子どもの瞳

 少しの間小学校の教員をしているときのことです。前の先生との引継ぎのため、3月末の数週間だけ5年生を担任しました。数週間の間だけでしたが、担任していた5年生は随分と慕ってくれました。あるとき、子どもたちが「先生のうちに遊びに行きたい!」と言ったのですが、4月からは1年生の担任になることが分かっていたので、5年生とは余り深くならないほうが6年に担任になる先生がやりやすいだろうと思っていたこともあって、住所は教えませんでした。私の家は、その小学校からは4Kmくらい離れていました。あるとき、帰宅をすると、子どもたち数人が私の家にいるではありませんか。どうしてここにいるのか聞いてみると、「どうしてもみんなで先生のうちに来たかったので、他の先生に住所を聞いても町名しかわからないと言われた。だから、クラスみんなで手分けをして、毎日その町内を端から数日かけて探していたのだ。そして、やっと見つけたのだ。」と言うのです。そのときは、とてもうれしかったのですが、怒った振りをして、「ダメじゃないか。勝手に来ちゃ。」と言って、家に連絡をして、一緒にお菓子とかを食べて帰しました。
そのとき、ふと、壺井栄の「二十四の瞳」を思い出しました。何回か映画になっていますが、瀬戸内海に浮かぶ小豆島を舞台に、戦前から戦後にかけての女教師と12人の生徒たちの交流を感動的に描いています。その中の前半で特に感動を呼んだ部分は、
「足を怪我して学校を休んでいる大石先生を見舞うため、子どもたちは歩いて先生の家に向かいます。ところが迷子になってしまい泣きながら歩いている生徒達をたまたまバスで通りかかった大石先生が見つけ、その後、大石先生の家で子どもたちは大いにもてなされ、記念写真を撮り、船で帰っていったのです。」
nijusi.jpg
この場面を本を読んだ当時は感動しましたが、5年生がやっと私の家にたどり着いた姿を見ていて、教師をしていると、本になるような感動することは普段たくさんあるのだ。子どもたちとの毎日は、本や物語の中の話に比べて、感動の連続だと思ったものでした。保育者とか教師はそんないい仕事だと思うのですが、最近はどうもそうとはいえないようで、悲しいですね。
そんな二十四の瞳の舞台である小豆島に行ってみました。ここには、1987年の映画「二十四の瞳」の舞台として使われた分教場がそっくり残されています。
bunnkyoujo.jpg
その建物は、実際に明治7年に開校し、昭和35年8月田浦尋常小学校として建築され、昭和46年3月24日に廃校されるまで「苗羽小学校田浦分校」として使われていました。その建物は、小豆島町田浦地区よりさらに600m南、瀬戸内海を見渡す海岸沿い約1万平方Mの敷地に作られた大正・昭和初期の小さな村の中に建っています。
bunkyoujo2.jpg
「昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女先生が赴任してきた。」との書きだしで始まる小説「二十四の瞳」のなかの大石先生と12人の子どもたちの姿が目の前にそのまま現れたような錯覚に襲われます。薄暗い教室にはオルガンが一台、小さな二人掛けの木の机が六つ、教室の壁には様々な掛け図や、子どもの作品などが飾られています。窓からは、遠くに島影を持つ海が広がっています。この小説は、その後それぞれの子ども達が悲惨な戦争に巻き込まれ、その犠牲になっていく姿が描かれていますが、今の時代は、その頃と比べて、どこが平和になったのか、何が変わったのかと考えてしまいます。