徽章業

 私の出身高校では、体育祭・合唱祭・文化祭の三つを合わせて「三大行事」とされています。体育祭、文化祭はどこでも行われますが、合唱祭もとても力の入った行事です。私が在籍していたのはかなり昔なので、最近はよく知りませんが、どうもますます盛んのようです。この合唱祭は、課題曲は設定せず、クラスごとに選曲し、全クラス参加の混声合唱コンクール形式による行事です。審査は、特別審査員6名とクラスから選出された審査員24名により行われ、その合計得点により順位がつけられます。最近の特別審査員には、本校を卒業した旗照夫さんもいるようです。また、「城ヶ島の雨」(作詞北原白秋)、「どんぐりころころ」等を作曲した本校の元音楽科教諭である梁田貞氏を讃えて制定された「梁田賞」というのもあります。この合唱祭の時期が近づくと、教室内とか、廊下などで練習をしている姿や歌声が聞こえてきました。私のころは、クラスは自分たちで決めるために、そのクラスの特徴が出ます。ですから、合唱が好きなクラスでは、合唱祭に関係なく、常に歌声がクラスから聞こえてきました。そして、この合唱祭は、5月の体育大会が終了後から合唱祭委員会の企画で準備が進められます。私が高校1年生のとき、学園紛争と呼ばれていた活動が盛んになり、生徒会が解散し、2、3年生がみんな降りてしまいました。そこで、1年生でしたが、私のクラスから行政委員長が選出され、彼から私は文化委員長にならないかという依頼を受けました。そして、何もわからないまま文化委員長を務めることになったのです。そのころ、この文化委員は「合唱祭」を企画、運営をしていました。私の高校は、当時とても自由で、すべて生徒に任せ、自立を謳っていましたので、この学校行事である「合唱祭」であっても、何も教師は手伝ってくれません。そのころの会場は、校内の講堂でしたが、そこを使うのでも学校に「使用許可願い」を届けなければならないのです。ですから、合唱祭当日だけでなく練習日なども計画して、その予定表を学校側に提出し使用しました。また、審査員も、当時誰に委員長を頼んだか忘れてしまいましたが、それぞれに頼みに行った気がします。また、入賞したクラスに渡す賞状だけでなく、トロフィーも買いに行った記憶があります。このトロフィーを売っている店が並んでいる地域があります。それは、飯田橋あたりです。ここに、「徽章業発祥の地」という碑が建てられています。
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 明治18年(1885)、鈴木梅吉さんという人が、洋行帰りのある人物から、小学校の卒業生にメダルを贈ることを相談され、メダルの原型彫刻に関心を持つ彫刻家と組んで、工場どころか機械もまったくない環境で、手打ち式原型で片面ずつ打って貼り合わせたメダルを苦心惨憺作り上げます。すでに大阪の造幣局にはプレス機が導入されていたそうですが、民間ではまだまだ原型打ちといってもすべて手作業という時代でした。これを機に、日本帝国徽章商会という民間の徽章業を創業し、明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として栄えました。現在も、このあたりには徽章業に従事する人が沢山います。
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 これらの技術は、安土桃山時代の飾り金具・貴金属加工職人から受け継がれ、勲章の分野に貢献し、メダル、バッチなどの製作、昭和に入って貴金属装身具の紳士用ネクタイピン・カフスボタン、婦人用ブローチ・ネックレスなどを製作しています。戦争中は、非鉄金属の使用を禁じられ、一部の製品を除いて軍需品関係の製造工場として転換を余儀なくされましたが、終戦後、バッチ、メダル、トロフィーなどの徽章業として復活しています。徽章業にも歴史があるのですね。

風林火山

 先日の新宿区報に、新宿区長さんが、8月4日の伊那市の夏を彩る最大のイベント「伊那まつり」に参加したことが掲載されていました。この祭りのオープニングで、「武田軍来撃伊那九将参陣」の仮装をしてパレードをしたのですが、区長さんは、諏訪の「由布姫」の仮装をして歩きました。今、NHK大河ドラマの「風林火山」の中の由布姫が中心人物の一人として描かれています。どうして、区長さんが由布姫に扮したかというと、以前のブログで書きましたが、内藤新宿の縁で友好提携都市として交流を重ねてきた高遠町が、昨年3月伊那市と合併したことにより、新たに新伊那市と広がりを持った交流をすすめているのです。私も、毎年、妻と出かけるときのテーマのひとつにNHKの大河ドラマにゆかりの地を訪ねるということをしています。昨年は、山内一豊つながりでしたが、今年は、山本勘助つながりの地を訪ねています。昨年、高遠を訪れたときはそれを意識したわけではありませんでしたが、この地は、新宿とのつながりだけではなく、それ以前に山本勘助としてのつながりも強い地です。もともと高遠は諏訪一族の高遠氏が治めていましたが、高遠氏は諏訪家当主の座をねらい、信玄と結んで諏訪氏を滅ぼします。しかし、諏訪の領有をめぐり、今度は高遠と武田が対立し、信玄は杖突峠を越えて高遠に攻め入り、高遠氏は自ら城を出て行き、高遠は信玄の領地となります。高遠城を奪った後、武田信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、山本勘助、秋山信友に命じて大規模な改築を行い、秋山信友らを城主とします。1562年には諏訪勝頼が城主となりますが、信玄は勝頼を自分の後継者として躑躅ヶ崎館に置き、実弟の武田信廉を城主とします。
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この、よくテレビでも登場しますが、その跡には、武田神社が建てられています。
ここも訪れてみました。帰りには、信玄の墓所にも寄って、墓参りをしました。
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しかし、NHK大河ドラマの撮影に使われている躑躅ヶ崎館は、山梨北部の北杜市にある「風林火山館」で、ここにも行ってみました。
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そこには主殿や大手門、櫓や厩などがつくられていますが、やはり迫力には欠けます。話はそれましたが、信玄の死後9年、高遠城は織田信長の大軍に攻め落とされ、武田家が滅びます。ところで由布姫は、諏訪頼重の娘で、武田信玄の側室、のちに武田氏の継承者となる四男・武田勝頼の母親ですが、史実の中では実名は不明とされ、「諏訪御料人」と呼ばれていました。それを、大河ドラマ「風林火山」の原作でもある井上靖の小説では「由布姫(ゆうひめ)」、また、大河ドラマ「武田信玄」の原作でもある新田次郎の小説では「湖衣姫(こいひめ)」と呼ばれています。「由布姫」と命名したのは、井上靖が「風林火山」を大分の由布院で執筆していたからといわれていますし、「湖衣姫」は諏訪湖をイメージしているといわれています。諏訪湖にその像が建っています。
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亡くなったのは早く、弘治元年とも、天文23年(1554年)とも言われています。墓所は長野県伊那市高遠町の高遠城の側にある建福寺にあり、由布姫のものと伝わる位牌が安置されています。長野県岡谷市の小坂観音院にある墓は、井上靖の『風林火山』で由布姫が過ごしそこで死去したという設定により、現代になってから建てられた物だそうです。歴史小説は、史実として読むよりも、ひとつのロマンとして感じるものです。そして、その歴史上の人物の生き方から、さまざまな人生を感じ、自分としての生き方を見直すきっかけともなりますね。

本能寺

今年の8月7日の 読売新聞に、こんな記事が掲載されていました。「焼けた?瓦出土、本能寺の変「史実を裏付ける貴重な発見」戦国武将、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」(1582年)で焼けたとみられる大量の瓦や、寺の堀跡、石垣などが京都市中京区の旧本能寺跡で見つかった。本能寺の変を巡る遺物、遺構が発見されたのは初めてで、発掘した民間調査機関「関西文化財調査会」は「史実を裏付ける貴重な発見」としている。」本能寺の変で焼けた瓦が出てきたということですが、実は、この本能寺は、なんども消失しているのです。もともと本能寺は、「本応寺」という寺号で、室町時代の1415年、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものですが、日隆は、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移りました。そして、1429年、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、さらに1433年、如意王丸から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めたのです。しかし、1536年、比叡山との教義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難しました。その後、1582年6月21日、ここで信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され自刃する事件が起き堂宇を焼失したのが、本能寺の変です。まだまだ災難にあいます。1788年の天明の大火によって、1864年の禁門の変(蛤御門の変)によって堂宇を焼失しています。現在の本能寺は区画整理によって京都市役所に近い、寺町通り商店街のすぐ横にひっそりと建っています。
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しかし、写真のとおり、本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられているのは、本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれているのです。
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ところで、本能寺の変のとき、信長は幸若舞の「敦盛」を愛誦し、死に臨んでもくちずさんだといわれています。幸若舞「敦盛」は、源氏の武将熊谷次郎直実が平家の若武者平敦盛の首を討つという物語で、幸若舞太夫が物語を語りながら舞うものが幸若舞です。「思えば此の世は常の住みかにあらず、草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立って無常の風に誘わるる。南桜の月をもてあそぶ輩も、月に先立って有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者の有るべきか。是を菩提の種と思い定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと定め、・・・」これが、織田信長が舞った越前の幸若舞「敦盛」の曲の一部分です。「人間五十年、下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり。一度生をうけ、滅せぬもののあるべきか」人間の一生など世の他のものに比べればはかないものだ。これは人の寿命がたった五十年という意味でなく、下天(天界の最下層)では一日が人間世界で五十年に相当するという意味で、「一度生をうけ、滅せぬもののあるべきか。命あるものは全てかならず滅びる運命にあるものだ」ということで、「人の世界など天界感覚から一日程度のことなんだ」とは、ずいぶんポジティブな考えかたです。これに比べて明智光秀は「順逆二門無し… 五十五年の夢 覚め来て一元に帰す」(人の道は反逆も従順もない。55年の生涯も夢が覚めるように終わり本来に帰るだけだ)という辞世をのこしました。

山の地図

 ハイキングに行くときとか、登山をするときに、まず用意するものが地図です。国土地理院の25000分の1の縮尺のものや50000分の1の縮尺の地図を本屋で購入します。私の場合は、多くの場合、神田神保町の三省堂書店で買い求めました。地図でルートを探しつつ歩く場合は25000分の1の縮尺のもの、アルプスの縦走の様に道ははっきりしていて、広範囲の全体感をつかみたい場合は50000分の1の縮尺のものを使います。50000分の1の縮尺では2cmが実際の1kmにあたりますし、25000分の1の縮尺では、4cmが1kmになります。地図を買ってくると、まず、その地図を持ち歩きやすく、見やすいように折ります。その地図の折り方にはいくつかあるようです。一般的な地図の折り方は、「屏風式8つ折り」というものです。市販の山と高原地図などもこのようなたたみ方がなされています。私がよく折っていた方法は、まず、裏面から四隅を枠線に少しかかる程度に直角に折ります。そして、表から見て枠線が見えない程度に余白の辺を折ります。そうすることによって、隣の地図と突き合わせしたときに等高線が連続して見やすくなります。それを表にして、真ん中から二つに折り、さらに真ん中から二つに折ります。このときに、真ん中の折り目がやや内側に入るように折ると、地図を開く時に、開きやすくなります。そして、同様に反対側へ、横方向に3分の1に折り、左側からも折ります。こうやって折ると、縦方向に4分割、横方向に3分割のサイズになります。この大きさが入るビニールの地図ケースを売っていました。雨や、汗でぬれないようにです。今はどうかわかりませんが、雨にぬれないようにビニールコーティングした地図も売っていました。この地図は、急に雨に降られた時に、頭にかぶれると歌い文句にありました。最近は、どんな地図があるのでしょうね。折り方にしても、最近は、「三浦折り」と呼ばれている折り方があります。1976年に三浦公亮さん(当時、東大宇宙航空研究所)が日本国際地図学会で発表した、両端を引っ張るだけで地図の開閉がワンタッチで出来る折り方です。人工衛星の伸展機構などに応用され、この”Miura Folding”は、世界にも誇れるものです。地図を平行四辺形の形に罫書き、折りぐせをつける方法で、折りぐせをつけるために厚紙などで定規を作る必要がありますが、一瞬にして広がり、たたむのも瞬く間、という簡単便利なものです。神保町にある「輸入地図専門店 マップハウス」では、地図を選ぶ上での簡単なヒントをまとめています。「書籍のように何ページもある「地図帳」スタイルのものは、通常、タイトルに「Atlas(アトラス)」「地図帳」「地図冊」などの言葉が入っており、それ以外のものは、大きな紙に描かれた1枚ものの地図です。点数的には、圧倒的に1枚ものの地図の方が、多く発行されています。「1枚もの」の地図の中には、折り目が入ったものと、そうでないものがあります。たとえば、お部屋のインテリアに地図を探している、という場合には、折り目のない「巻き地図」が適します。」「どういう色分けがされているか、というのは、世界地図を選ぶ上では重要なポイントの1つです。平野は緑色で、山地は茶色でという風に、自然地形で色分けしたものを「地勢」、国別で色分けしたものを「行政」といい、地図の雰囲気や情報が、かなり違ってきます。」「道路地図、ツーリストマップという様なものの多くは、土地の高低をぼかしや色の変化で表現してあり、まれに全く地形表現が入っていないものもありますが、「地形図」と呼ばれる地図には、まず等高線が入っています。」ネットだけでなく、たまには実際の紙の地図を眺めるのもいいですね。

表銀座2

 3泊目をした常念岳は、下の安曇野から眺めると、雄大な北アルプスの山並みの中でもその美しいピラミダルの山容はひときわ目を引きます。山肌に現れる「常念坊」の雪形は、昔から安曇野の人々に春の訪れを告げる目安として親しまれて来ました。宿泊先の常念小屋の屋根の上からも槍の穂先が見えるはずですが、翌朝はものすごい天候でした。台風が来ているようで、下のほうは水がついていて、下山できそうもありません。そこで、もう一晩その山荘に泊まることにしました。この登山は、中学時代の美術の恩師と、中学高校と同級生の友人と3人で行ったものです。山の天気はとても怖く、急変します。ですから、大丈夫だと思っても、突然視界はゼロ、気温も下がってきます。あきらめる勇気も必要です。しかし、逆に突然と天気がよくなることもあります。次の日は、天気はよくなっていました。常念岳山頂からの眺めは、上高地の谷間をこえて、遠くに穂高連峰左から前穂、奥穂、北奥や槍がよく見えます。今度は、槍から常念を見たいものだと思いました。(これは翌年実行しました。)常念岳を下山し、蝶ヶ岳に向かう山道は、樹林帯で、振り返ると、その間から常念岳が見え隠れします。そして、蝶ケ岳ヒュッテに到着しました。蝶ヶ岳は、標高2664mで、常念山脈に属し、ハイマツと砂礫の山頂部からは槍、穂高の眺望が優れ、均整のとれた姿には定評があります。また稜線直下には北アルプスでも有数のお花畑が広がっています。三角点は蝶槍のピークにあり、最高点は南端の長塀ノ頭(2677m)にあります。蝶ヶ岳の名前の由来は、残雪期の稜線直下に現われる雪形が安曇野から眺めると白い蝶に見える事から名付けられたと言われております。この山頂からの槍、穂高連峰の景色に魅了され、大学時代に友人を誘って、この蝶ヶ岳だけのために、夜行で行って、日帰りで登りに再度訪れたことがあります。やはり、縦走でなく、ひとつだけの山に登るのは大変ですね。その後は、上高地に下ります。このコースは、このブログを書いているだけでも、もう一度体力があれば行きたくなります。このとき、心残りは、やはり、槍ヶ岳に登らなかったということです。ですから、次の年、やはり友人を誘って、槍ヶ岳だけに登りました。そのときに友人を誘った殺し文句は、「梓川の源流で、水割りを飲もうよ!」というものでした。実は、かなり汚れているらしいのですが、上高地を流れる「梓川」は、東京では見たことないほど透き通っていて、手を長く入れることができないほど冷たい水でした。また、「槍ヶ岳」は、この山名を知らない人は数少ないと思うほど有名です。それだけではなく、槍ヶ岳は日本の標高第5位に鎮座し、穂先から四方に伸びる尾根を持つ独特の形をした山で、登山者の憧れの山でもあるからです。しかし、一気に登るのはかなりしんどかった思い出があります。ワイヤーロープを張り巡らされたハシゴは鞍部でも気が抜けませんし、最後の急なところではチェーンを使います。ずっと登りの為、足もつってきます。やっと着いた山頂は、下から見ると、その名のとおり槍のように尖っていますが、実際にもかなり狭く、混んでいて、誰かが下りてこないと次の人が登れませんでした。しかし、その日宿泊した槍岳山荘は、私たちは秋休みを利用して行ったためにほかの客はいませんでした。
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 そこで、寝るときにかなり寒く、布団を何枚もかけたことを思い出します。ずいぶんと昔のことになってしまったので、記憶はだいぶ違っているかもしれませんが、青春だったなあと懐かしく思い出します。

表銀座1

 コメントに「槍ヶ岳」に行くとありましたが、いいですね。私は、この歳になって、もう体力が衰えてしまって行くことはないでしょうが、あのすばらしい景色と、そこに咲いている高山植物の美しさは忘れることが出来ません。本当は、歳を取って衰えたのではなく、これは私だけの問題で、ずいぶんと歳を取った人でも山登りはしていますし、小学生とか子どもでも高い山に登っています。えらいなあと思います。私は、あまり登山はしませんが、高校生のころに、北アルプスで一番の人気コースと言われる「表銀座コース」を縦走したことがありました。そのときは、私は、燕岳から大天井岳を経て東から槍ヶ岳に至るルートではなく、大天井岳から槍には行かず常念岳の方に行きました。そして、蝶ヶ岳を経て降りるコースでした。正確には、燕岳から槍ヶ岳へ行くのが表銀座コースで、私がたどった燕岳から大天井岳、常念岳、蝶ヶ岳へは、パノラマ銀座コースと最近言うそうです。まず、このコースは中房温泉から入山します。そこまでは、JR穂高駅からバスを利用します。そして、中房温泉に一泊しました。そのころは、余り温泉が好きではありませんでしたし、登山者用の宿泊所というイメージでごろ寝をしたので、どんな温泉だったのか、温泉宿ではなかったのか覚えていません。しかし、今でもはっきり覚えているのは、そこから標高2763mの燕岳まで、次の日に一気に登った時の辛さです。表銀座コースは、北アルプスを縦走するのですが、この縦走というのは、尾根伝いに山を渡り歩くので、登ったり下ったりを繰り返しながら、景色を楽しめるのですが、最初に高いところまで行くのが大変です。この燕岳は北アルプスの中央部に位置し白い花崗岩の大きな岩が印象的な山でした。山名は、春の雪形が、ツバメに似ているので、つけられたそうです。また、高山植物の中ではとても形がかわいらしく、色もきれいな花で、山のポスターによく使われる「コマクサ」の大群落があることでも有名です。標高はそれほど高くなく、危険な個所も少ない登りやすい山ですが、常念山脈に属し、中房温泉から合戦尾根までは北アルプス三大急登の一つです。山荘からは周囲360°の素晴らしい眺望を誇り、北アルプスの主峰槍ヶ岳を始め、穂高連峰、立山、剣岳、また白馬連峰と北アルプスのダイナミックな眺望が目の前に広がり、それまでの辛さを忘れさせてくれます。
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 燕岳のもう一つの人気は山小屋の燕山荘です。昭和12年に帝国ホテルの援助により建てられた建築がそのまま残され、本館部からして山小屋としてはおどろくほどぜいたくに出来ていて、夜のオーナーの話しやアルプホルンの演奏は燕山荘の名物となっています。しかし、私はそこには泊まらず、大天井岳にある町営大天荘に宿泊する予定でした。そこで、いったん燕岳に登り、また燕山荘に戻り、砂礫の稜線を進んでいくと、大天井岳が目の前に迫ってきます。鎖場とハシゴを通過して鞍部から岩礫帯に変わると、町営大天荘に到着します。ここで、2泊目です。次の日は、槍ヶ岳方面を目指すコースと別れ、東大天井岳までは比較的平坦路です。これが縦走の楽なところです。そして、周りの景色は、飛騨側に平行して穂高連峰が連なってみえます。そして、横通岳直下を過ぎると真下に常念小屋が見えてきます。ここで、3泊目です。ここ常念岳は、標高2857mで大天井岳から徳本峠へ至る常念山脈の主峰で、深田久弥の「日本百名山」の一つです。森林限界を超えた山頂からは槍、穂高連峰の勇壮な一大パノラマを見る事が出来ます。

お盆

 今日は、盆中日の8月15日です。日本では明治6年(1873年)1月1日のグレゴリオ暦(新暦)採用以降、以下のいずれかにお盆を行うことが多くなりました。旧暦7月15日にあたる日、新暦7月15日、月遅れの新暦8月15日(旧盆とも)、その他(8月1日など)です。私は東京ですので、お盆は新暦7月15日に行います。その日に寺からお坊さんに来てもらい、経をあげてもらいます。しかし、現在の報道メディアでは、新暦8月15日を「お盆」といい、月遅れのお盆(旧盆)を指すことが全国的になりつつあります。この日が日本では過去に国民の祝日になったことがありませんが、新暦8月15日(前後)は平日であってもかなりの人が休日になることが多く、また、学校の児童・生徒の大部分は夏休みの中間です。ですから、この日は祖先の霊を祭る宗教行事としてではなく、国民的な休暇、民族移動の時期としての側面があり、会社や商店などは、単なる夏休みになっているところも多く見られます。そして、この時期は、ゴールデンウイークや年末年始とともに、帰省や行楽に出かける人が多く、高速道路での渋滞情報や各交通機関での乗車率がニュースで流れます。しかし、この日は大型連休や年末年始と違って、カレンダー上は平日であることが多いので、官公庁や金融機関は通常通りの業務を行っており、一般企業でも平日という建前から、業務を行っているところも多く見られます。ですから、保育園は休みではなく、登園してくる子も多くいます。私も、朝だいぶ普段と違ってすいている電車に乗っていると、こんな日に出勤するなんてと腹立たしくなるよりも、「お盆にも勤務している人がいて、大変だなあ。」と思います。確かにこんな日でも休むわけにいかない業種もあるでしょうし、逆に、こんな日だからこそ忙しい業種もあるでしょう。保育園もそのひとつです。だからといって、保護者には、「夏こそ、できるだけ子どもと一緒に、いろいろな体験をするようにしてください。」と言っていながら、職員が自分の子どもを預けて働いているのは少しおかしい気がします。ですから、私の園では、できるだけ、この期間は独身の職員に勤務してもらいます。子どものいる職員は、なるべく子どもが休みの日とか、家族、地域がみんな集まる日とか、さまざまなイベントをやっている日とかに合わせて休んでもらいます。若い、子どものいない職員は、逆に、8月末から9月の期間中に夏休みを取り、混雑や料金が最ピークの旧盆時期を避けて旅行などをするほうがよいことが多いようです。私も、今は私の子どもたちが大きくなったので、何も夏休み中に休みを取る必要がなく、また、どうせ休み中にすることといっても仕事がらみが多いので、特には休みません。しかし、子どもが小さかったころ、特に小学生のころは、普段は休まない代わりに、子どもが休みの夏休みとか、冬休みにはできるだけ休みをもらって子どもをあちらこちらに連れて行きました。この体験が、今は仕事にも役に立っています。昼間と夜の仕事にしてもそうです。確かに夜遅くしなければならない仕事もあります。しかし、子どもがいる親には、できるだけ夜は子どもと過ごさせるような働き方をしてもらった方がいいような気がします。外国では、夏の間、夜の間は、仕事をすべてやめてしまうか、もしどうしてもあけなければならない職種では、学生がしていることが多かったようです。大学生にまでなって、親が仕送りをしている国は珍しいようです。ワークシェアリングは、夫婦間だけでなく、いろいろとシェアの仕方を考えていくことが必要ですね。

身土不二

古くから、食の信条として、また思想として用いられている言葉に「医食同源」や「身土不二」という言葉があります。「医食同源」とは簡単言えば「医」と「食」が同じ源であるということで、「食生活がきちんとしていれば健康でいられる」という事です。これは神農の「薬食一如」と同じ意味です。一方、「身土不二」は、その読み方によって大きく二通りの意味があります。「しんどふに」と読む場合は、仏教用語で、「身」(今までの行為の結果=正報)と、「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離せない、という意味です。「因果応報」「世は人を映す鏡、人は世を写す鏡」ということで、日蓮や親鸞灘さまざまな僧の教えにもこの言葉が使われています。また、「しんどふじ」と読む場合は、「地元の食品や伝統食が身体に良い」という意味で、大正時代に「食養会」が創作したスローガンです。食養会(大日本食養会)は、明治40年に陸軍薬剤監石塚左玄を顧問として発足した健康食運動の団体で、雑誌や書物の刊行、会の趣旨に適う健康食品の販売などを通じて、第二次世界大戦中まで食と健康の関係に関する独創的な仮説を全国に広めました。石塚の死後、専務理事で陸軍騎兵大佐の西端学が、石塚の考えを一般化するために「地元の食品を食べると身体に良く、他の地域の食品を食べると身体に悪い。」と解説したところ、京都の僧侶が「仏典に身土不二という言葉がある。」と教えたことから、仏典とは少し意味が違っていますが、これ以降この説を「身土不二(じ)」と呼び、食養会独自の大原則として広めたのです。簡単に言うと「身土不二」とは「身体(身)と環境(土)とは不可分(不二)である」という「人と土は一体である」「人の命と健康は食べ物で支えられ、 食べ物は土が育てる。故に、人の命と健康はその土と共にある。」ということから、「身体と大地は一元一体であり、人間も環境の産物で、暑い地域や季節には陰性の作物がとれ、逆に寒い地域や季節には陽性の作物がとれる。暮らす土地において季節の物(旬の物)を常食する事で身体は環境に調和する」というものです。まさに、夏が旬の野菜には、ナス、トマト、きゅうりなど水分をたっぷり含み、喉の渇きをいやすとともに体温を下げる効果があるものが多く、しかし、水分の多い夏の野菜や果物は、ともすると消化不良や下痢の原因になるとも考えられがちですが、これはむやみに冷やしたものを多く摂取してしまうからで、正しく、バランスよく旬のものを食べれば、むしろ胃腸の調子も良くなるようです。もともと夏の太陽を浴びて育った夏野菜や果物には、汗とともに失いがちなビタミンやミネラルなどの栄養素がふんだんにあります。かぼちゃは、カロチン、ビタミンC、Eなどの栄養素を多く含む健康食品の代表であり、ナスも一見、約94%は水分と糖質でミネラルは多少はあるものの、ビタミンは他の野菜と比べてもかなり少なく、栄養成分表を見れば、「たいして栄養がない野菜」のように見えますが、ナスの皮の色素でもある「ナスニン」や「アントシアニン」、アクの元となる「クロロゲン酸」などは体を調節するのに大事な働きをしているのです。また、トマトの赤色成分は、リコピンという色素。強い抗酸化作用があることはCMなどで有名になりました。食が地域といかに深く結びつき、その結びつきが希薄になってきつつある今、さまざまなひずみが生まれ、問題が発生しています。園でのアレルギー児が増加し、アトピーなどが増え、環境ホルモン、遺伝子組み換え農産物など考え直さなければいけないことがたくさんありそうですね。

シアター

最近、団塊の映画世代を狙って、様々なイベントが行われています。また、その世代を対象とした施設もオープンしています。私としてありがたいのは、「夫婦50割引」です。これは、2004年7月から一年間限定で設定された映画鑑賞割引料金で、夫婦でどちらかが50歳以上であると、二人2000円で鑑賞できるというシステムです。これが、1年限度ということでしたが、好評ということで、毎年延長されています。つい、この6月までであったこのシステムが、来年の6月30日まで延長されたばかりです。このシステムのおかげで、私は映画を見る回数が増えました。たぶん、それまでの倍以上見ていますので、このシステムのおかげで、入場料は増えた計算になります。ぜひ、後、何年か続けて欲しいと思います。なぜ、あと何年かでよいかというと、60歳になると、シニアー料金が適応されるからです。しかし、ほとんど妻と行くことが多いので、やはり夫婦50割引のほうがいいですね。もうひとつ、歓迎すべきことがあります。本の街神保町に「神保町シアター」という映画館が7月7日にオープンしました。最近、あちらこちらにシネマコンプレックス(複合映画館)という多くのスクリーンを持ち、外国映画から日本映画まで、全国ロードショー公開されているほとんどの映画が一つの建物の中で見られるような映画館ができています。これは、シネコンと略され、確かにありがたい、便利な施設ですが、どこでも同じようなものをやっています。ところが、ここでオープンした「神保町シアター」は、小学館がオーナーで、最新の設備を備えたこのシアターでは新作映画や懐かしの名作映画などを上映予定されています。楽しみですね。現在は、レイトショー特集プログラム「川本三郎 編映画の昭和雑貨店 こどもたちのいた風景」が上映中です。この映画館の会館に向けて、なぜこのようなプログラムを組んだかということを川本氏がチラシに書いています。「なんといっても私などの世代にとっては小学館といえば学習雑誌の出版社であり、また、団塊の世代がシニアになりつつあるいま、彼らが自分の子ども時代を懐かしむだろうと思ったから。」私などは、思う壺ですね。彼が選んだ作品は10篇あり、一月にわたって連日夜1回上映をしています。私と同じ年代では、どの作品も懐かしく、よく知っている作品が並びます。「手をつなぐ子等」(昭和23)は、幼児のころの大病で脳に障害を負った子と教師、同級生との触れ合いを描いたものです。「少年」(昭和44年)は、当たり屋一家を描いた作品で、次第に正義に対して渇望していく少年の姿を描いています。「にあんちゃん」「秋立ちぬ」「つづり方兄妹」「警察日記」「夜あけ朝あけ」「あすなろ物語」「しろばんば」という作品が並びます。どれも見たい映画ばかりですが、なかなか見に行くことが出来ませんでした。それが、今日の夜、お盆週間ということで、子どもが少なかったので、6時ころ園を出て、思い切って見に行きました。今日の作品は、「キクとイサム」です。大東映画の第一回作品で、会津磐梯山を背景に、黒人混血児の姉弟を叙情的に描き、この問題を社会に訴えようとするものです。戦後、日本人女性と黒人米兵の間に生まれた混血の姉弟キクとイサムの姿を、祖母の愛情に包まれながら、差別に直面しながらも力強く、しかも明るく、ユーモアたっぷりに描いています。しかし、その明るさが、余計に胸を打ちます。この作品は、「ブルー・リボン賞」第1位、「キネマ旬報」第1位など様々な賞を受賞しています。これからが楽しみな映画館です。

GTD

 今、仕事だけでなく、やることがいっぱいあります。あれもやらなければいけない、あれもやりたいけれど、自分からの思いだけでなくても、人からいろいろなことを要求されます。思いがけない出来事も起こります。時間が足りないとあせってしまうことも多いです。もう少し、時間がうまく使えないかと思ってしまうことがあります。こんな時代、「GTD」と呼ぶ仕事術を取り入れるビジネスパーソンが増えているそうです。本来力を注ぐべき創造的な仕事が可能になるといわれているので、最近は知的労働の分野で、GTDをはじめとする仕事術の開拓が盛んに行われています。GTDという時間管理術を説いたのは、デビッド・アレン氏の『仕事を成し遂げる技術――ストレスなく生産性を発揮する方法』です。私は、この本をちょっと読む気はしませんが、この中で書かれている「GTD」[原書タイトル(Getting Things Done)の略称]は、参考になります。多くの人が、GTDの教えを実践した結果、仕事を能率化し、家族との時間を増やすことができたと言っています。この教えは、さまざまなウェブツールを通じて広められていますので、ブログを書いている人には特に参考になるようです。「労働量の過大や作業に集中できないという問題は、このところ急速に蔓延しつつあるようだが、コンピューターマニアの世界ではずっと以前から大きな懸案だった」と、いわれています。では、GTDというのは何でしょうか。それは、「Getting Things Done」という「ナレッジワーカーのための仕事術」です。知識社会の仕事はますます複雑になってきています。「どこまでやったら終わりなのか」がはっきりしない上に、スピードが要求され、しかも降ってくる仕事の量は増えるばかりです。そうした状態では、従来までの仕事術である時間管理手法は全く役に立ちません。きっちりスケジュールを引いたとしても、次々と降ってくる複雑な仕事がスケジュールを再び混乱させてしまうからです。そして問題なのは、スケジュールが混乱すればあなたの頭の中も混乱してしまうことです。疲れ切った頭からはクリエイティブなアイディアは浮かんできません。大事なのは時間を管理するのではなくて、頭の中を常にすっきりさせ、必要なときに必要なエネルギーとアイディアをひっぱりだす手法です。GTDが5つのステップを提唱しています。「収集」では、頭の中の「気になっていること」「自分のやりたい事」をすべて箇条書きで書き出します。企画書を書く仕事も、旅行に行く予定もすべて書き出します。「処理」では、「次にやる」「いつかやる」といった実行方針を、「実行可能かどうかを判断する」「複雑なものは細かい行動に分ける」などの手順に基づいて機械的に決定します。「整理」では、箇条書きにしたリストを、実行方針ごとに用意したリストに適切に割り振っていきます。「評価」では、以上の3つのステップを定期的に見直します。そして、「実行」です。今できることの中からやるべきことを実行していきます。これを最低でも毎週繰り返し、「あれもやらなくちゃ、これも、それも」といった「やりかけの仕事」をきれいにしていきます。GTDでは以上の作業を行う際に、どのような道具を使ってもよいとしています。つまり紙やペンであろうが、パソコンや携帯電話であろうが、その人が馴染んでいる道具であれば何でもよいそうです。この仕事術の面白い点は、脳内に余計な情報をストックしないところにあるようです。その分、その人の心理的ストレスを低減させ、本来力を注ぐべき創造的な仕事が可能になるのです。