日本人の創造性

昨日、汐留クリエイティブ・センターで、「創造性の中で」ということで、ドナータ・ファブリ教授が、その後、「創造性の芸術」というテーマでアルベルト・ムナーリ教授が話をしました。その後を受けて、両人と私が「創造性について」対談をしました。最初の私からの投げかけは、「日本人は物真似民族である」ということで想像力に劣っているとよく言われますが、本当に日本人は創造性や創造力において、他民族より劣っているのかという点です。それは、もちろん子どもの造形活動を見ていて、逆に日本人特有の創造性の発揮ではないかと確信を持っていることがありますが、もうひとつは鉄砲伝来のいきさつです。日本への鉄砲伝来について、私は随分認識が違っていました。嵐でたまたまイギリス船が種子島に打ち上げられ、そこに鉄砲が積んであったと記憶していたのがずいぶん違っていました。「いご、よみがえるたねがしま(以後、よみがえる種子島)」と語呂合わせで1543年鉄砲伝来と覚えたものですが、1543年8月中旬、中国広州を出国した明国船は、ポルトガル人3名を乗せて東へ向かいます。ところが不運にも台風にもまれながら琉球列島を北上し、上陸を試みますが、どの島からも明人倭寇ということで拒まれます。そして25日早朝種子島南端門倉岬に漂着するのです。これが日本への鉄砲伝来の記念日です。この船は、島の第14代殿様である種子島時堯のはからいで、およそ50キロ北の城下の港に曳航されます。そして翌年1月まで、ポルトガル人、琉球人、中国人ら百数十名が港頭の慈遠寺の宿坊で生活しますが、そのとき、様々な珍しい、新しいものが日本に伝来します。たとえば、パン、蒸しパン、樟脳、タバコ、中央支点式の鋏などです。中でも、戦国時代、日本の歴史を変えるきっかけとなった「鉄砲」も、その中に含まれていたのです。当時16歳であった時堯は、彼らの持っていた奇妙な筒状の鉄棒に心引かれました。これがいわゆる鉄砲で、その威力は弓矢の比でなく、すばらしい武器だったのです。種子島時堯は、大金2000両(今で言うと、2億円くらい)でこの鉄砲2挺を買い求めます。そして、刀鍛冶の八板金兵衛に鉄砲を、篠川小四郎に火薬製法を学ばせました。すぐに、鉄砲の国産化を目指したのです。そして、彼らの非凡な技術と努力によって、短期間に国産化に成功します。これがわが国の国産第1号の鉄砲です。日本の種子島に鉄砲が伝来してからわずか1年未満で国産化を実現し,短期間で大量生産体制を確立することができたのは,当時の世界の中で日本だけです。ちなみに,日本よりもはるかに早く,ヨーロッパから鉄砲が伝来したアラブ諸国,インドでは,ついに国産化はされませんでしたし、当時の大国であった中国でさえ,種子島に鉄砲が伝来する25年前に鉄砲を手にしていたのに,鉄砲の国産化はむしろ日本より遅かったとの説もあります。その鉄砲は、種子島から紀州の根来や泉州堺に伝わり、近江の国友などでも大量に生産され、全国に広まっていきます。1575年、長篠・設楽原の戦いでは、武田勝頼率いる当時最強といわれた武田騎馬軍団を、織田信長・徳川家康の連合軍が、約3000挺の火縄銃で撃ち破っています。この戦いは、銃火器を組織的に使用した世界初の戦いといわれています。これは、物まねをコピーとしてみるのではなく、新たな価値の創造と見ることはできないだろうかということです。このようなことから新たな文化を創造してきた日本人の特性を恥じることなく、遺憾なく発揮をしていったらいいと思うのですが。