石の庭

 何回かに分けて「石」が話題になっていますが、なぜか、どこを歩いても石の話題にぶつかるのです。最近、石つながりを感じます。ひとつには、自分が年を重ねるに従って、「石」に魅力を感じてきているのかもしれません。今の園を建築するにあたって、どうしてもほしいものがあり、いろいろな人に声をかけて探してもらっているものがあります。それは、「つくばい」(蹲踞、蹲)です。これは、本来、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたものです。手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がついています。しかし、実際には茶をたてるわけではありませんので、役石はいらないので、「手水鉢」だけでも欲しいと思っています。それも、新しいのを買うのではなく、長い間どこかの家で使われていたような、苔で覆われ、使い古されたようなものがいいと思います。なぜか、最近、そんな石に惹かれるのです。
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 日本の古典や民話などに取材した創作短編集である「怪談」をアメリカで刊行して有名なラフカディオ・ハーン、後に日本に帰化した小泉八雲は、また日本の伝統的精神や文化に興味をもち、生活に密着した視点から日本を欧米に紹介した多くの作品を著しました。
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そのなかで、彼が日本にやってきてはじめて書いた作品集「知られざる日本の面影」のなかの第16章「日本の庭園」には、こんなくだりがあります。
「もうひとつ、特に忘れてはならない大事なことは、日本庭園の美を理解するためには、石の美しさを理解しなければならないということだ。少なくとも、理解しようと努めなければならない。石といっても、人の手で切り出されたものではなく、自然の営みで生まれた自然石のことである。石にもそれぞれに個性があり、石によって色調と明暗が異なることを、十分に感じ取れるようにならなくてはいけない。そうでないと、日本庭園の美しさの真髄が心に迫ってくることはないだろう。
しかも、外国人であるなら、たとえその人が審美眼を持ち合わせていようとも、石に対しての感覚だけは学習し、磨いておく必要がある。日本人の中には、生まれながらにしてその感覚が宿っている。自然を、少なくともその目に見える形のままに理解することにかけては、日本人は私たち西洋人よりもはるかに優れている民族なのだ。だが、西洋人が石の美を本当に理解できるようになるためには、日本人が石をどう選び、どのように使っているかに、長い年月をかけて精通していくしかない。」
その後ろの文章で、石についてさまざまな考察がされています。そして、石の持つ自然の造形がもたらす暗示が、石にまつわる奇妙な信仰や迷信を伝えてきたのだと言っています。その最後に「石はその美しさゆえに価値があり、造形で選ばれた大きな石となると、その美的価値は何百ドルもの値打ちかもしれない。また大きな石は、日本の庭の骨組みとなっている。どの石もそれぞれ特有の表情があるからこそ、選ばれているだけでなく、庭石や屋敷まわりの石には、それぞれの目的や装飾の役割を示す個別の名がついている。」
つくばいにしても、「手水鉢」のほかに役石として、「水鉢」「前石」「手燭石」「湯桶石」「水門」などが配置されます。
 「知られぬ日本の面影」の舞台となった松江にある八雲の庭を、日曜日に見てきたので、明日のブログで、私なりにその庭の美を八雲と一緒に見てみたいと思います。
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勾玉

 今週末は、島根県の玉造温泉に泊まりました。この玉造温泉は、奈良時代開湯といわれる古湯で、少彦名命が発見したと伝えられていて、江戸時代には松江藩藩主の静養の地となっていました。この玉造という名の由来は、この地にある花仙山で良質の青瑪瑙が採掘できたために、この地の人々が玉造を生業としていたことに由来していると考えられています。瑪瑙(メノウ)という名前は、石の外観が馬の脳に似ているということで付けられています。
この「メノウ」は、「ヒスイ」と並んで大変硬い石のために、よく古代の勾玉の材料に使われていました。三種の神器といわれる「八尺瓊勾玉」も櫛明玉命によって玉造で造られたと言われています。日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに天布刀玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられ、後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとされています。
 勾玉とは、古代の人々が石で作り、首にかけていた装身具です。もとは、狩猟した熊や猪や狼などの獣の歯牙に穴をあけ、その人の強さを表していたり、お守りや魔除けの意味合いから首にかけたものといわれています。ヒスイを原石にしたものは、糸魚川周辺(新潟県)とメノウを原石としたものは、出雲地方(島根県)が代表的な産地と言われています。
 勾玉は、曲玉とも呼ばれるように、Cの字形またはコの字形に湾曲し、玉から尾が出たような形をしています。この形は、元が動物の牙であったとする説や、太極図を表すとする説、母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説などがあり、丸く膨らんだ一端に穴をあけて紐を通し、首飾りとしていました。
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 この勾玉は、日本、韓国、北朝鮮に存在していますが、日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古いとされていますが、その後、朝鮮半島へも伝播していきます。武寧王陵など韓国内の王墓からも発掘されていますが、これらは日本から伝来したものという説が有力です。縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化してきています。弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉が作られ始め、古墳時代(3世紀)から権力の象徴や、護符として使われてきました。しかし、日本に仏教が伝わり浸透していくにつれて次第に使われなくなっていきました。
 江戸時代には、一般庶民の間ではあまり知られていなかったようですが、知識人のあいだでは、愛用され身につけられてきたようです。オランダ人医師シーボルトも興味を持ち、勾玉を研究し、著書「日本」に「教養ある日本人が好んで思いをはせるもの」と書き出しに記しています。
最近、パワーストーンといって、石の持つ不思議なパワーを身につけることがはやっています。現在でも、勾玉を身につける事により太陽のエネルギーと、月のエネルギーを日夜受ける事ができるといわれています。古代から行われてきたことが、科学が進んだ現在に、もう一度よみがえってきていることに不思議なものを感じます。

宇都宮を訪れて、大谷石について考え、その後、近江にて穴太衆積み石について知り、石について色々と考えてみました。各地を訪れると、その地のどこにでも転がっているような様々な石により、石の文化が生まれますが、おなじようにどこにでもあるのが土です。その地の土によって、やはり様々な文化が生まれます。その特徴的なものに焼き物があり、そのひとつに瓦があります。かつて、日本各地には多くの瓦製造所が存在しました。それは、中世末から近世以降に、主に地元で産する粘土を材料に地元の需要に答えるために、地元の工房で生産される瓦で、製造工房の経営者や工人は必ずしももともと在地の者とは限ってはいませんが、瓦職人はその地に定住し、工房を在地で営んできました。
近江八幡を先週訪れたとき、「かわらミュージアム」に行ってみました。
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ここでは、近江八幡の景観の重要な要素を形成する瓦屋根に関して、その歴史や製作技法・その芸術性などを紹介し、「はちまんかわら」の魅力と、瓦の種類・瓦の作り方・日本各地の瓦・世界の瓦等々も展示されていました。
瓦は本来、粘土瓦のことを言いますが、歴史的にも石瓦や銅瓦等もありますが、現在でも、セメントや金属などの材料も使われ、通常の粘土瓦が使用できない寒さの厳しい地域や個人の好み等によって粘土瓦の代わりに葺かれることがあります。また、瓦を屋根に施工することを「瓦を葺く」といいます。
島根の物産館に「百年瓦、石州」というチラシが置いてあり、そこに瓦の歴史が書かれていました。「日本書紀曰く「嵯峨天皇元年(588)、百済国より仏舎利、寺工、及び瓦工を献ず」瓦屋根が日本に初めて登場したのが飛鳥寺(596年建立)。
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以来、瓦は様々な建築物の屋根に飾られてきました。奈良時代の国分寺建設ラッシュのとき、大和朝廷中央集権化の切り札として、大伽藍の屋根を飾り、戦国末期には、権力の象徴たる天守閣の屋根に。江戸時代初期には、日本最初の都市計画たる「城下町」の建設に。中期には、都市の防火機能確立のために。あるいは「蔵」という貯蔵システム構築のために。そして近代の急務となった町屋(住宅)の普及のために。瓦は、あるときは権力の象徴として、ある時は町造りの構成要素として、ある時は都市の防火機能として、その時代が求める役割を担ってきました。ドイツ建築界の鬼才ブルーノ・タウトは、日本を代表する建築「桂離宮」を評してこう言っています。「すべての優れた機能を持つものは、おのずからその造形も優れている。」屋根は建築物の機能と目的、そして外観意匠を決定する重要な要素です。」
確かに、瓦は土という自然の素材に、水と火というやはり人の歴史と共に使われてきたものを加えてできるものです。しかし、その瓦は、長い間、住宅の屋根には使われませんでした。それは、瓦が貴重であったと同時に、権力や権威の象徴であったのです。それが、その防火効果から住宅にも使用されてきますが、物は、時代が要請するものとして使用されていくのですね。ただ、自然物から作ったものは、自然に帰っていきますが、科学的に作ったものは、作るときには簡単で、使うときには便利かもしれませんが、使い終わったときにはとても厄介です。そのものを利用する場合は、これからの時代は、使うときではなく、使い終わったときも考えて使わなければならないでしょう。それが、重要な要素です。
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石のことわざ2

 ことわざは、中国の故事から生まれている場合が多くあります。石を使ったものでも例外ではありません。たとえば、「石に立つ矢」という一念を持って行えば、どんなことでもできるというたとえである言葉も、「韓詩外伝」にあります。 中国、楚の熊渠子が狩に行き、虎と見誤って石を射たところ、矢が石を射通したという故事によるものです。このような逸話は、「史記」にも漢の李広の話として描かれています。
 そのほかにも出展は何かわかりませんが、どれもなんとなく逸話があるような気がします。
 「石の上にも三年」という言葉の三年という年数は、三省といわれるようには、論語では「日に三回省みる」といっていますが、他にも何回も自分のことを振り返ってみようという意味もあります。この石の上にも三年という言葉は、少なくとも三年間ぐらい我慢しなさいと使われますが、基本的に三年と言う数字に含まれる意味合いとして、長いという意味が含まれています。また、なぜ石の上というのは、石は冷たく、すわり心地が悪いということであり、3年我慢しなさいというのは、冷たい石も三年座り続ければ、暖かくなるという意味から、そのくらい経てば実績が認められるようになり、評価されるなど報われたり、成功するようになるということです。ですから、石の上でなくとも今の辛い状況でも我慢しなさいということで、「茨の中にも三年の辛抱」「三年居れば温まる」「火の中にも三年」「辛抱する木に金がなる」というような言い方もあります。
 石は、冷たく硬いものですが、ずっと座っていれば暖かくなりますし、ずっと打ち続ければ穴も開きます。「雨垂れ石をも穿つ」ということわざがそれです。「わずかなことでも、根気よく続けてやれば、成功につながるということ」をあらわしています。雨だれというのは、比喩ではなく、実際に軒下などの石でよく見られたことなのでしょう。この様な精神は重要と見えて、身の回りから色々な言い方が生まれました。「涓滴岩を穿つ」「千里の行も一歩より起こる」「牛の歩みも千里」「釣瓶縄井桁を断つ」「人跡繁ければ山も窪む」「泰山の溜石を穿つ」どがあるようです。哲学者のルクレティウスは、「雨だれが石を穿つのは、激しく落ちるからではなく、何度も落ちるからだ」と言っています。世の中を変えていくのは、大きな力よりも、小さくても持続していくことのほうが重要であることがわかります。
 また、石は、少しずつ穿つと穴は開きますが、矢は刺さりません。ということで、少しのことでは余り影響しないということで、「石地蔵に蜂」というように、痛くも痒くもないことのたとえに使われます。類義語では、「石に灸」という石に灸をすえるように、何の効き目もないことにも使います。このような意味では、「牛の角を蜂がさす」「蛙の面に水」「泥にやいと」などがあります。
 「他山の石」という言葉も面白いですね。よその山から出た粗悪な石でも、自分の山から出た宝石を磨くのに使えるということから、どんなつまらないこと、また、自分より劣っている人の言行でも、自分の才能や人格を磨く反省の材料とすることができるということです。
 このブログも、他山の石にでもなればいいなと思っています。

石のことわざ1

 よく、建物の角のところに特別な石が使われていることがあります。この石は、外国の石積みの建物には重要な石ですが、日本の洋風建築には、この石を装飾用として際立たせている場合があります。なんだか締まる感じがしますね。
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この石のことを「コーナーストーン」と言います。この、建物の礎となる石、あるいはアーチの最頂部の要石という意味を持つコーナーストーンということから、基礎となる重要なものという意味を持つようになってきました。経営用語としても使われることがあり、会社のビジョンなど、基本方針を定めたものをこのように呼ぶ会社もあります。このように思って城を見て歩くと、石垣でも、コーナーストーンは、重要な役目をしています。
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 こうしてみると、石は身近なものとして昔から人と関わってきたので、石という言葉を使ったことわざも随分あるようです。
 面白いところで、「石に漱ぎ流れに枕す」という「負け惜しみが強いこと。また、屁理屈を並べ、言い逃れることのたとえ。」という言葉があります。「夏目漱石」の名もここからつけられていることはよく知られています。これは、次のような故事があります。「晋の時代に孫楚という人がいました。孫楚はまだ若い頃、早くも俗世間を捨て、隠居して山林の中に隠れ住もうと思いました。その決心を友人の王済に打ち明けました。その時に、本当は、「石を枕にごろっと横になり、谷川のほとりで口を漱ぐような生活を送りたい」という意味の「石に枕し流れに漱ぐ」と言おうとして「石に漱ぎ流れに枕す」と言い間違えたのです。そこで、王済は、「石で漱ぐことは出来ないし、流れに枕することは出来ないよ。」と指摘をしたところ、孫楚はあわててこじつけを考えて言いました。「いや、石に漱ぐというのは歯を磨こうと思ったからさ。流れに枕すというのは耳を洗おうと思ったのだ。」と孫楚は負け惜しみで言ったのですが、なかなか上手い返事だということで、「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」という言葉が負け惜しみの強いことを表すようになりました。また、「流」と「石」という字をとり、本来の意味とは違っていても上手なシャレであるという事で、日本では「流石」を「さすが」と読むようにもなりました。
 他に、「我が心石に匪ず転ず可からず」(わがこころいしにあらずてんずべからず)という言葉は「詩経」が出典です。高橋和巳の小説に「我が心石にあらず」というのがありましたね。この意味は、「石は転がすことができるが、自分の心は石ではないので転がすことはできない。固い志、不動の精神」ということですが、類義語の「匪石の心」という「わが心石に匪ず」を使うときには、石にどんなイメージを持っているかで、聞いた人はちがって取ってしまうのでしょうね。「冷たく、無機質」と思えば、自分はもっと心がこもっていて、やさしいと言っているように取れます。この意味で使う場合に、「木石に非ず」という白居易の言葉があります。これは、「人間の身体は木や石でできているのではないから、暖かい血も通い、物事に対し喜怒哀楽さまざまな感情に動かされるものである」という意味です。また、石は丸くて転がりやすいとイメージする人は、私の心を転がすように弄ぶなと言っているように聞こえるでしょう。
 他にも、石が入ることわざを明日思い浮かべてみます。

城取り

学校で歴史を教わったり、テレビで歴史ドラマを見たりしている中で、印象に残る時代はなんといっても戦国時代です。それは、戦国時代の戦いは、城取り合戦だったからでしょう。城を守り、城を攻める、また、その城が誰の居城となるか、そこにはさまざまな戦略が渦巻き、また、築城には、そのときの権力や、守るときの様々な知恵が懲らされているからです。そして、戦国時代から、全国統一に向けての戦いにおける舞台である城や、その後「安土・桃山時代」と呼ばれ始めた頃の舞台は、なかなか訪れることがありません。
この時代は、織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城であった伏見城(後世桃山と呼ばれた丘陵地にあった)に因んで、安土桃山時代と呼ばれていますが、その二つの城はともに現存しません。しかし、伏見城はとても立派であったために、天守をはじめ一部の建物は二条城や常寂光寺などに移築されています。石垣は、大阪城を始めいくつかの城の修築に使用されていますし、西本願寺の唐門は、城門を移築したものですし、福山城や江戸城には、伏見櫓という櫓があります。しかし、織田信長が、安土山に五層七階の天守閣を中心とした本の丸、二の丸、三の丸などの諸郭を持った安土城の全容は、今は安土の駅前の資料館にその模型だけが残っています。
 滋賀県には、その時代の舞台となった城がいくつかありました。そのひとつが、戦国を飾る哀愁の城郭であり、中世五大山城の一つとしても有名な小谷城です。
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浅井長政とお市が過ごし、信長によって攻められ、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡します。浅井氏滅亡後、江北12万石を与えられた羽柴秀吉は、琵琶湖から離れた小谷城を嫌い、琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城とします。そのときに、建物等は長浜城へと移築され、今の彦根城の西の丸三層櫓は、このときに長浜城へ移築された小谷城の天守と云われています。そのため小谷城は廃城となり、現代に至っています。
 この長浜城は、清洲会議の後、柴田勝豊、山内一豊が城主となっています。一昨年のNHK大河ドラマの「功名が辻」が放映されたときに訪れたかったのですが、不便さもあって行けなかったのが、先週末の連休に妻と訪れることができました。今は、城は残っていないで、城跡には、3層の模擬天守が建てられ、中は資料館となっています。いかにも模造ということで少しがっかりしましたが、残っている築城当時の石垣を見ると、なんとなく当時を偲ぶことができます。
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 同じように今はなき安土城も、学生の頃から聞きなじんだ響きの場所だけに、駅名の看板で「安土」という字を見つけるだけで、その城の短命さとあわせて、信長の駆け抜けた一生を思い浮かべてしまいます。信長が本能寺で明智光秀の謀反のために自刃したあと、山崎の合戦で明智光秀が敗れると、安土城に入っていた明智秀満は、坂本城へ引き上げ、このあと織田信雄が安土城に入りますが、明智残党の掃討のため城下に火を放たれた火は、城にまで燃え広がり、天守閣も焼け落ちてしまいました。この立派な城の完成後わずか3年のことだったのです。
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 戦いで奪ったものは、結局戦いによって失われていくのですね。

古くて新しい2

 「古くて新しい」(OLDNEW)といえば、こんなキャッチコピーを彦根で見かけます。
「城下町の伝統を継承した格子窓、袖壁、白壁、軒庇が続く町並み……古くて新しいOLDNEW TOWNが「夢京橋キャッスルロード」です。」
このまちづくりの特徴は住民主導で行われ、歴史と伝統を今に活かし、建物の形態と色彩を新しい時代にマッチした城下町づくりをしたところです。この夢京橋キャッスルロードがある彦根市本町は、慶長8年(1603年)彦根城築城とともに城下町の町割りがこの本町から始められたという歴史ある町でした。しかし、歴史は単に過去のものとして郷愁だけで終わることが多く、世の中の近代化と効率化に取り残され、実際には住みにくく、人が訪れない町並みに変わっていきました。そこで、商店街は、天井部を覆うアーケードを備えたショッピングモールへと発展し、近代的なアーケード商店街が作られていったのです。これらは日光や天候から守られ、また多くの人々の徒歩での通行を惹きつけました。
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しかし、このアーケード街は、地元の生活用品を買うためであればとても便利なのですが、専門店が多いために、必要なものを買い揃えることはできず、車では行きにくいなど、次第にショッピングモールは大型化、郊外化していきました。それでも、地域の人には便利ですが、観光客を呼び込むことはできません。そこで、もう一度見直されたのが、道路幅6メートル、当時の風情を残している城下町ならではの道路でした。この通りの風情を壊すことなく伝統的な町並みを再生することにより、活性化を図ることになりました。
 歴史と伝統を活かした町づくりは住民主導で行われ、歴史的景観を大切にした古くて新しいまちづくりは、1999年にすべての整備を終えました。彦根城の堀端から京橋へ、石垣に遮られたどんつきを抜けると、まっすぐに通りが広がります。通りの愛称は「夢京橋キャッスルロード」と名づけられました。白壁と紅殻に煤を混ぜた黒格子、いぶし瓦、切妻屋根の傾斜を揃え、景観を大切に、暮らしの見え隠れする古くて新しい町が、OLDNEW TOWNです。ここには、様々な個性を持った商店が並び、買うためではなく、見て歩く楽しさを持った通りに変身しました。「商店街づくりは人づくりから」といわれるように、「自分たちの地域は自らの力で創り、次世代へ引き継ぐ」という住民主導での街づくりへの理解を得るには多くの時間を要したそうです。
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これに触発されたかのように、彦根の台所といわれていた市場商店街も生まれ変わりました。ここは、美味しい匂いの漂う商店街で、かつては生鮮食料品や惣菜の街として県下で最も賑わった時代もありましたが、勢いは昭和40年代をピークに衰え、空洞化が進んでいきました。
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その賑わいを取り戻そうと、大正ロマン漂うまち『四番町スクエア』として生まれ変わりました。まず、城下町彦根らしい名称だった「四番町」という旧町名を復活し、市場街のアーケードは撤去され、新しく大正時代の意匠を凝らした建物がポケットパークを中心として、いこいのある楽しい街をイメージしています。生鮮食料品や惣菜を商う、古き良き市場の気質を残しながら、今まで市場には無かった新しい業種の専門店もオープンしています。
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 何でも新しければよいという時代は終わり、昔をどう生かして進化させていくかということが、町づくりだけでなく、すべてに共通の課題となっていくことでしょう。

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 昨年、経済効果が著しくあった場所は、宮崎県でしょうね。知事が代わってどうなるかと思ったのですが、今のところ町おこしとしてはよい効果が出ているようです。そのほか、意外と経済効果が大きかった取り組みが、今年の1月に発表されていましたが、彦根市で昨年開かれた「国宝・彦根城築城400年祭」です。まだ、中間報告しか出ていませんが、約8カ月の期間中に同市を訪れた「入り込み客数」は2,432,000人で、市内で使われた「観光消費額」を170億円と推計しています。地方都市でも、企画のよっては随分と人が訪れるようです。このなかで、土産購入額に占める割合が、宿泊客の平均47.1%、日帰り客の35.1%と高い人気があったのが、あの話題のイメージキャラクター「ひこにゃん」のグッズだそうです。この「ひこにゃん」に会ってきました。
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「ひこにゃん」は、井伊家由来の赤備えの兜をかぶった猫をモデルとしています。この「ひこにゃん」は、キャラクターを使用する際に通常必要な著作権使用料を無料の許可制にすることで個人・企業を問わず広く参加でき、築城400年祭を盛り上げる効果を狙った新しい試みです。著作権使用料を無料にすることで小規模企業を含めた様々な企業が参加し、イベントを通じて街の活性化をはかる試みとして経済界からも注目されました。今年の年賀状が「ひこにゃん」が住民登録している彦根城あてに100通以上寄せられたそうです。差出人の9割が県外だったということは、町おこしとしての成功を思わせます。
なぜ猫かというと、意外なことがわかります。東京の小田急線の駅に豪徳寺という駅があります。ここは、1633年に彦根藩2代目藩主の井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備したてらです。ですから、江戸城桜田門外で暗殺された井伊直弼は当寺に葬られていますし、その墓のそばには、桜田殉難八士之碑や、墓守として一生を当寺で終えた遠城謙道の墓塔もあります。以前ここを訪れたときに初めて知ったのは、その墓の創建が井伊家であるということと、「招き猫」の発祥の地として、大きな招き猫があったことです。それは、どうしてかというと、井伊直孝がにわか雨にあって大木の下で雨宿りをしていた際に、手招きをする白猫を見て近寄ったところ、その大木に落雷があって、危ういところで雷から逃れたということで、直孝はこの猫に感謝し、福を呼ぶ寺として豪徳寺を井伊氏の菩提寺としたのです。この白猫の伝説から、井伊家の居城であった彦根城のキャラクターとして猫が選ばれたのです。
 この彦根城が、人気があるのは、決して「ねこにゃん」だけのおかげではありません。この彦根城の歴史にも関係があります。築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するために着工され、天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築され、天守閣は2年足らずで完成しましたが、結局、20年の歳月をかけて築城されています。近世の城で天守閣が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。このうち、松本、犬山、彦根、姫路の4城の天守は国宝で、とても美しい姿を残しています。
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 しかし、この彦根が、400年祭が終わったあとでも人気があるのは、他におおきな取り組みがあるからです。この取り組みが、古いものを進化させ、新しいものを生み出したひとつの例です。(つづく)

商人

 近江八幡という地はとても不思議な町です。ここには、主に鎌倉時代から江戸時代、明治時代、大正時代、戦前にかけて活動した近江国・滋賀県出身の商人である「近江商人」の系譜を引くものが、今日の大企業の中に多いのです。
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たとえば、商社では、伊藤忠商事、丸紅、トーメンなどがあり、百貨店では、高島屋、大丸、西武であり、紡績では、日清紡、東洋紡、その他では、日本生命、ヤンマーディーゼル、西武グループなどが近江商人の流れを汲んでいるといわれています。
 なぜ、この地からそんなに輩出しているのでしょうか。ここ近江八幡は、1585年(安土桃山時代)、豊臣秀次によって琵琶湖の東岸に位置する八幡山の麓に建設された城下町でした。その後江戸時代になると、東海道と中山道と北国街道が交差する交通の要衝となり、その地の利を生かして商業地として発展、繁栄しました。
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秀次が整備した碁盤目状の旧市街のほぼ中央を南北に走る新町通り周辺と、北の八幡堀の畔には、商家・町家・土蔵といった近世建築の連続性が高い町並みが現存しており、1991年には、種別「商家町」で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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また、この近江商人は、その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれましたが、それだけではなく、有名な家訓として「買い手良し、世間良し、売り手良し」の「三方良し」だけでなく、他にもいろいろな商業の考え方も作っています。その考え方は、他の分野でも参考になることが多くあります。
主に能登方面に蚊帳や畳表を行商していた西川甚五郎は、江戸日本橋に出店し、2代目甚五郎が萌黄蚊帳を考案して富を得、「ふとんの西川」の基をつくりました。
飯田新七は、京都の呉服屋に奉公中、その勤勉ぶりから高島出身の米屋飯田家の養子になります。そして、家業を呉服商にかえ、高島屋の屋号で他店よりも早朝から店を開け、「おかげにてやすうり」を合言葉に確実な商品を安価で販売して、多くの信用を得て、今日の百貨店高島屋の基礎を築きました。
伊藤忠兵衛は、近江麻布の行商をはじめますが、九州・中国各地に地盤を広げ、明治維新の混乱期に社会の動きをよく観察し、大阪に呉服太物店紅忠を開きのち丸紅になります。そして、その後外国貿易会社伊藤外海組を設立し、後の伊藤忠商事・丸紅の基礎を築きました。
下村彦右衛門正啓が開業した呉服店 大文字屋が後の大丸になりますが、大塩平八郎の乱が起きたときに「大丸は義商なり」といわれ、焼き打ちを免れています。これは往時の豪商が施餓鬼として毎年貧しい人に食料や衣服等を、今日の援助物資やボランティア的な活動を行って利益の再分配をしていたことへの庶民感情を汲みした表れであるようです。ちなみに、この大丸の心斎橋店、京都店は著名な建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品で、ことに心斎橋店は日本の百貨店建築の最高傑作といわれています。近江八幡にあるヴォーリズ記念館は、彼によって清友園幼稚園の教師寄宿舎として設計されましたが、竣工時からヴォーリズの自邸として使用された建物です。
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今、大企業と呼ばれている企業は、もう一度創設の頃の近江商人の理念を思い出してもらいたいものです。

石積み

 大谷石についてブログを書いたのですが、石にはいろいろな種類があります。そして、その石はいろいろなところに使われますが、そのときにどのように使うかは、その石の特性と、使う場所によって様々な工夫がされてきました。
大谷石のように建物に使う場合のほか、庭石(にわいし・ていせき)という庭園における天然石の日本独特の利用法があります。日本庭園では必ず使用される庭園技法の肝ですが、海外では天然石を加工せずにそのままの姿で利用することは極めて稀であり、大抵、石を使う場合はなんらか加工します。それに対して、日本では、まず、天然の岩石のなかで庭の材料として用いるものとしてよいものを選び出し、加工せず庭の要所に配置します。その石はもちろん1個(1石)でも庭の景観を作るポイントになり、十分に鑑賞できるものとなります。しかし、複数組み合わせて設置する場合もあり、それを石組といいます。この庭石の材質・配置で庭園の表情が決まると言うほどで、日本ではさまざまな技法が生まれました。立石、伏石、平石、構石として使用し、大体、同系同色の石を使うのが基本です。そのほかにも、庭に石を使う場所に、飛石があり、平らな石を園路に配置して、そこを踏面とします。また、この飛石と建物の出入り口を結ぶ石として沓脱石(くつぬぎいし)があります。
 そのほかに護岸や法面などの防水・土砂流出防止を目的に石を積むことがあります。日本では有名なところでは城の石垣がありますが、この石積みのある風景は、日本だけでなく、石が採れる所ならばおそらくどこでも見られる風景でしょう。しかし、その石の積み方は、採取される石の種類や周りの環境によって異なってきます。たとえば、イギリスの石は平たく、日本の石は塊として使います。
今日訪れている近江の坂本の里は、延暦寺や日吉大社の門前町として栄えたところで、湖東、湖北から坂本港に運ばれる物資の集積地でもあり、特に北陸から京都への交通の要所でもありました。その坂本では、里坊や神社や古い民家の石塀などに、穴太衆積み(あのうしゅうづみ)と呼ばれる特異な石積みがみられる場所です。その特色は加工しない自然のままの石面を巧みに用いて石積みの面を構成し自然の美しさを保っていることです。
穴太衆とは、全国的にも有名な石工集団で、石垣のある城郭はすべて穴太衆によるものだといわれています。穴太衆は、横穴式古墳の石室作りに習熟していた渡来人の子孫であり、長い間石積みの技法を温存していました。
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彼らの技法の祖形を、比叡山系と琵琶湖に挟まれたあたりに点在する古墳時代後期の群集墳に見ることが出来ます。その穴太衆は、比叡山麓の坂本大字「穴太」の一帯に古来から住み、その技法を持って、やはり大陸からの渡来人系である伝教大師最澄によって開創された天台宗総本山の比叡山延暦寺の坊舎の石垣や墓石、五輪塔も作りました。
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そして、比叡山焼き討ちで、信長は穴太衆石積みの存在を知り、安土城の築城に動員したのです。その後、家康の江戸城大修築にも活躍しています。
「石積みのある門前町」としての歴史の町坂本を歩けば、石積みの石塀は苔むし、道の脇を流れる堀の水はあくまでも透き通り、焼き討ちにあった比叡山の荒々しさを忘れるほど静かな佇まいを感じました。
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