今年最後の日

 いよいよ今年最後の日「大晦日」を迎えました。この日には、一年の締めくくりとして、宮中や全国の神社では1年の間に受けた罪や穢れを祓うために、大祓いがで執り行われます。また、民衆の間でも、大晦日の行事は古く、平安時代頃から行われていたようです。
本来大晦日は新しい年の穀物に実りをもたらし、私たちに命(年)を与えてくださる歳神様を祀るための準備が行われる日でしたが、仏教の浸透とともに、除夜の鐘をつく習慣も生まれました。
大晦日の夜ふけに、全国のお寺で鳴らされる108つの鐘を「除夜の鐘」といいます。108とは仏教思想に基づく百八煩悩を意味しています。煩悩とは「心を惑わし、身を悩ませる」ものを言い、鐘をつくことでこれらの煩悩を1つ1つ取り除いて、清らかな心で正月を迎えようというわけです。また、108回のうち最後の1回は年が明けてから突きます。これは、今年1年煩悩に惑わされないように、という意味が込められているそうです。
 何年か前に、この除夜の鐘を、蘇州市西郊外にある寒山寺に聞きに行ったことがあります。この寺の除夜の鐘を聞くと10年若返ると言われています。ここの鐘は、真偽の程は分かりませんが、昔日本が盗み日本に持ち帰ったという話があり、日本も当惑していましたが、伊藤博文がこれを聞き非常に心配し探させたのですが、見付からなかったため、代わりに小さな鐘を作り寄付したといわれています。ただ、この寄付された鐘は、ガラスのケースに入れ飾ってあり、除夜につく鐘は違っていました。
 しかし、この鐘を聞きに行ったのは、唐の詩人張継の「楓橋夜泊」に詠まれた鐘をぜひ聞いてみたかったからです。この詩は、江蘇省蘇州の運河にかかる太鼓形の石橋の下に舟やどりをしたときに詠んだものですが、私は、夜中に境内にある宿坊のようなところで、食事をしながら除夜の鐘を聞きました。
「楓橋夜泊」「月落鳥啼霜満天 江楓漁火対愁眠 姑蘇城外寒山寺 夜半鐘声至客船」
この詩は、必ず中、高校生の頃に習うのですが、よくわからないところが多くあります。まず、全体的にここで鐘を聞いている時刻がいつかということです。最初の「月が落ちて」というのが、日が落ちてだとわかるのですが、月が落ちるのは、その月がどんな形だったかによるのです。満月ですと、明け方ですし、この詩のように夜半ですと、上弦の月の半月でしょう。しかし、その直後、なぜ鳥が鳴き出すのでしょうか。一斉に鳥が鳴きだすのは、普通は、日の出前です。ここの部分は、いろいろな説があるようです。
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月が沈んで、鳥が鳴き騒ぎ、霜のおりる気配が大空いっぱいに満ちあふれています。旅愁のためになかなか寝付かれず、うつらうつらしている浅い眠りの目に、川辺の楓の樹や点々とした漁火が映ります。一体いま何刻であろうかと思っている所へ、姑蘇の町外れの寒山寺から、夜半を告げる鐘の音が、自分の寝ている船にまで響いてきます。すると、姑蘇城の外の寒山寺から、夜半を知らせる鐘の音が、この船にまで聞えてきました。
 実際に聞いた寒山寺の鐘の音は、申し訳ありませんが、お世辞にもいい音ではありませんでした。鐘の音は、鳴らしたときの音というよりも、その音の余韻が寒い冬の大気に長く響いているのがいいですね。我が家でも、遠くから除夜の鐘が聞こえてきます。

環境サイト

以前のブログでmixiというネット世界を紹介しましたが、まだまだ進んでいるようです。今人気のあるサイトに「YouTube」という2005年2月に設立された米ネットベンチャーYouTube社が運営する、動画コンテンツ共有サイトがあります。
このサイトは、誰でも無料で閲覧できるだけでなく、会員登録をすることによって誰でも容量100MB、再生時間10分以内の動画ファイルをアップロードし、自らの映像を公開することができます。また、閲覧したい動画のキーワード検索も行うことができ、会員登録したユーザはさらに閲覧した動画に対するコメントを投稿したり、動画を5段階で評価したりといったこともできます。このサイトはアメリカから生まれたのですが、2006年3月時点で米国内からのアクセスが1ヶ月あたり800万、日本国内からのアクセスも1ヶ月あたり200万と言われています。また、ここにアップロードされた動画ファイル総数は4000万で毎日3万5000ずつ追加されているといいますから、猛烈な勢いで増えています。
 さらに、12月5日から本格的なサービスを開設したものに、地球環境問題に関するコンテンツの「green.tv」日本語版プレサイトがあります。これは、英国・ロンドンに本部を置くgreen.tvの日本事務局が提供しており、やはり視聴は無料です。日本語版プレサイトは、「ピープル」「地球温暖化」「自然環境」「グリーンライフ」「エコロジー&エコノミー」の5チャンネル構成で、英国版を翻訳したコンテンツや日本で独自取材した映像も配信が予定されています。
このサイトは、「世界各地でどんな問題が起こっているのか?」「どんな取り組みが行われているのか?」ということが取り上げられているので、環境問題を視覚で捉え、理解を深めるのに役立ちそうです。
日本版で、現在配信されているトップ記事は、ピープルでは、「歌人 田中義章が語る?地球版「奥の細道」、地球温暖化では、「環境保護への社会的仕組み?環境税を考える」、自然環境では、「ヨーロッパの深海珊瑚礁を探して」、グリーンライフでは、「Store Wars?有機作物を選ぼう!長編」で、これは、映画スターウォーズをもじって、その映画音楽をBGMにして、とても面白いつくりをしています。キュークというルークをパロった、きゅうりという主人公が、スーパーがファームの公害と農薬の暗黒面に染まってしまったのを、オビワン・ケノーリから聞いて、オーガニック反乱軍と共に戦うというストーリーになっています。トーフD2という豆腐が出てきたり、映画を見たことのある人は十分楽しめます。エコロジー&エコノミーでは、「持続可能な社会実現にむけて?Green Week」です。
この「green.tv」日本事務局(水野雅弘代表)が28日、今年の環境ニュース・トップ3を発表しました。国内の環境専門家が選んだ1位は、「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)とゴア前米副大統領のノーベル平和賞受賞」で、2位は「北極海の氷、IPCCの予測より早く減少」、3位は「国連気候変動枠組み条約第13回締約国会議(COP 13)の合意」が選ばれています。
温暖化に最も後ろ向きな発言をした国として日本が国際環境NGOから「化石賞」に選ばれたことを挙げた人も多かったそうですが、なさけないですね。

漢字

 「震・食・倒・毒・末・金・戦・帰・虎・災・愛・命」この漢字を見て、何を思い浮かべるでしょうか。すぐに思い当たる人もいるでしょうが、1995年から2006年までの「今年の漢字」です。それは、その年の事件史でもあります。というのは、財団法人日本漢字能力検定協会が、その年をイメージする漢字一字の公募を日本全国より行い、その中で最も応募数の多かった漢字一字を、その年の世相を表す漢字として発表しているからです。
また、発表に仕方もインパクトがありますね。毎年12月12日の「漢字の日」に京都府京都市東山区の清水寺の奥の院で、貫主により巨大な半紙に漢字一字が、その場でテレビ中継もされている中、面前で一気に書き上げられます。それを見ていて、いつももし失敗したり、下手な字になったり、墨がたれてしまったりしたらどうするのだろうと心配になってしまいます。そして、あの書き上げられた字は、その後、本尊の千手観世音菩薩に奉納さているそうです。
その年を、漢字一文字で表すというのは、面白い企画ですね。今年は、「偽」ですが、それにまつわるニュースは多かったですが、そんな時代だからこそ、その中でも明るい話題を表す漢字を選んでもらいたいですね。一文字というところがいいのでしょうが、その漢字だけでは意味はいろいろに取られてしまいがちですね。今年の「偽」という字にしても、もちろん食品の賞味期限や年金などさまざまな分野でごまかしと隠ぺいが明らかになったことを反映しているのですが、もともとは、「人が他人のふりをする」というのが原義です。また、1字ですと、何でその字なのかが思い出せない場合が多いような気がします。たとえば、昨年の「命」でも、「悠仁親王の誕生」はわかるのですが、「小学生、中学生の自殺多発」「北朝鮮の核実験」「臓器移植事件」「医師不足」などによる命の不安というのは思い出せませんでした。良い思い出は心に残るのですが、悪いことは本能的に忘れようとするのかもしれませんね。
しかし、選ばれる漢字は、悪いことを象徴しています。過去13年の中で、よいことだけを表したのは、まず、2000年の「金」です。シドニーオリンピックで、女子柔道の田村亮子、女子フルマラソンの高橋尚子が金メダルを取ったのとか、金大中と金正日による初の南北首脳会談を行ったということからです。長寿姉妹のきんさんぎんさんの成田きんが逝去したのも関係しているようです。また、2005年の「愛」は、愛知県で愛・地球博の開催されたということとか、紀宮清子内親王と黒田慶樹氏が結婚したとか、卓球の福原愛の中国での活躍したことなど、「あいちゃん」という愛称の女性の活躍が目立ったことのようでした。
 そのほかに、世相を現すものに、第一生命保険の「サラリーマン川柳」がありますが、今年の発表は来年2月ですので、昨年の1、2位の作品を紹介します。「脳年齢 年金すでに もらえます」「このオレに あたたかいのは 便座だけ」また、住友生命保険の「創作四字熟語」があります。その最優秀作品から3篇紹介します。賛成多数をもじって「産生産声」(出生率が6年ぶりに上昇。たくさんの産声におめでとう!)画竜点睛をもじって「我竜天制」(落合オレ流野球で中日ドラゴンズ53年ぶり日本シリーズ制覇)意志薄弱をもじって「医師薄寂」(医師不足による急患問題)
現代の日本の世相を反映する一つの指標として振り返ってみると面白いかもしれません。

教科書

 今日、「日本軍によって集団自決に追い込まれた。そうした表現が沖縄戦をめぐる高校日本史の教科書検定で復活した。」というニュースが流れました。それは、教科書会社から出されていた訂正申請が文部科学省に承認されたということです。このようなときに、文科省は訂正申請の是非を検定調査審議会に諮って、審議します。教科書検定審議会の正式名称は、「教科用図書検定調査審議会」といい、出版社が申請した教科書について、学習指導要領に沿った客観的で中立公正な記述かを学術的見地から審査する専門機関です。そして、ここで審議された内容を答申し、文科相がその答申を基に合否を決定します。しかし、江戸時代の教科書は、7000種類もあったようです。子どもたちは、5歳から8歳頃寺子屋に入ります。まず、覚えるのは文字で、いわゆる「いろは」を習うのです。この教科書は、師匠の書く手本です。その手本を見ながら、子どもたちは「手習草子」という半紙を綴じた練習帳で練習します。その後は、以前のブログで紹介した貝原益軒が江戸時代に書いた「和俗童子訓」などが、寺子屋での教育に強い影響を与えたとされていますが、他にも興味深い書が教科書として使われました。そのひとつが、「庭訓往来」という、習字や読本として使用された初級の教科書です。これは、南北朝時代末期から室町時代前期に書かれたとされていますが、本当のことはわかっていません。著者も僧玄恵とされていますが、やはり確証はないようです。この内容は、往来物(往復の手紙)の形式をとり、擬漢文体で書かれ、衣食住から職業や政治、病気、犯罪など多岐にわたる一般常識を内容となっています。それは、時代を超えて普遍的な社会常識も多く扱ったために江戸時代に入っても寺子屋などの教科書として用いられています。庭訓とは、「論語」季子篇の中にある故事です。孔子が庭を走る息子を呼び止め、詩や礼を学ぶよう諭したというものです。ここから、父から子への教訓や家庭教育を、庭での訓戒というところから、「庭訓」というようになりました。また、往来物とは、主に寺子屋で使用された初歩教科書の総称です。その多くは、貴族子弟の学習用に編まれた往復書簡(模範文)で、手紙文の行き来(往来)の意から「○○往来」という呼称が一般化しました。庭訓往来の内容は、1月から12月まで25通の書簡からできています。風林火山で今年のヒーローの一人であった武田信玄も、8歳で長禅寺で手習い、学問を学びましたが、その手本の中に『庭訓往来』が加わっていたそうです。そのほかに、往来物といっても、種類は沢山あったようです。たとえば、「商売往来」というものがありました。この往来には、証文など商売の取引きに必要な文字・数字・日記の類・大判・小判から銭までの貨幣の名称、貫・分・厘・毛などの、天秤・分銅の基準、米・粟・ひえなどの雑穀類の名称の他、商店で扱う様々な商品の名称が記されていました。また、商売の心得として、「浪費をせずに、高利をむさぼらず、店舗をきれいにして、柔和に応答し、家業第一とする者は、富貴繁盛子孫栄華となることは疑いない。」と教えています。これは、何も商売をする人だけでなく、農家でも必要でしたし、生きていく上での知識ともなるために、子どもの手習い教科書として、各地でよく読まれ、使用されていたようです。これに対して、「百姓往来」という農業用語を説いた書もありました。「みだりに山林の竹木を伐採せず、隠田をいたさず、正直第一とすれば、子孫富貴繁盛家門平生となり神仏の冥利に叶う。」という教えは、今での通じるところがありますね。どんなものが、教科書としていいのでしょうね。

「ひきずり餅」と「賃餅」

 先日、園で餅つきをしました。園の職員と、保護者数人が手伝ってくれました。餅つきは、正月のもちを暮れにつくのですが、大名から町民まで基本的には自分の家で毎年それぞれの地域、家庭によって決められた日についていました。しかし、園でもそうですが、臼はなかなか高いもので、それぞれ用意することはなかなか出来ませんし、つき手も自分のところだけでは人手が足りません。今の園では、今年初めてですので、多くの量をつくのをやめましたのでいいのですが、以前の園では、子どもたちにもつかせるために、大きな臼2台と小さな臼2台でつき、その後にいろいろな絡み餅を作るので、大勢の保護者に手伝ってもらいました。その光景は、子どもたちはこれから食べることができる期待からその姿をちらちら眺め、親たちは楽しそうに会話をしながら、あんこ、黄な粉、納豆、大根おろし、海苔としょうゆなどいろいろなものを餅に絡めていました。しかし、本当は、その場で食べるのではなく、最初のひと臼は歳神様に捧げてお供えする「鏡餅」にして、そのあとは、正月の食べ物として、のし餅や、角餅や、丸餅にして保存していました。江戸時代の川柳にも「餅ついてむしろの上で神おろし 二た臼めから人間の餅をとり」とあるように、餅をつくこと自体が、神を招くことでした。餅つきは、大体25日頃から始まり、30日までには終えるようにしていました。しかし、29日だけは「苦をつく」ことになるといって餅つきはしないのが普通でした。もっと縁起をかつぐ人は「ろくなことがない」と26日も避けました。江戸の町では、15日頃から正月用の餅つきがはじまりました。しかし、このように、みんなでわいわい自分の家で餅をつく家は、奉公人や出入りの職人の多い商家などだけでした。多くの家では、餅屋に注文したり町内の仕事師(頼まれて町内のさまざまな雑用を請け負う人々で、鳶の者など)に頼んでついてもらったりする場合が多かったようです。この、仕事師についてもらった餅を「ひきずり餅」といいました。このように呼んだのは、仕事師が、釜、臼、杵などを担い、注文のあった家の前で、いさましい音をたてながらついたためです。これを 餅をつく音は、大晦日の夜明けまで、江戸の四里(約16キロ)四方にとどろくほど、絶え間がなかったといいますから、にぎやかな餅つきでした。一方、餅屋に頼んでついてもらうのを「賃餅」といいました。この賃餅は、昭和の初頭頃まで、餅菓子屋という店が注文を受けて餅をついて、つき手の少ない家庭ではこれをとても重宝していました。その時期になると、あちこちの菓子屋のガラス戸には、「ちんもち致します」という張り紙が見られたそうです。賃餅は、さすがつき手のプロだけあって、「曲づき」を披露して見せてくれたこともあったようです。丸餅は、太陽、つまり日の神を形どったものであり、そこには神の聖なる力が宿っていると信じられていました。それは、稲作を主にしていた日本民族にとって、もっとも重要なのは、稲を育ててくれる太陽の力だったのです。したがって、新しい年のはじまるお正月には、「鏡餅」を作り、まず神さまにお供えしたのですが、鏡は、太陽、日の神を模したもので、三種の神器の一つです。そして、お正月に訪れる歳神さまは、鏡餅に宿るといわれています。歳神さまというのは、日の神さまのことです。そして、歳神さまのやってくる方角を「恵方」といい、一年間を無病息災で過ごすための「生命力」である「歳魂」を私たちに授けてくれるのです。

乳母

 子守りという幼い女子が子どもをおんぶして子どもをあやしたというように、必ずしも実の母親だけが育児していたとは限りません。しかし、生まれたての赤ちゃんに授乳するのは、母親だけができる特権かと思えば、それも違うようです。赤ちゃんが生まれて初めて授乳するのは、同じ頃に出産し、すでに授乳中の女性に頼んで乳を与えていたようです。これを「乳付け」とか「乳合わせ」といっていました。それは、初めての乳を,すでに授乳している他人からもらうとよく育つとしていたからです。今は、初乳にはとても栄養があるといわれているのに、変ですね。初乳には、免疫物質の濃度が通常の母乳の10?20倍も含まれています。しかも、免疫系で力を合わせて外敵を打ち負かす「生体防御機能」を果たすリンパ球をはじめとする免疫細胞群も、初乳に高濃度で含まれています。それほど、初乳の免疫力は、強力なものなのですが、多くの場合、母乳は、出産3日後ぐらいから、少しずつ出始めるために、それまでは母乳を与えることが実質的に無理です。ですから、初めての乳は他人からもらったのかもしれません。また、その乳を与えた人は、「乳親」(ちおや)といい、音では、父親に通じます。他にも、乳飲み親・チアンマとも呼ばれました。そして、男には女の子を持つ母親に頼み、女の子にはその逆にするのがしきたりで、そうすることによって、丈夫な子に育ち、縁組が早いといわれていました。そのしきたりは、その乳付けを縁として、その後も何かと親を支える共同体になっていったのでしょう。この習慣は、なんと「古事記」や「日本書紀」にも書かれているようです。そのほかにも、子どもが生まれるとその子を実の親だけで育てるのは大変だったようで、様々な親を持ち、それらみんなで支えていたようです。たとえば、「取りあげ親」は、「フスツナギウヤ」といい、臍の緒を切ってくれた産婆さん(コズエババ)のことを言います。「拾い親」というのは、赤子を橋のたもとや道の辻や家の前に捨てる真似をし、あらかじめ頼んでおいた人に拾ってもらい,その人を仮親とするものです。捨てるのは,子がよく育たない家の子や父母の厄年に生まれた子で,また子が病気や怪我をしたとき,女児ばかり生まれる家に珍しく男児が生まれたときなどにもみられ、捨てるのに、たらいや箕に入れたり、拾うときは、箒で掃き込む真似をしたり、宗教的な儀式のようでした。また、「名付け親」は,七夜のころ、他人に名前を付けてもらうことによって結ばれるもので、名親・名添え親などとも呼ばれます。名は生命の象徴であり、名を与える人は他人でも生命の生みの親であるというほど、名は尊いものと考えられており、出生時の名づけ親と成年式の改名の名づけ親があります。そして、「養い親」という親がいました。それは、病弱な子のためにとる仮の親のことで,里親や養親とは異なり、神官・僧侶・祈祷師などに頼み、あるいは氏神をはじめいろいろな神と取り親・取り子関係を結ぶ習俗も各地に分布しています。このように、育児は様々な人の共同作業であったようですが、なかでも「乳母」という存在は格別のようです。その存在は、母乳が出ない母親に代わって乳を与えただけではなく、身分の高い人間は子育てのような雑事を自分ですべきではないという考えや、他のしっかりとした女性に任せたほうが教育上も良いとの考えから、乳離れした後も、母親に代わって子育てをしていたようです。特に、平安時代から戦国時代にかけて、上層階級では、公家・武家を問わず、育ての親である「乳母」の存在が不可欠で、教育者としての重い任務を持っていました。中世の社会には、他人の子どもでも「社会全体の子ども」として、大事に育てていこうという気概があったようです。

少年犯罪

 少年犯罪が起きるたびに、「昔はそんなことは無かった」とか、「最近の子どもは道徳心が無くなった」とか、「最近は昔と比べて物騒になったので心配だ」ということを聞きます。終いには、大くくりにして、「昔はよかった」と言います。しかし、子守唄の歴史を見ても、子どもが売られ、子守りをさせられていた時代など、決してよかったはずは無いのです。西部邁氏は、「国民の道徳」という本の中で、「日本を含め、先進諸国において少年犯罪の激増、凶悪化そして低年齢化が進んでいるというが、何を根拠としているのであろうか。」と問題を提起していますし、長谷川寿一氏・長谷川真理子氏の共同研究「戦後日本の殺人動向」ではマスコミ報道のような、最近の「多発する少年事件」「未成年者の凶悪化傾向」を明確に否定しています。長谷川寿一氏は「草思」で「日本の殺人率は1950年代から90年代前半までほぼ一貫して減少し続け、人口100万人あたりの殺人件数は、50年代のピーク時の約40件から、90年代には約10件前後にまで減少した。この減少にもっとも大きく寄与したのが、若者男性の殺人率の低下である。」としています。1955年当時、20代前半の男性殺人率(100万人あたりの検挙者数)は230人でピークでしたが、その後、高度成長と呼応して20代の殺人率はどんどん下がり、90年代には100万人あたり20人を割っているそうです。長谷川氏は、「16歳から24歳の年齢区分でみても、40年間でほぼ10分の1に減少し、この殺人における年齢の効果の消失は、世界的にみて極めてユニークな現象であり、若者男性がこれほど人を殺さないような社会は、筆者が知るかぎり他に類を見ない。」と的確に述べています。特に、戦前はひどかったようで、「戦前の少年犯罪」の中では、戦前社会が現代の老人が説教するような規律正しい立派な時代だったわけでは決してなく、むしろ現代以上にひどい事件がかなりの数起こっていた時代だったと書かれており、記録もきちんと残されているようです。それなのに、「なぜいつの時代も人は、昔はよかったと言うのか?」それを、12月20日のR25で精神科医の香山リカ先生が解説していました。そのキーワードは「不安」と「優位」だと言います。「年齢を重ねると、今の時代や若者についていけなくなるのではないかと不安になります。価値観や好みに違いがあると、それを否定したい感情と若さを失っていく不安が入り交じると思うんです。そこで自分が若かった時代の文化などを振り返って『あっちの方がよかった』とか『人間味があった』と肯定することで、不安から逃避しようしているんじゃないでしょうか。あとは、年輩者が若い人に対して絶対的に優位に立てるのは、彼らが知らない時代を体験しているということ。だから『昔はよかった』の一言で『オレはお前らが知らないいい時代や大変な時代を知ってるんだ』と優越感を感じる一面もあるかもしれません」すなわち、年輩者は主に「不安」から昔を懐かしむために、若年者は「優越感」を得るために「昔はよかった」と言うことが多いといいます。F・デーヴィス著『ノスタルジアの社会学』によると、これはどちらも「アイデンティティの連続の確保」にも関わることだそうです。人は、今の自分を肯定するために、過去の自分を肯定しようとする心理が働くということです。しかし、香山先生によると「昔を懐かしむのはいいけれど、それが今の自分の否定になると不健康な状態」だということで、今、精一杯生きることが大切であり、今という時をよりよいものにしていく努力をしていかなければならないと思います。

子守唄3

 子守唄の歴史は、育児の歴史でもあります。よく子守唄の種類には、「寝やせ唄」という、赤ちゃんを寝かしつけるときに歌ってあげる唄と、「遊ばせ唄」という、赤ちゃんをあやすときなどに歌う歌があります。これらの唄は世界共通ですが、日本独特な子守唄としては、赤ちゃんを対象として歌ってあげるための歌ではなく、子守りが自ら慰めるために歌った子守唄があります。それは、子守りという存在が独特な環境にあったからでしょう。たとえば、日本人が好きな歌のベスト3に入る歌に「赤とんぼ」(作詞三木露風、作曲山田耕筰)があります。この歌詞の中で、よく小さいころに意味を間違って歌っていた箇所に1番の「おわれて」というところがあります。これは、赤とんぼが「追われて」というイメージでしたが、本当は「負われて」という、「子守りに負ぶされて(おんぶされて)」という意味です。ですから、「1 夕焼小焼の赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か」は、子守りにおんぶされているときに見た、夕焼け空に飛んでいる赤とんぼを思い出したのです。そう思ってもう一度赤とんぼの歌詞を見てみると、違ったものが見えてきます。「2 山の畑の桑の実を 小かごに摘んだは まぼろしか 3 十五でねえやは嫁にゆき お里のたよりも 絶えはてた 4 夕焼小焼の赤とんぼ とまっているよ 竿の先」この歌詞を見ると、突然、赤とんぼはいつ見ただろうかと思い出したのではなく、4番にあるように、竿の先にとまった赤とんぼを見て、いつ見たのだろうと思い出したのが1番です。そのときおんぶをしていた「ねえや」は、大家に雇われて、その家の幼い子どもたちの面倒を見た子守りだったのでしょう。また、この子守りは15歳でお嫁に行きますので、それ以下の年の子です。ですから、子守りは、年少の女の子の労働だったのでしょう。しかし、テレビの時代劇を見ると、赤ちゃんを井戸端や畑仕事をしながら負ぶっているのは、母親以外では、乳母や下女や老女であり、子どもではない場合が多いようです。子どもが子守りとしての労働をするようになったのは16世紀末頃からのようです。赤坂憲雄著「子守唄の誕生」(講談社学術文庫)には、五木の子守唄のなぞの解明から、近代の精神史を描いています。その本の中に16世紀末に宣教師をして日本で布教活動をしたフロイトが、「ヨーロッパ文化と日本文化」という本にこんなことが書かれていると紹介しています。「われわれのあいだでは普通大人女性が赤児を首のところに抱いて連れていく。日本ではごく幼い少女が、ほとんどいつでも赤児を背に付けていく」赤ちゃんをおんぶして子守りするのが少女であるという姿は、どうもヨーロッパにはないようです。しかも、子守りはいやなものだったようです。同書に志摩地方の子守唄が紹介されています。「勤めしょうとも子守りはいやよ お主にゃ叱られ子にゃせがまれて 間に無き名を立てらるる」子守りという労働は、主人には叱られ、おんぶしている子にはいじめられ、いわれの無いうわさを立てられるので、いやだったようです。これが高知に行くと、最後のフレーズが「人には楽なよに思われて」となりますが、なんだか子どもと関わっている職業をしているものとしては、人ごとに思えません。赤松啓介著「女の歴史と民族」という本の中に、子守り女の出現を分析しています。そこでは、奉公子守りの女たちを、近代の「働く女性」の先駆として見定めていますし、近世の封建制社会の内部に胎動し始めた、資本主義的な要素が産んだ子どもであると言っています。子育てというものを、もっと子守唄から分析することも必要かもしれません。

子守唄2

 子守唄の歌詞をじっくり読むと、その時代の子どもたちの生活の悲惨さ、哀れさを感じると共に、今の子どもたちは幸せだなあと思います。しかし、果たして心から幸せかというと、いつの時代でも、違う苦労があるものです。とはいえ、島原の子守唄は、胸が締め付けられます。4番は、船に乗せられた娘たちが、どうなったかです。「姉しゃんなどけいたろうかい 姉しゃんなどけいたろうかい 青煙突のバッタンフル 唐はどこんねき 唐はどこんねき 海のはてばよ しょうかいな はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい」娘たちは、「バターフィールド」という船会社の青煙突の外国船の船底に押し込められ、海の果ての中国、東南アジア、アフリカ、ロシア等に連れて行かれたのです。しかし、その娘たちは悲惨な運命が待っています。しかし、まれに成功して故郷に帰ってこれる場合があります。「あん人たちゃ二つも あん人たちゃ二つも 金の指輪はめとらす 金はどこん金 金はどこん金 唐金げなばい しょうかいな 嫁ごんべんな だがくれた つばつけたら あったかろ」成功して帰ってくる人は、憧れの的です。華僑の富豪等に見初められて夫人や妾になった者や、何かの商売で成功した者は、2つも金の指輪はめていたり、唐の金を持ち、もらった赤い口紅をつけてもらい、その紅に 唾をつけたら燃えるようにきれいだろうと羨みます。「沖の不知火 沖の不知火 燃えては消える バテレン祭りの バテレン祭りの 笛や太鼓も鳴りやんだ おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい」貧しいがゆえに南方へ送られていった娘たちを哀れむ一方で、少数ながら成功して帰ってきた「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したこの唄は、宮崎康平作詞・作曲による戦後の創作子守唄です。彼は、島原鉄道常務のかたわら文筆活動に勤しみますが、極度の過労から眼底網膜炎が悪化して失明、二人の子を置いて妻は出奔してしまいます。この子守唄は、失意の中で、泣く子をあやすうちに出来たといわれています。その歌詞に描かれた異国に売られ、過酷な運命にさらされた娘たち「からゆきさん」は、当時、10?20万、あるいは30万いたといわれています。この子守唄は、そうした歴史のあったことを如実に物語り、今に伝えています。世界で歌われている子守唄は、「ブラームスの子守唄」や「シューベルトの子守唄」など、近代ヨーロッパ中産階級の、豊かで幸福な家庭における子どもの子守唄で、優しく寝かしつける歌であったのに対して、日本の伝統的な子守唄に歌われているのは、封建時代の暗い世界を表しているので、短調のメロディーや悲哀のメロディーになっています。それは、私が聞いて育った「ねんねんころりよ」で始まる「江戸子守唄」の歌でもわかります。この子守唄は、江戸時代から代々受け継がれてきた歴史の長い唄です。「ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよい子だ ねんねしな ぼうやのおもりは どこへいった あの山越えて 里へいった 里のみやげに なにもろた でんでんたいこに しょうの笛」この「ねんねんねんねこよ」というはやしことばは、仏教の「念念」から来ており、念仏に使われる笙の笛をもらっているので、仏教歌の和讃の形式を取り入れた歌ではないかともいわれています。他にも色々な子守唄がありますが、そこには、日本の歴史が歌いこまれていますので、ぜひ伝えていかなければならないという気がします。つづく

子守唄1

 先週、島原に行ったとき、島原駅前に子守の像が建っているのを見ました。
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私は、子どもの頃、下町の問屋街で育ちました。問屋街ですので、どの家でも両親とも働いている家庭がほとんどです。私の家でもそうでしたから、私は小さかった頃、「お子守さん」におんぶされて育ちました。今のベビーシッターかもしれません。そして、食事は「お手伝いさん」が作り、幼稚園には、住み込みで番頭さんが二人いましたので、その番頭さんが自転車の後ろに私を乗せて送迎してくれました。そういう人たちがいるのは、決して豊かな家庭というわけではありません。最近話題の「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画でも、中心に描かれている自動車修理工場でも、住み込みのお手伝いさんがいます。彼、彼女らは、当時、中学を出てすぐ集団就職で東京に出てきた人たちです。私の思い出としては、あの映画のように、お子守さんも、お手伝いさんも、番頭さんもみんな大家族の様なつながりでした。しかし、日本の昔の子守は、とても悲惨な立場の子が多かったようです。子守唄、子守歌は、そんな子守が、子どもを寝かしつけたり、あやしたりするために歌われる歌でしたので、その歌詞は、寂しさ、哀れさを表しているものが多いようです。というよりも、子守唄とは母親が子どもを寝かせる歌ではなくて子守りの娘が仕事の辛さを歌ったものの要素が強いようです。島原に子守の像があるのは、「島原の子守唄」が有名だからです。その歌こそ、まさにそういう内容になっています。昔、島原半島や天草の農家の人たちは貧しさのあまり、自分の娘を売って生活をしました。その中で、中国や東南アジアなどへ売られていった娘たちのことを「からゆきさん」といいます。「唐行き」という事から来ています。島原の子守唄はからゆきさんの悲しみ、哀れさ、一方で「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したものといわれます。「おどみゃ島原の おどみゃ島原の 梨の木育ちよ 何のなしやら 何のなしやら 色気なしばよ しょうかいな はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい 鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい 」やさしく寝かしつけるというよりは、「早く寝ないと怖い久助が来るよ」と脅しています。この鬼の池の久助というのは女衒、娘を売買するブローカーで、実在のモデルがいたようです。2番では、「帰りにゃ寄っちょくれんか 帰りにゃ寄っちょくれんか あばら家じゃけんど 唐芋飯や 粟ん飯 唐芋飯や 粟ん飯 黄金飯ばよ しょうかいな おろろんおろろん おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい」あばら家で、芋飯、粟飯、黄金色した飯を馳走すると言っていますが、白いご飯を食べられないという貧しさを表現しています。3番は、からゆきさんが、どのように売られていくかが歌われています。「山ん家はかん火事げなばい 山ん家はかん火事げなばい サンパン船はヨロン人 姉しゃんなにぎん飯で 姉しゃんなにぎん飯で 船ん底ばよ しょうかいな 泣く子はガネかむ おろろんばい アメガタ買うて ひっぱらしゅう」山の家が火事だ、と突然関係ないことをいっているようですが、実は、娘たちの密航を警察に見つからないようにと、火事をわざと起こして、その間に「サンパン船」という小船に乗せて、連れて行ったようです。その船を与論島の人が漕いでいたようです。娘たちは、その船底に放りこまれ、めったの食べられない白いご飯の握り飯をもらいます。それは、滅多に食べることの出来ないものだったでしょう。なんだか哀れですね。(つづく)