日本のすばらしさは、「庭」だけではありません。最近、テレビで見たのですが、外国人記者に対して今後の日本経済の取り組みについて話をしていると、話をしている最中に、記者たちが次から次に席を立ち、空席だらけになり、それでも席についている記者の眠っている姿が映っていて、なんだかショックになってしまいました。その後のインタビューでも、外国では日本については期待をしていないからという意見が多く聞かれました。私は、何も日本だけがいいと思っているわけではなく、これから、世界に貢献していくには、日本人としてのよさをもう一度見直さなければいけないと思っています。
ラフカディオ・ハーンの著作に触れて、もう一度考えてみました。彼は、日本人の中に入って、庶民と生活する中で、日本の魅力を感じていったようです。「新編 日本の面影」の「はじめに」にこう書かれています。
「年月を重ねるにつれ、日に日に日本人の生活の中から、珍しい予想もしなかった美しさが現れてくるであろう。もちろん、どんな生活にも暗い面はある。それでも、西洋人のそれに比べれば、明るいものだ。日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しのよさに、目を見張るばかりだ。」
日本人の心の奥にあるよさに目をつけています。それは、美しいものとして映っています。ハーンは、その部分を、これを書いた160年以上前にケンベルが評価したことを引用しています。「美徳の実践、汚れなき生活、信仰の儀礼においては、日本人はキリスト教徒をはるかに凌いでいる。」この言葉にも似たような日本人評が現れています。
最近の日本人には、それらのものが失われてきたというのは簡単ですが、本当にそうでしょうか。最近の赤ちゃんの能力、発達について昔から思われてきたことが違ってきたことを、先日のNHKテレビで再放送していました。1980年代に神経細胞(ニューロン)や細胞同士を結ぶ神経回路網(シナプス)が一時急激に増え、その後また減少するという過程が明らかになり、脳の発達は、先天的遺伝子によって作られた粗い組織が、環境とのやりとりで無駄を削り取って成長するということがわかってきたというものです。子どもを見ていると、日本人特有の美徳ともいわれるさまざまな特徴は、違うものを獲得することで、失ってきてしまっているという実感があります。ハーンは、日本人特有の「微笑」について、本文の中でこう考察しています。
「日本の子どもなら、生まれながらに備わっている、微笑を生む暖かい心根は、家庭教育のすべての全期間を通して養われる。しかもそのやり方は、庭木を自然な勢いに乗じて育てるのと、同じ絶妙さで行われる。微笑は、お辞儀や、手をついてする丁寧なお辞儀と同じように教えられる。それは、目上に人に挨拶したあと、喜びのしるしに、小さく音を立てて息を吸い込む作法のように、あらゆる昔流儀の入念で美しい作法のひとつとして教えられる。-略― 微笑は、教養のひとつなのである。」
子どものころは持っている微笑は、教養であるのですね。失いたくありません。
藤森先生の所感や皆様のコメント、
いつも楽しみに拝見しております。
今回、初めて投稿させて頂きます、
福岡アイランドシティの小嶋です。
今日のタイトルは「美徳」でしたね。
引用されたハーンの言葉の中にも
「美しさ」という表現が出て来ています。
ハーンは日本人の所作や心根に美しさを見いだしました。
「躾(しつけ)」という漢字が、身に美しいと書く様に、
日本人は庶民や子どもに至るまで、
その所作や心根に「美しさ」が見てとれたのかもしれません。
しかし最近の親は「躾」という言葉をだんだん使わなくなってきています。
躾という言葉の中に、強制や体罰といったニュアンスがあるからかもしれません。
しかし今日のブログを拝読して、はたと気がつきました。
ハーンは、日本人の躾は「庭木を自然な勢いに乗じて育てるのと、同じ絶妙さで行われる」というのです。
そして、私には、それが「見守る」ことと通じている様に思えてならないのです。
その記者会見は本当にショックです。海外から見る日本の評価というものが、その程度なんですね。しかし、その評価をしかっりと受け止めて解決策というのを見つけなければいけないと思います。
ラフカディオ・ハーンの著作に色々と日本人の事が書かれています。その良さというのを本当に見直す必要があると思いますし、それが将来の日本を立て直すための解決策の一つのような気がします。
脳は環境とのやりとりの中で無駄を削り取って成長するというお話はとても興味深いです。何かを捨てることでもう一方を獲得していくイメージでしょうか。自分にとってはこの考え方の方がしっくりきます。日本人らしさや日本人の美徳をもう一度見直すときは、それを教え込めは身につくと考えるのではなく、生活全体を見直す必要があることを教えてくれているように思います。
うちの県にある文化財の城の壁を、何者かが釘で打ち壊してしまうという事件が、今日の朝の情報番組で紹介されていました。この事件についてあるコメンテーターが「こんな輩を出さないようにするには、10年かかります」と言っていたのが印象に残りました。つまり10年前の教育のゆがみが、こんな人間を作ってしまうのだから、今、教育の改革をしなければ、10年後の日本はどうなるんだということです。私も、日本人であることを心から誇りに思いますが、ハーンが当時の日本人に感じた「美徳」がいつまでも受け継がれるように、教育(特に幼児教育)を世界の水準にまで上げる努力が必要だと感じてます。
最近、NEWSWEEK日本語版のムック本を買いました。赤ちゃんからの育児についての特集号です。ただ、USAでの話です。
>脳の発達は、先天的遺伝子によって作られた粗い組織が、環境とのやりと
>りで無駄を削り取って成長するということがわかってきたというものです。
このくだりは、自閉傾向の子どもについての部分で載っていました。伸びた神経細胞(ニューロン)や細胞同士を結ぶ神経回路網(シナプス)のうち、幹となってそこから広がる以外は淘汰されるはずだったのが残ってしまったのではないかという内容でした。
「美徳」の趣旨から外れました。すいません。
子どもたちの顔から「微笑み」が消えかかってきている様な気がしてなりません。乳幼児の頃は先天的微笑がありますが、小学校も学年が進むに連れて「微笑み」がなくなっているように感じます。「微笑は、教養」であるなら、どうやら長ずるに連れて私たちは「教養」を失いつつある、ということがいえるのかもしれません。近年は「お笑い」ブームのようです。笑っていないとやっていけない、そんな世相なのでしょうか。しかし「笑い」は時として「バカ」という形容を伴います。全くもってみっともない。教養の微塵も感じられません。これからは「微笑み」の復権です。この「微笑み」は美徳であり、そしてアジア人の象徴でもある、と思います。ニコッとすれば互いが打ち解ける。教養としての「微笑み」そして「美徳」の回復を心掛けたいものです。