鏡の日

今日11月30日は「いい(11)ミラー(30)」の語呂合せで「鏡の日」です。鏡を大切にすることで、健康で美しい生活を目指す日だそうです。ナルシスと鏡の関係についてはブログで書いたので、今日は少し違う観点で考えてみたいと思います。それは、レッジオ エミリオ教育はじめ、保育に鏡が重要な意味を持つことが多いのですが、どうしてかを考えてみました。それについての文献等を私は読んだことがないので、あまり的を得ていないかもしれませんが。よく、動物の知能を測るために鏡が用いられることが多いのは、鏡に映った自分を自分と認識できる能力である「鏡映認知」を持っているかということのようです。それは、鏡に映る姿が自己であることを知るのは、自己認識の第一歩であるとされているからです。人をはじめ、様々な動物は、生きるためには自分を襲う他の動物を認識する必要があります。それは、ほとんどは自分とは違う種であることが多いでしょうが、同じ種でもメスを取り合ったりするときなどは自分を襲う敵になります。しかし、どちらにしても、自分の姿を認知したり、認識する必要はない気がします。では、自分の姿を見て、なんの役に立つのでしょうか。チンパンジーなどにおいては、鏡に映る姿を自分自身として認識し、毛繕いのときに役立てるというように、ひとつのモデリングとして自分を見ることはある気がしますが、鏡によって客観的に映し出される、自分自身の姿は、どのように映ったのでしょうか。昔の人は、鏡に映像が「映る」という現象は、とても神秘的なものとしてとらえられたでしょうね。ですから、鏡は、自分の姿を見るというよりも、三種の神器にあるように、祭祀の道具としての性格を帯びていたのです。そして、鏡の面が、単に光線を反射する平面ではなく、世界の「こちら側」と「あちら側」を分けるレンズのようなものと捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界がある、という観念は通文化的に存在し、その見方は、世界各地で見られます。古代の哲学などにおいては、鏡像はおぼろげなイメージに過ぎないとされました。また、鏡は鑑とも書き、人間としての模範・規範を意味します。「あの人は、日本人としての鑑である。」というような使い方をします。また、手本とじっくり照らし合わせることを鑑みる(かんがみる)というのも、ここから来ています。古墳時代、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の王より銅鏡(この時代を研究する考古学者にとっては、「鏡」という語はすなわち銅鏡(神獣鏡、三角縁神獣鏡)を意味する)を贈られた故事はあまりに有名ですが、これは彼女がシャーマン的な支配者であったことと関係があり、その小道具として鏡が重要な役目を持っていたと考えられています。このように、鏡は宗教と関係が深かったようです。神道や天皇制では、三種の神器のひとつが八咫鏡ですし、キリスト教を禁止した江戸時代に隠れ切支丹鏡という魔鏡が作られています。また、霊力を特別に持った鏡は、事物の真の姿を映し出すともされた。地獄の支配者閻魔大王の隣には浄玻璃の鏡という鏡があり、それは、大王の前に引き出された人間の罪業を暴き出したといわれます。また、鏡が割れると不吉としたり、鏡台にカバーをかけた習慣は、鏡の霊力に対する観念が広く生活習慣の中にも根を下ろしていたことを表していると言われています。鏡の語源はカゲミ(影見)、あるいはカカメ(カカとは蛇の古語。つまり蛇の目)であると言われているように、鏡に自分の姿を映し、それを眺めるという機能と、鏡の持つ神秘性を感じたようです。その神秘性ゆえに、子どもにとって、環境として意味のあるものとして利用されているのでしょうね。