徽章業

 私の出身高校では、体育祭・合唱祭・文化祭の三つを合わせて「三大行事」とされています。体育祭、文化祭はどこでも行われますが、合唱祭もとても力の入った行事です。私が在籍していたのはかなり昔なので、最近はよく知りませんが、どうもますます盛んのようです。この合唱祭は、課題曲は設定せず、クラスごとに選曲し、全クラス参加の混声合唱コンクール形式による行事です。審査は、特別審査員6名とクラスから選出された審査員24名により行われ、その合計得点により順位がつけられます。最近の特別審査員には、本校を卒業した旗照夫さんもいるようです。また、「城ヶ島の雨」(作詞北原白秋)、「どんぐりころころ」等を作曲した本校の元音楽科教諭である梁田貞氏を讃えて制定された「梁田賞」というのもあります。この合唱祭の時期が近づくと、教室内とか、廊下などで練習をしている姿や歌声が聞こえてきました。私のころは、クラスは自分たちで決めるために、そのクラスの特徴が出ます。ですから、合唱が好きなクラスでは、合唱祭に関係なく、常に歌声がクラスから聞こえてきました。そして、この合唱祭は、5月の体育大会が終了後から合唱祭委員会の企画で準備が進められます。私が高校1年生のとき、学園紛争と呼ばれていた活動が盛んになり、生徒会が解散し、2、3年生がみんな降りてしまいました。そこで、1年生でしたが、私のクラスから行政委員長が選出され、彼から私は文化委員長にならないかという依頼を受けました。そして、何もわからないまま文化委員長を務めることになったのです。そのころ、この文化委員は「合唱祭」を企画、運営をしていました。私の高校は、当時とても自由で、すべて生徒に任せ、自立を謳っていましたので、この学校行事である「合唱祭」であっても、何も教師は手伝ってくれません。そのころの会場は、校内の講堂でしたが、そこを使うのでも学校に「使用許可願い」を届けなければならないのです。ですから、合唱祭当日だけでなく練習日なども計画して、その予定表を学校側に提出し使用しました。また、審査員も、当時誰に委員長を頼んだか忘れてしまいましたが、それぞれに頼みに行った気がします。また、入賞したクラスに渡す賞状だけでなく、トロフィーも買いに行った記憶があります。このトロフィーを売っている店が並んでいる地域があります。それは、飯田橋あたりです。ここに、「徽章業発祥の地」という碑が建てられています。
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 明治18年(1885)、鈴木梅吉さんという人が、洋行帰りのある人物から、小学校の卒業生にメダルを贈ることを相談され、メダルの原型彫刻に関心を持つ彫刻家と組んで、工場どころか機械もまったくない環境で、手打ち式原型で片面ずつ打って貼り合わせたメダルを苦心惨憺作り上げます。すでに大阪の造幣局にはプレス機が導入されていたそうですが、民間ではまだまだ原型打ちといってもすべて手作業という時代でした。これを機に、日本帝国徽章商会という民間の徽章業を創業し、明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として栄えました。現在も、このあたりには徽章業に従事する人が沢山います。
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 これらの技術は、安土桃山時代の飾り金具・貴金属加工職人から受け継がれ、勲章の分野に貢献し、メダル、バッチなどの製作、昭和に入って貴金属装身具の紳士用ネクタイピン・カフスボタン、婦人用ブローチ・ネックレスなどを製作しています。戦争中は、非鉄金属の使用を禁じられ、一部の製品を除いて軍需品関係の製造工場として転換を余儀なくされましたが、終戦後、バッチ、メダル、トロフィーなどの徽章業として復活しています。徽章業にも歴史があるのですね。