寺子屋での体罰

今週の日曜日に、江戸東京博物館に、特別展「ペリー&ハリス ?泰平の眠りを覚ました男たち?」を見に行きました。今年は、1858年(安政5)に米艦ポーハタン号上で日米修好通商条約締結から150年にあたります。そこで、ペリー来航から日米和親条約締結、そして日米修好通商条約に至る一連の推移と同時に、米海軍提督ペリーと初代駐日米国総領事ハリスに焦点をあてて、様々な資料が展示されています。
展示資料のなかに、ペリー艦隊の同行画家ハイネが描いた油絵原画があります。ドイツに生まれたウィリアム・ハイネは、アメリカへ亡命し、ペリー艦隊随行の「画家」として、各寄港地で、遠征先の風景をスケッチ画として残していますが、特に異国の地日本に魅せられました。そして、帰国後、ペリー艦隊日本遠征記の挿絵として掲載されたほか、石版画の画集として出版され人気を博しました。
その中に「寺子屋」を描いた絵がありました。その絵のコメントに「寺子屋の子ども達は様々な方向を向いていて、必ずしも先生のほうを見ていません。また、やっていることをさまざまです。それは、日本では、一斉の教えることはせず、子ども自ら学ぼうとすることを大切にするからです。その自発的な学びは、とても高い学力を生み出しています。」というようなことが書かれていました。
江戸東京博物館学芸員の市川寛明さんは、「江戸の学び」の本の中で、「体罰をめぐる日欧比較」という章でこんなことを書いています。
「ルソー以前における西欧の教育観の中核にあったのは、人間は教え込むべき存在であるとする考えであった。幼い子どもは、動物的な存在であり、これを調教することによって一人前の人間に育てあげるのだ。きわめて単純にいえば、ルソー以前の西欧社会では、こうした調教的な教育観が主流だったといわれている。」
ですから、よく西欧の学校を描いた絵画では、教師はむちを持っていることが多いのです。物事を教え込むための体罰は許容されていたのです。
「学ぶという行為が純粋に能力や技術の習得として考えられていた西欧社会と異なり、日本では学ぶことを通じて道徳の実践者になることに目的があると観念され、学ぶことと道徳とが不即不離の関係にあった。寺子屋において体罰がほとんど存在しなかったのは、主体的に学ぶことができる能力の涵養を重視した主体的な学習観の結果であった。」
このように、江戸時代の寺子屋は、主体的に学ぶ姿勢のために、一斉授業とは異なる個別指導が行われていたのです。市川さんは、寺子屋教育が近年注目されている理由をこう言っています。
「寺子屋は、起立、気を付け、礼の号令で始まり、教師の書く黒板に全員が注目し、また全員の注視の中で教師との問答を行う現代の教室風景とは全く異なっていたことは、教育制度の質的な違いを指し示す重要な論点である。」
これが、そう単純にいいとは言えませんが、少なくとも、当時、義務教育ではない時代に世界に稀な高い就学率であったり、高い識字率であったことを考えると、確かに学ぶべきところはあるかもしれませんね。江戸時代の寺子屋や藩校教育をもう一度検証する必要がありそうです。

出羽三山

羽黒山参道には、「奥の細道」には書かれていないいくつかのシンボル的な場所があります。
宿坊が立ち並ぶ道から随神門をくぐると、2446段の石段からなる参道に入ります。
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  その道の両脇には、樹齢300年から600年の老杉が鬱蒼と繁っています。その杉並木を歩いていくと突き当たるのが、シンボル的存在の「爺杉」です。
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推定樹齢は1000年を超え圧倒的迫力があります。周囲11m50cm、樹高は48mを越える羽黒山内一の巨木で、国の天然記念物に指定されています。以前は同様の老杉、婆杉と並んでいたそうですが、今は、台風で失われてしまって、現在は爺杉のみとなっています。
その手前を右に折れて少し行くと、今度は「神橋」を渡ったところに、わずかな流れですが「原賀の滝」が見えてきます。修験場には、身を打たせる滝があることが多いのですが、この滝はどうも打たせるほどの水の流れではありませんが、かつては激しかったのでしょうか。一の坂の上り口である杉並木の中に、とても美しい姿を現したものが、東北地方では最古の塔といわれ、創建は平安中期、平将門の建立と伝えられていますが、定かではないようです。
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純和様の伝統的な手法を厳格に守った素木造りの外観が特徴となっていて、古式の技法を伝える中世五重塔の代表的な例です。出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)では、奈良時代後期より月山神を奉じ、平安から鎌倉にかけて盛んとなった神を仏の仮の姿とする本地垂迹思想により神仏習合の修験道(教団)が成立しました。明治の神仏分離令(廃仏毀釈)により多くの堂舎が破壊されましたが、この五重塔は破壊を免れています。現在は出羽三山神社が奉戴し仏塔ではあるのですが、祭神を祀っています。
出羽三山のうち羽黒山のほか月山には、8日に芭蕉は登っています。「木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月顕る。」
この登るときに首に巻いていた「木綿注連」を、今週の日曜日にたまたま深川にある芭蕉記念館に展示されているのを見ることが出来ました。
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  月山は、今でも夏にスキーが出来る山として有名ですが、7月に芭蕉が登った時にも「氷雪を踏んで八里ばかり登れば」とあるように雪があったようです。私もこのあいだ羽黒山に登ったときにも、周りにはずいぶんと雪が残っていました。
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そして、次の日、芭蕉は三山のもうひとつの湯殿山の方へ下っています。
 「谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。」(谷の傍らに鍛冶小屋というのがある。この国の刀鍛冶である月山という人が、霊験あらたかな水をここに選び、身を清めて剣を打ち、ついに「月山」と銘を刻んで世にもてはやされた。これは、中国のかの龍泉の水で鍛錬したというのに通じるものだろうか。その昔、名剣を作り上げた干将と妻の莫耶の故事を慕うものである。熟達した技を身につけるには、それに深くこだわることが大切と知られたことである。)
 良い剣や刀は、良い水が必要なようです。そして、そのこだわりがプロなのでしょう。

羽黒山

庄内地方の背景をかたどる出羽三山とは、「月山」「羽黒山」「湯殿山」の総称です。これらの山は、修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集めています。そして、それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社といいます。しかし、それぞれに詣でることは大変なので、羽黒山に三社の神を併せて祀る三神合祭殿があります。
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松尾芭蕉は、1675年に江戸に下り、神田上水の工事に携わった後、1678年に宗匠となり、職業的な俳諧師となります。そして、1680年に深川に草庵を結びます。そこに芭蕉の木を一株植えたのが大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けられました。
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しかし、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失してしまいます。その芭蕉が、弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文「奥の細道」はとても有名です。
芭蕉が、羽黒を訪れたのは1689年です。その時のことを「奥の細道」にはこう書かれてあります。
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「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。」芭蕉一行は、6月3日、出羽三山の門前集落・手向に到着後、図司左吉の案内で、日の落ちた羽黒山参道を登り南谷にたどり着いています。その日は、南谷の別院に宿泊したようですが、主から、思いやりの心で、情が細やかにもてなされたようです。
「四日、本坊にをゐて誹諧興行。」4日には、本坊で俳諧の会を催し、「有難や雪をかほらす南谷」という句を読んでいます。この句は、「旅に疲れた身にとってとても有難いのは、この霊山の谷あいから、雪の香の南風が吹き寄せてくることです。」
5日には、羽黒権現に参詣していますが、このときに羽黒山のいわれを書き記しています。「延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。」そして、この羽黒山について「当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。」(この寺は、武蔵国江戸の東叡山に属して、天台宗の止観の教えが月の光のように行き渡り、円頓融通の教えも合わせともって、僧坊が棟を連ね、修験者は修行に励んでおり、この霊山霊地のご利益を貴びながらも、そのあらたかさに人々は恐れを抱いている。そして、この繁栄は長く続くと思われ、実に立派なお山と言うことができるだろう)と書いています。
 芭蕉は、奥の細道すがら、山形県ではいくつかの有名な句を残しています。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」は、山形県立石寺で読んだ句ですし、「五月雨をあつめて早し最上川」は、山形県大石田町での句です。羽黒山の次に登る月山のことは、「雲の峰いくつ崩れて月の山」と詠んでいます。
 今回で私が羽黒山を訪れたのは、季節としては、芭蕉よりも3ヶ月ほど早かったのですが、なんだか、芭蕉の世界に浸ることが出来ました。

日本の風景

  いろいろなところを訪れてみて、日本はとても美しい国だとつくづくと思います。それは、四季を巡る自然であったり、変化に富んだ海や山などの自然の景色であったり、人と自然が共生している里山であったり、人々の暮らしであったりします。
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 それらの美しさは、実際に展開されるだけでなく、小説や映画の世界でも展開されます。先週訪れていた庄内平野にある鶴岡市は、まさに春の盛り、藤沢周平が描いた世界と、その原作を基に黒土三男監督が映画化した世界とが微妙に重なり合って、美しい世界を表現しています。
  映画「蝉しぐれ」のオープンセットが残されています。
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  ここは、当然架空の藩を舞台にした原作を基にして、架空の主人公の世界を残しているのですが、日本のある美を実際に見せてくれます。この「蝉しぐれ」は、藤沢周平作の長篇時代小説で、藤沢作品のなかでも代表的な小説のひとつであり、1986年から山形新聞」夕刊で連載され、その後文藝春秋社 から単行本として刊行されました。
  この小説のストーリーは、幕末時代の山形県庄内地方に設定された架空の藩、海坂藩を舞台に、政変に巻きこまれて父を失い、家禄を没収された少年牧文四郎の成長を描いています。木立と清流に囲まれた組屋敷は、長屋の構造をしていて、庭は隣と繋がっています。
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  隣に住んでいるのは、お福という年下の女の子です。この組屋敷という長屋の構造が、主人公たちの人の付き合いを表しており、進んでいくストーリーの環境として物語に情感を与えています。小説の中で生き生きとした文体で表現される日本の自然は、映画の中でも再現されています。それは、この舞台であるひろく広がる庄内平野に整然と区画された水田、その周りにはみどりに茂る林と、長屋の周りにわずかにある木立、屋根の上に草が生えている家、その背景しての出羽三山、オープンセットを訪れると、まさに小説の世界がそこにありました。
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  「蝉しぐれ」の原作者藤沢周平は、その小説の中での自然描写が多く、まさに東北の小藩「海坂藩」がそこにあるように、地形、気候、生活が描かれています。ですから、読んでいてもそれがイメージでき、映画化された風景を見ても違和感がないのでしょう。それは、この文庫版の目次を見ても、如何に自然とかみ合った話であるかということがわかります。小タイトルの中で自然が入っているのをあげてみると、「朝の蛇」「夜祭り」「嵐」「雲の下」「黒風白雨」「蟻のごとく」「落葉の音」「梅雨ぐもり」「暑い夜」「秘剣村雨」「春浅くして」「行く水」そして、最後の章の「蝉しぐれ」と続きます。ここには、「朝」「夜」「しぐれ」など1日の流れ、そして「雲」「風」「雨」「嵐」「梅雨」などの天候に関するもの、「蛇」「蟻」「蝉」などの生き物、そのほか「黒」「白」、「落葉」「暑い」「浅い」「くもり」など、たったこれだけの中にずいぶんとたくさんありますね。
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  これらの言葉には、あるニュアンスが含まれています。それぞれの情景が思い浮かびます。この微妙さが、日本独特なものかもしれません。言わなければわからない時代に、次第にこの微妙さを感じなくなってくるかもしれません。

猫と獅子

 先日、園のベランダに置いてあるマットを持ち上げてみたら、その隙間に子猫が5匹眠っていました。どこかの猫が子猫を産んだようです。どうしようかと職員で話し合ってりのを遠くから母親猫が心配そうに見つめていました。その子猫の処分をどうするかをみんなで話し合おうということにして、とりあえずそっとしておきました。その次の日、どうしているか覗いてみると、一晩のうちに母親猫がすべての子猫を一匹ずつくわえて、どこか誰もわからないところに移してしまっていました。
読売新聞に、猫に関する言葉が掲載されていました。一つ目が「茨城県では10億円もの巨額の猫ばばが露見した」という4月24日付の「よみうり寸評」です。
「〈猫ばば〉――悪事を隠して素知らぬ顔をすること。拾い物、預かった物などを自分の物にして知らん顔をすること。着服、横領だ。この意味は広く知られているが、〈ばば〉の語源には糞(ばば〉説とともに婆(ばば)説もある。前者はネコが後足で砂をかけて隠すところから。後者は江戸の本所に住んでいたネコ好きの老婆が欲張りだったからという説だ。)しかし、猫が自分の糞に砂をかけて隠すのは、何を悪事を隠すためではないのに、えらい迷惑ですね。また、もうひとつの説でも欲張りなのも、猫ではなく、猫好きの老婆ですので、これも猫が欲張りなわけでもありません。しかし、猫ばばというと、猫がズルいように聞こえます。
もうひとつの記事は、横領ではなく万引きについてネコ科の獅子についての4月25日付け「編集手帳」です。万引きを取り押さえられた者のなかには小学生もいて、引き取りに来てわが子を叱らず、「金を払えばいいんだろう」と開き直り、「なぜ取りやすい場所に置く」と店員を責める親に対して、「太平記」巻16の一節の「獅子、子を産んで三日を経る時、数千丈の石壁より是をなぐ」という子の成長を祈る親の厳しい愛情を例に挙げています。
 この一節は、楠正成が長男である当時11歳の少年であった楠正行に櫻井宿でさとす場面として有名です。「ライオンは出産の3日後、わが子を高さ数千丈の断崖から投げ捨てると言われている。もし、その子に百獣の王に育つべき素質があるならば、誰に教えられるともなく、空中から跳ね返って、墜落死しない。」と言って親子が東西に分かれていくのです。これは もとは古い中国の故事で、獅子とは清涼山という山に棲む架空の聖獣で、アフリカのライオンの事ではないのですが。
太平記といえば、遊和軒朴翁の語った古代インドの逸話の中に親子の情を描いた場面でこんなのがあります。
 妻とわが子を取られた獅子の化身である獅子王が、乱暴の限りを尽くし、その首に賞金をかけられます。そんなときにわが子と再会します。そして、わが子に手柄を立てさせるために、自分を討つように涙ながらに言います。
 「生きているものすべからく、わが命を惜しむは、わがいとし子の為を思っての事。そなたが一国の主となり、その栄華がわが子々孫々に及ぶとならば、この期に及んでわが命、なんで惜しむはずがあろうか。太子よ、速やかにその弓を引き、矢を放ってわしを射殺せ。そして、恩賞に預かるがよい。」
 わが子を思う親の気もちは世の常ですが、何をすることがわが子にとって良いことなのか難しいことですね。

帆船

 今日、長崎から帰る前に、大型帆船が集う「2008長崎帆船まつり」を見に行きました。24日から28日まで長崎市の長崎港で開かれています。この祭りは、2000年から毎年開催されているそうですが、今年は、独立行政法人航海訓練所の練習船で、日本最大の帆船「日本丸」(全長約110メートル、2570トン)と「海王丸」(同約110メートル、2876トン)や、韓国国際海洋都市研究院所属の「コリアナ」(135トン)など計6隻が参加しています。
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昨日のテレビでは、長崎市の観光船「飛帆(フェイファン)」を先頭に、女神大橋をくぐって6隻が一列に入港する「入港パレード」が何度も放送されていました。
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 帆船といえば、私がすぐに思い出すのは、フック船長が乗っていて、その船のマストの上でピーターパンと戦う姿です。
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それを思い出したのは、先日テレビで実写版のピーターパンを放送していたからかもしれません。このフック船長の乗っている帆船は、ディズニーのアニメでは、最後のシーンで空を飛んでいく姿が描かれていましたが、ディズニーランドでは、それをモチーフにしたアトラクションに人気があります。2人乗りの空飛ぶ海賊船に乗って、子ども部屋の窓から飛び出し、ロンドンの夜の空を飛び、ネバーランドへ行くのです。
帆船とは「帆」に風を受けて推進力とする船のことで、当然船の歴史の中では古くから乗られています。すでに紀元前3000?4000年ごろには、エジプトのナイル川では、すでに帆をつけた川舟が登場していました。帆に風を受けて走るので、ナイル川周辺では、風はほぼ一年中、川上に向かって吹いているために、川を上るときには帆を張り、川下へ行くときは帆をおろして川の流れにまかせて走ったのでしょう。
 日本のお隣の中国でも1000年以上前に平たい船底を持った「ジャンク」と呼ばれる船が開発されました。このジャンク船は、西洋より何世紀も前に舵や当て木のついた帆を持っていました。この竹で補強された帆は平らな形をたもつことができ、強風のときは帆の一部を簡単に折りたたむこともできるものでした。
日本でも3?5世紀には、すでに簡単な帆が使用されていたようですが、本格的に帆が用いられるようになったのは7?9世紀(奈良時代?平安時代)にかけて中国へ渡った「遣唐使船」からのようです。この船は、2本のマストを持つ中国のジャンク船型の帆船でした。当初の遣唐使船は、全長20?25m、おおよそ100tあまりの船でしたので、今回姿を見せている日本丸に比べると、5分の一くらいの長さで、重さはなんと25分の一にしかなりませんので、さぞかし頼りなかったでしょうね。しかも、潮流や風向きを利用して進む帆船でありながら、当時は航海に際して季節風を知らなかったり、航海術も未熟だったために、多くの遭難船を出しました。ですから、はじめのころは、1隻か2隻の帆船で渡海していましたが、どれか1隻でも中国に着くようにということで、8世紀にはいると4隻で行っています。この時代の遣唐使のうち全ての船が往復できたのは、なんとたった一回だけという遭難率だったそうです。また、奈良朝、平安朝の時代に遣唐使船は18回出港していますが、無事任務を果たして帰ってきたのはたったの8回だと言われています。
今回停泊している帆船は、通常は外洋での走帆訓練の時しか帆を広げた姿は見られませんが、日本丸や海王丸ほどの大きさになると、帆の数は36枚にもなり、帆を広げた帆船は迫力満点で、とても美しい姿です。しかし、その美しさの影に、悲しい歴史の経過を含んでいます。
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マジックフェザー

 中野区の広報にこんなお願いが掲載されていました。
「針金ハンガーを使用する場合、洗濯物は洗濯バサミなどで数箇所とめて、外れないようにする。また、外出時や夜間は、洗濯物を出しっぱなしにしない。布団や座布団などを捨てるときは中身が見えないようにする。」
なんだか、変質者や痴漢対策のような注意事項が並んでいますが、実はカラス対策のお願いなのです。
カラスは、巣を作り、子育てをするために、つがいで暮らす時期(繁殖期)と集団で行動する時期(非繁殖期)がありますが、今は繁殖期に入り始めています。そのために、まず3月から4月にかけて巣材を運び、巣作りをします。そして、4月から5月にかけて産卵し、卵を暖め、5月から6月にかけてひなを育て、6月から7月には幼鳥の巣立ちの時期となります。
カラスの巣は、大きな樹木の上に、外側は小枝、木片などの硬い素材をつかい、内側は動物の羽毛、わらなどの柔らかい素材を利用しますが、都会では、鉄塔、照明塔、広告塔などの上に、ポリエチレンのひも、ビニール袋、布団の中綿などや、なかでも人気の高い針金ハンガーは、巣を頑丈に作るための格好の材料となっています。
 東京では、カラスの繁殖は、1970年代には山手線の内側ではほとんど確認されませんでしたが、1990年代には多数確認されるようになり、カラスの生息数も、1985年の都市部のカラスは約7千羽と報告されていましたが、2001年の調査によると都内全域で3万羽から3万5千羽生息していると推計されています。
 そこで、カラスが生態系に与える影響など様々な問題が身近なところで起こっています。そこで、東京都では平成13年にカラス対策プロジェクトチームが、石原都知事の表明のもと発足しました。このチームへの思い入れは深いようで、当時副知事も「カラス担当として今までの枠を超えて思い切った提案をしてほしい。今月は、カラス・カラスで頑張ってもらいたい」と激励したほどです。報告書「東京のカラス問題を解決するために」が出されました。一月間でのプロジェクトでしたが、すごい力の入れようですね。
 もともとカラスはペットでも家畜でもなく、都市に生きる野生動物です。それを、人が意識してだけでなく無意識のうちにごみの出し方などでエサを与え続けてきたことが、カラスの異常増殖を促し、人とカラスとの距離が縮まり、様々なあつれきが生じてきたわけなのに、なんだかカラスだけが悪者のような扱いですね。本来は、人と野生動物との理想的なつきあい方は、お互いが過剰に干渉することのない状態を築くことなのです。
 どうもカラスは、あの真っ黒な色や死にそうになると周りを飛ぶイメージからか、不吉な感じがしたり、世界に約9千種いる鳥類のなかで、最も脳が発達しているとの報告があることから昔からずるがしこいイメージがあるので嫌われ者なのでしょうね。
 しかし、私はカラスを見て、運がいいと思うようにしています。それは、ディズニー映画「ダンボ」の中で、ねずみのティモシーがカラスの羽をダンボに「これは魔法の羽だからこれを持てばきみは飛べるよ」を言って渡します。これは、暗示をかけたのですが、それによって潜在能力が引き出されて飛ぶことができるのです。そんな「マジックフェザー」だと思えば、あまりカラスを気味悪がらなくてもすみます。

四神

昨日、姪から今テレビで「太王四神記」というペ・ヨンジュンが主役を演じているドラマが放映されていることを聞きました。このドラマは、広開土大王のタムドクが王となり、広大な満州大陸を支配する内容を描くもので、その神話に登場する四神(玄武・朱雀・青龍・白虎)をファンタジーに表現しているそうです。
 昨年のゴールデンウィークに明日香村を訪れましたが、そのときに高松塚古墳に行きました。この高松塚古墳から南へ約1.2kmの大字阿部山には、終末期古墳である「キトラ古墳」があります。この古墳は、直径13.8m、高さ3.3mの小さな円墳で、高松塚古墳とほぼ同大同型の石室で、北の壁に玄武、東に青龍、西に白虎の壁画が描かれ、天井には天文図の壁画が確認されており、現存するものでは東アジア最古の天文図であるといわれています。
キトラ古墳石室内の彩色壁画の玄武壁画は、1983年に発見され、世間や学会から注目を集めました。キトラという名前は、「北浦」が「きとら」となまったものといわれています。2000年7月31日には、国指定史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定されました。円墳という古墳の形体や四方に四神が描かれた壁画が残されているという類似点から、高松塚古墳とは兄弟と呼称され、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官が埋葬されている可能性が高いと見られています。また、キトラ古墳では金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測されていますが、誰が埋葬されているかはハッキリとは解明されていません。
 その時代の中国や朝鮮半島では獣頭人身を象った浮き彫りや土人形が埋葬された墓が発見されていますが、このキトラ古墳も四方の四神が描かれた壁の下にそれぞれ三体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれているとされていますので、高句麗や新羅などの文化的影響を受けていたと考えられています。
キトラ古墳の内部は漆が塗られ、東西南北の四壁の中央に、テレビで放映している四神である青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれています。北壁に描かれている「玄武」は、亀に蛇が楕円状にまとい付き、2匹が相争っている形です。玄武は周天を天の赤道帯に沿って4分割した四象の一つで、北方七宿の総称で、北方七宿の形をつなげて蛇のからみついた亀の姿になっています。
 南壁に描かれている「朱雀」は、南方を守護しています。翼を広げた鳳凰状の鳥形で表され、朱は赤であり、五行説では南方の色とされています。東壁に描かれている「青竜」は、東方を守護します。長い舌を出した竜の形とされています。青は五行説では東方の色とされ、季節は春とされています。西壁の「白虎」は、西方を守護し、細長い体をした白い虎の形をしています。また、四神の中では最も若い存在であるとも言われており、白は、五行説では西方の色とされています。
 たまたま、私の園では、地下を守っているのは「白虎」(白虎の絵を描いた衝立がおいてあります)で、最上階を守っているのは「青竜」(臥竜塾の原画)で、玄関を守っているのは「玄武」(実際はただの亀ですが)ですので、あとは、裏階段に「朱雀」でも描こうかなと思っています。

地球

 今日のグーグルのロゴは、岩が文字をかたどり、滝が落ちる脇には木が生えています。きょうは、「地球の日」だからです。地球の日は「アースデイ」といわれ、地球に感謝し、美しい地球を守る意識を共有する日です。1960年代の終わり頃、環境問題や、その保護のために力を注ぐ政治家はまだ少なく、そのうちの一人だったネルソン氏は、学生運動・市民運動がさかんなこの時代に、アースデイを通して、環境のかかえる問題に対して人びとに関心をもってもらおうと考えました。その概念は、当時スタンフォード大学の全米学生自治会長をしていたデニス・ヘイズ氏に伝えられました。 ヘイズ氏は、全米中にアースデイを呼びかけました。1970年に行われたアースデイは、アメリカ全土で2000万人を集め「環境保護に地球市民として取り組む」集会を行い、地球への関心を表現するアメリカ史上最大のイベントとなりました。このアースデイをきっかけに、環境問題に対して人びとの関心が払われるようになり、環境保護庁設置や大気浄化法、水質浄化法などさまざまな環境法が整備されたほか、環境問題について消極的な態度をとりつづけてきた議員が選挙に落選し、軍は東南アジアにおける枯れ葉剤の使用を禁止されるなど、アースデイの影響はあらゆるところに及びました。日本に歩行者天国ができたのも、このアースデイがきっかけです。
  地球は太陽から3番目の惑星で5番目に大きな惑星です。そして、太陽からの距離は、149,600,000 kmです。そして、その直径は12,756.3 kmあります。太陽系のほかの惑星は、その英語名はギリシャ神話やローマ神話をもとにしています。水星はマーキュリー、金星はビーナス、火星はマーズ、木星はジュピター、土星はサターンといいます。しかし、地球の英語名のEarth(アース)は、ギリシャ神話やローマ神話をもとにしていません。この名前は古い英語とゲルマン語から来ているのです。
  今では小学生でも知っていますが、地球があるひとつの惑星に過ぎないということがわかったのは、コペルニクスの時代(16世紀)になってです。しかも、この惑星全体の地図は20世紀になって初めてできたのです。現在、よく気象情報や台風情報などで地球の宇宙空間から撮影された写真を見ることがありますが、とても綺麗ですね。この写真を見るだけでも大切にしなければと思います。
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  以前のブログで、笠木透さん作詞作曲の「私の子ども達」という私の大好きな歌を紹介しましたが、やはり笠木さん作詞の歌に「少年よ」という歌があります。今日の「地球の日」に、この歌を思わず口ずさみました。
「この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 国境線など どこにもないだろう 海と大地とが 広がっているだけ この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 山は雪を抱き 森林は緑 山と海とを 川がむすんでいる 無限に広がる 宇宙の中で 君の生きてゆける たった一つの星 永遠に流れる 時間の中で 君の抱いている たった一つの生命 この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 島から島へ 風は渡って行く 海から海へ 魚は泳ぎまわる この小さな星を 見てごらん この水色の星を 見てごらん 雨は土に降り 草原に花は咲く 鳥やけものたち 大地を走り回る 無限に広がる 宇宙の中で 君の生きてゆける たった一つの星 永遠に流れる 時間の中で 君の抱いている たった一つの生命」

徂徠豆腐

 庄内藩の藩校教育に影響を与えた荻生徂徠といえば、徂徠の逸話から採った落語、講談、浪曲でのネタとして「徂徠豆腐」というのがあります。その中の名せりふを小泉さんがたとえとして使ったことでも有名になりました。
 「江戸にいたんじゃ、「まさかこんなことはできねえ、まさかあんなことはできねえ」って、「まさか」って坂を心にこしらえてしまう」というもので、人生には「まさか」というようなことが起きます。しかし、その「まさか」といった事態を越せなければ、江戸では生きていけないのです。「まさか」を越すぐらいなら、田舎へ流れていった方がいいのではないかと女房に言いつつ、自分にも言い聞かせるのです。このまさかという逸話がこれです。
 豆腐屋が街を流して売っていると、ある長屋で貧乏学者風の男に呼び止められます。すると豆腐を一丁だけ売ってくれと言うのです。豆腐を渡すと男はその場で豆腐をたいらげ、細かい金はないから、あとでまとめて払うと言います。そんなことが5日ほどつづき、豆腐屋が今日こそ払ってくれと言うと、男は金がないというのです。そこで豆腐屋は問いただすと、「今は学者の勉強をして、世の中を良くしたい。いずれ世に出る日がくるから、そのとき払う」と言うのです。それなら出世払いで良いからと、翌日から差入れが始まります。そんな行動をおかみさんが不審に思い、咎めるのですが、理由がわかるとおにぎりを持ってお行きと言うのです。あるとき豆腐屋は風邪で2週間ほど寝込んでしまいます。しかし、その男のことは気になっていたので、病み上がりの体で長屋を訪ねたのですが、もぬけの殻で、行き先も分かりません。長屋で名前を聞くと「確か、お灸がツライ、とかなんとか言っていたよ」と言うだけです。その後何回か足を運んだのですが、わからずじまいで、次第に夫婦の頭から消えていきました。
ある夜、豆腐屋の隣から火が出て、豆腐屋も全焼してしまいます。もらい火で、一夜にして店も家も財産も失った豆腐屋の上総屋七兵衛が、うちひしがれている女房に向かって「こうなればどこか田舎へ流れていくしかない、江戸にはいられない」と言う時のせりふが最初に書いたせりふなのです。そうしていると、そこへ立派な身なりの男が現れ、ぜひ援助したいと言います。最初は誰だかわからなかったのですが、以前、豆腐を食わせていた男だと気が付きます。名前を聞くと、「お灸がつらい」ではなく、「荻生徂徠」だと言います。「おきゅうつらい」ではなく「おぎゅうそらい」だったのです。徂徠の援助で豆腐屋はまた店を再建するのです。その豆腐は「徂徠豆腐」と名づけられました。
このような世に出る前に一日一丁の豆腐で飢えをしのいで勉学に励む荻生徂徠と、その清廉、真摯な姿勢にうたれた豆腐屋との温かい交流を描いたものです。この話は、事実と、落語で話される内容を私なりに少し混ぜて変えてしまっている部分もありますが、大筋このような話です。
 この豆腐屋の行為を、落語では徂徠にこのように説明させています。「十年前、私は銭を払うような素振りで、都合、三丁の豆腐を食しました。無銭飲食です。法に触れた行いです。しかし、あなたはそのことには 触れず、『出世払いでいい』と情けをくださったではありませんか。あなたは天下の法に許す限りの情けを注いでくださったのです」
 ちょうど先日、私が、園の方針がぐらつくのではないかというある保護者にこんな話をしました。「園は夜8時半に門を閉めます。しかし、その時刻にきちんと門を閉めるのは機械でもできますが、遅れた事情を聞いて、それを許すことができるのは人間だけです。それは、子どもにとって最善の利益を求めるという理念がぐらつかないからです。」と答えたのです。