子守唄1

 先週、島原に行ったとき、島原駅前に子守の像が建っているのを見ました。
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私は、子どもの頃、下町の問屋街で育ちました。問屋街ですので、どの家でも両親とも働いている家庭がほとんどです。私の家でもそうでしたから、私は小さかった頃、「お子守さん」におんぶされて育ちました。今のベビーシッターかもしれません。そして、食事は「お手伝いさん」が作り、幼稚園には、住み込みで番頭さんが二人いましたので、その番頭さんが自転車の後ろに私を乗せて送迎してくれました。そういう人たちがいるのは、決して豊かな家庭というわけではありません。最近話題の「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画でも、中心に描かれている自動車修理工場でも、住み込みのお手伝いさんがいます。彼、彼女らは、当時、中学を出てすぐ集団就職で東京に出てきた人たちです。私の思い出としては、あの映画のように、お子守さんも、お手伝いさんも、番頭さんもみんな大家族の様なつながりでした。しかし、日本の昔の子守は、とても悲惨な立場の子が多かったようです。子守唄、子守歌は、そんな子守が、子どもを寝かしつけたり、あやしたりするために歌われる歌でしたので、その歌詞は、寂しさ、哀れさを表しているものが多いようです。というよりも、子守唄とは母親が子どもを寝かせる歌ではなくて子守りの娘が仕事の辛さを歌ったものの要素が強いようです。島原に子守の像があるのは、「島原の子守唄」が有名だからです。その歌こそ、まさにそういう内容になっています。昔、島原半島や天草の農家の人たちは貧しさのあまり、自分の娘を売って生活をしました。その中で、中国や東南アジアなどへ売られていった娘たちのことを「からゆきさん」といいます。「唐行き」という事から来ています。島原の子守唄はからゆきさんの悲しみ、哀れさ、一方で「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したものといわれます。「おどみゃ島原の おどみゃ島原の 梨の木育ちよ 何のなしやら 何のなしやら 色気なしばよ しょうかいな はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい 鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい 」やさしく寝かしつけるというよりは、「早く寝ないと怖い久助が来るよ」と脅しています。この鬼の池の久助というのは女衒、娘を売買するブローカーで、実在のモデルがいたようです。2番では、「帰りにゃ寄っちょくれんか 帰りにゃ寄っちょくれんか あばら家じゃけんど 唐芋飯や 粟ん飯 唐芋飯や 粟ん飯 黄金飯ばよ しょうかいな おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい」あばら家で、芋飯、粟飯、黄金色した飯を馳走すると言っていますが、白いご飯を食べられないという貧しさを表現しています。3番は、からゆきさんが、どのように売られていくかが歌われています。「山ん家はかん火事げなばい 山ん家はかん火事げなばい サンパン船はヨロン人 姉しゃんなにぎん飯で 姉しゃんなにぎん飯で 船ん底ばよ しょうかいな 泣く子はガネかむ おろろんばい アメガタ買うて ひっぱらしゅう」山の家が火事だ、と突然関係ないことをいっているようですが、実は、娘たちの密航を警察に見つからないようにと、火事をわざと起こして、その間に「サンパン船」という小船に乗せて、連れて行ったようです。その船を与論島の人が漕いでいたようです。娘たちは、その船底に放りこまれ、めったの食べられない白いご飯の握り飯をもらいます。それは、滅多に食べることの出来ないものだったでしょう。なんだか哀れですね。(つづく)

子守唄1” への6件のコメント

  1. 子守歌にもいろいろあり、しかも悲しい意味もあるのは考えさせられることでした。島原の子守歌の意味を知り、これが子守で子どもに聞かせていた内容かと思うと、何とも言えない気持ちになります。でも、こうした時代もあったことを伝える意味では、悲しいですが大切なことなんでしょうね。子守歌の続きを楽しみにしておきます。

  2. 中学校の時の修学旅行で島原に行ったとき、バスガイドさんが歌ってくれたのが、「島原の子守歌」でした。1番は覚えていましたが、今日のブログで2番以降の歌詞を教えていただきました。子守の娘たちの悲哀がひしひしと伝わってきますね。今、日本は格差社会だと言われますが、それは自由で豊かな現代社会の中での格差であって、「からゆきさん」や「女工哀史」などにみられるような宿命的な貧困とはわけがちがいますね。生きるということの厳しさをあらためて考えさせられました。

  3. 島原、私も一度訪れたことがあります、天草の本渡からフェリーで渡りました。風光明媚な場所であるという印象を強く持ちました。機会があれば再び訪ねたいと思います。「島原の子守唄」、なんとも切なくなる歌詞ですね。こうした歌詞を目にするたびに私たち日本人のネガティブ志向の原点を想起せずには入られません。しかも、地方はその傾向が強い。九州は温暖な気候でそれほどネガティブにならなくてもよさそうなのに、と思いますが、やはりコアとペリフェリの問題は気候の温暖さをプラスと捉える外部者の視点をいやおうなく叩きのめします。私自身東北の片田舎の出身であるので余計そのことを気にします。そうそう、田舎が海岸地域なので船はよく目にしていましたが、その中に「さっぱ船」と呼ばれる小型の船がありました。どうやら今日のブログで紹介されていた「サンパン(三板)船」が変化して「さっぱ船」になったかもしれない、と長年の疑問が偶然にも氷解したような気になっています。本当に参考になるブログです。

  4. 作家の山崎朋子先生が熊本天草へ取材の為、初めて旅したのは昭和43年8月或る大学の図書館に勤める豊原さんと同行、崎津の港に着き昼めし摂るため「氷氷」と染めぬいた店には入ったそこに70歳ぐらいの小柄で1m30?40cm全体に痩せた老婆に偶然にめぐり会う・・・山川サキさん・・・サンダカン八番娼館の
    主人公です。からゆきさんの悲しさがこの唄を聞くたびに思い出されます。

  5. 子守唄は子守の娘さんが仕事の辛さを歌ったという要素が強いのですね。具体名に子守唄の内容を知っているものはあまりありませんが、子守唄というとお母さんが自分の子どもを寝かしつけるため、あやすために歌うものというイメージがあるので驚きました。そして、島原の子守唄の内容を知ると当時の人々の生活や、その苦労さを知ることができます。生活が苦しかったといえ、自分の娘を売りに出すというのは辛かっただろうなと思います。そして、見知らぬ土地へ売られていく娘さんの不安も相当だったのではないかなと思いますし、ブロガーのような存在も本当に怖かったでしょうね。そして、船底で食べる白いご飯というのも悲しいですね。生活のためには仕方ないことだったのかもしれませんが、それが当時は当たり前だったのかもしれませんが、それでもみんな辛い思いを抱えていたんだろうなと思うと、なんともいえなくなります。

  6. 哀しいですね…。実際に動画を検索して「島原の子守唄」を聞いてみると、一層哀しい気持ちが浮かんできます。「子守唄とは母親が子どもを寝かせる歌ではなくて子守りの娘が仕事の辛さを歌ったものの要素が強い」ということで、子守唄にそのようないわれがあったというのは、昔の言葉と今の言葉が、少し異なることで違和感なく見過ごしてしまうでしょうね。ましてや、子守唄等を寝かしつけの際に歌う機会が減っているというのも否めないと思いますし、おこもりさんという役割が昔の生活に密着していたということが理解できました。子ども理解がまだ進んだ状態ではなかった時代の子守りとか、それらを取り巻く環境というのは複雑であったのですね。

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