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2007年12月31日 [近頃思うこと]
今年最後の日
いよいよ今年最後の日「大晦日」を迎えました。この日には、一年の締めくくりとして、宮中や全国の神社では1年の間に受けた罪や穢れを祓うために、大祓いがで執り行われます。また、民衆の間でも、大晦日の行事は古く、平安時代頃から行われていたようです。
本来大晦日は新しい年の穀物に実りをもたらし、私たちに命(年)を与えてくださる歳神様を祀るための準備が行われる日でしたが、仏教の浸透とともに、除夜の鐘をつく習慣も生まれました。
大晦日の夜ふけに、全国のお寺で鳴らされる108つの鐘を「除夜の鐘」といいます。108とは仏教思想に基づく百八煩悩を意味しています。煩悩とは「心を惑わし、身を悩ませる」ものを言い、鐘をつくことでこれらの煩悩を1つ1つ取り除いて、清らかな心で正月を迎えようというわけです。また、108回のうち最後の1回は年が明けてから突きます。これは、今年1年煩悩に惑わされないように、という意味が込められているそうです。
何年か前に、この除夜の鐘を、蘇州市西郊外にある寒山寺に聞きに行ったことがあります。この寺の除夜の鐘を聞くと10年若返ると言われています。ここの鐘は、真偽の程は分かりませんが、昔日本が盗み日本に持ち帰ったという話があり、日本も当惑していましたが、伊藤博文がこれを聞き非常に心配し探させたのですが、見付からなかったため、代わりに小さな鐘を作り寄付したといわれています。ただ、この寄付された鐘は、ガラスのケースに入れ飾ってあり、除夜につく鐘は違っていました。
しかし、この鐘を聞きに行ったのは、唐の詩人張継の「楓橋夜泊」に詠まれた鐘をぜひ聞いてみたかったからです。この詩は、江蘇省蘇州の運河にかかる太鼓形の石橋の下に舟やどりをしたときに詠んだものですが、私は、夜中に境内にある宿坊のようなところで、食事をしながら除夜の鐘を聞きました。
「楓橋夜泊」「月落鳥啼霜満天 江楓漁火対愁眠 姑蘇城外寒山寺 夜半鐘声至客船」
この詩は、必ず中、高校生の頃に習うのですが、よくわからないところが多くあります。まず、全体的にここで鐘を聞いている時刻がいつかということです。最初の「月が落ちて」というのが、日が落ちてだとわかるのですが、月が落ちるのは、その月がどんな形だったかによるのです。満月ですと、明け方ですし、この詩のように夜半ですと、上弦の月の半月でしょう。しかし、その直後、なぜ鳥が鳴き出すのでしょうか。一斉に鳥が鳴きだすのは、普通は、日の出前です。ここの部分は、いろいろな説があるようです。
月が沈んで、鳥が鳴き騒ぎ、霜のおりる気配が大空いっぱいに満ちあふれています。旅愁のためになかなか寝付かれず、うつらうつらしている浅い眠りの目に、川辺の楓の樹や点々とした漁火が映ります。一体いま何刻であろうかと思っている所へ、姑蘇の町外れの寒山寺から、夜半を告げる鐘の音が、自分の寝ている船にまで響いてきます。すると、姑蘇城の外の寒山寺から、夜半を知らせる鐘の音が、この船にまで聞えてきました。
実際に聞いた寒山寺の鐘の音は、申し訳ありませんが、お世辞にもいい音ではありませんでした。鐘の音は、鳴らしたときの音というよりも、その音の余韻が寒い冬の大気に長く響いているのがいいですね。我が家でも、遠くから除夜の鐘が聞こえてきます。
投稿者 fujimori : 23:06 | コメント (2)
2007年12月30日 [近頃思うこと]
環境サイト
以前のブログでmixiというネット世界を紹介しましたが、まだまだ進んでいるようです。今人気のあるサイトに「YouTube」という2005年2月に設立された米ネットベンチャーYouTube社が運営する、動画コンテンツ共有サイトがあります。
このサイトは、誰でも無料で閲覧できるだけでなく、会員登録をすることによって誰でも容量100MB、再生時間10分以内の動画ファイルをアップロードし、自らの映像を公開することができます。また、閲覧したい動画のキーワード検索も行うことができ、会員登録したユーザはさらに閲覧した動画に対するコメントを投稿したり、動画を5段階で評価したりといったこともできます。このサイトはアメリカから生まれたのですが、2006年3月時点で米国内からのアクセスが1ヶ月あたり800万、日本国内からのアクセスも1ヶ月あたり200万と言われています。また、ここにアップロードされた動画ファイル総数は4000万で毎日3万5000ずつ追加されているといいますから、猛烈な勢いで増えています。
さらに、12月5日から本格的なサービスを開設したものに、地球環境問題に関するコンテンツの「green.tv」日本語版プレサイトがあります。これは、英国・ロンドンに本部を置くgreen.tvの日本事務局が提供しており、やはり視聴は無料です。日本語版プレサイトは、「ピープル」「地球温暖化」「自然環境」「グリーンライフ」「エコロジー&エコノミー」の5チャンネル構成で、英国版を翻訳したコンテンツや日本で独自取材した映像も配信が予定されています。
このサイトは、「世界各地でどんな問題が起こっているのか?」「どんな取り組みが行われているのか?」ということが取り上げられているので、環境問題を視覚で捉え、理解を深めるのに役立ちそうです。
日本版で、現在配信されているトップ記事は、ピープルでは、「歌人 田中義章が語る~地球版「奥の細道」、地球温暖化では、「環境保護への社会的仕組み~環境税を考える」、自然環境では、「ヨーロッパの深海珊瑚礁を探して」、グリーンライフでは、「Store Wars~有機作物を選ぼう!長編」で、これは、映画スターウォーズをもじって、その映画音楽をBGMにして、とても面白いつくりをしています。キュークというルークをパロった、きゅうりという主人公が、スーパーがファームの公害と農薬の暗黒面に染まってしまったのを、オビワン・ケノーリから聞いて、オーガニック反乱軍と共に戦うというストーリーになっています。トーフD2という豆腐が出てきたり、映画を見たことのある人は十分楽しめます。エコロジー&エコノミーでは、「持続可能な社会実現にむけて~Green Week」です。
この「green.tv」日本事務局(水野雅弘代表)が28日、今年の環境ニュース・トップ3を発表しました。国内の環境専門家が選んだ1位は、「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)とゴア前米副大統領のノーベル平和賞受賞」で、2位は「北極海の氷、IPCCの予測より早く減少」、3位は「国連気候変動枠組み条約第13回締約国会議(COP 13)の合意」が選ばれています。
温暖化に最も後ろ向きな発言をした国として日本が国際環境NGOから「化石賞」に選ばれたことを挙げた人も多かったそうですが、なさけないですね。
投稿者 fujimori : 21:45 | コメント (4)
2007年12月29日 [近頃思うこと]
漢字
「震・食・倒・毒・末・金・戦・帰・虎・災・愛・命」この漢字を見て、何を思い浮かべるでしょうか。すぐに思い当たる人もいるでしょうが、1995年から2006年までの「今年の漢字」です。それは、その年の事件史でもあります。というのは、財団法人日本漢字能力検定協会が、その年をイメージする漢字一字の公募を日本全国より行い、その中で最も応募数の多かった漢字一字を、その年の世相を表す漢字として発表しているからです。
また、発表に仕方もインパクトがありますね。毎年12月12日の「漢字の日」に京都府京都市東山区の清水寺の奥の院で、貫主により巨大な半紙に漢字一字が、その場でテレビ中継もされている中、面前で一気に書き上げられます。それを見ていて、いつももし失敗したり、下手な字になったり、墨がたれてしまったりしたらどうするのだろうと心配になってしまいます。そして、あの書き上げられた字は、その後、本尊の千手観世音菩薩に奉納さているそうです。
その年を、漢字一文字で表すというのは、面白い企画ですね。今年は、「偽」ですが、それにまつわるニュースは多かったですが、そんな時代だからこそ、その中でも明るい話題を表す漢字を選んでもらいたいですね。一文字というところがいいのでしょうが、その漢字だけでは意味はいろいろに取られてしまいがちですね。今年の「偽」という字にしても、もちろん食品の賞味期限や年金などさまざまな分野でごまかしと隠ぺいが明らかになったことを反映しているのですが、もともとは、「人が他人のふりをする」というのが原義です。また、1字ですと、何でその字なのかが思い出せない場合が多いような気がします。たとえば、昨年の「命」でも、「悠仁親王の誕生」はわかるのですが、「小学生、中学生の自殺多発」「北朝鮮の核実験」「臓器移植事件」「医師不足」などによる命の不安というのは思い出せませんでした。良い思い出は心に残るのですが、悪いことは本能的に忘れようとするのかもしれませんね。
しかし、選ばれる漢字は、悪いことを象徴しています。過去13年の中で、よいことだけを表したのは、まず、2000年の「金」です。シドニーオリンピックで、女子柔道の田村亮子、女子フルマラソンの高橋尚子が金メダルを取ったのとか、金大中と金正日による初の南北首脳会談を行ったということからです。長寿姉妹のきんさんぎんさんの成田きんが逝去したのも関係しているようです。また、2005年の「愛」は、愛知県で愛・地球博の開催されたということとか、紀宮清子内親王と黒田慶樹氏が結婚したとか、卓球の福原愛の中国での活躍したことなど、「あいちゃん」という愛称の女性の活躍が目立ったことのようでした。
そのほかに、世相を現すものに、第一生命保険の「サラリーマン川柳」がありますが、今年の発表は来年2月ですので、昨年の1、2位の作品を紹介します。「脳年齢 年金すでに もらえます」「このオレに あたたかいのは 便座だけ」また、住友生命保険の「創作四字熟語」があります。その最優秀作品から3篇紹介します。賛成多数をもじって「産生産声」(出生率が6年ぶりに上昇。たくさんの産声におめでとう!)画竜点睛をもじって「我竜天制」(落合オレ流野球で中日ドラゴンズ53年ぶり日本シリーズ制覇)意志薄弱をもじって「医師薄寂」(医師不足による急患問題)
現代の日本の世相を反映する一つの指標として振り返ってみると面白いかもしれません。
投稿者 fujimori : 21:16 | コメント (3)
2007年12月28日 [近頃思うこと]
教科書
今日、「日本軍によって集団自決に追い込まれた。そうした表現が沖縄戦をめぐる高校日本史の教科書検定で復活した。」というニュースが流れました。それは、教科書会社から出されていた訂正申請が文部科学省に承認されたということです。このようなときに、文科省は訂正申請の是非を検定調査審議会に諮って、審議します。教科書検定審議会の正式名称は、「教科用図書検定調査審議会」といい、出版社が申請した教科書について、学習指導要領に沿った客観的で中立公正な記述かを学術的見地から審査する専門機関です。そして、ここで審議された内容を答申し、文科相がその答申を基に合否を決定します。しかし、江戸時代の教科書は、7000種類もあったようです。子どもたちは、5歳から8歳頃寺子屋に入ります。まず、覚えるのは文字で、いわゆる「いろは」を習うのです。この教科書は、師匠の書く手本です。その手本を見ながら、子どもたちは「手習草子」という半紙を綴じた練習帳で練習します。その後は、以前のブログで紹介した貝原益軒が江戸時代に書いた「和俗童子訓」などが、寺子屋での教育に強い影響を与えたとされていますが、他にも興味深い書が教科書として使われました。そのひとつが、「庭訓往来」という、習字や読本として使用された初級の教科書です。これは、南北朝時代末期から室町時代前期に書かれたとされていますが、本当のことはわかっていません。著者も僧玄恵とされていますが、やはり確証はないようです。この内容は、往来物(往復の手紙)の形式をとり、擬漢文体で書かれ、衣食住から職業や政治、病気、犯罪など多岐にわたる一般常識を内容となっています。それは、時代を超えて普遍的な社会常識も多く扱ったために江戸時代に入っても寺子屋などの教科書として用いられています。庭訓とは、「論語」季子篇の中にある故事です。孔子が庭を走る息子を呼び止め、詩や礼を学ぶよう諭したというものです。ここから、父から子への教訓や家庭教育を、庭での訓戒というところから、「庭訓」というようになりました。また、往来物とは、主に寺子屋で使用された初歩教科書の総称です。その多くは、貴族子弟の学習用に編まれた往復書簡(模範文)で、手紙文の行き来(往来)の意から「○○往来」という呼称が一般化しました。庭訓往来の内容は、1月から12月まで25通の書簡からできています。風林火山で今年のヒーローの一人であった武田信玄も、8歳で長禅寺で手習い、学問を学びましたが、その手本の中に『庭訓往来』が加わっていたそうです。そのほかに、往来物といっても、種類は沢山あったようです。たとえば、「商売往来」というものがありました。この往来には、証文など商売の取引きに必要な文字・数字・日記の類・大判・小判から銭までの貨幣の名称、貫・分・厘・毛などの、天秤・分銅の基準、米・粟・ひえなどの雑穀類の名称の他、商店で扱う様々な商品の名称が記されていました。また、商売の心得として、「浪費をせずに、高利をむさぼらず、店舗をきれいにして、柔和に応答し、家業第一とする者は、富貴繁盛子孫栄華となることは疑いない。」と教えています。これは、何も商売をする人だけでなく、農家でも必要でしたし、生きていく上での知識ともなるために、子どもの手習い教科書として、各地でよく読まれ、使用されていたようです。これに対して、「百姓往来」という農業用語を説いた書もありました。「みだりに山林の竹木を伐採せず、隠田をいたさず、正直第一とすれば、子孫富貴繁盛家門平生となり神仏の冥利に叶う。」という教えは、今での通じるところがありますね。どんなものが、教科書としていいのでしょうね。
投稿者 fujimori : 23:35 | コメント (4)
2007年12月27日 [行事]
「ひきずり餅」と「賃餅」
先日、園で餅つきをしました。園の職員と、保護者数人が手伝ってくれました。餅つきは、正月のもちを暮れにつくのですが、大名から町民まで基本的には自分の家で毎年それぞれの地域、家庭によって決められた日についていました。しかし、園でもそうですが、臼はなかなか高いもので、それぞれ用意することはなかなか出来ませんし、つき手も自分のところだけでは人手が足りません。今の園では、今年初めてですので、多くの量をつくのをやめましたのでいいのですが、以前の園では、子どもたちにもつかせるために、大きな臼2台と小さな臼2台でつき、その後にいろいろな絡み餅を作るので、大勢の保護者に手伝ってもらいました。その光景は、子どもたちはこれから食べることができる期待からその姿をちらちら眺め、親たちは楽しそうに会話をしながら、あんこ、黄な粉、納豆、大根おろし、海苔としょうゆなどいろいろなものを餅に絡めていました。しかし、本当は、その場で食べるのではなく、最初のひと臼は歳神様に捧げてお供えする「鏡餅」にして、そのあとは、正月の食べ物として、のし餅や、角餅や、丸餅にして保存していました。江戸時代の川柳にも「餅ついてむしろの上で神おろし 二た臼めから人間の餅をとり」とあるように、餅をつくこと自体が、神を招くことでした。餅つきは、大体25日頃から始まり、30日までには終えるようにしていました。しかし、29日だけは「苦をつく」ことになるといって餅つきはしないのが普通でした。もっと縁起をかつぐ人は「ろくなことがない」と26日も避けました。江戸の町では、15日頃から正月用の餅つきがはじまりました。しかし、このように、みんなでわいわい自分の家で餅をつく家は、奉公人や出入りの職人の多い商家などだけでした。多くの家では、餅屋に注文したり町内の仕事師(頼まれて町内のさまざまな雑用を請け負う人々で、鳶の者など)に頼んでついてもらったりする場合が多かったようです。この、仕事師についてもらった餅を「ひきずり餅」といいました。このように呼んだのは、仕事師が、釜、臼、杵などを担い、注文のあった家の前で、いさましい音をたてながらついたためです。これを 餅をつく音は、大晦日の夜明けまで、江戸の四里(約16キロ)四方にとどろくほど、絶え間がなかったといいますから、にぎやかな餅つきでした。一方、餅屋に頼んでついてもらうのを「賃餅」といいました。この賃餅は、昭和の初頭頃まで、餅菓子屋という店が注文を受けて餅をついて、つき手の少ない家庭ではこれをとても重宝していました。その時期になると、あちこちの菓子屋のガラス戸には、「ちんもち致します」という張り紙が見られたそうです。賃餅は、さすがつき手のプロだけあって、「曲づき」を披露して見せてくれたこともあったようです。丸餅は、太陽、つまり日の神を形どったものであり、そこには神の聖なる力が宿っていると信じられていました。それは、稲作を主にしていた日本民族にとって、もっとも重要なのは、稲を育ててくれる太陽の力だったのです。したがって、新しい年のはじまるお正月には、「鏡餅」を作り、まず神さまにお供えしたのですが、鏡は、太陽、日の神を模したもので、三種の神器の一つです。そして、お正月に訪れる歳神さまは、鏡餅に宿るといわれています。歳神さまというのは、日の神さまのことです。そして、歳神さまのやってくる方角を「恵方」といい、一年間を無病息災で過ごすための「生命力」である「歳魂」を私たちに授けてくれるのです。
投稿者 fujimori : 23:43 | コメント (4)
2007年12月26日 [近頃思うこと]
乳母
子守りという幼い女子が子どもをおんぶして子どもをあやしたというように、必ずしも実の母親だけが育児していたとは限りません。しかし、生まれたての赤ちゃんに授乳するのは、母親だけができる特権かと思えば、それも違うようです。赤ちゃんが生まれて初めて授乳するのは、同じ頃に出産し、すでに授乳中の女性に頼んで乳を与えていたようです。これを「乳付け」とか「乳合わせ」といっていました。それは、初めての乳を,すでに授乳している他人からもらうとよく育つとしていたからです。今は、初乳にはとても栄養があるといわれているのに、変ですね。初乳には、免疫物質の濃度が通常の母乳の10~20倍も含まれています。しかも、免疫系で力を合わせて外敵を打ち負かす「生体防御機能」を果たすリンパ球をはじめとする免疫細胞群も、初乳に高濃度で含まれています。それほど、初乳の免疫力は、強力なものなのですが、多くの場合、母乳は、出産3日後ぐらいから、少しずつ出始めるために、それまでは母乳を与えることが実質的に無理です。ですから、初めての乳は他人からもらったのかもしれません。また、その乳を与えた人は、「乳親」(ちおや)といい、音では、父親に通じます。他にも、乳飲み親・チアンマとも呼ばれました。そして、男には女の子を持つ母親に頼み、女の子にはその逆にするのがしきたりで、そうすることによって、丈夫な子に育ち、縁組が早いといわれていました。そのしきたりは、その乳付けを縁として、その後も何かと親を支える共同体になっていったのでしょう。この習慣は、なんと「古事記」や「日本書紀」にも書かれているようです。そのほかにも、子どもが生まれるとその子を実の親だけで育てるのは大変だったようで、様々な親を持ち、それらみんなで支えていたようです。たとえば、「取りあげ親」は、「フスツナギウヤ」といい、臍の緒を切ってくれた産婆さん(コズエババ)のことを言います。「拾い親」というのは、赤子を橋のたもとや道の辻や家の前に捨てる真似をし、あらかじめ頼んでおいた人に拾ってもらい,その人を仮親とするものです。捨てるのは,子がよく育たない家の子や父母の厄年に生まれた子で,また子が病気や怪我をしたとき,女児ばかり生まれる家に珍しく男児が生まれたときなどにもみられ、捨てるのに、たらいや箕に入れたり、拾うときは、箒で掃き込む真似をしたり、宗教的な儀式のようでした。また、「名付け親」は,七夜のころ、他人に名前を付けてもらうことによって結ばれるもので、名親・名添え親などとも呼ばれます。名は生命の象徴であり、名を与える人は他人でも生命の生みの親であるというほど、名は尊いものと考えられており、出生時の名づけ親と成年式の改名の名づけ親があります。そして、「養い親」という親がいました。それは、病弱な子のためにとる仮の親のことで,里親や養親とは異なり、神官・僧侶・祈祷師などに頼み、あるいは氏神をはじめいろいろな神と取り親・取り子関係を結ぶ習俗も各地に分布しています。このように、育児は様々な人の共同作業であったようですが、なかでも「乳母」という存在は格別のようです。その存在は、母乳が出ない母親に代わって乳を与えただけではなく、身分の高い人間は子育てのような雑事を自分ですべきではないという考えや、他のしっかりとした女性に任せたほうが教育上も良いとの考えから、乳離れした後も、母親に代わって子育てをしていたようです。特に、平安時代から戦国時代にかけて、上層階級では、公家・武家を問わず、育ての親である「乳母」の存在が不可欠で、教育者としての重い任務を持っていました。中世の社会には、他人の子どもでも「社会全体の子ども」として、大事に育てていこうという気概があったようです。
投稿者 fujimori : 22:01 | コメント (4)
2007年12月25日 [近頃思うこと]
少年犯罪
少年犯罪が起きるたびに、「昔はそんなことは無かった」とか、「最近の子どもは道徳心が無くなった」とか、「最近は昔と比べて物騒になったので心配だ」ということを聞きます。終いには、大くくりにして、「昔はよかった」と言います。しかし、子守唄の歴史を見ても、子どもが売られ、子守りをさせられていた時代など、決してよかったはずは無いのです。西部邁氏は、「国民の道徳」という本の中で、「日本を含め、先進諸国において少年犯罪の激増、凶悪化そして低年齢化が進んでいるというが、何を根拠としているのであろうか。」と問題を提起していますし、長谷川寿一氏・長谷川真理子氏の共同研究「戦後日本の殺人動向」ではマスコミ報道のような、最近の「多発する少年事件」「未成年者の凶悪化傾向」を明確に否定しています。長谷川寿一氏は「草思」で「日本の殺人率は1950年代から90年代前半までほぼ一貫して減少し続け、人口100万人あたりの殺人件数は、50年代のピーク時の約40件から、90年代には約10件前後にまで減少した。この減少にもっとも大きく寄与したのが、若者男性の殺人率の低下である。」としています。1955年当時、20代前半の男性殺人率(100万人あたりの検挙者数)は230人でピークでしたが、その後、高度成長と呼応して20代の殺人率はどんどん下がり、90年代には100万人あたり20人を割っているそうです。長谷川氏は、「16歳から24歳の年齢区分でみても、40年間でほぼ10分の1に減少し、この殺人における年齢の効果の消失は、世界的にみて極めてユニークな現象であり、若者男性がこれほど人を殺さないような社会は、筆者が知るかぎり他に類を見ない。」と的確に述べています。特に、戦前はひどかったようで、「戦前の少年犯罪」の中では、戦前社会が現代の老人が説教するような規律正しい立派な時代だったわけでは決してなく、むしろ現代以上にひどい事件がかなりの数起こっていた時代だったと書かれており、記録もきちんと残されているようです。それなのに、「なぜいつの時代も人は、昔はよかったと言うのか?」それを、12月20日のR25で精神科医の香山リカ先生が解説していました。そのキーワードは「不安」と「優位」だと言います。「年齢を重ねると、今の時代や若者についていけなくなるのではないかと不安になります。価値観や好みに違いがあると、それを否定したい感情と若さを失っていく不安が入り交じると思うんです。そこで自分が若かった時代の文化などを振り返って『あっちの方がよかった』とか『人間味があった』と肯定することで、不安から逃避しようしているんじゃないでしょうか。あとは、年輩者が若い人に対して絶対的に優位に立てるのは、彼らが知らない時代を体験しているということ。だから『昔はよかった』の一言で『オレはお前らが知らないいい時代や大変な時代を知ってるんだ』と優越感を感じる一面もあるかもしれません」すなわち、年輩者は主に「不安」から昔を懐かしむために、若年者は「優越感」を得るために「昔はよかった」と言うことが多いといいます。F・デーヴィス著『ノスタルジアの社会学』によると、これはどちらも「アイデンティティの連続の確保」にも関わることだそうです。人は、今の自分を肯定するために、過去の自分を肯定しようとする心理が働くということです。しかし、香山先生によると「昔を懐かしむのはいいけれど、それが今の自分の否定になると不健康な状態」だということで、今、精一杯生きることが大切であり、今という時をよりよいものにしていく努力をしていかなければならないと思います。
投稿者 fujimori : 22:37 | コメント (4)
2007年12月24日 [近頃思うこと]
子守唄3
子守唄の歴史は、育児の歴史でもあります。よく子守唄の種類には、「寝やせ唄」という、赤ちゃんを寝かしつけるときに歌ってあげる唄と、「遊ばせ唄」という、赤ちゃんをあやすときなどに歌う歌があります。これらの唄は世界共通ですが、日本独特な子守唄としては、赤ちゃんを対象として歌ってあげるための歌ではなく、子守りが自ら慰めるために歌った子守唄があります。それは、子守りという存在が独特な環境にあったからでしょう。たとえば、日本人が好きな歌のベスト3に入る歌に「赤とんぼ」(作詞三木露風、作曲山田耕筰)があります。この歌詞の中で、よく小さいころに意味を間違って歌っていた箇所に1番の「おわれて」というところがあります。これは、赤とんぼが「追われて」というイメージでしたが、本当は「負われて」という、「子守りに負ぶされて(おんぶされて)」という意味です。ですから、「1 夕焼小焼の赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か」は、子守りにおんぶされているときに見た、夕焼け空に飛んでいる赤とんぼを思い出したのです。そう思ってもう一度赤とんぼの歌詞を見てみると、違ったものが見えてきます。「2 山の畑の桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか 3 十五でねえやは嫁にゆき お里のたよりも 絶えはてた 4 夕焼小焼の赤とんぼ とまっているよ 竿の先」この歌詞を見ると、突然、赤とんぼはいつ見ただろうかと思い出したのではなく、4番にあるように、竿の先にとまった赤とんぼを見て、いつ見たのだろうと思い出したのが1番です。そのときおんぶをしていた「ねえや」は、大家に雇われて、その家の幼い子どもたちの面倒を見た子守りだったのでしょう。また、この子守りは15歳でお嫁に行きますので、それ以下の年の子です。ですから、子守りは、年少の女の子の労働だったのでしょう。しかし、テレビの時代劇を見ると、赤ちゃんを井戸端や畑仕事をしながら負ぶっているのは、母親以外では、乳母や下女や老女であり、子どもではない場合が多いようです。子どもが子守りとしての労働をするようになったのは16世紀末頃からのようです。赤坂憲雄著「子守唄の誕生」(講談社学術文庫)には、五木の子守唄のなぞの解明から、近代の精神史を描いています。その本の中に16世紀末に宣教師をして日本で布教活動をしたフロイトが、「ヨーロッパ文化と日本文化」という本にこんなことが書かれていると紹介しています。「われわれのあいだでは普通大人女性が赤児を首のところに抱いて連れていく。日本ではごく幼い少女が、ほとんどいつでも赤児を背に付けていく」赤ちゃんをおんぶして子守りするのが少女であるという姿は、どうもヨーロッパにはないようです。しかも、子守りはいやなものだったようです。同書に志摩地方の子守唄が紹介されています。「勤めしょうとも子守りはいやよ お主にゃ叱られ子にゃせがまれて 間に無き名を立てらるる」子守りという労働は、主人には叱られ、おんぶしている子にはいじめられ、いわれの無いうわさを立てられるので、いやだったようです。これが高知に行くと、最後のフレーズが「人には楽なよに思われて」となりますが、なんだか子どもと関わっている職業をしているものとしては、人ごとに思えません。赤松啓介著「女の歴史と民族」という本の中に、子守り女の出現を分析しています。そこでは、奉公子守りの女たちを、近代の「働く女性」の先駆として見定めていますし、近世の封建制社会の内部に胎動し始めた、資本主義的な要素が産んだ子どもであると言っています。子育てというものを、もっと子守唄から分析することも必要かもしれません。
投稿者 fujimori : 21:06 | コメント (5)
2007年12月23日 [近頃思うこと]
子守唄2
子守唄の歌詞をじっくり読むと、その時代の子どもたちの生活の悲惨さ、哀れさを感じると共に、今の子どもたちは幸せだなあと思います。しかし、果たして心から幸せかというと、いつの時代でも、違う苦労があるものです。とはいえ、島原の子守唄は、胸が締め付けられます。4番は、船に乗せられた娘たちが、どうなったかです。「姉しゃんなどけいたろうかい 姉しゃんなどけいたろうかい 青煙突のバッタンフル 唐はどこんねき 唐はどこんねき 海のはてばよ しょうかいな はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい」娘たちは、「バターフィールド」という船会社の青煙突の外国船の船底に押し込められ、海の果ての中国、東南アジア、アフリカ、ロシア等に連れて行かれたのです。しかし、その娘たちは悲惨な運命が待っています。しかし、まれに成功して故郷に帰ってこれる場合があります。「あん人たちゃ二つも あん人たちゃ二つも 金の指輪はめとらす 金はどこん金 金はどこん金 唐金げなばい しょうかいな 嫁ごんべんな だがくれた つばつけたら あったかろ」成功して帰ってくる人は、憧れの的です。華僑の富豪等に見初められて夫人や妾になった者や、何かの商売で成功した者は、2つも金の指輪はめていたり、唐の金を持ち、もらった赤い口紅をつけてもらい、その紅に 唾をつけたら燃えるようにきれいだろうと羨みます。「沖の不知火 沖の不知火 燃えては消える バテレン祭りの バテレン祭りの 笛や太鼓も鳴りやんだ おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい」貧しいがゆえに南方へ送られていった娘たちを哀れむ一方で、少数ながら成功して帰ってきた「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したこの唄は、宮崎康平作詞・作曲による戦後の創作子守唄です。彼は、島原鉄道常務のかたわら文筆活動に勤しみますが、極度の過労から眼底網膜炎が悪化して失明、二人の子を置いて妻は出奔してしまいます。この子守唄は、失意の中で、泣く子をあやすうちに出来たといわれています。その歌詞に描かれた異国に売られ、過酷な運命にさらされた娘たち「からゆきさん」は、当時、10~20万、あるいは30万いたといわれています。この子守唄は、そうした歴史のあったことを如実に物語り、今に伝えています。世界で歌われている子守唄は、「ブラームスの子守唄」や「シューベルトの子守唄」など、近代ヨーロッパ中産階級の、豊かで幸福な家庭における子どもの子守唄で、優しく寝かしつける歌であったのに対して、日本の伝統的な子守唄に歌われているのは、封建時代の暗い世界を表しているので、短調のメロディーや悲哀のメロディーになっています。それは、私が聞いて育った「ねんねんころりよ」で始まる「江戸子守唄」の歌でもわかります。この子守唄は、江戸時代から代々受け継がれてきた歴史の長い唄です。「ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよい子だ ねんねしな ぼうやのおもりは どこへいった あの山越えて 里へいった 里のみやげに なにもろた でんでんたいこに しょうの笛」この「ねんねんねんねこよ」というはやしことばは、仏教の「念念」から来ており、念仏に使われる笙の笛をもらっているので、仏教歌の和讃の形式を取り入れた歌ではないかともいわれています。他にも色々な子守唄がありますが、そこには、日本の歴史が歌いこまれていますので、ぜひ伝えていかなければならないという気がします。つづく
投稿者 fujimori : 21:45 | コメント (3)
2007年12月22日 [近頃思うこと]
子守唄1
先週、島原に行ったとき、島原駅前に子守の像が建っているのを見ました。

私は、子どもの頃、下町の問屋街で育ちました。問屋街ですので、どの家でも両親とも働いている家庭がほとんどです。私の家でもそうでしたから、私は小さかった頃、「お子守さん」におんぶされて育ちました。今のベビーシッターかもしれません。そして、食事は「お手伝いさん」が作り、幼稚園には、住み込みで番頭さんが二人いましたので、その番頭さんが自転車の後ろに私を乗せて送迎してくれました。そういう人たちがいるのは、決して豊かな家庭というわけではありません。最近話題の「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画でも、中心に描かれている自動車修理工場でも、住み込みのお手伝いさんがいます。彼、彼女らは、当時、中学を出てすぐ集団就職で東京に出てきた人たちです。私の思い出としては、あの映画のように、お子守さんも、お手伝いさんも、番頭さんもみんな大家族の様なつながりでした。しかし、日本の昔の子守は、とても悲惨な立場の子が多かったようです。子守唄、子守歌は、そんな子守が、子どもを寝かしつけたり、あやしたりするために歌われる歌でしたので、その歌詞は、寂しさ、哀れさを表しているものが多いようです。というよりも、子守唄とは母親が子どもを寝かせる歌ではなくて子守りの娘が仕事の辛さを歌ったものの要素が強いようです。島原に子守の像があるのは、「島原の子守唄」が有名だからです。その歌こそ、まさにそういう内容になっています。昔、島原半島や天草の農家の人たちは貧しさのあまり、自分の娘を売って生活をしました。その中で、中国や東南アジアなどへ売られていった娘たちのことを「からゆきさん」といいます。「唐行き」という事から来ています。島原の子守唄はからゆきさんの悲しみ、哀れさ、一方で「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したものといわれます。「おどみゃ島原の おどみゃ島原の 梨の木育ちよ 何のなしやら 何のなしやら 色気なしばよ しょうかいな はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい 鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい 」やさしく寝かしつけるというよりは、「早く寝ないと怖い久助が来るよ」と脅しています。この鬼の池の久助というのは女衒、娘を売買するブローカーで、実在のモデルがいたようです。2番では、「帰りにゃ寄っちょくれんか 帰りにゃ寄っちょくれんか あばら家じゃけんど 唐芋飯や 粟ん飯 唐芋飯や 粟ん飯 黄金飯ばよ しょうかいな おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい」あばら家で、芋飯、粟飯、黄金色した飯を馳走すると言っていますが、白いご飯を食べられないという貧しさを表現しています。3番は、からゆきさんが、どのように売られていくかが歌われています。「山ん家はかん火事げなばい 山ん家はかん火事げなばい サンパン船はヨロン人 姉しゃんなにぎん飯で 姉しゃんなにぎん飯で 船ん底ばよ しょうかいな 泣く子はガネかむ おろろんばい アメガタ買うて ひっぱらしゅう」山の家が火事だ、と突然関係ないことをいっているようですが、実は、娘たちの密航を警察に見つからないようにと、火事をわざと起こして、その間に「サンパン船」という小船に乗せて、連れて行ったようです。その船を与論島の人が漕いでいたようです。娘たちは、その船底に放りこまれ、めったの食べられない白いご飯の握り飯をもらいます。それは、滅多に食べることの出来ないものだったでしょう。なんだか哀れですね。(つづく)
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2007年12月21日 [近頃思うこと]
辛子蓮根
熊本の代表的な郷土料理として有名な辛子蓮根をいただきました。

東京生まれの私にとっては、これは奇妙な食べ物のひとつに数えられます。しかも、その食べ物を知ったのは、申し訳ないのですが、1984年、辛子蓮根による集団食中毒事件が発生、36名が中毒症状に陥ってうち11名が死亡したニュースでした。この食中毒は真空パックした商品でのみ起こりましたが、滅菌処理を怠ったためパック内に嫌気性のボツリヌス菌が繁殖し、さらに真空パックのため辛子の成分が揮発せず菌が生き続けるという悪条件が重なって発生したことが判明しています。 この事件がニュースで報道された結果、辛子蓮根は全国に知られることになったのですが、逆にそのために風評被害に会い、休業・廃業に追い込まれた業者もあリました。しかし、本当は、病弱だった細川家初代の殿様のために発明された「健康食」といわれています。熊本藩主細川忠利は生来病弱でした。ある時、前任地である豊前国耶馬溪羅漢寺の禅僧・玄宅が忠利を見舞った時に、蓮根を食べるよう勧めたのです。そこで藩の賄方であった平五郎が、加藤清正が熊本城の外堀に非常食として栽培していた蓮根の穴に和辛子粉を混ぜた麦味噌を詰め、麦粉・空豆粉・卵の黄身の衣をつけて菜種油で揚げたものを忠利に献上したところ、忠利は喜んで食べ、健康になったといわれています。蓮根は増血剤として優れている上に辛子には食欲増進作用があること、また蓮根を輪切りにした断面が細川家の家紋(九曜紋)と似ていたことから門外不出の料理とされていましたが、明治維新からは一般にも製法が伝わり、熊本名物の一つになりました。日本各地の城のお堀によく蓮が植えられているのは、非常食の目的であったと言われているように、蓮根自体とても栄養があります。意外ですが、ビタミンCなどは、みかんの1.5倍、大根の3.7倍に相当する量が含まれ、100gで1日に必要なビタミンをまかなえます。しかも、熱に弱いビタミンCに対して、蓮根はでんぷん質が多いために、加熱しても相当量のビタミンCが残ります。また、最近では、発がん物質を抑制する効果があることもわかっていますので、忘年会でタバコやお酒を飲みすぎた後は、ぜひ蓮根を食べるのを勧めます。また野菜としては珍しくビタミンB12が豊富で、貧血を予防し、肝臓の働きを助け、ペクチンなどの食物繊維も多く、便秘を解消し、大腸がんを予防し、コレステロールを下げて血圧を正常にし、動脈硬化や高血圧にも効果があります。ミネラルではカリウムや亜鉛、銅、鉄を多く含み、中国では茎の部分だけでなく、葉や実や花弁などハスのすべてを薬用に用いています。特に蓮の実は、「蓮肉」「蓮子」と呼ばれ、強壮剤として用いられ、肝臓、腎臓、心臓に良いそうです「胃もたれ、胸焼け、滋養強壮」「消炎・止血効果」「鼻つまり・鼻血予防」「むくみ」「咳止め、二日酔い」「扁桃炎、口内炎」など、あげればきりがありません。また、辛子もその香りの素として知られる有名な成分(アリルイソチオシアナート)は、わさび特有の鼻にツーンと抜けるような辛味の主成分と同じもので、殺菌作用や食欲増進などに効果があります。また、ストレスを軽減する効果もあるといわれています。このような効用のある蓮根をお正月に食べて健康になり、また、蓮根は、穴が開いていることからそれを食べると「先が見通せる」といわれていますが、子どもとかかわるためには、今がよければではなく、蓮根でも食べて、先を見通す力をつけていかなければなりませんね。
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2007年12月20日 [近頃思うこと]
出る杭
よく「出るくいは打たれる」という言葉があります。これは、頭角をあらわす者はとかく人から憎まれるということです。もうひとつの意味として、差し出がましいことをすれば制裁を受けるということがあります。その二つの意味のうち、差し出がましいことはしないほうがいいのですが、頭角をあらわすものが憎まれるのはおかしいですね。同じような意味で、「喬木は風に折らる」という言葉がありますが、これも、高く伸びた木は、風当たりが強いので風害に遭って折れやすいということで、人も地位が高くなると他人から批判や攻撃されることが多く、災厄を受けやすいというたとえです。他にも、同じような意味で言われることわざに「高木は風に折らる」「大木は風に折らる」「誉れは毀りの基」「褒むるはそしるの基」など、随分ありますね。これらは、基本的に嫉妬心から出るものが多いのですが、赤ちゃんの情緒の分化では、「快」「不快」と分かれる次に現れるのは、「嫉妬心」ですから、人間というものは、嫉妬する心は、早いうちから芽生える情緒のようです。また、嫉妬心からではなく、みんな同じとか、みんな公平にというように、特別を嫌がり傾向にあります。また、波風を立てないというか、今までのままを好みます。しかし、物事は、様々な改革の中から新しいものを生み出していきますし、その時代を作っていきます。また、時代の変化に応じた変化が求められることが多いのですが、人はなぜか改革、変化を嫌い、警戒します。京都大学の山中教授が、じぶんの皮膚の細胞から、痛んだ臓器を直す細胞をつくる発明をしたことで、世界的に注目を浴びています。心筋や神経、肝臓、骨などの細胞など、あらゆる細胞に分化する可能性を持った細胞である「万能細胞」の作製に、山中さんは昨年8月に世界で初めて、マウスで成功し、今年、人でも成功しています。しかし、この万能細胞は、今までは、受精卵を壊して作るしかありませんでした。それを、受精卵を使わず、しかも学生にもできる簡単な方法である「皮膚など体の細胞に、4種類の遺伝子を入れるだけ」でできる方法を生み出したのです。この山中さんの発明に対して、生命の萌芽を壊すことに対し、ブッシュ米大統領やローマ法王庁などは、強く反対していました。また、昨年、マウスで作製に成功したときには、しばらくの間、海外の研究者の一部から、陰で嘘つきよばわりされていた時期もあったそうです。しかし、山中さんの方法を試みた海外の研究室でこのiPS細胞(人口多能性幹細胞)が次々に作製され、再現性が証明された後は、この細胞の研究に火がつき、競争が激化しています。それどころか、米国の研究者が追い越そうとしています。それは、この研究が、今まで、病気や怪我で傷つき、修復不可能になってしまった臓器の細胞は、移植するしか健康な状態に回復させることはできなかったのを、この細胞を使って修復しようという「再生治療」を可能にしたからです。ですから、受精卵を壊して作るES細胞に反対していた、米ホワイトハウスやバチカンのローマ法王庁の注目しており、山中さんたちの論文が発表されるや、即日、「iPS細胞の研究を歓迎する」というコメントを発表しています。そんな海外からの反応に刺激され、1週間後に開催された会議で福田首相が、「再生医療に向け、臨床研究の進め方などこの研究を円滑に進めるための環境作りを早急に進めて頂きたい。」と述べています。出る杭は打たれますが、一度その杭が認められると、今度は打って変わってみんながその手柄を自分のものかのように守り始めるのです。なんとも、みっともない話しですね。
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2007年12月19日 [近頃思うこと]
育児相談
新聞などで、毎日どこかに身の上相談が掲載され、それに各界の著名人がそれについての回答を述べています。その相談欄では、その相談内容にびっくりすることがあったり、共感したり、同じように悩んでいる人がいると安心したり、時代がわかったりと色々と感じるところがありますが、その回答でも、答えている人の人柄や考え方などがわかります。また、回答を、レギュラーではなく、ネット環境の中では、読者が回答するようなことが最近多くなりました。先日、こんな相談がありました。「学校がつらく、早く死にたいと言う高校1年の男子の親が、親は見守るしかないのでしょうか?」というものです。私は、よく「見守る」という日本語を大切にすることを訴えていますので、その言葉が使われている記事を読むと、すぐ反応していしまいます。この相談内容に二人の人が回答していました。簡単に要約してみると、その一人は、担任の先生や、教育相談担当の先生やスクールカウンセラーに相談したり、自治体の教育相談窓口などを利用することをすすめています。もう一人も、親御さんとしては様子を見ているだけではなく、なるべくなら学校にも相談し、早いうちに一度病院で受診することを勧めています。私も、相談の「親は見守るしかないのでしょうか。」という言葉が気になります。その質問は、もしかしたら「親はただ見ているしかないのでしょうか。」と言うべきではないかと思います。「見守る」のであれば、子どもの様子を見て、子どもを守るべき行動を起こさないといけないと思うからです。「見て」「守る」から「見守る」のです。ですから、この相談に答えている人の回答内容になるのです。しかし、子育ての中では、どこまで見ていて、どこから守ってあげればよいかの判断がとても難しいものです。それは、いくら幼児でも、すぐに守ってしまうのではなく、まず、子どもをよく見る必要があります。私がある本でのQ&Aコーナーで、「子ども同士で遊ばせると、喧嘩をするかもしれないし、意地悪をされるかもしれないと心配です。」という質問に対して、答えとして、次のように書きました。「最近、世界中で子どもの学力に対する考え方が変わってきています。子どもたちに必要な力として「何を知っているか」「何を覚えているか」から、「問題解決能力」が一番に上げられています。ところが、この少子化で、子どもが困難にぶつかったとき、親が代わりに解決してあげたり、原因を取り除いてあげるなど、困難な状況自体を封じる傾向にあります。そのため、今の子どもには自ら困難に立ち向かい、それを乗り越える力が欠けてしまっています。子どもたちは、成長する過程でさまざまな問題にぶつかります。それを大人が取り除いてしまうのではなく、子ども自ら乗り越えられるように援助してあげましょう。初めて体験する子ども同士の関わりの中で必要なことは、愛情深い保護者に見守られているという安心感です。子ども同士のトラブルが起きても、危険がない限り、未然に防いでしまっては自らそれを乗り越える力がつきません。ただ、ここで見ていてあげるよというサインを送ることが大切なのです。」このように、子どもを守るということは、ただガードするというだけではなく、同時に自らそれを乗り切る力をつけていくことも必要になるのです。それについて、翌月には次のような解答を書きました。「ドイツなどでは、「わが子にどうなって欲しいか?」という問いかけを親にすると、ほとんどの親は「自立」と答えるそうです。親が、子どもと十分に関わり、子どもの世話をするのは、次第に子どもが自立していくことを望んでいるからです。早く手放したり、自分でやることを強制したりすると、かえって自立を遅らせるからです。自立していくときには、愛情豊かな、思慮深い大人に見守られているという信頼関係がしっかりと築けていることが必要です。手を出すことよりも、ここで見てあげているよというサインを送ることが必要なのです。そして、いつでも困ったら、助けてもらえるという安心感が自ら行動することになるのです。何もできないのが子どもなのだとか、何も知らないのが子どもだとか思うのではなく、もっと子どもを信じてあげましょう。子どもは、たくさんの自ら育とうとする力を秘めています。その力を引き出すために、ちょっと手伝ってあげればいいのです。」子どもを放任してしまう親が多いと同時に、少子社会になると、そうしても子どもに対して過干渉になりがちな親も増えてきます。どうすることが「見守る」ことなのかを、もう一度考えたいものです。
投稿者 fujimori : 21:24 | コメント (4)
2007年12月18日 [近頃思うこと]
健康の秘訣
今日、長寿県が発表されていました。なぜその場所に長寿が多いのかは色々な考え方があるようです。朝のテレビでは、男性の長寿の長野県は、お年寄りの就業率が非常に高く、逆に、余り高くない県では、失業率が高くなっているということで、昨日のブログではありませんが、やはり人生の生きがいが健康に関係するのでしょうか。そんなこともあってか、今、韓国とか、中国は元気ですね。何年か前に中国の上海に、自然教育事情の視察ということで、日本野鳥保護連盟の方と一緒に行ったことがありますが、その頃から、随分と活気付いていましたが、今は、もっとすごいでしょうね。ANAの機内誌に上海のお年寄りの元気のキーワードが書かれていました。そのキーワードは、元気に過ごすためにとても参考になります。その1「おどる」です。ここ上海だけでなく、中国に行くと朝、公園で様々な踊りを踊っている人たちを見かけます。それは、「心と体の癒しを自然にゆだねるホリスティックな健康生活を実践すべし」ということで、思い思いの健康法を繰り広げているのです。ずいぶん昔のことになりますが、私が子供会を立ち上げ、その子ども会で夏の間ラジオ体操を公園で行っていたところ、次第に参加者にお年寄りが多くなり、夏休みが終わる頃、そのお年寄りたちが夏の間だけでなく、もっとやりたいということになり、1年中朝ラジオ体操をやることになりました。場所も、地域の公園から、その市の中央公園での活動になり、ラジオ中継までされることになったことがありました。日本では、朝、公園に集まるというと、ラジオ体操はありますが、上海では、「社交ダンス部」や、「花架拳」といわれる1000年以上の伝統がある武術の一種の踊りや、日本でも有名な「太極拳」、はてはプラスティックの剣で剣舞をやっている人などで活気にあふれているそうです。その2「うたう」です。最近日本では、若い人たちがストリートコンサートなど行っていることがありますが、上海では、「越劇」と呼ばれるこぶしの利いた民謡オペラ節を披露したり、太鼓や二胡やアコーディオンなどを演奏しながら歌っているお年よりも多いようです。これ以外は一般的ではありませんが、様々なお年寄りが健康のために行っていることを紹介しています。まず、「這う」です。手を保護して、毎朝数十分這い回ることで、普段使わない筋肉を刺激し、食欲が湧くのだそうです。そして、「凧揚げ」です。これは、目のかすみと首の凝りに抜群だそうです。確かに上を向いているので、首にいいかもしれませんね。ぜひ、ちょうどお正月なので、子どもと凧揚げするのはいいかもしれません。木に触って気をもらっている人もいます。ただ、木に触るだけという超簡単な健康法です。しかし、朝でないとダメだそうで、また、ゴツゴツした幹ほど手のつぼを刺激するので理想的だそうです。銀の球6つでお手玉をするのもいいそうです。これは、10本の指は、五臓六腑につながっているので、慢性病や認知症の予防になるそうです。私の園の今年のクリスマスプレゼントは、職員手作りのねずみの形をしたお手玉です。もちろん、中身は非常食として小豆が入っています。そして、公園から帰った後の医食同源の朝ごはんも健康の秘訣。しかし、最後にインタビューに答えた二人の人の言葉が、養生訓にもつながる長寿のためにもっとも大切なことのような気がします。「私は9歳から工場勤めを始めたの。退職した今、やっとおじいさんと一緒に過ごす時間ができたから、本当に幸せ」「一番大切なのは、悩まないこと。くよくよするのは本当によくない。笑って過ごすことがもっとも大切よ。」
投稿者 fujimori : 19:36 | コメント (5)
2007年12月17日 [近頃思うこと]
養生訓
インフルエンザがはやっていますが、もう罹ったでしょうか。私は、ありがたいことに、まだ罹っていません。園で行事があったり、講演など出かけたり、来客を迎えたり、自分だけでなく、他人に迷惑をかけることが多い毎日ですと、おいそれとは風邪にかかるわけにはいきません。しかし、そう自分の意志だけでは防げるものではないので、出かけて帰ったら必ずうがいをするとか、手をよく洗うなどはしますが、睡眠を十分とるとか、休息を十分するとか、栄養をきちんと取るとかいう事は必ずしも実行できません。ちょっと忙しいと、どうしても睡眠が1日4,5時間のことは多くなりますし、週末講演に出かけるとなると、土、日曜日はつぶれてしまいますので、2、3週間休みなしということもよくあります。そんなときは、「最近、寝不足だから体が心配だ」「いつも忙しくしていて、疲れないか心配だ」ということは思わないことにしています。ある程度年を取ると、「それほど睡眠をとらなくても大丈夫なはずだ」「自分で好きなことをやっているので、それほど休息をとらなくても大丈夫だ」と言い聞かせています。そんなこともあってか、私はそれほど体が丈夫なほうではありませんでしたが、最近は病気になることは少なくなりました。しかし、そんな私でも、まだまだ根性が足りないと思うことがあります。日曜日の新聞に書かれてあった日野原重明さんのインタビュー記事です。彼は96歳の現役医師ですが、それだけでもすごいのに、彼の日々の生活のハードさには頭が下がります。書き出しに、このインタビューの前後の日程が書かれています。「前夜は、講演の準備や原稿の執筆で一睡もできなかった。でも、朝になったら気分爽快。今日も気持ちよく仕事ができるなと。翌日は、台湾に半日滞在し、講演などをこなして帰国。」なんとすごい毎日ですね。しかし、この元気の秘訣はこう書いています。「大切なのは、小さな行動にも目標を立て、達成感を持つこと。」私は、この域に達するのはまだまだな気がしますが、最近は、講演などのあとには、とても充実感と達成感があります。そして、講演を喜んで聴いてくれた参加者に感謝の気持ちでいっぱいになります。講演が終わった夜など、よく「こんなに自分で充実した思いを感じたのに、人からは感謝されるような仕事って、本当に幸せだ」と思うことが多くなりました。そんなときに、いろいろなことに不満を持ち、他人に苦情を言い、気を張って生きていて何があるのだろうと思います。いつも相手の失敗とか、他人の悪い部分を見ている人は、自分の体のとっても不健康だろうなと思うことがあります。日野原さんとおなじように、83歳の1712年に自身の実体験に基づいて書かれたものに貝原 益軒の「養生訓」という本があります。この内容は、長寿を全うするための身体の養生だけでなく、こころの養生も説くというところに特徴があります。彼は、先日のブログの「和俗童子訓」も書いていますが、幼少のころから読書家で、非常に博識でしたが、書物だけにとらわれず自分の足で歩き、目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持っています。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体で書かれより多くの人に判るように書かれています。その彼が、養生という点からの三楽として次のものを挙げています。「1、道を行い、善を積むことを楽しむ 2、病にかかることのないのを快く楽しむ 3、長寿を全うすることを楽しむ」これを、愛妻家であった彼の妻もそのままに実践し、晩年も夫婦で福岡から京都などに物見遊山にでかけたりし、睦まじく長生きしたといいます。
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2007年12月16日 [旅先にて]
風林火山最終回
HNK大河ドラマ「風林火山」も今日最終回を迎えました。原作は、井上靖の長編小説で、「甲陽軍鑑」に拠る甲斐国武田信玄に仕えた軍師・山本勘助が、武田家に仕え、武田信玄と上杉謙信との幾度と行われた戦の中で最大の川中島の決戦で勘助が死ぬまでを描いています。あと、この物語の中心人物として、諏訪頼茂の娘であり、武田四郎勝頼の母となる人物である由布姫を描いています。ところで、今年は、信玄、山本勘助ゆかりの地域を訪ねましたが、その中で信玄と勘助の墓を訪ねて気が着いたことがありました。信玄は、その人物像を描いた小説によって、随分と印象が違います。また、彼の地元である山梨では、名君として受け止められています。確かに、彼の詠歌といわれている「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、あだは敵なり」という名文句から見ると、人を信じ、人に情けをかけることで、領地が安堵されると思っていることがわかります。その信頼をもとに、常に他国へと進出していた信玄の本拠地の甲府駅前には、信玄像が威風堂々と座っています。
この像のある甲府盆地を守り、戦国時代を生きた信玄は、志あと一歩というところでこの世を去っています。しかし、その墓は各地にあります。戦場で戦死したわけではありませんので、その遺体ははっきりしているはずですが、墓がいくつもあるのはある理由があります。信玄の亡くなったのは、駿河制圧後、大軍を率いて西上の途につく途中、尾張・織田・三河・徳川連合軍を三方ガ原に撃破しますが、途中病に倒れ、引き返した信州伊那駒場で53歳にしてこの世を去ります。その時の信玄の遺言によって、喪を3年間秘めていたことや万一の外敵を恐れて、埋葬地を秘密にしていた結果と思われています。いくつかある中で、私が訪れたのはそのうちの二箇所です。そのうちのひとつは、山梨県塩山市の恵林寺の奥まったところにある信玄公墓所です。
そこはかなり広く立派で、武田家家臣の墓約七十基も墓所後陣に並んでいます。もうひとつは、武田氏館があったつつじが崎館の跡に創建された武田神社から少し歩いたところにあります。信玄の墓はこのほか、山梨県内では大泉寺、長野県の諏訪湖、長岳寺と竜雲寺、和歌山県高野山、愛知県福田寺、京都の妙心寺など全国にあるようです。それに比べて、山本勘助の墓を訪れたときは、ちょっとその場所にショックを受けました。勘助の存在は1969年に「市川文書」の発見で確認されていますが、それまでは伝説的人物として存在が疑問視されており、風林火山の原作者の井上靖自身も史実性を疑っていたようです。面白いことに大言海や辞海という辞書には、当て推量なことを「山勘」「ヤマカン」と言うのは、山本勘助を略したという説であると書かれています。ちなみに、三省堂国語辞典には、「山師の勘」と書かれています。それは別として、勘助の最後は壮絶を極めます。謙信はて妻女山に入り、信玄は、海津城に入ります。両軍は数日に及び対峙し動こうとしなかったために、勘助は、啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことなぞらえた「啄木鳥戦法」を取りますが、軍略の天才である謙信はこの策を見抜きます。謙信は信玄を討ち取るべく車懸りの陣で武田勢に猛攻をかけ、信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしきます。
武田勢が劣勢の中で、勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、家来たちは次々に討ち死にし、それでも勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、上杉家の猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られます。享年69です。彼の墓は、その川中島の河原にぽつんと一基だけが祀られていました。

投稿者 fujimori : 12:02 | コメント (4)
2007年12月15日 [新聞記事より]
ロボット
今年の10月23日から1月27日まで、国立科学博物館(東京・上野公園)でロボットをテーマとした企画展「大ロボット博 ~からくりからアニメ、最新ロボットまで~」が開催されています。会場には実際に活躍している工業用ロボットから、フィクションの世界の人気ロボットまで様々なロボットが集合し、私はまだ訪れていませんが、連日多くの来館者で賑わっているようです。私の世代から多くの人がロボットと触れ合うのは、まず、「鉄人28号」「鉄腕アトム」から「マジンガーZ」、「機動戦士ガンダム」まで、マンガやアニメに登場したさまざまなキャラクターでしょう。そして、懐かしいブリキや「超合金」のおもちゃです。これらのおもちゃは、もうすぐ訪れるクリスマスプレゼントとしてサンタからもらうことが多いでしょうね。そのロボットから、子どもたちは夢を描き、未来を夢見ました。しかし、実際のロボットのほとんどは工業用に使われています。大ロボット博の案内には、こう書かれています。「現在、日本では、世界で最も多くのロボットが使用されています。また、その開発も盛んで、世界でもトップレベルのロボット技術を誇る日本は、世界有数の「ロボット王国」であると言えるでしょう。この展覧会では、日本の伝統的な「からくり」をはじめ、二足歩行ロボットや産業用ロボットなどの世界最高水準にある日本のロボットたち、そして漫画やアニメに描かれる未来のロボットたちを展示し、日本経済の未来を牽引するロボット技術を科学史的な視点から紹介するものです。最先端の制御装置による「自動演奏ピアノ」など実際に体感できる展示や、ロボットやからくりによるステージイベントも数多く予定しています。ロボットテクノロジーの歴史をたどりながら、モノづくりの楽しさ、魅力を体感し、日本の科学技術が描く夢の未来を体験してみよう!」こんな時代ですから、おもちゃのロボットもどんどん進化しています。今日のニュースで、こんなのがありました。「最新ペットロボ人気、育て方で性格や行動が変化」というものです。アイボをはじめ、ロボットをペットにすることが少し前からはやっています。子どもでは責任はあるし、いうことは聞かないし、自分の都合に合わせてくれないので、その代わりにペットを飼う人が増えていますが、それでもペットは世話をしなければなりませんし、死に直面しなければなりません。そこで、死なないロボットをペットにする人が今後増えるのでしょうか。今月中旬から販売される予定の愛玩用のロボットは、米国生まれのペットロボット「PLEO(プレオ)」というもので、育て方で行動や性格まで変化するそうです。このプレオを開発したのは、「ファービー」という1998年に登場した言語学習機能つき電子ペットを開発したところで、日本でも人気を博しました。今回のプレオは恐竜の赤ちゃんのような姿で、大きさは約50センチ、重さ約1.6キロ。38のセンサーと14個のモーターを感情豊かな動きをするようです。なんだか、見たところ恐竜ですので、私としてはバーチャルな世界での飼育という感じがして、まだ、安心します。逆に余りにも人間に近く、赤ちゃんに近いと、それを育てることと人間を育てることと比較されると困ると思います。しかし、なでると体を丸くしたり、作り物の葉っぱを口に入れると、エサを食べるしぐさをしたりする。世話の仕方や接し方などで性格が次第に変わるというように、次第に本物に近づいていますね。 しかし、今後も形は実在しないものにして欲しいと思います。
投稿者 fujimori : 18:12 | コメント (3)
2007年12月14日 [近頃思うこと]
シクラメン
先日の講演の後に、壇上に飾られていた「シクラメン」をいただきました。シクラメンといえば、真っ赤な色のものを思い浮かべますが、いただいた色は、紫の芯を持った真綿色をしています。
というと、当然、1975(昭和50)年に布施明が歌って大ヒットした小椋佳・作曲/作詞「シクラメンのかほり」の出だしの歌詞「真綿色したシクラメンほど~」を連想します。ですから、実際に見るシクラメンは真紅のものが多いのに、シクラメンといえば真綿色と思っていました。しかし、シクラメンの歌の歌詞の1番は真綿色ですが、2、3番は違うのです。「1、真綿色した シクラメンほど 清(すが)しいものはない 出逢いの時の 君のようです」真綿色は、出会いを感じるようです。そして、恋をするようになると、その色は赤くなります。「2、うす紅色(べにいろ)の シクラメンほど まぶしいものはない 恋する時の 君のようです」しかし、恋も長くは続きません。別れが来ます。すると紫に変わっていきます。「3、うす紫の シクラメンほど 淋しいものはない 後ろ姿の 君のようです」歌詞をじっくり詠むと、シクラメンという花がどんなイメージがあり、その花言葉も納得します。花言葉は、「内気・はにかみ・恥ずかしがり屋・遠慮・切ない私の愛を受けて下さい・純潔・嫉妬・猜疑心・過ぎ去った喜び」とあります。これらは、その花の色からの連想でしょうが、花の名前は、その形から来ています。もともとのCyclamen(シクラメン)の語源は、ギリシャ語の「kiklos(円)」(英語では、サイクルCycle)で、塊根が丸い球形のようなところからきています。また、和名では、花の形が、ひっくりかえったような形であるところから、篝火を連想して、「篝火花」(かがりびばな)と呼ばれることもありますが、これは、シクラメンを見たある日本の貴婦人(九条武子だといわれている)が「これはかがり火の様な花ですね」と言ったのを聞いた牧野富太郎が名づけたといわれています。また、「豚の饅頭」という和名は、シクラメンの原産地であるトルコやイスラエルの方で、野生の豚がシクラメンの球根を食べたことから、豚にとっては饅頭がわりということで「雌豚のパンsow bread」という英名を、ある植物学者が日本語に翻訳した名まえですが、この名前はかわいそうですね。しかし、豚だけでなく、人間も食べていました。塊茎の澱粉を注目され、サポニン配糖体を含む有毒にもかかわらず「アルプスのスミレ」などの美称があり、食用とされていたのですが、大航海時代以後ジャガイモがもたらされると、食用にする習慣はなくなりました。シクラメンに関する伝説で、草花好きだったソロモン王が王冠に何か花のデザインを取り入れようと思い様々な花と交渉するが断られ、唯一承諾してくれたシクラメンに感謝すると、シクラメンはそれまで上を向いていたのを、恥ずかしさと嬉しさのあまりにうつむいてしまった。と言うものがあります。ですから、花言葉に「恥ずかしがり」というのがあるのですね。日本には明治時代に伝わり、日本での本格的な栽培は、岐阜県恵那市で始まりました。シクラメンは高温多湿の日本の気候に合いませんでしたが、戦後、急速に普及し、日本での品種改良も進められ、花色も黄色や二色、フリンジ咲き、八重咲きなどが登場して、いまや日本における鉢植え植物では生産量はトップクラスで、冬の鉢植えの代表格として、またクリスマスの季節とあいまって定着しています。花には、その花の名前の意味から、形から、色から、成分から、深い背景があるのですね。
投稿者 fujimori : 23:23 | コメント (3)
2007年12月13日 [近頃思うこと]
転倒、落下防止
きょう、園に東京都から指導検査に来ました。そのときの指摘に、転倒防止、落下防止をするようにというものがありました。確かに、新潟県中越地震や宮城県北部を震源とする地震、十勝沖地震では、負傷者の三割から五割が家具類の転倒・落下物によるものでした。しかし、注意をされたものは、棚の上においてある「加湿器」です。これを固定するように言われたのですが、確かにそれも一理あるのですが、置いてあるのは、それほど高い棚の上でもなく、また、加湿器もそれほどすわりが悪いわけではなく、また、時間帯によって移動させたいので固定するわけにはいかないのですが、それぐらい神経を使わないといけないということなのでしょうね。また、地震のときの家具の転倒による負傷は、揺れの中で何らかの行動をおこしたことや転倒した家具や落下物につまずいたため自ら転倒し、受傷した事例も見られました。特に子どもには特別な配慮が必要かもしれませんね。そんなことで、メイツ出版から「今すぐできる!ママが子どもを地震から守るための本 (マミーズブック)」という本が、著者「ママが地震災害から子どもを守るプロジェク」によって出版されました。この本は、大地震が起きたら子どもをどう守るかという視点で、阪神大震災の被災者や子育て中の母親たちが本を出版したものです。イラストも使ってわかりやすく書かれており、「お母さんの知恵」が詰まっています。アンケートから、家庭の地震対策で盲点になりがちな点を調べたうえで、専門家に助言をもらっています。紹介されている55のアドバイスの中は、「もぐる場所を居間につくる」「ダイニングテーブルの下に懐中電灯を」「幼児の避難バッグは2キロ以内に、マンガやお菓子も入れる」「さらしは子どもを背負う時や応急措置などに使える」などがあります。また、東京消防庁では、家具類の転倒実験を公表しており、家具類の転倒・落下防止措置の必要性を訴えています。また、家具類の転倒・落下を防止するというのは、倒れてきた家具によって負傷するのを防ぐといった理由だけでなく、速やかに安全な場所へ移動する為の、脱出経路の確保という観点からも重要です。では、実際に家具の一般的な転倒防止器具にはどんなものがあるでしょうか。まず、「L型金具」という家具と壁をネジによって固定するタイプのものがあります。これはかなり効果があるようです。これは、固定だけでなく、スライド式のタイプもあります。つぎに「ベルト式・チェーン式・ワイヤー式・プレート式」という、家具と壁をそれぞれネジ止めした金具をベルト、金属チェーン、ワイヤー、金属プレートなどで結んだタイプのものがあります。また、背の高い家具で、壁などにねじなどを開けたくない場合は、「ポール式(つっぱり棒式)」という、家具と天井の隙間に棒状の物を設置するやり方があり、これは、ネジ止めが不必要なタイプです。そして、神戸などで意外と効果が高かったものに、「ストッパー式」という、家具の前下部にくさび状に挟み込み、家具を壁側に傾斜させるタイプのものがあります。転倒するというのは、その家具の重心が底面から外れる場合ですので、その重心を後ろのほうにしておくと、家具がかなり揺れても重心が底面から外れにくくなり、転送しにくくなるからです。「マット式(粘着マット式)」は、よく、園で使用するタイプのものです。粘着性のゲル状のもので、家具の底面と床面を接着させるタイプの器具です。これには、どのくらいの重さをかけてもはがれないかの表示があり、少しくらいゆれてもはがれません。地震は、必ず来るといわれています。少しでも普段から対策を練っておくと随分と被害が少なくなるようです。
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2007年12月12日 [講演先にて]
旬の魚
先週末、富山に行ったときにこの地方の旬の魚をいただきました。今の時期、なんと言ってもおいしいのは、「寒ブリ」です。冬に入ると、北陸では猛烈な風が吹き荒れ、雷が激しく鳴るようになります。これを富山湾では"鰤起し(ぶりおこし)" と呼んでいるそうです。それは、冬のブリ漁が始まる合図で、12月から翌年の3月まで、脂ののった最高のブリがあがります。ブリの名前の由来は貝原益軒によると「あぶら多き魚という意味で、"あ"の字を略してブリと呼ばれる」ようになったそうです。いただいた寒ブリは、その名の通り12月~2月までの厳寒期が旬です。氷見ブリ、能登ブリ、佐渡ブリなど、北陸が名産地です。そして、関西から北陸にかけては、正月に食べる歳取り魚として重要な縁起物として扱われます。また、ブリは関東地方ではワカシ(20cm前後)>イナダ(40cm前後)>ワラサ(60cm前後)>ブリ(80cm以上)。 関西ではツバス>ハマチ>メバル(メジロ)>ブリと名前が変わります。昔の武将は出世する度に名前を変える習慣があったので、成長につれて名前の変わるこのブリの様な魚は出世魚と言われて縁起物扱いされました。この寒ブリを刺身でいただいたのですが、ブリの旨みは脂肪分が筋肉組織の中に入り込んでいる所にあり、醤油をはじくほど脂の多い寒ブリを刺身で食べても、 脂っこさ感じません。また、刺身でいただいてとてもおいしかった魚は、「カワハギ」でした。この魚は、全国で、また、四季を通じてまずい時期はありませんが、やはり旬は、身も太る秋から冬にかけてであり、肝を乗せて食べる味はなんともおいしいものでした。この淡白な味は、幼児食や病人食としてもよく利用されます。カワハギという名前は、その名の示す通り、皮が非常に堅くザラザラしており、皮を剥でから料理するところからつけられたといわれています。その皮は戦中戦後、サンドペーパーの代用品になっていました。同じようにザラザラの皮を鮫が持っているためにザラザラな肌を鮫肌といいますが、「和漢三才図会」にはカワハギのことを「形状は大変醜く頭は方頭魚(くずな)に似、体はほぼ鮫に似ている」とあり「鮫の属であろうか」と推察しています。また、この時期おいしい魚に、「タチウオ」があります。5歳児が、なんと粘土でこの魚を作っていました。
この作品をタチウオの図と比べるとそっくりなのですが、作った本人はあまりそんなことを思っていないようです。

この魚も、1年中獲れますが、秋から初冬が旬です。その外観が太刀に似ていることから、太刀魚と名づけられたとする説や、立ち泳ぎすることより、立魚(タチウオ)と名付けられた説もあります。尾はヒモのような糸状になっており、歯は鋭くて大きい。上下のあごの先端には、奥に向かって返しのついた犬馬があり、ちょっとふれただけでもカミソリで切ったように血が止まらないそうです。あごの中には予備の歯があり、前列の歯が欠けるとすぐに生え変わることから、「タチウオは歯を大事にする」と漁師たちは褒めます。今の時期にとてもおいしいものに、直接魚ではありませんが、「白子」があります。これは、内湾に産卵にくるのを刺し網でとったタラの雄の精巣です。真鱈やスケソウダラの白子は細かいヒダが菊の花のようなので、菊子と呼ばれています。ネットリとした質感で濃い旨みがあり、ポン酢、モミジオロシとワケギで食べるとほのかな甘味もあって大変おいしかったです。その地域、その季節に旬のものがあり、それを食する楽しみも地方に行く楽しみです。
投稿者 fujimori : 22:07 | コメント (5)
2007年12月11日 [行事]
初詣
都内の地下鉄の駅に置いてある「メトロガイド」には、初詣特集が掲載されています。地下鉄沿線の神社仏閣が紹介されています。もう、そんな時期になったのですね。キリスト教でのクリスマスを祝ったあとに、今度は、初詣が待っています。みんなは、どこに初詣に行くのでしょうか。毎年、警視庁発表「○○年度 神社・仏閣人出予想」というのが出されます。毎年第1位は、「明治神宮」(東京)です。昨年の人出予想は、310万人でした。この明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后をお祭りしている神社です。ここが毎年1位なのは、この神社が、にぎやかな場所にあるのに、神聖な森に包まれ、とてもロマンチックな雰囲気があるということがあるでしょう。この森は、昔からの森ではなく、「落ち葉を掃いてはならん」というおふれを出して、たったの100年でまるで自然林のような森を回復させた世界1大きなビオトープとして世界的にも有名です。2位は、成田山新勝寺(千葉)で、275万人の人出予想がありました。ここは、平将門の平定のために、寛朝大僧正が、不動明王を奉じ、平定後にお堂を立てたのが始まりです。このようなところをお参りして、みんなは、何を願うのでしょうか。最近は、願いと関係なくお参りに行くのが一般的になっていますが、少なくともその神社が誰を祭っているのか、何にご利益があるのかを知っておいたほうがいいと思うのですが。一応、その名前で祭られている人、何にご利益があるのかが大体わかります。「神宮」という名前が着いているときには、天皇の祖先神が祀られています。ご利益は、「平和、国家安泰、家内安全など万事」であるといわれています。もし、「八幡」と着いている場合は、八幡神を御祭神としていて、ご利益は、「必勝祈願、安産祈願、厄除け、長寿」などです。また、「天満」と着く場合は、学問の神様・菅原道真が祀られています。ご利益は、「合格祈願、学業成就」などです。「稲荷」が着く場合は、「商業、農業」の神様です。「商売繁盛、豊作祈願」などです。そう思って3位以下を見てみると、3位伏見稲荷大社(京都)269万人、4位川崎大師(神奈川)262万人、5位熱田神宮(愛知)232万人、6位住吉大社(大阪)230万人、7位鶴岡八幡宮(神奈川)215万人、8位太宰府天満宮(福岡)200万人、9位浅草寺(東京)185万人、9位大宮氷川神社(埼玉)185万人となっています。どうもご利益というよりも、人出が人出を呼んでいるようですね。初詣は、初参りとも言い、年が明けてから初めて寺社(神社・寺院)や教会などに参拝し、一年の無事と平安を祈る行事ですが、元々は「年蘢り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に蘢る習慣でした。やがて年蘢りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今日の初詣の原形となったのです。現在でも、除夜に一度氏神に参拝して一旦家に帰り、元旦になって再び参拝するという地方があり、これを2年参りといいます。私の父は、毎年、高尾山に2年参りをしていました。初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく、従来は氏神またはその年の恵方の方角の社寺に詣でること(恵方詣り)が多かったようですが、最近はそんなことは関係なく、寺社へ参拝をし、社務所でお守り、破魔矢、風車、熊手などを買ったり、絵馬に願い事や目標を書いたり、おみくじを引いたりして、今年一年がよい年であるよう祈るようです。そんな祈り方は、いかにも日本人らしいですね。
投稿者 fujimori : 23:59 | コメント (4)
2007年12月10日 [近頃思うこと]
羽根つき
先日のブログでコマのことを書きましたが、男の子がお正月にコマ回しや凧揚げに興じているときに女の子は「羽根つき」や「鞠つき」に興じていました。江戸時代に子どもが遊んでいる姿を描いている絵を見ると、そのような姿が書かれていることが多いようです。園にある浮世絵にも描かれています。
また、東くめ作詞、滝廉太郎作曲の「お正月」という歌の歌詞の1番は、「お正月には 凧あげて こまをまわして 遊びましょう」という男の遊びが歌われており、2番は、「お正月には まりついて おいばねついて 遊びましょう」と女の子の遊びが歌われています。私が子どものころは、羽根つきは特に女の子の遊びというわけではなく、今のバドミントンのように遊び、また、打ちそこなった場合は失点とされ、顔に墨でバツ印などの落書きをされる罰が与えられることで、テレビなどのバラエティ番組でもよくやります。1544年に一条兼良・兼冬によって書かれ、1663年に京都で出版したものに「世諺問答」(せげんもんどう)という書物があります。この本には、日本で古くから行なわれている四季折々のならわしの起源や意味などを、老人に質問し、答えてもらうという問答形式で記した解説書です。その中で、こんな質問をしています。「正月 おさなきわらはのこきのこのこといひてつき侍るは、いかなることぞや」お正月に子どもたちが羽根つきをどうしてするようになったのでしょうかという質問です。それに老人がこう答えています。「これはおさなきものゝ、蚊にくはれぬまじなひ事なり、秋のはじめに、蜻蜒といふむし出できては、蚊をとりくふ物なり、こきのこといふは、木連子などを、とんばうがしらにして、はねをつけたり、これをいたにてつきあぐれば、おつる時とんばうがへりのやうなり、さて蚊をおそれしめんために、こきのことてつき侍るなり」それは、子どもたちが蚊に食われないためのおまじないであるとされています。つまり、秋の初めに、トンボという病気を運ぶ蚊を食べる虫が出てきますが、ムクロジ(木連子)の種子に3枚の羽根をつけると、そのトンボに似ますが、それを板で突くと、羽が落ちる様子はとんぼ返りのようで、蚊をよけるようになるということを言っています。それが正しいかはわかりませんが、羽根突きの起源、その意味付けには諸説あります。少なくとも、今でも、口承で、羽子板は厄を「羽根」のける縁起の良いものと伝えられています。また、同じ室町時代には、後花園天皇の実父にあたる伏見宮貞成親王が3年間宮中のことを記録した「看聞御日記」に羽根つきの記録があります。この記録には公家や女官が男組と女組に別れて、「こぎの子勝負」を行い、負けた組が酒を振舞ったとの記録があります。「こぎ」は「胡鬼」と書き、ここでは「羽子」が「胡鬼の子」と呼ばれていました。また、当時の足利将軍家が年末に、宮中に羽子板を贈った事が記されています。中国の14世紀ころに硬貨をつけ錘とした羽根を蹴る遊びがあり、室町時代にこれが日本へ伝来、これが羽根つきの起源とされています。戦国時代から羽根つきに厄払いの想いがあり、江戸時代は年末に邪気よけとして羽子板を贈ったとのことです。 今も女児の初正月に羽子板を贈る習慣が残っています。羽子板で突く羽根に付いている黒くて堅い玉のムクロジは、木連子と書きますが、「 無患子」と書くことがあります。この字は、読んでの ごとく「子が患わ無い」(子がわずらわない)という意味で、お正月に羽子板を飾ったり、女の子の初正月に羽子板を 贈るのは、魔除け・厄被いの意味があります。園には、お正月に飾る凧とコマはあるのですが、今度、羽子板も買ってこなければと思っています。
投稿者 fujimori : 23:52 | コメント (4)
2007年12月09日 [近頃思うこと]
過保護
今年は随分と風邪が早くはやっているようですね。特にインフルエンザが猛威を振るっています。最近、携帯電話を始め、様々なものが急激な進化を遂げ、科学的な解明や脳科学などの研究も進む中で、どうも風邪のウイルスも急激な進化を遂げているようです。どうも、いたちごっこですね。風邪には、化学的解決の研究と同時に、自らの力を見直し、その力をつけることもしないといけないようです。しかし、最近の少子化を受けて、子どもを大切に思う余りに、かえって子ども自ら乗り越える力を奪ってしまうことがあるようです。によって養生訓という、江戸時代、健康な生活の暮し方についての解説を書いた儒学者貝原益軒が、「和俗童子訓」という教育論を書いています。これは、養生訓に先駆けること3年、彼が81歳の1710年に執筆されており、日本で最初の体系的な教育書といわれています。儒学者である彼は儒教の子育て感の影響を強く受けており、江戸時代の教育機関である寺子屋での教育に強い影響を与えたとされています。その中にこんな文があります。「凡そ小児を育つるに、初生より愛を過すべからず。愛すぐれば、かへりて、児をそこなふ。」これは、子どもを育てるときには、生まれてからすぐでも余り可愛がりすぎてはいけない。もし、可愛がりすぎると、良かれと思っても返って子どもをダメにしてしまうと言っています。どうしてそういうことが言えるのかの具体例をそのあとに挙げています。「衣服をあつくし、乳食にあかしむれば、必ず病多し。衣をうすくし、食をすくなくすれば、病すくなし。富貴の家の子は、病多くして身よはく、貧賎の家の子は、病すくなくして身つよきを以って、其故を知るべし。」寒いだろうと思って余りに厚着をさせたり、お腹がすくだろうとたくさんの乳を与えたり、たくさん食べさせたりすると、病気になりやすくなってしまうものだ。薄着にさせ、食事も少なめにすれば、病気になることは少なくなる。それは、とかく金持ちの子は病気がちになることが多く、貧賤の家の子は病気になりにくく、体が強いということからもそのことがわかる。と言っています。このような過保護な親が、今の少子時代だけでなく、江戸時代でもいたのですね。貝原益軒は、そのことを古から言われていることを例に出しています。「凡そ小児を安からしむるには、三分の餌と寒とをお(帯)ぶべし」そのあとで、この言葉の解説をしています。「三分とは、十の内三分を云。此こころは、すこしはう(飢)やし、少はひやすがよし、となり」これは、簡単に言うと、少しは空腹にしたり、少しは寒さいくらいにしたほうがよいということです。子どもがお腹がすいたといえばすぐにお菓子などを与えたり、寒いといえば暖房をすぐにつけたり、暑いと言えば暖房を入れてしまい、鳥肌を立たせ寒さに対抗したり、汗をかいて体を冷やしたりする自らの力を奪ってしまっているのです。そんなことを世間の人は知らずに、子どものためと思って、返って子どものためでないことをしていると警告しています。「天気善き時は、おりおり外にいだして風・日にあたらしむべし。かくのごとくすれば、はだえ堅く、血気づよく成て、風寒に感ぜず。風・日にあたらざれば、はだへもろくして、風寒に感じやすく、わづらひおほし。小児のやしなひの法を、かしづき育つるものに、よく云きかせ、教えて心得しむべし。」厚着をさせるよりは、天気のよいときには時々外に出し、風や日光に当たらせれば、血気が強くなり、風や寒さに強くなり、皮膚は丈夫になると言います。「子どもは風の子」ともう一度言えるようにしたいですね。
投稿者 fujimori : 22:06 | コメント (5)
2007年12月08日 [近頃思うこと]
松
一昨日は園内にクリスマスイルミネーションを飾りました。最近は、年々飾りが早くなっていますが、私の園では、クリスマスの飾りは12月1日が解禁日です。玄関には大きなツリーが飾られました。クリスマスツリーの習慣は、ドイツで始まりました。クリスマスツリーに使う木は、常緑樹と決まっています。代表的なものとしては「もみの木」で、歌にもなっています。
しかし、他にも松、ヒイラギ、月桂樹、ヤドリギなども使われています。様々な木が使われますが、それらの木には共通点があります。それは、どれも常緑樹を使います。なぜかというと、緑の葉が永遠を表しているからなのです。そして、その緑の葉は、強い生命力がゆえと捉えられていて、そしてさらに、常緑樹は神やキリストの永遠の愛や永遠の命を象徴しているとされているからです。枯れることのない緑の木に、永遠の命をもたらすイエスのシンボルを見て、また、希望をもたらす色として緑を使うようになりました。また松も世界各国では、不老長寿、節操、多産の象徴として尊ばれて、クリスマスツリーとして使われるところが多いようです。日本でも、常緑樹の代表として松を使うことが多く、松は常緑木(ときわぎ)と呼ばれ、冬でも葉が落ちないことから、若さ、不老長寿の象徴とされ、 縁起の良いもの、おめでたいものとして門松などに使われたり、竹、梅と合わせて「松竹梅」としておめでたい樹とされています。また、日本の城にもよく植えられていますが、これは縁起が良いだけでなく、非常時に実や皮が食料になるため重宝されてきたためです。浜離宮には、江戸時代、六代将軍家宣が庭園を大改修したとき、その偉業をたたえて植えられたと伝わる東京都内最大の黒松「三百年の松」が、太い枝を低く張り出し、堂々たる姿を誇っています。
能、狂言の舞台にも背景としても必ず描かれており(松羽目)、演目によって山の松や浜の松、庭の松などに見立てられます。また、羽衣伝説など様々な松に係わる伝説も多く、日本の文化を象徴する樹木ともなっています。ですから松とのかかわりはとても古く、「古事記」にも登場しています。焼くとしてはこんな歌です。「尾張の国に、まっすぐ向かっている、尾津の崎。そこに生えている一本松よ。ああ、お前は、一本松よ。よくぞ俺の大刀を守っていてくれたな。褒美に、お前が人だったなら、大刀を佩かせてやりたかったのに。服を着せてやりたかったのに。一本松よ、ああお前は。」山の神の悪気にやられて歩くことも困難になって、杖をつきながら、故郷の大和をめざしている途中に、行きがけに忘れてきた大刀が一本松のもとに残っていたのを見て、松が良くぞそのたちを守ってくれたと感謝の歌で、松にはそのような、守ってくれるような力があると古事記の時代からも感じていたのでしょう。その松の力は、常緑樹であるというだけではなく、朝鮮五葉松などから採取された松の実は、食用にも供されます。60%を超える脂質のほか微量元素も含まれ、独特の香りを持つことから健康食品、菓子等にも使用されているのです。また、フランス海岸松の樹皮から抽出されるポリフェノールを多く含むエキスは、サプリメントに利用されています。赤松などの若葉を洗浄して、砂糖水に漬け、葉に付着している細菌の作用で炭酸ガスを発生させて水中に溶け込ませて作る松葉サイダーという飲み物がありますし、紅茶のラプサンスーチョンは、タイワンアカマツなどの木材や樹皮でいぶして、独特の香りを付けて作られます。樹脂である松脂も香料として使うこともあり、フランスなどでは松の香りのする飴が作られています。クリスマスツリーから、松まで思いをはせるように、身の回りのことからいろいろなことを考えていく楽しみがありますね。
投稿者 fujimori : 22:44 | コメント (2)
2007年12月07日 [新聞記事より]
教育優先
先日の新聞記事に、「家計支出に占める子育て費の割合「エンゼル係数」が2007年に26・2%にとどまったことが、野村証券の調査で分かった。」という記事が掲載されていました。エンゼル係数とは、エンゲル係数にひっかけた語句で、一家のひと月の家計の中で子どもに費やした、学校や塾の授業料、子供の衣食住、病院、レジャーの費用、子どもに与える小遣い、将来のための学費貯金、子ども保険など、子どもに関係する費用全てが総支出に占める割合を指す言葉です。この数字は、1991年に現在の形で調査を始めて以来の最低水準で、1993年の33・4%をピークに下落が続いています。同証券は「少子化に加え、年収の二極化で低所得者層が子育て費を引き締めたため」と分析しています。しかし、景気低迷が原因であることもあるでしょうが、子どもに使う費用の優先順位が、生活の中で下がってきているということもいえるような気がします。子どもにかける費用は、将来への投資です。しかし、次第に、投資に対する見返りの見込みが少なくなってきたということと、今現在にお金を使うということも優先して、先を見る力の欠如に関係するような気もします。しかし、これが嘆かわしいと思うよりも、もっと嘆かわしいデータが、やはり先日の11月6日の新聞に掲載されていました。それは、経済協力開発機構(OECD)は先頃、2007(平成19)年版の『図表で見る教育』を発表した結果についてです。この中で日本が教育にお金をかける「公的支出」の割合は、国内総生産(GDP)比で見ても非常に低いことがわかったのです。これは、以前から言われていることですので、また、今回の調査でもそうだったかという印象です。OECDといえば、ここのところ、昨年に57カ国の15歳を対象に実施した「生徒の学習到達度調査」(PISA)で、日本の高校1年生が前回に比べて、読解力が14位から15位、数学的リテラシー(活用力)が6位から10位、科学的活用力が2位から6位になり、実施3分野すべてで順位が低下したことが話題になっています。それよりも驚くのは、教育にお金をかける「公的支出」の割合です。OECDの加盟国30カ国のなかで、2004(平成16)年度のGDPに占める公的な教育支出の割合は、日本が3.5%で、ギリシャに次いで下から2番目なのです。保護者が払う授業など「私的負担」を加えても4.8%で、下から5番目です。随分と低いですね。学力がトップのフィンランドは、 現在、6.1%です。GDP に占める高等教育への財政支出は、もっとひどいものです。アメリカが1.2%、イギリス0.8%、ドイツ1.0%に対して、日本は、なんと0.4%で、欧米の半分に満ちません。ちなみに、大学にかかるお金(2005年)は、日本では817,800円(国立大学の初年度納付金)かかるのにたいして、ドイツでは、18,100円(社会保険・福祉会計費など。授業料・入学金はなし)ですみます。しかし、政府は、単純に増やすことには危惧しています。6月に財政制度等審議会(財政審)が出した来年度予算に対する建議では、「教育予算の対GDP比のみを以て、その多寡を議論するのは適当ではない」と指摘しています。その根拠は、1989(平成元)年以降、小・中学生1人当たりの公教育支出は1.5倍以上に増えているのにもかかわらず、「学力低下」に代表されるように、教育の問題はむしろ深刻化しているではないか、というものです。確かに金額ではない気がします。しかし、最近の政府の無駄遣いのニュースを見るたびに、もっと、教育を優先的に考えてほしいと思ってしまいます。
投稿者 fujimori : 23:33 | コメント (4)
2007年12月06日 [近頃思うこと]
冬の楽しみ
風邪を予防したり鎮めるのに色々な知恵がありますが、1年中でもっとも昼が短く、夜がいちばん長くなる冬至に入る「ゆず湯の風呂」は、1年中風邪をひかないという言い伝えがあります。なぜ冬至にゆず湯なのかというと、「冬至」に「湯治(とうじ)」が、かけられており、また、「柚子(ゆず)」だけに「融通(ゆうずう)が利く(きく)ように」という願いがこめられていると言われています。もちろん、科学的にも立証されています。柚子の精油成分には、蜜柑の皮と同じく血行を促進させる働きがあり、風呂に入れると身体を芯から温めます。新陳代謝も活発になるので、疲れや痛みもとれ、冷え性にも効果があります。東京ガス(株)都市生活研究所の調べによると、ゆず湯はさら湯に比べ、ノルアドレナリンの濃度が4倍以上になることが明らかになりました。つまりゆず湯に入ると、血管が拡張して血液の循環がよくなるというわけです。血液の循環がよくなると、冷え性や神経痛、腰痛などがやわらぎます。こんな自然の恵みを利用した冬の過ごし方があり、それが望ましいのかもしれませんが、入浴剤もたまには楽しむのも体がゆったりします。今日、おもちゃメーカーのバンダイが、子どもにとって安くて意外とおいしい「やおきん」が販売するお菓子「うまい棒」をモチーフにした入浴剤が発売されるというニュースが流れていました。「めんたい」や「コーンポタージュ」などの味のイメージにあわせ、保湿成分や色などを変えた8種類をそろえています。「めんたい」の場合は、保湿成分は唐辛子エキス、色は赤、香りはバラだそうです。うまい棒1本を買える10円玉を30枚ためられるコインケースと「大当たり」が出ればうまい棒のモチーフにデザインした布団カバーセットがもらえるおみくじシール付きというように、徹底した遊び心があります。この商品は、バンダイがお菓子をモチーフにした入浴剤の第2弾です。6月に発売されたのは、赤城乳業の氷菓「ガリガリ君」をモチーフにした入浴剤「ガリガリ君入浴剤 Cool!(クール)」です。この入浴剤の香りには、「ソーダ」「オレンジ」「グレープ」「コーラ」の4種類があり、パッケージや入浴剤の形状などが氷菓の「ガリガリ君」風にデザインされています。夏に発売されたので、入浴剤はクール成分メントール配合で、暑い夏もさわやかな入浴を楽しめます。また、お風呂に入れると入浴剤成分がお湯に溶けていき、最後にはバーが残るようになっていて、ここには、ガリガリ君からの一言メッセージが入っており、「当たり」の文字が出れば「ガリガリ君手動氷かき」のスペシャルバージョンがもれなくもらえました。今日、入浴剤の基本的な効果は、入浴そのものによって得られる温浴効果(身体を温める、痛みを和らげる、等)と清浄効果(汚れを落とす、皮膚を清浄にする、等)を高めることにあり、この考え方を基に、商品に表示あるいは広告できる具体的な効能が薬事法に定められています。その効果は医療薬として、日本ばかりでなく欧米でも高く評価されています。また入浴剤に応用した場合にも血行促進効果や湯冷め防止効果等が認められており、そのメカニズムについて最近盛んに研究がなされ、徐々に解明されつつあります。もう1つの効果「香り」によるリラックス効果についても、脳波や心拍数等の測定により証明されつつあります。冬は、寒いだけあって、それを乗り切る色々な工夫や知恵や楽しみもたくさんあると思うと、なんだか寒さもまんざらでない気がしてきます。
投稿者 fujimori : 22:04 | コメント (5)
2007年12月05日 [近頃思うこと]
日本人の創造性
昨日、汐留クリエイティブ・センターで、「創造性の中で」ということで、ドナータ・ファブリ教授が、その後、「創造性の芸術」というテーマでアルベルト・ムナーリ教授が話をしました。その後を受けて、両人と私が「創造性について」対談をしました。最初の私からの投げかけは、「日本人は物真似民族である」ということで想像力に劣っているとよく言われますが、本当に日本人は創造性や創造力において、他民族より劣っているのかという点です。それは、もちろん子どもの造形活動を見ていて、逆に日本人特有の創造性の発揮ではないかと確信を持っていることがありますが、もうひとつは鉄砲伝来のいきさつです。日本への鉄砲伝来について、私は随分認識が違っていました。嵐でたまたまイギリス船が種子島に打ち上げられ、そこに鉄砲が積んであったと記憶していたのがずいぶん違っていました。「いご、よみがえるたねがしま(以後、よみがえる種子島)」と語呂合わせで1543年鉄砲伝来と覚えたものですが、1543年8月中旬、中国広州を出国した明国船は、ポルトガル人3名を乗せて東へ向かいます。ところが不運にも台風にもまれながら琉球列島を北上し、上陸を試みますが、どの島からも明人倭寇ということで拒まれます。そして25日早朝種子島南端門倉岬に漂着するのです。これが日本への鉄砲伝来の記念日です。この船は、島の第14代殿様である種子島時堯のはからいで、およそ50キロ北の城下の港に曳航されます。そして翌年1月まで、ポルトガル人、琉球人、中国人ら百数十名が港頭の慈遠寺の宿坊で生活しますが、そのとき、様々な珍しい、新しいものが日本に伝来します。たとえば、パン、蒸しパン、樟脳、タバコ、中央支点式の鋏などです。中でも、戦国時代、日本の歴史を変えるきっかけとなった「鉄砲」も、その中に含まれていたのです。当時16歳であった時堯は、彼らの持っていた奇妙な筒状の鉄棒に心引かれました。これがいわゆる鉄砲で、その威力は弓矢の比でなく、すばらしい武器だったのです。種子島時堯は、大金2000両(今で言うと、2億円くらい)でこの鉄砲2挺を買い求めます。そして、刀鍛冶の八板金兵衛に鉄砲を、篠川小四郎に火薬製法を学ばせました。すぐに、鉄砲の国産化を目指したのです。そして、彼らの非凡な技術と努力によって、短期間に国産化に成功します。これがわが国の国産第1号の鉄砲です。日本の種子島に鉄砲が伝来してからわずか1年未満で国産化を実現し,短期間で大量生産体制を確立することができたのは,当時の世界の中で日本だけです。ちなみに,日本よりもはるかに早く,ヨーロッパから鉄砲が伝来したアラブ諸国,インドでは,ついに国産化はされませんでしたし、当時の大国であった中国でさえ,種子島に鉄砲が伝来する25年前に鉄砲を手にしていたのに,鉄砲の国産化はむしろ日本より遅かったとの説もあります。その鉄砲は、種子島から紀州の根来や泉州堺に伝わり、近江の国友などでも大量に生産され、全国に広まっていきます。1575年、長篠・設楽原の戦いでは、武田勝頼率いる当時最強といわれた武田騎馬軍団を、織田信長・徳川家康の連合軍が、約3000挺の火縄銃で撃ち破っています。この戦いは、銃火器を組織的に使用した世界初の戦いといわれています。これは、物まねをコピーとしてみるのではなく、新たな価値の創造と見ることはできないだろうかということです。このようなことから新たな文化を創造してきた日本人の特性を恥じることなく、遺憾なく発揮をしていったらいいと思うのですが。
投稿者 fujimori : 22:40 | コメント (4)
2007年12月04日 [近頃思うこと]
風邪予防2
風邪をひかないようにしたり、風邪を治したり、咳をしずめたりする方法についての昔からの知恵がたくさんあるのは、昔から風邪や咳に悩まされることが多かったからでしょう。どのくらい昔から風邪という症状があるかは分かりませんが、少なくともスペインかぜという世界の恐怖に陥れた風邪がはやったのは、1918年から翌19年にかけてです。また、「風邪の話―たかが風邪、されど風邪、風邪対策の知恵とヒント」(松永 貞一著)という単行本が出ているなど、随分と怖い病気でもあります。よく玉子酒が風邪によいといわれますが、もともと卵は高蛋白、高エネルギー、消化も良く、ビタミンB2も多く含んでいますので、風邪にぴったりです。その卵を体の温まる日本酒に入れるのですから、風にはもってこいです。本当のつくり方は、1カップに卵1個を入れ、火にかけて半熟になった時にハチミツや黒砂糖をいれて作ります。私も子どものころといっても高校生の頃ですが、そのときはお酒を1度沸騰させるとアルコールがとんでしまいますので、お酒が苦手な人でも飲むことができます。「ねぎ・にんにく湯」は、ねぎやにんにくの強烈な匂い成分で、身体をパワーアップ してくれます。ビタミンB1の吸収を高める働きがあるので元気をとりもどせます。もちろん、ビタミンCも粘膜を強くしてウイルスの侵入を防いでくれます。その他にも色々な栄養素の働きをサポートする機能を持つので、ビタミンC単体でなく色々な栄養素とセットで摂取すると色々な働きをしてくれます。身近にできるものに「ホットみかん」があります。みかんを皮ごと、黒くなるまで焼いて食べます。ホットオレンジジュースでも風邪には効きます。食べ終わったみかんの皮を5~6ヶまとめて袋に入れ、お風呂に入ると、みかんの精油成分が毛細血管を広げ、血液の循環が良くなります。また、ビタミンAも粘膜の形成に欠かせないビタミンです。これが不足すると、鼻・喉の粘膜が乾燥し風邪のウイルスが進入しやすくなります。しかし、このビタミンAは、過剰摂取の危険性もあるためにサプリメントで取るよりも、食品で取ったほうがよいビタミンです。食品でとる場合は、βカロテンを含む食品で取ると、体内で必要に応じて必要な量だけビタミンAに変わります。ニンジンやカボチャといった緑黄色野菜に多く含まれ、今の季節の旬の野菜では、「ほうれん草、ブロッコリー、小松菜、ニラ、チンゲンサイ」などにも多く含まれます。しかし、ビタミンA(βカロテン)は脂溶性なので油に溶けた状態のほうが、体内の吸収率が大幅にアップします。例えばニンジンを生のまま食べるのでは10%しか吸収率はありませんが、おろしてもみじおろしなどにした場合は21%、茹でると47%、さらに油で炒めると一気に80%ととなります。ですから、もし生で食べる場合は、油の入ったドレッシングと一緒に食べれば吸収率がアップします。食べるだけでなく、他にも風邪対策に良い方法があります。疲れが抜けない時や、風邪の時にとても効果的なのが「こんにゃくの温湿布」です。こんにゃく2丁を10分程茄でて温め、タオルでくるみます。最初は熱いのでタオルを二重か三重にし、これで腹と右の脇腹(肝臓)の上に当てて、ゆっくり20分程温めます。こんにゃくが冷めてきたら、タオルの重ねを少し取って、今度は腰より少し上の背骨の両脇(腎臓)を温めます。内臓の疲れがとれ、大変気持が良くなります。「されど風邪」ですので、十分と注意しましょう。
投稿者 fujimori : 23:38 | コメント (3)
2007年12月03日 [近頃思うこと]
風邪予防その1
「『もったいないこと してないかい?』といってやってくる。もったいないばあさんが、今日もぼくの家へやってきた。ちょっと怖いばあさんなんだ。ぼくがモノを捨てようとすると、それを使って、色んなことをしてくれる。」こんな、もったいないばあさんがはやっています。もったいないというのは、どうも「ばあさん」のキャラクターなのでしょうね。少し前に「わからないことがあったら、おばあちゃんに聞け。」という「おばあちゃんの知恵袋」というのも注目を浴びました。このような昔ながらの健康の知恵、暮らしの知恵、懐かしい話など、もう一度おばあちゃんに聞いてみたい生活の知恵で、これからはやる風邪を乗り切りませんか。ます、風邪予防に様々な果実酒があります。有名なところで、「カリン酒」があります。もともとかりんは、咳を静め、疲れた時に効きめがあるといわれています。カリン3~4個に、糖分200~300gを加え、ホワイトー35度1.8Lに漬け込み、最低2ヵ月から6ヵ月仕込みます。皮をむいたレモン2個位を加えるとさらに風味が増します。他に「アンズ酒」も咳を静め、疲れによいといわれています。これは、特有の香気があり、美酒でストレート、カクテルいずれにも最適です。「青ジソ酒」は、咳を静めるだけでなく、健胃の働きがあるといわれています。青ジソの棄130枚位を糖分、ホワイトリカー35度1.8Lで漬け込み。最低3週間から1ヵ月で飲めるようになります。これは、毎日少量ずつ飲むと、冬でも風邪知らずで、元気に過ごすことができるといわれています。果実酒ではなく、果実を砂糖漬けしたものでも効果のあるものもあります。ザクロの実を白砂糖漬けにし、そのエキスを飲むと咳止めになります。大根を乱切りにして密閉容器に入れ、上にハチミツをかけ、2~3日して出た汁を飲むと咳止めに効果があることはよく知られています。これも昔からよくやられていて、私も祖母から教わったのが、のどの痛みに「焼き梅干し」です。のどが痛く、寒気がする時などは梅干しを2~3個、弱火で焦げないようによく焼いて、熱いお茶を注いで飲むと、汗が出て熱を下げ、早く治ります。梅干は、万能薬といわれ、梅干しと黒砂糖かしょうがを湯飲みに入れ、暑いお湯で飲むのもよいといわれています。また、風邪予防、インフルエンザ予防に利くのはビタミンAですが、その摂取のためには、納豆を食べるのは効果的です。ベータカロチンがビタミンAに変わるためには、動物性たんぱく質に含まれるメチオニンというアミノ酸の手助けが必要です。納豆に含まれるパントテン酸とナイアシン(ニコチン酸)が、ベータカロチンがビタミンAに変わるのを助けるので、納豆を食べるとよいといわれます。ネギを入れて混ぜて食べれば、さらに効果的です。また、風邪を引きそうな時は、味噌に酒とみりんを加えてよくとき、これにさらしネギを少々加えたものをごはんの上にのせて食べると良いといわれています。同様にれんこん汁も、風邪のひきはじめや咳をおさえたい時には効果的です。適量をすりおろし,ガーゼなどに包んで絞る。1回に、おちょこ1杯程度を飲みます。お湯を足して、トロトロにして、しょうがを加えればさらに効果が増しますし、葛粉をいれても、はちみつなどを入れてもよいでしょう。また、おろし汁をガーゼなどに湿らせて、鼻に詰めると鼻づまり防止に効くと言われています。まだまだありそうです。すぐに薬を飲まずに、ちょっと時間があるときに、果実酒を作っておいてはどうですか?
投稿者 fujimori : 21:49 | コメント (4)
2007年12月02日 [近頃思うこと]
手締め
忘年会の季節になりました。忘年会といえば宴会の締めくくりに最後のイベントとして定番なのが手締めです。しかし、私は手締めというと、先日のブログで書いた酉の市で熊手の売買が成立したとか、羽子板市とか、だるま市などでもやはり売買が成立したときに、店の人とそこに居合わせた人たちで家内安全や商売繁盛を祈ってやっていたもののイメージがあります。他にも手締めを見るときがあります。それは、証券取引所の大納会のときに最後に手締めをやっている姿をテレビなどで見ます。それらは、みんな最後に締めとしてやりますが、はじめにやる場合もあります。お祭りのときに神輿を担ぐときに、手締めをやってから担ぎ上げました。また、パーティーなどでもはじまるときにやる場合もあります。最後にやる場合でも始まりのときにやる場合でも普通は「ちゃちゃちゃん、ちゃちゃちゃん、ちゃちゃちゃん、ちゃん」とやりますが、それは、「三が三つで九」「それに一つの点」を入れて「九に点」で漢字の“丸”を表し、いろいろの行事などが全部とどこおりなく、トラブルもなく無事丸くおさまった時など、とやるのは、「すべて丸くおさまりまして、みなさんご苦労さんでした」という意味になり、また、「これから万事うまくやりましょう」という願いをこめてやる場合もあります。これを一回だけで終わらせるのが「一本締め」、三回繰り返すのが「三本締め」ということになります。しかし、鳶職人の行事で古式ゆかしく行われる三本締めとは、開始する際に1回、その行事がひと通り終了したときにもう1回、さらに打ち上げの最後に1回の計3回、一本締めを行うことなのだそうです。しかし、そのやり方は、手締めという風習は、典型的な民衆の口承伝統風習ですので、それぞれの地域、業界、団体で独特のやり方が伝えられてきています。大きな流れは江戸(東京)型と大坂(大阪)型に分かれますが、「シャン、シャン」の2回ずつが基本で、前に言葉がつく独特の大坂手打ちは、江戸より早く始まったといわれていますが、そのやり方は、今では祭りや式などで行われるほかはあまり見かけられなくなってしまっています。現在、ほぼ全国的に知られているリズムの速い「3・3・3・1」調子は江戸流です。「シャン」だけで締める「関東一本締め」は、「一丁締め」と呼ぶのが正しいようです。このほか、指だけで行う「一つ目上がり」もあります。最初人差し指同士、次に人差し指と中指と順に増やして「一本締め」を5回やるものです。また、やる前のかけ声の「いよぉ~」という言葉は、「祝おう」が転じたものといわれています。手締め自体は、江戸時代頃から定着したそうですが、元々は、商談成立や和解・決着などの「手を打つ」という言葉が語源で、お互いに手を打ち「そこまでを一段落とする約束(セレモニー)」を「手締め」と呼ぶようになったそうです。では、なぜ手を打つことがけじめ、落着、になったのでしょうか。そのルーツは神話です。手を打つという記述が登場する最古の文献は、古事記の「国譲り神話」で、天照大神から出雲の国を譲るように言われた大国主命(おおくにぬしのみこと)が長男の事大主神(ことしろのみこと)に返答を求めた所、柏手を打って承知したという神話から、柏手を打つことが、物事が落着することの意味になり、「柏手を打つ」が「手を打つ」「手締め」となったのです。「手を打つ」は現代用語でも決着の意味です。今年1年の終わりの月になりました。今年も物事が丸くおさまっているといいですね。
投稿者 fujimori : 21:21 | コメント (3)
2007年12月01日 [近頃思うこと]
家庭
今、保育所保育指針の改訂作業が行われていますが、現在の指針は厚生省が平成11年に発表したものです。保育の環境として保育室は「子どもにとって家庭的な親しみとくつろぎの場……」と書かれています。「家庭的な」とは、「親しみとくつろぎ」である家庭が今どのくらいあるのでしょうか。では、現在の典型的な家庭とはどんな家庭なのでしょうか。父親と母親と子どもが男の子と女の子二人の4人家族で一家団欒、なべを囲んで食事をしているというイメージでしょうか。でも、そんな家庭は、実際には比率としては随分少ないようです。確かに、かつては4人世帯の比率が一番高かったようですが、日本では、1990年の国勢調査によると、すべての都道府県で1人世帯の比率が一番高くなっています。全国平均でも、4人世帯21%に対して、1人世帯が23.1%もなっています。95年の国勢調査になると、1人世帯の次に2人世帯が多いという調査結果が出ています。
私の世代である団塊の世代は、理想の家庭像を持っていました。そのモデルとしていたのが、昭和30年、40年代に毎日のようにテレビ放映されていた海外ドラマです。そこに映し出されたアメリカの家庭は、国民があこがれました。現在まで、日本人がなんとなくアメリカコンプレックスを持ったり、アメリカを目指したりしようとするのは、この頃のアメリカテレビ番組の影響かもしれません。それは、まず、家庭に置かれている電気製品です。大きな冷蔵庫にたくさんつめられた食品。その中でも大きなビンに入った牛乳には驚きました。暗い、片隅にあった台所が、家族が出会う場所であり、母親がそこにいて、子どもたちが帰ってくるとその母親に話しかけ、相談をする場所として描かれていました。それまでの日本では、家族が集う場所は茶の間であり、夕食のしたくはもくもくと母親が台所に入って作っているイメージでした。また、それまでの父親像を変えた番組が、[ パパは何でも知っている (FATHER KNOWS BEST)]という番組で、日本テレビ系列で1958年8月~1964年3月 まで放送されていました。日本の父親像は、頑固で、少し怖く、それでいて一家の大黒柱としてデンと構えている存在でした。そこで描かれている父親はとても優しく、一家に起きる様々な問題を解決する賢明なパパとして描かれていました。まず、「パパ」という呼び方にしてもモダンでやさしい存在に聞こえましたし、何でも知っている存在です。そのパパを中心に、このアンダーソン一家は、明るくユーモラスな家庭でした。今考えると、アメリカにとっても古き良き時代の理想的な家庭だったのでしょう。 この番組の父親のジム・アンダーソン役は2004年6月20日発行のアメリカ版TVガイドで「テレビに現れたもっとも偉大な父親達」で第6位に選出されています。また、ここに出てくる「ママ」もとても賢明であり、父親と対等な関係で支えます。やはり1959年2月~1963年8月まで現在のTBS系列で放送されていたのが、「うちのママは世界一 (THE DONNA REED SHOW)」です。やはり、この一家は、夫婦と1男1女の4人家族というアメリカの平均的中流を描いていました。(パパは何でものほうの子どもは3人です)これらが理想の家庭とは限りませんが、子どもたちにとっては、血縁関係の有無に関係なく、だれかに保護されなければなりませんし、子どもの本当の発達にとっては、小さいうちから子ども同士の係わり合いができる環境が必要なような気がします。