自由

 私は、保育・教育の中で、戦後、間違って使われている言葉に「自由」「平等」「民主主義」があるように思います。この間違いが、今の子どもたちの環境に様々な影響を及ぼしています。いつかのブログでは、その中の平等について書いた記憶があります。この言葉は、運動会が近づくと、かけっこで、ゴール前にみんな手をつないで一緒にゴールしましょうといった間違った平等感が思い出されます。この逸話が本当かどうかは、私は怪しいと思いますが、そのころの考え方を象徴しているということで広がった気がします。しかし、差をつけることが不平等だと思っていることに対して、外国では、個人差に対応しないで、みんな同じようにするほうが不平等だと思っているというようなことについて書いた気がします。次に、最近、自由についてその認識の違いにぶつかることが多くあります。たとえば、こんなメールをいただきました。「ある北陸の公立幼稚園ではピアノにあがって、てっぺんに座って、脚を鍵盤において、王様ごっこをしていても、『主体的にやっているのだから良いではないか』とミマモッタリ、木工で園舎の柱を切り出しても、主体的に・・・ということで、しばらくミマモッテいたり、という事例報告がありました。」この逸話も、本当かなと思います。たぶん、その前後にストーリーがあるはずですし、そこだけを切り離して論議すべきではないと思うのですが、確かに、主体とか自由とかの考え方を象徴している話ですね。もちろん、これは、主体がいけないのではなく、見守りがいけないのでもなく、自由がいけないのではなく、その行動自体が人としていけない行為であるのを、言葉にすり替えているだけに過ぎません。こんな間違った使われ方をするからといって、自由という言葉を使うのをためらったり、なるべく使わないようにしたりすることはおかしい気がします。大いに使い、そのときに、それは自由というのは違うのではないかということが必要だからです。
 明治6年、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らの参議は、国の力を高めるためには公議世論制度の確立が急務であるとして、同志8名の名のもとに翌7年1月17日政府に対し「民選議員設立建白書」を提出し、これが「自由民権運動」の始まりとなりました。
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そして、建言をおこなった板垣らは、それぞれの地方において政治結社を作り運動を進めるため帰郷します。高知に帰った板垣は、片岡健吉、林有造らの協力を得て、「立志社」を創立し運動に乗り出しました。この碑が高知にあります。そこには、「青い空 青い海 ここには自由と若さがある」という言葉が刻まれています。
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立志社の「創立趣意書」では、「人民はすべて平等」であり「天から与えられた誰にも奪うことができない権利」を持っていること、そしてこの権利を伸ばし確かなものとしていくためには「民会が必要である」こと、更にこの民会が十分な効果を発揮するためには「人民の自修、自治の努力」が必要であることなどが述べられています。ここに、「平等」と「自由」が謳われているのです。そして、「平等」や「自由」は、「「天から与えられた誰にも奪うことができない権利」であるのです。しかし、確かにこの概念は人によって違いますし、間違ったときに使われることがあります。それは、たとえば男女平等にしても、同和にしても、人としての権利を勝ち取ろうとするときに起きる摩擦であり、壁なのです。ですから、立志学舎を設けて青年子弟の教育にあたったように、教育が必要なのです。この立志学舎の学習も生徒の自主・自立の方法をとっています。「板垣死すとも、自由は死せず」であって欲しいですね。
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自由” への4件のコメント

  1. 久々の投稿です。
    「自由と平等」について、この数年で考えさせられる経験をしました。というのも、保護者からの「平等を求める声」が多くあがるからです。同じく、「自由」に関しては、即、放任と捉えられてしまうこともおおくありました。
    これは私個人の考えですが、「他人に害を及ぼさない範囲」において「自由」なのであって、かつ、「個性を生かせるようにそれぞれが自分なりに生きる」ことが「平等」なのではないかと思います。
    決して、お金・地位・知識・モノなどを一律化することが平等ではないと思います。何でもかんでも一律・一斉にしたからといって、平等になるわけではありませんよね。同じことでも良し悪しは人それぞれですから。
    最近は、この自由と平等を履き違えて、人に迷惑かけようが、人を傷つけようが、人の個性をつぶそうが、おかまいなしに「自由と平等」を振り回す人が多いですね。
    今日の朝刊に、病院内での患者のモラル低下が1面に載っていましたが、患者側はこの履き違えた「自由と平等」を全面に押し出した結果を表している気がします。

  2. 自由も平等も民主も、大変大切なことにちがいはありません。そして、これらが私たち日本人の歴史においては決して所与のものではない、という史実も同時に理解しておかなければならないと思っています。第二次大戦後、わが国には「自由」「平等」「民主」ということが怒涛の如く人々あいだに入ってきたような気がします。あらゆる機会でこられ3つが声高に叫ばれて来たとも思います。ところで、一般家庭にこれら3つのことをしっかりと教えてもらえる素地はないどころか、では学校でこられ3つのことを、その意味がわかるように、しっかりと教わってきたか?自由が放任になったり、平等や民主が個人の権利主張の裏づけになってはいないでしょうか?そして「個人」が「集団」を基盤としてのそれであることが本当に理解されているのでしょうか?甚だ疑問を抱かされる今日この頃、みなさん如何がお過ごしでしょうか。

  3. 自由というのは難しい言葉です。自由の中には制約がなければいけないし、それが個人のものであると同時に集団のものでもなければいけないと思っています。そんなややこしさを「自由」の一言で表してあいまいにしたまま使うのではなく、自由とはこういうものだと説明できなければいけないと思います。自分自身は自由の見きわめがまだあいまいなので、力をつけなければいけないです。

  4.  『「平等」や「自由」は、「天から与えられた誰にも奪うことができない権利」』と言いますが、自由と平等というのは何のかな?とよく考えます。ですが今回のブログ読んで、自由というのは「他人に迷惑をかけない範囲」ではないのかな?と思いました。やはり人を指導するにあたって自由と平等という言葉の意味をしっかり理解しておく必要があると思います。ですが、そう簡単に理解すれば良いと自分で言っていますが、どれほどの時間がかかるのかな?と少々落ち込んでいる自分がいます…。

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