日本ブーム

 何回かブログでも取り上げたのですが、世界では、日本人が思っている以上に日本ブームです。日本の文化は、昔からブームを呼んでいましたが、もう少し、私たちは自分の国の文化を見直すことが必要でしょう。
 JALの機内誌2月号に世界の日本ブームが取り上げられています。
「トレンディーな日本ブーム」ということで、アメリカサンフランシスコで最近話題のレストランパブが取り上げています。一軒目が「ヨシズ」です。
「サンフランシスコで今、新しい和食とエンターテイメントを加えたトレンディーなスポットがブームを呼んでいる。2006年末にオープンした「ヨシズサンフランシスコ」は、全米トップクラスのアーティストたちが演奏する、ハイレベルなジャズハウスと和食レストランが融合した新名所。オークランド店に続く今回の新しい「ヨシズ」は、ライブ客席が417席、ダイニングエリア370席と西海岸最大規模を誇る。ペーパークラフトや、天井から火鉢を吊るし囲炉裏を演出したり、クリエイティブな日本のアートと人気シェフによる創作料理が話題だ。」
 料理が日本食というだけでなく、店内装飾も日本的のようです。日本の居酒屋さんのような雰囲気なのでしょうか。もう一軒は、「オズモ」です。
「ベイブリッジを見渡すウォーターフロントに位置する、コンテンポラリージャパニーズキュイジーヌの『オズモ』は、有名人が集う店として知られる高級店。洗練されたメニューと90種類以上の日本酒を扱う同店は、サンフランシスコの「Sake」ブーム発祥の地でもある。モダンななかにも日本らしさが息づくエレガントな内装に、美しく飾られた「酒ボトルの壁」が目を引く。」
 相変わらず、日本酒に人気があるようです。野地秩嘉のレポートは、和紙の話です。
「スイスのチューリッヒの業界有数の美術品輸送会社を訪ねた。その会社の美術倉庫は武装したセキュリティーガードが立ちはだかり、契約者しか内部に入れない。ある美術コレクターに連れられて、中へ入ったら、ピカソ、マティス、ルノワール、セザンヌといった巨匠たちの作品が無造作に、しかも裸で並べてあった。倉庫の担当者はこう語った。「年代を経た美術品は管理された温度、湿度のなかに裸で置いておきます。それが美術品にとってもいい環境なのです。常時、梱包しておくと絵が痛みます。ですから、倉庫から美術館へ輸送する場合も梱包時間は24時間以内と決めているのです。そんな美術のプロである彼らが梱包に使う材料が和紙だった。「ビニール製品や洋紙は外界の空気をすべて遮断してしまう。湿度の違う場所へ運び、開梱すると、絵の具の表面が劣化してしまうのです。その点、和紙は空気を通します。通気性があるから古い時代の大切な絵には必ず和紙を使います。彼らが和紙の力を絶賛するのを聞き、以後、私は和紙に対しての認識を改めた。すると、海外でも、日本でも、和紙を使った製品がたくさんあることに気づいたのである。障子、襖、屏風、提灯、行灯、金封、箸袋、懐紙、……。そういったものは海外の日本料理店やデパートに行けば目に入る。そういったものよりも、はるかに頻繁に見つけることが出来たのが和紙を使った照明器具だった。ホテル、空港、カフェに置いてある提灯形のライトは蛍光灯やガラスの照明具の色とは違い、淡いオレンジ色の光を発していた。」
 私の園には、スウェーデン製の障子紙のライトが置いてあります。
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学習

 先日園を訪れた方が、台湾に行ったときの話をしていました。
台湾では、年長さんでもうすでに掛け算九九が言えるそうです。しかし、それはどうも無理やりに仕込まれている感じがしたと言っていました。というのは、先生は保育中に一切笑顔を見せず、ずっとしかめっ面をしていたそうです。また、子どもたちの声もどこからも聞こえず、ずっと黙って言われたことをしていたそうです。これは、見てきた人の主観が入っているかもしれませんし、台湾ではどこでもそういう保育をしているとは限りませんが、他の情報からもおなじようなことを聞くことが多いです。
 以前のテレビ番組ではありませんが、確かに中国では子どもたちは一生懸命勉強をしているようです。しかし、中国語では「勉強」(mian qiang)は、無理強いするという意味だそうです。「免」はもともと女性が力をいれて出産している様を表した象形文字なのです。ですから、日本語の「勉強する」という意味では「学習」(xue xi)が使われています。私も、「勉強」「教育」という時は余り好きではありません。「学習」のほうがいいですね。しかし、中国では、「学習」よりも「勉強」のほうがあっているかもしれません。しかし、この勉強でも中国では格差があるようです。
 中国の農村地方では、満足に小学校にも通えない子どもたちが3000万人もいるといわれています。改革開放政策のひずみから富裕層は惜しみなく子どもの教育にお金をかけ、貧困層の子どもは中学を卒業するのが精一杯という二極化が進んでいるのです。そこで政府もいろいろな対策を打ち出しています。小学校の教育費の一部を公費で負担することが、最近やっと決定しましたが、なかなか大変のようですね。
 やはり、先日来園者の話で、絵を描かせるときに一斉に笛を吹いて始める園があると聞きました。それは、日本の園での話しです。私も、以前見学した園で、子どもが立ち上がるときも、歩き出すときも、トイレに移動するときも、ピアノの音にあわせて一斉に列を組んで行動する子どもたちを見ました。整然と、きちんと子どもたちが行動している姿に感動しているようでした。
 なにが子どもたちの学習にとって良いのか難しいですね。以前取り上げた郷中教育のいろはかるたの中にこんなのがあります。
「下手ぞとて 我とゆるすな 稽古だに つもらばちりも 山とことの葉」
下手だからといって、練習を怠けてはいけません。「塵も積もれば山となる」といわれるように、諦めずに続けることで上手くなることが出来るのです。「習」という字は、自ら何度も何度も羽を動かして学ぶ姿を現しています。
「知恵能は 身につきぬれど 荷にならず 人は重んじ 恥づるものなり」
知識や技能はいくら身につけても邪魔にはならず、人から尊敬されます。逆に学ぶことを怠けた人は、自分を恥かしく思うことでしょう。この身につけるべきものは、年齢によって違うでしょう。新しい保育所保育指針には、乳幼児期は、豊かな「心情」「意欲」「態度」を身に付け、新たな「能力」を獲得していく過程であると書かれています。昨年最初に出された原案では、「知識や能力」を獲得していくと書かれていましたが、「知識」は削られました。それは、知識が大切でないというのではなく、この「時期」に獲得すべき大切なものではないということです。

歌舞伎

 今月20日は、「歌舞伎」の日でした。1607年のこの日に、出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露したのです。その4年前の1603年、京都四条河原で出雲の阿国が歌舞伎踊りを始めたのが歌舞伎の発祥とされています。四条河原では、それ以後女歌舞伎が評判となりました。この阿国は出雲大社の巫女であったとも河原者でもあったと言われていますが、はっきりはわかってはいないようです。しかし、彼女の墓は出雲にあり、この間出雲に行ったときにその墓を訪れました。
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今、歌舞伎というと「女形」と言われる役柄があるように、すべて男性が演じますが、発祥は女性であるということが不思議でした。どこから、男性が演じるようになったのでしょう。評判になった阿国の踊りは、その時代の流行歌に合わせて披露し、また、男装して当時のカブキ者のふるまいを取り入れて、当時最先端の演芸を生み出したのです。
阿国の踊りが評判になると真似をするものがたくさん現れます。まず、この評判に刺激を受けたのが四条河原町付近にある多数の遊郭です。遊郭が競って遊女達に男装させて阿国の一座に類似した踊りを踊らせ、これを遊郭の客引きに使用しました。これを「女歌舞伎」といいます。これは、風紀を乱すとの理由から1629年に禁止されます。すると今度は、女がだめなら男ならいいだろうと、元服前の前髪を剃り落としていない美少年俳優たちが演じる「若衆歌舞伎」が演じられますが、これもやはり同様に客引きをかねて実施されましたので、1652年に禁止されます。しかし、そんな風紀上悪いものではなく、このような芸能をどうしても見たいというニーズがあり、普通に男性の役者だけを使って演じる「野郎歌舞伎」が演じられます。これが現在の歌舞伎のルーツです。
 歌舞伎の語源はカブく(「傾く」が原義)の連用形からとされています。異様な振る舞いや装いをカブキといい、それをする人物をカブキ者と言いました。カブキ者というのは、傾奇者と書きますが、男伊達を競い、派手な身なりや、行動を取る者たちのことをさします。織田信長もそう呼ばれることがありました。歌舞伎の醍醐味が「外連(けれん)味のある演出」といわれるように、はったりやごまかしがある演出ということをいわれるようになったのです。
漢字で歌舞伎と書くのは当て字ですが、その三文字は、「歌い」「舞い」「伎(技芸、芸人)」を意味しています。しかし当初はその発生史から伎ではなく妓の字が使われ、江戸時代には混用していたようです。
 江戸時代が終わり、明治になると鹿鳴館に代表されるように、西洋式が良くて日本式は価値がないようにいわれていた時代、歌舞伎も古いものとして見放されそうになりました。しかし、新聞社の経営者であった福地源一郎が、この伝統演芸を再生しようと新思想にもとづく演芸を上演するための新しい劇場を建設しようと考えました。彼はその劇場を建てる場所として歌舞伎にゆかりの深い木挽町を選び、名前も「歌舞伎座」にしたのです。もうひとつ、11月21日も歌舞伎の日とされていますが、これは明治22年の11月21日に歌舞伎座がオープンしたことを記念するものです。
歌舞伎は、日本独特の演劇で、伝統芸能の一つで、重要無形文化財です。今、無形文化遺産保護条約に基づく「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載されており、2009年9月に予定される初の登録での世界無形遺産への登録が事実上確定しています。
歌舞伎界もしっかりして欲しいものです。

生活の質

先週の日曜日、強風の中、渦の道を歩いてきました。ここは、徳島県鳴門市の鳴門海峡に位置する観光地で、大鳴門橋の橋桁に設置された遊歩道から、渦潮を見下ろすことができます。渦潮とは、潮の干満の差の激しい狭い海峡で発生する海水が渦を巻きながら激しく流れる現象です。
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直接関係はありませんが、連想として、小説家・林芙美子が発表した小説「うず潮」を思い出しました。この小説や林の人生を題材にした映画作品やNHKの連続テレビ小説「うず潮」がありましたね。このドラマは、初めての無名新人の林美智子を主役にしたことで有名です。1964年に放送されたNHKの連続テレビ小説の第4作で、少女期の貧しい生活にもへこたれず、明るく生きていくヒロインの生涯を描いていました。
この原作者林芙美子のほかの作品に、「放浪記」があります。先日、新聞記事に「日本を代表する女優の森光子(87)が金字塔を打ち立てた。」ということで、東京・日比谷のシアタークリエで上演中の代表作「放浪記」が先日23日に、上演1900回を達成したというものです。1961年の初演以来47年、よくがんばったものです。長い間というだけでなく、現在87歳になっても、あのハードな演技を続けているのですからたいしたものです。今回の東京公演から、あの有名なシーンである「でんぐり返し」は、やらないらしいですが、花粉症に悩まされる中で、3月末までの3カ月公演を続けています。
 「風邪をひかないこと、転ばないことを心掛けています。年齢にケンカできるものではありませんから」と高齢であることを冷静に自覚した言葉も話しています。
高齢でがんばっているといえば、1911年(明治44年)生まれの聖路加国際病院名誉院長・同理事長で医師である日野原 重明がいます。
この日野原さんが主宰している「新老人の会」の会員である松原さんが、新聞に「若々しい老い」について、投稿をしていました。この会の登録者から得た調査票では、老人のQOL(生活の質)の高さには、「気力」が「体力」にもまして影響力が大きいこと、「体力」には睡眠、運動、食事のとり方、病気の有無などが影響していることが明らかになっています。そのほか、趣味、けいこやボランティア活動など日常生活のあり方が「気力」に大きな影響を与えているという結果も出ています。
 森さんと日野原さんの二人を見ていると、まさに、老人のQOL(生活の質)は、気力にあるという気がします。QOLとは、「Quality of Life」のことです。健康に問題ない方は、体のどこにも異常はなく、普通の生活をしている。これをQOLが良いと言います。しかし、体の調子が悪く、病気になると、頭や体が痛んで、仕事や勉強、運動などをする気になれず、寝込んでしまうことが多く、このように日常の生活を送れない状態をQOLが悪いと言います。昔はこういう苦痛があるときには、草を煎じて飲んで楽になろうとしました。これが「薬」です。しかし、最近は、この生活の質は薬でよくなるのではなく、食欲の改善、体重の維持、睡眠、適度な運動、そして、何よりも生きる意欲、気力が大事だということがわかってきたのです。
 日本の子どもの意欲がなくなってきていることが心配です。

オリーブ

先週末訪れた二十四の瞳の舞台である小豆島は、 瀬戸内海・播磨灘にある島で、小豆島町、土庄町の2町があります。古くは、小豆島(しょうどしま)を「あづきしま」と読んだそうです。小豆島の名産といえば、すぐに思い出すものは、「手延べそうめん」です。
そうめんは、奈良時代に弘法大師によって、唐のお菓子「索餅]の製法が伝えられ、この索餅がそうめんの原形といわれています。索餅は現在のそうめんの形とは違い縄状によじった太く短いものだったようです。索餅は製法の改良で長くて細い形状に変わり索麺といわれるようになり、その製法が鎌倉時代に伝えられました。これを日本では「さくめん」と言っていましたが、中国語でソービンと発音されていました。そして、その発音に即して「素麺」と書かれるようになったのが素麺の名の由来だといわれています。日本の手延べそうめんの製法は今から約450年前、中国から現在の奈良県桜井市三輪に伝えられたのが初めてとされています。それが、「三輪素麺」です。恥ずかしながら、以前奈良桜井に行ったときに三輪山を見て、初めて三輪そうめんが奈良であることを知ったのです。そのほかの産地としては、西日本に多く、小豆島も、気象条件がそうめんの製造に適しているところから、産地になっています。
実際に訪れた目立った生産品は、醤油と佃煮でした。小豆島は良質の塩の産地であり、しかも地中海地方によく似た温暖な気候風土だったために醤油づくりに適し、約四百年もの昔、文禄年間に始まったともいわれています。また、古くから海上交通の要衝として海運業が盛んだったなどの諸条件がうまく重なり合い、醤油づくりの島へと発展していったのです。当然、醤油と海産物を使う佃煮も盛んになっていったのでしょう。
しかし、なんといってもオリーブの生産で有名です。小豆島のオリーブ栽培が始まったのは、1908年4月22日のことで、今「オリーブ百年祭」が開催されています。香川、三重、鹿児島の3県に植えられたオリーブのうち小豆島に植えられたオリーブだけが根づき、以来、小豆島は「日本のオリーブ栽培発祥の地」として知られるようになりました。
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この時に小豆島に入ってきたオリーブは、残念ながら現在1本も残っていないそうですが、最初に入ってきた木から1915年ころに挿し木したものが、原木の碑の周辺に約10本植わっています。ですから、オリーブは香川県の県の木、県の花に指定されています。
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今回、オリーブオイルをいただきましたが、ほかの植物油はすべて種子を搾るのに対し、オリーブオイルは果肉を搾るのでスクワレン、ビタミンA、E葉緑素など天然の有効成分がたっぷりと含まれているそうです。また、1価不飽和脂肪酸のオレイン酸が多く含まれており、動脈硬化を促進させる悪玉コレステノールの血中レベルを低下させ、動脈硬化を予防する効果が期待できるそうで、この歳になると良さそうですね。
日本に始めてオリーブオイルが持ち込まれたのは、約400年前の安土・桃山時代だったようです。当時、キリスト教伝道のため来日したフランシスコ派のポルトガル人神父が携えてきたものだったので、当時はポルトガルの油、訛ってホルトの油を呼んでいたようです。その後、江戸時代の鎖国政策で、オランダの医師およびオランダの医学を学んだ一部の蘭方医が医薬として使用されていた程度でした。しかし、今また輸入自由化により安価な外国産のオリーブオイル、テーブルオリーブスが大量に輸入されるようになり、国内の栽培は急速に減少し、現在では小豆島を中心とした一部に地方の特産物として見られるにすぎなくなってしまいました。
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自然とおなじように、国産をもっと大切にしてもらいたいですね。

子どもの瞳

 少しの間小学校の教員をしているときのことです。前の先生との引継ぎのため、3月末の数週間だけ5年生を担任しました。数週間の間だけでしたが、担任していた5年生は随分と慕ってくれました。あるとき、子どもたちが「先生のうちに遊びに行きたい!」と言ったのですが、4月からは1年生の担任になることが分かっていたので、5年生とは余り深くならないほうが6年に担任になる先生がやりやすいだろうと思っていたこともあって、住所は教えませんでした。私の家は、その小学校からは4Kmくらい離れていました。あるとき、帰宅をすると、子どもたち数人が私の家にいるではありませんか。どうしてここにいるのか聞いてみると、「どうしてもみんなで先生のうちに来たかったので、他の先生に住所を聞いても町名しかわからないと言われた。だから、クラスみんなで手分けをして、毎日その町内を端から数日かけて探していたのだ。そして、やっと見つけたのだ。」と言うのです。そのときは、とてもうれしかったのですが、怒った振りをして、「ダメじゃないか。勝手に来ちゃ。」と言って、家に連絡をして、一緒にお菓子とかを食べて帰しました。
そのとき、ふと、壺井栄の「二十四の瞳」を思い出しました。何回か映画になっていますが、瀬戸内海に浮かぶ小豆島を舞台に、戦前から戦後にかけての女教師と12人の生徒たちの交流を感動的に描いています。その中の前半で特に感動を呼んだ部分は、
「足を怪我して学校を休んでいる大石先生を見舞うため、子どもたちは歩いて先生の家に向かいます。ところが迷子になってしまい泣きながら歩いている生徒達をたまたまバスで通りかかった大石先生が見つけ、その後、大石先生の家で子どもたちは大いにもてなされ、記念写真を撮り、船で帰っていったのです。」
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この場面を本を読んだ当時は感動しましたが、5年生がやっと私の家にたどり着いた姿を見ていて、教師をしていると、本になるような感動することは普段たくさんあるのだ。子どもたちとの毎日は、本や物語の中の話に比べて、感動の連続だと思ったものでした。保育者とか教師はそんないい仕事だと思うのですが、最近はどうもそうとはいえないようで、悲しいですね。
そんな二十四の瞳の舞台である小豆島に行ってみました。ここには、1987年の映画「二十四の瞳」の舞台として使われた分教場がそっくり残されています。
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その建物は、実際に明治7年に開校し、昭和35年8月田浦尋常小学校として建築され、昭和46年3月24日に廃校されるまで「苗羽小学校田浦分校」として使われていました。その建物は、小豆島町田浦地区よりさらに600m南、瀬戸内海を見渡す海岸沿い約1万平方Mの敷地に作られた大正・昭和初期の小さな村の中に建っています。
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「昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女先生が赴任してきた。」との書きだしで始まる小説「二十四の瞳」のなかの大石先生と12人の子どもたちの姿が目の前にそのまま現れたような錯覚に襲われます。薄暗い教室にはオルガンが一台、小さな二人掛けの木の机が六つ、教室の壁には様々な掛け図や、子どもの作品などが飾られています。窓からは、遠くに島影を持つ海が広がっています。この小説は、その後それぞれの子ども達が悲惨な戦争に巻き込まれ、その犠牲になっていく姿が描かれていますが、今の時代は、その頃と比べて、どこが平和になったのか、何が変わったのかと考えてしまいます。

宇和島

 各地に「にほんの里100選」にノミネートされている里があります。その中で、愛媛県には一箇所候補に上がっています。その地域は、今年度文化庁の「重要文化財景観」に全国で3番目に選定を受けた「宇和島市遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑」です。
 江戸時代の宇和海は、鰯の好漁場でした。鰯漁にたずさわる人々が宇和海沿岸部に居住し、自給自足のために段畑を開墾しました。ちょうど里のブログを書いた数日後に、この段畑を訪れることが出来ました。
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 この地域は、歴史的にも意味があるのですが、これまで段畑を守ってきたのは、地元のおじいさん、おばあさんたちだけでした。そこで、石垣の老朽化や後継者不足もあって、このままでは近い将来、段畑が消えてしまうことになるのではないかということで、地元の方たちが立ち上がり、「段畑を守ろう会」が2001年設立されました。
 このあたりでは、江戸末期ころ、斜面を削ってジャガイモを植えていました。しかし、斜面が急なこともあって、大雨が降ったら土が流れてしまいます。そこで、石垣を築いたそうです。当時一面の段畑だったそうです。しかし、しだいに、魚の養殖が盛んになってきました。今でも、真珠や鯛やはまちの養殖がいたるところでされています。すると、畑の仕事をしていた連中は、みんな収入の多い養殖をやるようになり、畑をやる人手が足らなくなり、畑は荒れ放題になります。ですから、今残っている段畑はこの遊子でも日当たりが良くておいしい馬鈴薯のとれる水荷浦だけになってしまっているのです。
段畑での農作業は、経済効率からいうとまったく成り立たない重労働なのだそうです。しかし、地元の方々がこの景観を残そうと努力をして守っています。
この宇和島には築城の名手といわれる藤堂高虎が築城したといわれる「宇和島城」があります。市街の中央、海抜約80メートルの城山に三重三層の天守閣を頂く宇和島城は、その均整のとれた美しさから別名「鶴島城」と呼ばれ、築城以来約400年の歳月を経ており、現存する12ヶ所の天守閣のうちでも江戸時代様式を留める貴重なものとして国の重要文化財に指定されています。
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苔むした急な石段を登っていくと、開花し始めたウスベニカンザクラの後ろに、不等辺5角形をしている城の城郭が見えてきます。
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この早咲きの寒ザクラはとても香りがあり、蜜光を求めて小鳥達が集まってきていました。空高く、青空の下、ピンヨロー、ピンヨローとたのしげに、輪をかいて飛んでいるとんびが見られます。この城を訪れたとき、ちょうど12時の時報としてこのトンビの歌が流れてきました。空高く飛んでいるトンビや、桜の蜜を求めてくる鳥たちを写真におさめようとしましたが、うまくいきませんでした。
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随所に築城の名手と言われた高虎ならではの工夫が見られる宇和島城ですが、高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主、伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石を賜り、元和元年(1615)に入城します。そして、2代宗利の時、天守以下城郭の大修理を行い、寛文11年(1671)に完成し、現在までその姿が残されています。
各地には、人々の生活を支えてきた自然との共生、また、自然と調和するように作られてきた文化遺産、大切にしたいものです。

大人

 ピーターパン症候群と呼ばれているピーターパンというのは、今の人はディズニーのアニメからの印象が強く、フック船長と戦ったり、様々な冒険をする少年のイメージがありますが、もともとは、J・M・バリが子ども向けの小説ではなく、大人用に書いた劇の脚本です。しかし、作者のバリによって何度も書きかえられているので、その内容は必ずしも一貫していませんし、ピーターパンの性格もまちまちです。しかし、私が、以前ある雑誌の連載の中で、このピーターパンの逸話から子育てを考えたことがありました。その逸話は、「ウェンディ版」と呼ばれるもので、その中でピーターパン自身が語って聞かせる彼自身のおいたちです。
「ピーターパンは生れた日に、両親が、彼が大きくなったら何になるか話しているのを聞いて、そんな人のことを勝手に決めるなんてたまらないということで、ケンジントン公園に逃げ出します。そして、妖精たちと何か月も家をはなれて暮らしていました。あるとき、思い立って家に帰ってみました。しかし、喜んで迎えてくれると思っていた母親は、無視をして、窓を開けてくれません。しかも、ピーターパンのベッドには、べつの小さい男の子が眠っています。そこで、ピーターパンは、大人になることを拒否することに決めたのです。」
この話しから、私は、子どもが大人になることを拒否するということを「自立していかない」とし、「依存症の若者」としたときに、その原因は、親の過干渉ではないかと思います。そして、親が過干渉になってきた原因は、少子化が進んできて、子どもに大人からの目が行きやすくなったことではないかと思います。
2月14日付の編集手帳にこんなことが書かれていました。
「儒学者、荻生徂徠が徳川吉宗の内命を受けて著した書物「太平策」のなかに、元服を早める当時の風潮を嘆いたくだりがある。修養の足りない者が大人の扱いを受けている様子はあたかも「匕首(あいくち)に鍔(つば)を打ちたるよう」、小刀に不釣り合いな鍔をつけたようだと。いつをもって成人とみなすかは、江戸の昔から議論になっていたようである。大人とは何だろう。個性ある記述で知られる「新明解国語辞典」(三省堂)は、「自分の置かれている立場の自覚や自活能力を持ち、社会の裏表も少しずつ分かりかけて来た意味で言う」と説明している。 ―中略― 歌人小池光さんに一首がある。「人間ができるまで十七年か七十年かは人によりけり」。日々の新聞が報じる美談や醜聞を見れば、立派な鍔の似合いそうな年若き名刀もあり、鍔を没収したい老いたる匕首もある。なるほど、「人によりけり」だろう。」
大人とか子どもとかいう概念はなかなか難しいですね。しかし、最近、どうも何かに依存しないと不安になる人が多い気がします。編集手帳に書かれている国語辞典の「自分のおかれている立場の自覚や自活能力」が欠けてきているようなのです。自覚がないと言うのは、いわゆる「自尊感情」が育っていないのです。ですから、子どもができても、自分自身が親になりきれず、または、子どもに依存してしまうのです。ですから、苦情やクレーマーの保護者は、子どもが大切なのではなく、無理やりに親として振舞おうとしたり、自分の存在をアピールしようとするのです。
少子社会は、様々な影を落とし始めています。

お子様

 今発売されている読売ウィークリーの記事の中に「飲み会“ウザい”を上手に誘う法
“お子様社員”のしつけ方 自己愛・ミーフェチ世代」というものがあります。このミーフェチ世代とは、アサツウ ディ・ケイの岩村室長が、思春期にさしかかっても他人の目を気にせずに自分の気分に従って行動し、何よりも「自分が気持ちいいかを大切にする傾向が見られた自己愛の強い世代を指した言葉です。この世代が今、職場に進出してきていると言うのです。彼らの特徴を、「面倒なタテ関係イヤ」「KYを恐れ4、5人でつるむ」「自分本位で協調性を欠き、やたら態度が大きい反面、めっぽう打たれ弱い。」そんな特徴を持った「お子様」な若手社員が増えているといいます。しかし、それらの特徴は、何も若手社員だけでなく、最近、園児の保護者にも見られる傾向のような気がします。
彼らが出現した背景にある「子育て」や教育現場の変化を岩村室長は、こう考えています。「この世代の子どもたちの母親が子育ての手本にしたのは、当時相次いで創刊された育児雑誌だった。それらで強調されていたのが、子どもには、無理や我慢をさせたり、頑張らせてストレスを与えるより、その子なりのペースを大切にして育てるべき、という考え方だった。育児書の教えに従って「自分のペース」で育てられた子どもたちが就学期を迎えるころ、教育現場にも変化が生じていた。個性の重視をうたった新学習指導要領が策定され、小学校では92年度から指導要録が改訂され、相対評価から個人の達成度などを見る絶対評価に変わった。競争排除の機運も高まり、小学校の運動会からと競争などの個人競技が消えたりした。そうやって周囲の人々との関係で自分を相対的にとらえられなくなったのは、当然かもしれない。育った環境のせいか、彼らには「尊大」という特徴もある。「調査した子どもたちは、自分は一人前で大人と対等という意識が強く、子ども扱いを嫌う傾向にありました。社会に出ても、何も出来ないうちから先輩たちと同等に処遇されることを当然と思うかもしれません。」
 「お子様社員」とか、「お子様保護者」とかいう言葉を聞くと、もうひとつ似たような言葉を思い出します。1983年にアメリカの心理学者のダン・カイリー博士の著した「ピーターパン症候群(原題:Peter Pan Syndrome)」で提唱された精神疾患としての概念です。この本の中で、ピーターパン症候群は「成長する事を拒む男性」として定義されていますが、その心理学的な特徴としては、「言動が子供っぽい」だけでなく、「精神的・社会的・性的な問題をはらんでいる」という事が挙げられています。それは、もともとこの概念は、大人に成れない恋人や息子、それに夫のことで悩む婦人への治療指針として書かれたものだからです。ここで定義される大人になりきれない男性の特徴を、「人間的に未熟でナルシズムに走る傾向を持っている」「無責任」「反抗的」「怒りやすく」「依存的」「ずるがしこい」「価値観が世間一般のものや法律を飛び越している」などとカイリー博士はあげ、また、ピーターパンは年齢的には大人の男性である“少年”で、母親に甘えている時や甘えたいと欲している時に、母性の必要を演じる傾向があるとも述べています。
 週刊誌で言う「お子様社員」と共通なものが見られますね。ということは、どうも、その出現の原因である分析は少し違う気がします。もう少し明日も考えてみたいと思います。

main.jpg 身近な自然環境を見つけようということで、森林文化協会と朝日新聞社が、「くらしが育んだ里を未来へ」ということで、人々の暮らしによって育まれてきた、すこやかで美しい里を100カ所選ぶ「にほんの里100選」選定事業を行っています。このイベントは、「里」の大切さを見つめなおし、地域の自信や活力につなげるとともに、生物多様性の確保や地球温暖化防止、自然の持続的利用に寄与する試みでもあるようです。その候補地を募集していますが、どんなところが選ばれるのでしょう。
 この対象となる「里」は集落と、その周辺の田畑や野原や草地、海辺や水辺、里山などの自然からなる地域のことです。選定基準としては、景観、生物多様性、人の営みの3要素です。「景観」とは、「暮らしが生み出した特色ある景観が、まとまりをもって見られる。あるいは、里の景観が全体として調和していて美しい。」ということで、「生物多様性」とは、「かつては里でよく見かけた動植物が今もすこやかに生きている。あるいは、そうした生き物や生育・生息環境を再生する試みなどがある。」ということで、「人の営み」とは、「景観や生き物を支え、里のめぐみを生かす暮らしや営みがある。あるいは、そうした暮らしを築き持続させようとする人々がいる。」ということです。この条件は、選定基準としてだけでなく、私たちが身の回りの環境を守るためにも大切な要因ですね。まさに、「共生」とはどういうことかを表しています。
 選定委員長である映画監督、山田洋次さんは、48作続いた「寅さん」シリーズなどで、旅情や郷愁をかきたて、ぬくもりのあるロケ地を探して各地を回り、里の景観にも詳しいそうですが、この寅さんシリーズの映画は、エコに関しても海外でとても評価が高いと聞いたことがあります。買い物には買い物籠をもって行き、風呂敷に包み、豆腐を買いに行くときになべを持っていき、醤油などはびんにつめてもらうというような庶民の生活が描かれています。この委員長を務めるにあたって、山田さんは、「寅さんの撮影は、地方の美しい景色が消えていく後を追うことに似ていた。絶望は簡単だ。だが、まだ早い。まだ美しい里はある。大事なことは、暮らし方や生き方だ。写真には写らない取り組みを取り上げたい」と話しています。
 ほかの委員では、カナダ生まれで、農山漁村に魅了され、日本の海岸線の8割を踏破しているエッセイストで宮城大准教授(環境歴史学)の、あん・まくどなるどさんは、「南北に長い日本は土地ごとの表情がある。四季を感じさせる100選になればと思う。漁村にも注目したい」と言っています。京大大学院教授(緑地学、景観生態保全論)の森本幸裕さんは、「里は全体としてまとまりのある美しさを示しており、含蓄のある言葉だ。里の中身を問い、深化させていきたい」といい、ヒトこそが、持続可能な生態系の再生に知恵を絞るべきだと訴える東大大学院教授(植物生態学、保全生態学)の鷲谷いづみさんは、「里でふつう見られた生物で、みかけなくなったものも多い。生き物へのまなざしを取り戻すきっかけにしたい」といい、 朝日新聞編集担当の粕谷卓志さんは、「食への視点もあっていい。美しさ、おいしさ、そして健康といった多様なものが人々の心に残る里100選にしたい」と抱負を述べています。
 それぞれの人の言葉の中には、環境を述べる上で参考になる考え方が入っています。