意欲

 最近の学力調査で、基礎学力はまあまあでしたが、考える力がおとろえてきたことが問題になっていますが、それよりも取り組まなければならない問題は、今の子どもたちは、「主体的な活動」をしなくなり、「学ぶ意欲」が、世界の中でとても低いことです。数年前のPISAの学力調査の中で、日本の子どもの意欲が調査対象各国の中で最低だったそうです。物が豊富になると、そのものの有難さを感じなくなり、欲しいとか、何とか手に入れたいと思う気持ちは薄れてきます。また、もうすでに手に入れているので意欲がなくなるというだけではなく、欲しいものを手に入ることでよりよい生活なり、生きていく上でメリットを感じないという、あきらめに近い感情から意欲がないということもあります。どうせやってもというような「どうせ」という感情があって、意欲がない場合もあります。また、大人が先廻っていろいろと考え、欲しがるより先に与えようとしてしまうことで意欲がなくなるということもあります。フランスの0?2歳児の保育園の報告で、こんな内容がありました。「手を伸ばして何かを取ろうとして取れないときは、すっと近くに持っていってあげるということはするわけです。だけど、たぶんこの子は欲しいんだろうなと先回りして渡すことはしません。あくまでも、子どもが取ろうとする努力をしなければ手を出しません。してほしければ自分から言いなさい、主張しなさい、待っていても何もしてあげないわよっていうことを、結局は教えているわけです。」今年の6月30日、日教組のシンクタンク国民教育文化総合研究所の「学びの論理と文化」研究委員会が、中間報告をまとめました。そのなかで、「教員が教えてやり、子どもが学ばされる縦の関係が、学ぶ意欲の低下の背景にあり、今後は、子どもの「主体性」を育てることが重要」と強調しています。教える、教えられるという近代学校教育システムが、子どもたちの学びたい意欲に答えていないことに問題があるとしています。子どもに、学ばせるのではなく、教員も子どもと一緒に学ぶスタイルに転換していくことが必要などとして、学びのコミュニティーの再生を求めています。よく、外国語には「学ばせる」とか「育てる」という言葉はないと聞きます。「学び」とか、「育ち」は周りから「させる」ものではなく、自らの行動、発達なのです。ですから、意欲が大切になるのです。そして、意欲があると何とかしようとするために「工夫」が生まれてきます。昨年12月の四国新聞に評論家の芹沢俊介氏がこんな記事を書いていました。「教育は嫌いだ、というより怖い。どこが怖いかというと、教育は(させる)を基本としておりその姿勢が「個」としての私の存在をおびえさせるのだ。(させられる)のはごめんだ。」本来のエディケーションとは引き出すという意味が語源と聞きます。教えるとか、させるという意味ではないのが、堂勘違いしてきたのでしょうか。教育基本法が改正された条文を読んで、こんな感想も述べています。「これまでに比べ、内容に(させる)の比率がぐんと高くなっている。ますます子どもの「個」が圧迫されるであろうことが、いまから予測される。」「すくなくとも「教育を受ける」と受身性を反転することができるだろう。「教育を受ける」という記述には、「教育を与える」という姿勢が対応している。「与える・受ける」の関係は容易に「させる・させられる」の関係に移行する。教育には自己教育しかないと考える私にとって、教育は与えられるものではない。必要に応じて与えられた学習の機会を利用して、自ら身につけるものだ。」最後に「自律の精神は、主体的な学習を通じた自立によってのみ得られるものだ。」と結んでいます。しかし、その主体的な学習は、意欲がないと成り立たないですね。

意欲” への6件のコメント

  1. 今日のブログの「意欲」については当臥竜塾ブログが時折言及してきたテーマです。「意欲」を持てるのは、とりもなおさず「個」の自主性主体性が保障されるところしかないのに、集団コントロールが先行してしまい「個」とはやっかいなものとされ、よって「意欲」喪失方向に導かれているのがわが国の子どもたちでしょう。「ひとりひとりの特性に応じ」たら学級崩壊どころか学校崩壊に繋がると懸念する向きもあるようです。しかしよく考えてみれば容易に理解できるように、「意欲」とは自尊感情がベースとなります。私はこの「意欲」がしっかりともてるならば、自己肯定感が増し、他者の存在並びに思いをそれとして受けとめ、さらに「意欲」を深めかつ強めていくと考えます。

  2.  確かに「意欲」というのは大事なことだと思います。それが低下しているのは少々問題がありますね。しかも日本の子どもが最低だったとはなんともいえません。やはり今の世の中では何でも簡単に手に入ることが子どもの「意欲」を低下させているのでしょうか。また大人が何でも先にやってあげるというのも原因があるのかもしれまんね。結局、子どもが自立を出来る環境を大人が作ってあげることができず、それが子どもの「意欲」の低下につながっている気がします。
    『外国語には「学ばせる」とか「育てる」という言葉はないと聞きます。「学び」とか、「育ち」は周りから「させる」ものではなく、自らの行動、発達なのです』
    この時点で世界との違いがあるので、ちゃんと考えなければいけないと思います。自分も口だけにはならないように行動に移したいです。

  3. オランダのイエナプラン教育では、「教える立場」「習う立場」ではなく、それぞれ1人ひとりの個人として関係を持つことが基礎になっていると学びました。「教育を与える」「教育を受ける」という関係ではなく、全ての人が「学び変わる存在である」という考えは、とても自然に感じます。
    意欲を教育を豊かにすると考えると、当然のことですが、就学前の体験はとても重要ですね。以前このブログで意欲と抵抗力の関係についても書かれていました。意欲を育てることは、生きていく上でも大切なことだと再確認しました。

  4. 四国新聞の芹沢氏の評論は私も読みました。教育基本法の改正の危うさの核心を突いていると思います。俯瞰的に日本教育の歴史を見れば、明治維新以来、富国強兵の大号令の下、教育は『国家の論理』に支配されてきたともいえます。国の命令に従順に従う国民を作ることが大命題だったかもしれません。
    その、行き着く先が太平洋戦争だったわけで、戦後も経済戦争という第二の戦いに勝ち抜くための人材を国は作ってきたと思います。グローバル化が進み、情報化社会の21世紀のいま、日本の行く末を決めるのは、教育を『国家の論理』ではなく『「人間の論理』で見直していく試みが必要不可欠になっていると思います。藤森先生が語る教育理念にはこの『人間の論理』を強く感じ取ることができます。

  5. 「こんなことをやってみたい」「こんなことに興味がある」という子どもの姿を見つけた時や反応があった時に、それに対して背中を自然と押すような大人の姿勢が子どもたちの意欲をうんでいくのかもしれません。「これをやっておけばいいの」「これさえ、やっておけば役に立つから」という姿勢は意欲という子ども自身の内なる力を引き出そうというより、あれもこれも装備させることでなんとなく格好だけは戦えるように見せているように見えてしまいます。いいシューズやデザインのいいウェアー、反応のいいウォッチを装備させ「さあ42㎞走っておいで」と言われても、本人に走りたいという気持ちがなければこんなに苦痛なことはありませんね。何かをさせてとりあえずやったようにみえる目先の取り組み方ではなく、もっと先をみた教育が大切になってきますね。与えるという姿勢は子どもを信じていない姿勢にも感じます。そんな大人の思いにきっと子どもの気づいているのかもしれませんね。

  6. 『今の子どもたちは、「主体的な活動」をしなくなり、「学ぶ意欲」が、世界の中でとても低い』という状況の中、教育を「させる・させられる」ものという認識を持たせない環境が必要になるわけですね。芹沢氏の「教育には自己教育しかない」という言葉には、心を打たれました。よく考えてみると、そう思うのは当然のように、覚える単語や話す言葉など、それらを最終的に選択しているのは自分であって、そうでない状況を考えると、大人からの一方的な押しつけが存在してしまっているということになりますね。そして、心情・意欲・態度のように、面白いものに心を動かされ、それについて知りたいという意欲から、自分で行動していくという流れが、本来の教育ということであるのですね。

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