子守唄2

 子守唄の歌詞をじっくり読むと、その時代の子どもたちの生活の悲惨さ、哀れさを感じると共に、今の子どもたちは幸せだなあと思います。しかし、果たして心から幸せかというと、いつの時代でも、違う苦労があるものです。とはいえ、島原の子守唄は、胸が締め付けられます。4番は、船に乗せられた娘たちが、どうなったかです。「姉しゃんなどけいたろうかい 姉しゃんなどけいたろうかい 青煙突のバッタンフル 唐はどこんねき 唐はどこんねき 海のはてばよ しょうかいな はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい」娘たちは、「バターフィールド」という船会社の青煙突の外国船の船底に押し込められ、海の果ての中国、東南アジア、アフリカ、ロシア等に連れて行かれたのです。しかし、その娘たちは悲惨な運命が待っています。しかし、まれに成功して故郷に帰ってこれる場合があります。「あん人たちゃ二つも あん人たちゃ二つも 金の指輪はめとらす 金はどこん金 金はどこん金 唐金げなばい しょうかいな 嫁ごんべんな だがくれた つばつけたら あったかろ」成功して帰ってくる人は、憧れの的です。華僑の富豪等に見初められて夫人や妾になった者や、何かの商売で成功した者は、2つも金の指輪はめていたり、唐の金を持ち、もらった赤い口紅をつけてもらい、その紅に 唾をつけたら燃えるようにきれいだろうと羨みます。「沖の不知火 沖の不知火 燃えては消える バテレン祭りの バテレン祭りの 笛や太鼓も鳴りやんだ おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい」貧しいがゆえに南方へ送られていった娘たちを哀れむ一方で、少数ながら成功して帰ってきた「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したこの唄は、宮崎康平作詞・作曲による戦後の創作子守唄です。彼は、島原鉄道常務のかたわら文筆活動に勤しみますが、極度の過労から眼底網膜炎が悪化して失明、二人の子を置いて妻は出奔してしまいます。この子守唄は、失意の中で、泣く子をあやすうちに出来たといわれています。その歌詞に描かれた異国に売られ、過酷な運命にさらされた娘たち「からゆきさん」は、当時、10?20万、あるいは30万いたといわれています。この子守唄は、そうした歴史のあったことを如実に物語り、今に伝えています。世界で歌われている子守唄は、「ブラームスの子守唄」や「シューベルトの子守唄」など、近代ヨーロッパ中産階級の、豊かで幸福な家庭における子どもの子守唄で、優しく寝かしつける歌であったのに対して、日本の伝統的な子守唄に歌われているのは、封建時代の暗い世界を表しているので、短調のメロディーや悲哀のメロディーになっています。それは、私が聞いて育った「ねんねんころりよ」で始まる「江戸子守唄」の歌でもわかります。この子守唄は、江戸時代から代々受け継がれてきた歴史の長い唄です。「ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよい子だ ねんねしな ぼうやのおもりは どこへいった あの山越えて 里へいった 里のみやげに なにもろた でんでんたいこに しょうの笛」この「ねんねんねんねこよ」というはやしことばは、仏教の「念念」から来ており、念仏に使われる笙の笛をもらっているので、仏教歌の和讃の形式を取り入れた歌ではないかともいわれています。他にも色々な子守唄がありますが、そこには、日本の歴史が歌いこまれていますので、ぜひ伝えていかなければならないという気がします。つづく

子守唄2” への5件のコメント

  1.  昨日から「子守唄」のブログですが、本当に悲しい歌なのですね。子どもを寝かす為の歌なので、私はてっきり悲しいというよりも、温かい歌なのかな?と思っていました。それは全く違うのですね。島原の子守唄の背景にはそのような悲惨な内容だったとは本当に胸が締め付けられます…。ですが、先生の言われるように、このような日本の歴史は今の子どもたちに何らかの形で伝えていかなければならないと思います。

  2. 今回も悲しい話です。悲しい話ですが、書かれているように、その当時に比べて今が幸せかというと必ずしもそうとも言えないと思っています。今の時代をあらわした子守歌をつくるとしたら、違った意味で悲しい内容になってしまいそうな気がします。後の時代に羨ましがられるような歌がうまれるようにしたいものです。

  3. 今の日本の子どもたちは基本的に幸せだと思います。たいていの日本の子どもはよほどのことがない限り飢えて苦しむことがありません。20代30代頃、縁あって東南アジア南アジアの数国を訪れた経験があります。観光旅行ではなかったので、各国の社会の実状を垣間見ることができました。フィリピンのミンダナオ島の大都市ダバオに行ったときなど「1ペソ、1ペソ」と子どもにお金をせがまれました。レストランを出る時小銭入れをズボンの後ろポケットに入れていたら、全く気付かないうちになくなっていました。レストランで食事をしている時外から中の様子を伺う子どもたちの姿を目にしました。同地で出会った子どもたちが必ず言っていたことは「勉強したい、勉強したい」そして「大きくなったら学校の先生やお医者さんになりたい」ということでした。今日のブログのテーマから外れますが、ブログ読後こうしたことを想起したのでそのまま書きました。

  4. 「海の果ての中国、東南アジア、アフリカ、ロシア等に連れて行かれたのです」ということから当時の人々の思いを想像すると胸が締め付けられます。どんなに悲しかったでしょう。どんなに不安だったでしょう。私などが簡単に想像できるものではありませんが、時代が違うだけで、こうも境遇が違うのですね。そのような事実があったことを忘れないためにもこの子守唄を伝えていくことが大切になってくるのですね。「ねんねんころりよ」で始まるあの子守唄は「江戸子守唄」というのですね。この唄で思い出すのは、子どもの頃、録画して繰り返し見ていたドラえもんの(内容は忘れてしまいましたが)とても悲しい内容の話で歌われていた唄ということです。この唄を頭の中で歌うとのび太くんの姿が浮かんできます。そして、同時に切なくなります。物語の内容は忘れてしまいましたが、その切ない感情というのは思い出されます。

  5. 私にも馴染みの深い「ねんねんころりよ」ですが、「ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよい子だ ねんねしな」の続きはほとんど知りませんでした。「ぼうやのおもりは どこへいった あの山越えて 里へいった 里のみやげに なにもろた でんでんたいこに しょうの笛」という歌詞を見て、また哀しくなりました。場面によっては、母子の微笑ましい光景にも見えなくもないですが、島原の子守唄同様、母親でない人がおもりをしている様子が感じられます。それには、しっかりと背景があり、日本の歴史でもあるわけですね。私も、その歌のメロディーを聴いて何となく懐かしく感じるのは、きっとそれを聞かせれて眠りについていたのでしょうね。

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