉しぐれ」と続きます。ここには、「朝」「夜」「しぐれ」など1日の流れ、そして「雲」「風」「雨」「嵐」「梅雨」などの天候に関するもの、「蛇」「蟻」「蝉」などの生き物、そのほか「黒」「白」、「落葉」「暑い」「浅い」「くもり」など、たったこれだけの中にずいぶんとたくさんありますね。
これらの言葉には、あるニュアンスが含まれています。それぞれの情景が思い浮かびます。この微妙さが、日本独特なものかもしれません。言わなければわからない時代に、次第にこの微妙さを感じなくなってくるかもしれません。
投稿者 fujimori : 21:33 | コメント (4)
2008年04月26日 [新聞記事より]
猫と獅子
先日、園のベランダに置いてあるマットを持ち上げてみたら、その隙間に子猫が5匹眠っていました。どこかの猫が子猫を産んだようです。どうしようかと職員で話し合ってりのを遠くから母親猫が心配そうに見つめていました。その子猫の処分をどうするかをみんなで話し合おうということにして、とりあえずそっとしておきました。その次の日、どうしているか覗いてみると、一晩のうちに母親猫がすべての子猫を一匹ずつくわえて、どこか誰もわからないところに移してしまっていました。
読売新聞に、猫に関する言葉が掲載されていました。一つ目が「茨城県では10億円もの巨額の猫ばばが露見した」という4月24日付の「よみうり寸評」です。
「〈猫ばば〉――悪事を隠して素知らぬ顔をすること。拾い物、預かった物などを自分の物にして知らん顔をすること。着服、横領だ。この意味は広く知られているが、〈ばば〉の語源には糞(ばば〉説とともに婆(ばば)説もある。前者はネコが後足で砂をかけて隠すところから。後者は江戸の本所に住んでいたネコ好きの老婆が欲張りだったからという説だ。)しかし、猫が自分の糞に砂をかけて隠すのは、何を悪事を隠すためではないのに、えらい迷惑ですね。また、もうひとつの説でも欲張りなのも、猫ではなく、猫好きの老婆ですので、これも猫が欲張りなわけでもありません。しかし、猫ばばというと、猫がズルいように聞こえます。
もうひとつの記事は、横領ではなく万引きについてネコ科の獅子についての4月25日付け「編集手帳」です。万引きを取り押さえられた者のなかには小学生もいて、引き取りに来てわが子を叱らず、「金を払えばいいんだろう」と開き直り、「なぜ取りやすい場所に置く」と店員を責める親に対して、「太平記」巻16の一節の「獅子、子を産んで三日を経る時、数千丈の石壁より是をなぐ」という子の成長を祈る親の厳しい愛情を例に挙げています。
この一節は、楠正成が長男である当時11歳の少年であった楠正行に櫻井宿でさとす場面として有名です。「ライオンは出産の3日後、わが子を高さ数千丈の断崖から投げ捨てると言われている。もし、その子に百獣の王に育つべき素質があるならば、誰に教えられるともなく、空中から跳ね返って、墜落死しない。」と言って親子が東西に分かれていくのです。これは もとは古い中国の故事で、獅子とは清涼山という山に棲む架空の聖獣で、アフリカのライオンの事ではないのですが。
太平記といえば、遊和軒朴翁の語った古代インドの逸話の中に親子の情を描いた場面でこんなのがあります。
妻とわが子を取られた獅子の化身である獅子王が、乱暴の限りを尽くし、その首に賞金をかけられます。そんなときにわが子と再会します。そして、わが子に手柄を立てさせるために、自分を討つように涙ながらに言います。
「生きているものすべからく、わが命を惜しむは、わがいとし子の為を思っての事。そなたが一国の主となり、その栄華がわが子々孫々に及ぶとならば、この期に及んでわが命、なんで惜しむはずがあろうか。太子よ、速やかにその弓を引き、矢を放ってわしを射殺せ。そして、恩賞に預かるがよい。」
わが子を思う親の気もちは世の常ですが、何をすることがわが子にとって良いことなのか難しいことですね。
投稿者 fujimori : 22:53 | コメント (4)
2008年04月25日 [講演先にて]
帆船
今日、長崎から帰る前に、大型帆船が集う「2008長崎帆船まつり」を見に行きました。24日から28日まで長崎市の長崎港で開かれています。この祭りは、2000年から毎年開催されているそうですが、今年は、独立行政法人航海訓練所の練習船で、日本最大の帆船「日本丸」(全長約110メートル、2570トン)と「海王丸」(同約110メートル、2876トン)や、韓国国際海洋都市研究院所属の「コリアナ」(135トン)など計6隻が参加しています。
昨日のテレビでは、長崎市の観光船「飛帆(フェイファン)」を先頭に、女神大橋をくぐって6隻が一列に入港する「入港パレード」が何度も放送されていました。
帆船といえば、私がすぐに思い出すのは、フック船長が乗っていて、その船のマストの上でピーターパンと戦う姿です。
それを思い出したのは、先日テレビで実写版のピーターパンを放送していたからかもしれません。このフック船長の乗っている帆船は、ディズニーのアニメでは、最後のシーンで空を飛んでいく姿が描かれていましたが、ディズニーランドでは、それをモチーフにしたアトラクションに人気があります。2人乗りの空飛ぶ海賊船に乗って、子ども部屋の窓から飛び出し、ロンドンの夜の空を飛び、ネバーランドへ行くのです。
帆船とは「帆」に風を受けて推進力とする船のことで、当然船の歴史の中では古くから乗られています。すでに紀元前3000~4000年ごろには、エジプトのナイル川では、すでに帆をつけた川舟が登場していました。帆に風を受けて走るので、ナイル川周辺では、風はほぼ一年中、川上に向かって吹いているために、川を上るときには帆を張り、川下へ行くときは帆をおろして川の流れにまかせて走ったのでしょう。
日本のお隣の中国でも1000年以上前に平たい船底を持った「ジャンク」と呼ばれる船が開発されました。このジャンク船は、西洋より何世紀も前に舵や当て木のついた帆を持っていました。この竹で補強された帆は平らな形をたもつことができ、強風のときは帆の一部を簡単に折りたたむこともできるものでした。
日本でも3~5世紀には、すでに簡単な帆が使用されていたようですが、本格的に帆が用いられるようになったのは7~9世紀(奈良時代~平安時代)にかけて中国へ渡った「遣唐使船」からのようです。この船は、2本のマストを持つ中国のジャンク船型の帆船でした。当初の遣唐使船は、全長20~25m、おおよそ100tあまりの船でしたので、今回姿を見せている日本丸に比べると、5分の一くらいの長さで、重さはなんと25分の一にしかなりませんので、さぞかし頼りなかったでしょうね。しかも、潮流や風向きを利用して進む帆船でありながら、当時は航海に際して季節風を知らなかったり、航海術も未熟だったために、多くの遭難船を出しました。ですから、はじめのころは、1隻か2隻の帆船で渡海していましたが、どれか1隻でも中国に着くようにということで、8世紀にはいると4隻で行っています。この時代の遣唐使のうち全ての船が往復できたのは、なんとたった一回だけという遭難率だったそうです。また、奈良朝、平安朝の時代に遣唐使船は18回出港していますが、無事任務を果たして帰ってきたのはたったの8回だと言われています。
今回停泊している帆船は、通常は外洋での走帆訓練の時しか帆を広げた姿は見られませんが、日本丸や海王丸ほどの大きさになると、帆の数は36枚にもなり、帆を広げた帆船は迫力満点で、とても美しい姿です。しかし、その美しさの影に、悲しい歴史の経過を含んでいます。
投稿者 fujimori : 23:30 | コメント (4)
2008年04月24日 [近頃思うこと]
マジックフェザー
中野区の広報にこんなお願いが掲載されていました。
「針金ハンガーを使用する場合、洗濯物は洗濯バサミなどで数箇所とめて、外れないようにする。また、外出時や夜間は、洗濯物を出しっぱなしにしない。布団や座布団などを捨てるときは中身が見えないようにする。」
なんだか、変質者や痴漢対策のような注意事項が並んでいますが、実はカラス対策のお願いなのです。
カラスは、巣を作り、子育てをするために、つがいで暮らす時期(繁殖期)と集団で行動する時期(非繁殖期)がありますが、今は繁殖期に入り始めています。そのために、まず3月から4月にかけて巣材を運び、巣作りをします。そして、4月から5月にかけて産卵し、卵を暖め、5月から6月にかけてひなを育て、6月から7月には幼鳥の巣立ちの時期となります。
カラスの巣は、大きな樹木の上に、外側は小枝、木片などの硬い素材をつかい、内側は動物の羽毛、わらなどの柔らかい素材を利用しますが、都会では、鉄塔、照明塔、広告塔などの上に、ポリエチレンのひも、ビニール袋、布団の中綿などや、なかでも人気の高い針金ハンガーは、巣を頑丈に作るための格好の材料となっています。
東京では、カラスの繁殖は、1970年代には山手線の内側ではほとんど確認されませんでしたが、1990年代には多数確認されるようになり、カラスの生息数も、1985年の都市部のカラスは約7千羽と報告されていましたが、2001年の調査によると都内全域で3万羽から3万5千羽生息していると推計されています。
そこで、カラスが生態系に与える影響など様々な問題が身近なところで起こっています。そこで、東京都では平成13年にカラス対策プロジェクトチームが、石原都知事の表明のもと発足しました。このチームへの思い入れは深いようで、当時副知事も「カラス担当として今までの枠を超えて思い切った提案をしてほしい。今月は、カラス・カラスで頑張ってもらいたい」と激励したほどです。報告書「東京のカラス問題を解決するために」が出されました。一月間でのプロジェクトでしたが、すごい力の入れようですね。
もともとカラスはペットでも家畜でもなく、都市に生きる野生動物です。それを、人が意識してだけでなく無意識のうちにごみの出し方などでエサを与え続けてきたことが、カラスの異常増殖を促し、人とカラスとの距離が縮まり、様々なあつれきが生じてきたわけなのに、なんだかカラスだけが悪者のような扱いですね。本来は、人と野生動物との理想的なつきあい方は、お互いが過剰に干渉することのない状態を築くことなのです。
どうもカラスは、あの真っ黒な色や死にそうになると周りを飛ぶイメージからか、不吉な感じがしたり、世界に約9千種いる鳥類のなかで、最も脳が発達しているとの報告があることから昔からずるがしこいイメージがあるので嫌われ者なのでしょうね。
しかし、私はカラスを見て、運がいいと思うようにしています。それは、ディズニー映画「ダンボ」の中で、ねずみのティモシーがカラスの羽をダンボに「これは魔法の羽だからこれを持てばきみは飛べるよ」を言って渡します。これは、暗示をかけたのですが、それによって潜在能力が引き出されて飛ぶことができるのです。そんな「マジックフェザー」だと思えば、あまりカラスを気味悪がらなくてもすみます。
投稿者 fujimori : 22:57 | コメント (4)
2008年04月23日 [近頃思うこと]
四神
昨日、姪から今テレビで「太王四神記」というペ・ヨンジュンが主役を演じているドラマが放映されていることを聞きました。このドラマは、広開土大王のタムドクが王となり、広大な満州大陸を支配する内容を描くもので、その神話に登場する四神(玄武・朱雀・青龍・白虎)をファンタジーに表現しているそうです。
昨年のゴールデンウィークに明日香村を訪れましたが、そのときに高松塚古墳に行きました。この高松塚古墳から南へ約1.2kmの大字阿部山には、終末期古墳である「キトラ古墳」があります。この古墳は、直径13.8m、高さ3.3mの小さな円墳で、高松塚古墳とほぼ同大同型の石室で、北の壁に玄武、東に青龍、西に白虎の壁画が描かれ、天井には天文図の壁画が確認されており、現存するものでは東アジア最古の天文図であるといわれています。
キトラ古墳石室内の彩色壁画の玄武壁画は、1983年に発見され、世間や学会から注目を集めました。キトラという名前は、「北浦」が「きとら」となまったものといわれています。2000年7月31日には、国指定史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定されました。円墳という古墳の形体や四方に四神が描かれた壁画が残されているという類似点から、高松塚古墳とは兄弟と呼称され、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官が埋葬されている可能性が高いと見られています。また、キトラ古墳では金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測されていますが、誰が埋葬されているかはハッキリとは解明されていません。
その時代の中国や朝鮮半島では獣頭人身を象った浮き彫りや土人形が埋葬された墓が発見されていますが、このキトラ古墳も四方の四神が描かれた壁の下にそれぞれ三体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれているとされていますので、高句麗や新羅などの文化的影響を受けていたと考えられています。
キトラ古墳の内部は漆が塗られ、東西南北の四壁の中央に、テレビで放映している四神である青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれています。北壁に描かれている「玄武」は、亀に蛇が楕円状にまとい付き、2匹が相争っている形です。玄武は周天を天の赤道帯に沿って4分割した四象の一つで、北方七宿の総称で、北方七宿の形をつなげて蛇のからみついた亀の姿になっています。
南壁に描かれている「朱雀」は、南方を守護しています。翼を広げた鳳凰状の鳥形で表され、朱は赤であり、五行説では南方の色とされています。東壁に描かれている「青竜」は、東方を守護します。長い舌を出した竜の形とされています。青は五行説では東方の色とされ、季節は春とされています。西壁の「白虎」は、西方を守護し、細長い体をした白い虎の形をしています。また、四神の中では最も若い存在であるとも言われており、白は、五行説では西方の色とされています。
たまたま、私の園では、地下を守っているのは「白虎」(白虎の絵を描いた衝立がおいてあります)で、最上階を守っているのは「青竜」(臥竜塾の原画)で、玄関を守っているのは「玄武」(実際はただの亀ですが)ですので、あとは、裏階段に「朱雀」でも描こうかなと思っています。
投稿者 fujimori : 23:38 | コメント (4)
2008年04月22日 [記念日]
地球
今日のグーグルのロゴは、岩が文字をかたどり、滝が落ちる脇には木が生えています。きょうは、「地球の日」だからです。地球の日は「アースデイ」といわれ、地球に感謝し、美しい地球を守る意識を共有する日です。1960年代の終わり頃、環境問題や、その保護のために力を注ぐ政治家はまだ少なく、そのうちの一人だったネルソン氏は、学生運動・市民運動がさかんなこの時代に、アースデイを通して、環境のかかえる問題に対して人びとに関心をもってもらおうと考えました。その概念は、当時スタンフォード大学の全米学生自治会長をしていたデニス・ヘイズ氏に伝えられました。 ヘイズ氏は、全米中にアースデイを呼びかけました。1970年に行われたアースデイは、アメリカ全土で2000万人を集め「環境保護に地球市民として取り組む」集会を行い、地球への関心を表現するアメリカ史上最大のイベントとなりました。このアースデイをきっかけに、環境問題に対して人びとの関心が払われるようになり、環境保護庁設置や大気浄化法、水質浄化法などさまざまな環境法が整備されたほか、環境問題について消極的な態度をとりつづけてきた議員が選挙に落選し、軍は東南アジアにおける枯れ葉剤の使用を禁止されるなど、アースデイの影響はあらゆるところに及びました。日本に歩行者天国ができたのも、このアースデイがきっかけです。
地球は太陽から3番目の惑星で5番目に大きな惑星です。そして、太陽からの距離は、149,600,000 kmです。そして、その直径は12,756.3 kmあります。太陽系のほかの惑星は、その英語名はギリシャ神話やローマ神話をもとにしています。水星はマーキュリー、金星はビーナス、火星はマーズ、木星はジュピター、土星はサターンといいます。しかし、地球の英語名のEarth(アース)は、ギリシャ神話やローマ神話をもとにしていません。この名前は古い英語とゲルマン語から来ているのです。
今では小学生でも知っていますが、地球があるひとつの惑星に過ぎないということがわかったのは、コペルニクスの時代(16世紀)になってです。しかも、この惑星全体の地図は20世紀になって初めてできたのです。現在、よく気象情報や台風情報などで地球の宇宙空間から撮影された写真を見ることがありますが、とても綺麗ですね。この写真を見るだけでも大切にしなければと思います。

以前のブログで、笠木透さん作詞作曲の「私の子ども達」という私の大好きな歌を紹介しましたが、やはり笠木さん作詞の歌に「少年よ」という歌があります。今日の「地球の日」に、この歌を思わず口ずさみました。
「この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 国境線など どこにもないだろう 海と大地とが 広がっているだけ この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 山は雪を抱き 森林は緑 山と海とを 川がむすんでいる 無限に広がる 宇宙の中で 君の生きてゆける たった一つの星 永遠に流れる 時間の中で 君の抱いている たった一つの生命 この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 島から島へ 風は渡って行く 海から海へ 魚は泳ぎまわる この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 雨は土に降り 草原に花は咲く 鳥やけものたち 大地を走り回る 無限に広がる 宇宙の中で 君の生きてゆける たった一つの星 永遠に流れる 時間の中で 君の抱いている たった一つの生命」
投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (5)
2008年04月21日 [近頃思うこと]
徂徠豆腐
庄内藩の藩校教育に影響を与えた荻生徂徠といえば、徂徠の逸話から採った落語、講談、浪曲でのネタとして「徂徠豆腐」というのがあります。その中の名せりふを小泉さんがたとえとして使ったことでも有名になりました。
「江戸にいたんじゃ、「まさかこんなことはできねえ、まさかあんなことはできねえ」って、「まさか」って坂を心にこしらえてしまう」というもので、人生には「まさか」というようなことが起きます。しかし、その「まさか」といった事態を越せなければ、江戸では生きていけないのです。「まさか」を越すぐらいなら、田舎へ流れていった方がいいのではないかと女房に言いつつ、自分にも言い聞かせるのです。このまさかという逸話がこれです。
豆腐屋が街を流して売っていると、ある長屋で貧乏学者風の男に呼び止められます。すると豆腐を一丁だけ売ってくれと言うのです。豆腐を渡すと男はその場で豆腐をたいらげ、細かい金はないから、あとでまとめて払うと言います。そんなことが5日ほどつづき、豆腐屋が今日こそ払ってくれと言うと、男は金がないというのです。そこで豆腐屋は問いただすと、「今は学者の勉強をして、世の中を良くしたい。いずれ世に出る日がくるから、そのとき払う」と言うのです。それなら出世払いで良いからと、翌日から差入れが始まります。そんな行動をおかみさんが不審に思い、咎めるのですが、理由がわかるとおにぎりを持ってお行きと言うのです。あるとき豆腐屋は風邪で2週間ほど寝込んでしまいます。しかし、その男のことは気になっていたので、病み上がりの体で長屋を訪ねたのですが、もぬけの殻で、行き先も分かりません。長屋で名前を聞くと「確か、お灸がツライ、とかなんとか言っていたよ」と言うだけです。その後何回か足を運んだのですが、わからずじまいで、次第に夫婦の頭から消えていきました。
ある夜、豆腐屋の隣から火が出て、豆腐屋も全焼してしまいます。もらい火で、一夜にして店も家も財産も失った豆腐屋の上総屋七兵衛が、うちひしがれている女房に向かって「こうなればどこか田舎へ流れていくしかない、江戸にはいられない」と言う時のせりふが最初に書いたせりふなのです。そうしていると、そこへ立派な身なりの男が現れ、ぜひ援助したいと言います。最初は誰だかわからなかったのですが、以前、豆腐を食わせていた男だと気が付きます。名前を聞くと、「お灸がつらい」ではなく、「荻生徂徠」だと言います。「おきゅうつらい」ではなく「おぎゅうそらい」だったのです。徂徠の援助で豆腐屋はまた店を再建するのです。その豆腐は「徂徠豆腐」と名づけられました。
このような世に出る前に一日一丁の豆腐で飢えをしのいで勉学に励む荻生徂徠と、その清廉、真摯な姿勢にうたれた豆腐屋との温かい交流を描いたものです。この話は、事実と、落語で話される内容を私なりに少し混ぜて変えてしまっている部分もありますが、大筋このような話です。
この豆腐屋の行為を、落語では徂徠にこのように説明させています。「十年前、私は銭を払うような素振りで、都合、三丁の豆腐を食しました。無銭飲食です。法に触れた行いです。しかし、あなたはそのことには 触れず、『出世払いでいい』と情けをくださったではありませんか。あなたは天下の法に許す限りの情けを注いでくださったのです」
ちょうど先日、私が、園の方針がぐらつくのではないかというある保護者にこんな話をしました。「園は夜8時半に門を閉めます。しかし、その時刻にきちんと門を閉めるのは機械でもできますが、遅れた事情を聞いて、それを許すことができるのは人間だけです。それは、子どもにとって最善の利益を求めるという理念がぐらつかないからです。」と答えたのです。
投稿者 fujimori : 19:31 | コメント (5)
2008年04月20日 [講演先にて]
給食発祥の地
最近のニュースで、「小麦や牛乳などの価格上昇は、家計だけでなく、学校給食も直撃している」というのが流れてきます。そのために、各自治体ではコストを抑えようと様々な工夫をこらしているようです。給食費を値上げるところ、デザートを減らしたり、地産地消の考え方を推進したり、素材の内容を見直すところなど様々です。
週末訪れた庄内藩の山形県鶴岡市の大督寺は「学校給食発祥の地」です。
明治22年(1889年)学費が払えないため学校に通えない子ども達のために鶴岡市の各宗寺院住職ら相図り、大督寺境内に「忠愛学校」という学校を立て貧しい子ども達に学問を教えていました。ある日から数日続けて数人分のお弁当が盗まれる事件が発生しました。誰が盗んだか調べてみると犯人は子どもでした。しかも、その子は、昼はおろか朝晩もまともな食事をとることの出来ない家庭の子どもであることがわかりました。そのことを知って心を痛め、「なんとかしてあげたい」と思って知恵を出し合いました。そして、経をとなえ一軒一軒家を托鉢してまわり、お米や浄財を資金に弁当を持ってくることが出ない子どもたちのために昼食を作りました。最初のメニューは、おにぎり・煮びたし・塩引きだったそうです。
鶴岡市では、「学校給食発祥の地」を記念して、小中学校では毎年12月1日にケーキなどがつく特別給食と、12月中旬に、明治時代の献立を再現した「おにぎり給食」が行われているそうです。この給食メニューは具の入っていない塩おにぎり1個と塩引きのマスと大豆とコンニャク煮となめこのみそ汁と牛乳だそうです。
その後、昭和19年、6大都市の小学生児童約200万人に対し、米・みそ等を特別配給して学校給食を実施するに至ります。そして、昭和21年には、戦時中中断されていた学校給食が東京、神奈川、千葉で試験的に再開されます。その翌年、主要都市の約300万人の児童にララ物資を利用した学校給食が開始されるのです。
ところが、団塊の世代にとっては給食といえばあまりよいイメージを持たなくなる原因の「脱脂粉乳」が、昭和24年にユニセフ(国連児童基金)から贈られ、ユニセフ給食がおこなわれはじめるのです。そして、その翌年の昭和25年には、アメリカ合衆国が大量に残っていた小麦粉を日本に安く売り、それをパンにして提供し、都市で完全給食がおこなわれるとともに、給食はパン食が中心となり、国民全体の食生活にも影響を与えるようになっていくのです。
昭和29年、学校給食は教育の一環として学校給食法施行、昭和31年、「学校給食法」が一部改正され、中学校にも適用されるようになります。そして、昭和33年に悪評だった脱脂粉乳が牛乳へ、昭和51年には、今度は日本人の食事の洋食化に伴い、米の生産量の増大と反比例して消費量が減ってきたので、余った古米、古古米を処理するために給食ではパンは週1回程度になり、米飯給食が主食となっていくのです。
最初は、子どもたちの救済のために始まった給食も、時代によって、政策や国際間取引のかけひきに使われてきたのです。まずい脱脂粉乳を我慢して飲み、パン食のほうが体によいと教えられ、残すと居残りさせられたり、怒られた背景にこんな政治的なことがあったと思うと、なんだか切なくなりますね。
投稿者 fujimori : 21:15 | コメント (5)
2008年04月19日 [講演先にて]
庄内藩の教育
「たそがれ清兵衛」などの舞台である海坂藩は、原作者藤沢周平の故郷である庄内藩がモデルだといわれています。今、庄内に来ています。この庄内藩は、戊辰戦争で薩長軍と戦い、連戦連勝しながらも、会津藩の降伏などで勝ったまま降伏した話とか、その後の処置について、庄内講和を担当した西郷の計らいで、同様に降伏した会津藩や仙台藩と比べても、非常に寛大な処分で済んだことも知られています。そのときの西郷の人柄に庄内藩士らは感激して、明治になって「南洲翁遺訓」を編纂・発刊したほどです。
そんな庄内藩における教育も注目すべきことがありました。一昨年、当時の庄内藩であった山形県鶴岡市で、「第6回全国藩校サミット」が行われました。藩校サミットは、江戸時代の藩校が藩政改革や明治維新に大きく寄与したことを再認識し、今日の教育改革の糧にしようとするものです。鹿児島の郷中教育のように今の教育に参考になることが確かにたくさんあります。庄内藩の藩校「致道館」にも今に通じる考え方があります。

「致道館」は、庄内藩の藩校として1805年に設立されていますが、当時の庄内藩は、飢饉のため農村は疲弊し、財政難のうえ武士の風紀も乱れていました。そこで、九代目藩主酒井忠徳が藩風の刷新と人材育成のために開設したのです。致道の名は、「君子は学んで以って其の道を致す」という論語の言葉から取ったものです。
藩校では、孔子を祭る聖廟を建て、学問の神として祭祀を行ってきました。ですから、名前には、このように論語から取った名前が多いようです。致道館のほか、里仁館(酒田市)、学習館(栃木県壬生町)、知新館(恵那市)、弘道館(彦根市)、伝習館(柳川市)、時習館(熊本市)などは、みんな論語から取っています。
致道館の教育の特色は、荻生徂徠の学を取り入れたことです。当時の学界は江戸の昌平坂学問所の影響で朱子学一辺倒だったのを、異学といわれる徂徠学を中心におきました。「学問の目的は世を治め民生を豊にするもの」と説く徂徠学は古文辞学ともいわれ、古典の注釈でなく原典そのものに帰り、孔子の教えを直接研究しようとする学問でした。詰め込み教育ではなく個人の天性と長所を伸ばす教育方針を主眼として自学自習して自得する、という自由で実践的な学風は、「沈潜の風」(副島種臣)といわれる藩風をつくりだしました。
庄内藩の教育について、先日亡くなられた河合隼雄氏はこう書いています。
「その趣意書(被仰出書)を見ると、人間には「天性、得手不得手」がある。そして「天性の大なる者は大成し、小なるものは小成」するので、個々人の天性を見抜いて指導することが大切だと書いてある。これは「個性の尊重」ということです。入学したての少年たちの指導者に対する注意として、「学校の儀は、少年輩の遊び所」だから、「何事も寛大に取り扱い」、子どもたちが退屈しないように「面白く存じ業を教え遊ばせる」ように努力するべきである、というのである。これは個性を伸ばそうとする初等教育の方法として最高のことではないだろうか。上級者はどうなるのだろう。学風は荻生徂徠の教えによっているのだが、その教えに従って、指導者はあくまでも学生の自発性を尊び、自説を押し付けることのないように注意した。」
学ぶべきことは、新しい理論からだけでなく、古い実践からも学ぶべきことは多いですね。
投稿者 fujimori : 22:23 | コメント (4)
2008年04月18日 [近頃思うこと]
渾名
一昨年、木村拓哉の主演で話題になった「武士の一分」の原作は、時代小説「盲目剣谺返し」(『隠し剣秋風抄』藤沢周平作)です。この映画は、監督の山田洋次の「時代劇三部作」と言われ、「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」についでの第3作目の完結作品です。私は、どの映画も見ていませんが、たそがれ清兵衛」は本で読みました。
この文庫版の原作は短編集ですが、とても面白い作品の集め方をしています。それは、この短編集はある人物の人となりを中心に描かれていますが、その人をあらわすタイトルが、その人のあだ名になっているのです。あだ名のつけ方はいろいろとあります。このあだ名を「愛称」という場合は、とくに親しみを込めて対象を呼ぶために用いられる本名以外の名前の一種であり、幼児などはこの呼び方をする場合が多いようです。その場合は、例えば「カッキー」とか「タッキー」のように名前の一部を伸ばしたり、「まつ」「なか」のように短縮したりします。
また、身体の特徴からつける場合もあり、この場合は可愛い場合はいいのですが、多くは馬鹿にしたり、からかったりする時に呼ばれることも多いようです。そのほかにも、性格や気質や雰囲気からつけることもあります。夏目漱石の小説「 坊っちゃん」は、その主人公のあだ名ですし、その小説の登場人物もみんなあだ名が付けられています。「赤シヤツ」、「野だいこ」、「マドンナ」、「山嵐」、「うらなり」など、その名前を聞くだけで、その人のイメージがわくようにできています。
ところで、藤沢 周平の作品に出てくるあだ名は、その主人公の特徴を名前の前につけて、それがその小説の題名になっています。映画になった「たそがれ清兵衛」は、重度の痴呆症を抱える老母と幼い二人の娘の世話、そして労咳で死んだ妻の薬代や葬儀などで嵩んだ借金を返済するために家事と内職をするために夕方に仕事を終えると真っ直ぐ自宅に帰りことから付けられてことになっていましたが、原作では違います。
「そうそう、たそがれ清兵衛という渾名で、一部にはよく知られておる男でござります」「たそがれ?何じゃ、それは?」「日暮れになると元気になるという意味でござりましょう」「わかったぞ」杉山は膝を打った。顔をしかめた。「その男、飲み助じゃな?」「いえいえ、違います。回りくどいことを申し上げて申訳ござりません」大塚は恐縮した顔になった。「井口はもっぱら家のことをいたしますので。それがし、見たわけではありませんが、城をさがると、飯の支度から掃除、洗濯と、車輪の勢いで働きますそうにござります」「その男、家の者はおらんのか?」「女房がおりますが、それが長年の患いで臥せっておりまして、しか致しておると聞いております」
2作目が、顔の特徴から付けられた「うらなり与右衛門」、3作目は、へつらい者とか、ごますり男とかいうような武士にあるまじき芳しくない評判から付けられた「ごますり甚内」、4作目は、倅の名前も出て来ない「ど忘れ万六」、5作目は、極端な無口のために少々変わり者とみられている「だんまり弥助」、わずかな苦痛を大げさに言い立てて、周囲に訴えたりすることを指す国言葉から「かが泣き半平」、「日和見与次郎」、身の穢さから物乞いという意味の「祝い人助八」の8作が集められています。
それぞれのタイプの人が身の回りにもいそうですね。
投稿者 fujimori : 22:16 | コメント (4)
2008年04月17日 [近頃思うこと]
上野4
国立科学博物館のほかに、先日もうひとつ上野で訪れた場所がありました。
それは、上野寛永寺です。今、NHK大河ドラマで「篤姫」を放映していますが、この寺にはこの篤姫の墓があるのです。私と妻で、毎年どこかに出かけるときにテーマを持ったほうが目的を持ちやすいということで、NHK大河ドラマの舞台とか、縁のある場所を訪れるということをしています。今年は、徳川家に関するドラマですので、そのゆかりの地をいくつか訪れるつもりです。
昨年、「風林火山」のときは、最終回のときに「武田信玄」と「山本勘助」のお墓で締めくくったのですが、今年は、お墓から始まりました。徳川の菩提寺というと、私は芝の増上寺だと思っていました。また、徳川家康は、日光東照宮を代表として、久能山など全国に一時は500以上のあったといわれている神社があります。この上野にも、「上野東照宮」があり、ここには徳川家康のほか、徳川吉宗と徳川慶喜を祀ってあります。
実は、江戸には徳川将軍家の菩提寺は、芝の増上寺と上野の寛永寺と2つあるのですが、どうして二つに分かれているのでしょうか。
まず、初代将軍家康は別格で、神として東照大権現と呼ばれ、墓ではなく神社としてはじめは久能山(静岡)に葬られたのですが、のちに日光に移されました。2代将軍秀忠になると、徳川家の宗祖である浄土宗のお寺である増上寺に葬られたのです。この増上寺は江戸麹町にあった古くからの浄土宗のお寺であり、この寺の住職が、徳川家が岡崎の一大名であった時からの菩提寺と縁があり、菩提寺は増上寺に決まったのです。
上野寛永寺を建立した天海は、京都比叡山で修業し、比叡山が織田信長によって焼き討ちにあうと、武田信玄に奇遇し、73才の時家康と出会って以来、家康、秀忠、家光と三代に亘って将軍の政治顧問的存在でした。特に家光は家康の身代わりのように頼りにしました。その寛永寺は、今の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立されましたが、この年が寛永寺の創立年とされていて、その当時の年号の寛永をとって寺号を「寛永寺」としました。京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」としました。
そして、江戸城鎮護の祈願寺として古い歴史と由緒をもつ浅草寺が決まっていたのですが、上野に寛永寺が建立されてから、以前の浅草寺の代わりに新しく祈願寺としました。同時に家光は、この寛永寺を、祈願寺であるだけでなく菩提寺にしたのです。家光は遺言で自分の葬儀は寛永寺で、遺体は日光に葬るよう指示しました。当然、増上寺側からは反発はありましたが、六代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、それが幕末まで続きました。ですから、同じ徳川家でも二箇所に墓地があるのです。
そこで、上の寛永寺の霊廟には、四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の墓がありますが、慶喜以外の残りの徳川の将軍は、みんな増上寺です。大河ドラマの篤姫は十三代家定の正室ですから、寛永寺に夫と並んで墓が立てられています。しかし、その墓を一般には公開されていません。
恥ずかしいのですが、私は上野がある台東区に何十年も住んでいて、上野には何十回といったことがあるのですが、一度も寛永寺には行ったことがありませんでした。今回のNHK「篤姫」のおかげでいって見ることが出来ました。熱中するものを見つけるためには、何かのきっかけがなければなりません。テレビか、書物か、あるいはこのブログかもしれません。ですから、「臥竜塾」というのです。
投稿者 fujimori : 23:57 | コメント (5)
2008年04月16日 [近頃思うこと]
上野3
最近、上野に行きました。そのひとつの目的は、国立科学博物館に“「進化」発見の旅へ!”ということで開催されているダーウィン展を見に行きました。この展覧会は、2005年から06年にかけて、アメリカ自然史博物館(ニューヨーク)で開催され、好評を博しましたもので、その後ブラジル・サンパウロ、ニュージーランドを経て、今年5月の連休まで東京で開催されています。そのあと夏休みには、大阪での開催になります。

チャールズ・ダーウィン(1809〜1882)は、進化論の創始者として、その代表的著書「種の起源」(1859年出版)とともに世界中で広く知られています。日本では江戸時代の頃のことです。ダーウィンの「進化」の考え方は、その後の世界を大きく変えました。子どものころにはよく偉人伝などを読む機会があり、その偉業や生涯、エピソードなどを知ることができたのですが、大人になってはなかなか知る機会がありませんので、人物像を描くような展覧会は新しい発見があります。
今回の展覧会は、ダーウィンの人生をたどりながら、彼が生み出した偉大な業績に迫るもので、会場では、ダーウィンの進化論の着想のもとになったガラパゴス諸島の生物のはく製から、航海に使った「ビーグル号」の模型、航海日誌、身の回りの品々など、様々な資料が展示されています。その中で、印象に残ったエピソードだけを拾ってみます。
ダーウィンは、当時の紳士階級の子どもたちと同じようにパブリックスクールに通いましたが、勉強が嫌いで決して優秀な生徒ではありませんでした。それよりも祖父の影響を受けて、博物学に興味を持ち自然観察や化学実験に熱中していたのです。パブリックスクールでの勉強に身の入らないダーウィンに対し、父は早いうちから医師として後を継がせるために、エディンバラ大学に通わせることにしました。しかし、ここでもダーウィンはあまり熱心には勉強しませんでした。この大学もやめて今度は牧師になるために、ケンブリッジ大学で神学を学ぶことにしました。そこでもあまり勉強せず、博物学をはじめ、乗馬と狩猟、昆虫採集に没頭します。しかし、ここでダーウィンの博物学嗜好に火が付き、後に偉業を果たすことになるのです。
人によって熱中するものが違います。それが何なのか、それを見つけるために人生があるのかもしれません。それが見つかり、それに取り組むことができたときには、「貢献」できる偉業を成し遂げるのかもしれません。その偉業は、本人のためではなく、人類、地球のためになります。しかし、その偉業は、考え方に変化をもたらしますし、今までの考え方を否定することになるかもしれません。
ダーウィンの進化論は、自然環境による「自然選択」と特徴的な形質が次の世代に引き継がれる「性選択」によるものでした。当時の英国での主流の考え方は、「神がすべての生物を作り出して以来、それらの生物はずっと不変である」というものでした。ですから、当然、ダーウィンの進化論は、宗教的価値観では、危険な思想だったのです。ですから、発表後に起きるであろう多くの反論と戦うため、できるだけ多くの研究を重ねていきました。発表当初、予想通り、激しい論戦が繰り広げられましたが、進化論の正しさはやがて広く認められていきます。
実践からの研究を積み重ね、過去からの刷り込みをなくし、時代の変化をよく見つめ、それに対して柔軟な対応をしていかなければ、その時代に貢献することはできないでしょう。

投稿者 fujimori : 23:26 | コメント (4)
2008年04月15日 [地域を知る]
上野2
上野といえば、私は子どものころからとてもなじみのある場所です。私の出身幼稚園と小学校は上野と同じ台東区にあったので、幼稚園の遠足は上野動物園でしたし、小学校絵画展などは東京都美術館でやりましたし、中学校のときには、みんなで本物のミイラを怖いもの見たさで上野国立博物館に行きましたし、成人式は、招待されて東京文化会館で行いました。昨年度の園のお別れ遠足は、やはり上野の国立科学博物館でした。
それぞれの場所には、それぞれのインパクトのある思い出が重なっています。
上野動物園には、第二次世界大戦前の1935年にタイから寄贈された象の「花子」がいました。この花子は、戦争中の1943年、逃走したら危険と云う理由で餓死させられ、「かわいそうなぞう」という絵本にもなっています。その後、上野動物園には、象がいなくなってしまいましたが、戦後(1949年)、地元である台東区の子供たち(「台東区子供議会」)の象が見たいと云う願いが、連合軍占領下の日本における大人たちを動かして、インドのネール首相から贈られたメスの象が「インディラ」です。その骨格標本は国立科学博物館に展示されています。また、この動物園は、パンダが来て大騒ぎになったことでも有名ですね。
また、東京国立博物館は、国宝87件、重要文化財610件を含む収蔵品の総数は11万件を超えています。ここは、1872年に創設された、日本最古の博物館です。ここでは、現在「国宝 薬師寺展」を開催しているように、所蔵も国宝が多いということもあり、なんだか日本の昔の美術品が多いようなイメージですが、この場所が有名になったのは、1974年に開催された「モナ・リザ展」でしょう。入場者数は、2ヶ月間で150万人以上にもなりました。昨年は、この作者ダ・ヴィンチのもうひとつの有名な絵画の「受胎告知」が、特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ — 天才の実像」ということで公開されています。
美術展覧会といえば、もうひとつ有名なところが国立西洋美術館です。

ここの館外の庭には、オーギュスト・ロダンの「考える人」「地獄門」「カレーの市民」やエミール=アントワーヌ・ブールデル「弓をひくヘラクレス」などの彫刻が並べられ、いつでも見ることができます。また、この美術館の本館の設計は、近代建築の四大巨匠の一人であるル・コルビュジエの設計で、彼の作品は、日本国内ではこの建物しかなく、今年の1月に、世界遺産候補としてユネスコに推薦することが正式に決定されています。ここでは、所蔵だけでも有名な作品が多いのですが、展覧会でも有名なものがあります。特に記憶に残っているものは、1964年の「ミロのビーナス特別公開」です。ほぼ一月間でしたが、 この1点だけを見に来た人は、80万人以上でした。
本館の実施設や監理に協力し、新館を設計したコルビュジエの弟子である前川國男は、この国立西洋美術館のまん前に立つ東京文化会館も設計しました。

この建物は、前川國男の代表作で、開館した1961年には日本建築学会賞作品賞を受賞しています。最近はほかにもっと音響のよいコンサートホールがたくさんありますが、本格的なクラシック音楽のホールとしては日本最初のものといえます。現在でも、東京都交響楽団が本拠地としているホールでもあります。
繁華街とは、都市中心部でデパートや専門店、飲食店が立ち並ぶエリアのことを言いますが、上野は、美術館、博物館が並んでいるエリアとも言えそうです。
投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (4)
2008年04月14日 [近頃思うこと]
上野1
ミシュランが選定した順位は、さまざまな分野に及んでいますが、その選び方にはずいぶんと偏りがある気がしますが、フランス人のある分野から見るとそう見えるのだという意味では参考になります。
「東京の繁華街」という選定では、同時に日本人が選んだ順位も出ているのですが、面白い結果が出ていました。日本人が選んだ順位は、1、浅草 2、銀座 3、秋葉原 4、表参道 5、神楽坂 6、六本木 7、上野 8、お台場 9、日本橋 10、新宿でした。やはり、私は日本人だからか、この順位はわかりますね。ただ、日本人といっても、全国で調査をしたわけではないでしょうし、朝日新聞のアスパラ会員に取ったものですので、偏っているかもしれません。
たとえば、私の園が新宿にあるといえば、新宿のイメージとして、歌舞伎町やゴールデン街を思い浮かべますが、朝日の会員が選べば、歌舞伎町は13位ですし、新宿ゴールデン街は20位です。また、若い人が地方から出てくると行きたがる場所の渋谷は14位ですし、原宿は18位です。これが、フランス人のミシュランが選ぶと、その評価は、東京以外の人のイメージに近くなります。新宿歌舞伎町は二つ星ですし、渋谷、原宿、新宿ゴールデン街は、ひとつ星に選ばれています。
ミシュランの選定では、東京以外の人が選ばないであろう特殊な場所があります。まず、外国人が喜びそうな秋葉原は選ばれていません。その代わり、古い町の谷中は、二つ星に選ばれています。しかし、なんといっても、一箇所しかない三ツ星に選ばれたのが「上野」です。上野には、いくつもの博物館や美術館があり、とてもいいところなのですが、繁華街というイメージはありません。どうして上野なのかを、「大都会・東京の意外性を表す上野」ということで書いています。
「上野駅は首都の最も主要な駅の一つ。上野公園も広くて美しく、木立や花壇のなかに池(不忍池)と動物園、美術館がいくつかある。では、駅は賞賛の対象になるだろうか? もちろんなるが、上野駅は対象にならないだけだ。池の周囲の散策も、特に思い出に残るものではないとしか言いようがない。同じ評価は、白鳥の形をした足踏みボート(スワンボート)に乗って湖上へエスケープすることにも当てはまる。東京国立博物館をはじめとする美術館・博物館は、かなり変化があって面白いが、動物園はただの動物園でしかない。では、三つ星の評価はどこからくるのだろう?それはフランスで、東京のような巨大都市圏として思い描くものと、上野が一致しないことにある。実際、都会の中心というのに、これほど広大な公園がコンクリート至上主義に異議をはさむかのようにあるとは、フランス人は予想もしないし、周辺に網の目のように交差する路地に漂うのどかで田舎のような雰囲気も予想外。一歩路地に入ると、昔ながらの小旅館や小さな家、古い屋台店、目立たないバーやレストランがひしめき合っている。「田舎風の都会」を歩く感覚は、とくに谷中や根津地区で強く味わえる。そこでは、都会の鼓動はほとんど感じない。東京にいるという感覚がなくなり、消えてしまったようになる。」
私は東京育ちですので、東京というと上野や浅草など下町のイメージがありますが、確かに、地方の人や外国の人から見ると、東京はコンクリートで塗り固められ、緑もなく、高層ビルが建ち並び、人もわき目も振らずに急ぎ足で歩いている巨大都市と思うでしょう。そう思ってみると、上野や谷中は意表をつくかもしれませんね。
投稿者 fujimori : 23:35 | コメント (4)
2008年04月13日 [近頃思うこと]
宝石の輝き
富山湾の春の味覚であるホタルイカをいただきました。私はホタルイカは大好きですので、よくいただくのですが、ずいぶんとその年によって取れる量は変動します。今年は、3年ぶりに好調なようです。一昨年の4倍、昨年の2倍近い水揚げのようです。その好調の理由について、メカニズムは解明されていないのではっきりとはわからないようです。ホタルイカは、その生息だけでなく、全身が青白く光る、多くの謎につつまれた神秘的な生き物です。
「ホタルイカ」という名前の由来は、そのままで、「蛍のように光を放つイカ」というのですが、その昔は、地元では「まついか」と呼ばれていました。その名が「ホタルイカ」になったのは、明治38年、東京大学教授の渡瀬庄三郎博士の命名によるものでした。渡せ博士は、ホタルがどのような地域に棲んでいるかを調査しているときに、富山県に光を放つイカがいると聞ききつけて、このイカの研究をはじめるのですが、そのときにホタルのように美しい発光をするイカであることから「ホタルイカ」と名付けたのです。また、学名は博士の名前である「渡瀬」にちなみ「ワタセニア・シンティランス」と命名されています。
よくテレビでホタルイカ漁が放映されますが、水揚げするときにその光を放っている姿を映し出しますが、それにしてもその光は宝石のようで、綺麗ですね。 この発光は、発光物質に発光酵素が作用することによって起こります。その構造はいくらか異なってはいますが、昆虫のホタルの発光と同じしくみです。この熱を持たない「冷光」と呼ばれる光には、色々な役割があるようです。
まず、どんなときに光るかというと、刺激を与えたり驚かせたりすると簡単に発光します。ですから水揚げするときに光るのです。それは、暗い海中で外敵に襲われたときなど光を発することで相手を驚かせようとする目くらまし効果を狙った行動のひとつといわれています。また、昼間は上から照らす太陽光に反応して腹側にある発光器から光を出します。それは、ホタルイカは海中ではからだを水平にしているので、光が強すぎるとかえって目立ってしまうし、光が弱いとシルエットになり反対に敵に見つかりやすいので、光を上手に調節して敵から身を守っていると考えられています。
それから、その光り方は、蛍と同じようにその種類によって、それぞれの発光器の数や配列、種類の組み合わせなどは微妙に違います。また、眼は青、水色、緑の3種の色を識別でき、同じ仲間同士やオスとメスとの間で合図を送ったり、集団で行動したりすることができると考えられています。
この宝石な様な光りの美しさは、かなり昔から町おこしに利用とされていました。明治45年に、滑川を訪れた富山県知事より観光事業を行うことが勧められ、滑川におけるホタルイカ観光事業がスタートしています。そして、昭和36年頃には3隻の観光遊覧船が夜の海に出ており、また、ホタルイカ関連の加工食品の試作も始まっています。昭和62年には、早朝海上遊覧(定置網によるホタルイカ漁の様子を観光船に乗って見学)もはじまり、平成元年には漁民センターでの陸上観光(生けすにホタルイカを放し、発光する様子を見学)、平成10年には、ほたるいかミュージアムが完成しています。
春を感じるもの、町おこしの中心におかれるものは、その地にしかない様々な自然です。
投稿者 fujimori : 21:16 | コメント (3)
2008年04月12日 [近頃思うこと]
日本庭園における関係性
日本庭園を形作っている大きな要素は、ブログで書いた「石」であり、「水」であり、もうひとつが「植物」です。その中心になるのが樹木です。庭の風致を描出するには、樹木の種類とその植え方に考慮しなければなりません。たとえぱ、遠い山や遠景の樹は、そこに林があるように見える木を踈密のバランスを考えながら植えます。また、近景としての木も重要です。その木は、余り多くは植えず、目の前でよく見えるために樹形や枝ぶりの良いものを選ぶ必要があります。まさに、それぞれ植える位置により、お互いの木の関係性を考えていくことが必要になるのです。
木の種類も、背の高くなる木は、もの静かで奥深い雰囲気になりますが、前方はるかに低い樹を点々と植えると、広々とした眺望の庭になります。また、常緑樹を多く植えると堅実な感じの庭園となりますが、落葉樹の多い庭は、淡泊な俗気のない気風となります。狭い庭を広く見せるためにも木を効果的に配置します。池の広さを感じさせないためにその端が見えないように、岩や植込みで隠したりします。またはその池の向こうに山を築いて、樹木をこんもりと茂らせたりします。ほかにも広く見せるために、庭に芝生や苔を敷き詰めたりすることも効果的です。このように日本庭園では、その庭を構成するさまざまなものの関係性で、その味わいを演出しているのです。
「庭と日本人」(新潮社)という書籍の中で、著者の上田篤さんは、最初のほうでこんなことを言っています。要約すると、「日本の庭は「文化的遺伝子」のダイナミックな発現である日本文化である。この世界は西洋の神のように絶対的な存在ではなく、見えないものでもない。それはしばしば見え、しかも変化する。といっても、それは物ではなく、“物と物との関係性”である。」そして、この関係を「時と場所と場合」の三者関係であり、日本の庭におけるこの関係が、見る人をしびれさせるのだと言います。確かに、時が関係します。季節の移り変わりによって、1日の日の動きによって、時間による影の動きによって庭の景色が変わってくことも楽しみの一つです。また、いわゆる「わび」「さび」の世界における味わいは、もっと長い時間の経過がもたらす味わいかもしれません。
そして、その庭のある場所も大きく関係します。日本の庭造りの手法に「借景」という方法があるように、その場所を上手に庭に取り入れます。「景色を借りる」とはまさに言いえていますね。私は、三者関係の中の「場合」というのはよくわかりませんが、私は、日本の庭における三者関係は、「場所、もの、時」だと思います。その庭がどの場所にあって、そこに何が配置されていて、それをどのくらいの時間の経過の中で見ていくか、それぞれの関係を見ていくことが庭の鑑賞だろうと思います。また、その庭に置かれているものにもそれぞれ関係性があります。その関係が、緩やかな空間を作ったり、時には緊張した関係を作ったり、相手の存在を際立たせる役目をしたりしています。また、だからといって物が多すぎると、騒雑に陥り、かえって不快に感じます。なるべくむだを省き、背景の景色を利用したりして、それ自体の存在を主張するようではいけないのです。それは、お互いのものの関係だけではなく、庭というものはもともと家屋を主とし、その家屋に一層の雅趣を添えることが目的だからです。
確かに、日本庭園は、文化的遺伝子の発現であるというのはわかりますね。
投稿者 fujimori : 21:09 | コメント (4)
2008年04月11日 [近頃思うこと]
恵と脅威
昨日、東京は大混乱でした。JR東日本の変電所で、漏電遮断器などが焼ける火事が起き、中央線快速が約7時間にわたって運転を見合わせたためです。この火災は午前6時半頃に起きたので、ちょうど通勤時間でした。朝の中央線は通勤のためにラッシュで非常に混雑をします。先日も八王子のほうから新宿に朝来た人は、「背骨が折れるかと思うほどだった。」と言っていました。毎日その電車で通勤している人は大変ですね。それが、その時間から7時間も止まったとなると混乱は起きるはずです。影響は、50万人にも及んだそうです。その火災は、漏電が原因とみられていますが、どうして漏電したかなど原因究明をして、再発を防いで欲しいと思います。
この漏電の原因は、人的なものでしょうが、電気に関する事故は、主に自然によることが多いようです。例えば、同じ昨日の夜、岐阜県各務原市で停電がありました。この停電は、約500世帯が、最長約1時間40分にわたって被害を受けました。この原因も漏電ですが、なんと、鳥が運んだらしい食べかけのおにぎりの半分が、電柱上にある変圧器の充電部に接触したのが原因のようだと言うのです。鳥はいろいろなものを運びます。巣を、針金ハンガーを物干し場から運んで作ることも多いようです。この鳥は、食べるためでしょうが、おにぎりを運んだようです。
今週の初めに、急速に発達した低気圧が関東の南海上を通過したため、関東地方は強い風雨に見舞われました。この強風や雨は、様々な被害をもたらしたり、交通機関を乱れさせました。日本航空と全日空では、羽田発着便を中心に計102便が欠航しました。東海道新幹線や東海道在来線や小田急線や千葉県内で、一時上下線で運転を見合わせたり、かなりの遅れをもたらしました。また、神奈川県では横須賀、川崎両市で宅地造成地などでがけ崩れが発生したり、横須賀市や川崎市で避難勧告や自主避難が行われました。静岡県では、風力発電施設2基の羽根がそれぞれ1本ずつ折れてしまいました。
4月は新しい年度の始まる月で、進学、進級、入学,就職,転勤を迎えます。また,4月は多くの地方でサクラが開花・満開となるのをはじめ,様々な花々が一斉に咲き誇ります。以前のブログではありませんが、きびしい冬を過ぎて暖かな、晴れやかで穏やかな天候の季節の春になったと思います。しかし、実は、4月という月は、天気が変わりやすく,寒暖の変動の大きい季節です。また、この季節には、低気圧が日本海を発達しながら通ることがあり、この低気圧にむかって南よりの強風が吹き,全国的に気温が上昇し、日本海側では山脈越えの暖かく乾いた強風が広い範囲で吹きます。このように、気持ちのよい春になる前にいくつかの試練があるのです。それは、今回の「春の嵐」と呼ばれる強風だけでなく、さまざまな気象用語があります。
一番恐ろしいのは、「雪崩」です。春先のくもりや雨の降る暖かい日に起きます。また、「雪解け」も川や池の水位を高くします。桜の花の咲く、四月初旬に冷え込むことを「花冷え」といいます。また、朝晩が冷え込むこともあり、その頃霜が降りることがあり、「晩霜」(おそじも)と呼びます。季節の変わり目に見られる気象現象です
自然は、恵みだけでなく、脅威やきびしさももたらすことを忘れてはならないのです。
投稿者 fujimori : 23:05 | コメント (4)
2008年04月10日 [近頃思うこと]
庭園と水
今日は、今年度の園の植栽計画について話し合いました。今年の取り組みのひとつは、以前のブログで紹介した外壁の活用です。昨年度一番下の段の活用で、睡蓮を浮かべ、めだかを泳がせました。そのおかげで、地域からはめだかのいる園ということで様々な人がその前でコミュニケーションを取り合っています。今年は、2段目の活用です。そこを田んぼにしようと思っています。幸い湧き水が出ているので、その湧き水を田んぼに流し、そこからあふれた水をめだかの池に流すという計画です。来月田んぼに土を入れ、田植えを行います。そのときは、また報告します。
次に、やはり湧き水を利用して、玄関脇に「ししおどし」を作ることです。水の流れを音によって感じようということです。西洋の庭園は、水の流れをせき止め、静かな水面にして、そこに白鳥が泳ぐというように、人工的なものを感じます。西洋の庭園につき物の噴水も、水は上から下に流れるという自然に逆らって、下から上に吹き上げさせることで、美を感じていたようです。このような噴水は、日本庭園には余り見かけません。
以前のブログでは、日本庭園における「石」の効用を何回か書きましたが、「水」も日本庭園には欠かせないものです。庭園における水には、かなり思いを入れていて、それは西洋庭園には見ないものです。日本では、庭をつくるときには木より花より、どこに水を置くかに腐心します。そして、その水の扱いは、人工的に見せるのではなく、あくまでも自然をあらわそうとしました。急流・緩流・せせらぎなどの渓谷風景などから、淀・渚・吹き上げなど妙味のある変化をつけます。水の流れも、その途中は屈曲し、山や樹木で見え隠れするように流れるような工夫をします。また、その流れの水源は、あたかも湧き水のように、石の間から湧き出る泉のようにしたものや、深い渓谷から流れ出た水が滝となって落ちるように見せたり、谷間の灌木の下から流れ出したように見せるなど風情たっぷりに造ります。
坪庭や、個人の小さな庭では、筧の落口を蹲踞(つくばい)に落とし、その水があふれて玉石の間を流れ去るようにしたり、また手水鉢の底の穴から水を湧きあがらせて、その穴を栗石で隠し水の淀む風情にも造ったりします。そのひとつの方法である竹筒から流れる水をししおどしで受け、それを手水鉢に流し込み、その窪んだ所からあふれた水を玉石の間を細く流れていくように園で計画しているのです。
日本の庭には水を置こうとする欲求には強いものがあります。それは、日本では農耕民族ということもあって、水の大切さを古くから知っているからかもしれません。そして、水があるところには、苔がむし、草が生え、木が生えるというように生命が息づいてくるからです。ですから、日本庭園はもともとビオトープなのです。それは、生きる物の場所で、そのために自然の風を尊び、作りすぎを嫌います。そして、その庭は季節によって変化し、その庭から季節を感じるように水をたたえ、石を配し、樹を植え、足元には苔や草が覆っています。それはまさに日本の風景です。
同時に、日本庭園は、水の流れから音も楽しむように工夫されています。「せせらぎ」も音を意味し、「ししおどし」や「水琴窟」などは、水の流れを音で楽しみます。
園で計画している水の流れは、玄関脇の目立たない場所ですので、音によって感じてもらおうと思っています。庭園というものは、その作者の意図を知ると、さらに庭の美しさを感じられるものです。
投稿者 fujimori : 23:24 | コメント (5)
2008年04月09日 [近頃思うこと]
ペンギン
イギリスのBBCは今月の1日に、新博物学シリーズ「Miracles of Evolution(進化の奇跡)」の一部として、ペンギンが空を飛んでいる驚くべき映像を紹介しました。この映像を見た人も多いと思いますが、映像と同時にこんなナレーションが入っています。
「私たちは、何日もペンギンを観察し映像に収めていましたが、思いもよらないことが起こったのです。そうこうしているうちに天候が悪化してきました。そして驚くべきことを目にしたのです。ペンギンたちは寒さを凌ぐために身を寄せ合うのではなく、私たちが予想もしなかった行動に出ました。他のペンギンには真似できないことです」と、コメディ・グループ、モンティ・パイソンの元メンバー、テリー・ジョーンズ氏が語っています。そこまでは、「あれっ?」と思ったのですが、そのあと「この映像は、刺激的で全く予想もしなかった自然の驚くべき光景を見せてくれます。そしてまた、視聴者は生命力に溢れた感動すべき体験だけでなく、ダーウィンの自然淘汰説が如何に見事で単純明快かを例証してくれます」という語りとともに飛んでいたペンギンが次々にジャングルの密林に着地する姿を見ると、語りがコメディアンでもあるジョーンズ氏ということもあって信用できなくなります。当然これは、4月1日のエイプリルフールに、イギリスBBC放送が流したCG映像です。
ペンギンは、あのメタボではないかと思うような体型は愛くるしいのですが、ペンギンという名の語源は,一説には、ラテン語の "pinguis"(肥満)によるという仮説があります。このまま読んだキャラクターが「ピングー」というスイスのオットマー・グッドマン原作の粘土アニメです。このペンギンは、「コウテイペンギン」です。他の説では、15世紀後半以降、大西洋を横断したスペインのタラ漁師が、北西大西洋のニューファンドランド島周辺に生息する飛べない潜水性の海鳥であるオオウミガラスをスペイン語で penguigo(太っちょ)と呼んで、これが16世紀に英語に入ってpenguinとなったとする説です。
NHKの「おかあさんといっしょ」のきぐるみ劇「にこにこぷん」には、「フォルテシモ・ピッコロ」というペンギンが出てきます。いつも「フン!」と言うので、「フンボルトペンギン」です。
そして、最近人気なのは、東日本旅客鉄道(JR東日本)の発売するプリペイドICカードであるSuicaカードのマスコットキャラクターです。この種は、「アデリーペンギン」で、南極から東京にやってきたことになっています。デザインは坂崎千春さんですが、名前は特にないようです。ここにペンギンを使ったのは、メタボの体型からではなく、広大な南極海で「スイスイ」泳ぎ回るペンギンの所作と、Suicaで「スイスイ」便利になるというイメージとを掛け合わせたものです。作者の坂崎さんは、「スイカ」が開始当時は、誰も知らない、既存のものとは違うサービスだったことから「ペンギンは寒い国の動物だから、日本の夏の風物詩であるスイカを知らない。全く知らない『スイカ』に初めて触れる存在ということでペンギンになった。」と言っています。
初期の「スイカのペンギン」は顔のシルエットがシャープで表情もあまりありませんでしたが、最近は顔が初期に比べて少し大きくなり、丸っこい体形に変わってきました。

人気が出てくると、顔も丸くなり、表情も豊かになってくるのですね。
投稿者 fujimori : 22:54 | コメント (4)
2008年04月08日 [近頃思うこと]
舗装
3月、年度末の恒例行事ではないかと思うほど、いろいろなところで道路補修をしていました。確かに1年経って、でこぼこになったり、つぎはぎだらけになった道路もありますが、なぜ、ここを補修する必要があるのだろうと思う道路も少なくありません。
園の近くを流れる神田川は、川幅を広く取ってあり、また深く掘ってあるので、普段は下のほうを川底が見えるくらいに少ない水が流れています。それが、昨日今日の雨で、かなり増水しています。神田川は、住宅地を流れているため、土壌に雨が吸い込まずに川に流れ込んで、一気に水かさが増してしまうからです。ですから、よく中野あたりでは浸水被害が出ます。こういった被害を避けるため、神田川には、途中の環状7号線の地下に約50メートルに掘られた巨大トンネルである「神田川取水施設」があります。その長さは約4.5キロ。総工費1,000億円というすごい建造物です。
こんな施設が必要なのも、道路が雨水を吸い込まず、すべて川に流れ込むからです。ですから、道路は、まるで川のように排水溝に向かって水が流れていきます。かつて都内でも一面を覆っていた田んぼや畑や野原の土は、水を染み込ませ、地下水となったり、一度に流れない保水作用もありました。それが、「舗装」という名の下に水の染み込まない「アスファルト」や「コンクリート」で覆ってしまったのです。
アスファルトの歴史は古く、古代から天然のアスファルトは主に接着剤として使われ、旧約聖書の「創世記」ではバベルの塔の建設にも使われていました。日本で初めてアスファルト舗装が施されたのは長崎県長崎市のグラバー園内の歩道であるといわれています。現在の日本では、敷設が比較的容易であり、舗装作業開始から交通開放までの時間が短くてすむため、主流となっている舗装です。
また、コンクリート舗装 は、施工期間が長く、養生などに手間がかかるなどの敷設の難しさはあるものの、アスファルト舗装に比べてたわみに強く耐摩耗性に優れており、重車両が頻繁に通行する場所、トンネル内、急傾斜の坂道などといった舗装補修を頻繁に行うことが困難な場所に多く用いられています。
都市化が進みアスファルト舗装面積が拡大するほど、雨水は地中への浸透を阻止されてきました。それは、都市型洪水、地下水の枯渇、地球温暖化の元凶とされ、最近では雨水の地中還元を叫ぶ声が大きくなっています。そこで、最近注目されているのが、透水性舗装という、路面に降った雨水を舗装内の隙間から地中へ還元する機能を持った舗装です。そうすることにより、歩行者への水跳ねが減り、路面に雨水が滞留せず、地下水として直下の地中に浸透させることで、排水路などでの負担を軽減することができます。さらに、空隙が大きく蓄熱性が小さいため、都心部のヒートアイランド現象の緩和に効果があり、空隙により走行音が分散されるため、騒音の軽減にもつながります。しかし、空隙内に砂、泥が詰まることから数年で機能低下が起きたり、大型車が走行することにより空隙がつぶれてしまったりのデメリットがあります。
昔に戻ることはできませんが、昔の知恵を学ぶことはできます。ぜひ、無駄に道路を補修するよりも、自然と共生するような道路を作ってもらいたいものです。
投稿者 fujimori : 23:33 | コメント (4)
2008年04月07日 [近頃思うこと]
おとめ
町では春の花が咲き乱れ、冷たい風もその中に暖かさも感じられる季節になりました。しかし、ブログでよく書きますが、季節は花だけでなく、様々なところで確実に変わっていく姿を見せてくれます。夜道を歩くときでも、暖かくなったので背中を丸め、下を向いて急いで歩いていたのですが、やっと、ゆったりと、温かい気配を感じながら上を向いて歩くようになりました。
今、イタリア・ルネサンス美術の殿堂、ウフィツィ美術館およびフィレンツェ文化財・美術館特別監督局の全面的な協力を得て、同館が世界に誇る至宝ティツィアーノ作「ウルビーノのヴィーナス」が上野の国立西洋美術館で公開されています。この展示について昨日の日曜美術館でも特集されていましたが、ヴィーナスの神話が、いかに古代の芸術家のインスピレーションを刺激したのかが展示から感じられるようです。古代から、ヴィーナスだけでなく、さまざまな女性が神話に現れ、絵画、彫刻、工芸品等のモチーフにされてきました。
4月の星座の主人公も、そんな女神です。それは、星座占いでも使われる黄道十二星座のひとつ「おとめ座(乙女座、Virgo)」です。この星座は、名前は有名ですが、大きさも、うみへび座に次いで全天で2番目に大きく、又、その星座の中には明るい1等星スピカもありますので、霞んでいる春の夜空でも見つけ易い星座です。おとめ座の女神は稲穂を持っていますが、その先端がスピカです。スピカの名称もラテン語の穂先に由来しています。その美しさから、日本では「真珠星」の和名を持っています。スピカを見つける簡単な方法は、北斗七星の取っ手の部分からうしかい座のアルクトゥルスまでの長さを同じ分だけ伸ばしてみるとそこに見つかります。その延ばした曲線を「春の大曲線」といいます。そして、このアルクトゥルスとスピカと、しし座の2等星デネボラを結んだ形が、「春の第三角形」と言われていますが、夏の大三角形や冬の第三角形と比べるとかなり見えにくいでしょう。
「おとめ座」の乙女が誰なのか、さまざまな説があるようです。ギリシャ神話では大地に豊かな恵みをもたらす農業の女神デメテールが、左手に麦の穂をたずさえた姿だと言われています。彼女には、ペルセポネという一人娘がいました。しかしペルセポネが、死の国の王ハデスにさらわれてしまいました。娘を失ったデメテールは悲しみ、洞くつの中に閉じこもってしまったので、世界中の家畜は死に、草花は枯れ、作物は実らなくなってしまいました。これを知った大神ゼウスはハデスに使いを送り、ペルセポネを返すようにと説得しました。ハデスはこれを承諾しましたが、ペルセポネに4つのザクロの実を食べさせてしまったのです。死者の国の食べ物を口にした者は、死者の国で暮らさなければならないという決まりがあったのです。地上へ帰ったペルセポネでしたが、ザクロの実を4つ食べたために、1年のうち4か月は死の国へ戻らなくてはならない身となっていました。そのあいだは、デメテールは洞窟に閉じこもってしまうため、地上の作物や植物は枯れ、冬がおとずれるのだということです。
星空は、その広さだけでなく、壮大なロマンも感じます。
投稿者 fujimori : 23:18 | コメント (4)
2008年04月06日 [近頃思うこと]
瞼の母
先日の新聞を妻に見せてもらいました。そこには、青森で、母親に絞殺された小学4年生の男の子が2年生のときに作った「おかあさん」という詩です。この詩は、当時土井晩翠にちなんで作られた「晩翠わかば賞」を受賞していたのです。
「おかあさんは どこでもふわふわ ほっぺは ぷにょぷにょ ふくらはぎは ぽよぽよ ふとももは ぽよん うでは もちもち おなかは 小人さんが トランポリンをしたら とおくへとんでいくくらい はずんでいる おかあさんは とってもやわらかい ぼくがさわったら あたたかい 気もちがいい ベッドになってくれる」
母親というのは、どんなことをされても暖かいのですね。なんだか切ない気がします。浅香光代さんが披露してくれた科白のもうひとつの「瞼の母」も、そんな気もちを表しています。芝居や映画で「やくざもの」が全盛時代だった頃の、長谷川伸さんによって書き上げられた話です。
番場の忠太郎は幼い頃、母親と生き別れ父親の手によって育てられました。その父親も彼が十二歳の時亡くなってしまいました。天涯孤独となってしまった忠太郎は、彼が幼かった頃、家を出たという母親を探す旅に出ます。あるとき、それらしい女性を探し当て、会いに行きます。そして、彼女に「もしや女将さんは忠太郎という男の子を残して家を出たことはありませんか」と尋ねます。しかし、母親には近々大店に嫁がせる事になっている娘がいるために、確かに自分の腹を痛めた子に違いないと分かってはいたのですが、おまえさんが息子だとはついに言い出せませんでした。そして忠太郎にわざとすげなく何が欲しくて訪ねて来たのだと聞きます。ゆすりたかりで来たのではないと懐から百両もの大金を掴み出す忠太郎。もしや母親が苦労しているようなことがあればと思い、賭場でこつこつと稼いだ金でした。「金なんかが欲しくて来たのではない。一目だけおっかさんに会いたい、会って親子の名乗りがしたかっただけなのだ」と答えます。しかし、何かの事情がありそうだと悟った忠太郎は、それ以上何も言わずにそっと店を出ていきます。一部始終を物陰から見ていたの妹は、兄と悟って、母をいさめ、母と二人で荒川堤へ忠太郎を追いかけます。しかし忠太郎は物陰に隠れて二人には会わず再び股旅の路へと出て行くのです。
この芝居の中で有名な場面がいくつかあります。そのひとつが、忠太郎が自分を名乗る時の場面です。
「五つの時に縁が切れて二十年。もうちっとで満三十年だ。その間音信不通で、互いに生き死にさえ知らずにいた仲だからそんな子はねぇという気になっているのでござんすか。縁は切れても血は繋がる。切れて切れねぇ母子の間は眼に見えねぇが結びついて、互いの一生を離れやしねぇ、あっしは江州番場宿のおきなが屋の倅、忠太郎でござんす。おっかさん。」
もうひとつが、浅香さんが披露してくれた、忠太郎が立ち去るときの科白です。
「親子と思って尋ねてみたが、考えて見りゃぁ俺も馬鹿よ、骨を折って、夢を消してしまったぁ。優しい俺のおっ母さんは、瞼を合わせりゃぁ浮かんでくらぁ。逢いたくなったら、逢いたくなったら 目をつぶるんだぁ。」
母子関係は、切っても切れない関係ですね。
投稿者 fujimori : 18:45 | コメント (5)
2008年04月05日 [近頃思うこと]
一本刀
先日ある園の竣工式に出席しましたが、その席に来賓として浅香光代さんが呼ばれていました。彼女は、14才で浅香光代一座をたちあげ、女剣劇全盛時代を作りあげた人です。もうかなりのお年ですが、舞台に上がると突然と背筋が伸び、声は朗々と響き渡ります。その彼女は、祝辞とともに、名科白を披露してくれました。それは、「一本刀土俵入り」と「瞼の母」の中の名場面です。
この二つの話はともに義理と人情話ですが、長谷川伸の作品です。彼は、新聞記者からのちに小説・劇作家に転じるのですが、この2作品や「沓掛時次郎」などは、繰り返し舞台にかけられ映画化もされています。しかし、その世界は今はもう絵空事のように思えるほど遠い世界になってしまった気がします。また、それぞれの話しは、もう若い人には伝承されていないでしょうね。この時代で消えていってしまうのでしょうか。せめて、その題名と同時に、あらすじだけでも知っておいて欲しい気がします。
横綱になる夢を持っていた取的(番付が最下位の角力取りのことで、褌かつぎのことです。)の駒形茂兵衛が親方に一度は破門されますが、どうしても立派な横綱になって故郷(上州 駒形宿)の母親の墓の前で土俵入りの姿を見せてやりたいという夢を捨てきれず、もう一度弟子入りをしようと江戸に向かいます。途中、飲まず食わずの一文無しで困っていた母親想いの純情一途な茂兵衛の話に心をうたれた茶屋女のお蔦は、持っている巾着や櫛、かんざしまで受け取らせ、「立派なお角力さんになっておくれよ。そうしたら、一度はお前さんの土俵入りを見に行くよ」と励まします。茂兵衛はこの親切を生涯わすれないと感謝しながら立ち去っていきます。
10年後、望みを果たせず、やくざになっていた茂兵衛は取手に戻り、お蔦を探し、やがて再会を果たしますが、そこに死んだはずの夫・辰三郎が現れます。夫が戻ってきて喜びのつかの間、辰三郎はイカサマ賭博で追われる身で、たちまち一味がお蔦の家を取り囲みます。 茂兵衛は今こそ恩返しだと体を張ってお蔦たちを救い、借りた金を返し、3人を逃がします。そのときに晴れ晴れと静かに言い切るのが、「一本刀土俵入り」の名科白です。
「お行きなさんせ。仲よく丈夫でおくらしなさんせ。ああ、お蔦さん、棒ッ切れを振り廻してする茂兵衛の、これが、10年前に櫛、簪、巾着ぐるみ、意見をもらった姐さんに、せめて見てもらう駒形の、しがねえ姿の土俵入りでござんす」
「一本刀」とは、「やくざ者」という意味です。武士は刀を二本させるので、武士のことを「二本差し」と呼ぶことがありますが、これに対して、町人ややくざは、刀を一本しか差せませんでした。この話の面白いのは、茂兵衛は、夢がかない横綱になるわけでもなく、たいしてハッピーエンドでもなく、義理人情だけに焦点を当てている点です。また、このようなストーリーを表現する歌も必ず歌われました。三橋美智也が歌った、作詞が高橋掬太郎で作曲が細川潤一の「一本刀土俵入り」があります。「1 角力名乗りを やくざに代えて 今じゃ抱寝の 一本刀 利根の川風 まともに吹けば 人の情けを 人の情けを 思い出す 2 忘れられよか 十年前を 胸にきざんだ あのあねさんを 惚れたはれたと 言うてはすまぬ 義理が負目の 義理が負目の 旅合羽 3 見せてあげたい 男の夢も いつか崩れた 一本刀 悪い奴なら 抑えて投げて 行くがおいらの 行くがおいらの 土俵入り」あらすじを知っていると、歌詞の意味もよくわかります。
こんな義理人情に夢中になった時代もあったのですね。
投稿者 fujimori : 20:49 | コメント (4)
2008年04月04日 [近頃思うこと]
グーグルロゴ
発表された「Best Global Brands 2007」では、1位の「コカ・コーラ」と2位の「マイクロソフト社」についてここ数年変わらないということは、昨日のブログでも書きましたが、そのほかのベスト10の順位は若干の変動があるようです。前回6位だったフィンランドの「ノキア」は5位に、前回7位だった日本の「トヨタ」は6位に、前回9位だった「マクドナルド」は8位に順位を上げています。「ノキア」は、携帯電話市場でのリーダーシップを確固たるものとしたためとされており、「トヨタ」は、環境対応で他のブランドに抜きん出たことが評価されています。また、「マクドナルド」は、グローバルでの健康的なメニュー拡充が消費者に受け入れられたからとされています。逆に下がったのは、「インテル」が5位から7位になりました。これは、この分野での競争激化によって価格優位性がなくなってきたとされています。また、「ディズニー」も、8位から9位に下がっています。1、2位以外で変わらなかったのは、3位の「IBM」、4位のトーマス・エジソンが設立したエジソン電気照明会社から発展したことで有名な「GE」です。
ベスト100のなかで注目されているのが、「Google」と「任天堂」の躍進です。任天堂は、44 位ですが、ゲームの概念を変えるインパクトをもった Wii がグローバルでローンチを成功させ、また今までの顧客層を拡大し誰でもどこでも楽しめる機会を提供した DS が引き続き好調であることが原因と見られています。
本年度のランキングにおいて最も価値が向上したブランドは、20位の「Google」で、前年比44%増、ランクイン 3 年目にしてトップ 20 入りを果たしました。私は、以前検索エンジンとして「Yahoo」を使っていましたが、最近はブログで紹介したグーグルアースのような、単なる検索エンジンから、ニュース、映像、地図、財務情報などサービスを拡大したグーグルを使っています。
このグーグルを開くとアルファベットでGoogleというロゴが現れます。ところが、たまにそのロゴが様々な文字になったり、背景にイラストがかかれたりすることがあります。それは、クリスマスやオリンピック、あるいはミケランジェロやアインシュタイン、フランク・ロイド・ライトなど、芸術家の誕生日、記念日やイベントのたびに特別仕様に変化するのです。例えば、ミケランジェロの記念ロゴでは、グーグルの文字の下に崩れた岩、あるいは大理石が描かれ、その上にダビデ像が立っています。それは、「彫刻を山から落とせば必要の無いものは崩れる」というミケランジェロの言葉から取ったのでしょう。

日本特有のバージョンもあります。子供の日、七五三、七夕などの日のものがそうです。このロゴをデザインしているのは、グーグル米国本社のウェブマスター、デニス・ホワンさんです。
3月26日の日本向けサイトのロゴが、ちょうど50年前の同じ日に東京大学の研究所で誕生した国産パラメトロン計算機「PC―1」を題材にしたものに1日だけ変わりました。これは、日本人が初めて描いたものです。ホワンさんは、この題材を選んだ理由を「電子計算機の黎明期に真空管に代わる物質を見つけて、新しい計算機をつくり出したことは、とても革新的なことだ。グーグルは、コンピューターを利用した企業であり、その中で革新的でありたいと思っている。」と言っています。
伸びている企業は、常に革新的である必要があります。
投稿者 fujimori : 22:39 | コメント (4)
2008年04月03日 [新聞記事より]
ファンタ
保育をする上で必要な力のひとつに「柔軟性」があるという話をしましたが、その柔軟性は企業にも必要ですね。この柔軟性からの発想の商品が発売されることが、先日の日経新聞に掲載されていました。その記事は、「コカ・コーラシステム、振らなきゃ飲めない炭酸飲料「ファンタ ふるふるシェイカー オレンジ」を発売」という記事です。
コカ・コーラをはじめとする炭酸飲料は、缶やペットボトルを開けるときに気をつけなければなりません。それは、その前に振ってしまうと、勢いよく中身が飛び出してしまうか、泡があふれ出てしまうからです。ですから、できるだけ振らないようにします。それを逆手にとって、振らなければ飲めない炭酸飲料を開発したのです。それが、「ファンタ ふるふるシェイカー オレンジ」で、2008年4月21日(月)より全国で新発売の予定です。
この商品は、中高生を中心としたティーンを、ポップに楽しく応援するブランドとして、ティーンの生活に常に新しい楽しさを提供しようと企画されました。どうして振らないと飲めないかというと、中身は炭酸入りのゼリーで、缶を振ることでゼリーが崩れ、ゼリーのプルンとした食感とはじける炭酸のシュワッとした爽やかな口当たりが楽しめるようになっています。
このファンタ(Fanta)はコカ・コーラ社の炭酸飲料で、最近はほとんど飲みませんが、若い頃はずいぶんと飲んでいました。当時、コカ・コーラを飲んでいて、それよりも少し甘く、新鮮な味に思われました。また、このファンタのテレビコマーシャルは大変流行りました。実は、このファンタは、1940年に第二次世界大戦でコカ・コーラの原液を輸入できなくなったドイツで、リンゴジャムとチーズの製造工程中に生じる副産物より開発・製造されたものです。ドイツの飲み物といえば、ビールが有名ですが、アルコールがだめな人は、よくシュペツィという飲み物をのみます。これは、コーラとオレンジジュースを店によってブレンドしたものです。これは、ドイツでファンタオレンジが開発されたときの名残の味です。1958年に日本で初めて販売され、1960年にコカ・コーラ社によって商標が買い取られています。ファンタという名前の語源は、英語のFantasy(空想)やFantastic(すばらしい)に由来していて、「現実から解き放ってくれる」ような、楽しく親しみやすいというイメージのブランドとして発売されています。
ファンタを発売している「ザ コカ・コーラ カンパニー」は、「コカ・コーラ」をはじめ、そのほかの炭酸飲料、コーヒー、茶系飲料、果汁飲料、水、スポーツ・エネルギー飲料など400ブランド以上の清涼飲料を世界200以上の国や地域で製造・販売しています。発売していますが、の人々にお届けしています。世界の清涼飲料ブランドトップ5は、「コカ・コーラ」「ダイエット コカ・コーラ」「スプライト」「ファンタ」「ペプシ・コーラ」ですが、そのうちの4つを有する世界最大の清涼飲料メーカーです。
BusinessWeek誌とブランド測定企業のInterbrandが年次調査「Best Global Brands 2007」によると、世界ブランドのトップはコカ・コーラとマイクロソフトの2社となったそうです。この順位は、この7年、変動はありません。
私からすると懐かしいファンタも時代で変化しているようです。
投稿者 fujimori : 22:05 | コメント (4)
2008年04月02日 [近頃思うこと]
春の野草
桜の花が咲き始めたかと思えば、東京ではもう葉桜になり始めています。先週あたり、あちこちから桜の便りが聞かれ、日本中桜の名所が多いですね。私も、毎年どこかにいくのですが、今年は園の近くの神田川沿いを高田馬場から江戸川橋まで下ってみました。その中で、シャッターチャンスが何回かあったのですが、都電と桜の花を撮ってみました。

しかし、春を告げるのは華やかな桜だけでなく、身近な道端にもあります。東京は道はアスファルトで舗装され、人的に植えられた花が多いのですが、それでも少しの隙間の土を見つけて野草は春を告げます。園の周りを歩いてみました。
少し小ぶりですが、マーガレットによく似た白い花をつけているのは、「ノースポール」です。
この花は、別名をクリサンセマム・ノースポールあるいはクリサンセマム・パルドーサムとも呼ばれますが、クリサンセマムの語源は、ギリシャ語のchrysos(黄金色、黄色)とanthemon(花)をあわせたものです。しかし、花付がよく、株全体を真っ白に覆うように見えるところが北極を連想させることによりつけられたノースポールというほうが素敵ですね。この花は、冬のガーデニングにはなくてはならない存在ですが、比較的強健で、こぼれ種でもよく増え、雑草混じリの場所などでもよく育ちますので、園の周りにも花を咲かせた穂でしょう。花言葉は、「誠実」です。
昨日は、エイプリルフールでした。子どものころのよく兄弟でついたうそに、「雪で外は真っ白だよ!」と言うのがありました。東京では、4月に入って、たまに大雪が降ることがあります。ですから、花が咲く春に雪が降るイメージで着いた名前の花の有名なのが、「雪柳」です。
この花も園のまわりに咲いています。花言葉が「愛らしさ」と言うように、一つ一つの花はとても愛らしいのですが、柳のようによくしなる枝に、雪のように白い小花をいっぱいに咲かせます。その姿は、本当に雪のようです。また、花が散ったあとも、花が降り積もった地面は雪が積もったように見えます。その形から、別名を「コゴメバナ(小米花)」と言いますが、「小米」とは精米するときに砕けて小さくなった米の屑のことです。 原産地が日本に近い中国だということもあり、室町時代の「尺素往来」に「庭柳」としてでてきますので、日本でもかなり昔から親しまれたようです。
春の野草の代表的なものにタンポポがありますが、その花に似た花が咲いています。それは、「ノゲシ」(野芥子)という花です。
別名ハルノノゲシとかチチクサとも言います。この花は、よく道端や空き地などに普通に見られる野草です。葉の形がケシに似ているところからノゲシの名前がつきました。葉には刺がありますが、葉の質は柔らかく触っても痛くありません。冬を越すときのロゼットは少し苦いのですが、食用になります。茎もやわらかく中空があり、葉、茎を折ると白い汁が出てきます。この花も帰化植物ですが、ムギなどの畑作の伝来とともに渡来したといわれているように古くから日本に根付いています。
そのほかにも、まだまだ私の名前の知らない野草が咲いていて、頭上の桜に負けずと春を告げています。花壇いっぱいの花もいいのですが、隙間からけなげに咲こうとする花もいいものですね。

投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (3)
2008年04月01日 [近頃思うこと]
衝立
保護者から、玄関のところに置く「衝立」をいただきました。以前から、私は欲しかったものです。よく時代劇などで、玄関先で「たのもう!」と声をかけるときに、その前に視覚を遮るかのようにデンと立てられていうものです。
「たのもう」は、今でいうと、「今日は」と主人に来訪を知らせることです。昔の玄関は広く、向こうまで見通しがよかったので、一度視線と、押し込みを遮るために置かれていたものと思われます。
「衝立」は、「ついたて」と読みますが、もともとは移動できる間仕切りのことです。一般的には「衝立障子」のことをさすように、私の園でも、衝立は障子でできたものと、竹などの格子や板などでできたものがあり、洋風に言えば「パーティション」です。これを使って、昔は空間をフレキシブルに活用していました。

しかし、私が欲しかったのは、玄関に置く衝立です。もちろん、子ども用の玄関ではなく、来客用の玄関です。風水では、これを玄関に入ってすぐのところに置くと、ツキが入ってこなくなるといわれていますが、逆を言えば、私はツキが逃げていかなくなると思うのですが。まあ、ツキが入るだけの隙間は空けて置きますが。
この玄関は、とても深い意味があります。玄関という言葉は、老子の第一章にある「玄之又玄衆妙之門」(玄の又玄なる衆の妙なる門)が出典です。玄のまた玄、衆妙の門、つまり幽玄の道の入口という意味です。「玄」は奥が深い悟りの境地を意味し、「関」は入り口のことで、玄関は玄妙な道に入ることから転じて禅学に入門すると言う意味になり、日本では書院造、禅寺の客殿や方丈などへの出入り口として造られたものです。住居用に書院造の普及しはじめた江戸時代以降に武家屋敷の式台(戸口の前の板敷きの縁)付きの入口となり、住宅に玄関が設けられるようになりました。そして、現代の住宅の入口という意味に変わってきたのです。
ここでいう「玄」はとても深い文字です。宮沢賢治の「雨にも負けず」の一節に「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」という中の「玄米」にも「玄」が使われていますが、この玄米を英語で言うと、Brown riceと言いますが、まだ精白されていない状態の米のことを言います。また、「玄人」という読み方は、「くろうと」と読みますが、黒よりももっと位という意味です。それは、もとは、黒い糸を束ねた形が転じて、かすかに見えるところから、天の色にあて、黒の意味を持つようになったといわれています。
また、老荘(老子、荘子)の学のことを深遠な学問という意味から「玄学」と呼ばれ、それに「易経」を加えて三玄の学ともいいます。これは、魏、晋の哲学であり、仏教の色即是空の空の解釈にも影響を与えています。
私の園の色彩計画で園のテーマカラーは紺青ですが、各階、各年齢によってテーマカラーがありますが、最上階の園長室とセミナー室は「黒」です。すべての光を受け入れ、吸収し、また、すべての色を混ぜることによって出来る色「黒」です。キトラ古墳の玄武という神獣も、玄という字がつきます。玄武は、中国の神で、北方を守護するといわれる足の長い亀に蛇が巻き付いた形をしています。ここでも玄とは黒を意味し、五行説では北方の色とされます。
園の北にある玄関を守る衝立は玄武ではなく、猛虎ですが、子どもを見守って欲しいと思っています。