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2008年01月31日 [江戸文化]
江戸の美意識
もうずいぶん前のことになりますが、若い人が「超ダサい」というように、何かにつけて「超○○」と言っていたことがありました。これは、「とても」とか、「非常に」という意味でしょうが、なんとなく、それとはちがう驚きの響きが入っているのでしょうね。そのような言葉に、主に関西で使う「ど」があります。「ど根性がえる」の「ど」です。頭に「ど」をつけて、オーバーに大きく表現するときに使います。「ど貧乏」「どえらい」「どでかい」「ど真ん中」などと使い、私が子どものころのけなし言葉に「どすけべ」などもありました。
しかし、どうも、こういうように物事をオーバーに言うのは、江戸では、「粋ではない」と思われていたようです。この「ど」のように頭につけてその言葉のニュアンスを少し変える言葉で、江戸の美意識を表したものに「こ」というのがあります。これは、粋のなかから出てきたことばです。この「こ」をつけてその言葉の響きから来るニュアンスを変えました。
たとえば、「小綺麗」「こざっぱり」「小気味いい」「小粋」「小じんまり」「小ぎれい」とか頭に「こ」がつきます。また、肉体と結びつけて「小耳を傾ける」「小首をかしげる」「小腰をかがめる」「小手をかざす」「小股の切れ上がった」「小膝をたたく」などに使われている「小」は、抑制をあらわす副詞です。「日本の美学」安田武・多田道太郎 編(ぺりかん社)という本には、「古くから持ち続けている日本人古来の美意識は、世界と比べ非常に独特なものである」といっています。その中に、「小(こ)というもの」を考察した部分があります。「この言葉が出てきた背景には、何事も一歩下がって、控えめで目立たないようにしようとすることからきている。「小手をかざす」というのは、ちょっと手をかざすことで、「小膝をたたく」は、大げさにたたかないこと。つまり、そこには研ぎすまされた「抑制」と「慎み」が存在する。人が自身の感動などの喜怒哀楽を大げさに表すことは、なんだかおかしいし、はずかしいことであるといった意識があり、そこには、型の美学、日本人独特の美意識が垣間見えるのではないか」と書かれています。ちょっとした~を表すいい方ですね。
逆に、「ど」ほど大げさではありませんが、やや強めていう場合に「こ」を使うこともあります。たとえば、「小気味がいい」というのは、(手際のよさや鮮やかさに)快い感じを受ける。痛快である。ということで、「気味」をやや強めて言う言葉ですし、「小ぎたない」は、小ぎれいと正反対で強調の「小」です。
また、「小」が付くと言葉の意味が変わってしまうものもあります。「小ざっぱりした服装」とはどのような服装か。という問題がありました。三択で、A:清潔で感じがよい服装 B:もの静かで落ち着いた服装 C:地味で飾り気のない服装 答えは、[A]です。全く意味が違ってしまうのは、「小利口」は、おばかさんのことで、「小役人」は、ずるい人のことをさします。「小姑」も、配偶者の姉妹ですが、意地悪なニュアンスが入ってきますし、「小悪魔」は、可愛い女の子を指しますが、そこには、悪魔的な誘惑が感じられます。
この微妙さは、日本古来の美意識かもしれません。
投稿者 fujimori : 22:48 | コメント (4)
2008年01月30日 [江戸文化]
粋
江戸文化の中に、「通」と「粋」があります。「粋」も「通」も、主に関東で使用される美意識です。ところが「粋」の美学は関西ではありえないそうです。関西では、「粋」よりも「雅」が大切にされているようです。
関西でも「粋」という言葉はありますが、関東では、「粋」を「いき」と読みますが、関西では、「すい」と読むようです。しかし、関西で、粋(すい)な人を「粋人(すいじん)」といいますが、江戸の言葉には粋人(いきじん)という言葉はありません。関西の粋人は、江戸では「通人(つうじん)」と言います。どうも、関西の「粋(すい)」は、関東では「通」に近いようです。「通人」とか「粋人(すいじん)」は、人情とか物の道理をきちんとわきまえている人とか、いろんな知識を持っている人とか、あるいは花町や文化・芸術に対して、とても詳しい人のことを指していいます。人情や世態・色事などに通じる事を意味しています。ですから。「通」とか「粋(すい)」とは、ある分野のことがよくわかっているとか、こういう色をしているとか、行動によってそれをあらわすことができることで、行動の原理だといわれています。
それに比べて、江戸で言う粋(いき)はまったく意味が違うようです。ある行動を表すのではなく、ある生き方とか生き様とかが生む美意識なのです。日本のことを良くわかっている外国人が、「粋(いき)という言葉は、「シック」だとか「スマート」だとか「エレガンス」という言葉では全然かなわない、違った次元の美意識であり、洗練された美である」と言ったそうです。
この「粋」という江戸深川の町人の間に発生した美意識(美的観念)は、身なりや振る舞いが洗練され、格好よいと感じられていました。そうでないことを関西では、「無粋(ぶすい)」といいますが、関東では、「野暮」といい、「野暮ったさ」は格好悪いとされていました。
では、「粋」とは、どんな美意識だったのでしょうか。「張り(意気地)」「媚態」「垢抜け」の三つ条件が必要であると定義されています。例えば、どんな姿として現れているかといえば、女性に対して「湯上り姿」「ほっそり柳腰」「流し目」「薄化粧」という言葉で表されるように、取り澄ましたような気取った色気ではなく、極めて洗練された美しさを伴なう色気が必要だったようです。
男性では、町人ふうの、渋くあっさりさっぱりして、気前が良く嫌味じゃない気質をさしているようです。言い表し方では、「宵越しの銭は持たない」「人情・世情に通じている」「物事の道理をわきまえている」「財力があってもそれを誇示しない」「目立ちたがり屋ではなくどちらかと言うと照れ屋である」「金銭のことをやたらに口に出さず、無頓着で「けち」ではない」「昔のことにいつまでも執着しない」「未練たらしくない」などといわれることが多いようです。
また、粋な人が好んだ模様は縞、特に縦縞です。縞模様というのは人間の精神を引き締める柄だといわれています。色については、藍とか紺とか江戸紫や灰色や茶が好みだったようです。とくに、代表的な色は紺で、江戸の商人の「のれん」は紺です。
私が「紺」を好むのは、ドイツの影響ではなく、江戸育ちの「粋」好みからかもしれません。
投稿者 fujimori : 20:31 | コメント (4)
2008年01月29日 [江戸文化]
蔵
私の住んでいる八王子には、昔ながらの蔵が残っています。その蔵の用途は、時代によって変化をしているようです。蔵の前にこんな説明板がありました。
「この蔵は明治32年10月に建てられました。以来100有余年、この間八王子の大火、大正の大震災、昭和の空襲等々幾多の危機をくぐり抜け今日に至ります。本格的土蔵造りで建設され、当初は、織物の街を象徴する生糸蔵として使用、戦後、防火対策としてモルタル壁に改装、使用目的も生糸蔵から質蔵へと変わりました。構造は、間口3間、奥行4間の大型のもので、内部は3尺毎に頑丈な欅の柱を使用してのそう2階の建築です。床板の一部を除いてすべて当時のままの姿を留めており、扉、錠前等の金具類が損傷少なく揃っているのも特筆に価しましょう。」
八王子に蔵が多いのは、織物の町ということで、生糸蔵が多かったようです。それが、今でも残っているのは、質屋蔵になったからのようです。そういえば、確かに、蔵作りといえば、質屋を思い浮かべるかもしれません。
川越にも、多くの蔵造り商家が残っています。最盛期には100軒以上の蔵造り建物が街中にひしめき、町並みを形成していたそうです。この川越に蔵造りの町並みが形成される契機となったのは、明治26年の大火により、同じ惨事を繰り返さないよう、建物そのものを防火建築にすることから、商人たちは競って蔵造り建築による店舗(店蔵)を建てたのです。この頃、東京では既に耐火建築として、レンガ造りや石積みの近代的な建物が造られていましたが、川越商人たちは伝統的な蔵造り建物を選択したのは、伝統工法に固執するわけでなく、レンガや大谷石、御影石などの新しい建築資材も柔軟に取り入れたためのようです。また、東京日本橋の町並みが蔵造り建物であったこともあり、江戸の商人に対する羨望や憧憬もあったようです。
そのほか、蔵の用途として酒蔵などありますが、今日の会議が行われた台東区蔵前は、私が育った町でもあります。この地名の由来は、当地に、江戸時代に江戸幕府の米蔵(浅草御蔵)があったことに由来しています。
この「浅草御米蔵」には、天領から入る年貢米を収蔵して、旗本や御家人と呼ばれる領地を持たない武士達に、「禄」として蔵米を支給していたのです。その蔵の前にあったから蔵前です。貨幣経済が発達したと言われる江戸時代ですが、幕府の財政を支えたのは、やっぱりお米でした。そこで、全国各地から送られる米を運搬するのに水運、つまり舟が使われたので、その米を貯蔵するのには川沿いのほうが都合よかったのです。蔵前は、隅田川に面しています。
蔵前橋
ここに御米蔵が建てられたのは1615年のことで、江戸時代の初期、二代将軍 秀忠 の時代に、この一帯の大川端(隅田川の川岸)を埋立てて、3万坪にも及ぶ広大な敷地に幕府の米蔵94棟を建てたといわれています。江戸時代の札差と呼ばれる商人達が集まっていた地で、「通」とか「粋」な文化を競っていました。
全国どこにでも蔵があります。最近、蔵を残した街づくりや、蔵を喫茶店やレストランにする店も多くなりました。蔵のしっかりした、方形としてのボリューム感は、存在感があります。残したい建物です。
投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (4)
2008年01月28日 [近頃思うこと]
塩スイーツ
私の先祖の出身地は、長野県の諏訪地方です。そこで、よく行くのですが、その地方のお土産として「塩羊羹」があります。この羊羹は、また、羊羹に使う寒天もこのあたりの名産です。また、長野県は海がないので、塩は何にも変えがたいものだったようで、上杉謙信の美談として「敵に塩を送る」というものもあるくらいです。
最近、コンビニなどで、塩味をうりにした菓子やデザート「塩スイーツ」をよく見かけるようになりました。塩のアイス、塩のチョコレート、塩のプリンなど、さまざまな商品が登場しています。最初に私が出会った塩スイーツは、「塩キャラメル」でした。塩といってもしょっぱいキャラメルではなく、後味に塩っぽさが出てくるような奥深い味わいです。塩スイーツのブームが本格化したのは去年のことです。例えば日経MJ(日経流通新聞)では「2007年ヒット商品番付」を発表していますが、「西の前頭」として塩系スイーツを選出しています。このブームのきっかけは、フランスの有名職人が作る塩キャラメルの人気だといいますが、ベースとなる味は甘く、そこに塩味を加えることで、素材の味や甘味を引き立てるというのは、昔からスイカに塩を振って食べるのと同じ原理ですね。
これらのこだわりは、どのような塩を使っているかということです。2006年07月16日のブログで書いたザルツブルグの塩を今でも家で使っていますが、塩キャラメルに使われている塩は、ブルターニュ産のようです。このように、昨年のヒット商品となった塩スイーツの共通点は、多くの商品が海外産の天然塩(またはそれをイメージした塩味)を使っている点のようです。例えば敷島製パンの菓子パン塩スイーツシリーズでは、アルプス山脈で採れる岩塩「アツペンザルツ」を使用、たタリーズコーヒーのソルティキャラメルラテでは、アンデス山脈で採れる岩塩「ローズソルト」を使用しています。
天然塩が好まれる背景には、世界唯一のキャラメリエ(キャラメル職人)と言われるフランスの職人アンリ・ルルー氏が1977年に発表した塩キャラメル『C.B.S(セーベーエス)』にあります。このキャラメルに用いた加塩バターに、地元ブルターニュで採れる自然海塩が含まれていたからです。そのために、絶妙な塩味が楽しめ、世界中の美食家の間で話題となりました。今でも、通販でも売っています。
「塩スイーツ」というジャンルができるほど、その名前からして、いかにも外国のもののような気がします。しかし、「塩スイーツ」の発端であるアンリ・ルルーの塩入りバターキャラメルは1977年に発表されていますが、それ以前から日本では和菓子における「塩」は、重要な存在でした。塩羊羹、塩大福、塩飴などの伝統的菓子が数多く存在したように、日本人の味覚は、昔から塩と菓子の相性を知っていたのです。最初に書いた塩羊羹を販売している下諏訪の「新鶴」の案内には、明治6年創業のみぎり、羊羹に塩味を加えることを思いつき、砂糖や餡とのなじみ具合、寒天折り合いに苦心しながら、丹念に練りあげるうちに、塩の調和がもたらす、しっとりした淡雅な口当たりと甘さの間合いを体得し、塩羊羹が生まれたとあります。
味の世界でも、日本の文化はずいぶんと高度のものを持っていたようです。いろいろな分野で、もう一度日本を見直してみてはどうかと思います。
投稿者 fujimori : 22:05 | コメント (4)
2008年01月27日 [近頃思うこと]
藤樹の教え
「翁問答」を書いた中江藤樹は、何度かブログで話題にした近江国出身で、江戸時代初期の陽明学者です。出身地から、「近江聖人」と称えられています。15歳で、祖父吉長のあとをつぎ、伊予大洲藩の藩士として禄100石を受けます。そして、27歳の時、母への孝養と身体の健康を理由に辞職し、郷里小川村へ帰ります。ここで、藤樹は、武士や近況の人々を相手に「心の学問」を教えます。名は原、字は惟命、通称は与右衛門といいますが、居宅に藤の老樹があったことから、「藤樹先生」と呼ばれました。
彼は、様々な書物の中で、色々な有名な言葉を残しています。
「子の不幸は、かならず親の不是なる所を見るよりおこれり」(鑑草)
というのは、親がわが子のために、ふかい憂いや悲しみにおちいるのは、子どものせいではなく、親のつね日頃のまちがった心がけやおこないを、子どもが見ていることから起こると言っています。親は、誰と接するときでも、自分と他人の区別なく、常にに人をいつくしむ心と、うやうやしい態度にあることが大切になるということで、すべての人間はひとつの根から分れでた兄弟であると説いています。
「それ学問は心のけがれを清め、身のおこなひをよくするを本実とす。」(翁問答)
そもそも学問というのは、心のなかのけがれを清めることと、日々のおこないを正しくすることが、本来のありようなのです。学問は、知識を得ることが目的ではなく、人格を高めることであると言っています。しかし、返って、知識つめこみのために、「高満の心」にふかく染まっている人が多いことを危惧しています。
このことから、人と接するときの心得を「五事を正す」といいます。
「貌」(顔かたち)愛敬の心をこめてやさしく和やかな顔つきで人と接しましょう
「言」(言葉づかい)相手に気持ちよく受け入れられるような話し方をしましょう
「視」(まなざし)愛敬の心をこめて暖かく人を見、物を見るようにしましょう
「聴」(よく聞く)話す人の気に立って相手の話を聞くようにしましょう
「思」(思いやり)愛敬の心をもって相手を理解し思いやりの心をかけましょう
このような考え方から、人の評価に対して注意しています。
「人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし。(翁問答)
私たちは、姿かたちや社会的地位、財産の多さなどから、その人を評価してしまうことが多くあります。しかし、すべての人間は、明徳という、金銀珠玉よりも、もっとすぐれている最高のたからを身につけて、この世に生をうけたのです。ですから、そのように人間を見つめると、すべて善人で、悪人はいないことになるのです。その「明徳」とは、どんなものでしょうか。それを和歌に詠んでいます。
「いかで我がこころの月をあらはしてやみにまどへる人をてらさむ」(和歌)
すべての人間は、「明徳」という、孔子や孟子とおなじ心を天から与えられているのですが、だれもそのことを知らないのです。その与えられた輝かしい心をくもらさないようにすることが、よき社会を築きあげる根本だと説いています。輝かしい心すなわち「明徳」を「こころの月」と表現しています。
投稿者 fujimori : 23:20 | コメント (4)
2008年01月26日 [近頃思うこと]
育児書
昨日、ブログで紹介した日本で最初の本格的な育児書といわれている「小児必用養育草」を書いた香月牛山は、明暦2年(1656)筑前遠賀郡香月の生まれです。若い頃、「養生訓」を書いた貝原益軒から儒教を学び、次いでまた医を藩医鶴原玄益に学んでいます。ですから、「小児必用養育草」も随分益軒の影響を受けている部分が多いようです。三十歳の時、豊前中津侯小笠原氏の侍医としてつかえた後、さらに14年間医学を学び、44歳の時京都に行き、医者になりますが、61歳の時から85歳で亡くなるまで、小倉に住んでいます。そして、後に江戸中期の後世派の第一人者と称されました。

牛山の医説は儒者、本草家としての貝原益軒の実証的研究方法の影響を受けているといわれています。「中華の医書とて誤謬尠なからず、古人の説とて精確なるもののみにあらず」というように、いくら権威のある中国の医学書であっても、必ずしも正しいとは限らない。自分自身の経験からや、十分観察したことから自分の説を説くべきであると主張しています。他の後世派の医家が、自分で見たこと、経験したことから論じないで、先人の論説をそのまま信じ、自分の説にしていることを嘆いています。実際の治療に当たっても、実際的経験の上にたってなされています。
また、その考えを広く一般大衆にも広めようと、非常に多くの著書を残しています。代表的なものは「小児必用養育草」のほかに、「牛山方考」「牛山活套」「婦人寿草」「老人必用養草」などがありますが、これらの著書のほとんどは仮名混り文で書かれており、大衆啓蒙に務めたことが感じられます。
乳幼児教育が大切であるということは、様々な人が実証から唱えています。江戸時代前期の寛永18年(1641)に「翁問答」という著作が、中江藤樹によって書かれています。
その中の第1巻「徳教について」にこんなくだりがあります。(現代語訳)
「子孫の教育は幼少の時が肝心である。昔は「胎教」と言って、母の胎内にあるうちから胎児への「母徳の教化」を行った。今時の人は「至理」(至極もっともな道理)を知らないので、幼少の時分には教育がないものと勘違いするのである。「教化」の本質を知らずに、ただ口だけで教えるばかりが教育と思い込んでいるために、このような誤りを犯すのである。根本真実の教化とは「徳教」である。口で教えるのではなく、時分の身を正して道を行い、それによって周囲の人間が感化されていくことを「徳教」というのである。これは、あたかも水が物を潤し、火が物を乾かすようなものである。国土の方角や水土の風気によって、そこに住む人間の気質は少しずつ違いがあっても、言葉付きには本来、京、田舎の差別はないため、赤子の時から京で育てると、関東で生まれた者も京言葉になるものである。逆に、京生まれの者も関東で育てれば関東言葉になるものである。このように、幼い者の心立てや身持ちは、その父母や乳母の心立てや身持ちに見あやかったり聞きあやかるために、父母や乳母の徳教が子孫の教育の根本となるのである。従って、乳母の人柄を吟味し、父母の身を修め、心正しくして、親孝行の道を語り聞かせ、また、身に行って、教育の根本を培養すべきである。」
乳幼児からの教育と同時に、環境が大切であるということも経験から語っています。
投稿者 fujimori : 21:11 | コメント (4)
2008年01月25日 [近頃思うこと]
微笑み
ハーンが、日本人の微笑を「美」と感じたようですが、この微笑は確かに日本人の特徴かもしれません。ドイツなど外国の保育園、幼稚園を訪れたときに感じたことですが、どの国でもほとんど保育者は微笑んでいないのです。何を怒っているのかと思うほど怖い顔や、無表情にも思えるほどの顔をして保育していることが多く見られました。この微笑について、元禄16年(1703)に出版された香月牛山の「小児必用養育草」(しょうにひつようそだてぐさ)のなかに、子どもの笑いと発育について書かれている部分があります。中国の王隠君の「赤ん坊が生まれて60日後、瞳が定まる。これからは人を見知って、話しをするように笑う。」という言葉を引用したあとこう書いています。
「赤ん坊が笑い、話すような仕草をするときは、乳人やまわりにいる人がその都度、赤ん坊に話しかけるようにすれば、言葉を話しはじめるのが早いし、人見知りをせず、脳膜炎などの病気になることもない」
この頃は、今ほど科学が進んでいるわけでもなく、特に脳科学などはほとんど研究されていなかったでしょう。しかし、「生後2ヶ月ともなれば、大人が赤ん坊に笑いかけ、話しかけると、赤ん坊も声を出して笑い、全身でうれしがる。江戸でも、そうした接し方が赤ん坊の発育に有効であることが知られていた。」と「江戸の躾と子育て」(中江克己著)の中に書かれています。この頃は、研究からの育児書ではなく、子どもをよく観察して、その行動からの育児書だったのでしょう。小児科医でもある小西行郎さんは、ある雑誌で、最近の脳科学ブームに対して、こう警鐘を鳴らしています。
「まず考えなければいけないのは、「脳を育てる」ことが大事なのか「子どもを育てる」ことが大事なのか、ということです。それはもちろん子どもを育てることで、脳を育てるわけでは決してない。こう考えると、今抜けているのは脳科学ではなくて、むしろ行動学的観察です。子どもを理解することがなくなっている。」
足立美術館の庭園設計にしても、木1本、石一個にしても大切に思う心から配置されています。逆に、子どもを育てることも、木を育てることと似ているということを牛山は書いています。
「たとえば、一寸ほどの苗を植え、それが一尺を超えるまで、よく世話をして水をやり、虫や蟻などに食われないようにしたり、芽を折らないように注意をする。このようにして二、三尺まで育てると、そのあとは普通にしていても、その木はかならず抱きかかえるほどの大木になるものだ。しかし、一寸の苗から二、三尺になるまでをよく注意して育てなければ、抱きかかえるほどの木になる勢いがあっても、幹は細く、枝もやせて、何の用にも立たない。そればかりか、二、三尺になる前に枯れてしまう。百尺の松も、一寸のときによく世話をしたから、長い間変わらずに緑を保っているし、七尺の人も一尺のときをよく育てたからこそ、長寿を保つ。ということを知るべきだ。」
乳幼児期の育て方が、将来大きく影響するといっています。また、この頃丁寧に育てることで、大きくなってからは余り手をかけなくてもよくなると言っており、十分なかかわりは、返って自立を促すということです。小さいうちに手を抜くと、ずっと、手をかけなければならなくなるといっているのです。
投稿者 fujimori : 23:22 | コメント (4)
2008年01月24日 [近頃思うこと]
美徳
日本のすばらしさは、「庭」だけではありません。最近、テレビで見たのですが、外国人記者に対して今後の日本経済の取り組みについて話をしていると、話をしている最中に、記者たちが次から次に席を立ち、空席だらけになり、それでも席についている記者の眠っている姿が映っていて、なんだかショックになってしまいました。その後のインタビューでも、外国では日本については期待をしていないからという意見が多く聞かれました。私は、何も日本だけがいいと思っているわけではなく、これから、世界に貢献していくには、日本人としてのよさをもう一度見直さなければいけないと思っています。
ラフカディオ・ハーンの著作に触れて、もう一度考えてみました。彼は、日本人の中に入って、庶民と生活する中で、日本の魅力を感じていったようです。「新編 日本の面影」の「はじめに」にこう書かれています。
「年月を重ねるにつれ、日に日に日本人の生活の中から、珍しい予想もしなかった美しさが現れてくるであろう。もちろん、どんな生活にも暗い面はある。それでも、西洋人のそれに比べれば、明るいものだ。日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しのよさに、目を見張るばかりだ。」
日本人の心の奥にあるよさに目をつけています。それは、美しいものとして映っています。ハーンは、その部分を、これを書いた160年以上前にケンベルが評価したことを引用しています。「美徳の実践、汚れなき生活、信仰の儀礼においては、日本人はキリスト教徒をはるかに凌いでいる。」この言葉にも似たような日本人評が現れています。
最近の日本人には、それらのものが失われてきたというのは簡単ですが、本当にそうでしょうか。最近の赤ちゃんの能力、発達について昔から思われてきたことが違ってきたことを、先日のNHKテレビで再放送していました。1980年代に神経細胞(ニューロン)や細胞同士を結ぶ神経回路網(シナプス)が一時急激に増え、その後また減少するという過程が明らかになり、脳の発達は、先天的遺伝子によって作られた粗い組織が、環境とのやりとりで無駄を削り取って成長するということがわかってきたというものです。子どもを見ていると、日本人特有の美徳ともいわれるさまざまな特徴は、違うものを獲得することで、失ってきてしまっているという実感があります。ハーンは、日本人特有の「微笑」について、本文の中でこう考察しています。
「日本の子どもなら、生まれながらに備わっている、微笑を生む暖かい心根は、家庭教育のすべての全期間を通して養われる。しかもそのやり方は、庭木を自然な勢いに乗じて育てるのと、同じ絶妙さで行われる。微笑は、お辞儀や、手をついてする丁寧なお辞儀と同じように教えられる。それは、目上に人に挨拶したあと、喜びのしるしに、小さく音を立てて息を吸い込む作法のように、あらゆる昔流儀の入念で美しい作法のひとつとして教えられる。-略― 微笑は、教養のひとつなのである。」
子どものころは持っている微笑は、教養であるのですね。失いたくありません。
投稿者 fujimori : 20:21 | コメント (6)
2008年01月23日 [旅先にて]
一途な思い
島根では、石を効果的に配して、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)で「2007年日本庭園ランキング」において5年連続で「庭園日本一」に選ばれた庭園を見てきました。ちなみに、5位 無鄰菴(京都府)、4位 栗林公園(香川県)、3位 山本亭(東京都)、2位 桂離宮(京都府)、そして、今回見学した1位 足立美術館(島根県)です。
この美術館は、横山大観の所蔵でも知られていますが、それ以上に庭園は、収蔵品の観賞を深めるために造られ、その広さは1万3千坪にも及んでいます。窓から見える景色は、窓枠を額縁、衝立、掛け軸に見立てられています。玄関から歩を進めて行くと、正面には、これから訪れるであろう主庭の枯山水へと続く長い白砂が目に入ります。
そして、次に見えてくる庭は、桂離宮にある「松琴亭」に因んで建てられ、裏千家の十五代家元、千宗室氏によって命名された茶室「寿立庵」へと続いている茶庭です。
次に見える「苔庭」は、京都の庭師、故小島佐一翁によるもので、杉苔と赤松を中心に組み合わせてつくられた京風の雅な庭園です。苔庭の赤松はすべてが斜めに植裁されています。これは山の斜面に生まれ、成長してきたものを平坦な場所に垂直に植えることは、樹木にとってかなりの苦痛になる、という考えによるものです。また、苔庭の苔が樹木の葉から落ちる雨水により傷つかないように枝振りにあわせて、園内で焼かれた炭を埋めてあります。
いよいよ、この美術館の主庭の枯山水庭です。この庭は、京都の「退蔵院」の枯山水庭、大阪府堺市の「大仙公園」の日本庭園の作庭で知られる、故中根金作氏によるものだそうです。画面中央に配置されている三つの立石は、峻厳なる山をあらわし、そこから注ぎ込まれた水が渓流となり、大河となって流れ行く様を、枯山水という伝統的な手法をもちいて表現しています。遠くに見える山は勝山という名で、16世紀半ば、毛利と尼子の合戦で、毛利氏が本陣を張った山です。
窓から遠景に滝が見え、水の流れと池を中央にして、白砂の丘陵には、左に赤松、右に黒松が植えられています。この庭の石は、鳥取の佐治石や、四国の青石が使われていて、一番当初の造園であるためか、今では貴重な名石ぞろいだそうです。石組みは、桃山時代の武将の庭に見られるような力強く、豪快で華麗なものになっています。
次に、鯉が群れ遊ぶ「池庭」は、和風の庭と周囲の洋風的な建物との調和を考えた、和洋折衷の新しい感覚で作られています。
そして、「白砂青松の庭」です。白砂海岸に大小の青松がリズミカルに配置されています。この庭園は、横山大観の名作、白沙青松の持つ清澄なイメージを表現したものです。
71歳の時、郷土への恩返しと島根県の文化発展の一助になればという思いで、財団法人足立美術館を創設した足立全康は、小学校卒業後すぐに、生家の農業を手伝い、14歳の時、大八車で木炭を運搬する仕事につき、その後紆余曲折、様々の事業を興し、戦後は大阪で繊維問屋、不動産関係などの事業を起こします。そして、幼少の頃より興味をもっていた日本画を収集して、この美術館を創設するのです。
日本の美を、一途な思いで伝えています。
投稿者 fujimori : 23:00 | コメント (5)
2008年01月22日 [旅先にて]
八雲の庭
八雲は明治37年、東京で死ぬまでの14年間を日本ですごし、その間、松江・熊本・神戸・東京と4つの都市に住み、10軒もの家で生活を営みました。その中で、松江の根岸家から借りた家とその庭は、特別に気に入ったようでした。規模こそ小さいものの、この庭は枯山水の鑑賞式庭園としては水準を抜くものとして高い評価を受けています。今、役もが愛した居宅だったところは、東大時代の友人上田敏、小山内薫、柳田国男らの勧めもあり、一部改築されていた家を元通りに復原し、記念館になっています。特にここの庭は、著作「知られざる日本の面影」の第16章「日本の庭園」の舞台となっています。この庭と、作品の中の文章を読むと、西洋人である小泉八雲が日本の庭をどのように見たのかということがよくわかります。
元々は松江藩士の武家屋敷で、その周りには三方に庭があり、八雲は中央の部屋から三つの庭を眺めるのが好きだったと云われています。彼の文章から、日本の美をもう一度見直してみたいと思いました。(要約)
「この庭の全体からは、どこかきれいだけれどもとても寂しい、そしてそのままそこで眠りこんでしまいそうな、そんな場所を音もなく流れてゆく静かな流れの岸辺、というような印象を受ける。その庭には、厚く苔むした大きな岩がある。そしてまた水をたたえた、風変わりな石の水盤もいくつか据えてある。歳月を経て緑色になった石灯篭や、城の天守閣に見られるような鯱もある、老木の茂っている小山もある。緑の草の長い斜面もあって、花をつけた潅木が影を落としており、川岸の土手のようである。緑に覆われた築山は小島を思わせる。(新編日本の面影より)」
「北側の第二の庭は自分の好きな庭である。大きな草木は何一つない。青い小石が敷いてあって、小池が一つ―珍奇な植物がその縁にあり、小さな島が一つその中にあって、その島には小さな山がいくつかあり、高さは殆んど一尺にも足らぬ桃と松と躑躅がある小型の湖水が一つ、その中心を占めている。ではあるがこの作品は、そう見せようと計画されていたようにして見ると、目に少しも小型なものとは見えぬ。それを見渡す客間の或る一角から見ると、石を投げれば届くほどの遠さに、向うに真の島のある、真の湖岸の姿である。この池の縁の其処此処に、そして殆んど水と水平に、その上に立つことも坐ることも出来、その湖沼住者を窺うことも、その水中植物を世話することもできる平たい大きな石が置いてある。」
三番目の庭は、生垣の向こうなので、見ることは出来ませんでした。「この庭は、大変大きいもので、垣に囲まれた蓮の池の庭から、この武家地の一角の北北東の境界にあたる木の茂った丘のふもとまでつづいている。北西の角には、なかなかいい井戸があって、器用に竹のパイプでこしらえた水路を通って、ここから家の中までひんやりと冷たい水が運ばれてくる。そして北西のはずれには、丈の高い雑草に隠れるようにして、ひどく小さなイナリの社がたっている。そしてその前には、その社にふさわしいちいさな石の狐が二匹、すわっている。庭の背後の丘の森は、まさに野鳥の生活に満ち満ちている。」
いろいろなところで、石が効果的な役目をしていますね。
投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (3)
2008年01月21日 [近頃思うこと]
石の庭
何回かに分けて「石」が話題になっていますが、なぜか、どこを歩いても石の話題にぶつかるのです。最近、石つながりを感じます。ひとつには、自分が年を重ねるに従って、「石」に魅力を感じてきているのかもしれません。今の園を建築するにあたって、どうしてもほしいものがあり、いろいろな人に声をかけて探してもらっているものがあります。それは、「つくばい」(蹲踞、蹲)です。これは、本来、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたものです。手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がついています。しかし、実際には茶をたてるわけではありませんので、役石はいらないので、「手水鉢」だけでも欲しいと思っています。それも、新しいのを買うのではなく、長い間どこかの家で使われていたような、苔で覆われ、使い古されたようなものがいいと思います。なぜか、最近、そんな石に惹かれるのです。
日本の古典や民話などに取材した創作短編集である「怪談」をアメリカで刊行して有名なラフカディオ・ハーン、後に日本に帰化した小泉八雲は、また日本の伝統的精神や文化に興味をもち、生活に密着した視点から日本を欧米に紹介した多くの作品を著しました。
そのなかで、彼が日本にやってきてはじめて書いた作品集「知られざる日本の面影」のなかの第16章「日本の庭園」には、こんなくだりがあります。
「もうひとつ、特に忘れてはならない大事なことは、日本庭園の美を理解するためには、石の美しさを理解しなければならないということだ。少なくとも、理解しようと努めなければならない。石といっても、人の手で切り出されたものではなく、自然の営みで生まれた自然石のことである。石にもそれぞれに個性があり、石によって色調と明暗が異なることを、十分に感じ取れるようにならなくてはいけない。そうでないと、日本庭園の美しさの真髄が心に迫ってくることはないだろう。
しかも、外国人であるなら、たとえその人が審美眼を持ち合わせていようとも、石に対しての感覚だけは学習し、磨いておく必要がある。日本人の中には、生まれながらにしてその感覚が宿っている。自然を、少なくともその目に見える形のままに理解することにかけては、日本人は私たち西洋人よりもはるかに優れている民族なのだ。だが、西洋人が石の美を本当に理解できるようになるためには、日本人が石をどう選び、どのように使っているかに、長い年月をかけて精通していくしかない。」
その後ろの文章で、石についてさまざまな考察がされています。そして、石の持つ自然の造形がもたらす暗示が、石にまつわる奇妙な信仰や迷信を伝えてきたのだと言っています。その最後に「石はその美しさゆえに価値があり、造形で選ばれた大きな石となると、その美的価値は何百ドルもの値打ちかもしれない。また大きな石は、日本の庭の骨組みとなっている。どの石もそれぞれ特有の表情があるからこそ、選ばれているだけでなく、庭石や屋敷まわりの石には、それぞれの目的や装飾の役割を示す個別の名がついている。」
つくばいにしても、「手水鉢」のほかに役石として、「水鉢」「前石」「手燭石」「湯桶石」「水門」などが配置されます。
「知られぬ日本の面影」の舞台となった松江にある八雲の庭を、日曜日に見てきたので、明日のブログで、私なりにその庭の美を八雲と一緒に見てみたいと思います。
投稿者 fujimori : 23:34 | コメント (4)
2008年01月20日 [旅先にて]
勾玉
今週末は、島根県の玉造温泉に泊まりました。この玉造温泉は、奈良時代開湯といわれる古湯で、少彦名命が発見したと伝えられていて、江戸時代には松江藩藩主の静養の地となっていました。この玉造という名の由来は、この地にある花仙山で良質の青瑪瑙が採掘できたために、この地の人々が玉造を生業としていたことに由来していると考えられています。瑪瑙(メノウ)という名前は、石の外観が馬の脳に似ているということで付けられています。
この「メノウ」は、「ヒスイ」と並んで大変硬い石のために、よく古代の勾玉の材料に使われていました。三種の神器といわれる「八尺瓊勾玉」も櫛明玉命によって玉造で造られたと言われています。日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに天布刀玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられ、後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとされています。
勾玉とは、古代の人々が石で作り、首にかけていた装身具です。もとは、狩猟した熊や猪や狼などの獣の歯牙に穴をあけ、その人の強さを表していたり、お守りや魔除けの意味合いから首にかけたものといわれています。ヒスイを原石にしたものは、糸魚川周辺(新潟県)とメノウを原石としたものは、出雲地方(島根県)が代表的な産地と言われています。
勾玉は、曲玉とも呼ばれるように、Cの字形またはコの字形に湾曲し、玉から尾が出たような形をしています。この形は、元が動物の牙であったとする説や、太極図を表すとする説、母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説などがあり、丸く膨らんだ一端に穴をあけて紐を通し、首飾りとしていました。

この勾玉は、日本、韓国、北朝鮮に存在していますが、日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古いとされていますが、その後、朝鮮半島へも伝播していきます。武寧王陵など韓国内の王墓からも発掘されていますが、これらは日本から伝来したものという説が有力です。縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化してきています。弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉が作られ始め、古墳時代(3世紀)から権力の象徴や、護符として使われてきました。しかし、日本に仏教が伝わり浸透していくにつれて次第に使われなくなっていきました。
江戸時代には、一般庶民の間ではあまり知られていなかったようですが、知識人のあいだでは、愛用され身につけられてきたようです。オランダ人医師シーボルトも興味を持ち、勾玉を研究し、著書「日本」に「教養ある日本人が好んで思いをはせるもの」と書き出しに記しています。
最近、パワーストーンといって、石の持つ不思議なパワーを身につけることがはやっています。現在でも、勾玉を身につける事により太陽のエネルギーと、月のエネルギーを日夜受ける事ができるといわれています。古代から行われてきたことが、科学が進んだ現在に、もう一度よみがえってきていることに不思議なものを感じます。
投稿者 fujimori : 23:06 | コメント (3)
2008年01月19日 [旅先にて]
瓦
宇都宮を訪れて、大谷石について考え、その後、近江にて穴太衆積み石について知り、石について色々と考えてみました。各地を訪れると、その地のどこにでも転がっているような様々な石により、石の文化が生まれますが、おなじようにどこにでもあるのが土です。その地の土によって、やはり様々な文化が生まれます。その特徴的なものに焼き物があり、そのひとつに瓦があります。かつて、日本各地には多くの瓦製造所が存在しました。それは、中世末から近世以降に、主に地元で産する粘土を材料に地元の需要に答えるために、地元の工房で生産される瓦で、製造工房の経営者や工人は必ずしももともと在地の者とは限ってはいませんが、瓦職人はその地に定住し、工房を在地で営んできました。
近江八幡を先週訪れたとき、「かわらミュージアム」に行ってみました。

ここでは、近江八幡の景観の重要な要素を形成する瓦屋根に関して、その歴史や製作技法・その芸術性などを紹介し、「はちまんかわら」の魅力と、瓦の種類・瓦の作り方・日本各地の瓦・世界の瓦等々も展示されていました。
瓦は本来、粘土瓦のことを言いますが、歴史的にも石瓦や銅瓦等もありますが、現在でも、セメントや金属などの材料も使われ、通常の粘土瓦が使用できない寒さの厳しい地域や個人の好み等によって粘土瓦の代わりに葺かれることがあります。また、瓦を屋根に施工することを「瓦を葺く」といいます。
島根の物産館に「百年瓦、石州」というチラシが置いてあり、そこに瓦の歴史が書かれていました。「日本書紀曰く「嵯峨天皇元年(588)、百済国より仏舎利、寺工、及び瓦工を献ず」瓦屋根が日本に初めて登場したのが飛鳥寺(596年建立)。
以来、瓦は様々な建築物の屋根に飾られてきました。奈良時代の国分寺建設ラッシュのとき、大和朝廷中央集権化の切り札として、大伽藍の屋根を飾り、戦国末期には、権力の象徴たる天守閣の屋根に。江戸時代初期には、日本最初の都市計画たる「城下町」の建設に。中期には、都市の防火機能確立のために。あるいは「蔵」という貯蔵システム構築のために。そして近代の急務となった町屋(住宅)の普及のために。瓦は、あるときは権力の象徴として、ある時は町造りの構成要素として、ある時は都市の防火機能として、その時代が求める役割を担ってきました。ドイツ建築界の鬼才ブルーノ・タウトは、日本を代表する建築「桂離宮」を評してこう言っています。「すべての優れた機能を持つものは、おのずからその造形も優れている。」屋根は建築物の機能と目的、そして外観意匠を決定する重要な要素です。」
確かに、瓦は土という自然の素材に、水と火というやはり人の歴史と共に使われてきたものを加えてできるものです。しかし、その瓦は、長い間、住宅の屋根には使われませんでした。それは、瓦が貴重であったと同時に、権力や権威の象徴であったのです。それが、その防火効果から住宅にも使用されてきますが、物は、時代が要請するものとして使用されていくのですね。ただ、自然物から作ったものは、自然に帰っていきますが、科学的に作ったものは、作るときには簡単で、使うときには便利かもしれませんが、使い終わったときにはとても厄介です。そのものを利用する場合は、これからの時代は、使うときではなく、使い終わったときも考えて使わなければならないでしょう。それが、重要な要素です。
投稿者 fujimori : 22:21 | コメント (4)
2008年01月18日 [近頃思うこと]
石のことわざ2
ことわざは、中国の故事から生まれている場合が多くあります。石を使ったものでも例外ではありません。たとえば、「石に立つ矢」という一念を持って行えば、どんなことでもできるというたとえである言葉も、「韓詩外伝」にあります。 中国、楚の熊渠子が狩に行き、虎と見誤って石を射たところ、矢が石を射通したという故事によるものです。このような逸話は、「史記」にも漢の李広の話として描かれています。
そのほかにも出展は何かわかりませんが、どれもなんとなく逸話があるような気がします。
「石の上にも三年」という言葉の三年という年数は、三省といわれるようには、論語では「日に三回省みる」といっていますが、他にも何回も自分のことを振り返ってみようという意味もあります。この石の上にも三年という言葉は、少なくとも三年間ぐらい我慢しなさいと使われますが、基本的に三年と言う数字に含まれる意味合いとして、長いという意味が含まれています。また、なぜ石の上というのは、石は冷たく、すわり心地が悪いということであり、3年我慢しなさいというのは、冷たい石も三年座り続ければ、暖かくなるという意味から、そのくらい経てば実績が認められるようになり、評価されるなど報われたり、成功するようになるということです。ですから、石の上でなくとも今の辛い状況でも我慢しなさいということで、「茨の中にも三年の辛抱」「三年居れば温まる」「火の中にも三年」「辛抱する木に金がなる」というような言い方もあります。
石は、冷たく硬いものですが、ずっと座っていれば暖かくなりますし、ずっと打ち続ければ穴も開きます。「雨垂れ石をも穿つ」ということわざがそれです。「わずかなことでも、根気よく続けてやれば、成功につながるということ」をあらわしています。雨だれというのは、比喩ではなく、実際に軒下などの石でよく見られたことなのでしょう。この様な精神は重要と見えて、身の回りから色々な言い方が生まれました。「涓滴岩を穿つ」「千里の行も一歩より起こる」「牛の歩みも千里」「釣瓶縄井桁を断つ」「人跡繁ければ山も窪む」「泰山の溜石を穿つ」どがあるようです。哲学者のルクレティウスは、「雨だれが石を穿つのは、激しく落ちるからではなく、何度も落ちるからだ」と言っています。世の中を変えていくのは、大きな力よりも、小さくても持続していくことのほうが重要であることがわかります。
また、石は、少しずつ穿つと穴は開きますが、矢は刺さりません。ということで、少しのことでは余り影響しないということで、「石地蔵に蜂」というように、痛くも痒くもないことのたとえに使われます。類義語では、「石に灸」という石に灸をすえるように、何の効き目もないことにも使います。このような意味では、「牛の角を蜂がさす」「蛙の面に水」「泥にやいと」などがあります。
「他山の石」という言葉も面白いですね。よその山から出た粗悪な石でも、自分の山から出た宝石を磨くのに使えるということから、どんなつまらないこと、また、自分より劣っている人の言行でも、自分の才能や人格を磨く反省の材料とすることができるということです。
このブログも、他山の石にでもなればいいなと思っています。
投稿者 fujimori : 14:17 | コメント (4)
2008年01月17日 [近頃思うこと]
石のことわざ1
よく、建物の角のところに特別な石が使われていることがあります。この石は、外国の石積みの建物には重要な石ですが、日本の洋風建築には、この石を装飾用として際立たせている場合があります。なんだか締まる感じがしますね。
この石のことを「コーナーストーン」と言います。この、建物の礎となる石、あるいはアーチの最頂部の要石という意味を持つコーナーストーンということから、基礎となる重要なものという意味を持つようになってきました。経営用語としても使われることがあり、会社のビジョンなど、基本方針を定めたものをこのように呼ぶ会社もあります。このように思って城を見て歩くと、石垣でも、コーナーストーンは、重要な役目をしています。

こうしてみると、石は身近なものとして昔から人と関わってきたので、石という言葉を使ったことわざも随分あるようです。
面白いところで、「石に漱ぎ流れに枕す」という「負け惜しみが強いこと。また、屁理屈を並べ、言い逃れることのたとえ。」という言葉があります。「夏目漱石」の名もここからつけられていることはよく知られています。これは、次のような故事があります。「晋の時代に孫楚という人がいました。孫楚はまだ若い頃、早くも俗世間を捨て、隠居して山林の中に隠れ住もうと思いました。その決心を友人の王済に打ち明けました。その時に、本当は、「石を枕にごろっと横になり、谷川のほとりで口を漱ぐような生活を送りたい」という意味の「石に枕し流れに漱ぐ」と言おうとして「石に漱ぎ流れに枕す」と言い間違えたのです。そこで、王済は、「石で漱ぐことは出来ないし、流れに枕することは出来ないよ。」と指摘をしたところ、孫楚はあわててこじつけを考えて言いました。「いや、石に漱ぐというのは歯を磨こうと思ったからさ。流れに枕すというのは耳を洗おうと思ったのだ。」と孫楚は負け惜しみで言ったのですが、なかなか上手い返事だということで、「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」という言葉が負け惜しみの強いことを表すようになりました。また、「流」と「石」という字をとり、本来の意味とは違っていても上手なシャレであるという事で、日本では「流石」を「さすが」と読むようにもなりました。
他に、「我が心石に匪ず転ず可からず」(わがこころいしにあらずてんずべからず)という言葉は「詩経」が出典です。高橋和巳の小説に「我が心石にあらず」というのがありましたね。この意味は、「石は転がすことができるが、自分の心は石ではないので転がすことはできない。固い志、不動の精神」ということですが、類義語の「匪石の心」という「わが心石に匪ず」を使うときには、石にどんなイメージを持っているかで、聞いた人はちがって取ってしまうのでしょうね。「冷たく、無機質」と思えば、自分はもっと心がこもっていて、やさしいと言っているように取れます。この意味で使う場合に、「木石に非ず」という白居易の言葉があります。これは、「人間の身体は木や石でできているのではないから、暖かい血も通い、物事に対し喜怒哀楽さまざまな感情に動かされるものである」という意味です。また、石は丸くて転がりやすいとイメージする人は、私の心を転がすように弄ぶなと言っているように聞こえるでしょう。
他にも、石が入ることわざを明日思い浮かべてみます。
投稿者 fujimori : 22:59 | コメント (4)
2008年01月16日 [旅先にて]
城取り
学校で歴史を教わったり、テレビで歴史ドラマを見たりしている中で、印象に残る時代はなんといっても戦国時代です。それは、戦国時代の戦いは、城取り合戦だったからでしょう。城を守り、城を攻める、また、その城が誰の居城となるか、そこにはさまざまな戦略が渦巻き、また、築城には、そのときの権力や、守るときの様々な知恵が懲らされているからです。そして、戦国時代から、全国統一に向けての戦いにおける舞台である城や、その後「安土・桃山時代」と呼ばれ始めた頃の舞台は、なかなか訪れることがありません。
この時代は、織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城であった伏見城(後世桃山と呼ばれた丘陵地にあった)に因んで、安土桃山時代と呼ばれていますが、その二つの城はともに現存しません。しかし、伏見城はとても立派であったために、天守をはじめ一部の建物は二条城や常寂光寺などに移築されています。石垣は、大阪城を始めいくつかの城の修築に使用されていますし、西本願寺の唐門は、城門を移築したものですし、福山城や江戸城には、伏見櫓という櫓があります。しかし、織田信長が、安土山に五層七階の天守閣を中心とした本の丸、二の丸、三の丸などの諸郭を持った安土城の全容は、今は安土の駅前の資料館にその模型だけが残っています。
滋賀県には、その時代の舞台となった城がいくつかありました。そのひとつが、戦国を飾る哀愁の城郭であり、中世五大山城の一つとしても有名な小谷城です。
浅井長政とお市が過ごし、信長によって攻められ、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡します。浅井氏滅亡後、江北12万石を与えられた羽柴秀吉は、琵琶湖から離れた小谷城を嫌い、琵琶湖に面しており港もある今浜に新たに築城して居城とします。そのときに、建物等は長浜城へと移築され、今の彦根城の西の丸三層櫓は、このときに長浜城へ移築された小谷城の天守と云われています。そのため小谷城は廃城となり、現代に至っています。
この長浜城は、清洲会議の後、柴田勝豊、山内一豊が城主となっています。一昨年のNHK大河ドラマの「功名が辻」が放映されたときに訪れたかったのですが、不便さもあって行けなかったのが、先週末の連休に妻と訪れることができました。今は、城は残っていないで、城跡には、3層の模擬天守が建てられ、中は資料館となっています。いかにも模造ということで少しがっかりしましたが、残っている築城当時の石垣を見ると、なんとなく当時を偲ぶことができます。
同じように今はなき安土城も、学生の頃から聞きなじんだ響きの場所だけに、駅名の看板で「安土」という字を見つけるだけで、その城の短命さとあわせて、信長の駆け抜けた一生を思い浮かべてしまいます。信長が本能寺で明智光秀の謀反のために自刃したあと、山崎の合戦で明智光秀が敗れると、安土城に入っていた明智秀満は、坂本城へ引き上げ、このあと織田信雄が安土城に入りますが、明智残党の掃討のため城下に火を放たれた火は、城にまで燃え広がり、天守閣も焼け落ちてしまいました。この立派な城の完成後わずか3年のことだったのです。
戦いで奪ったものは、結局戦いによって失われていくのですね。
投稿者 fujimori : 15:28 | コメント (4)
2008年01月15日 [地域を知る]
古くて新しい2
「古くて新しい」(OLDNEW)といえば、こんなキャッチコピーを彦根で見かけます。
「城下町の伝統を継承した格子窓、袖壁、白壁、軒庇が続く町並み……古くて新しいOLDNEW TOWNが「夢京橋キャッスルロード」です。」
このまちづくりの特徴は住民主導で行われ、歴史と伝統を今に活かし、建物の形態と色彩を新しい時代にマッチした城下町づくりをしたところです。この夢京橋キャッスルロードがある彦根市本町は、慶長8年(1603年)彦根城築城とともに城下町の町割りがこの本町から始められたという歴史ある町でした。しかし、歴史は単に過去のものとして郷愁だけで終わることが多く、世の中の近代化と効率化に取り残され、実際には住みにくく、人が訪れない町並みに変わっていきました。そこで、商店街は、天井部を覆うアーケードを備えたショッピングモールへと発展し、近代的なアーケード商店街が作られていったのです。これらは日光や天候から守られ、また多くの人々の徒歩での通行を惹きつけました。
しかし、このアーケード街は、地元の生活用品を買うためであればとても便利なのですが、専門店が多いために、必要なものを買い揃えることはできず、車では行きにくいなど、次第にショッピングモールは大型化、郊外化していきました。それでも、地域の人には便利ですが、観光客を呼び込むことはできません。そこで、もう一度見直されたのが、道路幅6メートル、当時の風情を残している城下町ならではの道路でした。この通りの風情を壊すことなく伝統的な町並みを再生することにより、活性化を図ることになりました。
歴史と伝統を活かした町づくりは住民主導で行われ、歴史的景観を大切にした古くて新しいまちづくりは、1999年にすべての整備を終えました。彦根城の堀端から京橋へ、石垣に遮られたどんつきを抜けると、まっすぐに通りが広がります。通りの愛称は「夢京橋キャッスルロード」と名づけられました。白壁と紅殻に煤を混ぜた黒格子、いぶし瓦、切妻屋根の傾斜を揃え、景観を大切に、暮らしの見え隠れする古くて新しい町が、OLDNEW TOWNです。ここには、様々な個性を持った商店が並び、買うためではなく、見て歩く楽しさを持った通りに変身しました。「商店街づくりは人づくりから」といわれるように、「自分たちの地域は自らの力で創り、次世代へ引き継ぐ」という住民主導での街づくりへの理解を得るには多くの時間を要したそうです。
これに触発されたかのように、彦根の台所といわれていた市場商店街も生まれ変わりました。ここは、美味しい匂いの漂う商店街で、かつては生鮮食料品や惣菜の街として県下で最も賑わった時代もありましたが、勢いは昭和40年代をピークに衰え、空洞化が進んでいきました。
その賑わいを取り戻そうと、大正ロマン漂うまち『四番町スクエア』として生まれ変わりました。まず、城下町彦根らしい名称だった「四番町」という旧町名を復活し、市場街のアーケードは撤去され、新しく大正時代の意匠を凝らした建物がポケットパークを中心として、いこいのある楽しい街をイメージしています。生鮮食料品や惣菜を商う、古き良き市場の気質を残しながら、今まで市場には無かった新しい業種の専門店もオープンしています。
何でも新しければよいという時代は終わり、昔をどう生かして進化させていくかということが、町づくりだけでなく、すべてに共通の課題となっていくことでしょう。
投稿者 fujimori : 23:56 | コメント (4)
2008年01月14日 [地域を知る]
古くて新しい1
昨年、経済効果が著しくあった場所は、宮崎県でしょうね。知事が代わってどうなるかと思ったのですが、今のところ町おこしとしてはよい効果が出ているようです。そのほか、意外と経済効果が大きかった取り組みが、今年の1月に発表されていましたが、彦根市で昨年開かれた「国宝・彦根城築城400年祭」です。まだ、中間報告しか出ていませんが、約8カ月の期間中に同市を訪れた「入り込み客数」は2,432,000人で、市内で使われた「観光消費額」を170億円と推計しています。地方都市でも、企画のよっては随分と人が訪れるようです。このなかで、土産購入額に占める割合が、宿泊客の平均47.1%、日帰り客の35.1%と高い人気があったのが、あの話題のイメージキャラクター「ひこにゃん」のグッズだそうです。この「ひこにゃん」に会ってきました。
「ひこにゃん」は、井伊家由来の赤備えの兜をかぶった猫をモデルとしています。この「ひこにゃん」は、キャラクターを使用する際に通常必要な著作権使用料を無料の許可制にすることで個人・企業を問わず広く参加でき、築城400年祭を盛り上げる効果を狙った新しい試みです。著作権使用料を無料にすることで小規模企業を含めた様々な企業が参加し、イベントを通じて街の活性化をはかる試みとして経済界からも注目されました。今年の年賀状が「ひこにゃん」が住民登録している彦根城あてに100通以上寄せられたそうです。差出人の9割が県外だったということは、町おこしとしての成功を思わせます。
なぜ猫かというと、意外なことがわかります。東京の小田急線の駅に豪徳寺という駅があります。ここは、1633年に彦根藩2代目藩主の井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備したてらです。ですから、江戸城桜田門外で暗殺された井伊直弼は当寺に葬られていますし、その墓のそばには、桜田殉難八士之碑や、墓守として一生を当寺で終えた遠城謙道の墓塔もあります。以前ここを訪れたときに初めて知ったのは、その墓の創建が井伊家であるということと、「招き猫」の発祥の地として、大きな招き猫があったことです。それは、どうしてかというと、井伊直孝がにわか雨にあって大木の下で雨宿りをしていた際に、手招きをする白猫を見て近寄ったところ、その大木に落雷があって、危ういところで雷から逃れたということで、直孝はこの猫に感謝し、福を呼ぶ寺として豪徳寺を井伊氏の菩提寺としたのです。この白猫の伝説から、井伊家の居城であった彦根城のキャラクターとして猫が選ばれたのです。
この彦根城が、人気があるのは、決して「ねこにゃん」だけのおかげではありません。この彦根城の歴史にも関係があります。築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するために着工され、天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築され、天守閣は2年足らずで完成しましたが、結局、20年の歳月をかけて築城されています。近世の城で天守閣が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。このうち、松本、犬山、彦根、姫路の4城の天守は国宝で、とても美しい姿を残しています。
しかし、この彦根が、400年祭が終わったあとでも人気があるのは、他におおきな取り組みがあるからです。この取り組みが、古いものを進化させ、新しいものを生み出したひとつの例です。(つづく)
投稿者 fujimori : 22:46 | コメント (4)
2008年01月13日 [地域を知る]
商人
近江八幡という地はとても不思議な町です。ここには、主に鎌倉時代から江戸時代、明治時代、大正時代、戦前にかけて活動した近江国・滋賀県出身の商人である「近江商人」の系譜を引くものが、今日の大企業の中に多いのです。
たとえば、商社では、伊藤忠商事、丸紅、トーメンなどがあり、百貨店では、高島屋、大丸、西武であり、紡績では、日清紡、東洋紡、その他では、日本生命、ヤンマーディーゼル、西武グループなどが近江商人の流れを汲んでいるといわれています。
なぜ、この地からそんなに輩出しているのでしょうか。ここ近江八幡は、1585年(安土桃山時代)、豊臣秀次によって琵琶湖の東岸に位置する八幡山の麓に建設された城下町でした。その後江戸時代になると、東海道と中山道と北国街道が交差する交通の要衝となり、その地の利を生かして商業地として発展、繁栄しました。
秀次が整備した碁盤目状の旧市街のほぼ中央を南北に走る新町通り周辺と、北の八幡堀の畔には、商家・町家・土蔵といった近世建築の連続性が高い町並みが現存しており、1991年には、種別「商家町」で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
また、この近江商人は、その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれましたが、それだけではなく、有名な家訓として「買い手良し、世間良し、売り手良し」の「三方良し」だけでなく、他にもいろいろな商業の考え方も作っています。その考え方は、他の分野でも参考になることが多くあります。
主に能登方面に蚊帳や畳表を行商していた西川甚五郎は、江戸日本橋に出店し、2代目甚五郎が萌黄蚊帳を考案して富を得、「ふとんの西川」の基をつくりました。
飯田新七は、京都の呉服屋に奉公中、その勤勉ぶりから高島出身の米屋飯田家の養子になります。そして、家業を呉服商にかえ、高島屋の屋号で他店よりも早朝から店を開け、「おかげにてやすうり」を合言葉に確実な商品を安価で販売して、多くの信用を得て、今日の百貨店高島屋の基礎を築きました。
伊藤忠兵衛は、近江麻布の行商をはじめますが、九州・中国各地に地盤を広げ、明治維新の混乱期に社会の動きをよく観察し、大阪に呉服太物店紅忠を開きのち丸紅になります。そして、その後外国貿易会社伊藤外海組を設立し、後の伊藤忠商事・丸紅の基礎を築きました。
下村彦右衛門正啓が開業した呉服店 大文字屋が後の大丸になりますが、大塩平八郎の乱が起きたときに「大丸は義商なり」といわれ、焼き打ちを免れています。これは往時の豪商が施餓鬼として毎年貧しい人に食料や衣服等を、今日の援助物資やボランティア的な活動を行って利益の再分配をしていたことへの庶民感情を汲みした表れであるようです。ちなみに、この大丸の心斎橋店、京都店は著名な建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品で、ことに心斎橋店は日本の百貨店建築の最高傑作といわれています。近江八幡にあるヴォーリズ記念館は、彼によって清友園幼稚園の教師寄宿舎として設計されましたが、竣工時からヴォーリズの自邸として使用された建物です。
今、大企業と呼ばれている企業は、もう一度創設の頃の近江商人の理念を思い出してもらいたいものです。
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2008年01月12日 [旅先にて]
石積み
大谷石についてブログを書いたのですが、石にはいろいろな種類があります。そして、その石はいろいろなところに使われますが、そのときにどのように使うかは、その石の特性と、使う場所によって様々な工夫がされてきました。
大谷石のように建物に使う場合のほか、庭石(にわいし・ていせき)という庭園における天然石の日本独特の利用法があります。日本庭園では必ず使用される庭園技法の肝ですが、海外では天然石を加工せずにそのままの姿で利用することは極めて稀であり、大抵、石を使う場合はなんらか加工します。それに対して、日本では、まず、天然の岩石のなかで庭の材料として用いるものとしてよいものを選び出し、加工せず庭の要所に配置します。その石はもちろん1個(1石)でも庭の景観を作るポイントになり、十分に鑑賞できるものとなります。しかし、複数組み合わせて設置する場合もあり、それを石組といいます。この庭石の材質・配置で庭園の表情が決まると言うほどで、日本ではさまざまな技法が生まれました。立石、伏石、平石、構石として使用し、大体、同系同色の石を使うのが基本です。そのほかにも、庭に石を使う場所に、飛石があり、平らな石を園路に配置して、そこを踏面とします。また、この飛石と建物の出入り口を結ぶ石として沓脱石(くつぬぎいし)があります。
そのほかに護岸や法面などの防水・土砂流出防止を目的に石を積むことがあります。日本では有名なところでは城の石垣がありますが、この石積みのある風景は、日本だけでなく、石が採れる所ならばおそらくどこでも見られる風景でしょう。しかし、その石の積み方は、採取される石の種類や周りの環境によって異なってきます。たとえば、イギリスの石は平たく、日本の石は塊として使います。
今日訪れている近江の坂本の里は、延暦寺や日吉大社の門前町として栄えたところで、湖東、湖北から坂本港に運ばれる物資の集積地でもあり、特に北陸から京都への交通の要所でもありました。その坂本では、里坊や神社や古い民家の石塀などに、穴太衆積み(あのうしゅうづみ)と呼ばれる特異な石積みがみられる場所です。その特色は加工しない自然のままの石面を巧みに用いて石積みの面を構成し自然の美しさを保っていることです。
穴太衆とは、全国的にも有名な石工集団で、石垣のある城郭はすべて穴太衆によるものだといわれています。穴太衆は、横穴式古墳の石室作りに習熟していた渡来人の子孫であり、長い間石積みの技法を温存していました。
彼らの技法の祖形を、比叡山系と琵琶湖に挟まれたあたりに点在する古墳時代後期の群集墳に見ることが出来ます。その穴太衆は、比叡山麓の坂本大字「穴太」の一帯に古来から住み、その技法を持って、やはり大陸からの渡来人系である伝教大師最澄によって開創された天台宗総本山の比叡山延暦寺の坊舎の石垣や墓石、五輪塔も作りました。
そして、比叡山焼き討ちで、信長は穴太衆石積みの存在を知り、安土城の築城に動員したのです。その後、家康の江戸城大修築にも活躍しています。
「石積みのある門前町」としての歴史の町坂本を歩けば、石積みの石塀は苔むし、道の脇を流れる堀の水はあくまでも透き通り、焼き討ちにあった比叡山の荒々しさを忘れるほど静かな佇まいを感じました。
投稿者 fujimori : 22:04 | コメント (4)
2008年01月11日 [近頃思うこと]
温泉街
私が小学生の頃、私の家族は、毎年熱海の温泉に行っていました。また、その頃社員旅行でも熱海に行くことが多くありました。熱海は、最近は随分と様相が変わってきてしまっていますが、その頃は日本で代表的な温泉街と呼ばれるところでした。温泉街が今でも残っているところがありますし、逆に残そうとか、復活させようというところもあります。
宿泊客は、宿の名前の入った浴衣で、寒いときはその上に丹前をはおり、宿の外出用の下駄でカランコロンと出かけます。最近は、外湯めぐりといって、他の宿の温泉にも入ることのできることができるように、通行手形や手ぬぐいを入れる袋やかごなどを持っていくことがありますが、私の子どものころは、その仕組みはありませんでした。この温泉手形は、ブログでも少し書きましたが、黒川温泉組合が、江戸時代から野沢温泉で行われていた「外湯めぐり」にヒントを得て、町おこしのために1986年から入湯手形による各旅館の露天風呂巡りが実施されたのがはじめといわれています。始めたとこのブログで書いた覚えがあります。この発想は、一軒のみどうしても露天風呂が作れない旅館があり、「共生」を理念とした取り組みから湯めぐりの発想が沸いたというのがいいですね。
温泉街の町並みは、小さな渓流沿いに並んでいるところが多く、それほど広くない道の両側には、飲食店や土産物店、遊戯店、また、日常の生活に必要な商店などが存在していました。おみやげ物やの定番メニューは、まずなんと言っても「湯の花」や「温泉饅頭」です。熱海にも、何件かのおみやげ物屋の店頭で、蒸篭から湯気を出している温泉饅頭を見かけます。最近は、本当の湯気ではなく、見せ掛けのものが多いようですが。そのほか、なぜかおみやげ物屋でなければ買えないような品物が並んでいます。絵葉書や大きな写真のポスターや、よく集めたり、お土産のもらったものとして「こけし」をはじめとしたその温泉地の人形が多くありました。そして、山などによく売っているペナントやちょうちんなども一時集めました。また、印象に残っているものとして、「おとううさん」「おかあさん」などと書いてある湯の茶碗や箸や、太い大きな鉛筆などがあります。どうしてこれが温泉地と関係あるのでしょうね。
温泉場の遊技場といえば、「スマートボール」と常設の「射的場」は、昭和時代の温泉街には必ずありました。
射的は、いかにも欲しいと思うような品物が、今にも簡単に落ちそうに並んで人をひきつけます。スマートボールの店には、パチンコ台も置いてありました。もちろん、今みたいにハンドルを廻すのではなく、手打ち台でした。家族で行ったときは、普段、子どもは出入りできないパチンコもすることができました。私の小学生の頃の夏休み絵日記が出てきたので読んでいたら、熱海に行って、家族でスマートボールとパチンコをしたことが書いてありました。しかし、今、私はパチンコをしませんが、その頃も私だけ、お金がもったいないといってパチンコやスマートボールはしなかったようです。
両親は、温泉街情緒あふれる町並みのそぞろ歩きがしたかったようですが、私は外を出歩くよりも、早く宿に戻りたがりました。それは、旅館内にある卓球をやりたかったからでした。映画にもなりましたが、浴衣の前をはだけて熱中した「温泉卓球」です。先日久しぶりに、この温泉卓球を30分ほどやりました。なんとも懐かしかったですね。
投稿者 fujimori : 18:43 | コメント (4)
2008年01月10日 [講演先にて]
大谷石
何年か前にいわゆる御三家といわれる難関校の中学入試問題を見たことがあります、そのときの入試問題で印象に残っているものに、「天ぷらそばに使われている原材料をすべて書き、その主な輸入元を書け」というのと、袋の中に石がいくつか入っていて、「この石でわかることをすべて書け」という問題でした。
いま、パワーストーンといわれるものも含めて、石ブームで、色々な石のコレクションがはやっています。私の園でも、「形や色や手触りを感じてみよう」ということで12種類くらいの石が箱に並べてあります。石には、世界中には色々な特性を持った石が多く、それらの石を使って建物を作ったり、石垣にしたり、石畳にしたり、石像を作ったり、人は昔から利用してきました。
今日、講演に行った宇都宮には、1932年に建設されたカトリック松が峰教会という教会があります。この教会は、1982年、日本建築学会「日本近代建築総覧」に選定されたのをはじめとして、1998年には国の「登録有形文化財」に指定されたり、いろいろなものに選定されている綺麗な建物です。そのひとつの特徴が、軽石凝灰岩の一種である大谷石を使っており、2006年には、「大谷石百選」にも選ばれています。
この大谷石は、栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材で、耐火性にすぐれ、石の重量が軽く、石質が柔らかいため、加工が容易であることから、古くから外壁や土蔵(石倉)、防火壁、貼石、石塀、門柱、敷石、石垣、土止め石(擁壁)等、建築素材として使用されてきました。宇都宮駅周辺では、この教会だけではなく、古くから、石蔵をはじめとした建築物の外壁、プラットホーム、石垣や階段、門柱に大谷石が盛んに利用されています。宇都宮駅東口の餃子像も大谷石造でした。1922年、アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトの設計による東京の旧帝国ホテルに大谷石は利用されました。その玄関部は現在、博物館明治村に保存されています。また、室内にも、その耐火性・蓄熱性の高さからパン釜やピザ釜等、石釜の構造材としても用いられています。
この大谷石は、日本列島の大半がまだ海中にあった新生代第三紀の前半、火山が噴火して噴出した火山灰や砂礫が海水中に沈殿して、それが凝固してできたものとされています。その利用は、6、7世紀に切石積横穴式石室を持つ古墳に加工が容易な大谷石等が多く用いられていたり、741年には、現在の栃木、下野国分寺・下野国分尼寺の礎石、地覆石、羽目石に使用されていたり、810年には、大谷寺の本尊(大谷観音)が弘法大師によって大谷石の彫りを完成させたといわれているように歴史的にはかなり古いようです。
現在では、大谷石採掘も手堀りから機械堀りへとなり、昔と大きく変わってきていますが、地下30mには「大谷石地下採掘場跡」があり、その大きさは、野球場が1つ入ってしまう程の巨大な地下空間で、古代ローマ遺跡を思わせる壮観かつ、幻想的な雰囲気となっているようです。ですから、その空間は、コンサートや美術展なども開かれ、イベントスペースとしても注目を集めています。今回はそれを見ることは出来ませんでしたが、タクシーを途中で止めてもらって切り出した後の岸壁を見てきました。
大谷町ならではの大谷石関係の様々な遺跡などを使った町おこしを、もっと積極的にやればいいのにとタクシーの運転手さんと話をして会場に向かいました。
投稿者 fujimori : 23:10 | コメント (3)
2008年01月09日 [講演先にて]
寝台車
今日の新聞に、JR旅客6社の年末年始期間の新幹線、在来線の利用状況が発表されていました。その中に、寝台急行「銀河」の乗客は期間全体で同32%増の3700人、乗車率は前年の64%から82%に伸びたことが取り上げられていました。
私が中学生の頃、この寝台車「銀河」に乗って、父親と関西に行ったことがあります。この寝台急行「銀河」は、東京駅~大阪駅間を西日本旅客鉄道(JR西日本)が東海道本線経由で運行している寝台急行列車です。それが、この3月14日の運行を以って廃止されることが決まっています。
この「銀河」は、現在唯一の寝台専用急行列車で、昭和25年に日本で初めて急行列車に名前が付けられた伝統ある列車です。現在この列車がビジネス客に人気なのは、東海道新幹線に平行している区間の設定ながら、新幹線の最終列車が出たあとに出発し、翌朝には始発列車の到着前に目的地に到着できるように設定されているからです。また、特急でなくて急行なのは、東京-大阪間が556.4kmしかなく、特急らしい速度で運行してしまうと、始発/終着のいずれかが有効時間帯から外れてしまうためのようです。
寝台車そのものの考案は1865年ですが、大衆乗客向けの簡易な構造を採った寝台車は、1910年代に北欧に出現したのが最初のようです。日本の寝台車は山陽鉄道が、1900年に一等寝台車、1903年に二等寝台車を導入したのが最初です。この二等寝台車はB寝台車と改名されています。
私が久しぶりにこのB寝台に乗ったのは、少し前に書いた釧路から札幌までの強行軍のときに釧路から札幌まで乗った「特急まりも」です。季節は冬でしたので、雪原を夜行列車が光の長い帯をひいて走る幻想的な光景を想像していたのですが、実際の乗ってみると、乗っている本人は、窓から見える真っ黒な景色しか見えず、しかも、狭い通路を挟んですぐ前に二つの寝台、上にも寝台で、知らない人に囲まれての夜は、この年齢になるとなかなか寝付けるものではありませんでした。
また、「サンライズ出雲」と「サンライズ瀬戸」という夜行寝台に乗りました。この列車は、東海道本線、山陽本線を走り、岡山で分割・併結して、そのあと「サンライズ出雲」は、伯備線、山陰本線を経て出雲市まで、「サンライズ瀬戸」は、宇野線、本四備讃線、予讃線を経て高松まで運転しています。
車内は住宅メーカーと共同で設計し、木の温もりを生かしたインテリアに統一され、寝台は全て個室で、設備も多様です。高松に行ったときは、先方がシングルデラックスを取ってくれました。優雅にくつろぐための、この部屋だけのサービス設備として、幅の広いベッドや独立したデスクの他、衛星放送が3チャンネル楽しめる液晶TVや洗面台があります。また、列車には、シャワー室が設置されていて、1階利用できます。最初、お湯は6分間しか出ないので、その時間内に洗えるか心配しましたが、止めた時間はカウントされませんので、十分洗うことができました。シャワーの利用が終わったあと、ボタンを押すと、水が出て次の人の為にシャワー室の洗浄が始まります。脱衣室も温風が出て、乾燥されます。本当はそのボタンは出るときに押すのですが、服を着ながら押したので、下から突然熱風が出てきて、びっくりしました。講演先では、色々な体験をさせてもらえます。
投稿者 fujimori : 22:45 | コメント (4)
2008年01月08日 [近頃思うこと]
現場から
画家「アンカー」は、子どもたちの詳細な観察に基づくエッセイを執筆していますが、画家として、対象物をよく見ることは日常だったのでしょう。しかも、画家におけるその外見だけでなく、内面までも見ようという姿勢は、ピカソの絵を見てもわかります。また、ロダンのバルザックの彫刻を見てもわかりますが、ざっくりした、体の線を隠すような服を着ている姿を表すために、まず、何も着ていない裸体の像を制作しているように、その人を覆い隠しているものを剥ぎ取って、その本質を見ようとしました。
子どもを対象として見るときに、いまは、あまりにも情報が多すぎます。その情報による刷り込みや、情報による育児知識の蓄積が、時として実際の子どもを覆いつくしてしまっていることがあります。また、実際の姿よりも、数値で現れたものの方を信用してしまうことがあります。例えば、子どもの具合が悪く、ぐったりしていても熱がないからといって出歩いてしまったり、おなかがすいていなくても、時間だからといって無理やりに食べ物を口に詰め込んだりしてしまうことがあるのです。もっと、直接に見ている目を信用してもよい気がします。
私が、学校建築の研究で小学校に勤務し、1年生を担任しているときに、教育書はほとんど読みませんでした。目の前にいる子どもをまず、よく観察したのです。そして、その子どもたちの生活環境を見ました。朝、登校するときは、学区域の端まで行き、そこから登校する子どもたちと話しながら学校まで行きました。その通学路を1週間ごとに変え、さまざまな子どもたちと会話する中で、その地域に住む子どもたちの関心事や、今話題になっていることなど口コミから探ったのです。
このブログでも取り上げたことがある、現在、赤ちゃん学会理事長であり、小児科医の小西先生がある雑誌の対談で、最近の脳科学ブームについてこんなことを言っています。
「まず考えなければいけないのは、脳を育てることが大事なのか、子どもを育てることが大事なのかということです。それはもちろん子どもを育てることで、脳を育てるわけではけっしてない。こう考えると、今抜けているのは脳科学ではなくて、むしろ行動学的観察です。子どもを理解することがなくなっている。そこをまずきちんと見ていかなければいけません。」
子育てをしている親たちは、目の前にいる子どもをよく見ないで、育児情報を通して子どもを見ることが多いような気がします。育児情報にわが子を当てはめようとするのです。しかしそれは、どうも逆のような気がします。
育児を科学化することは大切です。しかし、そのために小西先生はこう言っています。「育児を科学するためには、子どもを知らない脳科学者ではなく、臨床をやっている小児科医や小児精神科医がきちんとしたデータを出さなければいけない。現場ともタッグを組んでいかないといけない。現場から、日ごろの子どもとのかかわりをきちんと整理して、問題点を出して、小児科医などに投げかけてもらいたい。見てきたこと、経験してきたことを大事にして、これがわからない、知りたいから研究してほしいと投げかけていただきたい。」
やはり、育児は現場で起きているのです。
投稿者 fujimori : 23:42 | コメント (5)
2008年01月07日 [近頃思うこと]
アンカー2
アンカーが描いた「よく遊べ、よく学べ」について、どのような考えを持っていたのでしょうか。「最初に子どもの視点から教育を考えたのはルソーであった。子ども時代というものが、独立した人生の一時期であり、それ自体で価値あるものとしてみなされたのである。ペスタロッツィ社会に、とりわけ教育をほどこす母親と教師たちに、子どもの発達と年齢にあった玩具に対する関心を惹き起し、子どもの遊びを教育的な見地から評価した。ドイツの教育改革論者フードリヒ・フレーベルは尊敬するペスタロッツィに学ぶためにスイスを訪れ、その後1840年に世界最初のキンダーガルテンと呼ばれるようになる幼児学園を設立したり、幾何学的な積み木をも考案した。これはアルベール・アンカーが1894年に描いた「託児所」で就学全の児童がまさしく遊んでいる玩具である。
その教育理念とは、子どもに既成の遊具ではなく、その子どもの素質に適合した、創造的かつ活動的に遊ぶことができるような「素材」を与えるのがふさわしいというものであった。アンカーは、子どもは遊びを通じて自分を取り巻く世界というものに慣れ、その一員となっていくことができるという、フレーベルと同じ考えを持っていた。」
アンカーは、「子どもの生まれた日から」と題する、子どもたちの詳細な観察に基づくエッセイを執筆し、自らの意見を表明しています。この中で彼は、乳飲み子がまず何でもない遊びによって自分の手を発見し、はじめは自分の意思でコントロールできないものと認識するのですが、ついにそれが自分のものであることに気づくまでを描写しています。
「小さな子どもというものは、自分の手が自由に物を動かすことができ、また様々な手触りを感じたり何か振舞ったりできるものであることを体得し、このような経験から子どもは自身の人格と周囲の世界との境界を学び始めるのである。遊具とは、ごく素朴なものであってさえ、子どもに楽しみながら独創的な行動を起こすきっかけを与え、感受性を目覚めさせるものなのだ。手に握ったガラガラを喜ぶ小さな子どもから、集団で競う遊びに興ずる少年少女まで、彼は子どもの発達段階に応じた遊戯を持たせて描くのである。」とカタログに書かれています。
よく言われていますが、「遊び」の目的は、世界を学び、そして経験を増やすことであり、それは、子どもたちは、見たり、感じたり、しながら世界を広げていき、しだいに転がしたり、触ったり、投げたり、ものを口に入れたりすることで世界を切り開き、学び始めるのです。ですから子どもたちの活動は、遊びであり、物事を学ぶのに最適な方法であり、すなわち「よく遊び、よく学べ」というのは、いっぱい遊んで、そのあとで勉強しなさいということではなく、いっぱい遊ぶことが、いっぱい学んでいることになるということで、いわゆる大人の慰安としての遊びの要素と少しちがうのです。そして、玩具とよばれる子どもたちの遊びの道具は、子どもたちに想像力を養いながら学び、使い、管理、創造、発明するための大切な手段です。ですから、成長の手助けをする玩具の選定のために、大人たちは、子どもたちの発達をよく理解し、それを環境として用意しなければならないのです。
そんなことがアンカーの絵画からも感じることができました。
投稿者 fujimori : 23:47 | コメント (4)
2008年01月06日 [散歩]
アンカー
今日、渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムに、19世紀スイスの自然主義の画家「アルベルト・アンカーの回顧展」に行ってきました。彼の名前は知らなかったのですが、この展示内容に興味を惹かれました。それは、展示されている絵のモチーフと、その展示の区分が、カタログでもそうなっているのですが、「故郷の村」「静物画」「よく遊べ、よく学べ」「教育と学習」「肖像画」「アンカーと風景」「ファイアンス陶器」となっています。
アルベール・アンカー(1831-1910)は、「スイスの中央部のインス村出身の、19世紀のスイスで大変な人気を博した画家です。日本ではあまり知られていませんが、国民的画家としてスイスの人々に親しまれ、その作品は国内の多くの美術館に所蔵されており、没後100年近く経つ現代においても、その人気は衰えることがありません。」と展示のはじめに書かれているように、スイスではとても人気があるようです。今日の展示を見てもそれが納得いくような、テーマにおいてもそうですが、やさしい、暖かな視線を子どもを中心に注いでいます。
描かれている対象は、生まれ育った故郷インス村の情景です。「おじいさんが子どもたちに話をしている情景」「赤ん坊の世話をする少女」「子ども同士で遊んだり関わっているすがた」など、 村の子どもや老人などの日々の生活を題材に様々な世代が幸せに共生している姿を描いています。とくに、無垢な子どもたちの姿には、無条件で人をなごませる何かがあり、疲れた心を癒すパワーがあります。

おじいさんと二人の孫
さまざまなジャンルに才能を発揮したアンカーですが、彼が最もよく知られているのは子どもを描いた作品であり、とりわけ「遊んでいる子ども」というモチーフにこだわりました。このモチーフをここまで追求した画家もめずらしいといえます。アンカーは、晩年は「子どもの生まれた日から」というエッセイを執筆し、インスの教育行政にも積極的にかかわっていたことからも、もともと子ども好きであったことはいうまでもありませんが、展示にはこう書かれています。
「19世紀のヨーロッパは、子どもに対する教育に大きな変化が起きた時代でもありました。先駆的であったスイス人ジャン=ジャック・ルソーや、ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッツィの人間主義的思想は、アンカーの芸術にも影響を及ぼしていたと考えることができます。ルソーは、子ども時代というものが独立した人生の一時期として価値あるものとみなし、また、ペスタロッツィは、子どもの玩具は教育的な見地からふさわしいものを与えるべきだと提唱しました。それに呼応するかの如く、アンカーは無心に遊ぶ子どもたちの姿の中に理想郷たる村の情景の中でも最高の至福を見出していたにちがいありません。
また、アンカーは遊んでいる子どもばかりでなく、学ぶ子どもたちの様子も多く描いています。これもまた、当時のスイスにおける学校教育の変化を反映したもので、かつては採用されていた権威主義的な授業に代わって、なごんだ雰囲気の授業の様子や、楽しそうな遠足の様子などが積極的に取り上げられています。」
どのように子どもを捉えていたか、その子どもを描いた絵画のモチーフから考えてみたいと思います。(つづく)
投稿者 fujimori : 22:04 | コメント (3)
2008年01月05日 [近頃思うこと]
変化する言葉
昨日のブログで「白羽の矢が立つ」という言葉を検証しましたが、この言葉の使い方が間違っていることが多いということが文化庁の調査で例として出ていました。
よく、「美術館建設の候補地として、この村に白羽の矢が当たった」などと使うことが多いのですが、実は、「白羽の矢が立つ」というのが本来の言い方であるので、「白羽の矢が当たる」は間違った使い方のようです。その使い方が気になるかどうか尋ねた結果、「気になる」が58.3%と過半数を占め、「気にならない」の35.3%を上回っていたそうです。その気になり方も、やはり年齢によって違うようで、年齢別に見ると、「気になる」の割合は、30代が65.5%と最も高く、16~19歳が48.3%と最も低くなっています。言葉の使い方が、時代のよって変化してきていることがわかります。
同じようにお正月に関する言葉として使い方がおかしい例があります。
「今年の元旦の夜は、みんなで初もうでに行こうよ」という表現です。本来「元旦」という言葉は、「元日の朝」を表すことばですので、「元旦の夜」は矛盾した言い方になるのです。しかし、この使い方は、おかしいと思う人が多いだろうと思ったとおり、「気になる」が53.2%と過半数を占め、「気にならない」の40.8%を上回っていました。
このような調査は、1954年に時事通信社調査室と(旧)国立世論調査所を母体として発足した(旧)総理府認可の社団法人の「中央調査者」が行っています。この調査の実施サンプル数は、年間約60万サンプルもあるそうです。所管官庁としては、内閣府です。
ここで取り上げている調査は、「目立つ慣用句の誤用、部下に対して「お疲れ様」?-文化庁の「国語に関する世論調査」結果から」の中の「重複表現と成語の誤用」というものです。これは、言葉の意味が重複する言い方や本来の言い方とは異なるが最近耳にする言い方の例を五つ挙げて、その言い方が気になるかどうかを尋ねた調査結果です。
ほかの例では、「うそをついてあとで後悔した」という表現は、「後悔」が後になって悔やむという意味であるため「あとで後悔」は意味が重複しているというものがあります。これも「気にならない」が54.4%と過半数を占めているだけでなく、16~19歳ではなんと、「気になる」人は17.2%しかいません。
ほかには、「早起きして行ったのに、順番を一番最後にされた」という表現は、「最後」が一番終わりという意味であるため「一番最後」は意味が重複しているとか、「その方法は、従来から行われていたやり方だ」は、「従来」という言葉が「以前から」という意味であるため、「従来から」は意味が重複しているなどが挙げられています。
このような結果に対して、最後に「言葉は、その社会を如実に表すものであるため、時代の変化とともにその表現や使い方は変化するものであろう。一方で言葉は、先人の知恵であり、その国の文化のひとつであるといえる。時代に応じた言葉を使いながらも、言葉本来の意味を知り、正しい日本語を認識することが大切ではないだろうか。」とまとめられている意見は、私も本当に同感します。
投稿者 fujimori : 21:46 | コメント (5)
2008年01月04日 [由来]
矢
今日は、仕事始めでした。正月ということもあって、同じ町内にある「氷川神社」に職員と破魔矢を買いに行きました。破魔矢は、わざわいや悪霊を払いのける破魔弓の矢のことです。これは、は武家の風習で、戦場に赴く前に武運長久を祈願して神社に甲冑・刀・槍・弓矢などを奉納した際、参拝した神社から守護神のご加護の証として模擬の弓矢をいただき、これを戦場での御守護として奉ったことが発祥の由来と言われています。それが、江戸時代の後期には一般庶民の間にも広がり、男児の成長を祈願して神社に参拝した際に、破魔矢と破魔弓をセットしたものを授かったとされています。また、明治以降は、魔を射り破るという意味合いから魔除けの弓矢と言われ、現在では主に初詣に神社へ参拝した際に、「開運厄除・家運隆昌」を祈願して祀ります。
しかし、小型の弓にお守りなどをつけた神社の縁起物の「破魔矢」という言葉は、もともとは破魔矢奉製所という会社の商標登録でした。それが、一般的になったため、数年前に商標登録の更新をしませんでした。ですから今では普通に使われることが多くなりました。しかし、明治神宮の矢は守護矢と言いますし、鏑矢(かぶらや)ともいいます。「鳴りかぶら」ともいい、射ると先端の鏑が鳴り、戦場で戦いの合図として最初に射る矢のことで、今でも物事のはじまりを「嚆矢」(こうし・鏑矢の意)といい、また昔から祓の意味でも射られていました。
また、富岡八幡宮の場合は、破魔矢のことを「開運白羽の矢」といいます。ここへは、今年家族で初詣に行きました。この八幡宮は、永代橋の近くの門前仲町にあり、下町情緒が残っていて、下町育ちの私としては、とても懐かしいにおいがしました。
富岡八幡宮の社殿によると、寛永4年(1627年)、菅原道真の末裔にあたる長盛法印が、弘法大師作の八幡大菩薩像を常に信仰していたところ、ある夜、「武蔵野国の永代島の白羽の矢が立っている場所に私をまつりなさい。」とのお告げを受けました。お告げどおりに永代島にやってきた長盛は夢の託宣の通り白羽の矢が一本納められているのを見つけ、創祀したのが富岡八幡宮といわれています。毎年正月に授与される「白羽の矢」は上記の故事に由来し、「開運吉事の当り矢」と呼ばれ、開運、除災招福、家内安全に大きなご利益があるといわれています。最近では受験生の合格祈願のお守りとしても人気です。
しかし、もともと白羽とは「真っ白な矢羽」のことで、こんな逸話から来ています。「賀茂川の川上から白い羽の付いた矢が流れて来た。少女が神に捧げる水を汲んでいたところ、矢が水桶のところでぴたっと止まった。不思議に思った娘は矢を持ち帰って軒にさしておいた。すると、たちまち彼女は懐胎して男児を出産した。白羽の矢は、神がその子供を生ませる少女を求めて流したものだった。」ということで、人身御供を求める神が、望みの少女の家の屋根に人知れず白羽の矢を立てた、という俗説に基づく言葉で、犠牲者として選び出されることを指しました。しかし、この話の神意で大役を押しつけられるさまから、今では、多くの人の中からこれぞと思う人が選ばれる事、大切な任務に抜擢されたような場合に使います。
伝承されていくものと、進化していくものと、変化していくものがあるのですね。
投稿者 fujimori : 22:23 | コメント (3)
2008年01月03日 [近頃思うこと]
ジーンズ
私は、今年50歳代最後の年を迎えました。50歳代といえば、私は、「五十にして天命を知る。」という言葉が耳に響きますが、最近は、「ジーンズフィフティ」と呼ばれるそうです。グループサウンズ、フォークソング、ビートルズに象徴される若者文化をつくり上げ、現在の世相の源流をなしている世代です。新宿京王デパートが、お年寄りを対象にした戦略で成功したといわれますが、少し前の時代のお年寄りの研究では、巣鴨の刺抜き地蔵商店街に行ってみればよいといわれていましたが、団塊の世代では、体型は変わっても、いつまでもジーンズを履きたがる世代といわれています。後に続く世代の見立てによると、この世代は「自分流」や専門へのこだわりが強いのが特徴だそうです。
ジーンズフィフティは若いときにジーンズで学校や仕事場に行き、いまでも家ではジーンズを履いているといわれていますが、私は、今、普段ほとんどジーンズは履きませんが、大学生の頃は、4年間すべてジーンズで過ごしました。そのときにどのジーンズメーカーのものを穿くかはそれぞれの趣味によっていました。私は、いつもBOBSONを愛用していました。この頃、日本ではジーンズメーカー3社があり、生産本数や歴史などから世界3大ジーンズメーカーとも呼ばれていましたが、どれも日本のメーカーです。
EDWIN(エドウィン)は、1950年代に常見米八商店の商号から発展したTUNEMIが、中古ジーンズをアメリカから輸入し市場に提供していたものから、1960年代に入り、日本で初めて独自の製法によりジーンズを製造・販売するようにしたもののブランドです。このブランド名は、デニム(DENIM)の「D」と「E」を逆転し、「NIM」を180度反転し「WIN」として命名したといわれています。
BIGJOHN(ビッグジョン)の社名は創立者、尾崎小太郎の名前に由来しています。当時、岡山で学生服の縫製を行っていた同社は、ジーンズの製造販売に着手します。オリジナルブランドのジーンズを発売する際に、ブランド名をどうしようかと思い、創設者の小太郎から、「太郎」は、日本でメジャーな名前、「JOHN」はアメリカでメジャーな名前であることから、「SMALL JOHN」としますが、「SMALL」では大きな商売はできないと判断して、代わりに「BIG」にして、「BIGJOHN」にしました。
BOBSON(ボブソン)は、1950年に学生服や労働着のメーカーとして設立された山尾被服工業株式会社が、1970年になってからジーンズの生産に入り、翌71年にボブソンブランドが誕生し、販売へと発展していきました。ちなみにボブというのは、当時のアメリカではポピュラーな名前から、「アメリカ」の象徴として使われました。
現代のジーンズは、ヨーロッパで生まれたデニムを、アメリカに持ち込んだリーバイス・ストラウスの発案により誕生したといわれています。フランス産のデニムを、ゴールドラッシュにわくアメリカ西海岸でテント地としてヒットさせたリーバイ・ストラウスが、その生地をインディゴで虫除け、蛇避けを兼ねて染めたものが、ブルーデニムであり、ジーンズの発祥です。私の世代になんといっても影響を与えたのは、1955年の映画「理由なき反抗」でジェームズ・ディーンが着用していた事です。ちなみに彼は、リーのジーンズでした。
今後、日本全国で、さまざまなジーンズフィフティが新しいライフスタイルを生み出していくことでしょうね。
投稿者 fujimori : 21:52 | コメント (4)
2008年01月02日 [近頃思うこと]
四天王
皆さんは、どこに初詣に行かれましたか?私の地域で初詣に行くとすれば、一番に高尾山が挙げられます。私の父親は、生前は、毎年必ず紅白歌合戦が終わると高尾山に出かけました。私も何度か付き合ったのですが、最近は、自分では、めっきり正月には行かなくなりました。その高尾山ですが、今年は少し違うようです。それは、先日、フランスのタイヤメーカーミシュランが選ぶ三つ星観光地に選ばれたからです。高尾山は、四季折々の美しい自然や、変化に富んだ6つのハイキングコースがあり、年間約250万人が訪れる観光名所として有名です。それが、都心から交通の便がよい上、大都市近郊に豊かな自然が溢れているという点が、三ツ星に選ばれた決め手のようです。
また、ここが初詣の場所として人気があるのは、霊山としても長い歴史を持ち、山腹にある「高尾山薬王院有喜寺」は真言宗智山派の大本山で、成田山新勝寺、川崎大師平間寺とともに、関東三山のひとつにもなっているからです。高尾山薬王院は、奈良時代の8世紀半ばに聖武天皇の勅命により高僧行基によって創建されたとされます。行基が、薬師如来を刻んでご本尊として安置したことから、薬王院の名がつけられたということです。その後、弘法大師空海はこの山で祈祷をささげ、不動明王像を刻んで安置しました。やがて、当寺は真言宗智山派の大本山となったのです。
先日、久しぶりに訪れました。ケーブルカー山頂駅から少し歩くと、巨大な四天王門の前にでます。この四天王門は、桜門形式という八脚門で、門内には、増長天、持国天、多聞天、広目天の四天王の像が安置されています。四天王とは、須弥山(しゅみせん=仏教で世界の中心にそびえ立つ高山)に住む帝釈天の輩下として、山の中腹で四方を守護する神といわれています。それぞれ甲冑をつけ、忿怒の形相をしており、手にいろいろな武器を持っています。この四天王の像の下に、それぞれ、どんなことを目指しているかが書かれてありました。私は、それを読んで、2008年度に取り組まなければならない思いを新たにしました。
持国天は東を守護し、手に独鈷を執り彩色は青です。「よろいかぶとに身を固め 鋭い独鈷を光らせる 心の悪魔をうちくだき 清らかな社会を守ります」
増長天は南を守護し、手に剣を持ち彩色は赤です。「剣を手にして勇ましく、無数の鬼を懲らしめる おごれる心をうちのめし 安らかな社会を守ります」
広目天は西を守護し、軸と筆を持ち彩色は白です。「軸と筆とを手に持って 澄んだまなざし さしむける 広く見る目でしっかりと 大きな社会を守ります」
多聞天は北を守護し、右手に槍を持ち、左手に宝塔を載せています。彩色は黒です。「宝塔槍を手に持って 素直に耳を傾ける 福徳たちまち集まって 豊かな社会を守ります」
心の悪魔を打ち砕き、おごれる心を打ちのめし、広く見る目を持ち、素直に耳を傾けたいと思います。そして、清らかで、安らかな、大きな、豊かな社会にしていかなければならないのでしょう。こんな言葉に出会ったのは、何かの啓示かもしれません。
投稿者 fujimori : 20:23 | コメント (4)
2008年01月01日 [近頃思うこと]
正月と家族
あけましておめでとうございます。年が明けて、気分を新たにいろいろなことに取り組んでいきたいと思っています。そんな新たな気持ちで正月を迎えたいと思い、少女は大晦日に、父親からマッチを売りに行かされます。しかし、誰にも振り向いてもらえない少女は、自分のためにマッチを使い、自分を受け入れてくれるおばあさんと一緒に天国に行きます。また、おじいさんは大晦日に笠を売りに行きました。しかし、笠は売れませんでしたが、その笠を地蔵さんにかぶせてあげ、足りない地蔵さんの分にも自分の手ぬぐいまであげてきたおじいさんを、やさしく迎えたおばあさんと迎えた正月は、もっと多くのものを得ることができました。
やはり、お正月だけでも、誰かと一緒に過ごしたいと思います。しかし、「元旦“おせちなし”2割 家族バラバラも 首都圏調査」という記事が、大晦日に掲載されていました。元旦の食卓におせち料理の姿はないうえ、家族がそろっていても、各自別々のものを食べている――。そんなお正月の光景が、広告会社「アサツー ディ・ケイ」(東京)の調査で浮かび上がったというもので、小学生が家族そろって夕食をとる頻度が年々減少する中、年に一度のお正月であっても「個食化」している様子がうかがえるといっています。元旦におせち料理を全く食べない家庭は、全体の約2割。自分で作ったのは「煮しめ」が43.5%、「なます」が45.9%。99~00年の同様の調査と比べると、実家に作ってもらう率は「煮しめ」で5倍、「なます」で2倍に増えたそうです。代わりに、家族めいめいが好きなものを食べる個食化が進みつつあることも推察され、調査をまとめたアサツー ディ・ケイのデザイン室長の岩村さんは「家族がそろう年末年始も、みんな同じメニューでは妥協できなくなった。個々ばらばら、好き勝手、深くかかわらず、たまにノリで一緒に盛り上がれればいい。食卓の崩れに、そんな家族像の変容がうかがえる」とみています。
私は、単純に味覚の変化であったり、生活の変化のこともあり、必ずしもこの結果がまとめられている単行本「普通の家族がいちばん怖い」(新潮社)に書かれているような、家族の体をなしていない、それぞれが好き勝手なことをしたがり、みんなが「楽しく」あるために親は嫌なことを回避するという家族像には直結しないような気がします。直接子どもと関わる仕事をしていると、親が子どもへの対応は時として間違えることはあっても、この本に書かれているような「子供に嫌われるしつけも、面倒な料理もパス。年賀状の家族写真の笑顔は虚構そのもの。壊れた家族の現実は、ホラーより怖い。」というのは言い過ぎのような気がします。
もともと、おせち料理が現在のような形になったのは江戸時代の後半です。日本の伝統食とはいっても、いわゆる『おせち料理』の歴史は200年余りしかありません。しかし、おせち料理は、江戸の粋やユーモアを凝縮した庶民文化が伺え、今で言う駄洒落の世界があります。まさに、おせち料理は庶民文化が花開いたものですので、その時代にあった種類とか、形や盛付けがあって良いと思います。そんな形式にとらわれるよりも、新たな年を祝う心、家族の息災や繁栄など、「おせち料理」にこめられた心を知り、家族でワイワイと語り合いながら、みんなで食べるのだけは忘れないでほしいと思います。