ハーンが、日本人の微笑を「美」と感じたようですが、この微笑は確かに日本人の特徴かもしれません。ドイツなど外国の保育園、幼稚園を訪れたときに感じたことですが、どの国でもほとんど保育者は微笑んでいないのです。何を怒っているのかと思うほど怖い顔や、無表情にも思えるほどの顔をして保育していることが多く見られました。この微笑について、元禄16年(1703)に出版された香月牛山の「小児必用養育草」(しょうにひつようそだてぐさ)のなかに、子どもの笑いと発育について書かれている部分があります。中国の王隠君の「赤ん坊が生まれて60日後、瞳が定まる。これからは人を見知って、話しをするように笑う。」という言葉を引用したあとこう書いています。
「赤ん坊が笑い、話すような仕草をするときは、乳人やまわりにいる人がその都度、赤ん坊に話しかけるようにすれば、言葉を話しはじめるのが早いし、人見知りをせず、脳膜炎などの病気になることもない」
この頃は、今ほど科学が進んでいるわけでもなく、特に脳科学などはほとんど研究されていなかったでしょう。しかし、「生後2ヶ月ともなれば、大人が赤ん坊に笑いかけ、話しかけると、赤ん坊も声を出して笑い、全身でうれしがる。江戸でも、そうした接し方が赤ん坊の発育に有効であることが知られていた。」と「江戸の躾と子育て」(中江克己著)の中に書かれています。この頃は、研究からの育児書ではなく、子どもをよく観察して、その行動からの育児書だったのでしょう。小児科医でもある小西行郎さんは、ある雑誌で、最近の脳科学ブームに対して、こう警鐘を鳴らしています。
「まず考えなければいけないのは、「脳を育てる」ことが大事なのか「子どもを育てる」ことが大事なのか、ということです。それはもちろん子どもを育てることで、脳を育てるわけでは決してない。こう考えると、今抜けているのは脳科学ではなくて、むしろ行動学的観察です。子どもを理解することがなくなっている。」
足立美術館の庭園設計にしても、木1本、石一個にしても大切に思う心から配置されています。逆に、子どもを育てることも、木を育てることと似ているということを牛山は書いています。
「たとえば、一寸ほどの苗を植え、それが一尺を超えるまで、よく世話をして水をやり、虫や蟻などに食われないようにしたり、芽を折らないように注意をする。このようにして二、三尺まで育てると、そのあとは普通にしていても、その木はかならず抱きかかえるほどの大木になるものだ。しかし、一寸の苗から二、三尺になるまでをよく注意して育てなければ、抱きかかえるほどの木になる勢いがあっても、幹は細く、枝もやせて、何の用にも立たない。そればかりか、二、三尺になる前に枯れてしまう。百尺の松も、一寸のときによく世話をしたから、長い間変わらずに緑を保っているし、七尺の人も一尺のときをよく育てたからこそ、長寿を保つ。ということを知るべきだ。」
乳幼児期の育て方が、将来大きく影響するといっています。また、この頃丁寧に育てることで、大きくなってからは余り手をかけなくてもよくなると言っており、十分なかかわりは、返って自立を促すということです。小さいうちに手を抜くと、ずっと、手をかけなければならなくなるといっているのです。
先日、東京に出張した折に泊まったホテルで、「○○チャイルドアカデミー様」なる看板を見て興味をひかれたので、そのサイトを覗いてみたら、いやあ、今、世の中は乳幼児の頃から脳力開発なのですね。(うちの田舎にはまだそんな教室はありません)いわく、『オリジナルプログラムで右脳と左脳の能力をバランスよく引き出すレッスンを実施。』う~ん、それってなんだかなあ。でも、そのような教室に子育てを託さないといけない程、母親は今の子育ての環境に不安を感じているのでしょうね。子育ても金で賄える時代ですね。
子どもを育てることが木を育てることと似ているという香月牛山の言葉は、とても大切な内容だと思います。長い年月をかけて平均的に手をかけるのではなく、乳幼児期にしっかりと必要な援助をすることが重要なんだとよく理解できます。乳幼児期の関わりは大変かも知れませんが、子どもたちの将来のために乳幼児期が大切なんだということを、こうした話を交えながら伝えていくことも試してみたいと思います。
海外の保育士は無表情なんですね。私のイメージで保育士というのは笑っている印象があるので本当に驚きです。それ程、真剣に一人一人の子どもの成長を見ているのでしょうか。
子どもの成長と木の成長が同じなのは全く同感しました。しかし、幼い頃に手をかける時に大人ばかりが手をかければ曲がった方向に成長してしうので、子ども同士の関わりも必要ですね。木の成長で言うと肥料を与えるというのでしょうか。植物の場合、肥料の与えすぎは良くないと言いますが、子どもの場合は違いますね。色々な肥料(環境)を大人が用意し、子どもの成長を助けてあげることが必要だと改めて思いました。
保育界に関わって日はまだ浅いのですが、保育士の表情の硬さや、時に何を怒っているのだろう、という表情に出くわすことが間々あります。笑っていろ、とはいいません。怒ったって泣いたって可愛い子どもたちの前でどうしてそんな表情をするのだろうかととても不思議になります。親がわが子に厳しい表情をするのはかまいませんが、親ではない、保育の専門家が目じりを上げ、眉を吊り上げて憤怒の形相を子どもに向けることに何の意味があるのか、と訝しく思います。「躾」「教育」云々という声が聞こえてきそうです。私も幼い頃「先生」と呼ばれる人々にしこたま怒られた経験があります。その原因や理由は全く覚えていないのに「怒っている形相」や「叩かれたりつねられたりした痛み」は忘れられません。残念ながら「原因や理由」は本当に覚えていません。そうした乳幼児に「憤怒の形相」で「先生」が怒る。「痛み」を与える。もう一度問いかけたいと思います。そのことにどんな意味があるのでしょうか?子どもから「微笑」を奪っているのは「躾」や「教育」を振りかざしている当の大人(先生も含まれる)ではないでしょうか?私たちはそのことにきづいているのでしょうか?