喫茶店

 喫茶店というと懐かしい思い出がたくさんあります。今は他界している父は、とても喫茶店の雰囲気が好きでした。私が社会人になって、実家の近くに一人で住んでいたときに、「コーヒーでも飲みに行かないか?」と夜によく電話がかかってきたものでした。また、洒落た喫茶店を見つけると、一緒に行くのを誘われました。私の家は、小さいながらも会社を経営していたのですが、そんな父ですから、私が小・中学生のころ、都内にあった店舗の半分を喫茶店にしてしまったのです。もちろん、店に出ることはなかったのですが、店内を自分の趣味で作っていました。そのころの純喫茶と呼ばれるものに、様々な特徴がありました。多く見られたものが「名曲喫茶」と呼ばれる喫茶店で、店内にはクラシックが流れていました。なんだか、インテリになった気分になります。家庭では、まだやっと大きなステレオが普及し始めたばかりで、こんな喫茶店で曲を聞いたものでした。クラシックだけでなく、様々な音楽をテーマにした喫茶店がありました。私の父の店は、「ラテン喫茶」でした。ラ・クンパルシータなどのタンゴが当時はやっていたことと、社交ダンスもはやっていたために、このラテン喫茶もいろいろなところにありました。そのほかに音楽をテーマにした喫茶店で、今も多く残っているものに「ジャズ喫茶」があります。ここでは、ジャズのレコードを聴くだけでなく、ライブ演奏を行っているところも多くありました。そこでは、ジャズ演奏だけでなく、様々なライブ演奏をしていました。私が、高校生のころに行った「新宿アシベ」では、タイガースなどがライブ演奏をしたりしていましたが、私が聞いたのは、ゴールデンカップスというグループのライブでした。今の若い人は知らないと思いますが、「長い髪の少女」とか「イザベル」などがはやっていました。また、「銀座ラセーヌ」では、いかりや長介とドリフターズも出演したことがありました。このラセーヌは、当時よく聞いていたラジオ深夜放送のスポンサーになっていて、受験勉強をしながら聞いていたあのパーソナリティーの声と同時に女性の悩ましい声で「ラセ?ヌ」というせりふが耳に残っています。この「アシベ」も「ラセーヌ」も、「ジャズ喫茶」と呼ばれていました。このように喫茶店では、レコードで曲を聴いたり、ライブで音楽を楽しむほか、自分たちで歌うものもありました。それが「歌声喫茶」と呼ばれるものです。これは、八王子にもあるので、「今でも歌っているのかね。」と先日妻と会話をしたばかりです。ここで歌われた歌は、当時は「走れトロイカ」とか「カチューシャの唄」などのロシア民謡が多かったようです。私は、歌を人前で歌うという習慣がなかったために、入ったことはありませんでした。あと、その後ディスコに変わっていきましたが、当時は、「ゴーゴー喫茶」という名前で、ゴーゴーという踊りが流行った時、ワン・ドリンクを頼んでゴーゴーを踊るという喫茶店がありました。あと、店内の意匠でしょうが、「和風喫茶」などというものがありました。それから、「同伴喫茶」という男女同伴ではいる少し薄暗い喫茶店とか、「深夜喫茶」といって、終電車が出た後、始発の動くまでのつなぎに過ごす喫茶店がありました。最近は24時間営業の店が増えたので、深夜という言い方はなくなったかもしれません。また、最近見なくなったものに「談話室」があります。ここでは、長居が許されたので、私は原稿の打ち合わせによく使いました。こんな話は、団塊の世代の中では盛り上がるのですが、今の人にはどうでしょうか。

純喫茶

 今、私が住んでいるところに、たまに行く気に入った喫茶店があります。普段はなかなか行けないのですが、遅い出勤の土曜日には寄ります。そこは、店内のつくりが懐かしく、コーヒーが私好みの味です。どうも、最近多いエスプレッソは、味わいを苦味が消してしまっている店が多いので、あたりはずれが多すぎます。その好みの店は、コーヒー豆をもちろんオーダーしてから一人分ずつ引いてからコーヒーを立てるのですが、淹れる器具は、私は始めて見るものです。最近は、メーカーマシンといわれる機械で立てるものが多いのですが、喫茶店の多くは、ちょっと凝ったところでは、サイフォンドリップを使います。また、家庭でもよく使われるものにペーパーでこすものがあります。「円錐形」のドリッパーに紙のフィルターを置くのですが、KONO式ドリッパーでは、大きな穴が開いており、「一つ穴」「三つ穴」のドリッパーと比較すると、湯がドリッパーに溜まりにくく、注湯のスピードで風味を変化させる事が可能です。ほかによく使われるものに、ハリオ、カリタ、メリタなどのメーカーがあります。屋外などでコーヒーを飲む場合は、水とコーヒー豆(荒挽き)と「火」があれば、場所を問わずにドリップしたコーヒーが簡単に出来るパーコレーターが使われます。また、コーヒー粉にお湯を注ぎ、プレス、そのまま注ぐだけの手間入らずで、スピーディーにコーヒーを淹れることができるフレンチプレス技術もあります。私が行く喫茶店では、ステンレスのポットの上に、ステンレスのこしきが着いていて、一人分ずつそれをテーブルに持ってきて、そこでドリップしたてを飲むものです。また、この店が気に入っている理由は他にもあります。モーニングサービスがあるのです。喫茶店に、セットメニューとして、格安のモーニングサービスというものがサラリーマンを相手に用意されていました。最近は、少し遅い時間になると、お年寄りが利用することが多いようです。モーニングサービスの定番といえば、トーストとゆで卵ですが、この店は、パンケーキと目玉焼きとソーセージにサラダです。朝、モーニングサービスとコーヒーを飲むと、ゆったりした気分になれます。この店に久しぶりに行ってみました。すると、なんと、9月いっぱいで閉店するため、店内の備品等を処分しているところでした。一と月ぐらい前に行った時に、年配の人のよさそうな店主が、モーニングサービスがワンメニューだと常連客に悪いから、他にも考えなくてはと言っていたのに、急にどうしてでしょうか。この店がなんとなく懐かしく感じるのは、かつてどこにでもあった「純喫茶」の雰囲気があるからです。純喫茶というのは、その字のとおり、純粋な喫茶という意味で、アルコール類が一切置いてない喫茶店という意味です。酒類を扱い、女給(ホステス)による接客を伴う「特殊喫茶」に対してこう呼ばれました。明治末期にできたカフェーは知識人たちの社交の場でしたが、大正時代には徐々に大衆化し、女給らによる接客を主な目的とした店も増えていきました。このような店では、夜には主に酒類を出し、隣に座る接客係の女性らに客がチップを払うといった、現在のバーやクラブのような店に変わっていきました。これらは昭和初期になるとたくさんでき、このような店のことも「カフェー」や「喫茶店」ともいいました。一方、酒類を扱わない本来の意味の喫茶店も一般的な存在となり、「特殊喫茶店」と「純喫茶」と分けて呼ぶようになったのです。またひとつ、純喫茶が消えて行ったようです。

男子

 先日、書店で写真集「男子 梅 佳代」を見ました。そこには、まさに「男子」の姿が映っていました。私は、今、乳幼児を相手に仕事をしていますが、実感として、「女の子は生まれながらにしておばさんだが、男の子は大人になっても赤ちゃんだ。」という言葉が、まさに男女の特質を言い当てている気がします。この第2弾写真集をだした梅佳代(うめかよ)は、第32回木村伊兵衛写真賞を受賞しています。写真新世紀では、「男子」と「女子中学生」で、佳作を2回受賞しており、2002年『美術手帖』の写真表現特集で、注目の写真家として取り上げられました。現在は、東京をはじめ、パリ、ロンドン、タイで展覧会を開催し、海外でも高く評価されています。昨年9月に発売されたファースト写真集『うめめ』と、今回の「男子」は、彼女が写真専門学校時代に近所で出会った、小学生男子たちを捉えた彼女の原点であり、その魅力が凝縮されています。彼女の男子評は、「男子は ばかで 無敵で かっこいいです。(うめ)」のようです。まさに、この写真集の中にそんな男子の姿が映し出されています。今の子の印象は、「すまして、気取って、かっこつけて、大人びて」で、その姿になんだか懐かしさを覚えますが、決して、過去のものではなく、今でもこんな姿を見せることもあるのです。写真集の発売と同時に展示されている写真には、「彼らと友達になったウメカヨは、一緒になって遊びながらシャッターを切ります。梅佳代にしか撮れない、誰もが知っている「男子」の季節。わすれがたきバカ時代。」と書かれてあります。
 「世界征服は可能か? 」(ちくまプリマー新書 61) という、なんとも恐ろしいタイトルの本が出版されています。著者は、「岡田 斗司夫」という元アニメプロデューサーであり、オタキングで、いまは、大阪芸術大学客員教授です。この本に関して、8月の朝日新聞の「消えた男の子」という特集で取り上げられていました。「昔はクラスに何人か、将来の夢は世界征服という男の子がいたもの。最近の悪役は世界征服や人類絶滅を言わない。現実の社会を見ても、これが悪いやつだと決めにくくなった。作り手が悪を設定できない」その後に、記事はこう続いています。「具体的に世界征服の手順を考えれば、人材確保に資金調達、部下の管理など、激務であるとすぐにわかる。世界征服が楽しそうには見えないのだ。読者の反響も努力は嫌いで、我慢は損。世界征服のしんどさにみんなくじけている」この記事の中では、さまざまな人が「子どもたちの日常から、努力は確実に薄れている」と言っています。関西大学教授の竹内洋さんは、「努力がださくなったのは、今日より明日がよくなるという進歩の意識がなくなったから」と言います。「“勉強”が学習に励むことを意味し、“立身出世”という言葉が広がったのは明治期になってから。「学問のすすめ」「西国立志編」がベストセラーとなって新しい価値観をたたきつけた。しかし、江戸時代は身分相応が社会規範だった。町人は武士に対しねたみや劣等感を持つのではなく、町人としてのプライドで生きていた。」また、最近陰湿ないじめが起きています。自尊感情を持ち、自分ながらの生き方をそれぞれが認め合うような社会にならないのでしょうか。フランスの0,1歳児の保育の考え方を読んでみると、「子どもが自分で自分の行動を決めて、自分をつくっていくというのが一番大事なこと」と言っています。乳児期からきちんと自分をつくっていく保育を行っているのですね。

鳥瞰型教育学

 子どもたちはいつも水平に物を見ていることが多いようです。それは、背が低いということが主な原因だと思うのですが、それだけでなく、思考的にも物事を水平に見ることをするようです。そこで、日常的な体験として、見下ろす体験とか、物を鳥瞰的に見る体験をすることで脳のシナプスが増えるということを以前のブログで書きました。鳥瞰的というのは、その字の通りに「瞰」は見おろす意から、鳥が上空から見おろすように全体を広く見渡すさまのことを言い、その意味のままでなく、全体を見渡すことにも使います。たとえば、「世界情勢全体を鳥瞰する」とか、「学界の現況を鳥瞰的に論ずる」とかというように使われます。このようなものの見方をすることが、さまざまな分野でも必要とされています。そして、そのようなものの見方ができるということは、今までの認知的な学問だけでなく、予想するとか、あらゆるところから総合的に判断するとか、先を見る力とかが必要になってきます。そういう意味で、最近特に注目されているのが「環境」への取り組みです。9月19日のEcolomyでは、国際連合大学副学長、東京大学名誉教授の安井至氏が、「企業や国の存続に不可欠な『鳥瞰型環境学』」ということを述べています。環境問題で、この視点が必要なのは、環境問題は、非常に多岐に及んでおり、これらの問題を個々の問題として取り扱うことも勿論必要ですが、それだけでは十分でなく、多様な複数のリスクを鳥瞰的な視点で見る「鳥瞰型環境学」が必要なのです。たとえば、彼は、「身近な水の環境問題を鳥瞰的な視点から考える」と称して、こういっています。「水というものは、ヒトどころか地球上のあらゆる生命にとって生存の必須要素であるが、「身近な水」を考えるとき、健康・安全のためにミネラルウォーターを飲めば良い、といった観点では、余りにも近視眼的である。将来、日本にも水不足が来るかもしれない、といった危険性や、温暖化が進行することによって一瞬の洪水で命を落とす可能性もある、といった理解も必要である。」このように、物事を一面的に見るのではなく、もっと立体的に見る必要があるということです。「鳥瞰的に見るという問題意識は何か。それは、人類という集合体が地球上でできるだけ長期間、健全に生存すること、という見方である。これは、個々人がどれほど長期間安全に生存するか、ということと50%ぐらいは同義なのだが、50%ぐらいは違う。なぜならば、個々人には、生命というものの本質として、寿命というものがあり、個々人を長期間生存させることだけを目標とすると、人類といった集合体の健全性が損なわれる可能性があるからである。集合体としての人類の生存リスクとは何か。例えば、集合体としての日本人の生存リスクとは何か。もちろん、個々人の生存リスクがその基礎である。しかし、集団としてのリスクを考慮するということは、個々人のリスクだけを考えることとは若干違う。何が違うのか。こんなリスクを定量的に考えることが、鳥瞰型環境学というものの1つのアプローチである。」私は、保育、教育問題というのは、環境問題同様にやはり、鳥瞰的に考える必要があると思います。それは、教育問題は、集団的リスクの問題だからです。ある個人が、勉強ができるようになるとか、どの自治体の成績がよくなるとかの問題ではないはずです。そして、その問題にはさまざまな要因が絡んできています。ですから、「鳥瞰型教育学」が必要だと思うのですが。

ドイツ無印

 私は、ここのところほぼ毎年ドイツのミュンヘンに行っています。ミュンヘンでは保育、教育施設を見るのが目的なので、町の中を歩くのはたいてい夕方からになってしまいます。それでも、さまざまな店が並ぶ歩行者天国であるマリエン広場界隈を歩くと、異国に来た感じがします。そのミュンヘン市中心部にある高級ブランド街「F〓nf H〓fe」に、欧州最大規模のドイツ2号店として、昨年4月「ドイツ無印店」「MUJI Munchen Funf Hofe」(636?)がオープンしました。ドイツの無印良品1号店は、2年前の11月にデュッセルドルフで生まれました。欧州では1991年に英国で最初にオープンし、現在ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ノルウェー、スウェーデン、アイルランドに合計43店舗を構えます。この無印店は、クオリティ重視のドイツ人にとって、とても評判がよいらしく、来年はベルリンに3号店がオープンする予定だそうです。また、デザイン的にもドイツ人好みらしく、MUJI 製品は2005年3月、ドイツの権威あるデザイン賞「iF デザインアワードiF design award(プロダクト部門)」において5つの 「金賞」を受賞し、昨年はドイツ小売協会主催「The store of the year」で大賞(リビング部門)も受賞したそうです。「わけあって、安い」をキャッチフレーズとし、安くて良い品として開発された無印良品。1980年、良品計画の母体である西友の自社開発の経験を基にノーブランドの商品発想でつくられました。この「わけ あって、安い。」というキャッチフレーズは、毎年新しいものがコマーシャルに使われ、その時代をも反映し、数々の賞を受賞しています。最初のころだけを並べてもとても面白く、何を主張したかったかがわかります。1981年は、「愛は飾らない。」と第35回広告電通賞ショッピング部門賞受賞した「しゃけは全身しゃけなんだ。」です。その後、1982年「ふだんから、愛。」「ひとりひとりの無印良品。」、1983年「自然、当然、無印。」「僕は無印だ。」、1984年「まなざし、変えた。」「色のまんま。」、1985年「まちが動いてる。」「NO NEWS」、1986年の「いままでも、これからも。」は、大蔵省印刷局長賞を受賞しています。この年のもうひとつは、「動物の愛は、やさしいと思います。」です。2003年3月の日経新聞広告には、こう書かれています。「世界の様々な地域や文化そして才能から無印良品を構想し、そこに新しい無印良品の可能性を見つけ出してみたい。そんな風に私たちは考えはじめています。無印良品は世界に発想を開いていく時代を迎えているのです。」そんな発想の結果、こんな商品を生み出していきます。「ものの生産プロセスを徹底して簡素化することでシンプルで低価格の商品を生み出すことでした。たとえば、紙の原料であるパルプを漂白するプロセスを省略すると、紙はうすいベージュ色になります。無印良品はそれをパッケージ素材やラベルなどに用いています。結果として非常にピュアで新鮮な商品群が現れました。」今、私の園では、世界に発信するためにもう一度日本の文化を見直し、その中から普遍的なものを見つけようとしています。「「素」を旨とする無印良品の思想の根底には日本古来からの生活の美意識があります。ここに無印良品の思想の基軸があることに変わりはありません。そこを確認しつつ、無印良品は世界の文化や才能と交流していくことを開始します。生活のための「必然」や「普遍」を地球規模で発見し合い持ち寄る。そういうプロジェクトがすでにはじまっているのです。」保育、教育にも言えることです。

建築用語2

 建物に関することわざとか、言い回しとかには、昨日のブログ以外にも面白いものがたくさんあります。たとえば、よく建物の外壁を、板を張って施工するときに、平たく長い板を重ねながら張っていく方法があります。これを「下見板張り」といいます。鎧のように張ることから「鎧張り」ともいいます。それに対して、重ねていかないで、板を縦とか横に平らに張ることを「羽目」と言います。この張り方ですと、もし板を1枚はずしてしまったら、隙間が出来てしまい、台無しになってしまい、役に立ちません。ですから「羽目をはずす」ということ「人の度を過ごす態度」「興に乗じて度をはずすこと」の意味するようになったのです。また、羽目をはずしてしまっては、せっかくの建築意匠が台無しになってしまう事から「苦しい羽目に陥る(破目とも書く)」といった使い方のように困った場合とか境遇を意味するようになったり、「羽目に付く」というのは、窮境に陥ることを意味したりします。ただ、「羽目をはずす」という言葉は、荒馬の口にはめる縄のことを「はめ」といい、はめをはずすと馬が暴れ出すところから転じて調子に乗った行動をすることを意味するようになったという説もあります。このほかにも「羽目に掛かる」とは、勢いに乗ること。次第に調子が出てきて、興に乗ることをいいます。次にこんなことを聞いたことがあると思います。「順調に物事が進まない」、「はかどらない」ことを「埒が明かない」といいます。この「埒」(らち)というのは、今では、主に競馬場の周囲の柵の事をさしますが、もともとは、単に「低い垣」とか「しきり」の事をさした言葉でした。ですから、「埒が明く」とは垣が取り除かれる、つまり障害物が取り除かれるという意味で、物事が片づくこと、はかどることの意味に使われます。逆に「埒が明かない」ということは、「はかどらない」ということになり、「埒も無い」は、「乱雑である」「つまらない」「順序がたたない」という時に使われます。また、「埒外」「埒内」という言葉は、垣の外、内側という事から「埒外」は物事の一定の範囲外、「埒内」は物事の一定の範囲内という意味です。ダメな人とか頭の鈍い人のことを「ボンクラ」といいますが、この言葉を漢字で書くと「盆暗」とか「盆蔵」と書きます。「盆暗」と書く場合は、「盆」は賭博の盆ござのことで、盆の事に暗い。つまりサイコロの目の動きを読んだりする事が下手な人という意味に使われていたのが、頭のにぶい人を指す言葉となりました。「盆蔵」と書く説は、盆は八月のうら盆の盆で、蔵は土蔵をさします。土蔵造りは普通寒い季節にしますが、これを夏の暑いときにすると、土の表面ばかり乾燥して、平均して乾かないので、役に立たない土蔵になってしまいます。それで盆の頃造られた蔵、つまり「盆蔵」は駄目だということから、駄目な人の事を「盆蔵」と言います。また、お寺の屋根は「瓦ぶき」に対して芝居小屋は「コケラぶき」(杉やヒノキの薄板を用いる)でした。その「コケラ」には、「木くず」という意味もあって、そのコケラをきれいに払い落として、初めて新築完成とする習わしがあり、「コケラ落とし」といえば、劇場を新築した時の披露興業を意味するようになりました。また、ヒノキで張った大変立派な舞台で演技する事から、自分の腕前を披露する晴れの舞台を「ヒノキ舞台」といいます。また、「結構」の語源は、「構えを結ぶ」ということから、家屋を構築したり、文章を組み立てたりする事を言い、建築物や文章の組立・構築が優れている時、「見事な結構」と誉め、やがて、見事、立派の意味を表すようになりました。建物に関する言葉は誰にでも馴染みがあるので、日常的に使われる言葉になっていることが多いですね。

建築用語

 昨日は、長野県東御市の海野宿を少し歩いてみました。その宿場町にある建物には特徴が二つあります。ひとつは、海野格子と呼ばれるもので、普通の格子は上から下まで1本通しで、間隔を置いているのですが、この「海野格子」は、2本通しの間に、少し上部が開いて2本間隔で横木がくっついて上部に2本あるのが特徴です。もうひとつは、卯建(うだつ)と呼ばれるもので、家の屋根裏と梁の間に立てる短い角柱のことです。
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 これは、宇立・宇太知・卯建などとも書かれ、「うだつ」とか、「うだち」といいます。この宿場のほかにも有名なのは、やはり以前訪れたことがあるのですが、徳島県美馬市脇町に残っている昔の町並みや、岐阜県のほぼ中央に位置する美濃市は、「うだつの上がる町並み」と呼ばれる国選定美濃町重要伝統的建造物群保存地区があります。この「うだつ」の様子が、下には梁があって、上からは屋根に押さえられて、ちょうど伸びるに伸びられず、いかにも困っているように見えるところから、「いつまでたっても、出世する事ができずにいる」ということから「うだつが上がらない」と使われるようになったとも言われます。また、もともと「うだつ」は、火事の延焼を防ぐ「防火壁」の役割を果たしていたと言われ、しだいに装飾的な意味合いが強くなりました。しかし、この「うだつ」をつけるには、かなりの費用がかかったことから、「うだつ」を上げられないのは、甲斐性がないということから、「うだつが上がらない」はなかなか出世しないことを言うようになったという説です。
 このように、建築用語からことわざとか、違う意味に使われるようになった言葉がたくさんあります。有名にところでは「大黒柱」がありますね。大黒柱は、家の中央にあって、最初に立てる柱のことで、民家の土間と床上部との境にある特に太い柱をさしますが、それから家や団体の中心となり支えとなっている人を指すようになります。また、大黒柱の語源は恵比寿大黒、すなわち大黒様から来ているといわれ、大黒様は室町時代から富と豊穣の神として祭られていたことから、一家を支えるという意味になったとも言われています。それから、「あの人は几帳面な性格だ。」という几帳面も、もともとは建築用語です。奈良時代に上流家庭でよく使われた几帳(室内で貴人の座るそばに立て、間仕切りや風除けに用いられた家具)の柱は角を削り取った後に、さらに刻み目を入れた面の取り方が多く用いられ、この種の面を几帳面というようになり、几帳面の形がいかにもきちんとして端正に見えるところから、折り目正しくきちんとしていることを「几帳面」というようになったのです。
 それから、日本人の特徴といわれる「本音と建前が違う。」という建前も、「上棟式」のことをいう建前が語源です。建て前というのは家屋の建築で、柱や棟、梁などの主な骨組みを組み立てることをいいます。そういうことから「表向きの方針、原則」を意味する言葉となりました。しかし、本来の建前は、これから出来上がっていく建物の基本となる骨組みや柱、梁などを組み立てることですので、これが本音でなければならないので、表向きだけであってはおかしいと思うのですが。いつから、どうして本音と建前が違ってくるのでしょうか。本音と建前が同じであるというよりも、きちんとした建前があってこそ本音が語れるのだと思います。

不思議な日本

9月1日の「世界一受けたい授業」というテレビ番組で、『外国人には信ジラレナ?イ マカ不思議?疑問だらけのニッポン人!』というタイトルで、日本独特の風景を写していました。その最初の写真は、「ティッシュを配る人」です。便利なポケットティッシュを日本ではいつでも、どこでもタダで配っています。他にもシャンプーや化粧品などを無料で配っていることもあります。アメリカでもたまに見かけるそうですが、配っていても割引券ぐらいのようです。いつごろかわかりませんが、確かに人通りが多い街角では、ポケットティッシュを配っていることがあります。これは、もちろん「販促ツール」です。しかし、販促ツールといえば、チラシやパンフレット、リーフレット、DMなどの印刷物、店頭を飾るPOP類、ポスターなどを思い浮かべます。最近では、メルマガなども、広い意味では販促ツールです。どんな販促かというと、認知度アップの為、集客する為、購入促進の為、継続利用の為などさまざまな目的があります。それらの中で、今、圧倒的に多いのがポケットティッシュですが、なぜかというと、消費者にもっとも身近な広告物としての効果が高いからです。ですから、都市部を中心に全国で年間約30億個も配られているそうです。「ポケットティッシュ」が、それまでの「マッチ」に代わって広告として最初に使われたのは、銀行での「粗品」としてです。当時の銀行は、大々的に広告することが制限されていました。そこで、ポケットティッシュがぴったりでした。ですから、今でもサラ金と呼ばれるような金融系に多く持ち入れられています。また、なぜポケットティッシュかというと、いくつか理由があるようです。まず、男性でも女性でも、誰もが日常必要とするモノであること。コンパクトで鞄やポケットに入れておく事ができること。保存性の高さと接触回数の多さはポケットティッシュの最大の特長だと言えます。しかし、最近は、あまりに配りすぎて、その効果も薄らいでいる気がしますが。
次にテレビで紹介された日本の特徴は、「降車ボタン」の数です。日本のバスには降車ボタンが1台に30個も40個もあります。それが、アメリカでは1個か2個だそうです。これは日本人が恥ずかしがり屋で、他人に「押して」と頼めないからだと言います。このボタンを押すのは、恥ずかしいだけでなく、いろいろな思惑が交錯します。以前のブログにも書いたのですが、降りるぎりぎりまで待って、誰が待ちきれなくて押すかという葛藤です。なんとも馬鹿らしい話ですが、そんな気持ちになります。また、迷うのは、終点のバス停でも押したほうがいいかということです。まさか、押さないからといって、乗客がいるのに車庫まで直行するわけはないと思うのですが。
次に外国人から見て不思議なのは、本を買うとカバーをしてくれることだそうです。アメリカでは本はむき出しです。ですから、誰が何を読んでいるのかがわかります。そのテレビで授業をしたマイケル・プロンコ氏は、最初、日本に来た時、誰もがカバーのついた本を読んでいるのを見て、みんなポルノ小説を読んでいるのかと思ったそうです。また、日本では立ち読みも普通にしていることも不思議だったそうです。アメリカでは普通、本屋に椅子があって、そこで座って読んでいます。それは、ドイツでもそうでした。
私たちが当たり前と思っていることが、世界では珍しいことも多いようです。

小学生の意識2

文部科学省は今月八日までに、すべての小中高校や幼稚園に対し、教職員らによる自己評価の実施と結果公表を義務付ける方針を固めました。この自己評価は、保護者や地域住民らによる外部評価の実施も促進させる考えで、年内にも学校教育法施行規則を改正するようです。そして、この評価結果を積極的に校外にも示すことで「開かれた学校づくり」を目指します。自己評価は現在、省令で各学校の努力義務として位置付けられています。そこで、2005年度、公立学校の98%が実施しました。しかし、結果を公表したのは、そのうち58%にとどまっています。さらに、日本PTA全国協議会の調査では、子どもが通学している学校が評価結果を公表しているかどうかを、保護者の76%が「分からない」と回答。公表方法の問題点も指摘されています。そこで、文科省は、外部評価を導入している学校が84%にとどまっている実態と併せ、施行規則改正で学校評価の実効性を高める必要があると判断したのです。それに呼応して、厚労省でも今回の保育所保育指針の改訂版の中間答申の中には、保育園にも自己評価が義務付けられています。これで、直接学校とのかかわりを持たない専門家らによる「第三者評価」や「自己評価」や「外部評価」がされることになります。
 以前のブログでも書きましたが、ドイツでは、幼児から自己評価をします。今日の自ら課題を見つけ、自ら取り組んだ活動に対して、深まったと思うか、きちんと取り組めたか、何か習得することが出来たかを自分で評価します。そして、その評価結果を次の活動に反映します。私が訪れたドイツの幼稚園で、年長さんが行っていたことです。いつも大人が話をし、指示して子どもを動かし、言われたとおりに動くことをよしとしている日本の子どもたちには、考えられないことです。また、試験をしたり、子どもに発問したりしてそれを確かめてきた、他者評価の教育では、子どもたちは自分を見つめる力が衰えて来、それが大人になっているのですから、自己評価ができるのでしょうか。自己評価を義務付けるのであれば、幼児教育からそのような保育をするような取り組みが必要です。
 ベネッセ教育研究開発センターの調査で、現在の自分の成績についてたずねたところ、上位(7段階で「1」または「2」を選択した比率)は東京がもっとも少なく22.3%でした。つづいて、ソウル29.9%、北京34.8%、ヘルシンキ40.3%、ロンドン43.2%、ワシントンDC54.9%となっており、総じて欧米3都市の小学生の自己評価が高く、東京は最も自己評価が低かったようです。これは、謙虚なのでしょうか。自分に自信がないのでしょうか。ちょっと違う気がします。北京の小学生のとりたいと思う成績では、9割弱の小学生が7段階の最上位「1 (上のほう)」を選んでいるように意欲も高く、日ごろから勉強のことを強く意識していることがわかります。ところが、東京は他の都市に比べて、「どうしても好きになれない科目がある」「上手な勉強の仕方がわからない」を選択する比率が高く、「新しいことを知るのが好きだ」を選択する比率が低くなっています。また、勉強がどのようなことに役立つかをたずねたところ、ほとんどの項目で「役に立つ」という回答の比率は、東京がもっとも低かったのです。そして、がんばればとれると思う成績をたずねたところ、ここでも東京はもっとも低い比率でした。意欲がなく、希望もなく、自己肯定感が薄い東京の子どもの姿が見えてきます。

小学生の意識

 9月15日の日経に「薄れる高学歴志向、「勉強役立つ」東京低く・国際6都市小学生調査」ということで、ベネッセ教育研究開発センターの「学習基本調査・国際6都市比較」が紹介されていました。この調査は、昨年6月から今年1月に、6都市(東京、ソウル、北京、ヘルシンキ、ロンドン、ワシントン)の10―11歳の小学生(ロンドンは6年生、ヘルシンキは4年生、他は5年生)約6000人に聞いたものです。学校外の学習時間は都市によって異っていますが、東アジア3都市は学習時間が長いのに対して、欧米3都市では学習時間が短く、かつ学校の宿題が中心です。これは、わかりますね。韓国や中国は、子どもの教育が過熱し、必死で子ども自身も勉強しようとしています。その反対に、ヨーロッパやアメリカなどは、受験などなく、基礎的な学力をつけることに重点が置かれています。その中で、この結果では、東京では、どちらかではなく、不思議な現象が起きています。東京の小学生の平日の学習時間は、ソウル、北京に次いで長く、平均で100分を超えますが、学習時間は「およそ30分」「1時間」の子どもたちと、「3時間30分」「それ以上」(3時間30分を超える)という子どもたちの二極に分化しているのです。また、通塾率が高いのも東アジアの他の2都市と共通してみられる傾向で、5割の小学生が学習塾に通っています。それにしてもソウルの小学生は、よく勉強しますね。平日の学習時間が長く、平均で145.8分にもおよんでいるようです。しかも、回答としてもっとも多かったのが「それ以上」(3時間30分を超える)で、およそ4人に1人の割合もいるそうです。もちろん、その背景には受験があり、そのための通塾があります。学習塾に通っている小学生は7割を超えています。さらに、そのうちの7割が週5日以上、学習塾に行っています。また、習い事では半数の小学生が「外国語」を学んでおり、学校外の学習機関が発達している様子がわかります。確かに日本でも、東京では、塾に通っている小学生をよく見かけます。土曜日や日曜日でも、おそろいのバッグを背負って、電車に乗っている小学生がいます.博物館に行ったり、美術館にいたりと家族で校外でしか出来ない学習をするようにといって休みにした土曜日に塾に行っているのです。かたや、前日の金曜日は遅くまでテレビやゲームをやり、土曜日は昼までごろごろ寝ていている小学生も多いようです。この二極文化は、どうして生まれたのでしょうか。確かにかなり前から格差社会といわれています。しかし、日本よりももっと格差社会といわれ、その問題点が世界で指摘されてきたイギリスはどうかというと、ロンドンの小学生は、平日の学習時間の平均が74.1分で、日本を始め、アジア諸国に比べるとかなり少ないものの、他の欧米諸国同様、宿題が占める比率が高く、「『勉強は学校だけですればいい』と思う」を肯定する比率(64.6%)はワシントンDCに次いで高く、宿題以外に学校外で勉強しようという意識は強くないようです。とはいえ、勉強が生活や職業などのさまざまな面で役に立つと感じていて、「一流の会社に入るために」「お金持ちになるために」「心にゆとりがある幸せな生活をするために」「趣味やスポーツなどで楽しく生活するために」など多くの項目で、「役に立つ」と回答する比率は他の都市の小学生よりも高い結果が出ています。その点、東京の子は、勉強の効用についてたずねた設問では、ほとんどの項目で「役に立つ」という回答が他の5都市と比べ、もっとも低かったようです。勉強が将来の生活や職業に役立つと考える傾向が、他の都市の小学生よりも弱いので、自ら勉強をしようとしないのでしょう。なんだか、将来が心配になってきます。