商人

 近江八幡という地はとても不思議な町です。ここには、主に鎌倉時代から江戸時代、明治時代、大正時代、戦前にかけて活動した近江国・滋賀県出身の商人である「近江商人」の系譜を引くものが、今日の大企業の中に多いのです。
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たとえば、商社では、伊藤忠商事、丸紅、トーメンなどがあり、百貨店では、高島屋、大丸、西武であり、紡績では、日清紡、東洋紡、その他では、日本生命、ヤンマーディーゼル、西武グループなどが近江商人の流れを汲んでいるといわれています。
 なぜ、この地からそんなに輩出しているのでしょうか。ここ近江八幡は、1585年(安土桃山時代)、豊臣秀次によって琵琶湖の東岸に位置する八幡山の麓に建設された城下町でした。その後江戸時代になると、東海道と中山道と北国街道が交差する交通の要衝となり、その地の利を生かして商業地として発展、繁栄しました。
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秀次が整備した碁盤目状の旧市街のほぼ中央を南北に走る新町通り周辺と、北の八幡堀の畔には、商家・町家・土蔵といった近世建築の連続性が高い町並みが現存しており、1991年には、種別「商家町」で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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また、この近江商人は、その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれましたが、それだけではなく、有名な家訓として「買い手良し、世間良し、売り手良し」の「三方良し」だけでなく、他にもいろいろな商業の考え方も作っています。その考え方は、他の分野でも参考になることが多くあります。
主に能登方面に蚊帳や畳表を行商していた西川甚五郎は、江戸日本橋に出店し、2代目甚五郎が萌黄蚊帳を考案して富を得、「ふとんの西川」の基をつくりました。
飯田新七は、京都の呉服屋に奉公中、その勤勉ぶりから高島出身の米屋飯田家の養子になります。そして、家業を呉服商にかえ、高島屋の屋号で他店よりも早朝から店を開け、「おかげにてやすうり」を合言葉に確実な商品を安価で販売して、多くの信用を得て、今日の百貨店高島屋の基礎を築きました。
伊藤忠兵衛は、近江麻布の行商をはじめますが、九州・中国各地に地盤を広げ、明治維新の混乱期に社会の動きをよく観察し、大阪に呉服太物店紅忠を開きのち丸紅になります。そして、その後外国貿易会社伊藤外海組を設立し、後の伊藤忠商事・丸紅の基礎を築きました。
下村彦右衛門正啓が開業した呉服店 大文字屋が後の大丸になりますが、大塩平八郎の乱が起きたときに「大丸は義商なり」といわれ、焼き打ちを免れています。これは往時の豪商が施餓鬼として毎年貧しい人に食料や衣服等を、今日の援助物資やボランティア的な活動を行って利益の再分配をしていたことへの庶民感情を汲みした表れであるようです。ちなみに、この大丸の心斎橋店、京都店は著名な建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品で、ことに心斎橋店は日本の百貨店建築の最高傑作といわれています。近江八幡にあるヴォーリズ記念館は、彼によって清友園幼稚園の教師寄宿舎として設計されましたが、竣工時からヴォーリズの自邸として使用された建物です。
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今、大企業と呼ばれている企業は、もう一度創設の頃の近江商人の理念を思い出してもらいたいものです。