あかりの日

 私の園の2歳児の保育室のロフトの下のスペースが、ままごとゾーンになっています。子ども達がそこにもぐりこんでままごとを楽しんでいますが、少し薄暗いので、そのスペースを照らす電球を買い、天井に取り付けました。裸電球ではありませんが、とても家庭的な雰囲気が出ました。あした、きっと子ども達が喜ぶでしょう。また、昨日、0歳児のベッドの上の蛍光灯に薄い布の覆いを取り付けました。ベッドで眠る赤ちゃんは上を向いて寝るために、蛍光灯の明るさが直接目に入ってくるのでさぞ眩しかろうということで、蛍光灯を薄い布で覆ったのです。保育室をはじめとして、各家庭でもドイツでは、電灯が露出していることはなく、間接照明であったり、布などで覆ってしまっています。akari.jpg
すべての電灯が覆ってしまっているのをみると、その布が燃えないのだろうかと心配になってしまいます。
akari2.JPG
 今日10月21日は、「あかりの日」です。日本電気協会・日本電球工業会等が1981(昭和56)年に制定したものですが、1879(明治12)年、エジソンが日本・京都産の竹を使って白熱電球を完成させた日です。あかりのありがたみを認識する日として制定されましたが、本当は、電球の日にしたほうがいいのでしょうが、「あかり」は何もエジソンが作ったわけではないからです。人間は、松明、灯心、ロウソクなど、さまざま手段であかりを求め、人間の歴史はあかりと共に歴史を歩んできたといっても言い過ぎではないくらいにかかわりがあります。そして、光を出すには必ず火を燃やさなければならなかったのを、それを分離した革命家がエジソンであったということなのです。そのエジソンの生涯やエピソードは、様々な伝記物語に書かれているので、子どものほうがよく知っているくらいです。そのひとつが、小学校に入学したときに、教師と馬が合わず中退したことです。現在では、その背景に、彼がLD、ADHD、アスペルガー症候群を併せ持っていた事が考えられています。しかし、その彼を、小学校の教師であった母親は叱咤激励し、怒りつけるのではなく、母親は、家の地下室に様々な化学薬品を揃え、勉強を教えるのです。彼のダメなところを何とかしようとするのではなく、得意なところを伸ばそうとしたのです。そのおかげで、人類にとってとても貴重な発明を次々とすることになるのです。そんなエジソンですから、その真偽のほどは定かではありませんが、様々な伝説や逸話、名言が残っています。一番有名なのは、「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。」という言葉です。この言葉は、いくら天才でも、ひらめきなどはほんのきっかけで、ほとんどは努力が大切だということに使われていることが多いような気がします。しかし、本人が言うところによると、どうもちがうようです。実際は「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」と言ったようです。逆に言えば、「1%のひらめきさえあれば、99%の努力も苦にはならない」ということで、ひらめきに確信があれば、どんなに失敗しても挫折せずに努力し続けることができるということです。ですから、エジソンは、ペンと紙を常時携帯し、思い浮かんだ瞬間には面倒くさがらずに書き留めていたようです。ちなみにアインシュタインもメモ魔として有名でした。他にも「ほとんど全ての人間は、もうこれ以上アイディアを考えるのは不可能だというところまで行きつき、そこでやる気をなくしてしまう。いよいよこれからだというのに」とか、「もし自分のできることをすべて実行すれば、その結果に文字通りびっくり仰天することだろう。」などの言葉を残しています。

 こんな内容が、オンラインの科学誌に発表されました「アフリカゾウが、体臭や衣類の色で危害を加えられる可能性のあるマサイ族を識別していることが分かった。」というもので、これは、英セントアンドルーズ大学の研究チームが、アフリカ大陸東部のケニアで調査した結果です。マサイ族のようなゾウをヤリで突く風習がある種族と、農耕主体でゾウに危害を加えることはまずないカンバ族で比較したところ、アフリカゾウは、マサイ族が着た服のにおいをかいだときの方がはるかに早く、遠くに逃げることがわかり、落ち着きを取り戻すまでの時間も、長くかかったそうです。同様に、アフリカゾウは色に対しても反応し、マサイ族の伝統的衣装の色である赤い衣類を見せると威嚇的な態度を示したといいます。白い衣類には反応はしませんでした。象は、においはもちろん、色も認識し、覚えているのですね。では、人間の赤ちゃんはどうなのでしょう。大人から、赤ちゃんというイメージは、なんとなくやわらかく、癒し系の感じがするので、思い浮かぶのは、白やピンク、ブルーなどの淡い色とか、パステルカラーです。ですから、ベビー用品や洋服には淡色系が多いようです。ですから、保育室の色や、装飾には淡い色を使うことが多いようです。生まれたばかりの赤ちゃんが、色を認識できるようになるのは、生後3カ月頃からだといわれています。そのころの絵本なども、色だけでなく、輪郭もはっきりしない、淡く優しい感じの絵が多いのですが、実は、視力がまだ弱いため、モノの輪郭や質感はあいまいです。しかし、昔は、生まれたての赤ちゃんはほとんど見えていないと言われていましたが、最近ではコントラストの強い色である白・黒・赤などの色には反応を示すようになり、その色で描かれたものはちゃんと見えていることが分かっています。もちろん個人差もありますが、小さな赤ちゃんほど、カラフルでハッキリした配色のものに興味を示して、目で追うことが多いのです。ですから、私の園の0,1歳児の基調の色彩は、赤い色です。ただ、あまり激しくではなく、一部のいすの色であったり、部屋の隅の床の色に使ったりしています。また、この頃に多くの色を赤ちゃんの周りに置くことは、視覚の発達を助ける役目を担い、また大切な色彩経験にもなります。どうしても日本人は、派手な色をどぎつい色として嫌う傾向になります。柔らかなパステルカラーとか、わび、さびの世界の少し古びた、苔むしたような色を好みます。しかし、赤ちゃんは視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、いわゆる5感から得る刺激によって脳が発達し、言語や運動能力、社会性も発達していきます。そうして、自我の発達とともに「好き・嫌い」という感情も認識できるようになり、2歳すぎからは、言語機能の発達と共に色名を言えるようになります。個人差はありますが3歳半から4歳半頃には「りんご=赤」など、特定のイメージと色を関連づけて認識するようになります。この頃には視力も大人並に成長しています。このように、周囲からの刺激や環境により、5感は発達していきます。それに伴って、色の好みも出てきます。小さい頃は、全般に赤・青・黄など、鮮やかな色を好む傾向にあるようですが、年齢が上がるにつれ、好みが、落ち着いて目の前のことに集中できるような寒色系か、緑などの中間色がいいようです。大人の好きな色が、必ずしも子どもの好きな色とは限りませんので、自分の好みを押し付けたり、思い込んだりしないほうがいいようですね。

公園遊具

 建物を建て替えるかという問題が各地で起きていますが、同様に公園などの遊具が老朽化し、それによっての事故が急増しています。公園が急増した20?30年前の遊具が老朽化する時期がきているのです。建物だけではなく、いろいろなものが、変わり目なのでしょう。公園にある遊具の重傷事故は今年度上半期だけで、すでにここ数年の年間報告数を上回っているようです。その背景にあるはもちろんその遊具の老朽化があるのですが、もうひとつ、自治体の不十分な点検や維持管理にあるとしています。安全点検を強化しようと、国土交通省は来春をめどに「安全指針」の改定作業を進めています。そういえば、箱ブランコによる死亡事故が起き、全国の公園から箱ブランコが撤去されました。そして、この事故がきっかけで国は「安全指針」を設けたのは02年3月です。今、老朽化が起きている遊具の大半は、それ以前の製造です。箱ブランコの事故の後、他の遊具も順に撤去されています。本来は、遊具による挑戦や冒険など意欲的な遊びは、危険を予知したり避けたりといったことを学習する機会となりますし、これらの機会が子どもの成長にとって必要なものです。しかし、最近、屋外型固定遊具で遊んでいて指を切断した、などの痛ましい事故が相次いで発生し、各地で遊具の点検・撤去が行われました。その遊具もどこまで撤去されていくのでしょうね。どんなもので、どのような事故が起きるかということを国民生活センター危害情報システムが、平成15年8月に「危害情報からみた屋外遊具の事故」を発表しました。それによると、事故にあったのは、10歳未満、男の子に多く、頭のけがが最も多く、腕・手のけがでは骨折が目立っています。うんていやシーソーでは、年齢が低い子ほど重症のけがを負いやすいということです。鉄棒、アスレチック遊具、ジャングルジム、すべり台、ブランコ、回旋塔などは、重い症状のけがの割合が低く、すり傷・打撲の割合が高いのですが、部位としては、頭の割合が高い傾向があります。そして、これらの遊具は、年齢が高くなるとより大胆な使い方をしがちなので、重い症状の平均年齢が高くなっています。遊具によらず、物的要因によると思われる事故では、転落したところの地面が硬かったり、遊具にすき間があったことが原因で起きた事故などがおおいようです。また、人的要因によると思われる事故としては、ゆれている遊具のそばに近寄ったり、人と人がぶつかった事故、遊ぶのに適していない服を着ていたことが原因での事故などがおおいようです。これらの原因のほかに、私は子どもの体力低下も関係してきている気がします。今まで大丈夫だったから、今まで一度も事故がなかったからといってその遊具が安全ということはありません。今年10月7日に文科省が「体力・運動能力調査」の結果を発表しました。文科省では、運動能力が最も高かったとされる86年度から20年たつため、10年ごとの変化に注目して分析しました。青少年(6歳?19歳)の結果を見ると、走る(50メートル走、持久走)、跳ぶ(立ち幅跳び)、投げる(ソフトボール、ハンドボール投げ)など基礎的な運動能力はどれも長く低下傾向にありますが、9歳児の立ち幅跳びを86年度から10年間隔で比べると、男子が155.29センチ→149.31センチ→146.61センチ、女子が147.04センチ→140.94センチ→138.23センチと、ここ10年の低下はゆるやかになっているそうです。低下現象が緩やかになったのは、そろそろ、運動が少ないライフスタイルが定着して来たからだといわれています。もっと早く、どの遊具を設置するかは、子どもたちの生活、遊びの変化を捉え、遊具の安全面だけでなく、子どもの発達、能力の点検を行うべきでしょう。

腰2

 腰といえば、私は高校生のころからよくいわゆる「ぎっくり腰」になっていました。なると、歩くと頭のてっぺんまで痛くなり、姿勢を変えるときには、これまた厄介でした。そのころ、ぎっくり腰になってしまう原因は、意外にも重いものを持つとか、重いものを持ち上げるときに起きるのではなく、ほんの些細な瞬間になってしまいます。私がなるときの主な原因は、「くしゃみをしたとき」です。次に「歯を磨こうと少しかがんだとき」です。しかし、実は、これらの行為は、腰にとって些細な動きではないのです。人は、その姿勢によって、椎間板にかかる負荷が大きく違うことが分かってきました。つぎの姿勢・動作が椎間板に与える負荷(圧力)は、負荷が最も少ない「寝ている状態」を1としたときの、どのくらいの負荷がかかっているかというと次のとおりです。1位は、「前屈」で、4.0です。2位は、「くしゃみ」で、2.4。3位は、「あぐら」で2.2。4位は、「立つ」で、1.3です。歯を磨くために屈むが1位で、くしゃみが2位だったのです。今、腰痛は、1000万人の日本人が悩むといわれています。中でもちょっとした動作やくしゃみ等で突然、腰に激痛が走る急性腰痛症=“ぎっくり腰”は、ドイツ語で “魔女の一撃”と呼ばれるほどの激しい痛みが特徴です。また、青森県野辺地町では、雪下ろし、農業・漁業の作業でぎっくり腰になる人が多いそうですが、現地ではぎっくり腰のことを「キクラヘンキ」と呼びます。現地方言に詳しい人によると、「キクラ」は腰が「キクッ」となったことをいうそうです。これらのぎっくり腰ですが、実はこれまで原因やメカニズムはほとんど解明されておらず、はっきりした診断がつかないものの多くは単に「腰椎ねんざ」とされてきました。私がぎっくり腰になった歴史は古いので、自分で防ぐ手段を今でもできる限りとるようにしています。それは、まず、椎間板にダメージを与えないために、椎間板の圧力・動きを常にイメージしながら日常生活を送ることです。たとえば、今でも必ず、くしゃみをするときには、机の上とか壁に手をついて、上半身の動きを押さえるようにしています。また、朝は、筋肉が目覚めていない時間帯なので、急な動作はできるだけ避けるようにします。次に、私はしていませんが、顔を洗うときは、イスに座って顔を洗うと腰を痛めないそうです。靴下をはくときには、片足で立つとバランスが悪く、腰に負担がかかりますので、イスか床に座って負担を減らします。よく、掃除機をかけるときにも、上半身だけを動かすと椎間板に負担がかかりますので、体全体を動かすようにします。また、防ぐのは、姿勢だけではありません。たばこを吸うと、血行が悪くなり骨の末梢神経から椎間板への栄養補給が十分に行われなくなるため、椎間板の組織が変成してしまうと考えられています。また、肥満も、太って前にでた腹部を支えようと、背骨が知らず知らずのうちに反るため、椎間板に負担がかかります。よく、立ち上がるときに「ドッコイショ」と声をかけると、なんだか年寄りみたいといわれますが、実は、かけ声によってこれから行おうとする動作を脳が認識するため、体の準備が整い、ぎっくり腰になりにくくなります。しかも、勢いをつけてイスから立ち上がらずに、机などの支えに手をついて立ち上がるとぎっくり腰になりにくくなります。日常で起きる様々病気や障害は、自分で防ぐ努力しなければなりません。誰かが助けてくれるわけでもなく、放っておいてどうにかなる話でもありません。治療よりも、自らの予防が必要なことは、どうも、他のときにもいえることのような気がします。

 私が地方に行くとき、その地域の仲間の人たちは、時間が取れるときは、私にいろいろな体験を計画してくれます。それは、私がブログを書いているので、そのネタになるようなことを提供してくれるという意味もあるでしょうが、それよりも、私がいろいろなことに好奇心が強く、いろいろなことを体験したい、見てみたい、行ってみたいという気持ちを感じてくれているからでしょう。本当にありがたいと思います。今年の初めのころ長崎に行ったときには、たけのこ掘りに連れて行ってもらいました。
takenoko.jpg
 たけのこは大好きなのに、自分では掘ったことがなかったからです。つい最近は、香川に行ったときに「手打ち体験うどん学校」に入学しました。ここでは、小麦から練り、手打ちから包丁まで伝統技法を学ぶコースです。いくつかのコースがある中、せっかくということで「名人コース」で学びました。
udon.jpg
 打ち終わったうどんの半分は、その場でゆでて食べるのですが、釜揚げや、生醤油で食べるうどん刺身や、ぶっかけなどゆで方から指南を受けました。2時間余りびっしりと指南を受けた後なので、その味のなんとおいしかったこと。以前のブログでも「うどんは讃岐に限る」内容を書きましたが、その腰のある歯ごたえは答えられません。「技」を極めたあとは、修了証書と修行の証に使った麺棒を授与されました。体験した店は、うどんの館大庄屋でしたが、今年の5月に、ここで製造される半生うどん「幽玄premium(プレミアム)」が、国際的な食品品評会「モンドセレクション」(本部・ベルギー)の最高金賞を受賞しました。讃岐うどんの最高金賞は初めてだそうです。モンドセレクションとはベルギー政府などが1961年に開始し、「世界食品オリンピック」とも評され、品質や味覚を審査し、100点満点中の95点以上で最高金賞が与えられるものです。たけのこ掘りやうどん打ちを体験して、両方に共通することは、共に「腰」を使うことです。よく、腰という字は、「上半身との下半身との間にある要所である」ところからできたといわれていますが、大言海によると、「くびれているところから、体のコシ(層)の義」とあり、日本釈名では、「体の中の強い部分であるところから、コハシ中略」とあり、和訓考によると、「コはカミシモの約、シはシキリの約」とあり、和句解によると、「胎内にコ(子)のある時、帯をシメル部分であるからか、または、大小便が、上から前後へコス(越)みちであるところから」と書かれています。腰といえば、よく若者が「腰パン」という、パンツが見えるほどズボンをずり下げてはくことがはやっています。このファッションは私にはよく分かりませんが、ほとんどパンツか尻が丸見えであり、今にも人前でズボンが落ちてしまわないかハラハラします。このズボンをずり下げてはくファッション、いわゆる「腰パン」を禁止する条例が、先日の9月27日のニュースに流れました。これは全米各地で作られ始めたというニュースです。罰金や禁固刑が科せられる場合もあり、「公衆道徳の問題」「人種差別では」と若者の風俗をめぐって論争を引き起こしているそうです。ズボンを腰からずり下げたら、罰金150ドル(約1万7000円)か、15日の禁固刑というのが、ルイジアナ州のマンスフィールドでは今月、そんな条例が施行されたそうです。腰パンが流行し始めて15年以上たつそうですが、自殺防止でベルトが使えない刑務所が発祥の地だそうです。 面白いファッションがはやるものですね。

塾の名前

 昨日のブログで書いた「花神」の中で、大村益次郎こと村田蔵六は、宇和島から江戸に出てきたとき、江戸には蘭学塾がなく、蘭学者が希少であったため蔵六のところに毎日のように蘭学修行の希望者が訪れます。そこで、塾を開くことにするのですが、その名前を「ひとがつくった屋敷に、ハトである彼が住んでいる」という意味で「鳩居堂」と名づけます。「ハトというのは、他の多くの鳥とおなじように枯枝をあつめてきて樹の上で巣を作る。ただ他の鳥とちがっているのは巣の作り方がひどく粗雑で、下から巣を仰ぐと卵が見える。このハトを観察してその家づくりのへたさとそのこっけいさに気がついたのは古代中国人だ。『詩経』にそんな詩がある。「ここにカササギの巣がある。いつのまにかハトがそれを失敬して自分の巣にしてしまっている」蔵六は、自分に対して存外皮肉な男で、わしもおなじだ」ということのようです。実際は、ハトは本来崖や岩棚に巣をつくります。そして非常に防衛本能が強いので、「3つの面に囲まれている」ところや乾燥しているところを選んで作ります。そんなところは身の回りにたくさんあるので、都内ではからす同様、繁殖しすぎて困っています。そんなハトの巣といえば、文具店で有名な「鳩居堂」を思い浮かべます。この店は東京と京都にありますが、京都は以前のブログで書いた本能寺の門前にあり、銀座中央通りに面した東京鳩居堂本店前(東京都中央区銀座5丁目)は、路線価日本一(2007年度まで22年連続)の場所として有名です。その路線価は1平方メートルあたり2496万円(前年比33・3%増)だそうです。また、この銀座4丁目交差点を囲み銀座中央通り近辺の「三越」前と「和光」前も、今年初めて同額でトップでした。この金額は見当がつきませんし、売ればその価格ということで、私などは、路線価日本一であるということは、さぞかし税金が高くて大変だろうと思うだけです。また、名前の「鳩居堂」という名前は、以外にも村田蔵六の塾の名をつけた動機と関係があります。しかし、単純に間借りをしているハトの巣にちなんでいるのではなく、もっと、由緒があります。この「鳩居堂」の歴史は、とても古いものです。じつは、さかのぼること、平家が隆盛を誇っていた時代のことです。あの一の谷の合戦で平家の敦盛を討った熊谷直実が、その軍功により源頼朝から「向かい鳩」の家紋を賜りました。その後、熊谷直実は出家して、法然上人の弟子になり、「蓮生」と名乗りました。その直実から数えて20代目の熊谷直心が、京都寺町の本能寺門前にて、薬種商「鳩居堂」を始めます。屋号をつけることになったとき、儒学者・室鳩巣が命名します。由来は村田蔵六が思い出したのとおなじ中国の古い時代の民謡集『詩経』の召南の篇にある「維鵲巣有、維鳩居之」で、カササギの巣に託卵する鳩に、「店はお客様のもの」という謙譲の意を込めたものです。人のものを借りているのではなく、店はお客のものということだったのですね。また、室鳩巣の雅号もハトの巣ですし、熊谷家の家紋もちょうど「向かい鳩」だったのです。店の名前もそうですが、幕末のころ各地で生まれた様々な塾にもいろいろな名前が着いています。「松下村塾」は、松陰の叔父玉木文之進が松本村に塾を開き、地名をとって松下村塾といったのが始まりです。「適塾」は、正式には適々斎塾といいますが、緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来です。この「臥竜塾」の由来も2005年9月16日でもう一度読んでみてください。

刈り取り

 よくブログで書きますが、私は今定期的に愛媛に講演に行っています。講演というよりも、勉強会です。保育という仕事は、様々なことが絡んできます。単に子どもを保育するといっても、保護者との関係、行事のあり方、書類の作り方、環境の用意、職員のチームワークなどの課題があり、よく他の講演にあるような子どもの発達や子どもの心理というだけではありません。ですから1回だけの講演とか勉強会では無理で、連続的にやることが必要になってきます。愛媛には昨年度は二月に1回行っていました。場所は、松山の近くの松前町と大洲町と交互で行いました。そして、宿泊は道後温泉です。研修は夜19時から21時なので、園に午前中いて、午後出発し、夜、話をし、次の日の朝出てくれば園に昼ごろ着きます。随分と日本も狭くなったものです。この松山から大洲への道のりを通るたびに思い出す小説があります。それは、周防の村医から一転して討幕軍の総司令官となり、維新の渦中で非業の死をとげたわが国近代兵制の創始者である大村益次郎の波乱の生涯描いた長編小説「花神」(司馬遼太郎著)です。かれが、村医から大きな転機を迎えるのは、宇和島藩に招かれたときです。そのとき松山から大洲を通って宇和島に行くのですが、道中の出来事が彼の人生の特徴を現しています。彼の若いころは村田蔵六といいましたが、生涯の特徴は、人間とのめぐり合いの運に恵まれていたことであったようです。途中の旅籠で、蔵六は若い医師の夫婦と相部屋になります。この夫婦は、かなりみすぼらしく、経済的にも苦しい中、長崎に修行に行った帰りのようです。その夫婦は、蔵六に宿泊料の立て替えを頼みます。蔵六はさっさと帳場に行って支払ってあげます。そのあと、松山第一の医者のところまで同行してもらうことで、そこまでの交通費、宿代も頼みます。その申し出を蔵六は笑って、遠慮することはないといって松山まで連れて行きます。松山に着くと、もちろんその松山の医者は感激して家にも泊め、宇和島まで同行してくれることになります。途中の大洲では、伊予の医師仲間の顔役である医者もとても喜んで、一緒に宇和島までついてくれることになります。これで、蔵六は、松山第一の名医と大洲第一の名医が先導してくれて宇和島に乗り込んでいくことになります。これが随分と幸いします。この逸話を見ると、蔵六は必ずしも人とのめぐり会いにおいて運がよいのではなく、めぐり会うだけのことを蔵六はしているのです。人との出会いは偶然であることが多いでしょう。しかし、その出会いをどのようなものにするのかは、やはり本人によるのだと思います。私はもう15年ほど前になりますが、入院をしたことがありました。そのときに本当にお世話になった人たちは、地位でつながっている人でもなく、お金でつながっている人ではなく、かつて、いろいろなところで世話をしたり、面倒を見たりした人や、教え子たちでした。数日前のブログで「種まく人」を書いたときのコメントで、いつからが刈り取るときかという内容がありましたが、私はこのときに、そろそろまいた種を刈り取るときが来たことを実感しました。今、いろいろなことに苦情を言ったり、人の意見に突っかかっていったり、人を悪く言ったりする人が多いような気がしますが、その人たちは、刈り取るときが来るのでしょうか。種をまき、草をむしったり、害虫から守ってあげたりしてそれを丹念に育てていくことで、実を結び、刈り取る時期がやがて来るのではないでしょうか。

伊丹

先日、松山市にある「伊丹十三記念館」へ連れて行ってもらいました。私は動物占いで「人気者のゾウ」ですが、「伊丹も同じゾウということで、どうですか?」と、動物占い認定講師の人から言われたのです。この建物は、中村好文氏の設計ですが、外壁に真っ黒に塗った杉板を使い、中庭をぐるりと囲むように真角に作られた箱型建築です。全体としては、同じ松山にある「坂の上の雲ミュージアム」に比べて、こじんまりとしていますが、こんな保育園があったらいいなあと思えるような建物です。
itamikinenkan.jpg
 館内の展示は、十三の名にちなんで、13のコーナーにわけて伊丹十三を紹介しています。そこでは、少年時代、音楽愛好家、商業デザイナー、俳優、エッセイスト、イラストレーター、料理好き、乗り物マニア、テレビマン、猫好き、精神分析啓蒙家、CM作家、映画監督など、様々な顔を持つ伊丹十三の業績や人柄を辿るようになっています。京都生まれの伊丹十三記念館が、なぜ松山にあるかというと、高校時代を愛媛県松山市で過ごしているからです。ですから、松山名物の一六タルトのCMにも出演していました。しかし、彼の印象が松山と結びつくのは、彼の父親の映画監督の伊丹万作が松山出身だからかもしれません。伊丹万作は、挿絵画家から片岡千恵蔵プロダクションに助監督兼シナリオライターで入社します。息子に受け継がれている諷刺や諧謔を武器に様々な映画の監督をし、日本映画界随一の知性派といわれました。しかし、病臥し、その後はシナリオに専念します。この作品には、とても一生に残っている作品があります。そのひとつは、何度も映画化されていますが、その最初の作品で阪東妻三郎が主演した「無法松の一生」(43)です。
muhoumatu.JPG
 明治時代の北九州・小倉を舞台に繰り広げられる、人力車夫・富島松五郎の生き様と、陸軍大尉の未亡人とその息子との人間的な触れ合い、そして未亡人への秘められた思慕の情がみずみずしく描かれ、全体主義を映画は無言で批判しました。戦争一色の時代ゆえ、世の中でしたから、小さきものや弱きものへの愛情が、そのまま時代へのレジスタンスとなったこの作品は、何度も検閲によって、カットされています。もうひとつの作品は、この夏に妻と見た「手をつなぐ子等」(48)の脚本です。この映画は、知恵遅れで他の生徒にとけ込めない少年寛太が、ようやく親身に世話を焼いてくれる先生に巡り会うことができ、先生の指導で周囲の子供たちは寛太を優しく見守り、彼の友達として仲良く遊ぶようになりますが、金三という悪たれ坊主が転入してきて、寛太に何かと意地悪をしたりイジメたりするようになり、それらの児童を先生が、どう導いていくかという話です。この映画では先生が子供たちをすべて理解し、一段高いところから優しく厳しい眼差しを向けて熱心な指導をすることで、寛太は見違えるような成長ぶりを見せ、金三の固くいじけた心もほぐれていくというものですが、「子どもは見守っているだけではダメです。」という教育委員会の考えに対して、あくまでも子どもを信じ、見守っていくことで子ども自ら立ち直っていくという話は、出来すぎではなく、そんな姿勢は今でも必要だという思いを強くしました。そんな作品のシナリオを書いた伊丹万作の息子が伊丹十三で、娘は大江健三郎と結婚します。伊丹十三の出演作品も、年配者しか分からないでしょうが、「コメットさん」(九重佑三子主演)がお手伝いさんとして住み込んでいる家の父親役とか、NHK大河ドラマ「峠の群像」での吉良上野介もはまり役でした。彼の突然の投身自殺は、何かの糸が切れたのでしょうね。

新陳代謝

 昨日、建築家「黒川紀章」氏が亡くなりました。彼のことは、今年の4月18日のブログで書きました。そのブログで、彼の設計した最近オープンした六本木にある「国立新美術館」と、建て替えが決定した「中銀カプセルタワー」を取り上げました。そのタイトルは「共生と新陳代謝」でしたが、そこで書いた意味は少し違いますが、新ためてこの二つの建物を並べてみると、そのタイトルが実感を持って感じます。黒川氏の死にしても、突然であるだけに、いつかは誰でも、どんな建物でも滅びていくのだということを感じ、新陳代謝ということかもしれないと思うのです。それは、ちょうど都城を訪れたときに連れて行ってもらった菊竹清訓設計の「都城市民会館」も、建て替えが決定した建物だったからです。この建物は、強烈なインパクトと迫力があります。ホテルの窓から遠目に見えていたときも何の建物かと思っていたのですが、間近に行ってみると、圧倒的な存在感を感じさせます。
miyakonojo.JPG
 梁が放射状に突き出した特徴的なデザイン・構造は、建築専門誌において『残したい建築物100選』へ選出されたり、最新の建築物と併記され紹介されるなど、現在もなお注目を浴び続けており、イタリアの美術教科書へも掲載されているそうです。この建物を「都城市の顔であり、また、建築学的にも貴重な建物でもあり、都城市の財産として後世に残すべきものである」ということで現状のまま存続するという意見と、「老朽化も懸念されるが、必要な修繕を加えることでまだ十分活用できるものであり、市町合併後、庁舎や会議室が必要となることが見込まれており、現在ある建物を活用することが環境負荷の軽減にもつながる」という改修して存続しようとする意見と、「年数の経過とともに老朽化が進んでおり、相当な経費を投じて改修する必要がある。また、今後「解体」は避けて通れない問題であり、いずれ先々には「解体する」必要があり、結論の先送りは避けなければならない」ということで、解体するという意見を検討しました。アンケート結果は、存続が26.9%、改修が25.5%、解体が47.6%だったそうです。話し合いを重ねた結果、解体することになっているそうです。解体されていく建物があるかと思えば、作られていく建物もあります。そのひとつが、コメントにも書かれている「坂の上の雲ミュージアム」です。この建物は、愛媛県松山のまち全体をフィールドミュージアムとする構想の一角を担う施設として創設されました。その主要な目的は、松山をより魅力的なまちにする諸活動の中核的な役割をはたすことにあるそうです。より魅力的なまちとは、住み心地がよく、さまざまな発見を楽しめるところを意味します。設計は、最近、話題の建物を設計している建築家・安藤忠雄氏によるものです。松山城周辺の歴史や文化を意識して考えられた建物は、周囲の自然環境に配慮した外観と安藤氏がイメージする『坂の上の雲』を表現した空間となっています。2つの三角形を重ね合わせた建物は、通りから見る城山の緑をさえぎらないような構造になっており、建物西側のガラスカーテンウォールには、城山の緑が映し出されています。
sakanoue.JPG
 展示内容は、司馬?太郎の長大な作品『坂の上の雲』を中心に、松山出身の正岡子規と秋山好古、真之兄弟の三人を軸にしながら展開しています。その時代背景である明治初期の展示は、訪れるお年寄りが懐かしがっていました。このミュージアムができるであろうことは昨年1月23日のブログで書いていますし、秋山兄弟については、昨年4月21日のブログで書いていますし、子規については、昨年4月22日のブログで書いているように、2年にわたって定期的に研修に訪れている松山での集大成のミュージアムです。その展示内容を見ても、「新陳代謝」を感じます。

自由

 私は、保育・教育の中で、戦後、間違って使われている言葉に「自由」「平等」「民主主義」があるように思います。この間違いが、今の子どもたちの環境に様々な影響を及ぼしています。いつかのブログでは、その中の平等について書いた記憶があります。この言葉は、運動会が近づくと、かけっこで、ゴール前にみんな手をつないで一緒にゴールしましょうといった間違った平等感が思い出されます。この逸話が本当かどうかは、私は怪しいと思いますが、そのころの考え方を象徴しているということで広がった気がします。しかし、差をつけることが不平等だと思っていることに対して、外国では、個人差に対応しないで、みんな同じようにするほうが不平等だと思っているというようなことについて書いた気がします。次に、最近、自由についてその認識の違いにぶつかることが多くあります。たとえば、こんなメールをいただきました。「ある北陸の公立幼稚園ではピアノにあがって、てっぺんに座って、脚を鍵盤において、王様ごっこをしていても、『主体的にやっているのだから良いではないか』とミマモッタリ、木工で園舎の柱を切り出しても、主体的に・・・ということで、しばらくミマモッテいたり、という事例報告がありました。」この逸話も、本当かなと思います。たぶん、その前後にストーリーがあるはずですし、そこだけを切り離して論議すべきではないと思うのですが、確かに、主体とか自由とかの考え方を象徴している話ですね。もちろん、これは、主体がいけないのではなく、見守りがいけないのでもなく、自由がいけないのではなく、その行動自体が人としていけない行為であるのを、言葉にすり替えているだけに過ぎません。こんな間違った使われ方をするからといって、自由という言葉を使うのをためらったり、なるべく使わないようにしたりすることはおかしい気がします。大いに使い、そのときに、それは自由というのは違うのではないかということが必要だからです。
 明治6年、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らの参議は、国の力を高めるためには公議世論制度の確立が急務であるとして、同志8名の名のもとに翌7年1月17日政府に対し「民選議員設立建白書」を提出し、これが「自由民権運動」の始まりとなりました。
kinenkan.jpg
そして、建言をおこなった板垣らは、それぞれの地方において政治結社を作り運動を進めるため帰郷します。高知に帰った板垣は、片岡健吉、林有造らの協力を得て、「立志社」を創立し運動に乗り出しました。この碑が高知にあります。そこには、「青い空 青い海 ここには自由と若さがある」という言葉が刻まれています。
rissisya.JPG
立志社の「創立趣意書」では、「人民はすべて平等」であり「天から与えられた誰にも奪うことができない権利」を持っていること、そしてこの権利を伸ばし確かなものとしていくためには「民会が必要である」こと、更にこの民会が十分な効果を発揮するためには「人民の自修、自治の努力」が必要であることなどが述べられています。ここに、「平等」と「自由」が謳われているのです。そして、「平等」や「自由」は、「「天から与えられた誰にも奪うことができない権利」であるのです。しかし、確かにこの概念は人によって違いますし、間違ったときに使われることがあります。それは、たとえば男女平等にしても、同和にしても、人としての権利を勝ち取ろうとするときに起きる摩擦であり、壁なのです。ですから、立志学舎を設けて青年子弟の教育にあたったように、教育が必要なのです。この立志学舎の学習も生徒の自主・自立の方法をとっています。「板垣死すとも、自由は死せず」であって欲しいですね。
itagaki.jpg