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2007年08月31日 [近頃思うこと]
石垣
小布施の町づくりにおいてとても重要な要素が有能な人材です。しかも、それは一人ではなく何人かの人材がそろわなければできることではありません。NHKの大河ドラマ「風林火山」で描かれている山本勘助のような軍師も、名将を生むために必要な人材です。武田信玄の名言に「人は城 人は石垣 人は堀 なさけは味方 あだは敵なり」という言葉があります。もともと城とは、敵から守るための防衛施設です。そして、その防ぐために構成するものの基本は、「堀」「土塁」「石垣」の3点です。信玄の言葉にある城と堀は、その城を守るためにとても重要なものです。その重要な城や堀と同じように、いや、それにもまして、人が重要であると言っているのです。堅牢な城郭を築くよりも、優秀な人材を集めることが重要であるという信玄の考え方で、この言葉のとおり、信玄の配下には山本勘助以下「武田二十四将」と呼ばれる知将、勇将が揃っており、武田家の勢力拡大に大きく貢献しました。また、この城を守る「人」は、必ずしも家来だけでなく、住民にもいえます。民衆がついてこなければ、守ってくれなければ、堅牢な城を持っていてもすぐに落とされてしまいます。ですから、信玄は同時に心血を注いだのは民政です。この民衆を助けるような民政も、軍事力の基礎であることを知っていたのです。釜無川に今も残る信玄堤はこれを物語っています。信玄が風林火山を旗印にしたもとにしたのは「孫子」の兵法ですが、その孫子の五事の第一に、「道とは、民をして上と意を同じくし、これと死すべく、これと生くべくして、うたがわざらしむるなり。」というものがあります。これは、君主と民衆とが心ひとつにして、生死を共にするような覚悟こそが、最も大事な道であるといっています。チームワークのよさというものは、個人個人の特性と能力を活かして、一体となって組織力が発揮できるよう集団でなければならないのです。そして、それぞれがひとつの理念の下で、心を通わせ、互に協力する団結がひつようです。それを孫子は、「常山の蛇」にたとえています。用兵というのは、常山の蛇の様に、頭を狙われたら、尻尾が攻撃する。また尻尾を狙われたら頭が攻撃してくる。 という様に、体全体が一丸となって敵に当たるのが理想だということです。信玄は、そのことを彼「甘柿も渋柿も、ともに役立てよ」と言っています。また、「(自分は)決して人をつかうのではない。わざ(意欲)を使うのである。(その人の持ち味である)能力を殺すことがないように人をつかってこそ、心地がよい」とも言っています。
最近城を訪れたとき、見て感動するものが変わってきました。以前は、高くそびえる天守閣だったりしましたが、今は、その城の石垣です。これは、その城を守り人々と同じようにそれぞれの石がその形の特徴を生かして結びついて堅牢になっている姿は、技術的、技巧的、芸術的にとても美しいものです。また、それぞれの城の石垣にはそれぞれ特徴があります。「盛岡城(不来方城)」は、不規則な形の巨石をうまく使いこなして、高石垣が作る線がスッキリしていて、きれいです。
「上田城(伊勢崎城、尼が淵城、真田城、松尾城)」には、石垣の礎石として、真田昌幸が上田城築城の際、太郎山から掘り出した「真田石」と名付けた大石があります。
「小諸城(白鶴城、酔月城)」の三ノ門には、巨石が巧みに使われていて、二の丸付近では、全体的に石のサイズが大きく、天守台よりも見応えがあります。
投稿者 fujimori : 22:40 | コメント (2)
2007年08月30日 [地域を知る]
小布施4
たまたまネットで、セーラ・マリ・カミングスさんの講演原稿を見る機会がありました。その話の内容は、今、保育教育界にも求められていることがたくさんちりばめられています。その中の言葉を紹介します。
「やると決めたら何事も最後まで投げてはいけない。大胆なことであればあるほど、皆は良いとは言わず、安全で無難な道を選ぼうとするが、今の時代は無難な道ほど危険な道はない。守ろうとすると結局守れないことになる。中途半端に頑張るくらいなら、やめたほうがいい。何でもやる以上は「命をかけて待ったなし、これ以上のところはできないというところまでやるぞ!」という覚悟が必要だ。」

「国際競争の激しい津波の中で溺れてほしくないと願い、今元気があるうちに先に動こう、何とかしようと、危機感を持って私たちは取り組んだ。歴史的に見ても、こうした悪い時代こそ、踏ん張って頑張るべき。良い時は誰でもそこそこできるが、ダウンの時こそ、それをチャンスに変えられる。単に残すとか守るというだけでなく、今の時代に見合った新しい可能性を見出すことによって、新たな広がりができると思う。我々の世代が、次の世代に何を伝えていくか考えることが必要だと思っている。」

「良い点、悪い点をリストアップするとともに、どういう点を変えたら良いのかを挙げるなど、見えないものをできるだけ見える形に変えてみることから始め、理想的な形はどうすればできるのかを考えた。またできない理由が100あっても、できる道が1つでもあれば良いので、No!をGo!に変えるため、まずはできない理由を洗い出した。できる道はその裏返しになるからである。」

「真実を突かれると、人は怒るもの。本当のことを言える会社であることが大事で、皆がイエスマンになってしまったり、レジスタンスになるのもまた動けなくなるから駄目である。」
「昔の方が斬新だったかもしれない。今頑固になっているのも、守りに入っている証拠かもしれない。それならば、もう一度その壁を取っ払って、楽しくしよう。」
「何事も、マイナスをプラスとして考えるなら楽しくなる。将来に価値を加える、あるいはプラスになるように努力することが大事。日本人はもっと社会貢献活動的な気持ちを持つべきだ。そうすれば、ますます日本はおもしろくなると思う。」

こんな人材の中で街づくりに取り組んでいる小布施の町を、駅から栗の散歩道を歩いていると、道端のいたるところにパネルによって絵本のように民話が紹介されていたり、この地域に関係する一茶句碑が町内に二十数基も建立されていますし、北斎漫画の碑が立っています。小布施で一茶は、将軍に献上するまで拾うことさえ許されなかった「お留め栗」を詠んだ「拾はれぬ栗の見事よ大きさよ」や北斎が天井画を描いたといわれる岩松院の池のかえるを詠んだ「痩せ蛙まけるな一茶是にあり」などがあります。

そして、北斎館からその北斎を小布施へ招いた人物であり、佐久間象山など有名な思想家や文人たちと交流した豪商高井鴻山の記念館から岩松院までのんびり歩いていくと、途中は果物王国とも言われるだけあってさまざまな果物畑が広がっています。こんな小布施へ、ぜひいろいろな人にも訪れてほしいと思いますし、町づくりの発想、がんばりを学びたいと思います。
投稿者 fujimori : 21:32 | コメント (4)
2007年08月29日 [地域を知る]
小布施3
小布施の街づくりには地元にある企業がどれだけ地域のことを考え、地域に貢献しようとするかにかかっています。そして、それをサポートする行政がなければなりません。各地の街づくりが成功したポイントは、それらのよい人材がそろったときです。一人ではできませんし、ひとつの企業だけでは出来ません。ここ小布施では、舞台としての小布施町の歴史がありますが、そこでその活動を進める人材がそろっていることが成功の秘訣でもあるようです。中心になったのは、「小布施堂」と「竹風堂」という2店の菓子店です。

市村家では、屋号が「桝一」という江戸時代宝暦年間より営んできた造り酒屋です。明治30年代に、桝一市村酒造場が缶詰技術と工場制の生産方式を導入して栗菓子の製造を始めたのが、小布施堂の前身です。小布施堂の栗菓子は、よくデパートなどで見かけます。大正時代から東京のデパートは、重要な販路のひとつでした。「栗落雁」・「栗羊羹」につづいて「きんとん」の缶詰である「栗鹿ノ子」が創製されました。栗だけで作った栗あんに大粒の栗の実がまざりあったいろどりは、若鹿の斑紋のように見えることから栗鹿ノ子という名前がつけられたと伝えられています。また、「桝一市村酒造場」は、セーラ・マリ・カミングスさんという取締役を迎えて、新しい展開を見せます。アメリカ人である彼女は、日本に留学した後、アメリカの大学を卒業し、再来日して小布施堂に入社します。そこで経営情報室を立ち上げ、利酒師認定を取り、桝一市村酒造場の再構築に取り組みます。1998年には、小布施堂、桝一市村酒造場の取締役就任し、2001年日経ウーマン誌が選ぶ「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002」大賞を受賞しています。私が昼食を食べた「蔵部」という酒蔵の一部を改装して作った和食レストランをプロデュースしています。レストランの中心部には、ご飯が炊かれているかまどが備えられています。彼女は、「とりあえず」や「仕方ない」という言葉を聞くと、「昔から日本人は曖昧な仕事はしない。今の日本人は逃げ道を作って仕事をする。仕方ある仕事を」と話しています。一方、「竹風堂」は、昭和47年に小布施で初めて「栗おこわ」を売り出した店としても知られています。「竹風堂」の栗おこわは、栗と餅米だけという構成ですが、ほのかな甘みの栗とほくほくのおこわが良くマッチしているそうです。また、「竹風堂」では、栗で作ったあんを使用した「栗あんしるこ」や「栗あんみつ」、名物の「栗ようかん」などの甘味類も味わうことができますが、私は暑い日でしたので、もちろん、栗かき氷をいただきました。
そして、地域全体での取り組みには、リーダー的存在が不可欠です。内閣府や国土交通省は各地の観光のリーダーとして大きな役割を果たした「観光カリスマ」に選定しました。この第1陣として選ばれた全国の11人の中に小布施から2名選ばれています。一人は、4期町長を勤めた唐沢彦三さんで、受賞理由は「観光資源の乏しい人口1万人の小布施を、北斎館を中心とした文化と歴史があふれ、年間120万人が訪れる町へと変えた。また、景観整備や花のあるまちづくりなど、住民が主役となって進めるまちづくり運動を成功させた。」とあり、もう一人の市村良三さんは、大学卒業後ソニーに入社し、その後小布施堂に入社し副社長で、2005年から町長をしています。実績として「民間のまちづくり会社「ア・ラ・小布施」を立ち上げ、住民の町おこし運動の中心人物として、栗どっこ市や国際音楽祭など、さまざまな企画イベントや事業を成功させるなど、小布施の名を全国的に高めた。」とあります。
投稿者 fujimori : 23:05 | コメント (2)
2007年08月28日 [地域を知る]
小布施2
私は昔から「小布施」といえば「栗」というように、長野からのお土産に小布施の「栗羊羹」とか「栗かのこ」とか「栗落雁」をよくもらいました。どうしてここに栗の木が植えられているかというと、諸説があるようです。一説には、「高井郡小布施村次第」に書かれていることによると「申伝事」として、弘法大使が諸国を巡っての途次、小布施へこられて三個の栗を蒔いたのがそもそもの始まりと伝えています。また、小布施の栗以外に栗というと丹波栗も思い出しますが、萩野常倫という人が、父祖の領地丹波国から栗を取り寄せて、松川の治水のために植えたさせたのが発祥とも伝えています。どのようないきさつかは定かではないようですが、この小布施の町おこしをするときに、この「栗」をテーマにしようと思うのは当然でしょう。
昭和61年に、この「栗」と「歴史的建造物」と「地域の特性」を活かしたまちづくりを進めていったのです。そのために重要な歴史的建造物の保存、新築建物の周辺との調和、土地は売買せず賃貸か交換することとされ、町・事業者・個人など関係者5者により協定を結び整備を行った「ユウ然楼周辺町並修景事業」は、画一的な都市再開発の手法とは異なり「小布施方式」とまで言われ全国的に高い評価を受けました。その方法は、それぞれの整備に要した経費はそれぞれの負担で行うなど、住民と町がお互いに責任を分担しあうような対等な立場で進めるやり方です。とかく、誰かに依存したり、誰かがやってくれるのを待っていたり、要求したりすることが多い中、とても参考になります。ここで決められた「小布施町うるおいのある美しいまちづくり条例」は、規制を目的としたものではなく、官・民が共に協力しあって良いまちづくりを進めることを基本理念としています。その基本理念 「外はみんなのもの、内は自分達のもの。」ということで、個人の敷地内であっても、通り沿いや通りから見える部分については公共的な空間として、周囲の景観に配慮した整備を行うこととしています。そのひとつの試みが、建造物の間の道に敷き詰められた栗の木煉瓦の散歩道「栗の小径」です。路地にいたるまで、様々にデザインされた栗の道は、歩いていても心地よく、歴史的な建造物によくマッチしています。

もうひとつの試みが、平成12年からスタートした「オープンガーデン」です。これは、「点」から「線」へ、「線」から「面」への取り組みでもあります。個人の庭園を一般に公開し、来訪者との交流を楽しむもので、今、参加家庭は、60軒以上にもなっているそうです。
町を歩いているときに、観光客がその参加プレートを見つけると、その庭に勝手に入っていき、もし、そこに住人がいればお茶を飲んだり話をしたりしていいそうです。私が訪れた家は誰もいませんでしたが、庭はきれいに整備されていました。この試みの後、周囲の景観との調和と美しい町並づくりのための指針「環境デザイン協力基準」を定めるとともに、「住まいづくりマニュアル」などを作成するなかで、「外はみんなのもの、内は自分たちのもの」という意識が住民の間に芽生え、住宅の配置、外観への配慮、さらには通りを行き交う人に安らぎを与える花壇や生け垣づくりなどに発展していきました。この取り組みが、昨年の土木学会のデザイン大賞を受賞しています。

私が以前ブログに書いた高知の「牧野富太郎記念館」も同年大賞を受賞しています。保育園、幼稚園を含めて「オープンガーデン」のような「オープンキンダーガーデン」が取り組めたら面白いですね。
投稿者 fujimori : 22:47 | コメント (3)
2007年08月27日 [地域を知る]
小布施1
私はよくいろいろな地方を訪れることが多いのですが、地方分権といわれながら、地方において過疎化も急激に進んでいます。駅前商店街はシャッター街に変わり、それでいながら、突然と畑の真ん中に大きなショッピングモールが出来ていることがあります。住民一人ひとりはそれで便利になるのかもしれません。しかし、その町の将来を長い眼で見たときに、それまで築いて来た住民のつながり、伝えてきた歴史、これから次世代の子どもたちに残していかなければならない文化、そんなことをもう一度見つめ直して街づくりをしていって欲しいと思います。こんな試みに取り組んでいる地域がいろいろなところに生まれ始めています。そんな町を応援したいですね。このような取り組みのひとつに、平成17年に創設された「東京理科大学・小布施町まちづくり研究所」があります。この取り組みに対しての紹介に中で、今までの街づくりをこう分析しています。「明治の維新と文明開化以降、日本各地のまちは、近世までに形成された良好で個性豊かな仕組みや景観を壊し、欧米の建築と都市の姿を模して「モダンに、モダンに」という掛け声とともに、雑然とした家並みをつくってきました。 欧米や国内の大都市の繁華街から「最新の店舗デザイン」を取り入れて家並みをつくる動きは、第二次世界大戦後も、高度経済成長・バブル経済の大波とともに何度も、日本各地を襲います。日本中のまちが、ラスベガス風、パリ風、あるいは東京の銀座風などのスタイルを取り入れた建て替えを進め、結果として、どこも同じような商店街をつくり上げました。」私が今までいた園が立っている多摩ニュータウンは、商店街だけでなく、住むところもみんな同じような建物、同じような公園、同じような生活スタイルを構成してきますた。同時に、子どもたちへの教育も、みんな同じようになることを目指し、親も同じようにすることを望み、要求するようになって来ました。その結果、「自立して生活環境をつくっていく意欲を失い、住民もまた、まちづくりは行政や専門家にまかせるものと思い込む。」つくづくと、街づくりと人づくりは似ている思いがしてきます。ですから、町の再生は、人の再生にもつながるのです。何度もブログで私が「町おこし」を紹介するのも、そんな思いがあるからです。そして、その手法はとても人づくりにも参考になることが多くあります。今回講演のついでに、日曜日に訪れた小布施の歩んだ道は、他の地域が歩んできた道とはちょっと違うようで、その取り組みに対する評価が、今高まり、その理念は注目されています。
その歩みをさらに力強いものにするために、多くの住民が参加意識を持ち、広い視野で考え知恵を出し合って合意形成しながら、慎重に、着実に行動を起こすことが必要となってきます。そのひとつと試みとして、教育と研究の新しい場の形成のため、学校法人東京理科大学と町と協働していくための研究所を作ったようです。が設立されました。まず、第一に行ったことは、歴史的建築に限らず路地や水路なども含めて、町内全域に残されている様々な歴史的遺構を実測して現状を正確に把握することです。その次に行ったのは、住民や行政の人たちへのインタビュー・アンケート調査です。過去の記憶、現状に対する考え、そして未来への希望などを調べ、まちづくりの基礎データを作ります。そのデータを分類し、統計をとり、分布図などを作成します。この分類・統計・分布図は、その町の景観・印象がどのような「要素」によって構成されているかを浮かび上がらせます。このような具体的なデータがあることによって、「○○らしさ」を議論することが可能になるわけです。また、「要素」は今後のまちづくりの素材でもあって、「どの素材を使って、どこから始めるか」など、まちづくりの手順を具体的に決めていくことができるようになるのです。
投稿者 fujimori : 21:27 | コメント (2)
2007年08月26日 [近頃思うこと]
かき氷
暑い夏を涼しくするものといえば、「お化け屋敷」だけではありません。ついでに言っておきますが、ブログでお化け屋敷のことを書いたときに私がそこに入らなかったのは、何もお化けが怖いからではありません。私は、いわゆる日本のお化けは怖くありません。大体日本のお化けは、西洋のお化けのように不特定多数を襲うのではなく、怨念から特定の人に化けて出ることが多く、他に人には特に危害を加えないイメージがあります。私は余り人から恨まれるようなことはしていない思いがあるので、誰かが化けて出て、私に危害を加えるという気がしないからです。ですから、夜、一人で部屋にいようが、夜、人気のいない校舎を歩こうが余り怖くはありませし、夢の中で怖さでうなされることはありません。(ただ、試験が出来ないとか、遅刻してしまうとか、試験が近づいて何も準備していないとかでうなされることは多いのですが)ん。ただ、実際の犯罪者などに襲われる恐れがある場合は怖いと思いますので、かえって、人ごみとか、誰かがいるときのほうに恐怖を感じることがあります。話はそれましたが、夏の暑いときに涼しくするものとして「かき氷」があります。
私は、かき氷好きです。休みの日にウオーキングをしているとき、途中で無性にかき氷が食べたくなり、途中から、その店を探して歩き回る感じになります。しかし、場所によってかき氷の店が集中しているところと、まったくないところがあるので、店を探すのが大変です。私のこだわりは、やはり氷のキメの細かさです。じゃりじゃりしていたり、大きな氷の塊が入っているようですと興ざめです。これは、かき氷を作るときの機械と、掻く氷の形によります。古くは鋳物のフレームに大きな手回しハンドルが本体横に付いたものが主流でした。その後、氷をモーターで回転させるようになりました。このどちらも氷は、氷商に重さ一貫(約3.75キロ)の角氷と言われるブロックアイスを使います。よい角氷は、長い時間をかけて空気を抜きながら凍らせたものです。天然氷のように冬の間に暴露で凍らせておき需要があるまで氷室でストックしておいたものを使うこともありますが、最近は、そんな生産者は減ってきているようです。近年は、小型で高性能ながらアイスストッカー付きのキューブアイス用製氷機が出回ってきたことや各種電化製品の普及により、氷はブロックアイスからキューブアイスに移ってきています。このかき氷は、史実上の記録は平安時代に清少納言の『枕草子』「あてなるもの」の段に、金属製の器に氷を刃物で削った削り氷(けずりひ)に蔓草の一種である甘葛(あまかづら・あまづら、蔦の樹液または甘茶蔓の茎の汁と思われる)をかけたとして「削り氷にあまづら入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」と記述されています。こだわるの氷の質だけでなく、そこにかけられるシロップの質もあります。八王子の園の近くにある氷やさんのかき氷はとても私好みです。氷の質はもちろん、シロップがとてもおいしいのです。たとえばイチゴ氷の場合は、本物のイチゴを煮て、まだ少し形が残っているくらいのイチゴジャムをかけます。抹茶氷も、本物の抹茶をといたものを使います。色だけをつけたようなシロップはなんだか合成着色料を食べているような気になります。そして、次に、そのシロップのかけ方があります。例えば、大阪では氷の上にタレをからめる手法が普通ですが、東京ではタレを先に入れて氷を上からかけます。東北ではタレの上に氷、そしてさらにその上にタレでサンドするといわれますが、やはり店によるのでしょう。園の近くでは、別の容器に入れて持ってきて、自分でかけます。そろそろ氷の季節が終わるのは少しさびしい気がします。
投稿者 fujimori : 21:36 | コメント (3)
2007年08月25日 [地域を知る]
見附
私は、高校に通学するのに「赤坂見附」の駅で降りていました。なんとなく、当然のようにその駅を利用していたのですが、たまたま以前この近くを散歩していたところ、「赤坂見附跡」という指標を見つけました。
当然ですが、ここに赤坂見附があったのです。見附は、江戸時代、枡形をもつ城門の外側の門で、見張りの者が置かれ通行人を監視した所です。枡形とは、直角に設けられた二つの城門と城壁とで囲まれた四角い空き地のことを言い、敵の直進をさまたげ、勢いを鈍らせる効果があるといわれています。江戸城には、内郭・外郭の城門を含めて俗に36見附と呼ばれていました。しかし、実際は50とも90とも言われるこの見附は数が多いということで通称36見附といわれたようです。よく言われるものに、赤坂見附のほか、喰違見附・四ツ谷見附・市ヶ谷見附・牛込見附・日比谷見附そして、浅草見附等々があります。紀尾井坂を登ると左にホテルニューオータニの正面玄関があり、それを過ぎると正面に石垣があり道はT字路になっています。この左に下るところが喰違見附跡です。喰違門跡を通り抜け、外堀方向へ行くと左眼下に弁慶濠が見え、そこには弁慶橋が架かっています。
この弁慶濠は、ボートが浮かんでいます。高校1年生のとき美術の時間に私のそこを写生した絵が、しばらく校長室に飾られていました。私の出身高校はとても自由で、美術の時間は、200分間、自分の好きなことを好きな場所でやってよいということで、私は写生をしたのですが、模型を作っていた人もいたり、室内でデッサンをしたりしていた人がいました。ここから少し行くと、赤坂見附交差点が見えます。赤坂見附は寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、枡形石垣が作られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直、小川安則によって門が完成しました。堀からの石垣は高く、当時の技術の高さが分かります。江戸時代の赤坂御門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。明治時代に門は撤去され、石垣も大部分が撤廃されましが、現在は一部が復元され、保存されています。また、JR四ツ谷駅の市ヶ谷方向口を出たところに四ツ谷見附跡があります。そして、JR総武線が走っている上を「四谷見附橋」が架かっています。この橋が広げられるときに橋梁が貴重ということで保存しようという運動の末、移築保存されているのが何度もブログに登場した多摩ニュータウンの「長池見附橋」です。
この橋のほとりにある園にこの3月まで勤務していたからです。四ツ谷見附跡から、JRに沿って土手を市ヶ谷のほうに歩いていくと、市ヶ谷駅に出ます。そして、靖国通りの横断歩道を渡ると見附交番があり、その裏側の公園の入り口に市ヶ谷見附跡があります。 更に土手を歩いていくと、右手に法政大学が見えてきます。そして、もう少し行った飯田橋駅の市ヶ谷寄り駅前交差点のはす向かいに、牛込見附の説明パネルがあります。江戸時代の牛込見附は田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。その後、明治35年に石垣の大部分が撤去されましたが、現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。四谷から飯田橋にかけて大学から、怪談、そして見附など歴史を偲ぶいろいろなものが碑として残されています。テーマを決めて歩くのもいいですね。
投稿者 fujimori : 20:34 | コメント (2)
2007年08月24日 [近頃思うこと]
情報の確かさ
Gooベビーの記事にこんなことが書かれていました。「少し前までは、早期教育といえばごく一部の熱心な親が、わが子に芸術や運動の分野において早くから一点集中型の徹底した指導を行うことを指していました。しかし今では早期教育イコール早期の教科教育であり、もっと換言すれば赤ちゃんあるいは胎児のうちから数学と英語(国語、ではない)を教えること、になりつつあります。これは地域を超えた、一種世界的な流行のようです。」
こんな記事が流れると、親たちはあせるでしょうね。確かに以前のブログで書きましたが、ドイツなども英語教育とか数学教育が盛んになってきています。そして、OECDなどでもプレスクールの必要性を謳っています。しかし、ここにはこう書かれています。「乳幼児教育及び小学校システムの両者においてより統一された学習方法が採用されるべきであり、また就学児童が直面する移行課題に注目すべきだ、と調査研究は提案する。より統一された方法の探究は、異なった政策選択をもたらした。フランス語や英語圏は「学校準備」方法を採用した。この方法は、広範囲に規定されているが、乳幼児年齢での認知発達訓練と、広範囲な知識・技術・気質の獲得に焦点をあてている。この方法に内在する欠点は、児童の心理と自然学習方策にあまり相応しくないプログラムと方法を使っていることだ。社会教育伝統を内在する国々(北部・中部ヨーロッパ諸国)では、就園年齢は人生に対する幅広い準備と生涯学習の基礎段階とみなされている。子どもの移行を容易にすることは全てのシステムで政策課題となっている。子どもの移行は一般的に成長発達への刺激となるが、突然であったり、安易に扱われたりすると、とくに児童にとっては退行や失敗の危険性を帯びることになる。」いわゆる早期教育の危険性を世界では訴えているのです。この危険性について「子どもの脳の発達 臨界期・敏感期」(榊原洋一著 講談社+α新書)でも同じようなことが脳科学的にも書かれています。「早期教育の実態について、文部科学省などが行った調査研究では、事例報告として、早期教育を厳しく行ったために情緒障害を起こしてしまった子どもがいることが報告されている。最近、日本と同じく早期教育が盛んな韓国から、早期教育が子どもの発達に及ぼす弊害の可能性について報告が出されている。早期教育が子どもの発達に及ぼす弊害の可能性には二つの種類がある。ひとつは、過激な刺激が、もともと刺激に敏感な乳幼児の脳のオーバーフローとなってしまうという可能性だ。臨界期に過剰な刺激が加わると、脳の発達のプログラムが障害される可能性がある。一部の早期教育は、休まずに乳幼児に刺激を与え続けることを進めている。そうした早期教育を受けた子どもたちが、将来刺激のオーバーロードによる何らかの障害を呈さないかどうか、きちんと検証する必要がある。もう一つは、早期教育への過度の期待が、子どもに大きな身体的・精神的ストレスを与えてしまう可能性である。親子の愛着関係が重要な磁気に、厳しい訓練や練習を強制された子どもたちの中に、情緒障害を引き起こしてしまった例はすでにある。また、早期教育への過剰な期待が、親子の関係に影を落とすこともある。」最近は、このような研究があり、世界的にもこのような傾向にあるはずですが、どうして冒頭のような記事になるのでしょうか。人々は、情報をある一部分のところから得ます。そして、それがあたかも正しいかのように思います。情報を発信するところは、もっと慎重に、責任を持って出してほしいものです。
投稿者 fujimori : 23:30 | コメント (2)
2007年08月23日 [近頃思うこと]
怪談
暑い暑いといいながらも、時折吹く風の冷たさに驚くことがあります。しかし、先週の日曜日は暑かったですね。ということで、ドイツから来ていたお客さんを、涼しいところに連れて行ってあげました。そこは、浅草花やしきの「お化け屋敷」です。(もちろん、私は入りませんでした)
この時期、各地でそれぞれ趣向を凝らした「お化け屋敷」があるようです。それでもだいぶ以前より少なくなりましたが。お化け屋敷にも大きく西洋系と東洋系がありますし、古典的なものと現代的なものがあります。外国では、「ゾンビ」とか「エイリアン」とかホラー系で、東京ディズニーランドなどの「ホーンテッドマンション」などもそうですね。また、最近のものとしては、「リング」とか「呪怨」のように映画とのタイアップのものも見られます。日本独特のものといえば、妖怪ものや、寺や夜の校舎を舞台としたもの、作家の「水木しげる」や「楳図かずお」ものもあります。そういう怪談ものの映画の新作がまた公開されるようです。落語や歌舞伎の人気演目「真景累か淵」で、原作を初代三遊亭圓朝が書いています。圓朝は、落語家と称しても、「お笑い」の分野より、自ら創作した噺、講談に近い分野で独自の世界を築いています。当時、日本に導入された速記法により記録された文章は新聞で連載され人気を博しました。この文章は、作家二葉亭四迷に影響を与え、有名な「浮雲」を口語体(言文一致体)で書いて文壇に衝撃を与えたのです。また圓朝は、海外文学作品の翻案にも取り組んでいます。彼の有名なものには、「牡丹燈籠」「四谷怪談」「真景累ヶ淵」など怪談ものなど多数の自作演目を創作しました。派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博します。しかし、こんな負けじ魂があるのです。彼の作品に創作が多いのは、師匠に援助出演を頼まれて、その講座のために準備していた演目を、先にかける仕打ちを受けたのを機に、「人のする話は決してなすまじ」と心に決めたのです。以降、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開きました。その中にもある「四谷怪談」「皿屋敷」「牡丹灯籠」の三話は日本三大怪談とされています。今回、お化け屋敷に招待?した(もちろん、私は入りませんでした)手前、古典的な怪談を知っているかと聞いたところ、やはり若い人は知らないようです。前日連れて行った「東京江戸博物館」に行ったときに、歌舞伎の四谷怪談の仕掛け舞台の模型があり、舞台裏を見ることができるようになっていました。四谷怪談とは、元禄時代に起きた事件を元に創作されたもので、東京都四谷が舞台となっているためにこの名がついています。「東海道四谷怪談」は、4世鶴屋南北作の歌舞伎狂言で、代表的な生世話狂言であり、怪談狂言、夏狂言です。舞台裏が見えるようになっていた場面は有名な舞台面で、「岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き、悶え死ぬところ」と、「岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚くところ」と、「蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に取り殺される場」です。この場面を思い起こすだけでも背筋が寒くなる思いです。私が子どものころ、髪を振り乱して変な顔をして「お岩さん!」などと叫んだり、冷やかしたりしていました。今度、残暑厳しい夜、三大怪談のあらすじでも書いてみます。部屋で一人で声を出して読んでみると、少しは涼しくなるかもしれません。
投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (2)
2007年08月22日 [地域を知る]
大学発祥
私の住んでいる八王子市は、その周辺部も含め、23の大学・短期大学・高専があり、11万人を超える学生が学んでいる全国でも有数の学園都市です。ですから、いろいろな地域の人から、学生時代に八王子市に住んでいたことがあるとか、息子さん、娘さんが今八王子市に住んでいるとか言われます。そんな町を学園都市と今は言うのですが、私の学生のころは、「学生街」と呼んでいました。その中心は、神田駿河台地区あたりで、ここは日本国内で最も大学が集中している地区でもありました。明治時代に千代田区神田駿河台へ学問所が集積した名残から「神田駿河台学生街」と呼んでいたのです。昌平坂学問所などもありましたね。この地区には「日本のカルチェラタン」という別名もあります。カルチェラタン Quartier latinとはパリ大学(ソルボンヌ)あたりのことを指します。「ラテン語がよく喋られる町の一角」という意味ですが、なぜそう呼ばれたかというと、かつての西欧では学問はラテン語で行われるのが基本だったからです。神田駿河台あたりには、今は八王子市に移転しましたが、かつては中央大学もあり、一方で、大学の医学部や付属病院、および一般の市中病院が多く立地しており、医療地区でもあります。このような山の手の医療集中地区を、英語ではPill Hillというそうです。それよりもっと以前は、どうも飯田橋あたりが発祥の地のようです。このあたりには、「○○大学発祥の地」という碑が何本か立っています。その碑には、そのいきさつが書かれています。

東京女子医科大学:吉岡彌生は明治33年(1900)12月5日、この地にあった至誠医院のなかに東京女医学校を創立しました。翌34年4月、同校は牛込区市ケ谷仲之町に移転。のちに市ケ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。吉岡彌生の至誠医院は明治41年(1908)に旧飯田町四丁目31番地に移り、関東大震災までありました。
日本大学:明治22年(1889)、ここ皇典講究所内に維新の志士、吉田松陰門下、時の司法大臣である山田顕義により日本法律学校が創立されました。これは、日本大学の前身にあたります。明治28年(1895)に三崎町に移りました。

東京農業大学:明治24年(1891)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の前身育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治25年(1892)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農場用地取得のため大塚窪町に移転しました。
東京都府立第四中学校:明治34年(1901)、東京府立第四中学校が、この地にありました。同所は明治15年(1882)に国学を研究する目的で設けられたもので、明治21年(1888)に同じ地内に開設された補充中学校が、共立中学校、東京府城北尋常中学校と名を変えて府立第四中学校となったものです。その後、府立四中は明治37年(1904)に市ケ谷加賀町に移転し、戦後は新宿区戸山町に移り東京都立戸山高等学校となっています。

國學院大學:明治15年(1882)、この地、旧飯田町5丁目に国学を研究する皇典講究所が設けられました。明治23年(1890)、皇典講究所を母体として、所長山田顕義によって國學院が開校しました。現在の國學院大學です。大正12年(1923)、渋谷に移りました。
それぞれの大学の発祥は歴史的にも面白いものがありそうで、今度調べてみたいと思います。
投稿者 fujimori : 21:43 | コメント (2)
2007年08月21日 [地域を知る]
徽章業
私の出身高校では、体育祭・合唱祭・文化祭の三つを合わせて「三大行事」とされています。体育祭、文化祭はどこでも行われますが、合唱祭もとても力の入った行事です。私が在籍していたのはかなり昔なので、最近はよく知りませんが、どうもますます盛んのようです。この合唱祭は、課題曲は設定せず、クラスごとに選曲し、全クラス参加の混声合唱コンクール形式による行事です。審査は、特別審査員6名とクラスから選出された審査員24名により行われ、その合計得点により順位がつけられます。最近の特別審査員には、本校を卒業した旗照夫さんもいるようです。また、「城ヶ島の雨」(作詞北原白秋)、「どんぐりころころ」等を作曲した本校の元音楽科教諭である梁田貞氏を讃えて制定された「梁田賞」というのもあります。この合唱祭の時期が近づくと、教室内とか、廊下などで練習をしている姿や歌声が聞こえてきました。私のころは、クラスは自分たちで決めるために、そのクラスの特徴が出ます。ですから、合唱が好きなクラスでは、合唱祭に関係なく、常に歌声がクラスから聞こえてきました。そして、この合唱祭は、5月の体育大会が終了後から合唱祭委員会の企画で準備が進められます。私が高校1年生のとき、学園紛争と呼ばれていた活動が盛んになり、生徒会が解散し、2、3年生がみんな降りてしまいました。そこで、1年生でしたが、私のクラスから行政委員長が選出され、彼から私は文化委員長にならないかという依頼を受けました。そして、何もわからないまま文化委員長を務めることになったのです。そのころ、この文化委員は「合唱祭」を企画、運営をしていました。私の高校は、当時とても自由で、すべて生徒に任せ、自立を謳っていましたので、この学校行事である「合唱祭」であっても、何も教師は手伝ってくれません。そのころの会場は、校内の講堂でしたが、そこを使うのでも学校に「使用許可願い」を届けなければならないのです。ですから、合唱祭当日だけでなく練習日なども計画して、その予定表を学校側に提出し使用しました。また、審査員も、当時誰に委員長を頼んだか忘れてしまいましたが、それぞれに頼みに行った気がします。また、入賞したクラスに渡す賞状だけでなく、トロフィーも買いに行った記憶があります。このトロフィーを売っている店が並んでいる地域があります。それは、飯田橋あたりです。ここに、「徽章業発祥の地」という碑が建てられています。
明治18年(1885)、鈴木梅吉さんという人が、洋行帰りのある人物から、小学校の卒業生にメダルを贈ることを相談され、メダルの原型彫刻に関心を持つ彫刻家と組んで、工場どころか機械もまったくない環境で、手打ち式原型で片面ずつ打って貼り合わせたメダルを苦心惨憺作り上げます。すでに大阪の造幣局にはプレス機が導入されていたそうですが、民間ではまだまだ原型打ちといってもすべて手作業という時代でした。これを機に、日本帝国徽章商会という民間の徽章業を創業し、明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として栄えました。現在も、このあたりには徽章業に従事する人が沢山います。


これらの技術は、安土桃山時代の飾り金具・貴金属加工職人から受け継がれ、勲章の分野に貢献し、メダル、バッチなどの製作、昭和に入って貴金属装身具の紳士用ネクタイピン・カフスボタン、婦人用ブローチ・ネックレスなどを製作しています。戦争中は、非鉄金属の使用を禁じられ、一部の製品を除いて軍需品関係の製造工場として転換を余儀なくされましたが、終戦後、バッチ、メダル、トロフィーなどの徽章業として復活しています。徽章業にも歴史があるのですね。
投稿者 fujimori : 22:20 | コメント (2)
2007年08月20日 [旅先にて]
風林火山
先日の新宿区報に、新宿区長さんが、8月4日の伊那市の夏を彩る最大のイベント「伊那まつり」に参加したことが掲載されていました。この祭りのオープニングで、「武田軍来撃伊那九将参陣」の仮装をしてパレードをしたのですが、区長さんは、諏訪の「由布姫」の仮装をして歩きました。今、NHK大河ドラマの「風林火山」の中の由布姫が中心人物の一人として描かれています。どうして、区長さんが由布姫に扮したかというと、以前のブログで書きましたが、内藤新宿の縁で友好提携都市として交流を重ねてきた高遠町が、昨年3月伊那市と合併したことにより、新たに新伊那市と広がりを持った交流をすすめているのです。私も、毎年、妻と出かけるときのテーマのひとつにNHKの大河ドラマにゆかりの地を訪ねるということをしています。昨年は、山内一豊つながりでしたが、今年は、山本勘助つながりの地を訪ねています。昨年、高遠を訪れたときはそれを意識したわけではありませんでしたが、この地は、新宿とのつながりだけではなく、それ以前に山本勘助としてのつながりも強い地です。もともと高遠は諏訪一族の高遠氏が治めていましたが、高遠氏は諏訪家当主の座をねらい、信玄と結んで諏訪氏を滅ぼします。しかし、諏訪の領有をめぐり、今度は高遠と武田が対立し、信玄は杖突峠を越えて高遠に攻め入り、高遠氏は自ら城を出て行き、高遠は信玄の領地となります。高遠城を奪った後、武田信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、山本勘助、秋山信友に命じて大規模な改築を行い、秋山信友らを城主とします。1562年には諏訪勝頼が城主となりますが、信玄は勝頼を自分の後継者として躑躅ヶ崎館に置き、実弟の武田信廉を城主とします。
この、よくテレビでも登場しますが、その跡には、武田神社が建てられています。
ここも訪れてみました。帰りには、信玄の墓所にも寄って、墓参りをしました。
しかし、NHK大河ドラマの撮影に使われている躑躅ヶ崎館は、山梨北部の北杜市にある「風林火山館」で、ここにも行ってみました。
そこには主殿や大手門、櫓や厩などがつくられていますが、やはり迫力には欠けます。話はそれましたが、信玄の死後9年、高遠城は織田信長の大軍に攻め落とされ、武田家が滅びます。ところで由布姫は、諏訪頼重の娘で、武田信玄の側室、のちに武田氏の継承者となる四男・武田勝頼の母親ですが、史実の中では実名は不明とされ、「諏訪御料人」と呼ばれていました。それを、大河ドラマ「風林火山」の原作でもある井上靖の小説では「由布姫(ゆうひめ)」、また、大河ドラマ「武田信玄」の原作でもある新田次郎の小説では「湖衣姫(こいひめ)」と呼ばれています。「由布姫」と命名したのは、井上靖が「風林火山」を大分の由布院で執筆していたからといわれていますし、「湖衣姫」は諏訪湖をイメージしているといわれています。諏訪湖にその像が建っています。
亡くなったのは早く、弘治元年とも、天文23年(1554年)とも言われています。墓所は長野県伊那市高遠町の高遠城の側にある建福寺にあり、由布姫のものと伝わる位牌が安置されています。長野県岡谷市の小坂観音院にある墓は、井上靖の『風林火山』で由布姫が過ごしそこで死去したという設定により、現代になってから建てられた物だそうです。歴史小説は、史実として読むよりも、ひとつのロマンとして感じるものです。そして、その歴史上の人物の生き方から、さまざまな人生を感じ、自分としての生き方を見直すきっかけともなりますね。
投稿者 fujimori : 23:30 | コメント (3)
2007年08月19日 [新聞記事より]
本能寺
今年の8月7日の 読売新聞に、こんな記事が掲載されていました。「焼けた?瓦出土、本能寺の変「史実を裏付ける貴重な発見」戦国武将、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」(1582年)で焼けたとみられる大量の瓦や、寺の堀跡、石垣などが京都市中京区の旧本能寺跡で見つかった。本能寺の変を巡る遺物、遺構が発見されたのは初めてで、発掘した民間調査機関「関西文化財調査会」は「史実を裏付ける貴重な発見」としている。」本能寺の変で焼けた瓦が出てきたということですが、実は、この本能寺は、なんども消失しているのです。もともと本能寺は、「本応寺」という寺号で、室町時代の1415年、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものですが、日隆は、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移りました。そして、1429年、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、さらに1433年、如意王丸から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めたのです。しかし、1536年、比叡山との教義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難しました。その後、1582年6月21日、ここで信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され自刃する事件が起き堂宇を焼失したのが、本能寺の変です。まだまだ災難にあいます。1788年の天明の大火によって、1864年の禁門の変(蛤御門の変)によって堂宇を焼失しています。現在の本能寺は区画整理によって京都市役所に近い、寺町通り商店街のすぐ横にひっそりと建っています。
しかし、写真のとおり、本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられているのは、本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれているのです。
ところで、本能寺の変のとき、信長は幸若舞の「敦盛」を愛誦し、死に臨んでもくちずさんだといわれています。幸若舞「敦盛」は、源氏の武将熊谷次郎直実が平家の若武者平敦盛の首を討つという物語で、幸若舞太夫が物語を語りながら舞うものが幸若舞です。「思えば此の世は常の住みかにあらず、草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立って無常の風に誘わるる。南桜の月をもてあそぶ輩も、月に先立って有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者の有るべきか。是を菩提の種と思い定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと定め、・・・」これが、織田信長が舞った越前の幸若舞「敦盛」の曲の一部分です。「人間五十年、下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり。一度生をうけ、滅せぬもののあるべきか」人間の一生など世の他のものに比べればはかないものだ。これは人の寿命がたった五十年という意味でなく、下天(天界の最下層)では一日が人間世界で五十年に相当するという意味で、「一度生をうけ、滅せぬもののあるべきか。命あるものは全てかならず滅びる運命にあるものだ」ということで、「人の世界など天界感覚から一日程度のことなんだ」とは、ずいぶんポジティブな考えかたです。これに比べて明智光秀は「順逆二門無し… 五十五年の夢 覚め来て一元に帰す」(人の道は反逆も従順もない。55年の生涯も夢が覚めるように終わり本来に帰るだけだ)という辞世をのこしました。
投稿者 fujimori : 21:50 | コメント (2)
2007年08月18日 [近頃思うこと]
山の地図
ハイキングに行くときとか、登山をするときに、まず用意するものが地図です。国土地理院の25000分の1の縮尺のものや50000分の1の縮尺の地図を本屋で購入します。私の場合は、多くの場合、神田神保町の三省堂書店で買い求めました。地図でルートを探しつつ歩く場合は25000分の1の縮尺のもの、アルプスの縦走の様に道ははっきりしていて、広範囲の全体感をつかみたい場合は50000分の1の縮尺のものを使います。50000分の1の縮尺では2cmが実際の1kmにあたりますし、25000分の1の縮尺では、4cmが1kmになります。地図を買ってくると、まず、その地図を持ち歩きやすく、見やすいように折ります。その地図の折り方にはいくつかあるようです。一般的な地図の折り方は、「屏風式8つ折り」というものです。市販の山と高原地図などもこのようなたたみ方がなされています。私がよく折っていた方法は、まず、裏面から四隅を枠線に少しかかる程度に直角に折ります。そして、表から見て枠線が見えない程度に余白の辺を折ります。そうすることによって、隣の地図と突き合わせしたときに等高線が連続して見やすくなります。それを表にして、真ん中から二つに折り、さらに真ん中から二つに折ります。このときに、真ん中の折り目がやや内側に入るように折ると、地図を開く時に、開きやすくなります。そして、同様に反対側へ、横方向に3分の1に折り、左側からも折ります。こうやって折ると、縦方向に4分割、横方向に3分割のサイズになります。この大きさが入るビニールの地図ケースを売っていました。雨や、汗でぬれないようにです。今はどうかわかりませんが、雨にぬれないようにビニールコーティングした地図も売っていました。この地図は、急に雨に降られた時に、頭にかぶれると歌い文句にありました。最近は、どんな地図があるのでしょうね。折り方にしても、最近は、「三浦折り」と呼ばれている折り方があります。1976年に三浦公亮さん(当時、東大宇宙航空研究所)が日本国際地図学会で発表した、両端を引っ張るだけで地図の開閉がワンタッチで出来る折り方です。人工衛星の伸展機構などに応用され、この"Miura Folding"は、世界にも誇れるものです。地図を平行四辺形の形に罫書き、折りぐせをつける方法で、折りぐせをつけるために厚紙などで定規を作る必要がありますが、一瞬にして広がり、たたむのも瞬く間、という簡単便利なものです。神保町にある「輸入地図専門店 マップハウス」では、地図を選ぶ上での簡単なヒントをまとめています。「書籍のように何ページもある「地図帳」スタイルのものは、通常、タイトルに「Atlas(アトラス)」「地図帳」「地図冊」などの言葉が入っており、それ以外のものは、大きな紙に描かれた1枚ものの地図です。点数的には、圧倒的に1枚ものの地図の方が、多く発行されています。「1枚もの」の地図の中には、折り目が入ったものと、そうでないものがあります。たとえば、お部屋のインテリアに地図を探している、という場合には、折り目のない「巻き地図」が適します。」「どういう色分けがされているか、というのは、世界地図を選ぶ上では重要なポイントの1つです。平野は緑色で、山地は茶色でという風に、自然地形で色分けしたものを「地勢」、国別で色分けしたものを「行政」といい、地図の雰囲気や情報が、かなり違ってきます。」「道路地図、ツーリストマップという様なものの多くは、土地の高低をぼかしや色の変化で表現してあり、まれに全く地形表現が入っていないものもありますが、「地形図」と呼ばれる地図には、まず等高線が入っています。」ネットだけでなく、たまには実際の紙の地図を眺めるのもいいですね。
投稿者 fujimori : 20:09 | コメント (3)
2007年08月17日 [近頃思うこと]
表銀座2
3泊目をした常念岳は、下の安曇野から眺めると、雄大な北アルプスの山並みの中でもその美しいピラミダルの山容はひときわ目を引きます。山肌に現れる「常念坊」の雪形は、昔から安曇野の人々に春の訪れを告げる目安として親しまれて来ました。宿泊先の常念小屋の屋根の上からも槍の穂先が見えるはずですが、翌朝はものすごい天候でした。台風が来ているようで、下のほうは水がついていて、下山できそうもありません。そこで、もう一晩その山荘に泊まることにしました。この登山は、中学時代の美術の恩師と、中学高校と同級生の友人と3人で行ったものです。山の天気はとても怖く、急変します。ですから、大丈夫だと思っても、突然視界はゼロ、気温も下がってきます。あきらめる勇気も必要です。しかし、逆に突然と天気がよくなることもあります。次の日は、天気はよくなっていました。常念岳山頂からの眺めは、上高地の谷間をこえて、遠くに穂高連峰左から前穂、奥穂、北奥や槍がよく見えます。今度は、槍から常念を見たいものだと思いました。(これは翌年実行しました。)常念岳を下山し、蝶ヶ岳に向かう山道は、樹林帯で、振り返ると、その間から常念岳が見え隠れします。そして、蝶ケ岳ヒュッテに到着しました。蝶ヶ岳は、標高2664mで、常念山脈に属し、ハイマツと砂礫の山頂部からは槍、穂高の眺望が優れ、均整のとれた姿には定評があります。また稜線直下には北アルプスでも有数のお花畑が広がっています。三角点は蝶槍のピークにあり、最高点は南端の長塀ノ頭(2677m)にあります。蝶ヶ岳の名前の由来は、残雪期の稜線直下に現われる雪形が安曇野から眺めると白い蝶に見える事から名付けられたと言われております。この山頂からの槍、穂高連峰の景色に魅了され、大学時代に友人を誘って、この蝶ヶ岳だけのために、夜行で行って、日帰りで登りに再度訪れたことがあります。やはり、縦走でなく、ひとつだけの山に登るのは大変ですね。その後は、上高地に下ります。このコースは、このブログを書いているだけでも、もう一度体力があれば行きたくなります。このとき、心残りは、やはり、槍ヶ岳に登らなかったということです。ですから、次の年、やはり友人を誘って、槍ヶ岳だけに登りました。そのときに友人を誘った殺し文句は、「梓川の源流で、水割りを飲もうよ!」というものでした。実は、かなり汚れているらしいのですが、上高地を流れる「梓川」は、東京では見たことないほど透き通っていて、手を長く入れることができないほど冷たい水でした。また、「槍ヶ岳」は、この山名を知らない人は数少ないと思うほど有名です。それだけではなく、槍ヶ岳は日本の標高第5位に鎮座し、穂先から四方に伸びる尾根を持つ独特の形をした山で、登山者の憧れの山でもあるからです。しかし、一気に登るのはかなりしんどかった思い出があります。ワイヤーロープを張り巡らされたハシゴは鞍部でも気が抜けませんし、最後の急なところではチェーンを使います。ずっと登りの為、足もつってきます。やっと着いた山頂は、下から見ると、その名のとおり槍のように尖っていますが、実際にもかなり狭く、混んでいて、誰かが下りてこないと次の人が登れませんでした。しかし、その日宿泊した槍岳山荘は、私たちは秋休みを利用して行ったためにほかの客はいませんでした。

そこで、寝るときにかなり寒く、布団を何枚もかけたことを思い出します。ずいぶんと昔のことになってしまったので、記憶はだいぶ違っているかもしれませんが、青春だったなあと懐かしく思い出します。
投稿者 fujimori : 17:33 | コメント (4)
2007年08月16日 [近頃思うこと]
表銀座1
コメントに「槍ヶ岳」に行くとありましたが、いいですね。私は、この歳になって、もう体力が衰えてしまって行くことはないでしょうが、あのすばらしい景色と、そこに咲いている高山植物の美しさは忘れることが出来ません。本当は、歳を取って衰えたのではなく、これは私だけの問題で、ずいぶんと歳を取った人でも山登りはしていますし、小学生とか子どもでも高い山に登っています。えらいなあと思います。私は、あまり登山はしませんが、高校生のころに、北アルプスで一番の人気コースと言われる「表銀座コース」を縦走したことがありました。そのときは、私は、燕岳から大天井岳を経て東から槍ヶ岳に至るルートではなく、大天井岳から槍には行かず常念岳の方に行きました。そして、蝶ヶ岳を経て降りるコースでした。正確には、燕岳から槍ヶ岳へ行くのが表銀座コースで、私がたどった燕岳から大天井岳、常念岳、蝶ヶ岳へは、パノラマ銀座コースと最近言うそうです。まず、このコースは中房温泉から入山します。そこまでは、JR穂高駅からバスを利用します。そして、中房温泉に一泊しました。そのころは、余り温泉が好きではありませんでしたし、登山者用の宿泊所というイメージでごろ寝をしたので、どんな温泉だったのか、温泉宿ではなかったのか覚えていません。しかし、今でもはっきり覚えているのは、そこから標高2763mの燕岳まで、次の日に一気に登った時の辛さです。表銀座コースは、北アルプスを縦走するのですが、この縦走というのは、尾根伝いに山を渡り歩くので、登ったり下ったりを繰り返しながら、景色を楽しめるのですが、最初に高いところまで行くのが大変です。この燕岳は北アルプスの中央部に位置し白い花崗岩の大きな岩が印象的な山でした。山名は、春の雪形が、ツバメに似ているので、つけられたそうです。また、高山植物の中ではとても形がかわいらしく、色もきれいな花で、山のポスターによく使われる「コマクサ」の大群落があることでも有名です。標高はそれほど高くなく、危険な個所も少ない登りやすい山ですが、常念山脈に属し、中房温泉から合戦尾根までは北アルプス三大急登の一つです。山荘からは周囲360°の素晴らしい眺望を誇り、北アルプスの主峰槍ヶ岳を始め、穂高連峰、立山、剣岳、また白馬連峰と北アルプスのダイナミックな眺望が目の前に広がり、それまでの辛さを忘れさせてくれます。

燕岳のもう一つの人気は山小屋の燕山荘です。昭和12年に帝国ホテルの援助により建てられた建築がそのまま残され、本館部からして山小屋としてはおどろくほどぜいたくに出来ていて、夜のオーナーの話しやアルプホルンの演奏は燕山荘の名物となっています。しかし、私はそこには泊まらず、大天井岳にある町営大天荘に宿泊する予定でした。そこで、いったん燕岳に登り、また燕山荘に戻り、砂礫の稜線を進んでいくと、大天井岳が目の前に迫ってきます。鎖場とハシゴを通過して鞍部から岩礫帯に変わると、町営大天荘に到着します。ここで、2泊目です。次の日は、槍ヶ岳方面を目指すコースと別れ、東大天井岳までは比較的平坦路です。これが縦走の楽なところです。そして、周りの景色は、飛騨側に平行して穂高連峰が連なってみえます。そして、横通岳直下を過ぎると真下に常念小屋が見えてきます。ここで、3泊目です。ここ常念岳は、標高2857mで大天井岳から徳本峠へ至る常念山脈の主峰で、深田久弥の「日本百名山」の一つです。森林限界を超えた山頂からは槍、穂高連峰の勇壮な一大パノラマを見る事が出来ます。
投稿者 fujimori : 21:33 | コメント (3)
2007年08月15日 [記念日]
お盆
今日は、盆中日の8月15日です。日本では明治6年(1873年)1月1日のグレゴリオ暦(新暦)採用以降、以下のいずれかにお盆を行うことが多くなりました。旧暦7月15日にあたる日、新暦7月15日、月遅れの新暦8月15日(旧盆とも)、その他(8月1日など)です。私は東京ですので、お盆は新暦7月15日に行います。その日に寺からお坊さんに来てもらい、経をあげてもらいます。しかし、現在の報道メディアでは、新暦8月15日を「お盆」といい、月遅れのお盆(旧盆)を指すことが全国的になりつつあります。この日が日本では過去に国民の祝日になったことがありませんが、新暦8月15日(前後)は平日であってもかなりの人が休日になることが多く、また、学校の児童・生徒の大部分は夏休みの中間です。ですから、この日は祖先の霊を祭る宗教行事としてではなく、国民的な休暇、民族移動の時期としての側面があり、会社や商店などは、単なる夏休みになっているところも多く見られます。そして、この時期は、ゴールデンウイークや年末年始とともに、帰省や行楽に出かける人が多く、高速道路での渋滞情報や各交通機関での乗車率がニュースで流れます。しかし、この日は大型連休や年末年始と違って、カレンダー上は平日であることが多いので、官公庁や金融機関は通常通りの業務を行っており、一般企業でも平日という建前から、業務を行っているところも多く見られます。ですから、保育園は休みではなく、登園してくる子も多くいます。私も、朝だいぶ普段と違ってすいている電車に乗っていると、こんな日に出勤するなんてと腹立たしくなるよりも、「お盆にも勤務している人がいて、大変だなあ。」と思います。確かにこんな日でも休むわけにいかない業種もあるでしょうし、逆に、こんな日だからこそ忙しい業種もあるでしょう。保育園もそのひとつです。だからといって、保護者には、「夏こそ、できるだけ子どもと一緒に、いろいろな体験をするようにしてください。」と言っていながら、職員が自分の子どもを預けて働いているのは少しおかしい気がします。ですから、私の園では、できるだけ、この期間は独身の職員に勤務してもらいます。子どものいる職員は、なるべく子どもが休みの日とか、家族、地域がみんな集まる日とか、さまざまなイベントをやっている日とかに合わせて休んでもらいます。若い、子どものいない職員は、逆に、8月末から9月の期間中に夏休みを取り、混雑や料金が最ピークの旧盆時期を避けて旅行などをするほうがよいことが多いようです。私も、今は私の子どもたちが大きくなったので、何も夏休み中に休みを取る必要がなく、また、どうせ休み中にすることといっても仕事がらみが多いので、特には休みません。しかし、子どもが小さかったころ、特に小学生のころは、普段は休まない代わりに、子どもが休みの夏休みとか、冬休みにはできるだけ休みをもらって子どもをあちらこちらに連れて行きました。この体験が、今は仕事にも役に立っています。昼間と夜の仕事にしてもそうです。確かに夜遅くしなければならない仕事もあります。しかし、子どもがいる親には、できるだけ夜は子どもと過ごさせるような働き方をしてもらった方がいいような気がします。外国では、夏の間、夜の間は、仕事をすべてやめてしまうか、もしどうしてもあけなければならない職種では、学生がしていることが多かったようです。大学生にまでなって、親が仕送りをしている国は珍しいようです。ワークシェアリングは、夫婦間だけでなく、いろいろとシェアの仕方を考えていくことが必要ですね。
投稿者 fujimori : 23:44 | コメント (2)
2007年08月14日 [近頃思うこと]
身土不二
古くから、食の信条として、また思想として用いられている言葉に「医食同源」や「身土不二」という言葉があります。「医食同源」とは簡単言えば「医」と「食」が同じ源であるということで、「食生活がきちんとしていれば健康でいられる」という事です。これは神農の「薬食一如」と同じ意味です。一方、「身土不二」は、その読み方によって大きく二通りの意味があります。「しんどふに」と読む場合は、仏教用語で、「身」(今までの行為の結果=正報)と、「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離せない、という意味です。「因果応報」「世は人を映す鏡、人は世を写す鏡」ということで、日蓮や親鸞灘さまざまな僧の教えにもこの言葉が使われています。また、「しんどふじ」と読む場合は、「地元の食品や伝統食が身体に良い」という意味で、大正時代に「食養会」が創作したスローガンです。食養会(大日本食養会)は、明治40年に陸軍薬剤監石塚左玄を顧問として発足した健康食運動の団体で、雑誌や書物の刊行、会の趣旨に適う健康食品の販売などを通じて、第二次世界大戦中まで食と健康の関係に関する独創的な仮説を全国に広めました。石塚の死後、専務理事で陸軍騎兵大佐の西端学が、石塚の考えを一般化するために「地元の食品を食べると身体に良く、他の地域の食品を食べると身体に悪い。」と解説したところ、京都の僧侶が「仏典に身土不二という言葉がある。」と教えたことから、仏典とは少し意味が違っていますが、これ以降この説を「身土不二(じ)」と呼び、食養会独自の大原則として広めたのです。簡単に言うと「身土不二」とは「身体(身)と環境(土)とは不可分(不二)である」という「人と土は一体である」「人の命と健康は食べ物で支えられ、 食べ物は土が育てる。故に、人の命と健康はその土と共にある。」ということから、「身体と大地は一元一体であり、人間も環境の産物で、暑い地域や季節には陰性の作物がとれ、逆に寒い地域や季節には陽性の作物がとれる。暮らす土地において季節の物(旬の物)を常食する事で身体は環境に調和する」というものです。まさに、夏が旬の野菜には、ナス、トマト、きゅうりなど水分をたっぷり含み、喉の渇きをいやすとともに体温を下げる効果があるものが多く、しかし、水分の多い夏の野菜や果物は、ともすると消化不良や下痢の原因になるとも考えられがちですが、これはむやみに冷やしたものを多く摂取してしまうからで、正しく、バランスよく旬のものを食べれば、むしろ胃腸の調子も良くなるようです。もともと夏の太陽を浴びて育った夏野菜や果物には、汗とともに失いがちなビタミンやミネラルなどの栄養素がふんだんにあります。かぼちゃは、カロチン、ビタミンC、Eなどの栄養素を多く含む健康食品の代表であり、ナスも一見、約94%は水分と糖質でミネラルは多少はあるものの、ビタミンは他の野菜と比べてもかなり少なく、栄養成分表を見れば、「たいして栄養がない野菜」のように見えますが、ナスの皮の色素でもある「ナスニン」や「アントシアニン」、アクの元となる「クロロゲン酸」などは体を調節するのに大事な働きをしているのです。また、トマトの赤色成分は、リコピンという色素。強い抗酸化作用があることはCMなどで有名になりました。食が地域といかに深く結びつき、その結びつきが希薄になってきつつある今、さまざまなひずみが生まれ、問題が発生しています。園でのアレルギー児が増加し、アトピーなどが増え、環境ホルモン、遺伝子組み換え農産物など考え直さなければいけないことがたくさんありそうですね。
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2007年08月13日 [映画]
シアター
最近、団塊の映画世代を狙って、様々なイベントが行われています。また、その世代を対象とした施設もオープンしています。私としてありがたいのは、「夫婦50割引」です。これは、2004年7月から一年間限定で設定された映画鑑賞割引料金で、夫婦でどちらかが50歳以上であると、二人2000円で鑑賞できるというシステムです。これが、1年限度ということでしたが、好評ということで、毎年延長されています。つい、この6月までであったこのシステムが、来年の6月30日まで延長されたばかりです。このシステムのおかげで、私は映画を見る回数が増えました。たぶん、それまでの倍以上見ていますので、このシステムのおかげで、入場料は増えた計算になります。ぜひ、後、何年か続けて欲しいと思います。なぜ、あと何年かでよいかというと、60歳になると、シニアー料金が適応されるからです。しかし、ほとんど妻と行くことが多いので、やはり夫婦50割引のほうがいいですね。もうひとつ、歓迎すべきことがあります。本の街神保町に「神保町シアター」という映画館が7月7日にオープンしました。最近、あちらこちらにシネマコンプレックス(複合映画館)という多くのスクリーンを持ち、外国映画から日本映画まで、全国ロードショー公開されているほとんどの映画が一つの建物の中で見られるような映画館ができています。これは、シネコンと略され、確かにありがたい、便利な施設ですが、どこでも同じようなものをやっています。ところが、ここでオープンした「神保町シアター」は、小学館がオーナーで、最新の設備を備えたこのシアターでは新作映画や懐かしの名作映画などを上映予定されています。楽しみですね。現在は、レイトショー特集プログラム「川本三郎 編映画の昭和雑貨店 こどもたちのいた風景」が上映中です。この映画館の会館に向けて、なぜこのようなプログラムを組んだかということを川本氏がチラシに書いています。「なんといっても私などの世代にとっては小学館といえば学習雑誌の出版社であり、また、団塊の世代がシニアになりつつあるいま、彼らが自分の子ども時代を懐かしむだろうと思ったから。」私などは、思う壺ですね。彼が選んだ作品は10篇あり、一月にわたって連日夜1回上映をしています。私と同じ年代では、どの作品も懐かしく、よく知っている作品が並びます。「手をつなぐ子等」(昭和23)は、幼児のころの大病で脳に障害を負った子と教師、同級生との触れ合いを描いたものです。「少年」(昭和44年)は、当たり屋一家を描いた作品で、次第に正義に対して渇望していく少年の姿を描いています。「にあんちゃん」「秋立ちぬ」「つづり方兄妹」「警察日記」「夜あけ朝あけ」「あすなろ物語」「しろばんば」という作品が並びます。どれも見たい映画ばかりですが、なかなか見に行くことが出来ませんでした。それが、今日の夜、お盆週間ということで、子どもが少なかったので、6時ころ園を出て、思い切って見に行きました。今日の作品は、「キクとイサム」です。大東映画の第一回作品で、会津磐梯山を背景に、黒人混血児の姉弟を叙情的に描き、この問題を社会に訴えようとするものです。戦後、日本人女性と黒人米兵の間に生まれた混血の姉弟キクとイサムの姿を、祖母の愛情に包まれながら、差別に直面しながらも力強く、しかも明るく、ユーモアたっぷりに描いています。しかし、その明るさが、余計に胸を打ちます。この作品は、「ブルー・リボン賞」第1位、「キネマ旬報」第1位など様々な賞を受賞しています。これからが楽しみな映画館です。
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2007年08月12日 [近頃思うこと]
GTD
今、仕事だけでなく、やることがいっぱいあります。あれもやらなければいけない、あれもやりたいけれど、自分からの思いだけでなくても、人からいろいろなことを要求されます。思いがけない出来事も起こります。時間が足りないとあせってしまうことも多いです。もう少し、時間がうまく使えないかと思ってしまうことがあります。こんな時代、「GTD」と呼ぶ仕事術を取り入れるビジネスパーソンが増えているそうです。本来力を注ぐべき創造的な仕事が可能になるといわれているので、最近は知的労働の分野で、GTDをはじめとする仕事術の開拓が盛んに行われています。GTDという時間管理術を説いたのは、デビッド・アレン氏の『仕事を成し遂げる技術――ストレスなく生産性を発揮する方法』です。私は、この本をちょっと読む気はしませんが、この中で書かれている「GTD」[原書タイトル(Getting Things Done)の略称]は、参考になります。多くの人が、GTDの教えを実践した結果、仕事を能率化し、家族との時間を増やすことができたと言っています。この教えは、さまざまなウェブツールを通じて広められていますので、ブログを書いている人には特に参考になるようです。「労働量の過大や作業に集中できないという問題は、このところ急速に蔓延しつつあるようだが、コンピューターマニアの世界ではずっと以前から大きな懸案だった」と、いわれています。では、GTDというのは何でしょうか。それは、「Getting Things Done」という「ナレッジワーカーのための仕事術」です。知識社会の仕事はますます複雑になってきています。「どこまでやったら終わりなのか」がはっきりしない上に、スピードが要求され、しかも降ってくる仕事の量は増えるばかりです。そうした状態では、従来までの仕事術である時間管理手法は全く役に立ちません。きっちりスケジュールを引いたとしても、次々と降ってくる複雑な仕事がスケジュールを再び混乱させてしまうからです。そして問題なのは、スケジュールが混乱すればあなたの頭の中も混乱してしまうことです。疲れ切った頭からはクリエイティブなアイディアは浮かんできません。大事なのは時間を管理するのではなくて、頭の中を常にすっきりさせ、必要なときに必要なエネルギーとアイディアをひっぱりだす手法です。GTDが5つのステップを提唱しています。「収集」では、頭の中の「気になっていること」「自分のやりたい事」をすべて箇条書きで書き出します。企画書を書く仕事も、旅行に行く予定もすべて書き出します。「処理」では、「次にやる」「いつかやる」といった実行方針を、「実行可能かどうかを判断する」「複雑なものは細かい行動に分ける」などの手順に基づいて機械的に決定します。「整理」では、箇条書きにしたリストを、実行方針ごとに用意したリストに適切に割り振っていきます。「評価」では、以上の3つのステップを定期的に見直します。そして、「実行」です。今できることの中からやるべきことを実行していきます。これを最低でも毎週繰り返し、「あれもやらなくちゃ、これも、それも」といった「やりかけの仕事」をきれいにしていきます。GTDでは以上の作業を行う際に、どのような道具を使ってもよいとしています。つまり紙やペンであろうが、パソコンや携帯電話であろうが、その人が馴染んでいる道具であれば何でもよいそうです。この仕事術の面白い点は、脳内に余計な情報をストックしないところにあるようです。その分、その人の心理的ストレスを低減させ、本来力を注ぐべき創造的な仕事が可能になるのです。
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2007年08月11日 [近頃思うこと]
ネギ
夏の暑い日には、なんとなく食欲がなくなります。そんなときには、冷ソーメンとか、ソバとかさっぱりしたものが食べたくなります。そのときに欠かせないのが「ネギ」で、薬味に使うと独特の辛味が食欲を増進させます。しかし、もともとネギは、冬野菜で、発汗、解熱、咽の消炎によく効きます。長ネギの栽培は10月から3月までで、北海道では5月~7月に栽培されますが、寒ければ寒いほど甘みが増すので、やはり旬は12月~2月です。しかし、どうして「ネギ」を思い出したかというと、昨日、「深谷駅」を通過したときに、そういえば「深谷ネギ」というのがあったのを思い出したからです。「東京の田舎者は白いところまで食べる」「関西人はケチだから青いところまで食べる」と言われるように、ネギは関東の根深ネギと関西の葉ネギの2つに大きく別れます。長ネギには大きく分けて、白い部分が多い根深ネギと緑の部分が多い葉ネギがあります。根深ネギは中国北部地方で作られるようになり、その後、南部で葉ネギが作られるようになったと考えられています。日本へは奈良時代の頃に両種類のネギが持ち込まれ、関東では根深ネギが、関西では葉ネギが好まれるようになりました。根深ネギを作るには、ネギの白い部分を作るために耕土を20〜30センチ掘り、ネギが伸びる度に土を掛けて日光から遮断する必要があります。火山灰のローム層が堆積している関東では深い穴が掘り易い柔らかい耕土が多いのに対して、関西では花崗岩や粘土が混じった堅い土壌が多く、層も薄いため土寄せする必要のない葉ネギが主流になったと考えられています。また、冷涼な気候でネギを栽培した方が軟泊させるのに適しており、このことも関東で根深ネギが好んで栽培された理由の一つではないかといわれています。ちなみに、葉ネギの方が栄養価は高いといわれますが、根深ネギの緑の部分にもカロテンが豊富に含まれています。埼玉県深谷ネギは、根深ネギで、ほかには、下仁田ネギもそうです。一方、葉ネギには九条太ネギや九条細ネギなどがあります。深谷ネギは茎が太くて柔らかく、下仁田ネギは群馬県の特産で甘味を多く含んでいるため鍋に向いており、ネギの王様と呼ぶ人さえいます。2千年前の中国の文献の『礼記(らいき)』では、ネギは「野菜の中の筆頭」だとさえ述べられています。日本の平安時代中期に作られた辞書である『和名類聚抄』の記述を根拠として、ネギは中国から日本に伝えられたと考えられています。ネギの日本での古名は「き」といい、このことから室町時代にはネギを隠語で「一文字(ひともじ)」ともいいました。「き」には「葱」という字が宛てられました。江戸中期に編まれた国語辞書『倭訓栞』によれば、「き」という名は「臭気」の「気」に由来しているといいます。「葱(き)」の根と考えられた部分(実際には葉の基部)を食べることから、次第に「根葱」と書き表すようになり、「白根」や「根深(ねぶか)」という別名も付けられました。「分け葱(わけぎ)」とは葱が株分かれしているという意味ですし、「浅つ葱(あさつき)」とは比較的香りが弱い葱という意味です。また、色を表すときにも使われています。「萌葱(もえぎ)」とは「葱(き)の芽のような緑色」のことを指しますし、「浅葱(あさぎ)」という色は薄い青緑色を指す言葉です。「萌黄」や「浅黄」と書かれる場合もあるようですが、これは音から当てた字であり、黄色には関係ありません。さすが、古くから食べられてきた「ネギ」だけあって、ずいぶん生活に関係しているのですね。
投稿者 fujimori : 21:52 | コメント (2)
2007年08月10日 [旅先にて]
榛名山
夏は、普段では出来ないいろいろな体験が出来ます。私の子どもたちは、もう就職をしていて、自立していますので、夏だからといって特別にどこかにいくとか、何か特別なことをするとかはありません。しかし、いろいろなことを夏になると思い出します。今日、訪れた保育園の見学のあと、車で「榛名山」に連れて行ってもらいました。私は、両親の出身地は長野県の諏訪や岡谷ですので、夏になって訪れる場所はどうしても中央線沿線が多くなります。ですから、榛名山は初めてでした。榛名山は、ある、特徴のある山で、標高はどのくらいあるのだろうと思っていたのですが、訪れてはじめて知ったのですが、榛名山とは、ひとつの山の名前ではなく、榛名冨士、掃部(かもん)ヶ岳、烏帽子(えぼし)ヶ岳、天目山等から構成される山々の総称です。それら榛名山は標高1,449mで、赤城山、妙義山と共に、上毛三山の一つに数えられる、古来山岳信仰を受けてきた名山です。その美しい山並みに囲まれて標高1,100m付近にカルデラ湖である榛名湖があります。そして、中央火口丘の榛名富士(標高1390.3m)は、6世紀前半に約30年の間隔を空けて大きな噴火をしたと見られています。この榛名湖と榛名冨士の構図はとても美しく、思わず写真を撮りたくなります。

榛名山の山並みの形からいろいろな民話が生まれています。そして、山の民話は、富士山との関係が多いようです。山梨の八ヶ岳には、こんな民話があります。「富士山は女の神様で、たいそう威張ることが好きでした。いつも、自分が日本一高い山だと自慢をしていましたが、八ヶ岳の男の神様が、いや、自分が日本一高い山だと言い張って一歩も引きません。ですから、阿弥陀如来様が、神様同士が争いをするのは困ったものだということで、お互いの山頂に長いトイをかけて水を流し、高いほうを決めようとしました。結果、水は富士山の方に流れていき、富士山が低いことがはっきりしました。負けず嫌いの女の神様である富士山は怒って、いきなりありったけの力で八ヶ岳山をけとばしました。そのために、八ヶ岳は八つに裂けて、富士山より低くなりました。」というものです。また、山とか沼などは、日本の各地で伝承される伝説の巨人であるダイダラボッチに関する伝説が存在します。「富士山を作るため、甲州の土をとって土盛りした。そのため甲州は盆地になった。」とか、「上州の赤城山に腰掛けて踏ん張ったときに窪んで出来た足跡が水たまりになった。木部の赤沼がそれである。」とかありますが、この榛名山には、こんな民話があります。「上州の榛名富士を土盛りして作った。掘った後は榛名湖となった。榛名富士が富士山より低いのは、もう少し土を運ぼうとしたが夜が明け、途中でやめたためである。」とか「榛名山に腰掛けて、利根川で脛を洗った(ふんどしを洗ったという説もある)。」とか、「富士山、浅間山、榛名山を競争で作り、あと一息というところで富士山のダイダラボッチが勝った。」というものです。今日訪れた榛名山のふもとの「ユウスゲの道」には、ニッコウキスゲの仲間である「ユウスゲ」(ユリ科)が咲いていました。
この花は、ユリに似た淡黄色の筒状花が横向きに咲き、夕方開き翌朝しぼむことから「ユウスゲ」といいます。また、その道の両脇には、「ソバナ」とか、「ホタルブクロ」とか、「マツムシソウ」「オオバギボウシ」などが咲いていて、暑い東京を一時離れて、涼しい風の中、高原の空気を味わうことが出来ました。
投稿者 fujimori : 20:39 | コメント (4)
2007年08月09日 [読書]
ムーミンパパ
今日の8月9日は、「ムーミンの日」です。そう決められたのは、2005年からですが、それまでは、「ムーミン」を愛する日本のファンたちによって6月(ムー)3日(ミン)の語呂合わせで、6月3日が記念日でした。しかし、現在は、作者のトーベ・ヤンソンさんの誕生日である8月9日が、正式な“ムーミンの日”と定められることになったそうです。「Moomin:The Complete Tove Jansson Comic Strip」は、Timeの「2006年に英語圏で出版された本のベスト10」にも選ばれています。日本では、このシリーズを、ムーミンの声を岸田今日子さんが担当したことでテレビアニメ化をしたので、みんな知っています。しかし、なかなか本では読まないので、本当のことを知らないことが多いようです。このムーミン・シリーズは、子ども向けの作品ながら、小説での雰囲気は決して明るくはなく、不条理な内容や哲学的な会話なども登場します。作者のヤンソンさんは画家でもあり、ムーミンの原型となるキャラクターは小説執筆以前にもたびたび描かれていました。小説として初めて登場するのは1945年にスウェーデン語で著された『小さなトロールと大きな洪水』で、その後ムーミン・シリーズとして知られる計9作品に登場するようになります。登場人物には哲学的・詩的な発言をするものも多く、子どもとして描かれているアニメでは主人公のムーミン・トロールには理解できないという描写がしばしば見られます。特に、シルクハットがトレードマークのトーベ・ヤンソンが自分の父親をモデルにしたというムーミンパパは、特にわからない考え方や行動をすることがあります。パパとして登場するときは、海と自由と危険、パイプたばことお酒とキャラメルを愛するロマンチストとして描かれていますが、実は、暗い、波乱万丈の過去を持っているのです。ムーミンパパは赤ん坊のとき「ムーミン捨て子ホーム」の階段に新聞紙にくるまれて置き去りにされていました。その施設を経営していたのが、ヘムレンさんです。今の、赤ちゃんポストのほうがまだいいかもしれません。この施設は、気持ちよくおしゃべりのできる場所とか、個室とか、階段やバルコニーや塔なんかなく、それどころか、夜起き上がって、食べたり、しゃべったり、歩き回ったりすることは止められ、おしっこするのがやっとこさでした。決まった時間に食事をし、決まった時間に体をあらわなければならないとか、お辞儀をするときには、尻尾を45度の角度で、上にピンと立ててなければいけなかったというような規則ずくめの施設でした。ですから、子どものころのパパは、ヘムレンさんに「なぜこうなっているのですか。なぜこの反対ではいけないのですか。」とたずねることがしょっちゅうでした。その施設からあるとき、こんな置手紙を残して必死に脱走します。「大きな使命が、私を待っているような気がします。それに、ムーミンの命は短いのです。ですからわたしは、ここをでていきます。」こうして、パパは自由と冒険に人一倍憧れる様になったのです。フィンランド文学研究家の高橋静雄氏は、[ムーミンパパの思い出」の解説でこう書いています。「ムーミンパパは、自分らしく生きようとすることが、どんなに大きな感動をもたらすかを、知らず知らずのうちにムーミンに伝えたことになります。ムーミンの、あのやさしさは、自分が自分らしく生きることと、他人が他人らしく生きられることの双方に、同じように思いやりを示さずにはいられない気持ちから生まれているものです。それは、自分らしく生きることの感動を知らず知らずして生まれてくるものではないでしょうか。」
投稿者 fujimori : 23:18 | コメント (2)
2007年08月08日 [近頃思うこと]
ビアガーデン
東京は、毎日暑い日が続きます。そんな暑さを吹き飛ばそうと、昨日何人かと「暑気払い」をしました。しかし、最近の若い人たちはこの「暑気払い」ということを知らないようです。どうも、都会では、この言葉はサラリーマン用語のような気がします。「暑気払い」は、「しょきばらい」とも「しょきはらい」とも言います。その言葉の本来の意味は、「夏の暑さを払いのけること。暑さよけのための方法を講じること。」ですが、都会では、「夏に、暑さをうち払うという名目で行われる宴会、飲み会」のことを指す場合が多いようです。そして、最後に、よく、手拍子によって三本締め、一本締めなど「締め」をします。また、飲み会で飲む酒は焼酎や梅酒などさっぱりしたものが多かったようですが、最近は、もっぱらビールのようです。そして、場所としては、「ビアガーデン」 (ビアレストラン・ビアホールとも呼ばれる)といって、屋外(ないし建物の屋上)に多数のテーブル席を並べ、そこには舞台が用意され、音楽演奏やダンスなどが時間を決めて行われます。昨日行ったビアガーデンは、新宿のデパートの屋上でした。屋上はとても広く、席も何席もあるのですが、満席で45分待ちということでした。
しかし、私たちは10分足らずで座ることができました。というのも、舞台のまん前で、演奏の音がうるさくてだれも座らない席でしたので、すぐに用意してもらえたのです。新宿の高層ビルの真ん中ですので、ビルの屋上にいても、そこから見える景色は、周りのビルが高いので、地上にいるような感覚でした。しかし、風がさわやかで、昼間の暑さを吹き飛ばすような、本当の暑気払いをしている感じでした。このようなビアガーデンの多くは、夏期に限定して開設されます。都会では、消夏法として広く大衆に好まれ、夏の風物詩であり、夏の季語にもなっているくらいです。私は、ビアガーデンに行くのは何年かぶりですが、八王子にいたとき、高尾山の山頂のビアガーデンに一度行ったことがあります。ビルの屋上ではなく、山の上というのもありですね。日本で最初の屋上ビアガーデンは1953年に大阪市北区梅田でオープンした「ニユートーキヨー大阪第一生命ビル店」だそうです。屋上のビアガーデンでなければ、日本で最初のビアガーデンは、1875年に横浜・山手で「スプリング・バレー・ブルワリー(現在の麒麟麦酒)」の創始者であるコープランドが、工場隣接の自宅を改装して開いた「スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン」だそうです。このころは、主に外国人居留者と外国船の船員向けでした。この形のビアガーデンは、最近はよく見かけるようになった、工場で出来立てのビールを提供する飲食店「工場内ビアレストラン(ビール園やブルワリー内ビアホール)」のルーツとも言えます。料理の定番は、ビールのおつまみ的なものが多いのですが、なぜか中華ものが多いのは、大皿に盛って、みんなで分けて食べる形式だからでしょう。中には、焼肉、バーベキュー、ジンギスカンなどを行う場合もあります。テーブルや椅子は、雨にかかることと設営の簡易さから、アルミニウム製またはプラスチック製であることが多く、軽くて風に飛ばされそうです。昨日の舞台では、サンバとジャズ演奏でしたが、大型テレビでナイターを放送することもあります。
他に、札幌市の大通公園では、幅65メートル、長さ数百メートルに渡る広大なビアガーデンで有名ですし、明治神宮外苑にある「森のビアガーデン」は、周りが森に囲まれたビアガーデンです。本来は、「寒気払い」もあるそうですが、屋外で行われる「暑気払い」は、夏を感じさせる風物詩です。
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2007年08月07日 [近頃思うこと]
びん
先日の朝日新聞の夕刊に、懐かしい記事が掲載されていました。「びん牛乳、最高」ということで「なつかしの駅スタンド 盛況」とサブタイトルが書かれています。その記事の中で、かつて、駅スタンドで「びん牛乳」を売っていた駅は上野や新橋、新宿などにもありましたが、どこも飲み物の種類の多様化や、自動販売機の普及などの影響で店じまいをしたところが多い中で、生き残った店もいくつかありました。例えば、秋葉原駅の総武線ホームと御徒町駅構内で3店を出す「大沢牛乳」です。ここは、50年以上の歴史を持っていると書かれています。まさに、私が中学生のころ、よく利用したのが、秋葉原駅総武線ホームの売店だったのです。私は、中学生のころ、総武線「浅草橋駅」から乗って、次の「秋葉原駅」で山手線か、京浜東北線に乗り換え、次の駅「神田駅」で降りて通いました。ですから、秋葉原駅で乗り換えるときのそのスタンドの前を通るので、つい、びん牛乳を買って飲みました。ほとんどは、コーヒー牛乳でしたが、たまにフルーツ牛乳で、それが朝食代わりだった日もありました。このようなびん牛乳を販売する店が、池袋駅に開店して、脚光を浴びているそうです。もちろん、今は品数も豊富で、チーズやヨーグルト、ソフトクリームなど48品もあるそうです。その店は、以前の弁当店の2倍以上の売り上げがあるそうで、そのうちの2割がびん牛乳だそうです。「懐かしさが人気の理由でしょうか」と言っています。そのほかの理由として、「口ざわりと手ごたえが、おいしく感じる」「ごみを出したくない」などがあるようですが、あわせて、カルシウム入りや鉄分入りの「機能強化」商品の開発も、この人気を支えているようです。また、びん製品の宅配契約件数が一時期、約119万件に落ち込んだのが、今は270万件強に復活しているようです。「高齢化もあって健康志向が高まっており、機能を加えた製品がニーズにこたえた形だろう。買い物に行かなくても自宅に毎日届く利便性もある」と、牛乳メーカーでは分析しています。自治体の中には、環境と資源の問題から、給食で紙パックの牛乳からびん牛乳へ運動して切り替えているところもあるようです。ですから、必ずしも懐かしさからだけでなく、リサイクルの面からも取り組まれています。先日の「マイ○○」ではありませんが、いろいろな意味で、かつての日本の文化が見直されてきているようです。たんに昔に戻ればよいというわけではありませんが、ずいぶんと合理的なところがありましたね。今も、びんのリサイクルのやり方には二通りあります。ひとつは、「リターナブルびん」といって、回収したあと、洗浄、消毒後、 中身を詰めて繰り返し使われるものです。この牛乳瓶はその代表ですが、ほかにも、ビールびん、一升びんなどがあります。何度も使うことができる点でリサイクル優等生といえます。ビールびんは販売の際、びんに預かり保 証金(デポジット)をつけて、回収率を高めています。 もうひとつは、「ワンウェイびん」といって、一度だけ使用されるびんです。中身を詰めたあと、市場に出回りますが、使い終わって回収されたびんは細かく砕かれ、新しいびんを作る原料(カレット)として使われます。ですから、リサイクルするために、びんを色別に回収することが必要です。色別に回収するのは、新しくびんを作るときに、同じ色のびんを原料として便うためです。破損したリターナブルびんはワンウェイびんと同様に 新しい、びんを作るときの原料としています。団塊の世代が高齢化してくると、懐かしさも手伝って、かつてのリサイクルの考え方が復活してきそうです。
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2007年08月06日 [近頃思うこと]
われは海の子2
「われは海の子」は、明治唱歌の中で「夏は来ぬ」「荒城の月」と並んで圧倒的な人気があります。「1、われは海の子白浪(しらなみ)の 騒ぐ磯辺の松原に 煙たなびく苫屋(とまや)こそ 我がなつかしき住家(すみか)なれ 」浪というのは、波と書くほうが普通ですが、波浪警報というようにどちらも使います。音の「なみ」は、続いてくることから「ならび(並)」の略語です。そして、白浪は「波頭がくだけて白く見える波」のことを言います。ですから、磯などのかかり言葉のようです。「苫屋」とは、苫で屋根を葺(ふ)いた、粗末な家のことを言います。苫とは、 菅や茅などで編んで作ったものの事を言い、よく、船などを覆い、雨露をしのぐのに使っていました。ですから、海辺では、それで屋根を葺いたのでしょう。1番の歌詞は、「私は、海に囲まれた日本という国の、海辺で生まれた海の子です。波が砕け散る浜の松原の、夕餉の支度をしているのか煙が出ている質素な家が、私の生まれ、育った家です。」「2、生まれて潮に浴(ゆあみ)して 浪(なみ)を子守の歌と聞き 千里寄せくる海の気(き)を 吸いて童となりにけり」ゆあみというのは、本当は「浴」ではなく、「湯浴み」と書いて入浴のことですが、いかにも潮の風呂に入るというイメージから、海の子という感じがしますね。気は、息吹のことで、生気や活力を感じます。「生まれてから、潮の風呂に入り、波の音を子守唄に聞いて育ち、何度ともなく打ち寄せてくる波の息吹を感じながら、大きくなっていったのです。」「3、高く鼻つく磯の香に 不断の花の香あり 渚の松に吹く風を いみじき楽(がく)と我は聞く」「少し大きくなってくると、あの独特の磯の香りは、私にとっては、絶え間なく香ってくる花の香りにも似て、また、なぎさの松林に吹く風は、あたかも楽器を演奏しているかのように聞こえます。」「4、丈余の櫓櫂(ろかい)操りて 行手(ゆくて)定めぬ浪枕(なみまくら) 百尋千尋(ももひろちひろ)海の底 遊びなれたる庭広し」丈というのは、長さの単位で、1丈は、ほぼ3mです。尋も長さや深さの単位で、日本では5~6尺で、1尺は1丈の十分の一です。櫓は、船の後ろに支点を置き、櫓の先端を、半円を動かすようにしてスクリューのように船を進めるもので、櫂は、オールといい、水を後ろに掻いて進めるものです。共に、人力で船を進めるために使うもので、特に櫓は、時代劇などで船頭さんがよく使うもので、ペリーが来日したときに、その速さにびっくりしたそうです。「3m以上もある櫓や櫂を操って、海を寝屋とするくらいどこにでも船を漕いでいき、深い深い海の底までも、私にとっては、遊びなれた広い庭のようです。」「5、幾年(いくとせ)ここに鍛えたる 鉄より堅き腕(かいな)あり 吹く潮風に黒みたる 肌は赤銅(しゃくどう)さながらに」「何年もこの海で鍛えられたこの腕は、鉄よりも硬く引き締まり、潮風にさらされた肌は、赤銅色に真っ黒く日に焼けて、逞しくなりました。」「6、浪に漂う氷山も 来たらば来れ恐れんや 海巻き上ぐる竜巻も 起こらば起これ驚かじ」「もし、あの大きな氷山が流れてきても、来るなら来てみろと思えるほど恐れはせず、海を巻き上げるくらいの恐ろしい竜巻が来ても、そんなもの起きるなら起こしてみろと思えるほど驚きはしない。」「7、いで大船(おおぶね)を乗出して 我は拾わん海の富 いで軍艦に乗り組みて 我は護らん海の国」「さあ、大きな船に乗って、漁業にも行きましょう、さあ、軍艦に乗って、この島国である日本を守って見せましょう。私は、海の子ですから。」
投稿者 fujimori : 20:17 | コメント (3)
2007年08月05日 [近頃思うこと]
われは海の子1
夏休みというと、思い出すのが、臨海学校と林間学校です。臨海学校は、最近は余り行かなくなりましたが、小学校高学年の夏ごろなどに行われる学校行事の一種です。夏の季語にもなっています。大体2泊3日の日程で、海水浴や、海の仕事の体験などをするため、希望者が行きました。1925年(大正14年)7月に成城中学校(現成城中・高等学校)により神奈川県逗子市初声村に開設されたのが日本では、はじめです。行き先は、私は台東区の小学校に通っていたので、臨海学校は千葉県の岩井、林間学校は箱根でした。中学校の臨海学校は千葉県保田、高校は、千葉県勝浦です。私は、その中で林間学校の箱根しか行っていませんが、昔の先生は引率が大変だったでしょうね。ただ、子どもたちは、先生の言うことは絶対でしたし、まあ、悪いことをするとしてもさもなかったので、何泊しても今ほど問題は起こさなかったでしょうが。
臨海学校といって思い出すのが、私は「われは海の子」という文部省唱歌です。簡単なような歌ですが、歌詞は難解で、余り意味がわからずに歌っていた歌という印象がありますが、きちんと理解をすると、いかにも海に囲まれた国という感じがします。作詞者は永いこと「不詳」でしたが、1989年に北欧文学者の宮原晃一郎ということが判明したそうです。この歌は、明治43年「尋常小学校読本唱歌」六年生用として発表された古い曲ですが、私が習ったのは2番までですが、実は7番まであるのです。後半は、いかにも軍国国家的であるので、教えないのでしょう。しかし、最初の歌詞もその意味に持っていくためのものであり、当時の子どもたちへの意識をあおっていたことがよくわかり、面白いですね。特に、7番については、「海軍に対して子供心に憧憬を持たせるから好ましくない」という意見と、「海に囲まれた日本ならではの、大海からの国冨の獲得と、国の保安に励もうという、海国日本の立場からの意気昂揚が必要である」という意見があります。私は、歌詞がわからずに歌っていた世代としては、歌というものは、きちんと歌詞を理解し、その日本語という文の美しさや、日本の情景の美しさや、心のひだを感じて欲しいと思います。知らずに思想を植えつけるようであっては、歌に失礼な気がします。先日亡くなった「阿久悠」氏も、とても言葉を大切にした作詞家でした。彼は、『感動する話は長い、短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである』との言葉を残しています。特に、彼の作詞した歌の出だしの歌詞は、それだけで印象に残るものが多いような気がします。「上野発の夜行列車 降りたときから」「あなたは すっかり つかれてしまい 生きてることさえ いやだと泣いた」「壁際に寝返り打って、背中で聞いている」「あなた変わりは ないですか」まだ著作権があるので掲載できませんが、まだまだたくさんあります。アニメにもずいぶんと作品を残しています。ところで、この「阿久悠」という名前を打ち込もうとすると、「悪友」としか変換しません。あらためて、その音が同じことに気がつきますが、実は、もともと彼のペンネームの由来は「悪友」から来ているのです。話はそれましたが、私はずいぶん前のことになりますが、「冬の星座」の歌詞について何日か分けてブログで取り上げましたし、「たきび」の歌を、1年生に教えるときに歌詞をまず十分に味合わせてから歌わせたことを書きました。「われは海の子」の歌詞を明日のブログで味わってみようと思います。
投稿者 fujimori : 21:43 | コメント (4)
2007年08月04日 [近頃思うこと]
マイ○○
先日の夕涼み会で、焼きソバを出しました。毎年のことでしたら、容器は発砲スチロールを使っていました。紙皿ですと、重さに弱く、運ぶときに折れ曲がってしまうからです。しかし、発泡スチロールでは、後始末が問題だけでなく、使い捨てということなど資源の無駄遣いの気がします。そこで、夕涼み会では、容器持込みを呼びかけました。結局は、すべての家庭がそうするとは限らないので、園で、使い捨てではない容器を用意しましたが。最近、こんな動きが多くなりました。昨年4月から滋賀県庁では、自分のカップを持参して飲料が購入できるマイカップ式自動販売機を設置しているそうです。持参のカップを利用すると価格が10円引きとなりますが、従来通りの紙コップの利用も可能です。ここ滋賀県では、紙コップの使用を抑えることで、年間約144kgのごみの減量を見込んでいるそうです。すでに、国や地方自治体では、経済産業省や、静岡県、長野県などがこれまでに導入しています。経済産業省は2005年11月1日から、消費者が自分のカップを持参して飲料を購入することができる「マイカップ自販機」を同省内エレベーターホールに設置し、利便性や消費者行動に関する実証実験を開始しています。全国には、約16万台の紙カップ自販機があり、年間20億個の紙カップが使用されていると考えられていますが、マイカップ自販機が使用された場合、2~5割程度の紙カップ使用量が削減できる見込みだそうです。また、プロ野球の楽天イーグルス球団が、球場での「マイカップ制度」を始めています。チームのロゴ入りマグカップ(350円)を持参し、売店で飲み物を買うと、ビールが50円引き、ソフトドリンクが20円引きになります。プロ野球の球団では初の制度です。本拠地「フルキャストスタジアム宮城」(仙台市)でごみの分別にあたるボランティアスタッフが、捨てられる紙コップのあまりの多さに「なんとか減らせないか」と球団側に話を持ちかけたものです。
こうしたマイカップ制度の火付け役といわれるのは、コーヒーショップ「スターバックスコーヒー」のタンブラー販売です。プラスチック製の容器に、飲み口のついたふたが付いていて持ち運びしやすい。1つ1000円前後で購入すると、コーヒー1杯目が無料になります。私もこのカップを買って、最初の一杯を無料で飲みました。その後は持参するたびに、1杯20円の割引になる。エコロジーの観点から、10年前の日本進出時から取り組んでいます。季節や地域ごとにデザインの違う「季節限定モデル」や「ご当地モデル」などを販売していることからコレクターも多く、売り上げも好調のようです。このようにコーヒーショップでのマイカップ持参による割引きだけでなく、野球やサッカーの競技場、コンサート会場などでのリユースカップ導入など、資源を無駄にしないために企業側の工夫も様々試みられています。面白いものでは、日清食品が発売したマイ“ヌードル”カップがあります。インスタント食品であるカップヌードルを、プラスチック製のリユースカップで食べるという、環境に優しい試みです。そのほか、消費者や企業の間には「マイ○○」でゴミを削減する動きが広まっています。このうち最も有名なのが、小売店でレジ袋の使用量を削減する「マイバッグ」の取り組みです。このほかにも、割り箸の使用量を削減する「マイ箸」や、日本式のマイバッグである「マイ風呂敷」を実践する動きもあります。自分用の何かを持参することは、環境保護を実践する上での「身だしなみ」だけでなく、見た目にも「粋」とか「おしゃれ」になりつつありますね。
投稿者 fujimori : 20:43 | コメント (2)
2007年08月03日 [読書]
素数ゼミ
やっと東京では梅雨が明けました。最近の気候は、亜熱帯気候になったとのこと、全体的に遅いようです。遅い入梅と、遅い梅雨明けです。まだ、東京ではせみの鳴き声があまりしません。いつもの年であれば、今頃は、アブラゼミの鳴き声でやかましいくらいです。しかし、シカゴなど米国中部では、「素数ゼミ」と呼ばれる周期的に大発生するセミが、今年は発生年にあたり、70億匹ものセミで大変なことになっているそうです。米国には日本のセミとは全く違う「周期ゼミ」もしくは「素数ゼミ」と呼ばれる種類のセミたちが生息しているそうです。素数ゼミというのは北アメリカ大陸に生息している17周期,13年周期で羽化するセミのことです。今年は、イリノイ州シカゴなど、北米中部がその中でも17年周期のセミたちの発生年にあたり、ちょうど今年の6月がピークでした。3年前の2004年にニューヨークなどで大発生したときは60億匹でしたが、今年の70億匹はそれを上回っていますが、すごい数ですね。この数は、10平方メートルに400匹という大群がいることになります。
このセミが不思議なのは、大量に発生することではなく、3点のなぞがあります。それは、「なぜこんなに長年かけて成虫になるのか?」「なぜこんなにいっぺんに同じ場所で大発生するのか?」「なぜ13年と17年なのか?」です。このなぞを解明したのが、数理生態学を専攻する静岡大の吉岡仁教授で、彼の著書、『素数ゼミの謎』(文藝春秋)に書かれています。この本で解き明かした内容は、まず、なぜ成虫まで期間がかかるかというと、「氷河期の影響で幼虫たちの食料供給源である木の根に栄養が行き届きにくくなったため、成長までに時間がかかるようになった名残り」と言っています。また、なぜ同じ場所かというと、「成長する時間がかかるようになってしまったため、できるだけそろって同じ場所に生まれるようにしないと、交尾相手が見つけにくくなり、時間を合わせて同じ場所で羽化する種だけが残った」としています。そして、なぜ13年と17年ごとなのかというと、「13年もしくは17年という周期で発生する種だけが、違う周期で発生する他のセミとの競合や交雑を免れて生き残っていった」というのです。では、なぜ、13年もしくは17年周期なら、他の種と出会いにくいのかというと、その鍵は、13と17という数が「素数」であるというところにあります。素数とは、1とその数自身以外に正の約数を持たない(つまり1とその数以外のどんな自然数によっても割り切れない)、1より大きな自然数をいいます。ですから他の周期ゼミに邪魔されることなく繁殖できるようになっているのです。生き物の歴史は必ず、そうやってうまく子どもを残せた親の子孫だけが残ることで、続いてきたのです。これが進化ということだといっています。そして、今、温暖化や木が伐採されている中、このセミが今度羽化したときに林がなくなっていたらどうなるかを問いかけています。「終わりに」にこう書かれています。「人間は地球上に進化していた中で、自分たちが進化してきた過去について知っている、はじめての生き物です。地球が今までになしとげてきた素晴らしい不思議について知っている、唯一の生き物なのです。そしてまた、今やその素晴らしい不思議の運命をにぎる立場にもなってしまいました。夏の盛りにセミの声を聞いたときは、ぜひアメリカで鳴いている、不思議な素数ゼミの謎を思い出してください。そして、はるかな地球の歴史にも思いをはせてもらえばと思います。」
投稿者 fujimori : 23:21 | コメント (3)
2007年08月02日 [新聞記事より]
インド式数学
昨日の朝日新聞に「インド式」の計算という記事が掲載されていました。その記事は、2ケタのかけ算をあっという間に解いてしまう、「インド式」の計算ドリルの話題です。今年の初めの産経新聞にも、インドの数学について掲載されていましたが、少し前から話題になっています。それは、今、日本では理数離れが進み、分数ができない大学生が続出してしており、掛け算九九でさえ言えない大学生がいるようです。反面、インドは、IT技術立国に躍進しました。その理由のひとつとして、インド人は2桁のかけ算が暗唱できるからとも言われているように、インドでの算数、数学の教え方に学力向上策のヒントが隠されているといわれています。そんなことで、日本にも昨年7月に、国内2番目のインド系学校が開校しています。その学校のニヤンタ・デシュパンデ代表は、「計算は高度な数学を習得するための基礎。計算ができることで数学への自信がつき、理解を深めていく」と話しています。しかし、「本国では最近は19×19までの暗記にとどめ、後は応用させている。暗記だけではだめ」と付け加えています。確かに、インドの数学教育は、九九を暗記させるからよいのではなく、「論証を重視し粘り強く考えさせている。大学入試もほとんど証明問題で、マークシートが主流の日本とは違う」と芳沢光雄東京理科大教授は指摘しています。暗唱ではなく論証重視だというのです。また「四則計算の場合、掛け算・割り算を先行させる法則を無視した計算式を多数示し、理解させた上で計算規則の必要性を説いている」と、法則の成り立ちを考えさせる指導法を行っているのです。いまだに、公式を暗記させたり、数式を解くことが重視されたり、解き方を工夫するより解き方を暗記させることに重点を置いた日本の数学は、遅れている気がします。インドの学習指導要領に「わが国が科学技術で重要な国になるつもりなら、この段階の数学教育を重視し、創造的にすべきだ」などと「国」を意識した記述があることなどを見ると、以前のブログで書いたドイツでの幼児教育からの数指導と同じ方向であることがわかります。芳沢教授は、「日本の指導要領は何のために勉強するか分からない。インドは志を育てるから強い」と分析しています。ドイツでの数学は、人格形成の一環であるとするのに対して、インドの数学は、「論証と志」重視ということになるのでしょう。昨日の記事でも、日本のインド系学校のニヤンタ・デシュパンデさんが、二桁の掛け算を説明しています。例えば75×75。1の位の数同士を足すと10になり、10の位の数が同じ場合にあてはまる法則を使う。1の位の数同士をかけて5×5=25、10の位の数字とそれに1を足した数字をかけて7×(7+1)=56。この二つをそれぞれ1と10の位、100と1000の位に並べ、5625と答えがすぐに出るというやりかたです。また、10台同士のかけ算のルールもあります。13×19なら、13に19の1の位の数9を足して10倍すると、(13+9)×10=220。これに1の位の数同士をかけた3×9=27を足す。220+27=247と、暗算でも出せるのです。こんな話は、頭が痛くなる人が多いでしょうが、たぶん、それは、日本の数学教育のあり方による弊害でしょうね。一時期、ネットで話題になったこんな話しはどうでしょう。一行で書けるごく簡単な、年齢を求める計算です。今日の日付と生年月日をそれぞれ8桁の西暦で指定して(今日の日付-誕生日)÷10000の小数点以下切捨てとすれば年齢が分かるというものです。やってみてください。
投稿者 fujimori : 21:50 | コメント (2)
2007年08月01日 [近頃思うこと]
チャイルドシート
2000年4月1日に改正された道路交通法(第71条の3第4項)により、運転者が6歳未満の幼児を自動車に乗車させる場合に、チャイルドシートの使用が義務付けられています。違反の場合は行政処分の基礎点数が1点付加されます。しかし、2000年度の日本自動車連盟調査資料によると、チャイルドシート着用率は40%程度にとどまり、 半数以上が着用していないことがわかりました。しかも、その着用率が、最近、さらに減っているそうです。幼児の交通事故は、歩行中よりも自動車乗車中に死亡したり負傷したりするケースが多くなっています。しかし、チャイルドシートにきちんと座らせることで、死者は約75%減少し、重傷者は57%減少すると試算されています。ですから、アメリカ合衆国などでは、チャイルド・セーフティシート(Child safety seat)といいます。ですから、その効用は十分にわかっていると思います。しかし、着用が減ってきている理由が、今の園における保護者の態度に共通するものがあります。チャイルドシートに座らせない主な理由は、「子どもが泣くから」「子どもが嫌がるから」だそうです。子どもが泣いて嫌がるので、泣き声を聞くのがいやだから、ぐずられると面倒くさいからと思うからでしょうか。ほとんどの親は、そうではなくて、泣く子に対して、かわいそうと思うのでしょう。子どもが可愛いので、泣かせたくないと思うからでしょう。しかし、それは、子どもを思ってのことでしょうか。泣かせるとかわいそうなのでしょうか。泣くことと、チャイルドシートに座らせることと、どちらのリスクが高いかの判断が、泣かれることによってしにくくなってしまうようです。園でも、子どもが泣く事があったり、嫌がることがあります。そのときに、「泣かせるとは何事か」と苦情を言ってくる親が増えてきました。泣くかどうかではなく、何で泣いているかの問題です。また、必ずしも嫌がることを避ければよいというわけではない場合があります。子ども達は、成長していくためには、当然ある痛みを伴うこともあります。それを、事前に遠ざけ、保護しているつもりが、かえって、リスクを増していることもあるのです。もうひとつ、チャイルドシートを着用しない理由に、「義母(姑)がチャイルドシートを使ってくれない」があります。子どもは、大人がしっかりと抱っこしてあげたほうが安全という主張をするのです。しかし、急ブレーキをかけると、大人に抱かれた幼児は、ダッシュボードに激突してしまいます。事故の衝撃は想像以上に強いのです。例えば時速40kmで走る車が衝突する瞬間、10kgの子供の体重は、減速度によって約30倍の300kgにもなるのです。抱っこしているお父さん、お母さんの力ではお子さまを支えきれません。今、それらは、きちんと科学的に検証されています。しかし、実際に行動するのは、過去からの思い込みや、情緒的な判断で行動してしまうことが多いのです。先日、来日したミュンヘン市幼児教育顧問のグレッチェさんが、「ドイツでは、0歳児から6歳児までの異年齢でクラスを構成しているのですが、どうしてですか?」という問いに対して、「その形は、0歳児にとっても、6歳児にとっても、脳の発達によいことが証明されていますから。」と簡単に答え、どうして、過去からの刷り込みや、情緒的な判断で祖父母が苦情を言ってきたときに、理念がぐらつくのか不思議がられました。本当に、子どもにとってなにがよいかの判断を間違えないようにしないといけませんね。