小布施の街づくりには地元にある企業がどれだけ地域のことを考え、地域に貢献しようとするかにかかっています。そして、それをサポートする行政がなければなりません。各地の街づくりが成功したポイントは、それらのよい人材がそろったときです。一人ではできませんし、ひとつの企業だけでは出来ません。ここ小布施では、舞台としての小布施町の歴史がありますが、そこでその活動を進める人材がそろっていることが成功の秘訣でもあるようです。中心になったのは、「小布施堂」と「竹風堂」という2店の菓子店です。

市村家では、屋号が「桝一」という江戸時代宝暦年間より営んできた造り酒屋です。明治30年代に、桝一市村酒造場が缶詰技術と工場制の生産方式を導入して栗菓子の製造を始めたのが、小布施堂の前身です。小布施堂の栗菓子は、よくデパートなどで見かけます。大正時代から東京のデパートは、重要な販路のひとつでした。「栗落雁」・「栗羊羹」につづいて「きんとん」の缶詰である「栗鹿ノ子」が創製されました。栗だけで作った栗あんに大粒の栗の実がまざりあったいろどりは、若鹿の斑紋のように見えることから栗鹿ノ子という名前がつけられたと伝えられています。また、「桝一市村酒造場」は、セーラ・マリ・カミングスさんという取締役を迎えて、新しい展開を見せます。アメリカ人である彼女は、日本に留学した後、アメリカの大学を卒業し、再来日して小布施堂に入社します。そこで経営情報室を立ち上げ、利酒師認定を取り、桝一市村酒造場の再構築に取り組みます。1998年には、小布施堂、桝一市村酒造場の取締役就任し、2001年日経ウーマン誌が選ぶ「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002」大賞を受賞しています。私が昼食を食べた「蔵部」という酒蔵の一部を改装して作った和食レストランをプロデュースしています。レストランの中心部には、ご飯が炊かれているかまどが備えられています。彼女は、「とりあえず」や「仕方ない」という言葉を聞くと、「昔から日本人は曖昧な仕事はしない。今の日本人は逃げ道を作って仕事をする。仕方ある仕事を」と話しています。一方、「竹風堂」は、昭和47年に小布施で初めて「栗おこわ」を売り出した店としても知られています。「竹風堂」の栗おこわは、栗と餅米だけという構成ですが、ほのかな甘みの栗とほくほくのおこわが良くマッチしているそうです。また、「竹風堂」では、栗で作ったあんを使用した「栗あんしるこ」や「栗あんみつ」、名物の「栗ようかん」などの甘味類も味わうことができますが、私は暑い日でしたので、もちろん、栗かき氷をいただきました。
そして、地域全体での取り組みには、リーダー的存在が不可欠です。内閣府や国土交通省は各地の観光のリーダーとして大きな役割を果たした「観光カリスマ」に選定しました。この第1陣として選ばれた全国の11人の中に小布施から2名選ばれています。一人は、4期町長を勤めた唐沢彦三さんで、受賞理由は「観光資源の乏しい人口1万人の小布施を、北斎館を中心とした文化と歴史があふれ、年間120万人が訪れる町へと変えた。また、景観整備や花のあるまちづくりなど、住民が主役となって進めるまちづくり運動を成功させた。」とあり、もう一人の市村良三さんは、大学卒業後ソニーに入社し、その後小布施堂に入社し副社長で、2005年から町長をしています。実績として「民間のまちづくり会社「ア・ラ・小布施」を立ち上げ、住民の町おこし運動の中心人物として、栗どっこ市や国際音楽祭など、さまざまな企画イベントや事業を成功させるなど、小布施の名を全国的に高めた。」とあります。
小布施の町づくりは知れば知るほど大したものです。「観光資源の乏しい人口1万人」の町と聞いてさらに驚きです。藤森先生が受賞した「グッドデザイン賞」に輝くかもしれませんね、「町をデザインしなおし、活力ある町に変わっていった」ということで。いわゆる「老舗」が伝統にデンと胡坐をかくのではなく、常に時代を意識した斬新さをもって集客する、というのは「老舗」の模範を感じます。そして「リーダー的存在」がおり「観光カリスマ」に認められるくらい夢や希望、そして具体的な取り組みをもって町づくりをしている。そして「北斎館」。今回の「小布施」シリーズで3つのことを思い出しました。第一は「栗」の小布施、第二は横浜の塾時代にいた「小布施さん」という塾生、そして第三が「北斎館」。いつか行ってみたいと思っています。
小布施について様々なことを教えてもらいました。今回特に印象に残ったのはセーラ・マリ・カミングスさんの言葉です。今日1日を思い返しても「仕方ない」や「とりあえず」という言葉を何度も使っていたことを恥ずかしく思います。逃げ道を作らず、自分が納得のいく思いのこもった仕事をしなければと反省させられました。