「ひきずり餅」と「賃餅」

 先日、園で餅つきをしました。園の職員と、保護者数人が手伝ってくれました。餅つきは、正月のもちを暮れにつくのですが、大名から町民まで基本的には自分の家で毎年それぞれの地域、家庭によって決められた日についていました。しかし、園でもそうですが、臼はなかなか高いもので、それぞれ用意することはなかなか出来ませんし、つき手も自分のところだけでは人手が足りません。今の園では、今年初めてですので、多くの量をつくのをやめましたのでいいのですが、以前の園では、子どもたちにもつかせるために、大きな臼2台と小さな臼2台でつき、その後にいろいろな絡み餅を作るので、大勢の保護者に手伝ってもらいました。その光景は、子どもたちはこれから食べることができる期待からその姿をちらちら眺め、親たちは楽しそうに会話をしながら、あんこ、黄な粉、納豆、大根おろし、海苔としょうゆなどいろいろなものを餅に絡めていました。しかし、本当は、その場で食べるのではなく、最初のひと臼は歳神様に捧げてお供えする「鏡餅」にして、そのあとは、正月の食べ物として、のし餅や、角餅や、丸餅にして保存していました。江戸時代の川柳にも「餅ついてむしろの上で神おろし 二た臼めから人間の餅をとり」とあるように、餅をつくこと自体が、神を招くことでした。餅つきは、大体25日頃から始まり、30日までには終えるようにしていました。しかし、29日だけは「苦をつく」ことになるといって餅つきはしないのが普通でした。もっと縁起をかつぐ人は「ろくなことがない」と26日も避けました。江戸の町では、15日頃から正月用の餅つきがはじまりました。しかし、このように、みんなでわいわい自分の家で餅をつく家は、奉公人や出入りの職人の多い商家などだけでした。多くの家では、餅屋に注文したり町内の仕事師(頼まれて町内のさまざまな雑用を請け負う人々で、鳶の者など)に頼んでついてもらったりする場合が多かったようです。この、仕事師についてもらった餅を「ひきずり餅」といいました。このように呼んだのは、仕事師が、釜、臼、杵などを担い、注文のあった家の前で、いさましい音をたてながらついたためです。これを 餅をつく音は、大晦日の夜明けまで、江戸の四里(約16キロ)四方にとどろくほど、絶え間がなかったといいますから、にぎやかな餅つきでした。一方、餅屋に頼んでついてもらうのを「賃餅」といいました。この賃餅は、昭和の初頭頃まで、餅菓子屋という店が注文を受けて餅をついて、つき手の少ない家庭ではこれをとても重宝していました。その時期になると、あちこちの菓子屋のガラス戸には、「ちんもち致します」という張り紙が見られたそうです。賃餅は、さすがつき手のプロだけあって、「曲づき」を披露して見せてくれたこともあったようです。丸餅は、太陽、つまり日の神を形どったものであり、そこには神の聖なる力が宿っていると信じられていました。それは、稲作を主にしていた日本民族にとって、もっとも重要なのは、稲を育ててくれる太陽の力だったのです。したがって、新しい年のはじまるお正月には、「鏡餅」を作り、まず神さまにお供えしたのですが、鏡は、太陽、日の神を模したもので、三種の神器の一つです。そして、お正月に訪れる歳神さまは、鏡餅に宿るといわれています。歳神さまというのは、日の神さまのことです。そして、歳神さまのやってくる方角を「恵方」といい、一年間を無病息災で過ごすための「生命力」である「歳魂」を私たちに授けてくれるのです。