江戸の美意識

 もうずいぶん前のことになりますが、若い人が「超ダサい」というように、何かにつけて「超○○」と言っていたことがありました。これは、「とても」とか、「非常に」という意味でしょうが、なんとなく、それとはちがう驚きの響きが入っているのでしょうね。そのような言葉に、主に関西で使う「ど」があります。「ど根性がえる」の「ど」です。頭に「ど」をつけて、オーバーに大きく表現するときに使います。「ど貧乏」「どえらい」「どでかい」「ど真ん中」などと使い、私が子どものころのけなし言葉に「どすけべ」などもありました。
 しかし、どうも、こういうように物事をオーバーに言うのは、江戸では、「粋ではない」と思われていたようです。この「ど」のように頭につけてその言葉のニュアンスを少し変える言葉で、江戸の美意識を表したものに「こ」というのがあります。これは、粋のなかから出てきたことばです。この「こ」をつけてその言葉の響きから来るニュアンスを変えました。
 たとえば、「小綺麗」「こざっぱり」「小気味いい」「小粋」「小じんまり」「小ぎれい」とか頭に「こ」がつきます。また、肉体と結びつけて「小耳を傾ける」「小首をかしげる」「小腰をかがめる」「小手をかざす」「小股の切れ上がった」「小膝をたたく」などに使われている「小」は、抑制をあらわす副詞です。「日本の美学」安田武・多田道太郎 編(ぺりかん社)という本には、「古くから持ち続けている日本人古来の美意識は、世界と比べ非常に独特なものである」といっています。その中に、「小(こ)というもの」を考察した部分があります。「この言葉が出てきた背景には、何事も一歩下がって、控えめで目立たないようにしようとすることからきている。「小手をかざす」というのは、ちょっと手をかざすことで、「小膝をたたく」は、大げさにたたかないこと。つまり、そこには研ぎすまされた「抑制」と「慎み」が存在する。人が自身の感動などの喜怒哀楽を大げさに表すことは、なんだかおかしいし、はずかしいことであるといった意識があり、そこには、型の美学、日本人独特の美意識が垣間見えるのではないか」と書かれています。ちょっとした?を表すいい方ですね。
 逆に、「ど」ほど大げさではありませんが、やや強めていう場合に「こ」を使うこともあります。たとえば、「小気味がいい」というのは、(手際のよさや鮮やかさに)快い感じを受ける。痛快である。ということで、「気味」をやや強めて言う言葉ですし、「小ぎたない」は、小ぎれいと正反対で強調の「小」です。
 また、「小」が付くと言葉の意味が変わってしまうものもあります。「小ざっぱりした服装」とはどのような服装か。という問題がありました。三択で、A:清潔で感じがよい服装 B:もの静かで落ち着いた服装 C:地味で飾り気のない服装 答えは、[A]です。全く意味が違ってしまうのは、「小利口」は、おばかさんのことで、「小役人」は、ずるい人のことをさします。「小姑」も、配偶者の姉妹ですが、意地悪なニュアンスが入ってきますし、「小悪魔」は、可愛い女の子を指しますが、そこには、悪魔的な誘惑が感じられます。
 この微妙さは、日本古来の美意識かもしれません。

 江戸文化の中に、「通」と「粋」があります。「粋」も「通」も、主に関東で使用される美意識です。ところが「粋」の美学は関西ではありえないそうです。関西では、「粋」よりも「雅」が大切にされているようです。
 関西でも「粋」という言葉はありますが、関東では、「粋」を「いき」と読みますが、関西では、「すい」と読むようです。しかし、関西で、粋(すい)な人を「粋人(すいじん)」といいますが、江戸の言葉には粋人(いきじん)という言葉はありません。関西の粋人は、江戸では「通人(つうじん)」と言います。どうも、関西の「粋(すい)」は、関東では「通」に近いようです。「通人」とか「粋人(すいじん)」は、人情とか物の道理をきちんとわきまえている人とか、いろんな知識を持っている人とか、あるいは花町や文化・芸術に対して、とても詳しい人のことを指していいます。人情や世態・色事などに通じる事を意味しています。ですから。「通」とか「粋(すい)」とは、ある分野のことがよくわかっているとか、こういう色をしているとか、行動によってそれをあらわすことができることで、行動の原理だといわれています。
 それに比べて、江戸で言う粋(いき)はまったく意味が違うようです。ある行動を表すのではなく、ある生き方とか生き様とかが生む美意識なのです。日本のことを良くわかっている外国人が、「粋(いき)という言葉は、「シック」だとか「スマート」だとか「エレガンス」という言葉では全然かなわない、違った次元の美意識であり、洗練された美である」と言ったそうです。
 この「粋」という江戸深川の町人の間に発生した美意識(美的観念)は、身なりや振る舞いが洗練され、格好よいと感じられていました。そうでないことを関西では、「無粋(ぶすい)」といいますが、関東では、「野暮」といい、「野暮ったさ」は格好悪いとされていました。
 では、「粋」とは、どんな美意識だったのでしょうか。「張り(意気地)」「媚態」「垢抜け」の三つ条件が必要であると定義されています。例えば、どんな姿として現れているかといえば、女性に対して「湯上り姿」「ほっそり柳腰」「流し目」「薄化粧」という言葉で表されるように、取り澄ましたような気取った色気ではなく、極めて洗練された美しさを伴なう色気が必要だったようです。
 男性では、町人ふうの、渋くあっさりさっぱりして、気前が良く嫌味じゃない気質をさしているようです。言い表し方では、「宵越しの銭は持たない」「人情・世情に通じている」「物事の道理をわきまえている」「財力があってもそれを誇示しない」「目立ちたがり屋ではなくどちらかと言うと照れ屋である」「金銭のことをやたらに口に出さず、無頓着で「けち」ではない」「昔のことにいつまでも執着しない」「未練たらしくない」などといわれることが多いようです。
 また、粋な人が好んだ模様は縞、特に縦縞です。縞模様というのは人間の精神を引き締める柄だといわれています。色については、藍とか紺とか江戸紫や灰色や茶が好みだったようです。とくに、代表的な色は紺で、江戸の商人の「のれん」は紺です。
 私が「紺」を好むのは、ドイツの影響ではなく、江戸育ちの「粋」好みからかもしれません。

  私の住んでいる八王子には、昔ながらの蔵が残っています。その蔵の用途は、時代によって変化をしているようです。蔵の前にこんな説明板がありました。
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「この蔵は明治32年10月に建てられました。以来100有余年、この間八王子の大火、大正の大震災、昭和の空襲等々幾多の危機をくぐり抜け今日に至ります。本格的土蔵造りで建設され、当初は、織物の街を象徴する生糸蔵として使用、戦後、防火対策としてモルタル壁に改装、使用目的も生糸蔵から質蔵へと変わりました。構造は、間口3間、奥行4間の大型のもので、内部は3尺毎に頑丈な欅の柱を使用してのそう2階の建築です。床板の一部を除いてすべて当時のままの姿を留めており、扉、錠前等の金具類が損傷少なく揃っているのも特筆に価しましょう。」
八王子に蔵が多いのは、織物の町ということで、生糸蔵が多かったようです。それが、今でも残っているのは、質屋蔵になったからのようです。そういえば、確かに、蔵作りといえば、質屋を思い浮かべるかもしれません。
 川越にも、多くの蔵造り商家が残っています。最盛期には100軒以上の蔵造り建物が街中にひしめき、町並みを形成していたそうです。この川越に蔵造りの町並みが形成される契機となったのは、明治26年の大火により、同じ惨事を繰り返さないよう、建物そのものを防火建築にすることから、商人たちは競って蔵造り建築による店舗(店蔵)を建てたのです。この頃、東京では既に耐火建築として、レンガ造りや石積みの近代的な建物が造られていましたが、川越商人たちは伝統的な蔵造り建物を選択したのは、伝統工法に固執するわけでなく、レンガや大谷石、御影石などの新しい建築資材も柔軟に取り入れたためのようです。また、東京日本橋の町並みが蔵造り建物であったこともあり、江戸の商人に対する羨望や憧憬もあったようです。
 そのほか、蔵の用途として酒蔵などありますが、今日の会議が行われた台東区蔵前は、私が育った町でもあります。この地名の由来は、当地に、江戸時代に江戸幕府の米蔵(浅草御蔵)があったことに由来しています。
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 この「浅草御米蔵」には、天領から入る年貢米を収蔵して、旗本や御家人と呼ばれる領地を持たない武士達に、「禄」として蔵米を支給していたのです。その蔵の前にあったから蔵前です。貨幣経済が発達したと言われる江戸時代ですが、幕府の財政を支えたのは、やっぱりお米でした。そこで、全国各地から送られる米を運搬するのに水運、つまり舟が使われたので、その米を貯蔵するのには川沿いのほうが都合よかったのです。蔵前は、隅田川に面しています。
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蔵前橋
 ここに御米蔵が建てられたのは1615年のことで、江戸時代の初期、二代将軍 秀忠 の時代に、この一帯の大川端(隅田川の川岸)を埋立てて、3万坪にも及ぶ広大な敷地に幕府の米蔵94棟を建てたといわれています。江戸時代の札差と呼ばれる商人達が集まっていた地で、「通」とか「粋」な文化を競っていました。
 全国どこにでも蔵があります。最近、蔵を残した街づくりや、蔵を喫茶店やレストランにする店も多くなりました。蔵のしっかりした、方形としてのボリューム感は、存在感があります。残したい建物です。

塩スイーツ

 私の先祖の出身地は、長野県の諏訪地方です。そこで、よく行くのですが、その地方のお土産として「塩羊羹」があります。この羊羹は、また、羊羹に使う寒天もこのあたりの名産です。また、長野県は海がないので、塩は何にも変えがたいものだったようで、上杉謙信の美談として「敵に塩を送る」というものもあるくらいです。
 最近、コンビニなどで、塩味をうりにした菓子やデザート「塩スイーツ」をよく見かけるようになりました。塩のアイス、塩のチョコレート、塩のプリンなど、さまざまな商品が登場しています。最初に私が出会った塩スイーツは、「塩キャラメル」でした。塩といってもしょっぱいキャラメルではなく、後味に塩っぽさが出てくるような奥深い味わいです。塩スイーツのブームが本格化したのは去年のことです。例えば日経MJ(日経流通新聞)では「2007年ヒット商品番付」を発表していますが、「西の前頭」として塩系スイーツを選出しています。このブームのきっかけは、フランスの有名職人が作る塩キャラメルの人気だといいますが、ベースとなる味は甘く、そこに塩味を加えることで、素材の味や甘味を引き立てるというのは、昔からスイカに塩を振って食べるのと同じ原理ですね。
 これらのこだわりは、どのような塩を使っているかということです。2006年07月16日のブログで書いたザルツブルグの塩を今でも家で使っていますが、塩キャラメルに使われている塩は、ブルターニュ産のようです。このように、昨年のヒット商品となった塩スイーツの共通点は、多くの商品が海外産の天然塩(またはそれをイメージした塩味)を使っている点のようです。例えば敷島製パンの菓子パン塩スイーツシリーズでは、アルプス山脈で採れる岩塩「アツペンザルツ」を使用、たタリーズコーヒーのソルティキャラメルラテでは、アンデス山脈で採れる岩塩「ローズソルト」を使用しています。
 天然塩が好まれる背景には、世界唯一のキャラメリエ(キャラメル職人)と言われるフランスの職人アンリ・ルルー氏が1977年に発表した塩キャラメル『C.B.S(セーベーエス)』にあります。このキャラメルに用いた加塩バターに、地元ブルターニュで採れる自然海塩が含まれていたからです。そのために、絶妙な塩味が楽しめ、世界中の美食家の間で話題となりました。今でも、通販でも売っています。
 「塩スイーツ」というジャンルができるほど、その名前からして、いかにも外国のもののような気がします。しかし、「塩スイーツ」の発端であるアンリ・ルルーの塩入りバターキャラメルは1977年に発表されていますが、それ以前から日本では和菓子における「塩」は、重要な存在でした。塩羊羹、塩大福、塩飴などの伝統的菓子が数多く存在したように、日本人の味覚は、昔から塩と菓子の相性を知っていたのです。最初に書いた塩羊羹を販売している下諏訪の「新鶴」の案内には、明治6年創業のみぎり、羊羹に塩味を加えることを思いつき、砂糖や餡とのなじみ具合、寒天折り合いに苦心しながら、丹念に練りあげるうちに、塩の調和がもたらす、しっとりした淡雅な口当たりと甘さの間合いを体得し、塩羊羹が生まれたとあります。
 味の世界でも、日本の文化はずいぶんと高度のものを持っていたようです。いろいろな分野で、もう一度日本を見直してみてはどうかと思います。

藤樹の教え

「翁問答」を書いた中江藤樹は、何度かブログで話題にした近江国出身で、江戸時代初期の陽明学者です。出身地から、「近江聖人」と称えられています。15歳で、祖父吉長のあとをつぎ、伊予大洲藩の藩士として禄100石を受けます。そして、27歳の時、母への孝養と身体の健康を理由に辞職し、郷里小川村へ帰ります。ここで、藤樹は、武士や近況の人々を相手に「心の学問」を教えます。名は原、字は惟命、通称は与右衛門といいますが、居宅に藤の老樹があったことから、「藤樹先生」と呼ばれました。
 彼は、様々な書物の中で、色々な有名な言葉を残しています。
「子の不幸は、かならず親の不是なる所を見るよりおこれり」(鑑草)
 というのは、親がわが子のために、ふかい憂いや悲しみにおちいるのは、子どものせいではなく、親のつね日頃のまちがった心がけやおこないを、子どもが見ていることから起こると言っています。親は、誰と接するときでも、自分と他人の区別なく、常にに人をいつくしむ心と、うやうやしい態度にあることが大切になるということで、すべての人間はひとつの根から分れでた兄弟であると説いています。
「それ学問は心のけがれを清め、身のおこなひをよくするを本実とす。」(翁問答)
 そもそも学問というのは、心のなかのけがれを清めることと、日々のおこないを正しくすることが、本来のありようなのです。学問は、知識を得ることが目的ではなく、人格を高めることであると言っています。しかし、返って、知識つめこみのために、「高満の心」にふかく染まっている人が多いことを危惧しています。
 このことから、人と接するときの心得を「五事を正す」といいます。
「貌」(顔かたち)愛敬の心をこめてやさしく和やかな顔つきで人と接しましょう
「言」(言葉づかい)相手に気持ちよく受け入れられるような話し方をしましょう
「視」(まなざし)愛敬の心をこめて暖かく人を見、物を見るようにしましょう
「聴」(よく聞く)話す人の気に立って相手の話を聞くようにしましょう
「思」(思いやり)愛敬の心をもって相手を理解し思いやりの心をかけましょう
このような考え方から、人の評価に対して注意しています。
「人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし。(翁問答)
私たちは、姿かたちや社会的地位、財産の多さなどから、その人を評価してしまうことが多くあります。しかし、すべての人間は、明徳という、金銀珠玉よりも、もっとすぐれている最高のたからを身につけて、この世に生をうけたのです。ですから、そのように人間を見つめると、すべて善人で、悪人はいないことになるのです。その「明徳」とは、どんなものでしょうか。それを和歌に詠んでいます。
「いかで我がこころの月をあらはしてやみにまどへる人をてらさむ」(和歌)
すべての人間は、「明徳」という、孔子や孟子とおなじ心を天から与えられているのですが、だれもそのことを知らないのです。その与えられた輝かしい心をくもらさないようにすることが、よき社会を築きあげる根本だと説いています。輝かしい心すなわち「明徳」を「こころの月」と表現しています。

育児書

 昨日、ブログで紹介した日本で最初の本格的な育児書といわれている「小児必用養育草」を書いた香月牛山は、明暦2年(1656)筑前遠賀郡香月の生まれです。若い頃、「養生訓」を書いた貝原益軒から儒教を学び、次いでまた医を藩医鶴原玄益に学んでいます。ですから、「小児必用養育草」も随分益軒の影響を受けている部分が多いようです。三十歳の時、豊前中津侯小笠原氏の侍医としてつかえた後、さらに14年間医学を学び、44歳の時京都に行き、医者になりますが、61歳の時から85歳で亡くなるまで、小倉に住んでいます。そして、後に江戸中期の後世派の第一人者と称されました。
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 牛山の医説は儒者、本草家としての貝原益軒の実証的研究方法の影響を受けているといわれています。「中華の医書とて誤謬尠なからず、古人の説とて精確なるもののみにあらず」というように、いくら権威のある中国の医学書であっても、必ずしも正しいとは限らない。自分自身の経験からや、十分観察したことから自分の説を説くべきであると主張しています。他の後世派の医家が、自分で見たこと、経験したことから論じないで、先人の論説をそのまま信じ、自分の説にしていることを嘆いています。実際の治療に当たっても、実際的経験の上にたってなされています。
 また、その考えを広く一般大衆にも広めようと、非常に多くの著書を残しています。代表的なものは「小児必用養育草」のほかに、「牛山方考」「牛山活套」「婦人寿草」「老人必用養草」などがありますが、これらの著書のほとんどは仮名混り文で書かれており、大衆啓蒙に務めたことが感じられます。
 乳幼児教育が大切であるということは、様々な人が実証から唱えています。江戸時代前期の寛永18年(1641)に「翁問答」という著作が、中江藤樹によって書かれています。
その中の第1巻「徳教について」にこんなくだりがあります。(現代語訳)
「子孫の教育は幼少の時が肝心である。昔は「胎教」と言って、母の胎内にあるうちから胎児への「母徳の教化」を行った。今時の人は「至理」(至極もっともな道理)を知らないので、幼少の時分には教育がないものと勘違いするのである。「教化」の本質を知らずに、ただ口だけで教えるばかりが教育と思い込んでいるために、このような誤りを犯すのである。根本真実の教化とは「徳教」である。口で教えるのではなく、時分の身を正して道を行い、それによって周囲の人間が感化されていくことを「徳教」というのである。これは、あたかも水が物を潤し、火が物を乾かすようなものである。国土の方角や水土の風気によって、そこに住む人間の気質は少しずつ違いがあっても、言葉付きには本来、京、田舎の差別はないため、赤子の時から京で育てると、関東で生まれた者も京言葉になるものである。逆に、京生まれの者も関東で育てれば関東言葉になるものである。このように、幼い者の心立てや身持ちは、その父母や乳母の心立てや身持ちに見あやかったり聞きあやかるために、父母や乳母の徳教が子孫の教育の根本となるのである。従って、乳母の人柄を吟味し、父母の身を修め、心正しくして、親孝行の道を語り聞かせ、また、身に行って、教育の根本を培養すべきである。」
乳幼児からの教育と同時に、環境が大切であるということも経験から語っています。

微笑み

 ハーンが、日本人の微笑を「美」と感じたようですが、この微笑は確かに日本人の特徴かもしれません。ドイツなど外国の保育園、幼稚園を訪れたときに感じたことですが、どの国でもほとんど保育者は微笑んでいないのです。何を怒っているのかと思うほど怖い顔や、無表情にも思えるほどの顔をして保育していることが多く見られました。この微笑について、元禄16年(1703)に出版された香月牛山の「小児必用養育草」(しょうにひつようそだてぐさ)のなかに、子どもの笑いと発育について書かれている部分があります。中国の王隠君の「赤ん坊が生まれて60日後、瞳が定まる。これからは人を見知って、話しをするように笑う。」という言葉を引用したあとこう書いています。
「赤ん坊が笑い、話すような仕草をするときは、乳人やまわりにいる人がその都度、赤ん坊に話しかけるようにすれば、言葉を話しはじめるのが早いし、人見知りをせず、脳膜炎などの病気になることもない」
 この頃は、今ほど科学が進んでいるわけでもなく、特に脳科学などはほとんど研究されていなかったでしょう。しかし、「生後2ヶ月ともなれば、大人が赤ん坊に笑いかけ、話しかけると、赤ん坊も声を出して笑い、全身でうれしがる。江戸でも、そうした接し方が赤ん坊の発育に有効であることが知られていた。」と「江戸の躾と子育て」(中江克己著)の中に書かれています。この頃は、研究からの育児書ではなく、子どもをよく観察して、その行動からの育児書だったのでしょう。小児科医でもある小西行郎さんは、ある雑誌で、最近の脳科学ブームに対して、こう警鐘を鳴らしています。
「まず考えなければいけないのは、「脳を育てる」ことが大事なのか「子どもを育てる」ことが大事なのか、ということです。それはもちろん子どもを育てることで、脳を育てるわけでは決してない。こう考えると、今抜けているのは脳科学ではなくて、むしろ行動学的観察です。子どもを理解することがなくなっている。」
 足立美術館の庭園設計にしても、木1本、石一個にしても大切に思う心から配置されています。逆に、子どもを育てることも、木を育てることと似ているということを牛山は書いています。
「たとえば、一寸ほどの苗を植え、それが一尺を超えるまで、よく世話をして水をやり、虫や蟻などに食われないようにしたり、芽を折らないように注意をする。このようにして二、三尺まで育てると、そのあとは普通にしていても、その木はかならず抱きかかえるほどの大木になるものだ。しかし、一寸の苗から二、三尺になるまでをよく注意して育てなければ、抱きかかえるほどの木になる勢いがあっても、幹は細く、枝もやせて、何の用にも立たない。そればかりか、二、三尺になる前に枯れてしまう。百尺の松も、一寸のときによく世話をしたから、長い間変わらずに緑を保っているし、七尺の人も一尺のときをよく育てたからこそ、長寿を保つ。ということを知るべきだ。」
 乳幼児期の育て方が、将来大きく影響するといっています。また、この頃丁寧に育てることで、大きくなってからは余り手をかけなくてもよくなると言っており、十分なかかわりは、返って自立を促すということです。小さいうちに手を抜くと、ずっと、手をかけなければならなくなるといっているのです。

美徳

 日本のすばらしさは、「庭」だけではありません。最近、テレビで見たのですが、外国人記者に対して今後の日本経済の取り組みについて話をしていると、話をしている最中に、記者たちが次から次に席を立ち、空席だらけになり、それでも席についている記者の眠っている姿が映っていて、なんだかショックになってしまいました。その後のインタビューでも、外国では日本については期待をしていないからという意見が多く聞かれました。私は、何も日本だけがいいと思っているわけではなく、これから、世界に貢献していくには、日本人としてのよさをもう一度見直さなければいけないと思っています。
 ラフカディオ・ハーンの著作に触れて、もう一度考えてみました。彼は、日本人の中に入って、庶民と生活する中で、日本の魅力を感じていったようです。「新編 日本の面影」の「はじめに」にこう書かれています。
「年月を重ねるにつれ、日に日に日本人の生活の中から、珍しい予想もしなかった美しさが現れてくるであろう。もちろん、どんな生活にも暗い面はある。それでも、西洋人のそれに比べれば、明るいものだ。日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しのよさに、目を見張るばかりだ。」
 日本人の心の奥にあるよさに目をつけています。それは、美しいものとして映っています。ハーンは、その部分を、これを書いた160年以上前にケンベルが評価したことを引用しています。「美徳の実践、汚れなき生活、信仰の儀礼においては、日本人はキリスト教徒をはるかに凌いでいる。」この言葉にも似たような日本人評が現れています。
最近の日本人には、それらのものが失われてきたというのは簡単ですが、本当にそうでしょうか。最近の赤ちゃんの能力、発達について昔から思われてきたことが違ってきたことを、先日のNHKテレビで再放送していました。1980年代に神経細胞(ニューロン)や細胞同士を結ぶ神経回路網(シナプス)が一時急激に増え、その後また減少するという過程が明らかになり、脳の発達は、先天的遺伝子によって作られた粗い組織が、環境とのやりとりで無駄を削り取って成長するということがわかってきたというものです。子どもを見ていると、日本人特有の美徳ともいわれるさまざまな特徴は、違うものを獲得することで、失ってきてしまっているという実感があります。ハーンは、日本人特有の「微笑」について、本文の中でこう考察しています。
「日本の子どもなら、生まれながらに備わっている、微笑を生む暖かい心根は、家庭教育のすべての全期間を通して養われる。しかもそのやり方は、庭木を自然な勢いに乗じて育てるのと、同じ絶妙さで行われる。微笑は、お辞儀や、手をついてする丁寧なお辞儀と同じように教えられる。それは、目上に人に挨拶したあと、喜びのしるしに、小さく音を立てて息を吸い込む作法のように、あらゆる昔流儀の入念で美しい作法のひとつとして教えられる。?略― 微笑は、教養のひとつなのである。」
 子どものころは持っている微笑は、教養であるのですね。失いたくありません。

一途な思い

 島根では、石を効果的に配して、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)で「2007年日本庭園ランキング」において5年連続で「庭園日本一」に選ばれた庭園を見てきました。ちなみに、5位 無鄰菴(京都府)、4位 栗林公園(香川県)、3位 山本亭(東京都)、2位 桂離宮(京都府)、そして、今回見学した1位 足立美術館(島根県)です。
この美術館は、横山大観の所蔵でも知られていますが、それ以上に庭園は、収蔵品の観賞を深めるために造られ、その広さは1万3千坪にも及んでいます。窓から見える景色は、窓枠を額縁、衝立、掛け軸に見立てられています。玄関から歩を進めて行くと、正面には、これから訪れるであろう主庭の枯山水へと続く長い白砂が目に入ります。
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そして、次に見えてくる庭は、桂離宮にある「松琴亭」に因んで建てられ、裏千家の十五代家元、千宗室氏によって命名された茶室「寿立庵」へと続いている茶庭です。
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次に見える「苔庭」は、京都の庭師、故小島佐一翁によるもので、杉苔と赤松を中心に組み合わせてつくられた京風の雅な庭園です。苔庭の赤松はすべてが斜めに植裁されています。これは山の斜面に生まれ、成長してきたものを平坦な場所に垂直に植えることは、樹木にとってかなりの苦痛になる、という考えによるものです。また、苔庭の苔が樹木の葉から落ちる雨水により傷つかないように枝振りにあわせて、園内で焼かれた炭を埋めてあります。
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いよいよ、この美術館の主庭の枯山水庭です。この庭は、京都の「退蔵院」の枯山水庭、大阪府堺市の「大仙公園」の日本庭園の作庭で知られる、故中根金作氏によるものだそうです。画面中央に配置されている三つの立石は、峻厳なる山をあらわし、そこから注ぎ込まれた水が渓流となり、大河となって流れ行く様を、枯山水という伝統的な手法をもちいて表現しています。遠くに見える山は勝山という名で、16世紀半ば、毛利と尼子の合戦で、毛利氏が本陣を張った山です。
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 窓から遠景に滝が見え、水の流れと池を中央にして、白砂の丘陵には、左に赤松、右に黒松が植えられています。この庭の石は、鳥取の佐治石や、四国の青石が使われていて、一番当初の造園であるためか、今では貴重な名石ぞろいだそうです。石組みは、桃山時代の武将の庭に見られるような力強く、豪快で華麗なものになっています。
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次に、鯉が群れ遊ぶ「池庭」は、和風の庭と周囲の洋風的な建物との調和を考えた、和洋折衷の新しい感覚で作られています。
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 そして、「白砂青松の庭」です。白砂海岸に大小の青松がリズミカルに配置されています。この庭園は、横山大観の名作、白沙青松の持つ清澄なイメージを表現したものです。
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71歳の時、郷土への恩返しと島根県の文化発展の一助になればという思いで、財団法人足立美術館を創設した足立全康は、小学校卒業後すぐに、生家の農業を手伝い、14歳の時、大八車で木炭を運搬する仕事につき、その後紆余曲折、様々の事業を興し、戦後は大阪で繊維問屋、不動産関係などの事業を起こします。そして、幼少の頃より興味をもっていた日本画を収集して、この美術館を創設するのです。
 日本の美を、一途な思いで伝えています。

八雲の庭

八雲は明治37年、東京で死ぬまでの14年間を日本ですごし、その間、松江・熊本・神戸・東京と4つの都市に住み、10軒もの家で生活を営みました。その中で、松江の根岸家から借りた家とその庭は、特別に気に入ったようでした。規模こそ小さいものの、この庭は枯山水の鑑賞式庭園としては水準を抜くものとして高い評価を受けています。今、役もが愛した居宅だったところは、東大時代の友人上田敏、小山内薫、柳田国男らの勧めもあり、一部改築されていた家を元通りに復原し、記念館になっています。特にここの庭は、著作「知られざる日本の面影」の第16章「日本の庭園」の舞台となっています。この庭と、作品の中の文章を読むと、西洋人である小泉八雲が日本の庭をどのように見たのかということがよくわかります。
元々は松江藩士の武家屋敷で、その周りには三方に庭があり、八雲は中央の部屋から三つの庭を眺めるのが好きだったと云われています。彼の文章から、日本の美をもう一度見直してみたいと思いました。(要約)
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「この庭の全体からは、どこかきれいだけれどもとても寂しい、そしてそのままそこで眠りこんでしまいそうな、そんな場所を音もなく流れてゆく静かな流れの岸辺、というような印象を受ける。その庭には、厚く苔むした大きな岩がある。そしてまた水をたたえた、風変わりな石の水盤もいくつか据えてある。歳月を経て緑色になった石灯篭や、城の天守閣に見られるような鯱もある、老木の茂っている小山もある。緑の草の長い斜面もあって、花をつけた潅木が影を落としており、川岸の土手のようである。緑に覆われた築山は小島を思わせる。(新編日本の面影より)」
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「北側の第二の庭は自分の好きな庭である。大きな草木は何一つない。青い小石が敷いてあって、小池が一つ―珍奇な植物がその縁にあり、小さな島が一つその中にあって、その島には小さな山がいくつかあり、高さは殆んど一尺にも足らぬ桃と松と躑躅がある小型の湖水が一つ、その中心を占めている。ではあるがこの作品は、そう見せようと計画されていたようにして見ると、目に少しも小型なものとは見えぬ。それを見渡す客間の或る一角から見ると、石を投げれば届くほどの遠さに、向うに真の島のある、真の湖岸の姿である。この池の縁の其処此処に、そして殆んど水と水平に、その上に立つことも坐ることも出来、その湖沼住者を窺うことも、その水中植物を世話することもできる平たい大きな石が置いてある。」
三番目の庭は、生垣の向こうなので、見ることは出来ませんでした。「この庭は、大変大きいもので、垣に囲まれた蓮の池の庭から、この武家地の一角の北北東の境界にあたる木の茂った丘のふもとまでつづいている。北西の角には、なかなかいい井戸があって、器用に竹のパイプでこしらえた水路を通って、ここから家の中までひんやりと冷たい水が運ばれてくる。そして北西のはずれには、丈の高い雑草に隠れるようにして、ひどく小さなイナリの社がたっている。そしてその前には、その社にふさわしいちいさな石の狐が二匹、すわっている。庭の背後の丘の森は、まさに野鳥の生活に満ち満ちている。」
いろいろなところで、石が効果的な役目をしていますね。