江戸の美意識

 もうずいぶん前のことになりますが、若い人が「超ダサい」というように、何かにつけて「超○○」と言っていたことがありました。これは、「とても」とか、「非常に」という意味でしょうが、なんとなく、それとはちがう驚きの響きが入っているのでしょうね。そのような言葉に、主に関西で使う「ど」があります。「ど根性がえる」の「ど」です。頭に「ど」をつけて、オーバーに大きく表現するときに使います。「ど貧乏」「どえらい」「どでかい」「ど真ん中」などと使い、私が子どものころのけなし言葉に「どすけべ」などもありました。
 しかし、どうも、こういうように物事をオーバーに言うのは、江戸では、「粋ではない」と思われていたようです。この「ど」のように頭につけてその言葉のニュアンスを少し変える言葉で、江戸の美意識を表したものに「こ」というのがあります。これは、粋のなかから出てきたことばです。この「こ」をつけてその言葉の響きから来るニュアンスを変えました。
 たとえば、「小綺麗」「こざっぱり」「小気味いい」「小粋」「小じんまり」「小ぎれい」とか頭に「こ」がつきます。また、肉体と結びつけて「小耳を傾ける」「小首をかしげる」「小腰をかがめる」「小手をかざす」「小股の切れ上がった」「小膝をたたく」などに使われている「小」は、抑制をあらわす副詞です。「日本の美学」安田武・多田道太郎 編(ぺりかん社)という本には、「古くから持ち続けている日本人古来の美意識は、世界と比べ非常に独特なものである」といっています。その中に、「小(こ)というもの」を考察した部分があります。「この言葉が出てきた背景には、何事も一歩下がって、控えめで目立たないようにしようとすることからきている。「小手をかざす」というのは、ちょっと手をかざすことで、「小膝をたたく」は、大げさにたたかないこと。つまり、そこには研ぎすまされた「抑制」と「慎み」が存在する。人が自身の感動などの喜怒哀楽を大げさに表すことは、なんだかおかしいし、はずかしいことであるといった意識があり、そこには、型の美学、日本人独特の美意識が垣間見えるのではないか」と書かれています。ちょっとした?を表すいい方ですね。
 逆に、「ど」ほど大げさではありませんが、やや強めていう場合に「こ」を使うこともあります。たとえば、「小気味がいい」というのは、(手際のよさや鮮やかさに)快い感じを受ける。痛快である。ということで、「気味」をやや強めて言う言葉ですし、「小ぎたない」は、小ぎれいと正反対で強調の「小」です。
 また、「小」が付くと言葉の意味が変わってしまうものもあります。「小ざっぱりした服装」とはどのような服装か。という問題がありました。三択で、A:清潔で感じがよい服装 B:もの静かで落ち着いた服装 C:地味で飾り気のない服装 答えは、[A]です。全く意味が違ってしまうのは、「小利口」は、おばかさんのことで、「小役人」は、ずるい人のことをさします。「小姑」も、配偶者の姉妹ですが、意地悪なニュアンスが入ってきますし、「小悪魔」は、可愛い女の子を指しますが、そこには、悪魔的な誘惑が感じられます。
 この微妙さは、日本古来の美意識かもしれません。

江戸の美意識” への6件のコメント

  1.  言葉の頭に「小」を付ける言葉の表現というのは独特な世界観を思い浮かべます。「超」「ど」に比べると本当に繊細な感じがし、美意識というものを感じます。また「小」をつける事により、行動の抑制を表したり、頭につく言葉により強調されたり、全く意味が違ってしまう。「小」の言葉一文字でここまで色々と意味が違うと日本語の難しさを感じてしまいます。それに、そこまで使い方が複雑だと勘違いした言葉の使い方をしてしまう気もします。「小利口さん」なんかとくに誉め言葉に聞こえますが実際に違います。言葉にしても昨日のブログの「粋」にしても日本独特の美意識を理解するには本当に難しいと思いました。

  2. 「粋」に続いて「小」もおもしろい言葉ですね。まさに日本独特の美意識で、外国の人に理解してもらうのは難しいかもしれません。そして同じ日本でも、江戸の美意識と私の地元・石見地方の美意識は、また違うように思います。「粋」にしても「小」にしても、理解はできますがどこかで完全には馴染んでいかない、言葉では表しにくい感覚があります。日本古来の美意識、地方独特の美意識を、こんな風にあらためて考えてみるのも時には必要なのかもしれません。

  3. 「ど」や「こ」や「小」の一語を接頭につけることで言葉の意味を強調できるのは日本語の特徴ですね。英語だと「very]などの形容詞を使うところでしょうが。「小粋な人」とか「小股の切れ上がったいい女」いう江戸の美意識の表現は、さすがに英語ではなかなかうまく訳せないようです。日本人の私たちにとっても、じゃあ、どんな人のことを言うのかと聞かれてもなかなか模範回答が出てきません。言葉と共に江戸の美意識も人々の心から忘れられていくのが少しさびしい気がします。

  4. 「チョ?〇〇」は若くない私も使っています。若い人が作った強調の接頭辞、ということになるのでしょうが、便利だなと思いつつ何の抵抗もなく使ってきました。しかし「ど」と同様、繊細さに欠けますね。今後は使用を自粛したいと思います。「江戸の美意識」としての「こ」「小」という接頭辞はまさにこざっぱりしていてこぎれいな感じがします。『「小」は、抑制をあらわす副詞』。なるほど。また一つ勉強になりました。「こ」「小」を付けると「抑制」したり「やや強めて言」ったりするなど、「わび・さび」の世界に通じる、日本文化表現方法としてこれからもその使用を大事に丁寧にしていきたいものです。そろそろ「小腹」が空いたので今日はこのへんで。

  5. 「こ」は抑制を表す副詞とありました。確かにそのように言われるとそんな気がしてきました。 この言葉が出てきた背景には、何事も一歩下がって、控えめで目立たないようということがあったのですね。そう思うとそれに比べて「超」や「ど」は大げさに、抑制というよりはどこかどーんっと解放したような言い方であるように思います。私もよく使う言葉に「やばい」というものがあります。「超」と合わさると「超やばい」となります。驚くことやすごいなと思うこと、感動するような時に割と肯定的な意味として使うのですが、そんなに「超やばい」ではない時でも、もう口癖のように言っていたりします。あまり粋ではないかもしれませんね。 「人が自身の感動などの喜怒哀楽を大げさに表すことは、なんだかおかしいし、はずかしいことであるといった意識があり…」とありました。心の中では感動しているとは思うのですが、その表し方が大切だったのですね。それは相手のことを意識していたということでもあるのかもしれませんね。

  6. 江戸の美意識
    同じ「小」でも、「小綺麗」と「小役人」等と、真逆の意味になってしまうという面白さがあるのですね。これを扱うような日本の人々に取っては、その扱いができることで、「美意識」を感じていたのでしょうか。また、「人が自身の感動などの喜怒哀楽を大げさに表すことは、なんだかおかしいし、はずかしいことであるといった意識」があることで作られてきたこの美意識は、「型の美学」とも言えるように、多くの人々が地道に作り上げてきた「型」であり、何度も繰り返しながら定着されてきたものであることが想像できました。そして、私の名前にも、「小」が入っている理由が少し分かった気もします。(笑)

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