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2007年10月31日 [近頃思うこと]
学級編成
このブログで何回か紹介しましたが、先日の10月29日の朝日新聞に、「オランダで実践されている「イエナプラン教育」について考えるシンポジウム(朝日新聞社など後援)が11月、京都と東京で開かれる。現地から専門家を招き、自発的な学びを重視した取り組みを紹介する。」という記事が掲載されていました。東京で行われるシンポに私も少しの時間ですが、プレゼンテーションに対してのコメントと1,2の質問をすることになっています。このイエナプランの実践からはいろいろと学ぶところも多いのですが、学級編成にも特徴があります。日本における学級編成は、4月2日生まれから、翌年の4月1日生まれの子を同一学年として編成します。これは、一斉になにかを教えるような授業では、ほぼ発達が近い集団にということで便宜上そのように決めたものです。これが当たり前のように幼児教育の場でもその様なわけ方のよる集団編成にするところがほとんどです。しかし、このように生年月日による学級編成は、世界ではとても珍しいことです。たとえばフランスの母親学級では、子どもの発達に応じて、年齢ではなく段階として、子どもたちの成長を、2歳から小学校最終年までを3つのサイクルで考えています。就学前は1つ目のサイクル、5歳 から2年生までは2つ目のサイクル、3年生から5年生までは3つ目のサイ クルです。このようなわけ方は、英語圏での幼児教育でのインファントとかトドラーというようなわけ方に似ています。インファントという言葉は、言葉を話さない人という意味ですし、トドラーというのは、よちよち歩く人という意味です。すなわち、年齢ではなく、発達で分けるというやり方です。オランダのイエナプラン校の学級編成は、マルチエイジグループが基本です。通常、3つの年齢のグループ(4-6歳児グループ、6-9歳児グループ、9-12歳児グループ)から構成されます。子どもたちは、3年間を同じ教室の同じグループリーダーの下で年少・年中・年長の三つの立場を経験しながらすごし、それを繰り返しながら小学校を卒業するのです。つまり、一人の子どもは、低学年グループの年少、年長を経て、中学年グループの、年少、年中、年長を経、再び、高学年グループの年少、年中、年長を経験することができるのです。こうすることによって、家族の兄弟関係に似た、年齢差による立場の違いを体験できます。これを、イエナプランでは、将来、社会に出たときに相手の立場を理解して行動するための準備、と考えているからです。また、こうすることによって、同年齢学年性に起こりがちな、できる子・できない子の固定化を防ぎ、子どもの個性や真の意味のリーダーシップが生まれる、という利点も指摘しています。よく、園で3,4,5歳児を一緒に活動させると、3歳児は5歳児に強く出られて思うとおりに行動できないのではないかという心配をする人がいますが、実は、おなじ3歳児の集団の中で、力が強く、体の大きな人に強く出られて萎縮してしまうことのほうが多いのです。しかも、この力の上下関係は、学校を卒業するまで固定化してしまう可能性があります。いじめなども、主に同学年の中での力関係から起きることのほうが多いのです。3歳児の中で弱かった子も、4歳になると3歳児が入ってきますし、5歳になるとふたつ年下の3歳児が一緒になります。子どもは、様々な立場を経験し、自分を見つめるようになります。いま、教育界で問題になっているいじめ、落ちこぼれ、学級崩壊などは生年月日で機械的に学級編成をしていることに原因があることが多いのかもしれません。
投稿者 fujimori : 23:01 | コメント (3)
2007年10月30日 [講演先にて]
岩木山
先週末、弘前に行ったときに、津軽地方に入るときれいな三角の山が見えました。この山が「岩木山」です。
この岩木山は青森県弘前市および西津軽郡鰺ヶ沢町に位置する標高1625mの成層火山(コニーデ型)で、その円錐形の山の形から「津軽富士」と呼ばれています。山頂部は、岩木山・鳥海山・厳鬼山(岩鬼山)の3つの峰で形成され、全国ふるさと富士人気投票で第1位に輝いています。富士山同様、周りには山が見えず、突然、津軽平野に湧出したように聳え立っています。この山の魅力に取り付かれ、登山をする人が多いようですが、この山の登山にも悲しい歴史があります。この経緯が、田沢拓也著の「空と山のあいだ―岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間」 (角川文庫)という小説に書かれています。昭和39年1月、青森県の岩木山で秋田県大館鳳鳴高校の山岳部員5人が遭難、連日の大がかりな捜索にもかかわらず、5人の行方はわからず、そのうち4人が死亡する事故が起きました。標高わずか1625メートルの単独峰の岩木山で一体、5人に何が起きていたのかということを、ただ一人の生還者の証言をもとに、地元の関係者、捜索隊、警察などの状況を丹念に取材し、猛吹雪のなかをさまよいながらも、最後までお互いをかばい合う5人の生と死の軌跡を悲劇の5日間として描き出している感動のノンフィクション小説です。この作品は、第8回開高健賞受賞しています。
この青森の山岳遭難としては、八甲田山死の彷徨という世界山岳史上最大とも言われる山岳遭難事故があります。それを題材として新田次郎が山岳小説を執筆しています。この小説は映画化もされているので知っている人は多いでしょうが、日露戦争直前の1902年に、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習として、また陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊された場合を想定して、日本陸軍が八甲田山で行った雪中行軍の演習中に、参加部隊が記録的な寒波に由来する吹雪に遭遇し210名中199名が凍死した八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした山岳小説です。しかし、ノンフィクション小説として扱われる事も多いのですが、実際には、事実を題材としながらも作者自身の解釈や創作が含まれるフィクションのようです。それに引き換え、「空と山のあいだ」という小説に書かれた岩木山遭難事故は本当にあった話です。当時、昭和31年5月の日本隊のマナスル初登頂の快挙に刺激され、わが国にも空前の大衆登山ブームが訪れました。そのために、38年1月には愛知大学山岳部員13名が北アルプスの薬師岳で遭難したのをはじめとして、昭和30年代後半に、山岳遭難が頻発しています。遭難の原因は高校生たちの経験不足,準備不足、未熟さによるものではあり、メンバーに本格的冬山経験者は誰もおらず、5人のメンバーにアイゼンは3足、ちょっとした集合時の行き違いから半日近い行動の遅れを生じたり、吹雪の中の下山早々、磁石を2つとも吹き飛ばされたり、冬山で焚火をする初歩的な技術さえもありませんでした。また、遭難が明らかになってからの対策本部の対応も非常にお粗末だったようです。冬山に熟知した地元山岳関係者たちの意見に耳を傾けず、二重遭難を恐れる余りのおざなりな捜索活動、所轄警察署間の軋轢があり、学校関係者も責任回避の言動に終始します。これは今もあまり変わりがないかもしれません。事故は起こるものですし、未然に防げないことが多いかもしれません。しかし、たぶんに人災的なことも関係してくるのですね。
投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (5)
2007年10月29日 [近頃思うこと]
優先席
昨日のテレビで、社会的責任度のテストとして「シルバーシートに座っていて、目の前にお年寄りが来たときに寝た振りをしたことがあるか」という質問がありました。確かに疲れているときなど座っていたいことがあります。しかし、私の年になると、ここに座っていると困ることがいくつかあります。まず、目の前に立った人が私より年上なのか、席を譲ってあげたほうがよい人なのか迷うことが多いからです。あるとき、電車で中年の女性グループの人たちが乗り込みました。そして、私が座っている周りを取り囲んで座ったので、私は席を譲ってあげたこところ、「ぼく、ありがとうね。」と、明らかに私より若いであろう女性から声をかけられて戸惑ってしまったことがありました。また、これから高い山に登りに行くであろう装備をした中年の女性が、必死に席を奪おうとしたところを見ると、登山でかなりハードな運動量をあえてしようとする人なのに、席に座ることを必死に求めるほど疲れているのだろうかと思ってしまいます。そんなことをあれこれ考えるのがいやなので、私は、よほどすいている時でなければ出来るだけ優先席には座らないようにしています。この優先席について、最近また話題になっています。このシルバーシートは、1973年の敬老の日、国鉄が首都圏の中央快速線の快速、特別快速電車にそのような座席を設置するにあたり、銀色の布地(新幹線普通車座席用の布地を転用したもの)を用いて座席を区別し、「シルバーシート」と名づけたことが始まりです。このことをきっかけに、高齢者を指すときに「シルバー」という言葉を使うようになったと言われています。このシートは、全国のJRおよび一部私鉄で使用されていましたが、1993年頃、京王電鉄がシルバーシートを「優先席」に改称し、1997年には、JR東日本も「優先席」に改称し、その後、関東地方の大手私鉄も順次シルバーシートを「優先席」に改称しています。このシートは、利用対象を高齢者や身体障害者以外にも、怪我人、妊婦、乳幼児連れなど、一時的に何らかのハンディキャップを持つ人に拡大するためです。そして、今は、心臓ペースメーカーなどを装着した人への配慮のため、この優先席付近では携帯電話の電源をオフにするように呼び掛けています。ペースメーカーに携帯電話からの電波を当て続けると、まれに作動が不安定になる事が実験で確かめられているからです。しかし、では、優先席でない席に座っているときに前にお年寄りが立っているときには譲らないかというと、そうではありません。前に妊婦や乳幼児連れなどにも席を譲ります。ということで、阪急東宝グループの阪急電鉄および能勢電鉄・神戸電鉄では、1999年4月1日より優先座席を廃止し、全車両の全座席が優先座席と同様に扱われるよう乗客のモラル向上を呼び掛けました。それは、実質的には区分のみを廃し、全座席を優先座席化するものです。これは優先座席を利用すべき対象者(高齢者・身体障害者・怪我人・妊婦・乳幼児連れなど)が事業者により設定された場所に追いやられる形は好ましくなく、本当に必要な人が間近の席でも利用できるように、との性善説にそった思考への転換によるものでした。それが、実施後8年が経過した今年、阪急電鉄は株主総会で「座席を譲ってもらえない」との意見が出たことをきっかけに再検討し、先日の10月29日から再び優先座席の区分を用いる方針へと転換しました。このニュースを聞いたときに、なぜか悲しい気持ちになりました。人への思いやりとは、そんなものだったのですかね。
投稿者 fujimori : 23:58 | コメント (4)
2007年10月28日 [近頃思うこと]
ペーパーレス
園では、毎日たくさんのごみが出ます。その多くは紙です。しかし、そのごみとしての紙は、子どもの作品や、子どもが使った残りの紙ではなく、事務的に使った紙が多い気がします。連絡事項、打ち合わせ事項、様々な案などにも使われています。しかし、最近、その文面は、手書きでのメモではなく、パソコンで作成したものがほとんどです。というのは、各クラスに1台ずつパソコンが用意され、園の中のどこでもインターネットが出来るように無線ランが組まれています。また、職員室のパソコンのなかに、すべてのパソコンの情報を保存できるようになっており、どのパソコンからでも見ることが出来るようになっています。ですから、私は「これから、話し合いのときは、原案などはパソコンで作っているのだから、それを紙に打ち出さないで、みんなパソコンを持ち寄って、その画面を見ながら会議をしたらどうか。そうすれば、紙のごみを出さなくなるのではないか。」と提案しています。何年か前に、コンピューターの発達によって紙の使用量が減ると言われた時代がありました。しかし実際には、いまだに、電子メール、電子商取引、そしてあらゆるオンライン上のテキストを、多くの人々はプリントアウトしているようです。総務省が出している日本統計年鑑をみると、国内で生産される印刷・情報用紙は、平成2(1990)年では年間921万8,000トン、平成12(2000)年には1,174万1,000トン、そして平成16(2004)年では1,137万2,000トンとなっています。ちなみに、国内で生産される紙の種別は、「新聞巻取紙」「印刷・情報用紙」「衛生用紙」「包装用紙」などですが、その中で、印刷・情報用紙は紙全体の約6割の生産量を占めるそうです。統計からは、オフィスの書類等で使われる印刷・情報用紙の生産量は平成12年をピークにして、ようやく増加傾向に歯止めがかかっているようですが、依然、紙は高水準で生産され続けています。なぜ、紙の量が減らないのでしょうか?IT化によって紙が減らせるのではないかと言われてきたのが、逆に、IT技術の発達は、同時に情報を爆発的に増加もさせており、情報バックアップのための印刷物を新たに生じさせているのです。情報の表示をパソコンモニターからよりも、印刷物のもつメリットが依然大きいままであり、紙の書類は根強く残っているのです。それは、紙に印刷された情報は、手軽に持ち運びが可能で、視読性に優れ、手書きのメモが書き込めるなどの優位性があり、そこまでパソコンを使いこなすことは出来ないからでしょう。いくらIT化が進んでも、やはりアナログのほうが使いやすいですね。しかし、簡単に折りたため、薄く軽量で、広げて読むことができる紙による本の世界が最近少し変わってきているように思います。電子ペーパー、もしくはペーパーライク・ディスプレーと呼ばれる電子デバイスの開発は急速に進展してきています。ペーパーレス化への取り組みは、地球環境のためにといった大義だけでなく、仕事の仕方の見直し、効率化、省力化、また、ビジネスマナー・ルールとしても意味を持ち始めています。IT技術は、人の生活を変えました。随分と便利になりました。朝、机に向かってまずする仕事は、今までは届けられた郵便物の封を開けることから始まりましたが、今は、メールをチャックすることから始まります。また、逆に、それによって失われたものも多くあります。また、メールになって、届く情報が増えて、見るのに多くの時間を費やすようになりました。もう一度、ペーパーレスということから、IT技術を考え直してもいいかもしれません。
投稿者 fujimori : 22:13 | コメント (5)
2007年10月27日 [セミナー]
主任セミナー
先週、主任セミナーが開催されました。そのセミナーに定員60名のところ、83目に参加者が、全国から集まりました。組織には、様々な立場の人がおり、それぞれの役目があります。園には、よく主任という立場の人がいます。その言葉はなんだか中間管理職というイメージがありますが、園長という施設長という運営管理という仕事を、保育という現場につなげていくという役目をしているところが多いようです。ですから、現場の中ではリーダーであり、リーダーシップが必要とされます。私が、最近ある本で、「リーダーシップ」という項を受け持って原稿を書きました。どうもこういう項目は苦手です。もともとは私は、リーダーたるものは、人格を高めることが必要であると思っていますので、マニュアル的なものがないからです。しかし、原稿の中で「検討すべきポイント・視点」を整理してみました。そのリーダーは、本当は主任というよりは施設長であったり、理事長であったりしますが、副園長や主任という立場の人にも必要な事柄です。「園が、それぞれの施設の保育理念・保育目標等に基づき、園としての多様な機能を、組織体として果たすことが求められます。したがって、「組織として」というところにはリーダーが存在し、その役割が求められます。」それぞれの立場の人が絡み合って組織をつくっていきます。ですから、リーダーは必要ですが、「リーダーとは単なる肩書きではなく、リーダーとしての資質が必要になってきます。それがリーダーシップです。」リーダーは決して肩書き、地位ではないのです。リーダーとして何をするかが大切なのです。だからといって、「リーダーとしての資質が備わっていても、職員がそのリーダーについていかなければ意味がありません。また、ついていきたいと思うリーダーでなければ、その使命を全うすることは難しくなります。そのためにどんな資質が必要なのでしょうか。」ということが課題になります。よく、学校や園では、教諭や保育士だった人がリーダーになることがありますが、そうすると、どうしても経験がある分だけ自分でやったほうが早いとか、自分のほうがもっとよくできるとかと思うことが多いのですが、「リーダーは、自ら直接職務に携わることは少なく、職員を通してその使命を果たすことになります。複数の職員をいかにコーディネートすることができるかという資質も必要になってきます。」そのために、自分だけでなく、「リーダーは自らの質を高める努力とともに、直接子どもと関わる職員の質向上のための環境づくりもしていかなければなりません。それが、園としての質の向上につながるからです。」もちろん、リーダーはその組織のために存在するのですが、保育や教育という仕事は、必ずしも園のためにだけする仕事ではないのです。ですから、「時代は変化をしていきます。その時代をよく見つめ、広い視野の中から園の改革を行っていかなければなりません。その改革には、単にその園の存続の問題だけではなく、次世代を担う子どもたちの育成の視点が必要になってきます。使命としての認識を、私心を捨てて持つ必要があります。」このように考えると、園が公立であろうが私立であろうが、共に仕事はパブリックなものでなければならないのです。そのために「その職務の意義を自覚し、見識を高め、園を取り巻く社会情勢を踏まえ、その専門性の向上に努めなければならない。」のです。やはり、教育、保育という仕事を、「サービス」という言葉で表してはいけないのです。
投稿者 fujimori : 20:55 | コメント (3)
2007年10月26日 [近頃思うこと]
意欲
最近の学力調査で、基礎学力はまあまあでしたが、考える力がおとろえてきたことが問題になっていますが、それよりも取り組まなければならない問題は、今の子どもたちは、「主体的な活動」をしなくなり、「学ぶ意欲」が、世界の中でとても低いことです。数年前のPISAの学力調査の中で、日本の子どもの意欲が調査対象各国の中で最低だったそうです。物が豊富になると、そのものの有難さを感じなくなり、欲しいとか、何とか手に入れたいと思う気持ちは薄れてきます。また、もうすでに手に入れているので意欲がなくなるというだけではなく、欲しいものを手に入ることでよりよい生活なり、生きていく上でメリットを感じないという、あきらめに近い感情から意欲がないということもあります。どうせやってもというような「どうせ」という感情があって、意欲がない場合もあります。また、大人が先廻っていろいろと考え、欲しがるより先に与えようとしてしまうことで意欲がなくなるということもあります。フランスの0~2歳児の保育園の報告で、こんな内容がありました。「手を伸ばして何かを取ろうとして取れないときは、すっと近くに持っていってあげるということはするわけです。だけど、たぶんこの子は欲しいんだろうなと先回りして渡すことはしません。あくまでも、子どもが取ろうとする努力をしなければ手を出しません。してほしければ自分から言いなさい、主張しなさい、待っていても何もしてあげないわよっていうことを、結局は教えているわけです。」今年の6月30日、日教組のシンクタンク国民教育文化総合研究所の「学びの論理と文化」研究委員会が、中間報告をまとめました。そのなかで、「教員が教えてやり、子どもが学ばされる縦の関係が、学ぶ意欲の低下の背景にあり、今後は、子どもの「主体性」を育てることが重要」と強調しています。教える、教えられるという近代学校教育システムが、子どもたちの学びたい意欲に答えていないことに問題があるとしています。子どもに、学ばせるのではなく、教員も子どもと一緒に学ぶスタイルに転換していくことが必要などとして、学びのコミュニティーの再生を求めています。よく、外国語には「学ばせる」とか「育てる」という言葉はないと聞きます。「学び」とか、「育ち」は周りから「させる」ものではなく、自らの行動、発達なのです。ですから、意欲が大切になるのです。そして、意欲があると何とかしようとするために「工夫」が生まれてきます。昨年12月の四国新聞に評論家の芹沢俊介氏がこんな記事を書いていました。「教育は嫌いだ、というより怖い。どこが怖いかというと、教育は(させる)を基本としておりその姿勢が「個」としての私の存在をおびえさせるのだ。(させられる)のはごめんだ。」本来のエディケーションとは引き出すという意味が語源と聞きます。教えるとか、させるという意味ではないのが、堂勘違いしてきたのでしょうか。教育基本法が改正された条文を読んで、こんな感想も述べています。「これまでに比べ、内容に(させる)の比率がぐんと高くなっている。ますます子どもの「個」が圧迫されるであろうことが、いまから予測される。」「すくなくとも「教育を受ける」と受身性を反転することができるだろう。「教育を受ける」という記述には、「教育を与える」という姿勢が対応している。「与える・受ける」の関係は容易に「させる・させられる」の関係に移行する。教育には自己教育しかないと考える私にとって、教育は与えられるものではない。必要に応じて与えられた学習の機会を利用して、自ら身につけるものだ。」最後に「自律の精神は、主体的な学習を通じた自立によってのみ得られるものだ。」と結んでいます。しかし、その主体的な学習は、意欲がないと成り立たないですね。
投稿者 fujimori : 21:35 | コメント (4)
2007年10月25日 [近頃思うこと]
1年生
昨日のブログで紹介した高谷一美さんの報告の中で、こんなこともありました。「新1年生の最初の仕事といったらなんだろうか?持ち物に名前を書くこと?それとも鉛筆を削ること?いえいえ、トルコではそれは、あらゆる教科書にブックカバーをつけること、だ。女の子用のバーニー人形模様、男の子用のヒーロー模様、それはそれはいろとりどりの包装紙が文房具売り場の中心にドカンと置かれて売られている。誕生日プレゼントを包装しようとするとき、なかなか包装紙が売っていなくて困ることがあるが、ここでは包装紙といえば教科書のブックカバー専用であるから、この時期しか売れない季節物の学校グッズであったのだ。とりあえずランドセル代わりの大きなリュックをおばあちゃんに買ってもらい、まるでかばんが歩いているような姿ながら、スクールバスに乗り込むようになった息子。しかし、実はうちの学校では文房具は一切いらなかった。これから先はどうなのか知らないが、9月3日から始まった新学期、今のところ教科書どころかノートも鉛筆もいらないので、彼の大きなかばんはいつもからっぽである。これもねだって買ってもらったブックカバー用の包装紙も出番がない。宿題用のプリント集も、スパイラルとじだったので、カバーなし。私立ではこういった文房具はすべて学校で共有するというシステムを導入するところも増えているらしい。」日本では、1年生になる前に親としてまずしなければならないことの大きな仕事は、すべての持ち物に名前を書くことです。今はどうかわかりませんが、かつて、1年生が「算数セット」を使っていましたので、その中に入っている小物一つ一つに名前を書くのは大変でした。特に、計算棒は、楊枝ほどの棒一本一本に名前を書くのはまさに職人芸です。また、かつてはシャープペンの使用は禁止で、鉛筆を使っていましたから上のほうを少し削って、そこに名前を書きました。私が、学校建築を研究するために少し小学校に勤めたときに、1年生を担任した最初は、ランドセルから教科書やノートを出して、机にしまうことを何度も練習しました。その作業の中でも、ある子が、下敷きがなくなったと大泣きをして困った経験があります。ただ、本の間に挟まっていただけでしたが、入学当初の1年生はそれほど緊張していたのでしょう。それにしても、あの重いランドセルを背負っての通学は1年生にとっては大変でしょうね。ランドセルの歴史は、古くは江戸時代にさかのぼるようです。幕末の日本に西洋式の軍隊制度が導入された際、布製の背のうも同時に輪入され、軍用に供されました。これが日本のランドセルの事初めのようです。明治時代になり、10年10月に開校した学習院は、8年後の明治18年になって生徒の馬車や人力車での通学を禁止するとともに、軍用の背のうに学用品類を詰めて通学させることになりました。この背のうがオランダ語で“ランセル”と呼ばれていたことから、やがて“ランドセル”という言葉が生まれ、それは通学用の背負いカバンを意味するようになり、それが現在に至るまで受け継がれています。これが現在の形でのランドセルのルーツです。当時のランドセルは今のリュックサックに近いものでしたが、現在のようなしっかりとした箱型ランドセルの誕生は早く、学習院で“ランセル”が採用された2年後の明治20年、時の内閣総理大臣、伊藤博文が大正天皇の学習院入学を祝して特注で作らせたものを献上したのがその始まりとされています。全国的にランドセル通学が普及し、日本の小学生にランドセルは欠かせないものとなったのは昭和30年代以降です。ほんの短い歴史しかなく、日本にしかないランドセルを持つことが、当たり前かのように思っているのは、なんだか変ですね。
投稿者 fujimori : 21:16 | コメント (5)
2007年10月24日 [近頃思うこと]
入学
年末が押し迫ってきましたというと、未だ少し早い気がしますが、年長児さんは、そろそろ1年生になることを意識し始めます。それは、1年生になると必要なものを買い揃え始めるからです。その中で代表的なものに二つあります。ひとつは勉強机で、もうひとつがランドセルです。これがなぜ今なのかというと、それらを祖父母がクリマスプレゼントなどで買い与えるケースが多いからです。そして、年が明けるころから次に気になり始めるのは、学習面です。文字を読めるようにしなければならないのでは、字を書けるようにする必要があるなのか、数を数えることはどうなのかなどです。このように小学校に入学するころの心配は、どの国でもあるようです。しかし、他の国の多くでは、上の文章の中で大きくちがうところがあります。ひとつは、「年が明けるころから」というところです。それは、ほとんどの人が知っていることですが、外国では、9月に新学期が始まることが多いということです。いつがよいのかはよく議論されることですが、今のところ日本では4月から年度が始まります。もうひとつ、意外と知られていない音があります。上の文章の中で、「年長児さんは」というところです。多くの国では、小学校入学は、「子どもの成長に合わせて早く入れたり遅く入れたりは流動的に許されるので、就学時期は親によってもいろいろある」というのが普通のようです。ドイツでも、就学時期は保護者が決められるので、年長さんが必ずしも次の年に小学校に入学するとは限りません。しかも、時期を早めようとするよりも、時期を遅らせようとする保護者が多いそうです。特にインテリといわれる保護者にそういう傾向があるようです。それは、まず、学校では、日本でいう「飛び級」と「落第」があるからです。みえなどで早く学校に入学しても、途中で落第をしてしまっては意味がありませんし、ドイツでは、4年生の成績で大体将来が決まってしまいます。大学まで行くか、専門学校か、職人かなどが決まってしまいますので、1年遅らせるのでしょう。あとは、大体どの国でもおなじような風景が展開されます。イスタンブール在住で、トルコ語通訳兼撮影コーディネーターである高谷一美さんが、特派員ブログでこう報告しています。「1年生なのだから、いろいろ文房具もいるだろう。8月の終わりから、スーパーやデパートではBACK TO SCHOOLフェアがいたるところで開かれる。トルコでは文房具は高い。だいたいトイレットペーパーが高いことでもわかるけれど、紙が高いから、教科書も問題集もノートも、質の割には本当に高いのだ。だから普段はあまり売れないのか、時期はずれには安いノート類を探すのに苦労することもある。今ならノートは、野菜と一緒にキロ単位ではかり売りだ。こんなに文房具やかばんなど学校グッズが安いものから高いものまで出そろうのは、このシーズンだけなのだ。」このトルコだけでなく、世界には様々な国があり、高価な高級な皮のランドセルが買えるのは一部の階層だけであることを知る必要があります。また、子どもに、赤ちゃんを含めて高級ブランドの服を着せるのも、日本人の特徴のように言われています。子どもを大切にすること、子どもに愛情を注ぐことはとても大切なことですが、それは高価なものを与えたり、手取り足取りすべて与えることではなく、本人がいろいろと工夫する余地を残しておくことも脳を活性化するために必要なことなのです。
投稿者 fujimori : 21:44 | コメント (4)
2007年10月23日 [新聞記事より]
言葉
今日の読売新聞に「広辞苑」という国語辞書が10年ぶりに改訂されたというニュースが掲載されていました。今回で第6版だそうです。私が小学校に入学したころに第1版が発行され、家庭の必需品でした。茶の間に置かれ、テレビを見たり、家族で会話をしたりしたりする中で、解らない言葉があるとすぐにこの広辞苑で調べたものでした。そこに掲載されている言葉は、前回の版より1万項目増えて24万項目あるそうです。改訂するごとに顕著に増えてきているのがカタカナ語です。確かに、巷ではカタカナ語が多く使われるようになりましたし、外国でないとうまくニュアンスが伝わらない言葉も多くなりました。今回の改訂では,カタカナ語が新収項目の38%を占めるそうです。しかし、本来の外国語ではなく、いわゆる和製英語のように外国語を日本でアレンジしてできた言葉が増えたのも今回の特徴の一つです。ですから、気をつけないと、その言葉を外国に行って使っても通じません。たとえば、外国語の単語を日本で組み合わせて作った単語である「スケールメリット」「タッチキー」「チャイルドシート」「マイナスイメージ」などがあります。また、一見,本来の英語のように見えるものとして「バブリー」「プルサーマル」「プレゼンテーター」などがありますが、まったく日本人による新語です。もうひとつ、増えた単語の特徴がインターネットの急激な普及で使われるようになった言葉です。「インターネット」「ホームページ」「HTML」などは、前回の改訂で入りましたが、今回の改訂では、「検索エンジン」「SNS」「HTTP」「SSL」「ドメイン」などが収録されています。困る使われ方の言葉として、「なりすまし」「迷惑メール」「フィッシング」などもあります。携帯電話関係では、「着メロ」「顔文字」「ワンセグ」などが新たに収録されています。世相を反映したものとして、「メタボリック症候群」「うざい」などや、私がここで書いている「ブログ」も今回入りました。そのほかに主なものとして「癒(いや)し系」「クレーマー」「ニート」「敵対的企業買収」「京都議定書」このように、改訂されるたびに収録されてきた言葉を見ると、時代がよくわかります。それは、言葉の意味や使い方は不変ではないからです。しかし、その変化を言葉の乱れと感じるか、時代の変化とするかは難しいところです。この嘆きは、「近ごろの言葉遣いは聞き苦しい」と『枕草子』にも『徒然草』にも見られます。また、同様に生活様式や価値観が変わることで、その意味が変わっていくものにことわざがあります。たとえば、「犬も歩けば棒に当たる」ということわざも、広辞苑では二通りの解釈が書かれています。ひとつは、「自分のよく知っている世界から外に出ないことが生きていく上での知恵である」という解釈と、最近の解釈である「新しいことを試みる積極性に価値を認める」という内容です。この広辞苑の第1版は、1955年5月25日に刊行されました。その基になるものとして新村出氏が「普遍的にしてかつ軽便な中型国語辞書」として編纂され、1935年(昭和10)に博文館から刊行された「辞苑」があります。これを全面的に改訂・増補して作られた「広辞苑」は、当初、百科事典を兼ねた20万語収載の国語辞典として、装丁を洋画家安井曾太郎氏の手により発刊されたのです。この初版以来の累計部数は,1100万部になり、積み上げると880キロメートル、成層圏を遥かに超えて大気の極端に薄くなった場所に届き、東海道線・山陽線の線路に並べていくと,東京から広島までの距離になるそうです。この広辞苑は、解らない言葉を調べるだけでなく、百科事典のように暇なときに開いて読んだりもしますが、もし、毎日1ページずつ読もうとすると,8年以上かかることになります。人は、そんな言葉を一部にしても自由に使いこなしているのですね。
投稿者 fujimori : 23:34 | コメント (4)
2007年10月22日 [近頃思うこと]
あかりの問題
昨日は「あかりの日」でしたが、「電気の日」は3月25日です。この日は、1878年に日本で最初にアーク灯がともった日です。1821年に発明されたアーク灯も火を使わないあかりでしたが、点灯するのに技術が必要な上、電極の消耗が激しいので絶えず電極間の距離を調整してやる必要がありました。そこで、エジソンが白熱電球を発明したのです。この電球の寿命を長く持たせることで、フィラメントの素材として何がよいかが、その後の課題になります。エジソンが考えたもっとも長く持つものは、偉人伝に出てきますが、日本京都産の「竹」でした。ちょうどそのころ、その頃、日本の東芝もフィラメントの材料を探していたらしいのですが、エジソンが京都産の竹を使ったと聞き、こんな身近にあったとして「灯台もと暗し」とショックになったと聞いています。この東芝は、昔テレビのNHKで放送されたことがあり、私の大好きな番組のひとつであったカラクリ儀右衛門(田中久重)の会社(当時は東京電気)ですが、エジソンが作った会社(現在のGE(General Electric)社)と独自に開発してきた白熱電球に関する技術を持った東芝が提携して得られた技術をもとに安定した電球を製造、これに「マツダ・ランプ」の名前を付けます。この「マツダ」は人の苗字ではなく、ゾロアスター教の神「アフラ・マヅダ」からとられたものです。この東芝はこのマツダランプに改良を加え、1925年電球の内面にツヤ消しを施したまぶしくない電球を開発、これが現在の電球の基本です。そして、電球と勢力を2分する蛍光灯がGE社のノイマンにより1938年に発明されました。蛍光灯はエネルギーの光への転換効率が良いのが長所で、白熱電球に比べてずっと小さい電力で同量の光を出すことができます。しかし放電により発光させているため、単位の光のチラツキが出るため、長時間作業をすると目を悪くするという深刻な問題がありました。これを改良したのがインバーターです。次の問題は、電球や蛍光灯もだいたい半年あるいは2~3年の寿命です。切れないことを前提にしたあかりが一部で使われ始めています。それがLED(light Emitting Diode)です。次の問題は、「あかり」の地球環境にもたらす影響と、人間の体にもたらす影響です。地球環境の問題は、太陽や月や星からとっていたあかりを、人工的に作るとなると廃棄物や、排気ガスなどの問題も出てきます。もうひとつ、体への影響を、昨日12日付の専門誌「ネイチャー・ジェネティクス」電子版に理化学研究所などの研究チームが発表しました。それは、「真夜中に光を浴びると眠れなくなるのは、細胞に組み込まれている体内時計が光の刺激でバラバラになり、機能停止に陥るのが原因である」というものです。この内容は、すでにブログでも書きましたが、「正常なら細胞群は朝方光り、夜は消えるはずだが、真夜中に光を当てると、朝の発光が少なくなり、体内時計の働きが弱まった。真夜中に光を3時間続けて当てると、体内時計の機能の一部が停止し、個々の細胞がバラバラに光るようになった。」という実験結果です。テレビで、真夜中にコンビニに行ったり、テレビを見たりすると、体内時計のリズムが狂ってしまい、さまざまな体や脳への障害が出てくる可能性が高くなったとコメントしていました。以前から、「寝る前にテレビや蛍光灯の光が目に入っていると、交感神経が優位になり、スムーズに睡眠に移行できません。寝る1時間前にはテレビを消して、照明も暗くして、リラックスするようにすると、メラトニンというホルモンが分泌され、自然と眠くなります」と助言されています。
投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (5)
2007年10月21日 [記念日]
あかりの日
私の園の2歳児の保育室のロフトの下のスペースが、ままごとゾーンになっています。子ども達がそこにもぐりこんでままごとを楽しんでいますが、少し薄暗いので、そのスペースを照らす電球を買い、天井に取り付けました。裸電球ではありませんが、とても家庭的な雰囲気が出ました。あした、きっと子ども達が喜ぶでしょう。また、昨日、0歳児のベッドの上の蛍光灯に薄い布の覆いを取り付けました。ベッドで眠る赤ちゃんは上を向いて寝るために、蛍光灯の明るさが直接目に入ってくるのでさぞ眩しかろうということで、蛍光灯を薄い布で覆ったのです。保育室をはじめとして、各家庭でもドイツでは、電灯が露出していることはなく、間接照明であったり、布などで覆ってしまっています。
すべての電灯が覆ってしまっているのをみると、その布が燃えないのだろうかと心配になってしまいます。
今日10月21日は、「あかりの日」です。日本電気協会・日本電球工業会等が1981(昭和56)年に制定したものですが、1879(明治12)年、エジソンが日本・京都産の竹を使って白熱電球を完成させた日です。あかりのありがたみを認識する日として制定されましたが、本当は、電球の日にしたほうがいいのでしょうが、「あかり」は何もエジソンが作ったわけではないからです。人間は、松明、灯心、ロウソクなど、さまざま手段であかりを求め、人間の歴史はあかりと共に歴史を歩んできたといっても言い過ぎではないくらいにかかわりがあります。そして、光を出すには必ず火を燃やさなければならなかったのを、それを分離した革命家がエジソンであったということなのです。そのエジソンの生涯やエピソードは、様々な伝記物語に書かれているので、子どものほうがよく知っているくらいです。そのひとつが、小学校に入学したときに、教師と馬が合わず中退したことです。現在では、その背景に、彼がLD、ADHD、アスペルガー症候群を併せ持っていた事が考えられています。しかし、その彼を、小学校の教師であった母親は叱咤激励し、怒りつけるのではなく、母親は、家の地下室に様々な化学薬品を揃え、勉強を教えるのです。彼のダメなところを何とかしようとするのではなく、得意なところを伸ばそうとしたのです。そのおかげで、人類にとってとても貴重な発明を次々とすることになるのです。そんなエジソンですから、その真偽のほどは定かではありませんが、様々な伝説や逸話、名言が残っています。一番有名なのは、「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。」という言葉です。この言葉は、いくら天才でも、ひらめきなどはほんのきっかけで、ほとんどは努力が大切だということに使われていることが多いような気がします。しかし、本人が言うところによると、どうもちがうようです。実際は「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」と言ったようです。逆に言えば、「1%のひらめきさえあれば、99%の努力も苦にはならない」ということで、ひらめきに確信があれば、どんなに失敗しても挫折せずに努力し続けることができるということです。ですから、エジソンは、ペンと紙を常時携帯し、思い浮かんだ瞬間には面倒くさがらずに書き留めていたようです。ちなみにアインシュタインもメモ魔として有名でした。他にも「ほとんど全ての人間は、もうこれ以上アイディアを考えるのは不可能だというところまで行きつき、そこでやる気をなくしてしまう。いよいよこれからだというのに」とか、「もし自分のできることをすべて実行すれば、その結果に文字通りびっくり仰天することだろう。」などの言葉を残しています。
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2007年10月20日 [新聞記事より]
色
こんな内容が、オンラインの科学誌に発表されました「アフリカゾウが、体臭や衣類の色で危害を加えられる可能性のあるマサイ族を識別していることが分かった。」というもので、これは、英セントアンドルーズ大学の研究チームが、アフリカ大陸東部のケニアで調査した結果です。マサイ族のようなゾウをヤリで突く風習がある種族と、農耕主体でゾウに危害を加えることはまずないカンバ族で比較したところ、アフリカゾウは、マサイ族が着た服のにおいをかいだときの方がはるかに早く、遠くに逃げることがわかり、落ち着きを取り戻すまでの時間も、長くかかったそうです。同様に、アフリカゾウは色に対しても反応し、マサイ族の伝統的衣装の色である赤い衣類を見せると威嚇的な態度を示したといいます。白い衣類には反応はしませんでした。象は、においはもちろん、色も認識し、覚えているのですね。では、人間の赤ちゃんはどうなのでしょう。大人から、赤ちゃんというイメージは、なんとなくやわらかく、癒し系の感じがするので、思い浮かぶのは、白やピンク、ブルーなどの淡い色とか、パステルカラーです。ですから、ベビー用品や洋服には淡色系が多いようです。ですから、保育室の色や、装飾には淡い色を使うことが多いようです。生まれたばかりの赤ちゃんが、色を認識できるようになるのは、生後3カ月頃からだといわれています。そのころの絵本なども、色だけでなく、輪郭もはっきりしない、淡く優しい感じの絵が多いのですが、実は、視力がまだ弱いため、モノの輪郭や質感はあいまいです。しかし、昔は、生まれたての赤ちゃんはほとんど見えていないと言われていましたが、最近ではコントラストの強い色である白・黒・赤などの色には反応を示すようになり、その色で描かれたものはちゃんと見えていることが分かっています。もちろん個人差もありますが、小さな赤ちゃんほど、カラフルでハッキリした配色のものに興味を示して、目で追うことが多いのです。ですから、私の園の0,1歳児の基調の色彩は、赤い色です。ただ、あまり激しくではなく、一部のいすの色であったり、部屋の隅の床の色に使ったりしています。また、この頃に多くの色を赤ちゃんの周りに置くことは、視覚の発達を助ける役目を担い、また大切な色彩経験にもなります。どうしても日本人は、派手な色をどぎつい色として嫌う傾向になります。柔らかなパステルカラーとか、わび、さびの世界の少し古びた、苔むしたような色を好みます。しかし、赤ちゃんは視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、いわゆる5感から得る刺激によって脳が発達し、言語や運動能力、社会性も発達していきます。そうして、自我の発達とともに「好き・嫌い」という感情も認識できるようになり、2歳すぎからは、言語機能の発達と共に色名を言えるようになります。個人差はありますが3歳半から4歳半頃には「りんご=赤」など、特定のイメージと色を関連づけて認識するようになります。この頃には視力も大人並に成長しています。このように、周囲からの刺激や環境により、5感は発達していきます。それに伴って、色の好みも出てきます。小さい頃は、全般に赤・青・黄など、鮮やかな色を好む傾向にあるようですが、年齢が上がるにつれ、好みが、落ち着いて目の前のことに集中できるような寒色系か、緑などの中間色がいいようです。大人の好きな色が、必ずしも子どもの好きな色とは限りませんので、自分の好みを押し付けたり、思い込んだりしないほうがいいようですね。
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2007年10月19日 [近頃思うこと]
公園遊具
建物を建て替えるかという問題が各地で起きていますが、同様に公園などの遊具が老朽化し、それによっての事故が急増しています。公園が急増した20~30年前の遊具が老朽化する時期がきているのです。建物だけではなく、いろいろなものが、変わり目なのでしょう。公園にある遊具の重傷事故は今年度上半期だけで、すでにここ数年の年間報告数を上回っているようです。その背景にあるはもちろんその遊具の老朽化があるのですが、もうひとつ、自治体の不十分な点検や維持管理にあるとしています。安全点検を強化しようと、国土交通省は来春をめどに「安全指針」の改定作業を進めています。そういえば、箱ブランコによる死亡事故が起き、全国の公園から箱ブランコが撤去されました。そして、この事故がきっかけで国は「安全指針」を設けたのは02年3月です。今、老朽化が起きている遊具の大半は、それ以前の製造です。箱ブランコの事故の後、他の遊具も順に撤去されています。本来は、遊具による挑戦や冒険など意欲的な遊びは、危険を予知したり避けたりといったことを学習する機会となりますし、これらの機会が子どもの成長にとって必要なものです。しかし、最近、屋外型固定遊具で遊んでいて指を切断した、などの痛ましい事故が相次いで発生し、各地で遊具の点検・撤去が行われました。その遊具もどこまで撤去されていくのでしょうね。どんなもので、どのような事故が起きるかということを国民生活センター危害情報システムが、平成15年8月に「危害情報からみた屋外遊具の事故」を発表しました。それによると、事故にあったのは、10歳未満、男の子に多く、頭のけがが最も多く、腕・手のけがでは骨折が目立っています。うんていやシーソーでは、年齢が低い子ほど重症のけがを負いやすいということです。鉄棒、アスレチック遊具、ジャングルジム、すべり台、ブランコ、回旋塔などは、重い症状のけがの割合が低く、すり傷・打撲の割合が高いのですが、部位としては、頭の割合が高い傾向があります。そして、これらの遊具は、年齢が高くなるとより大胆な使い方をしがちなので、重い症状の平均年齢が高くなっています。遊具によらず、物的要因によると思われる事故では、転落したところの地面が硬かったり、遊具にすき間があったことが原因で起きた事故などがおおいようです。また、人的要因によると思われる事故としては、ゆれている遊具のそばに近寄ったり、人と人がぶつかった事故、遊ぶのに適していない服を着ていたことが原因での事故などがおおいようです。これらの原因のほかに、私は子どもの体力低下も関係してきている気がします。今まで大丈夫だったから、今まで一度も事故がなかったからといってその遊具が安全ということはありません。今年10月7日に文科省が「体力・運動能力調査」の結果を発表しました。文科省では、運動能力が最も高かったとされる86年度から20年たつため、10年ごとの変化に注目して分析しました。青少年(6歳~19歳)の結果を見ると、走る(50メートル走、持久走)、跳ぶ(立ち幅跳び)、投げる(ソフトボール、ハンドボール投げ)など基礎的な運動能力はどれも長く低下傾向にありますが、9歳児の立ち幅跳びを86年度から10年間隔で比べると、男子が155.29センチ→149.31センチ→146.61センチ、女子が147.04センチ→140.94センチ→138.23センチと、ここ10年の低下はゆるやかになっているそうです。低下現象が緩やかになったのは、そろそろ、運動が少ないライフスタイルが定着して来たからだといわれています。もっと早く、どの遊具を設置するかは、子どもたちの生活、遊びの変化を捉え、遊具の安全面だけでなく、子どもの発達、能力の点検を行うべきでしょう。
投稿者 fujimori : 21:14 | コメント (5)
2007年10月18日 [近頃思うこと]
腰2
腰といえば、私は高校生のころからよくいわゆる「ぎっくり腰」になっていました。なると、歩くと頭のてっぺんまで痛くなり、姿勢を変えるときには、これまた厄介でした。そのころ、ぎっくり腰になってしまう原因は、意外にも重いものを持つとか、重いものを持ち上げるときに起きるのではなく、ほんの些細な瞬間になってしまいます。私がなるときの主な原因は、「くしゃみをしたとき」です。次に「歯を磨こうと少しかがんだとき」です。しかし、実は、これらの行為は、腰にとって些細な動きではないのです。人は、その姿勢によって、椎間板にかかる負荷が大きく違うことが分かってきました。つぎの姿勢・動作が椎間板に与える負荷(圧力)は、負荷が最も少ない「寝ている状態」を1としたときの、どのくらいの負荷がかかっているかというと次のとおりです。1位は、「前屈」で、4.0です。2位は、「くしゃみ」で、2.4。3位は、「あぐら」で2.2。4位は、「立つ」で、1.3です。歯を磨くために屈むが1位で、くしゃみが2位だったのです。今、腰痛は、1000万人の日本人が悩むといわれています。中でもちょっとした動作やくしゃみ等で突然、腰に激痛が走る急性腰痛症=“ぎっくり腰”は、ドイツ語で “魔女の一撃”と呼ばれるほどの激しい痛みが特徴です。また、青森県野辺地町では、雪下ろし、農業・漁業の作業でぎっくり腰になる人が多いそうですが、現地ではぎっくり腰のことを「キクラヘンキ」と呼びます。現地方言に詳しい人によると、「キクラ」は腰が「キクッ」となったことをいうそうです。これらのぎっくり腰ですが、実はこれまで原因やメカニズムはほとんど解明されておらず、はっきりした診断がつかないものの多くは単に「腰椎ねんざ」とされてきました。私がぎっくり腰になった歴史は古いので、自分で防ぐ手段を今でもできる限りとるようにしています。それは、まず、椎間板にダメージを与えないために、椎間板の圧力・動きを常にイメージしながら日常生活を送ることです。たとえば、今でも必ず、くしゃみをするときには、机の上とか壁に手をついて、上半身の動きを押さえるようにしています。また、朝は、筋肉が目覚めていない時間帯なので、急な動作はできるだけ避けるようにします。次に、私はしていませんが、顔を洗うときは、イスに座って顔を洗うと腰を痛めないそうです。靴下をはくときには、片足で立つとバランスが悪く、腰に負担がかかりますので、イスか床に座って負担を減らします。よく、掃除機をかけるときにも、上半身だけを動かすと椎間板に負担がかかりますので、体全体を動かすようにします。また、防ぐのは、姿勢だけではありません。たばこを吸うと、血行が悪くなり骨の末梢神経から椎間板への栄養補給が十分に行われなくなるため、椎間板の組織が変成してしまうと考えられています。また、肥満も、太って前にでた腹部を支えようと、背骨が知らず知らずのうちに反るため、椎間板に負担がかかります。よく、立ち上がるときに「ドッコイショ」と声をかけると、なんだか年寄りみたいといわれますが、実は、かけ声によってこれから行おうとする動作を脳が認識するため、体の準備が整い、ぎっくり腰になりにくくなります。しかも、勢いをつけてイスから立ち上がらずに、机などの支えに手をついて立ち上がるとぎっくり腰になりにくくなります。日常で起きる様々病気や障害は、自分で防ぐ努力しなければなりません。誰かが助けてくれるわけでもなく、放っておいてどうにかなる話でもありません。治療よりも、自らの予防が必要なことは、どうも、他のときにもいえることのような気がします。
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2007年10月17日 [講演先にて]
腰
私が地方に行くとき、その地域の仲間の人たちは、時間が取れるときは、私にいろいろな体験を計画してくれます。それは、私がブログを書いているので、そのネタになるようなことを提供してくれるという意味もあるでしょうが、それよりも、私がいろいろなことに好奇心が強く、いろいろなことを体験したい、見てみたい、行ってみたいという気持ちを感じてくれているからでしょう。本当にありがたいと思います。今年の初めのころ長崎に行ったときには、たけのこ掘りに連れて行ってもらいました。

たけのこは大好きなのに、自分では掘ったことがなかったからです。つい最近は、香川に行ったときに「手打ち体験うどん学校」に入学しました。ここでは、小麦から練り、手打ちから包丁まで伝統技法を学ぶコースです。いくつかのコースがある中、せっかくということで「名人コース」で学びました。

打ち終わったうどんの半分は、その場でゆでて食べるのですが、釜揚げや、生醤油で食べるうどん刺身や、ぶっかけなどゆで方から指南を受けました。2時間余りびっしりと指南を受けた後なので、その味のなんとおいしかったこと。以前のブログでも「うどんは讃岐に限る」内容を書きましたが、その腰のある歯ごたえは答えられません。「技」を極めたあとは、修了証書と修行の証に使った麺棒を授与されました。体験した店は、うどんの館大庄屋でしたが、今年の5月に、ここで製造される半生うどん「幽玄premium(プレミアム)」が、国際的な食品品評会「モンドセレクション」(本部・ベルギー)の最高金賞を受賞しました。讃岐うどんの最高金賞は初めてだそうです。モンドセレクションとはベルギー政府などが1961年に開始し、「世界食品オリンピック」とも評され、品質や味覚を審査し、100点満点中の95点以上で最高金賞が与えられるものです。たけのこ掘りやうどん打ちを体験して、両方に共通することは、共に「腰」を使うことです。よく、腰という字は、「上半身との下半身との間にある要所である」ところからできたといわれていますが、大言海によると、「くびれているところから、体のコシ(層)の義」とあり、日本釈名では、「体の中の強い部分であるところから、コハシ中略」とあり、和訓考によると、「コはカミシモの約、シはシキリの約」とあり、和句解によると、「胎内にコ(子)のある時、帯をシメル部分であるからか、または、大小便が、上から前後へコス(越)みちであるところから」と書かれています。腰といえば、よく若者が「腰パン」という、パンツが見えるほどズボンをずり下げてはくことがはやっています。このファッションは私にはよく分かりませんが、ほとんどパンツか尻が丸見えであり、今にも人前でズボンが落ちてしまわないかハラハラします。このズボンをずり下げてはくファッション、いわゆる「腰パン」を禁止する条例が、先日の9月27日のニュースに流れました。これは全米各地で作られ始めたというニュースです。罰金や禁固刑が科せられる場合もあり、「公衆道徳の問題」「人種差別では」と若者の風俗をめぐって論争を引き起こしているそうです。ズボンを腰からずり下げたら、罰金150ドル(約1万7000円)か、15日の禁固刑というのが、ルイジアナ州のマンスフィールドでは今月、そんな条例が施行されたそうです。腰パンが流行し始めて15年以上たつそうですが、自殺防止でベルトが使えない刑務所が発祥の地だそうです。 面白いファッションがはやるものですね。
投稿者 fujimori : 23:34 | コメント (4)
2007年10月16日 [近頃思うこと]
塾の名前
昨日のブログで書いた「花神」の中で、大村益次郎こと村田蔵六は、宇和島から江戸に出てきたとき、江戸には蘭学塾がなく、蘭学者が希少であったため蔵六のところに毎日のように蘭学修行の希望者が訪れます。そこで、塾を開くことにするのですが、その名前を「ひとがつくった屋敷に、ハトである彼が住んでいる」という意味で「鳩居堂」と名づけます。「ハトというのは、他の多くの鳥とおなじように枯枝をあつめてきて樹の上で巣を作る。ただ他の鳥とちがっているのは巣の作り方がひどく粗雑で、下から巣を仰ぐと卵が見える。このハトを観察してその家づくりのへたさとそのこっけいさに気がついたのは古代中国人だ。『詩経』にそんな詩がある。「ここにカササギの巣がある。いつのまにかハトがそれを失敬して自分の巣にしてしまっている」蔵六は、自分に対して存外皮肉な男で、わしもおなじだ」ということのようです。実際は、ハトは本来崖や岩棚に巣をつくります。そして非常に防衛本能が強いので、「3つの面に囲まれている」ところや乾燥しているところを選んで作ります。そんなところは身の回りにたくさんあるので、都内ではからす同様、繁殖しすぎて困っています。そんなハトの巣といえば、文具店で有名な「鳩居堂」を思い浮かべます。この店は東京と京都にありますが、京都は以前のブログで書いた本能寺の門前にあり、銀座中央通りに面した東京鳩居堂本店前(東京都中央区銀座5丁目)は、路線価日本一(2007年度まで22年連続)の場所として有名です。その路線価は1平方メートルあたり2496万円(前年比33・3%増)だそうです。また、この銀座4丁目交差点を囲み銀座中央通り近辺の「三越」前と「和光」前も、今年初めて同額でトップでした。この金額は見当がつきませんし、売ればその価格ということで、私などは、路線価日本一であるということは、さぞかし税金が高くて大変だろうと思うだけです。また、名前の「鳩居堂」という名前は、以外にも村田蔵六の塾の名をつけた動機と関係があります。しかし、単純に間借りをしているハトの巣にちなんでいるのではなく、もっと、由緒があります。この「鳩居堂」の歴史は、とても古いものです。じつは、さかのぼること、平家が隆盛を誇っていた時代のことです。あの一の谷の合戦で平家の敦盛を討った熊谷直実が、その軍功により源頼朝から「向かい鳩」の家紋を賜りました。その後、熊谷直実は出家して、法然上人の弟子になり、「蓮生」と名乗りました。その直実から数えて20代目の熊谷直心が、京都寺町の本能寺門前にて、薬種商「鳩居堂」を始めます。屋号をつけることになったとき、儒学者・室鳩巣が命名します。由来は村田蔵六が思い出したのとおなじ中国の古い時代の民謡集『詩経』の召南の篇にある「維鵲巣有、維鳩居之」で、カササギの巣に託卵する鳩に、「店はお客様のもの」という謙譲の意を込めたものです。人のものを借りているのではなく、店はお客のものということだったのですね。また、室鳩巣の雅号もハトの巣ですし、熊谷家の家紋もちょうど「向かい鳩」だったのです。店の名前もそうですが、幕末のころ各地で生まれた様々な塾にもいろいろな名前が着いています。「松下村塾」は、松陰の叔父玉木文之進が松本村に塾を開き、地名をとって松下村塾といったのが始まりです。「適塾」は、正式には適々斎塾といいますが、緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来です。この「臥竜塾」の由来も2005年9月16日でもう一度読んでみてください。
投稿者 fujimori : 23:07 | コメント (3)
2007年10月15日 [近頃思うこと]
刈り取り
よくブログで書きますが、私は今定期的に愛媛に講演に行っています。講演というよりも、勉強会です。保育という仕事は、様々なことが絡んできます。単に子どもを保育するといっても、保護者との関係、行事のあり方、書類の作り方、環境の用意、職員のチームワークなどの課題があり、よく他の講演にあるような子どもの発達や子どもの心理というだけではありません。ですから1回だけの講演とか勉強会では無理で、連続的にやることが必要になってきます。愛媛には昨年度は二月に1回行っていました。場所は、松山の近くの松前町と大洲町と交互で行いました。そして、宿泊は道後温泉です。研修は夜19時から21時なので、園に午前中いて、午後出発し、夜、話をし、次の日の朝出てくれば園に昼ごろ着きます。随分と日本も狭くなったものです。この松山から大洲への道のりを通るたびに思い出す小説があります。それは、周防の村医から一転して討幕軍の総司令官となり、維新の渦中で非業の死をとげたわが国近代兵制の創始者である大村益次郎の波乱の生涯描いた長編小説「花神」(司馬遼太郎著)です。かれが、村医から大きな転機を迎えるのは、宇和島藩に招かれたときです。そのとき松山から大洲を通って宇和島に行くのですが、道中の出来事が彼の人生の特徴を現しています。彼の若いころは村田蔵六といいましたが、生涯の特徴は、人間とのめぐり合いの運に恵まれていたことであったようです。途中の旅籠で、蔵六は若い医師の夫婦と相部屋になります。この夫婦は、かなりみすぼらしく、経済的にも苦しい中、長崎に修行に行った帰りのようです。その夫婦は、蔵六に宿泊料の立て替えを頼みます。蔵六はさっさと帳場に行って支払ってあげます。そのあと、松山第一の医者のところまで同行してもらうことで、そこまでの交通費、宿代も頼みます。その申し出を蔵六は笑って、遠慮することはないといって松山まで連れて行きます。松山に着くと、もちろんその松山の医者は感激して家にも泊め、宇和島まで同行してくれることになります。途中の大洲では、伊予の医師仲間の顔役である医者もとても喜んで、一緒に宇和島までついてくれることになります。これで、蔵六は、松山第一の名医と大洲第一の名医が先導してくれて宇和島に乗り込んでいくことになります。これが随分と幸いします。この逸話を見ると、蔵六は必ずしも人とのめぐり会いにおいて運がよいのではなく、めぐり会うだけのことを蔵六はしているのです。人との出会いは偶然であることが多いでしょう。しかし、その出会いをどのようなものにするのかは、やはり本人によるのだと思います。私はもう15年ほど前になりますが、入院をしたことがありました。そのときに本当にお世話になった人たちは、地位でつながっている人でもなく、お金でつながっている人ではなく、かつて、いろいろなところで世話をしたり、面倒を見たりした人や、教え子たちでした。数日前のブログで「種まく人」を書いたときのコメントで、いつからが刈り取るときかという内容がありましたが、私はこのときに、そろそろまいた種を刈り取るときが来たことを実感しました。今、いろいろなことに苦情を言ったり、人の意見に突っかかっていったり、人を悪く言ったりする人が多いような気がしますが、その人たちは、刈り取るときが来るのでしょうか。種をまき、草をむしったり、害虫から守ってあげたりしてそれを丹念に育てていくことで、実を結び、刈り取る時期がやがて来るのではないでしょうか。
投稿者 fujimori : 22:07 | コメント (6)
2007年10月14日 [講演先にて]
伊丹
先日、松山市にある「伊丹十三記念館」へ連れて行ってもらいました。私は動物占いで「人気者のゾウ」ですが、「伊丹も同じゾウということで、どうですか?」と、動物占い認定講師の人から言われたのです。この建物は、中村好文氏の設計ですが、外壁に真っ黒に塗った杉板を使い、中庭をぐるりと囲むように真角に作られた箱型建築です。全体としては、同じ松山にある「坂の上の雲ミュージアム」に比べて、こじんまりとしていますが、こんな保育園があったらいいなあと思えるような建物です。

館内の展示は、十三の名にちなんで、13のコーナーにわけて伊丹十三を紹介しています。そこでは、少年時代、音楽愛好家、商業デザイナー、俳優、エッセイスト、イラストレーター、料理好き、乗り物マニア、テレビマン、猫好き、精神分析啓蒙家、CM作家、映画監督など、様々な顔を持つ伊丹十三の業績や人柄を辿るようになっています。京都生まれの伊丹十三記念館が、なぜ松山にあるかというと、高校時代を愛媛県松山市で過ごしているからです。ですから、松山名物の一六タルトのCMにも出演していました。しかし、彼の印象が松山と結びつくのは、彼の父親の映画監督の伊丹万作が松山出身だからかもしれません。伊丹万作は、挿絵画家から片岡千恵蔵プロダクションに助監督兼シナリオライターで入社します。息子に受け継がれている諷刺や諧謔を武器に様々な映画の監督をし、日本映画界随一の知性派といわれました。しかし、病臥し、その後はシナリオに専念します。この作品には、とても一生に残っている作品があります。そのひとつは、何度も映画化されていますが、その最初の作品で阪東妻三郎が主演した「無法松の一生」(43)です。
明治時代の北九州・小倉を舞台に繰り広げられる、人力車夫・富島松五郎の生き様と、陸軍大尉の未亡人とその息子との人間的な触れ合い、そして未亡人への秘められた思慕の情がみずみずしく描かれ、全体主義を映画は無言で批判しました。戦争一色の時代ゆえ、世の中でしたから、小さきものや弱きものへの愛情が、そのまま時代へのレジスタンスとなったこの作品は、何度も検閲によって、カットされています。もうひとつの作品は、この夏に妻と見た「手をつなぐ子等」(48)の脚本です。この映画は、知恵遅れで他の生徒にとけ込めない少年寛太が、ようやく親身に世話を焼いてくれる先生に巡り会うことができ、先生の指導で周囲の子供たちは寛太を優しく見守り、彼の友達として仲良く遊ぶようになりますが、金三という悪たれ坊主が転入してきて、寛太に何かと意地悪をしたりイジメたりするようになり、それらの児童を先生が、どう導いていくかという話です。この映画では先生が子供たちをすべて理解し、一段高いところから優しく厳しい眼差しを向けて熱心な指導をすることで、寛太は見違えるような成長ぶりを見せ、金三の固くいじけた心もほぐれていくというものですが、「子どもは見守っているだけではダメです。」という教育委員会の考えに対して、あくまでも子どもを信じ、見守っていくことで子ども自ら立ち直っていくという話は、出来すぎではなく、そんな姿勢は今でも必要だという思いを強くしました。そんな作品のシナリオを書いた伊丹万作の息子が伊丹十三で、娘は大江健三郎と結婚します。伊丹十三の出演作品も、年配者しか分からないでしょうが、「コメットさん」(九重佑三子主演)がお手伝いさんとして住み込んでいる家の父親役とか、NHK大河ドラマ「峠の群像」での吉良上野介もはまり役でした。彼の突然の投身自殺は、何かの糸が切れたのでしょうね。
投稿者 fujimori : 20:48 | コメント (3)
2007年10月13日 [講演先にて]
新陳代謝
昨日、建築家「黒川紀章」氏が亡くなりました。彼のことは、今年の4月18日のブログで書きました。そのブログで、彼の設計した最近オープンした六本木にある「国立新美術館」と、建て替えが決定した「中銀カプセルタワー」を取り上げました。そのタイトルは「共生と新陳代謝」でしたが、そこで書いた意味は少し違いますが、新ためてこの二つの建物を並べてみると、そのタイトルが実感を持って感じます。黒川氏の死にしても、突然であるだけに、いつかは誰でも、どんな建物でも滅びていくのだということを感じ、新陳代謝ということかもしれないと思うのです。それは、ちょうど都城を訪れたときに連れて行ってもらった菊竹清訓設計の「都城市民会館」も、建て替えが決定した建物だったからです。この建物は、強烈なインパクトと迫力があります。ホテルの窓から遠目に見えていたときも何の建物かと思っていたのですが、間近に行ってみると、圧倒的な存在感を感じさせます。
梁が放射状に突き出した特徴的なデザイン・構造は、建築専門誌において『残したい建築物100選』へ選出されたり、最新の建築物と併記され紹介されるなど、現在もなお注目を浴び続けており、イタリアの美術教科書へも掲載されているそうです。この建物を「都城市の顔であり、また、建築学的にも貴重な建物でもあり、都城市の財産として後世に残すべきものである」ということで現状のまま存続するという意見と、「老朽化も懸念されるが、必要な修繕を加えることでまだ十分活用できるものであり、市町合併後、庁舎や会議室が必要となることが見込まれており、現在ある建物を活用することが環境負荷の軽減にもつながる」という改修して存続しようとする意見と、「年数の経過とともに老朽化が進んでおり、相当な経費を投じて改修する必要がある。また、今後「解体」は避けて通れない問題であり、いずれ先々には「解体する」必要があり、結論の先送りは避けなければならない」ということで、解体するという意見を検討しました。アンケート結果は、存続が26.9%、改修が25.5%、解体が47.6%だったそうです。話し合いを重ねた結果、解体することになっているそうです。解体されていく建物があるかと思えば、作られていく建物もあります。そのひとつが、コメントにも書かれている「坂の上の雲ミュージアム」です。この建物は、愛媛県松山のまち全体をフィールドミュージアムとする構想の一角を担う施設として創設されました。その主要な目的は、松山をより魅力的なまちにする諸活動の中核的な役割をはたすことにあるそうです。より魅力的なまちとは、住み心地がよく、さまざまな発見を楽しめるところを意味します。設計は、最近、話題の建物を設計している建築家・安藤忠雄氏によるものです。松山城周辺の歴史や文化を意識して考えられた建物は、周囲の自然環境に配慮した外観と安藤氏がイメージする『坂の上の雲』を表現した空間となっています。2つの三角形を重ね合わせた建物は、通りから見る城山の緑をさえぎらないような構造になっており、建物西側のガラスカーテンウォールには、城山の緑が映し出されています。
展示内容は、司馬遼太郎の長大な作品『坂の上の雲』を中心に、松山出身の正岡子規と秋山好古、真之兄弟の三人を軸にしながら展開しています。その時代背景である明治初期の展示は、訪れるお年寄りが懐かしがっていました。このミュージアムができるであろうことは昨年1月23日のブログで書いていますし、秋山兄弟については、昨年4月21日のブログで書いていますし、子規については、昨年4月22日のブログで書いているように、2年にわたって定期的に研修に訪れている松山での集大成のミュージアムです。その展示内容を見ても、「新陳代謝」を感じます。
投稿者 fujimori : 20:04 | コメント (3)
2007年10月12日 [近頃思うこと]
自由
私は、保育・教育の中で、戦後、間違って使われている言葉に「自由」「平等」「民主主義」があるように思います。この間違いが、今の子どもたちの環境に様々な影響を及ぼしています。いつかのブログでは、その中の平等について書いた記憶があります。この言葉は、運動会が近づくと、かけっこで、ゴール前にみんな手をつないで一緒にゴールしましょうといった間違った平等感が思い出されます。この逸話が本当かどうかは、私は怪しいと思いますが、そのころの考え方を象徴しているということで広がった気がします。しかし、差をつけることが不平等だと思っていることに対して、外国では、個人差に対応しないで、みんな同じようにするほうが不平等だと思っているというようなことについて書いた気がします。次に、最近、自由についてその認識の違いにぶつかることが多くあります。たとえば、こんなメールをいただきました。「ある北陸の公立幼稚園ではピアノにあがって、てっぺんに座って、脚を鍵盤において、王様ごっこをしていても、『主体的にやっているのだから良いではないか』とミマモッタリ、木工で園舎の柱を切り出しても、主体的に・・・ということで、しばらくミマモッテいたり、という事例報告がありました。」この逸話も、本当かなと思います。たぶん、その前後にストーリーがあるはずですし、そこだけを切り離して論議すべきではないと思うのですが、確かに、主体とか自由とかの考え方を象徴している話ですね。もちろん、これは、主体がいけないのではなく、見守りがいけないのでもなく、自由がいけないのではなく、その行動自体が人としていけない行為であるのを、言葉にすり替えているだけに過ぎません。こんな間違った使われ方をするからといって、自由という言葉を使うのをためらったり、なるべく使わないようにしたりすることはおかしい気がします。大いに使い、そのときに、それは自由というのは違うのではないかということが必要だからです。
明治6年、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らの参議は、国の力を高めるためには公議世論制度の確立が急務であるとして、同志8名の名のもとに翌7年1月17日政府に対し「民選議員設立建白書」を提出し、これが「自由民権運動」の始まりとなりました。

そして、建言をおこなった板垣らは、それぞれの地方において政治結社を作り運動を進めるため帰郷します。高知に帰った板垣は、片岡健吉、林有造らの協力を得て、「立志社」を創立し運動に乗り出しました。この碑が高知にあります。そこには、「青い空 青い海 ここには自由と若さがある」という言葉が刻まれています。
立志社の「創立趣意書」では、「人民はすべて平等」であり「天から与えられた誰にも奪うことができない権利」を持っていること、そしてこの権利を伸ばし確かなものとしていくためには「民会が必要である」こと、更にこの民会が十分な効果を発揮するためには「人民の自修、自治の努力」が必要であることなどが述べられています。ここに、「平等」と「自由」が謳われているのです。そして、「平等」や「自由」は、「「天から与えられた誰にも奪うことができない権利」であるのです。しかし、確かにこの概念は人によって違いますし、間違ったときに使われることがあります。それは、たとえば男女平等にしても、同和にしても、人としての権利を勝ち取ろうとするときに起きる摩擦であり、壁なのです。ですから、立志学舎を設けて青年子弟の教育にあたったように、教育が必要なのです。この立志学舎の学習も生徒の自主・自立の方法をとっています。「板垣死すとも、自由は死せず」であって欲しいですね。

投稿者 fujimori : 23:20 | コメント (4)
2007年10月11日 [近頃思うこと]
種まく人
「まかぬ種は生えぬ」ではありませんが、何かをしようとするときには、種をまいていかなければなりません。人は、ある時期まで種を一生懸命にまいている気がします。そして、ある時期から、実りを刈り取る時期が来ます。農民画家といわれているミレーの名作「種まく人」を山梨県立美術館が購入したことで話題になって久しくなります。久しぶりに、塩山に行ったときにこの美術館に寄ってみました。
この美術館は、ここのほか「東京都美術館」「ケルン市立東洋美術館」「熊本県立美術館」「福岡市美術館」「宮城県美術館」など多くの美術館設計をしている前川 國男氏の設計です。彼はル・コルビュジエ、アントニン・レーモンドの元で学び、モダニズム建築の旗手として、第二次世界大戦後の日本建築界をリードしました。都庁を設計して有名な丹下健三なども前川事務所の出身です。師のコルビジエ設計の国立西洋美術館の前に立つ東京文化会館も彼の設計で、第十三回日本建築学会賞作品賞を受賞していますし、また、彼自身の設計である自邸は、江戸東京たてもの園に移築されています。
また、紀伊國屋書店新宿店も彼の設計です。その建物の山梨県立美術館は、美術資料取得基金を設立し、バルビゾン派の画家を中心とするコレクションにする方針が定められたのです。そして、県100周年記念事業として19世紀のフランス画家ミレーの代表作『種をまく人』の購入が議会でも承認され、1977年4月には飯田画廊の仲介でニューヨークのオークションにおいて『種まく人』と『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』を落札したのです。そして、1978年に開館しています。ちなみに『種をまく人』を当時2億円で落札購入したことで話題になったのです。この2作品他『落ち穂拾い、夏』をはじめとする油絵の他、水彩画、素描、版画を含め41点のミレーコレクションやバルビゾン派の画家の作品を所蔵しているので、「ミレーの美術館」として親しまれています。その他にクールベ、ターナー、シャガール、ヴラマンクらの作品、山梨県出身の画家や山梨ゆかりの画家の作品なども数多く所蔵し、常設展では、季節ごとに入れ替えているようです。また、同公園内にはロダン、ヘンリー・ムーアらのヨーロッパ近代彫刻家の作品も設置されています。バルビゾン派の中でも、大地とともに生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いたミレーの作品は、早くから日本に紹介され、農業国日本では特に親しまれていて、日本人が好きな画家の一人です。ミレーの代表作のひとつである『種まく人』が岩波書店のシンボルマークとして採用されたのは1933年のことです。これは岩波書店の店主がミレーの人と作品を好きだったからのようで、これをモチーフに高村光太郎のレリーフをもとにつくられました。

このミレーを含めてテオドール・ルソー、ディアズ、トロワイヨンなどバルビゾン派と呼ばれる画家たちは、パリの南方約60キロのところにある、フォンテーヌブローの森のはずれのバルビゾン村に定住し、風景や農民の風俗を描いたことからです。ミレーも、30歳半ばにパリにおけるコレラ流行を避けて、ミレーはパリの南方約60キロの、フォンテーヌブローの森のはずれにあるバルビゾンへ移住し、以後同地で制作を続けます。よく、画家たちや作家たちがある場所に固まって活動することがあります。また、幕末の志士たちもある藩に固まって現れます。それは、誰かが引き寄せるのか、思いが伝わっていくのかわかりませんが、同じ思い、同じ志を持った人たちが、ITが普及した今は、地域を越えて集まることが出来るでしょうね。
投稿者 fujimori : 23:47 | コメント (5)
2007年10月10日 [近頃思うこと]
種
先日のブログで書いた「オナモミ」には、何かにくっついて種を撒き散らすほか、もうひとつ不思議な仕掛けがあります。それは、オナモミの仲間の果胞には種子がふたつ入っています。その種が同時に同じところに同じ時期に撒かれると、環境によって発芽をしないことがあります。ですから、そのなかのひとつは翌年発芽しますが,もうひとつはしばらく休眠します。二つの種の発芽時期をずらして,環境の変化をかいくぐり,子孫を残そうとする戦略です。このように受精をしたり、種を撒くときの工夫が他にもあります。秋の七草のひとつであるキキョウにも秘密があります。
ひとつの花の中にはおしべとめしべがあり、それが同時に成熟すると、自家受粉をしてしまいます。その受粉の確率は高くなりますが、遺伝子組み合わせの多様性がないので、近親交配による遺伝子の劣化が避けられません。そうすると、環境変化に対応力がなく、種の存続の危機につながる可能性が高くなります。ですから、キキョウはおしべとめしべはそれぞれの成熟の時期をずらすという方法によって自家受粉を避けています。つまり、キキョウの場合にはおしべが先に成熟して送粉し、その花粉がなくなった頃にめしべが成熟するようになっています。このような方法は、「雌雄異熟性」といいます。ほかにも「ノアザミ」「ホウノキ」などがあります。ホウノキは雌雄同株ながらも雌雄異熟という性質ももっています。ホウノキではキキョウと逆で、雌性先熟なのでスタートは雌花で咲き、翌日には雄花になって咲きます。ほかにもいろいろな工夫があります。「きゅうり」とか「かぼちゃ」は、一つの花の中に雄と雌の同居を止め雄の花と雌の花に分ける「雌雄異花」という方法をとっていますし、「イチョウ」や「キウィフルーツ」などでは、雄の木と雌の木に分ける「雌雄異株」という方法を取っています。ですから臭い実の銀杏がなるイチョウは雌株ですので、街路樹にはできるだけ雄株を植えるようにしています。また、「カキ」とか「ハッサク」は、自家受粉をしてしまった場合にはそれ以上の成長は止める又は落果させる「自家不和合」という方法を取っています。そんな工夫をして受粉した花は実を結びます。そして、今度はその種をまく工夫をするのです。「まかぬ種は生えぬ」と言われるように種をまかなければ何も生えてきません。これは、松江重頼撰の俳諧方式書でこの種俳諧軌範書の先駆をなし,俳諧研究資料として逸すべからざるものである「毛吹草(けふきぐさ)」に書かれています。このなかの諺の部は日本の純粋な俚諺集として共に最古のものといわれています。この諺は、それが転じて「何もしなければ、よい結果は得られない」とか、「何もせずによい結果を期待するのは無理である」という意味で使われます。しかし、種は人にまかれなくてもいろいろな手段で運ばれて生えてきます。そのひとつが一昨日ブログで書いた「ひっつき虫」と呼ばれる何かにくっついて運んでもらう方法です。ほかにもタンポポの種のついた綿毛は風にのってかなり遠くまで種が運ばれ、カエデの種には羽根がついていてやはり風に乗って遠くまで運ばれやすいような仕組みになっています。
また、ミズナラやブナの木の実はアカネズミの冬の食糧になりますが、アカネズミはこれを運んで落ち葉の下や地中浅く貯蔵しておきます。食べ忘れられた実はそこから発芽します。また、鳥に食べられ、その糞とともに排出されて分布を広げるものもあります。この場合は、実の中に本当の種があって、これは種皮が発達していて、鳥の胃では消化されないようになっています。人間は、子孫を残す手段を忘れているかに見えます。
投稿者 fujimori : 23:42 | コメント (3)
2007年10月09日 [近頃思うこと]
りんごとザクロ
果物の中で、よく神話などに取り上げられるものに「りんご」があります。
だれでも知っているのが、聖書におけるりんごでしょう。しかし、旧約聖書に登場するアダムとイヴが、蛇にそそのかされて食べた善悪を知る果実がりんごであるというのは、どうも捏造のようです。そのころは、未だりんごは分布されておらず、食用に適していなかったようです。ギリシャ神話にもりんごが出てきます。「最も美しい女神に与えられる」と言われた黄金のりんごを巡って3女神が争い、遂にトロイア戦争になってしまったと伝わっています。また、ヘラクレスの12の冒険の中にも黄金のりんごをとってくる話があります。そんなこともあってか、英国のロックバンド ビートルズが1968年に設立したレコード会社は、「アップル・レコード」といいます。このりんごマークはポール・マッカートニーが所有するベルギーの画家、ルネ・マグリットの青いりんごの絵がヒントになっているそうです。また、有名なコンピュータメーカーである「アップルコンピュータ社」は、りんごを会社のロゴマークとしています。その会社のパソコンを「マッキントッシュ(マック)」といいますが、これはりんごの品種名(日本名:旭)です。
同じように神話などに登場する果物に「ザクロ」があります。日曜日に塩山を歩いていると、庭にざくろの木が植えられているのをよく見かけました。ちょうど今、実が熟れ始めています。
最近、ザクロジュースをよく見かけますが、実もそのまま食べられます。また、実を煎じた液でうがいをすると扁桃腺炎に効き、陰干しした花や実を煎じて飲むと下痢止めや虫下しになります。また、果実のしぼり汁で磨くと湯気でも鏡が曇らないといわれ、風呂の鏡を磨くために用いました。そこから風呂への入り口を柘榴口といいます。このザクロは、種が多いことから、アジアでは昔から子孫繁栄、豊穣のシンボルでした。また、実に残る”帽子状”のガクの部分は冠にも似ており、王冠をいただく果物として権威の象徴にもなりました。昔のソロモン王の宮殿の柱頭にはこのザクロがデザインされています。男性の中にいる唯一の女性のことを「紅一点」といいますが、これは中国の王安石が石榴の林の中に咲く花を詠んだ詩から出た言葉です。このザクロが劇的な話に登場します。その昔、インドに王舎城の夜叉神の娘で、訶梨帝母という女性がいました。彼女は、嫁して多くの子供を産みましたが、その性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は、千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟ったので、お釈迦様は、柘榴の実を与え、人肉を食べないように約束させました。以後、お釈迦様に帰依し、可梨帝母は 鬼子母神として安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。その像は天女のような姿をし、子供を1人抱き、右手には吉祥果(ザクロ)を持っています。また、ギリシャ神話において冥王・ハーデスにつれ攫われたペルセフォネはザクロを口にしたことで1年のうち一定期間を冥界で過すこととなり、母・デメテルはその期間嘆き悲しむことで冬となったといわれています。果物は、様々な言い伝えや劇的な物語を織り成す小道具としてよく登場しますね。
投稿者 fujimori : 23:00 | コメント (3)
2007年10月08日 [散歩]
オナモミ
昨日、塩山をのんびり歩いていると、道端一面に「オナモミ」の実がなっていました。
学校で必ず習いますが、植物は子孫を残すために,たくさんの種子を飛び散らすための方法があります。風に乗って遠くに飛んでいくもの,自分ではじけて飛び散るもの,とりに食べられフンといっしょに落としてもらうもの.実に,さまざまな種子があります.その中で、子どものころよく遊びにも使われる種子は,人の服や動物の体にくっついて運んでもらう種子です。草むらを歩いて出てくると、ズボンや服にたくさんの種子がついています。それらの種子は、「ひっつき虫」ともいいますが,その主なものには。「イノコヅチ」という種子があり、「茎のふくらみを,イノシシの膝頭」に見立てて名付けたそうで、「猪の子槌」と書きます。他には、キク科の「アメリカセンダングサ」という北アメリカ原産の帰化植物があります。これも服についたらやっかいで.なかなか取れません。そして、ネバネバした液を出してくっつく「チヂミザサ」があり、実の形が泥棒がぬき足さし足で歩いたときの足跡に似ているので,この名前がついた「ヌスビトハギ」があります。そしてこの「オナモミ」は、自然につくというよりも.投げ合ってよく遊ぶ種子です。しかし、そうやって遊ぶときにはルールがありました。なるべく顔や頭には投げないことです。特に、髪の毛にからむととるのが大変です。昨日,見たのは、メキシコからの帰化植物オオオナモミで、最近はその種類が多くなりました。この名前は、葉っぱをもんでつけると虫さされに効くというので「生揉み(なもみ)」から付いたといわれています。また、雄生揉(おなもみ)と書いて、毒蛇に噛まれたときなどに、生の葉をもんで傷口につけると痛みが和らぐことから由来しているとも言われています。学名は「Xanthium canadense」といいますが、Xanthiumというのは、ギリシャ語の「xanthos(黄)」が語源で、オナモミの実が毛髪を染めるのに使われたことからきているようです。このよくくっつく仕掛けを参考に、カバンやくつなどに使われている.マジックテープが生まれます。それは、1948年のスイスで、愛犬を連れて山奥の狩猟に出かけていたジョルジュ・デ・メストラル氏は、自分の服や犬の毛に沢山の野生ゴボウ(オナモミの仲間)の実がくっついているのに気づきました。不思議に思った彼は、その実を持ち帰り、さっそく顕微鏡で覗いてみました。すると、その実は無数の鉤でできていて、その鉤が衣服や犬の毛にしっかりと絡みついていたのです。これにヒントを得た彼はこの構造を応用して着脱が自由自在の魔法のファスナーを発明しようとしたのです。そして何年かの試行錯誤の末、特殊ナイロン糸を使用して、無数の鉤と輪で構成された面ファスナーをつくりだしたのです。これが面ファスナーの誕生です。日本では1960年、この面ファスナーの2本の布がピタリとくっつくところが着脱が自在な『魔法のテープ』ということで「マジックテープ」という商品名で、クラレが登録商標をし、最初に生産・販売を開始しました。その名が全国に広がったのは、1964年に東海道新幹線の客席のヘッドレストカバーのファスナー(留め具)に採用され、一躍注目を浴びたのがきっかけでした。何気なく遊んだり、犬を散歩に連れていいたりしているときにでも、不思議だなあ、どうしてだろう、どうなっているのだろうと疑問を持ち、それをすぐに解明しようとするとき、新しい発見があります。当然のように過去からのことをただそのまま受け入れていると、何も生まれてきませんね。
投稿者 fujimori : 22:13 | コメント (5)
2007年10月07日 [近頃思うこと]
手ばかり
今日は、私の園の職員が結婚してパスタやを経営しているということで、その店を妻と訪れました。名前は「かざはな」(塩山藤木2309-1)といいます。場所は、山梨県の甲州市です。私の家がある八王子は、甲州街道沿いであることと、JR中央本線沿いであるということで、その沿線の町は私にとっては馴染みがあります。特に、私の実家の出は長野県諏訪であり、母親の出は同じ長野県岡谷市ですので、八王子からそこまでの街道やJRの駅は小さいうちから馴染みがあります。しかし、最近になってできた市とか、駅には少し抵抗があります。そのひとつが「甲州市」です。どうもこの名前には馴染みがありません。この甲州市は2005年11月1日 、「塩山市」「東山梨郡勝沼町」「大和村」が合併し発足しました。塩山も勝沼もとても有名なので、その名前が消えるとこは残念です。きょう訪れた塩山は、現在NKH大河ドラマ「風林火山」が放映されていますが、その主人公の武田三代のうち、信玄公と勝頼公が眠る地であり、武田家に関わる文化財や神社仏閣が数多く所在します。そんな甲州市では、市民の食生活を支援する活動の一つとして最近、ここ塩山の管理栄養士が考案した『塩山式手ばかり』が広がりつつあります。この活動は、野菜の摂取状況を調査した結果、平成13年度の段階で、毎日野菜を食べる子ども達は50%、20歳代では50%、30歳代以上では60%であることが分かったので、10年後には各世代ともに野菜摂取率を30%アップすることを目指しての取り組みです。そのために、1回の食事に食べたらよい自分に合った分量が一目でわかる方法として「手ばかり」を開発したのです。この『手ばかりは』は、乳児からお年寄りまで甲州市民に、手の大きさと身長を測っていただいた結果を基に作成したもので、手の大きさが、その人の身体発達の『ものさし』になるということで、1回の食事を1.肉や魚、2.ごはんやパン、3.野菜の3つの食品群に分け、それぞれ手のひらに乗せて、量った決められた分量を摂ることで、食事の栄養バランスを保とうというものです。この手ばかりは年齢や体格の違いにかかわらず使えるものなので、今では親の世代にも広がっているそうです。その経緯をこう言っています。「たとえば、肉薄切りを例にとると、青年には「手のひらピッタリ」サイズ、子どもには「手のひらやや小さめ」サイズ。魚でも、肉と同じように青年には「手のひらピッタリ」サイズ、子どもには「手のひらやや小さめ」サイズが適量だということであり、ご飯では、青年には「両手のひら軽く山盛り」、子どもには「両手のひら小盛り」。茹でた野菜では、青年には「片手軽く山盛り」、子どもには「両手軽く山盛り」が適量だということになります。この結果、肉・魚・ご飯の手ばかりの目安は、8歳以下では自分の手のサイズよりやや小ぶりにすればよいということが分かりました。これに対して小学生から中学生では自分の手のサイズぴったりにすればよいのです。」日本栄養士会では、生活改善の一つとして、「手ばかりで野菜の量を計りましょう」ということで、「野菜は、1食あたり120g摂ることが理想的です。ですが、120gといわれてもいつも計りを持ち歩くわけにもいきません。そこで、買い物のときには手ばかりで、おおよその重さを計りましょう。生野菜なら、両手いっぱいに乗る量が、およそ120gです。また、茹でた野菜なら片手に乗る量が目安となります。」ということを提案しています。現場から、様々な提案がされているのですね。
投稿者 fujimori : 20:25 | コメント (5)
2007年10月06日 [講演先にて]
焼酎
先日、職員数名が私の部屋にボトルキープをしていきました。そのお酒は、「黒霧島」です。私は、最近は余りお酒を飲まなくなっていますので、このお酒がどんなものかよく知りませんでした。しかし、ボトルを置いていった次の日に講演で訪れた宮崎県の都城のホテルの窓から外を眺めていて、びっくりしました。そこには大きな看板に「黒霧島」と書かれていたのです。
そして、その地でお世話になった人から、「もしよかったら、黒霧島の工場見学をしませんか?」と誘われたのです。聞いてみると、黒霧島を製造している霧島酒造は、ここ宮崎の都城にあるようです。生憎工場見学は午後1時半のみということで、講演の合間ではいけませんでしたが、いたるところでこの霧島の話を聞きました。本格焼酎「黒霧島」は、南九州産の新鮮なさつまいもと名水「霧島裂罅水」を用い、焼酎麹の原点である黒麹で仕込んでいます。ですから、黒霧島の黒は、黒麹を使用していることに由来しています。しかし、現地のレストランなどでは、黒霧島が 置いてあるのではなく、「赤霧島」が置いてあります。楽天の焼酎ジャンル売れ筋ランキング!(9/26(水)‐10/2(火)集計期間)によると、この「赤霧島」が「赤兎馬」と共に1、2位を争っています。共に芋焼酎です。焼酎には芋焼酎のほかにもいろいろな種類があります。米焼酎、麦焼酎、黒糖焼酎、そば焼酎、梅酒、牛乳焼酎、栗焼酎、しそ焼酎、ゆず焼酎、泡盛などがありますが、何が一番人気かというと、やはり芋が一番人気のようです。芋焼酎は、江戸時代から南九州で広く栽培されているサツマイモを原料とした焼酎で、鹿児島県・宮崎県で広く飲まれています。それは、ほとんど鹿児島県と宮崎県のみで生産されていたからです。今では、日本各地で地元のサツマイモを使用した芋焼酎が生産されるようになってきていますが、鹿児島で生産される薩摩焼酎は、世界貿易機関 (WTO) のTRIPS協定に基づく産地表示の保護指定を受けています。このように表示が限定されているものに「琉球泡盛」があります。この表示は沖縄県産の物のみに認められています。焼酎のほかにもお酒の種類は数多くあります。そのつくり方によって、醸造酒、蒸留酒、混成酒の3つに分けられます。ワイン、清酒、ビールは醸造酒。ウイスキー、ウォッカ、焼酎は蒸留酒。梅酒、みりん、合成清酒は混成酒に入ります。そして、焼酎は、甲類と乙類に分かれます。甲類は、連続式蒸留機でつくられ、ホワイトリカーとも呼ばれ、果実酒や「チューハイ」のベースに使われています。乙類は単式蒸留機でつくられたもので、芋焼酎は、乙類に入り、単式蒸留の方が歴史が古いことから本格焼酎と呼ばれています。ワインといえばフランスやイタリア。ビールといえばドイツ。このそれぞれのお酒には、それぞれの飲み方があり、伝統や習慣がありますが、焼酎は、5:5で、あるいは6:4、7:3で割って、人肌の40度のあたたかさで味わうのが、その「こく」「うまみ」「香り」を楽しむのには、一番と言われています。人気の霧島酒造は、会社としての企業理念などもきちんとしています。「価値の創造」「感動の創造」「信頼の創造」です。また、考動指針なるものを作られています。「考動」と言う考え方は面白いですね。1.Vision:夢がなくては始まらない。2.My Company:会社の主役は「私」です。3.Move:やり過ぎくらいがちょうどいい。4.Originality:マネするだけじゃつまらない。5.Enjoyment:楽しくなくては始まらない。それぞれの英語をこのように訳し、理解するところは面白いですが、これがどう実際の行動に結びついているのかが知りたいところです。たぶん人気商品を生み出した秘訣があるのかもしれません。
投稿者 fujimori : 22:56 | コメント (5)
2007年10月05日 [映画]
イタリア映画2
子どもを描いたイタリア映画といえば、今年4月に亡くなった映画監督ルイジ・コメンチーニ氏も子ども時代を題材にした感動的な話やブラックコメディーなどで知られています。彼が監督した映画「天使の詩」は、たぶん、以前のブログで書きましたが、私の何回も見た映画のベストスリーに入る作品です。1966年の作品ですが、家族の絆を逆から描いた作品で、父と子のすれ違いから起こる悲劇を描いたドラマです。父親との絆を求める長男に対して、それに気がつかない日常での会話が、結末の悲劇だけではないこの映画の切なさを感じさせます。そのほか、親子の絆、とりわけ、父親と息子のあいだに育まれる愛情を賛美するイタリア映画の伝統は、最近の「ライフ・イズ・ビューティフル」に受け継がれています。この映画は、カンヌ映画祭で審査員グランプリを受賞し、世界各国ですでに47部門の賞に輝き、アカデミー賞では、イタリア映画でありながら、外国語映画賞の枠を越え作品賞を含む主要7部門にノミネートされ、見事3部門で受賞を果たしました。「人生は美しい」というタイトルのとおり、これは明日をも知れない極限状態に置かれながらも、決して人生の価値を見失わず、豊かな空想力を駆使して愛する家族を守り抜いた、勇敢な男の物語です。そして、勇敢とは、勇ましく戦うことではなく、勇気を持って、困難な状況でも家族、とりわけ子どもへの愛情のために最後まで守ろうとする気持ちが大切であるということを教えてくれます。日曜日に見た映画は、家族の絆が描かれてはいますが、それよりも、子どもに対する見方とか、考え方、社会のあり方などを考え直すことの必要性を訴えている映画でした。「ミルコのひかり」という映画です。1970年代初頭のイタリア、トスカーナ地方。10歳のミルコは映画を愛する少年だったが、銃の暴発で両目の視力を失ってしまいます。当時のイタリアでは、視力に障害を持つ者は普通の学校ではなく盲学校に入らなければならないと法律できめられていたため、全寮制の盲学校へ転校させられてしまいます。心を閉ざしがちだったミルコはある日、テープレコーダーを見つけ、それによって“音”との出会いに新鮮な喜びを感じます。作文の時間、ミルコは点字ではなく、寄宿舎で見つけたオープンリールのテープレコーダーに雨の音や鳥の声などを録音し、それを編集して提出しますが、校長に拒絶されてしまいます。しかし彼の優れた聴力に気づいた担任の神父が、校長に内緒でデープレコーダーを与え、ミルコの友達たちと協力してストーリーを作り、それをドラマとして仕上げていきます。これは、現在イタリア映画界の第一線でサウンド・デザイナーとして活躍するミルコ・メンカッチ氏の少年時代の体験をもとにした実話ドラマです。ちなみに今年のモントリオール国際児童映画祭でグランプリを受賞しています。この映画の中で、自由のない当時の学校の様子が描かれています。みんなと足並みをそろえることを目指し、その子の個性や能力を無視し、伸ばそうとしません。また、障害のある子は、特別に隔離され、管理された中で、統一された生き方の訓練をさせられます。しかし、主人公のマルコは、学校の圧力にも屈せず、自由を信じる気持ちがやがて担任の心を動かし、クラスメートを動かし、みんなやその子達の保護者にも大きな夢を与え、それが結局は世論を動かし、盲人も普通の学校に通えるようになるのです。子どもたちの想像力は、それを認め、生かす大人がいるからこそ、大いに羽ばたくのです。そんな責任を感じます。
投稿者 fujimori : 23:05 | コメント (2)
2007年10月04日 [映画]
イタリア映画
よく、伝統的に、家族の絆をとてもたいせつにすると言われている国は、世界では、「日本」「ドイツ」「イタリア」と言われています。この三国「日独伊」は、何か因縁めいたものがありますね。しかし、家族とか、子どもとかを大切にすることから、この三国は世界の中でも極端な少子国であるとも言われています。生まれた瞬間から別の人格を持ち、我が子でも個人という考えのアメリカと比べて、子どもを親の責任の元に庇護され、逆を言えば、親の肩に子育ての責任がずっしりとかかってしまうので、少子化になってしまうのではないかとも言われています。そんなイタリアでは、家族の絆を大切にsると言うのは伝統のようで、第二次世界大戦の敗戦直後という、苛酷な状況下においても変わりません。そのころの時代の家族の絆を描いたイタリア映画に名作が多くあるのは当然のことかもしれません。そして、子どもを描くならイタリア映画と言われるほど、様々な子ども像を描いてきました。日本同様に第2次大戦の敗戦国であったイタリアにおける戦後の混乱期、社会の底辺に生きる子どもたちの夢、そして厳しい現実、そんなものを描いたのが、デ・シーカ監督です。1947年、アカデミー賞特別賞を受賞した「靴みがき」は、見ていて胸が締め付けられるようです。靴みがきをして生計を立てている二人の少年は、貸馬屋の馬を買い取る夢を実現させるため、闇商売の仕事を手伝い、それが元で逮捕されてしまいます。さらに背後にいる首謀者を白状させようと、なかなか口を割らない二人に取調官は少年の1人を拷問すると見せかけ、もう1人の口を割らしてしまいます。一転して彼らの友情は壊れ、親友だった相手を憎むようになっていくのです。そして、物語は悲惨な結末を迎えることとなりますが、そこには、絶望よりも生きることへの力強さを感じさせます。この監督によるもうひとつの名作が、余りにも有名な「自転車泥棒」です。失業者あふれるローマ、やっとのことでポスター貼りの仕事にありつき、質屋から自転車を取り戻し、妻や息子の期待に見送られて自転車に乗って仕事へ出発した父。しかし自転車は盗まれ、息子や仲間と必死に捜しますが、結局自転車はもう戻っては来ません。息子と途方にくれているところ、ふと出来ごころから目の前にある1台の自転車に手が伸びてしまい、父は警察につきだされてしまいます。しかし、まだ幼い息子の姿をみて、被害者と群衆は自転車泥棒を釈放します。そして、群衆の中に父子が手をしっかりとつないで消えていくラストシーンは、これからの生活の大変さを予感しながら、子どもの存在がそれを支えてくれるであろうことを予感させます。この作品は、イタリアネオリアリズム代表的傑作といわれ、1949年アカデミー賞特別賞を受賞しました。1958年には、やはり戦後のイタリアを描いた傑作が上映されています。ピエトロ・ジェルミ監督の代表作「鉄道員」です。このドラマはサンドロ少年のナレーションで少年の純粋な目を通して家族の出来事がつづられていきます。親子の愛情、夫婦愛、家族の崩壊と結束、裏切りと友情。母の愛。そして、全編を貫く人間愛を描いたこの映画の中で流れる哀愁を帯びた曲もヒットしました。主人公の初老の鉄道機関士は、監督自ら演じています。子どもの目を通した社会を、それが純粋ゆえに私たちは改めてそこから学び、見直していかなければならないのです。そんなイタリア映画の流れをくむ映画を、先日の日曜日に妻と見ることができました。
投稿者 fujimori : 22:43 | コメント (4)
2007年10月03日 [近頃思うこと]
志と使命
スポーツ用品メーカー、アシックス会長の鬼塚喜八郎さんが29日、亡くなりました。彼の人生は、まさに波乱に富み、「オニツカタイガー」という靴からアシックスに至る経緯、また、必ずしも順調ではなく、また、何度か経営危機に陥って責任を取ったり、徹底した新人教育が人権侵害であるとの指摘を受けたり、裏帳簿を付けていたことが発覚し、税務署から追徴金を受けたりしましたが、これらを人生の反省材料として、より高い理念を作っていくことになるのです。その彼の生きる姿勢から学ぶことが多くあります。敗戦直後の神戸で決意します。「当時の神戸は、国際都市だった。無秩序に多くの外国人が入ってきて、街としては荒廃していた。治安も悪かった。空襲で家を焼かれた子供たちが、闇市場に流れ込んで、非行に走っていく。アメリカの進駐軍も進駐してきて、日本の少女がパンパンという売春婦になって、彼らの手先になっていましたよ。ひどい有様でした。僕は、そんな神戸を見て愕然としたんです。なんということだ。戦死していった戦友たちは、何のために死んでいったんだと。平和な日本をつくるために、子供たちを守るために、死んでいったはずなのに、なんてざまだと。そこで僕は決心したんです。日本の将来を担っていく日本の青少年のために一生を尽くすぞと。青少年を立派に育てて、健全な国民にしていくことが、自分の使命だと考えるようになった。」そして、起業の極意は「私心なき素直な心」だと言います。「私利私欲だけで、事業を興すな」という人生の使命感を見つけた時の気持ちをこう語っています。「いやー、本当に嬉しかったですよ。今までモヤモヤしていた霧が、一気に晴れたような気持ちです。みなさんも、本当に事業を興したいなら、使命をはっきりとさせることです。素晴らしいスポーツシューズを作って、青少年を立派に育てよう。これが僕の使命でした。物のない時代だから、靴を作れば、飛ぶように売れる。だからと言って、いっちょ儲けてやろうではダメなんです。当時の多くの闇商売の靴屋は、金儲けが目当てだった。そんな商売は長くは続かない。事業を興すなら、志を持たないといけない。それも終生の志です。この志を持てるかどうかで事業の成否が決まるんです。」そして、この志をこう言っています。「“動機は善なるや、私心なかりしか”ということ。つまり、あなたの仕事をする動機は、いったい何だと。金儲けが動機なのか。自分の私利私欲だけが動機なのか。それとも人のためや世の中のために役に立ちたいのが、動機なのか。それを自分の胸に聞いてみる。金儲けが動機だったり、自分の私利私欲だけが動機だったら、そんなものは志でも何でもない。そんな人に事業は興せないし、誰も協力しません。人のため社会のために事業を興すから、人々も応援し、社会もあなたを成功させるんです。小さな安易な目標では、誰も見向きもしません。」今若者に多いベンチャー企業に対してこう助言をします。「ベンチャーベンチャーって言うけど、ただの金儲けのベンチャーじゃダメ。自分が起こすベンチャーによって、社会がどんな恩恵を受けるのか。それが非常に大事。間違った考え方では必ず失敗する。人が協力しなくなる。人も助けてくれなくなる。目標を正しい方向に定めて、自分の全知全能を使い、多くの人を幸せにする道を選ぶことです。利己主義では、絶対にダメです。」ことをなした人の言葉には、多くの学ぶべき内容がありますね。
投稿者 fujimori : 23:42 | コメント (4)
2007年10月02日 [新聞記事より]
勤勉とアルツハイマー
何年か前から、「少子高齢社会」というように、「少子化」と「高齢化」をともに使うようになりました。平成7年には、「我が国の人口構造の高齢化は極めて急速に進んでおり、遠からず世界に例を見ない水準の高齢社会が到来するものと見込まれているが、高齢化の進展の速度に比べて国民の意識や社会のシステムの対応は遅れている。早急に対応すべき課題は多岐にわたるが、残されている時間は極めて少ない。」として、「高齢社会対策基本法」が制定されました。しかし、同時に「我が国における急速な少子化の進展は、平均寿命の伸長による高齢者の増加とあいまって、我が国の人口構造にひずみを生じさせ、二十一世紀の国民生活に、深刻かつ多大な影響をもたらす。我らは、紛れもなく、有史以来の未曾有の事態に直面している。」ということで、「少子化社会対策基本法」が急いで制定されたのです。確かに、高齢化が進むことや、子どもが少ないことは社会にさまざまなひずみを生むことは確かです。しかし、ただ子どもを産めばよい、子どもが多ければよいというのではなく、その子がどのような人材として、地球に貢献していくのか、また、子ども一人ひとりが自分の人生をどう生きるかということもあわせて取り組んでいかなければなりません。また、高齢化にしても、お年寄りをどう長生きさせればよいということではなく、人生を最後までどう生きていくかが問題なのです。ですから、高齢か伴うさまざまな病気や症状にはきちんと向き合っていかなければなりません。9月21日は「世界アルツハイマーデー」でした。1994年のこの日、国際アルツハイマー病協会が、世界保健機関(WHO)の後援を受けて宣言しました。毎年この日、世界60以上の国と地域で、アルツハイマー病に関する理解を求め患者さんや介護の方々を支援するための様々な活動が展開されています。呆け老人をかかえる家族の会は、この日に使う今年の標語を「『ぼけ』はみんなの問題、私の問題、あなたの問題」としました。この標語は、5候補作品の中から選ばれたものですが、ほかの作品は、「呆けても安心-世界をつなぐ思いやりとやさしさの輪で」「世界は一つ、ぼけに理解と愛情を」「受け入れよう、痴呆の心と行動を」「ぼけても安心して暮らせる地域を。世界を」です。21世紀は科学技術がますます発展していき、いろいろなことが発見、発明されていくことでしょう。そして、ヒトの全遺伝子も解明されていくに違いありません。しかし、社会の少子、高齢化はますます進み、その対策にも直面しなければなりません。中でも脳の老化に伴う痴呆についてはなお未解明な部分が多く、その克服は21世紀の人類が当面するもっとも重要な課題になるといわれています。AP通信が今日伝えたところによると、「勤勉、実直な性格や生活様式がアルツハイマー病の発症を抑える可能性がある」という研究結果を、米ラッシュ大医療センターの研究チームが、米精神医学専門誌に発表したそうです。性格とアルツハイマー発症との関係を分析した結果、「目標達成に熱心に取り組む」「やることすべてに優秀さを追求する」「時間に間に合うよう、ペース配分をする」といった「勤勉、実直」を示す項目で高得点を挙げたグループは、得点が低いグループに比べ、89%も発症リスクが低く、さらに勤勉な人では、死後に脳を調べるとアルツハイマー病の特徴を示す病巣があったのに、生前に認知症が現れなかったケースもあったそうです。チームは「勤勉な生活様式によって脳神経が保護されるのかもしれない。発症を遅らせる方法の開発につながる可能性がある」としています。もっと、こういうことが科学的に証明されてくるといいですね。
投稿者 fujimori : 21:11 | コメント (3)
2007年10月01日 [記念日]
都民とカッパ
今日は都民の日です。先週、電話で「都民の日は、園がお休みですか?」という問い合わせが何件かありました。それは、この日には、東京都立および都内各市区町村立の学校は休校となるからです。 また、都内に所在する一部の私立学校も休校となります。私たちは、都民の日は祝祭日という認識があります。しかし、気の毒なのは、多くの子どもと親たちです。なぜかというと、先週、今週、来週と3週続けて学校が土、日、月と休みになるからです。これがうれしいと思うのは昔のこと、今は、うんざりしている子どもたち、親たちが多いようです。私が子どものころは、この都民の日がとてもうれしかった思いがあります。というのは、この日を記念に「カッパバッチ」が学校で販売され、それを購入することのうれしさと、当日それをつけていくと黄門様の印籠のようにいろいろなところにフリーパスでは入れる特権が与えられることがありました。確か、都電にもただで乗ることができました。

実は、この都民の日は、1889年、東京府下に東京市が設置されたときには、東京府知事が東京市長を兼務する形態となっており、自治権を持たなかったのですが、その後1898年にこの制限が撤廃され、10月1日に自治権を持つ形での東京市制が施行されたのを記念して、1952年9月に東京都が「都民の日条例」を制定したのです。その後、1956年に東京開都500年(1457年に江戸城が築城された年を基準として500年目に相当)を記念して、都民の日に「大東京祭」が催され、以降、東京都は都民の日を記念したバッジを毎年発売したのです。デザインは、朝倉文夫、清水崑、小島功に引き継がれていったのです。しかし、無料公開される施設が減少するなどバッジの目的が薄れたため、1997年の都民の日を最後にバッジの販売は行われなくなりましたが、今でも、当日、東京都の管理する博物館・美術館・庭園等は、同日に限り入場料を無料としているところも多く、またその他の公共施設では、この日に一般公開や見学会、特別行事などを行うことがありますし、東京都内の民間施設においても、都民の日への協賛として同日(もしくは前後1週間ほどの期間)に無料開放や割引などを行うことがあるようです。カッパが採用された理由としては、昔の隅田川には、たくさんの河童の家があったからだそうです。人間が、いくら川に橋をかけても、雨がふるたびに流されてしまうのでカッパたちは、ふだん住まわせてもらっているお礼に、自分たちの手で橋をかけようと相談し、一晩のうちに見事完成させました。それが合羽橋だという説があり、あわせてカッパは水難よけのお守りになりました。これは伝説だけでなく、実際に江戸は大湿地帯で治水が最も大切な事業でした。ですから、カッパと庶民が力を合わせて治水工事を行ったという伝説があるのです。いわば、カッパは江戸東京を作ったなかまです。江戸言葉の「そんなの簡単さ、大丈夫」という意味の「へのカッパ!」は、この工事中に溺れかけたカッパが「屁」の力で見事に浮かびあがり、「たいしたことないよ」と言ったのが始まりという説もあるくらいです。せっかく都民の日を休日にするのであれば、このカッパバッチのような子どもたちがその日を有意義に過ごすことができるような仕掛けが必要かもしれません。ただ、お休みを増やすことばかりが先行し、この日をどう過ごすかを具体的に提供していかないと、ただ、こんな行事を、催しをしていますといっても、誰がそこに連れて行くのでしょうか。