風林火山最終回

 HNK大河ドラマ「風林火山」も今日最終回を迎えました。原作は、井上靖の長編小説で、「甲陽軍鑑」に拠る甲斐国武田信玄に仕えた軍師・山本勘助が、武田家に仕え、武田信玄と上杉謙信との幾度と行われた戦の中で最大の川中島の決戦で勘助が死ぬまでを描いています。あと、この物語の中心人物として、諏訪頼茂の娘であり、武田四郎勝頼の母となる人物である由布姫を描いています。ところで、今年は、信玄、山本勘助ゆかりの地域を訪ねましたが、その中で信玄と勘助の墓を訪ねて気が着いたことがありました。信玄は、その人物像を描いた小説によって、随分と印象が違います。また、彼の地元である山梨では、名君として受け止められています。確かに、彼の詠歌といわれている「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、あだは敵なり」という名文句から見ると、人を信じ、人に情けをかけることで、領地が安堵されると思っていることがわかります。その信頼をもとに、常に他国へと進出していた信玄の本拠地の甲府駅前には、信玄像が威風堂々と座っています。
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この像のある甲府盆地を守り、戦国時代を生きた信玄は、志あと一歩というところでこの世を去っています。しかし、その墓は各地にあります。戦場で戦死したわけではありませんので、その遺体ははっきりしているはずですが、墓がいくつもあるのはある理由があります。信玄の亡くなったのは、駿河制圧後、大軍を率いて西上の途につく途中、尾張・織田・三河・徳川連合軍を三方ガ原に撃破しますが、途中病に倒れ、引き返した信州伊那駒場で53歳にしてこの世を去ります。その時の信玄の遺言によって、喪を3年間秘めていたことや万一の外敵を恐れて、埋葬地を秘密にしていた結果と思われています。いくつかある中で、私が訪れたのはそのうちの二箇所です。そのうちのひとつは、山梨県塩山市の恵林寺の奥まったところにある信玄公墓所です。
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そこはかなり広く立派で、武田家家臣の墓約七十基も墓所後陣に並んでいます。もうひとつは、武田氏館があったつつじが崎館の跡に創建された武田神社から少し歩いたところにあります。信玄の墓はこのほか、山梨県内では大泉寺、長野県の諏訪湖、長岳寺と竜雲寺、和歌山県高野山、愛知県福田寺、京都の妙心寺など全国にあるようです。それに比べて、山本勘助の墓を訪れたときは、ちょっとその場所にショックを受けました。勘助の存在は1969年に「市川文書」の発見で確認されていますが、それまでは伝説的人物として存在が疑問視されており、風林火山の原作者の井上靖自身も史実性を疑っていたようです。面白いことに大言海や辞海という辞書には、当て推量なことを「山勘」「ヤマカン」と言うのは、山本勘助を略したという説であると書かれています。ちなみに、三省堂国語辞典には、「山師の勘」と書かれています。それは別として、勘助の最後は壮絶を極めます。謙信はて妻女山に入り、信玄は、海津城に入ります。両軍は数日に及び対峙し動こうとしなかったために、勘助は、啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことなぞらえた「啄木鳥戦法」を取りますが、軍略の天才である謙信はこの策を見抜きます。謙信は信玄を討ち取るべく車懸りの陣で武田勢に猛攻をかけ、信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしきます。
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武田勢が劣勢の中で、勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、家来たちは次々に討ち死にし、それでも勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、上杉家の猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られます。享年69です。彼の墓は、その川中島の河原にぽつんと一基だけが祀られていました。
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