日新公いろは歌1

 もう正月気分はとっくに抜けたと思いますが、子どもにとってお正月とか、お盆のときにだけ許された子どもの遊びがいくつかありますが、最近は、1年中を通して遊ぶようになりました。そのひとつに「かるた」があります。英語ではカードと言いますが、カルタという言葉も外来語です。ポルトガル語のcarta(手紙、あるいは紙板状のもの、トランプなど)が語源であると言われています。寛永の頃になると一般化に流行し、「うんすん骨牌」「歌元骨牌」「花かるた」「イロハかるた」さまざまなものが流行しました。子どもにとってのかるたは、その内容によって人生や生き方や知恵を教えるものであったり、文字を覚えるための遊びでもありました。また、その内容は地域のよって地域を読み込んだものや、考え方を反映したものなど様々です。たとえば、同じイロハかるたでも、「い」の文は、江戸では、「犬も歩けば棒に当たる」であり、上方では、「一寸先は闇」で、尾張では、「一を聞いて十を知る」です。誰かわかりませんが、どれを採用したかは興味のあるところです。
 私が最近はまっているものに、「日新公いろは歌」があります。これは、以前のブログで書いた薩摩の「郷中教育」の理念です。鹿児島にある「維新ふるさと館」のパンフに郷中教育のことが書かれています。
 「幕末維新期に多くの人材を生み出した薩摩藩。その行動力や結束力を育てたのが、薩摩藩独自の「郷中教育」でした。郷中とは、同じ方限(地域)における武家の青少年教育のことで、藩校とは別に、学問や心身の鍛錬を目的とした学びの場であり、年長者が年少者を指導する仕組みになっていました。知識や教養とともに彼らが学んだのは「実践」の重要さでした。「日新公いろは歌」第一首が示すように、机上の学問だけでなく、それをもとに、武士としていかに生きていくべきかを追求していたのです。」
その第一首とは、いろはかるたの「い」の部分です。
「いにしえの 道を聞きても 唱えても 我が行いに せずばかいなし」
昔の人の教えを学び、それを理解しても、そして偉そうに人にその知識を披露しても実際に自らの行動に移し、実践をしなければ何もならない。ということですが、それはこの郷中教育の理念ということではなく、今、私がずいぶんと壁にぶつかるところです。私は子どもとかかわる仕事をしているのですが、目の前にいる子どもたちを見ていると、最近どんどん変な方向にいっている気がしてなりません。子どもの事件も、最近特に多くなったとはいいませんが、事件の質が変わってきています。それに対して批評をする人はたくさんいるのですが、いざ行動しようとすると、「そうは言っても」とか「今までのやり方を変える必要がない」などと行動に移そうとしません。
 私が教員だったころ、同僚たちに「これからは、学校も地域に開いていかなければならないのではないか。」ということで、保護者向け勉強会を開催するのはどうかと提案したところ、「これからはそういうことは必要だ」とか、「それはいいことだ」と言う人は多いのですが、誰も具体的に始めようとしません。そこで、私は、一人で全校児童全員の保護者宛に勉強会を開催しますというはがきを出して、学区域内3箇所で毎月1回勉強会を開催していたことがありました。その参加者が、そのあとも地域のリーダーとなって、社会教育の場で活躍をしていました。
 世の中を変えていくのは、批評家ではなく、実践家です。

日新公いろは歌1” への5件のコメント

  1.  「郷中教育」というのは先生が言われる保育と似ているところがありますね。年長者が年少者を指導する仕組みとは、全く同じですね。やはり昔からそういう教育の仕方をすることによって素晴らしい多くの人材を生み出すのですね。また彼らは「実践」の重要さを学んでいましたが、それは保育にも言えることのような気がします。先生のように現場で常に子どもを見ている人ほど、子どもの変化に気づき始め、それを講演会などを通して伝えています。例えば野球やサッカーの解説者やコメンテーターも素人でも研究者ではありません。実践家というか現場でプレーをしていた人です。保育に限らず全てにおいて大切なのは現場での実践だと私は思います。

  2. 先日、新宿のせいが保育園を幸運にも見学させていただきました。まさしく見守る保育の進化形ですね。感激しました。明日、その時の先生方が中心になって、ささやかですが自主的な勉強会を開きます。学んだことはすぐ実践に移していかないと身につきません。今日の島津公のいろは歌のお話を読んで、改めてそう実感します。本当に子供のことを愛している保育者は、「そうは言っても」なんて言うはずがありません。真摯に先覚者の声に耳を傾け、素直に実践に生かしているに違いありません。明日はそんな人たちの集まりになりそうです。

  3. 藤森先生の言われるように、世の中を変えていくのはその時代における提案や行動であって、嘆いたり批評したりすることではないと思います。
    「いにしえの 道を聞きても 唱えても 我が行いに せずばかいなし」
    このことを思い出しながら、自分の行動を見直すことを忘れずに実践を続けていかなければと、思いをあらたにさせてもらいました。

  4. 「イロハかるた」が江戸・上方・尾張で異なる例は実に興味深く思いました。先日久々で神戸を訪ねる機会がありました。新幹線の駅ホームからエスカレーターで下がるとき停止者と歩行者の位置が右左違っていることに「思えば遠くへ来たもんだ」との感慨を深くした次第です。エスカレーターにみる地域アイデンティティ。そんなことを考えたところです。まっ、これは今日のブログの本題とはずれることですが・・・・。「日新公いろは歌」の「い」は自称「評論家」としては耳が痛いところです。ひとつひとつ実践に移していかなくては「唱え」ていることは実現しません。しかも内外、左右、ベクトルの先はさまざまに向いていきます。目的・理念がはっきりしていて、あとはできるところから一つ一つ取り組み、目的達成のために「何がかわったか」「どこかが新しくなったか」検証して進むなら、実践それ自体が楽しくてしかたがないものとなるのでしょう。おっと、また「評論」癖が出ています。

  5.  今日はじめて日新公のイロハカルタを知りました。
    人生の処世術として 極めて為になる歌だろうと思いました。
    近年 学校の学校らしさが抜けているのが 大きな通り魔事件に発展していると思っています。
     TVやゲームの毒々しさは 今の教師には見えないらしく 
    教育の中にコンピューターを取り入れる様は日本を見えなくしているように思います。
     塾や電算機もいいのですが 問題は人間の人間らしい生活をいかに維持し築くかが もっとも重要であると思います。

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