藤樹の教え

「翁問答」を書いた中江藤樹は、何度かブログで話題にした近江国出身で、江戸時代初期の陽明学者です。出身地から、「近江聖人」と称えられています。15歳で、祖父吉長のあとをつぎ、伊予大洲藩の藩士として禄100石を受けます。そして、27歳の時、母への孝養と身体の健康を理由に辞職し、郷里小川村へ帰ります。ここで、藤樹は、武士や近況の人々を相手に「心の学問」を教えます。名は原、字は惟命、通称は与右衛門といいますが、居宅に藤の老樹があったことから、「藤樹先生」と呼ばれました。
 彼は、様々な書物の中で、色々な有名な言葉を残しています。
「子の不幸は、かならず親の不是なる所を見るよりおこれり」(鑑草)
 というのは、親がわが子のために、ふかい憂いや悲しみにおちいるのは、子どものせいではなく、親のつね日頃のまちがった心がけやおこないを、子どもが見ていることから起こると言っています。親は、誰と接するときでも、自分と他人の区別なく、常にに人をいつくしむ心と、うやうやしい態度にあることが大切になるということで、すべての人間はひとつの根から分れでた兄弟であると説いています。
「それ学問は心のけがれを清め、身のおこなひをよくするを本実とす。」(翁問答)
 そもそも学問というのは、心のなかのけがれを清めることと、日々のおこないを正しくすることが、本来のありようなのです。学問は、知識を得ることが目的ではなく、人格を高めることであると言っています。しかし、返って、知識つめこみのために、「高満の心」にふかく染まっている人が多いことを危惧しています。
 このことから、人と接するときの心得を「五事を正す」といいます。
「貌」(顔かたち)愛敬の心をこめてやさしく和やかな顔つきで人と接しましょう
「言」(言葉づかい)相手に気持ちよく受け入れられるような話し方をしましょう
「視」(まなざし)愛敬の心をこめて暖かく人を見、物を見るようにしましょう
「聴」(よく聞く)話す人の気に立って相手の話を聞くようにしましょう
「思」(思いやり)愛敬の心をもって相手を理解し思いやりの心をかけましょう
このような考え方から、人の評価に対して注意しています。
「人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし。(翁問答)
私たちは、姿かたちや社会的地位、財産の多さなどから、その人を評価してしまうことが多くあります。しかし、すべての人間は、明徳という、金銀珠玉よりも、もっとすぐれている最高のたからを身につけて、この世に生をうけたのです。ですから、そのように人間を見つめると、すべて善人で、悪人はいないことになるのです。その「明徳」とは、どんなものでしょうか。それを和歌に詠んでいます。
「いかで我がこころの月をあらはしてやみにまどへる人をてらさむ」(和歌)
すべての人間は、「明徳」という、孔子や孟子とおなじ心を天から与えられているのですが、だれもそのことを知らないのです。その与えられた輝かしい心をくもらさないようにすることが、よき社会を築きあげる根本だと説いています。輝かしい心すなわち「明徳」を「こころの月」と表現しています。

藤樹の教え” への6件のコメント

  1. 子どもについての悩みというのは、実はそんなものは存在せず、全て自分自身の悩みなのかもしれないと考えることがあります。「子の不幸は、かならず親の不是なる所を見るよりおこれり」という言葉は、そう考えるとよく理解できます。「五事を正す」の内容から自分の振る舞いを見直してみる時間を持つことも必要だろうと、読みながら思いました。

  2. 『藤原広嗣、山崎闇斎、植木枝盛、カブラル、ナスル朝、安史の乱、ジュンガル』これなんだかわかりますか。昨年のセンター試験の歴史の問題で登場した人物や事柄だそうです。植木枝盛は分かりましたが、あとはさっぱりです。歴史を学ぶとは、こんなことを頭に詰め込むことではなく、歴史上の人物の言動を通して、自らの人格を磨いていくことなんですね。故きを温ねて新しきを知る。歴史は自らを省みる鏡とすることができますね。今日の中江藤樹の教えを読むと、自分の未熟さを反省させられます。

  3.  「初心忘れるべからず」この言葉は「物事を始めた頃の未熟で失敗ばかりであった時の記憶。その時に味わった屈辱や悔しさ、そこを切りぬけるために要した様々な努力など、を忘れてはならない」と書いてありました。多分多くの人は「最初にたてた目標などを忘れてはいけない」など違った意味で捉えているかもしれません。私もその一人でした。
     「言葉」を理解するというのは本当に難しいことだと思います。今回のブログでも書いてある言葉の意味は簡単そうに見えますが、とても難しい言葉だと思います。しかも、人が生きる上での心得ですから、簡単に分かるものではない気がします。言葉にしても、仕事にしても何にしても簡単に「分かった」と思うのでなく、その物の本来の意味というのを理解した上で「分かった」と思う必要があると感じました。

  4. 昨日のブログで中江藤樹について関心を抱いたところです。今日のブログではさらに同氏の著作から真髄を紹介して頂きました。「子の不幸」が「親の不是なる所」を見て起こるとはまさにその通り、と思いつつ同時に、耳が痛い、ですね。「学問」が「人格」を高めるため、ということにも同意。本当によく勉強している人は「人格」崇高です。「高満の心」にふかく染まっている、ということは決してありません。そういう御仁に出会うことはなかなか難しいのですが、そうした人が存在することもまた間違いのない事実です。「明徳」なる心が即「よき社会を築きあげる」ことにつながる。どうやら「よき社会を築きあげたい」と思う人の心こそ「明徳」なる心、と言えるのかもしれません。今日のブログも勉強になりました。

  5. 27歳といえば私と同じ年齢になります。15歳で、祖父吉長のあとをつぎとありましたが、若い頃からの様々な体験や実践をされたんだろうなと想像しました。「学問は、知識を得ることが目的ではなく、人格を高めることであると言っています」という言葉もしっかりこれから実践していきたい姿勢ですし、人を接する時の心得もまだまだ自分は5つの事柄ができていません。誰のために学ぶのか、何のために学ぶのか、どう生きていくのかが自分中心ばかりではいけませんね。人と接する心得は全てにおいて相手のことを思う気持ちですね。「悪人はいないことになるのです」ともありますが、そのように思えることで、相手に対する態度も変わってくるように思います。人格を高めることで、人への接し方も変わり、あらゆる人から学びを深めていけるのかもしれません。知識を詰め込むことではありませんね。

  6. 「心の学問」というのは、現代でいうところの「心理学」というものなのでしょうか。ですが、なんとなく違う気がします。人ごとではなく、自分ごとのように捉えるのが「心の学問」のような印象があります。「親は、誰と接するときでも、自分と他人の区別なく、常にに人をいつくしむ心と、うやうやしい態度にあることが大切になる」と書かれてあるように、親が心を学んでいるという事実を子どもが知る事でも、子どもの学びとなっていくよな気もしました。「翁問答」にあった『五事』貌・言・視・聴・思を、見事体現するモデルとしての大人でありたいと思いました。

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