河井と小林と吉田

 「米百俵」の小林虎三郎といえば、同時代のライバルであった河井継之助を思い出します。河井継之助については、何度かブログで書きましたが、司馬遼太郎の「峠」の主人公です。山本有三は、郷里の偉人として、ある人から河井継之助の執筆を勧められましたが、戦争に踏み切った継之助よりも、戦争に反対し食えないから学校を建てたという虎三郎に関心を示して、戯曲「米百俵」を書いたのです。
「峠」の小説の中では、河井継之助と小林虎三郎はライバルであり、政治的に意見が合わず、仇敵のように対立していたと描かれていますが、実際はそれぞれの立場上の問題なようです。越後長岡藩という小さな藩に生まれた継之介は、武力強化をすることによって、藩を強くし日本の中に中立国を作ろうとします。これに対して小林虎三郎は、精神の教育や学制の改革などに基本を置く考え方で、これができて公正な政治と経済が可能であるという根本的な考え方をしています。しかし、ともに、薩長軍が長岡に迫って来た時、戦争をしたくないという思いは一緒でした。長岡藩を武装中立のもと官軍・同盟軍双方に働きかけ、緊張緩和・戦争回避に尽力するというのが河井の狙いでした。小林虎三郎も絶対非戦論者ではなく、薩長軍が「天朝」の旗印の下に統一国家をつくろうとし、一時の屈辱を我慢してでも戦争はしてはならないが、もし戦争となった場合は、藩主のため、お国のために必死に戦わなければならないと考えていました。
この司馬遼太郎の「峠」の中に、小林の性格を表したエピソードが書かれており、印象に残っています。それは、小林虎三郎の家が火事になって、小林虎三郎は体一つで焼け出されてしまったときのことです。
困窮していた小林虎三郎に、普段は意見対立していた河井継之助が火事見舞いとして、要用な生活用品を小林虎三郎の仮住いのところに持っていってあげます。すると、小林はかねて仇敵視していた河井の好意に感激して、面会したその場に涕泣しますが、河井は感傷的なことが大嫌いですので無愛想な態度をとります。これに対して、小林はやがて居住まいを正し、返礼をします。
「貴殿の好意に対し、残念ながら何もお返しできない。私としては貴殿の施策の誤りをこの場で指摘し、今回のお礼としたい」と申し述べて、延々と河井のやり方を批判するのです。「峠」の中では、その内容を「激しさ、痛烈さは、気の弱い者なら卒倒するほどであったろう。これがお礼なのである」と書かれているほどのものだったようです。このお礼に対して、河井もさすがに感情が昂ぶり、帰り道で「小林は偉い、偉い」と呟いていたといいます。
 この小林は、23歳の時に藩命で江戸に遊学をし、当時兵学や砲学、洋学で有名な佐久間象山の門下に入ります。そして、長州藩士の吉田寅次郎(吉田松陰)と「象門の二虎」と称せられます。また、象山に「義卿(松陰)の胆略、炳文(虎三郎)の学識、皆稀世の才なり。但事を天下に為す者は、吉田子なるべく、我子を依託して教育せしむべき者は、独り小林子なるのみ。」(天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林だけである)と言わせるほど、虎三郎は教育者でした。なお象山は、幕末の動乱期に際し、回天の仕事をするのは吉田松陰で、百年先を見通した仕事をするのは小林虎三郎、としています。
教育は、百年先を見通した仕事です。

河井と小林と吉田” への4件のコメント

  1.  私は小林虎三郎という人物は初めて聞きました。ですが、ブログを読んで思ったことは、小林虎三郎のような教育者というのは普通の考え方を全くしないと感じました。「米百俵」でも目の前に米があれば食べるのが普通ですが米を売って学校を建設するのは思いつかないです。それこそ百年先を見越していますね。私も一応教育者ですが、先を見越して仕事は出来ていません。目の前を見ているのが精一杯です。もう少し先見の目を持って仕事をしていこうと思いました。

  2. 小林虎三郎の性格を表したエピソードは面白いですね。決して形だけのお礼とは違い、本当に考えつくされた礼だと思います。大切なことを押さえ百年先を見通した上で今何をすべきかを考えることから、このような行動が生まれるのでしょうか。このエピソードはしばらく頭から離れないような気がします。

  3. 一昨日から出張していましたので、まとめてコメントを書こうと思っています。夏休みの宿題のたまった小学生の気分です(笑)。「峠」を学生時代以来久しぶりに読み直してみました。河井継之介にこんな骨のある永遠のライバルがいたんですね。大いに刺激し合っていたんでしょう。このライバル以上に大事なのが師匠の存在だと思います。河井の師は山田方谷、小林は佐久間象山門下で、共に学んだ吉田松陰は松下村塾で多くの若者に影響を与えたことはあまりにも有名です。現代の若者の最大の不幸は、「人生の師匠」と呼べる人物に出会えないことのような気がします。

  4. 現在と違って、江戸時代の徳川幕藩体制下では、各藩ごとに後の天下国家を動かすことに貢献している人が存在していた、と思います。今日のブログで紹介されている人々を見てもその出身地は現在の新潟県、山口県、長野県、です。各藩が藩主の家を中心とした「中央集権国家」だったのだ、ということに思い当たります。それゆえ「長岡藩」という、決して大きいとはいえないひとつの「国家」に「河井継之助」や「小林虎三郎」という後の日本を大いに揺り動かしていく逸材が輩出したのでしょう。昨今言われている「地方分権」ということも明治以前の「国」あるいは「藩」というものをしっかりと検証した上で云々しないと「地方分権」が名ばかりの日本という国をひとつの単位とした「中央集権国家」構造は今後も続くような気がします。

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