昨日のブログを書いていて、ホッとする時ということで、思い出したことがありました。ずいぶん前のことになりますが、盛岡城に行ったとき、そこにある石川啄木の歌碑を思い出しました。そこにある歌は、「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」というものです。
不来方(こずかた)城とは南部藩の盛岡城のことです。この歌碑は市民の憩いの場になっている盛岡城趾公園の一角にあり、その石に刻まれた書は、同郷の友で著名な言語学者の金田一京助のものだそうです。この内容は、啄木が、この城から200メートルほどしか離れていない所にあった盛岡中学に在学していた時、しばしば教室の窓から逃げ出して城にやってきて、草の上に寝ころんで文学書や哲学書を読みあさり、昼寝の夢を結んだというときのことを詠んだものです。草の上に寝転ぶというのは、なんとも開放感があります。真上を向いて寝るので、目に映るものは大きく広がった空だけです。目の前に大きく広がる空を眺めていると、まさに、「空に吸われし」という気がしますし、特に、あの狭い、拘束されている教室から抜け出して寝転ぶと、よりそのような気分になるでしょうね。寝転ぶことは、草の上だけでなく、人を開放感に浸らせます。5年位前に、人間型ロボットによる起き上がったり・寝転んだりする動作に世界で初めて成功したという報道がありました。仰向け(うつ伏せ)状態から起き上がって直立状態へスムーズに遷移したり、さらに、直立状態から仰向け(うつ伏せ)状態にスムーズに遷移することを可能としたというのです。この動作をさせようと思ったのは、まさか、ロボットが寝転んで瞑想にふけるためではなく、たとえ倒れても起き上がり、作業が継続できるという、働く人間型ロボットの必須条件の実現に大きく前進したことになるということのようです。また、さらに、これまでの一度の失敗も許されない「如何に倒れないように歩くか」一辺倒であった人間型ロボットの運動制御の技術開発方針を、「失敗を許容してそこからどのように回復するか」という方向に大きく転換させるものでもあるそうです。これは、とても面白いと思います。というのは、もしかしたら、人間も寝転ぶというのは、人生を如何に失敗しないように生きるかという一辺倒な考え方から、失敗を許容して、そこからどのように回復するかということが大切かを気づかせる行為かもしれません。しかも、草の上に寝転ぶというのは、果てしない大空を眺め、そこに流れる雲と対話をするわけですから、人間の失敗の小ささを、より実感することが出来るのでしょう。このロボットの開発のポイントに「“転んだらおしまい”という人間型ロボットの弱点克服に大きく前進した。」あります。確かに、人間の弱点は、転んだらおしまいと感じてしまうことであり、逆にそこから起き上がることが出来るのも人間なのでしょう。
山やの隠語で、山の岩場や頂上で寝転んで昼寝をすることを「とかげ」といいます。
とかげが岩場で動かない姿に似ているところから来ています。私も、この「とかげ」が大好きです。
頂上に着くとまず頂上碑か三角点を思いをこめて触ります。登りきった達成感が広がります。
そして、360度の展望を楽しみながらビールの缶を空けます。吹く風もさわやかな好天です。
すこし眠くなってきたので、柔らかそうな頂上の草むらの上に寝転んでしばし「とかげ」です。
この瞬間、やっぱり山はやめられないなあと実感します。
下界でどんなにストレスを感じても、山を歩くことで開放されるのは、こんな贅沢な時間を
過ごせるからだと思います。
石川啄木は意外とやんちゃ者だったのですかね?でも、逃げ出した後に草の上に寝転んで、哲学書を読むという所が違いますね。私だと、広大な青空を見つめて目を閉じてしまいます(笑)
自分の人生を失敗を恐れて生きていくより、失敗を恐れずに生きていく事が大事だと思いました。人間だからこそ失敗ができ、そこから新たな事を学ぶ事により成長して起き上がることが出来るのですね。
今回のブログで、ペルセウス座流星群を見た時のことを思い出しました。寝転んでじっと見ていると、次々と星が流れる夜の空に吸い込まれそうになる不思議な体験でした。絶対に必要ではないけど、そんな時間が生活の中にあるといいんだろうと思います。
ロボットの開発話は興味深く読ませてもらいました。“転んだらおしまい”としてしまうのも“転んでも起き上がればいい”と考えるのも自分です。“転んでもまた起き上がればいい”というくらいの気持ちで、失敗や困難を恐れる自分と上手に付き合っていきたいと思います。
今日のブログのタイトル「寝転ぶ」。タイトルを読んだだけでフッーと一つ大きな溜息を吐いてはリラックスします。仕事中どうにもこうにも「寝転」びたくなる時があります。寝転んでそのまま眠りにつく・・・何とも言えない至福のひと時。さて紹介があった「盛岡城」は小学生の修学旅行のコースにあり、啄木の同碑はその時初めて観ました。その後も数度訪れてはその碑の前に立ったのですが「十五の心」を忖度する間もなく立ち去ったことを今でも覚えています。そうですか、啄木は授業をエスケープして不来方城跡の草に寝転がって「哲学書」ですか。誰の哲学に触れていたのか興味が湧きます。そして「空に吸われ」たその心とは。そうそう、やはり十五の頃、草原に寝転がって空を見ていた、という父の話を思い出しました。学ラン姿の寝転ぶ父を想像しました。