石垣

 小布施の町づくりにおいてとても重要な要素が有能な人材です。しかも、それは一人ではなく何人かの人材がそろわなければできることではありません。NHKの大河ドラマ「風林火山」で描かれている山本勘助のような軍師も、名将を生むために必要な人材です。武田信玄の名言に「人は城 人は石垣 人は堀 なさけは味方 あだは敵なり」という言葉があります。もともと城とは、敵から守るための防衛施設です。そして、その防ぐために構成するものの基本は、「堀」「土塁」「石垣」の3点です。信玄の言葉にある城と堀は、その城を守るためにとても重要なものです。その重要な城や堀と同じように、いや、それにもまして、人が重要であると言っているのです。堅牢な城郭を築くよりも、優秀な人材を集めることが重要であるという信玄の考え方で、この言葉のとおり、信玄の配下には山本勘助以下「武田二十四将」と呼ばれる知将、勇将が揃っており、武田家の勢力拡大に大きく貢献しました。また、この城を守る「人」は、必ずしも家来だけでなく、住民にもいえます。民衆がついてこなければ、守ってくれなければ、堅牢な城を持っていてもすぐに落とされてしまいます。ですから、信玄は同時に心血を注いだのは民政です。この民衆を助けるような民政も、軍事力の基礎であることを知っていたのです。釜無川に今も残る信玄堤はこれを物語っています。信玄が風林火山を旗印にしたもとにしたのは「孫子」の兵法ですが、その孫子の五事の第一に、「道とは、民をして上と意を同じくし、これと死すべく、これと生くべくして、うたがわざらしむるなり。」というものがあります。これは、君主と民衆とが心ひとつにして、生死を共にするような覚悟こそが、最も大事な道であるといっています。チームワークのよさというものは、個人個人の特性と能力を活かして、一体となって組織力が発揮できるよう集団でなければならないのです。そして、それぞれがひとつの理念の下で、心を通わせ、互に協力する団結がひつようです。それを孫子は、「常山の蛇」にたとえています。用兵というのは、常山の蛇の様に、頭を狙われたら、尻尾が攻撃する。また尻尾を狙われたら頭が攻撃してくる。 という様に、体全体が一丸となって敵に当たるのが理想だということです。信玄は、そのことを彼「甘柿も渋柿も、ともに役立てよ」と言っています。また、「(自分は)決して人をつかうのではない。わざ(意欲)を使うのである。(その人の持ち味である)能力を殺すことがないように人をつかってこそ、心地がよい」とも言っています。
 最近城を訪れたとき、見て感動するものが変わってきました。以前は、高くそびえる天守閣だったりしましたが、今は、その城の石垣です。これは、その城を守り人々と同じようにそれぞれの石がその形の特徴を生かして結びついて堅牢になっている姿は、技術的、技巧的、芸術的にとても美しいものです。また、それぞれの城の石垣にはそれぞれ特徴があります。「盛岡城(不来方城)」は、不規則な形の巨石をうまく使いこなして、高石垣が作る線がスッキリしていて、きれいです。
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「上田城(伊勢崎城、尼が淵城、真田城、松尾城)」には、石垣の礎石として、真田昌幸が上田城築城の際、太郎山から掘り出した「真田石」と名付けた大石があります。
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「小諸城(白鶴城、酔月城)」の三ノ門には、巨石が巧みに使われていて、二の丸付近では、全体的に石のサイズが大きく、天守台よりも見応えがあります。
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小布施4

 たまたまネットで、セーラ・マリ・カミングスさんの講演原稿を見る機会がありました。その話の内容は、今、保育教育界にも求められていることがたくさんちりばめられています。その中の言葉を紹介します。
「やると決めたら何事も最後まで投げてはいけない。大胆なことであればあるほど、皆は良いとは言わず、安全で無難な道を選ぼうとするが、今の時代は無難な道ほど危険な道はない。守ろうとすると結局守れないことになる。中途半端に頑張るくらいなら、やめたほうがいい。何でもやる以上は「命をかけて待ったなし、これ以上のところはできないというところまでやるぞ!」という覚悟が必要だ。」
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 「国際競争の激しい津波の中で溺れてほしくないと願い、今元気があるうちに先に動こう、何とかしようと、危機感を持って私たちは取り組んだ。歴史的に見ても、こうした悪い時代こそ、踏ん張って頑張るべき。良い時は誰でもそこそこできるが、ダウンの時こそ、それをチャンスに変えられる。単に残すとか守るというだけでなく、今の時代に見合った新しい可能性を見出すことによって、新たな広がりができると思う。我々の世代が、次の世代に何を伝えていくか考えることが必要だと思っている。」
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 「良い点、悪い点をリストアップするとともに、どういう点を変えたら良いのかを挙げるなど、見えないものをできるだけ見える形に変えてみることから始め、理想的な形はどうすればできるのかを考えた。またできない理由が100あっても、できる道が1つでもあれば良いので、No!をGo!に変えるため、まずはできない理由を洗い出した。できる道はその裏返しになるからである。」
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 「真実を突かれると、人は怒るもの。本当のことを言える会社であることが大事で、皆がイエスマンになってしまったり、レジスタンスになるのもまた動けなくなるから駄目である。」
「昔の方が斬新だったかもしれない。今頑固になっているのも、守りに入っている証拠かもしれない。それならば、もう一度その壁を取っ払って、楽しくしよう。」
「何事も、マイナスをプラスとして考えるなら楽しくなる。将来に価値を加える、あるいはプラスになるように努力することが大事。日本人はもっと社会貢献活動的な気持ちを持つべきだ。そうすれば、ますます日本はおもしろくなると思う。」
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 こんな人材の中で街づくりに取り組んでいる小布施の町を、駅から栗の散歩道を歩いていると、道端のいたるところにパネルによって絵本のように民話が紹介されていたり、この地域に関係する一茶句碑が町内に二十数基も建立されていますし、北斎漫画の碑が立っています。小布施で一茶は、将軍に献上するまで拾うことさえ許されなかった「お留め栗」を詠んだ「拾はれぬ栗の見事よ大きさよ」や北斎が天井画を描いたといわれる岩松院の池のかえるを詠んだ「痩せ蛙まけるな一茶是にあり」などがあります。
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 そして、北斎館からその北斎を小布施へ招いた人物であり、佐久間象山など有名な思想家や文人たちと交流した豪商高井鴻山の記念館から岩松院までのんびり歩いていくと、途中は果物王国とも言われるだけあってさまざまな果物畑が広がっています。こんな小布施へ、ぜひいろいろな人にも訪れてほしいと思いますし、町づくりの発想、がんばりを学びたいと思います。

小布施3

 小布施の街づくりには地元にある企業がどれだけ地域のことを考え、地域に貢献しようとするかにかかっています。そして、それをサポートする行政がなければなりません。各地の街づくりが成功したポイントは、それらのよい人材がそろったときです。一人ではできませんし、ひとつの企業だけでは出来ません。ここ小布施では、舞台としての小布施町の歴史がありますが、そこでその活動を進める人材がそろっていることが成功の秘訣でもあるようです。中心になったのは、「小布施堂」と「竹風堂」という2店の菓子店です。
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 市村家では、屋号が「桝一」という江戸時代宝暦年間より営んできた造り酒屋です。明治30年代に、桝一市村酒造場が缶詰技術と工場制の生産方式を導入して栗菓子の製造を始めたのが、小布施堂の前身です。小布施堂の栗菓子は、よくデパートなどで見かけます。大正時代から東京のデパートは、重要な販路のひとつでした。「栗落雁」・「栗羊羹」につづいて「きんとん」の缶詰である「栗鹿ノ子」が創製されました。栗だけで作った栗あんに大粒の栗の実がまざりあったいろどりは、若鹿の斑紋のように見えることから栗鹿ノ子という名前がつけられたと伝えられています。また、「桝一市村酒造場」は、セーラ・マリ・カミングスさんという取締役を迎えて、新しい展開を見せます。アメリカ人である彼女は、日本に留学した後、アメリカの大学を卒業し、再来日して小布施堂に入社します。そこで経営情報室を立ち上げ、利酒師認定を取り、桝一市村酒造場の再構築に取り組みます。1998年には、小布施堂、桝一市村酒造場の取締役就任し、2001年日経ウーマン誌が選ぶ「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002」大賞を受賞しています。私が昼食を食べた「蔵部」という酒蔵の一部を改装して作った和食レストランをプロデュースしています。レストランの中心部には、ご飯が炊かれているかまどが備えられています。彼女は、「とりあえず」や「仕方ない」という言葉を聞くと、「昔から日本人は曖昧な仕事はしない。今の日本人は逃げ道を作って仕事をする。仕方ある仕事を」と話しています。一方、「竹風堂」は、昭和47年に小布施で初めて「栗おこわ」を売り出した店としても知られています。「竹風堂」の栗おこわは、栗と餅米だけという構成ですが、ほのかな甘みの栗とほくほくのおこわが良くマッチしているそうです。また、「竹風堂」では、栗で作ったあんを使用した「栗あんしるこ」や「栗あんみつ」、名物の「栗ようかん」などの甘味類も味わうことができますが、私は暑い日でしたので、もちろん、栗かき氷をいただきました。kurigoori.JPG
 そして、地域全体での取り組みには、リーダー的存在が不可欠です。内閣府や国土交通省は各地の観光のリーダーとして大きな役割を果たした「観光カリスマ」に選定しました。この第1陣として選ばれた全国の11人の中に小布施から2名選ばれています。一人は、4期町長を勤めた唐沢彦三さんで、受賞理由は「観光資源の乏しい人口1万人の小布施を、北斎館を中心とした文化と歴史があふれ、年間120万人が訪れる町へと変えた。また、景観整備や花のあるまちづくりなど、住民が主役となって進めるまちづくり運動を成功させた。」とあり、もう一人の市村良三さんは、大学卒業後ソニーに入社し、その後小布施堂に入社し副社長で、2005年から町長をしています。実績として「民間のまちづくり会社「ア・ラ・小布施」を立ち上げ、住民の町おこし運動の中心人物として、栗どっこ市や国際音楽祭など、さまざまな企画イベントや事業を成功させるなど、小布施の名を全国的に高めた。」とあります。

小布施2

 私は昔から「小布施」といえば「栗」というように、長野からのお土産に小布施の「栗羊羹」とか「栗かのこ」とか「栗落雁」をよくもらいました。どうしてここに栗の木が植えられているかというと、諸説があるようです。一説には、「高井郡小布施村次第」に書かれていることによると「申伝事」として、弘法大使が諸国を巡っての途次、小布施へこられて三個の栗を蒔いたのがそもそもの始まりと伝えています。また、小布施の栗以外に栗というと丹波栗も思い出しますが、萩野常倫という人が、父祖の領地丹波国から栗を取り寄せて、松川の治水のために植えたさせたのが発祥とも伝えています。どのようないきさつかは定かではないようですが、この小布施の町おこしをするときに、この「栗」をテーマにしようと思うのは当然でしょう。
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昭和61年に、この「栗」と「歴史的建造物」と「地域の特性」を活かしたまちづくりを進めていったのです。そのために重要な歴史的建造物の保存、新築建物の周辺との調和、土地は売買せず賃貸か交換することとされ、町・事業者・個人など関係者5者により協定を結び整備を行った「ユウ然楼周辺町並修景事業」は、画一的な都市再開発の手法とは異なり「小布施方式」とまで言われ全国的に高い評価を受けました。その方法は、それぞれの整備に要した経費はそれぞれの負担で行うなど、住民と町がお互いに責任を分担しあうような対等な立場で進めるやり方です。とかく、誰かに依存したり、誰かがやってくれるのを待っていたり、要求したりすることが多い中、とても参考になります。ここで決められた「小布施町うるおいのある美しいまちづくり条例」は、規制を目的としたものではなく、官・民が共に協力しあって良いまちづくりを進めることを基本理念としています。その基本理念 「外はみんなのもの、内は自分達のもの。」ということで、個人の敷地内であっても、通り沿いや通りから見える部分については公共的な空間として、周囲の景観に配慮した整備を行うこととしています。そのひとつの試みが、建造物の間の道に敷き詰められた栗の木煉瓦の散歩道「栗の小径」です。路地にいたるまで、様々にデザインされた栗の道は、歩いていても心地よく、歴史的な建造物によくマッチしています。
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もうひとつの試みが、平成12年からスタートした「オープンガーデン」です。これは、「点」から「線」へ、「線」から「面」への取り組みでもあります。個人の庭園を一般に公開し、来訪者との交流を楽しむもので、今、参加家庭は、60軒以上にもなっているそうです。
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町を歩いているときに、観光客がその参加プレートを見つけると、その庭に勝手に入っていき、もし、そこに住人がいればお茶を飲んだり話をしたりしていいそうです。私が訪れた家は誰もいませんでしたが、庭はきれいに整備されていました。この試みの後、周囲の景観との調和と美しい町並づくりのための指針「環境デザイン協力基準」を定めるとともに、「住まいづくりマニュアル」などを作成するなかで、「外はみんなのもの、内は自分たちのもの」という意識が住民の間に芽生え、住宅の配置、外観への配慮、さらには通りを行き交う人に安らぎを与える花壇や生け垣づくりなどに発展していきました。この取り組みが、昨年の土木学会のデザイン大賞を受賞しています。
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私が以前ブログに書いた高知の「牧野富太郎記念館」も同年大賞を受賞しています。保育園、幼稚園を含めて「オープンガーデン」のような「オープンキンダーガーデン」が取り組めたら面白いですね。

小布施1

 私はよくいろいろな地方を訪れることが多いのですが、地方分権といわれながら、地方において過疎化も急激に進んでいます。駅前商店街はシャッター街に変わり、それでいながら、突然と畑の真ん中に大きなショッピングモールが出来ていることがあります。住民一人ひとりはそれで便利になるのかもしれません。しかし、その町の将来を長い眼で見たときに、それまで築いて来た住民のつながり、伝えてきた歴史、これから次世代の子どもたちに残していかなければならない文化、そんなことをもう一度見つめ直して街づくりをしていって欲しいと思います。こんな試みに取り組んでいる地域がいろいろなところに生まれ始めています。そんな町を応援したいですね。このような取り組みのひとつに、平成17年に創設された「東京理科大学・小布施町まちづくり研究所」があります。この取り組みに対しての紹介に中で、今までの街づくりをこう分析しています。「明治の維新と文明開化以降、日本各地のまちは、近世までに形成された良好で個性豊かな仕組みや景観を壊し、欧米の建築と都市の姿を模して「モダンに、モダンに」という掛け声とともに、雑然とした家並みをつくってきました。 欧米や国内の大都市の繁華街から「最新の店舗デザイン」を取り入れて家並みをつくる動きは、第二次世界大戦後も、高度経済成長・バブル経済の大波とともに何度も、日本各地を襲います。日本中のまちが、ラスベガス風、パリ風、あるいは東京の銀座風などのスタイルを取り入れた建て替えを進め、結果として、どこも同じような商店街をつくり上げました。」私が今までいた園が立っている多摩ニュータウンは、商店街だけでなく、住むところもみんな同じような建物、同じような公園、同じような生活スタイルを構成してきますた。同時に、子どもたちへの教育も、みんな同じようになることを目指し、親も同じようにすることを望み、要求するようになって来ました。その結果、「自立して生活環境をつくっていく意欲を失い、住民もまた、まちづくりは行政や専門家にまかせるものと思い込む。」つくづくと、街づくりと人づくりは似ている思いがしてきます。ですから、町の再生は、人の再生にもつながるのです。何度もブログで私が「町おこし」を紹介するのも、そんな思いがあるからです。そして、その手法はとても人づくりにも参考になることが多くあります。今回講演のついでに、日曜日に訪れた小布施の歩んだ道は、他の地域が歩んできた道とはちょっと違うようで、その取り組みに対する評価が、今高まり、その理念は注目されています。
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 その歩みをさらに力強いものにするために、多くの住民が参加意識を持ち、広い視野で考え知恵を出し合って合意形成しながら、慎重に、着実に行動を起こすことが必要となってきます。そのひとつと試みとして、教育と研究の新しい場の形成のため、学校法人東京理科大学と町と協働していくための研究所を作ったようです。が設立されました。まず、第一に行ったことは、歴史的建築に限らず路地や水路なども含めて、町内全域に残されている様々な歴史的遺構を実測して現状を正確に把握することです。その次に行ったのは、住民や行政の人たちへのインタビュー・アンケート調査です。過去の記憶、現状に対する考え、そして未来への希望などを調べ、まちづくりの基礎データを作ります。そのデータを分類し、統計をとり、分布図などを作成します。この分類・統計・分布図は、その町の景観・印象がどのような「要素」によって構成されているかを浮かび上がらせます。このような具体的なデータがあることによって、「○○らしさ」を議論することが可能になるわけです。また、「要素」は今後のまちづくりの素材でもあって、「どの素材を使って、どこから始めるか」など、まちづくりの手順を具体的に決めていくことができるようになるのです。

かき氷

 暑い夏を涼しくするものといえば、「お化け屋敷」だけではありません。ついでに言っておきますが、ブログでお化け屋敷のことを書いたときに私がそこに入らなかったのは、何もお化けが怖いからではありません。私は、いわゆる日本のお化けは怖くありません。大体日本のお化けは、西洋のお化けのように不特定多数を襲うのではなく、怨念から特定の人に化けて出ることが多く、他に人には特に危害を加えないイメージがあります。私は余り人から恨まれるようなことはしていない思いがあるので、誰かが化けて出て、私に危害を加えるという気がしないからです。ですから、夜、一人で部屋にいようが、夜、人気のいない校舎を歩こうが余り怖くはありませし、夢の中で怖さでうなされることはありません。(ただ、試験が出来ないとか、遅刻してしまうとか、試験が近づいて何も準備していないとかでうなされることは多いのですが)ん。ただ、実際の犯罪者などに襲われる恐れがある場合は怖いと思いますので、かえって、人ごみとか、誰かがいるときのほうに恐怖を感じることがあります。話はそれましたが、夏の暑いときに涼しくするものとして「かき氷」があります。
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私は、かき氷好きです。休みの日にウオーキングをしているとき、途中で無性にかき氷が食べたくなり、途中から、その店を探して歩き回る感じになります。しかし、場所によってかき氷の店が集中しているところと、まったくないところがあるので、店を探すのが大変です。私のこだわりは、やはり氷のキメの細かさです。じゃりじゃりしていたり、大きな氷の塊が入っているようですと興ざめです。これは、かき氷を作るときの機械と、掻く氷の形によります。古くは鋳物のフレームに大きな手回しハンドルが本体横に付いたものが主流でした。その後、氷をモーターで回転させるようになりました。このどちらも氷は、氷商に重さ一貫(約3.75キロ)の角氷と言われるブロックアイスを使います。よい角氷は、長い時間をかけて空気を抜きながら凍らせたものです。天然氷のように冬の間に暴露で凍らせておき需要があるまで氷室でストックしておいたものを使うこともありますが、最近は、そんな生産者は減ってきているようです。近年は、小型で高性能ながらアイスストッカー付きのキューブアイス用製氷機が出回ってきたことや各種電化製品の普及により、氷はブロックアイスからキューブアイスに移ってきています。このかき氷は、史実上の記録は平安時代に清少納言の『枕草子』「あてなるもの」の段に、金属製の器に氷を刃物で削った削り氷(けずりひ)に蔓草の一種である甘葛(あまかづら・あまづら、蔦の樹液または甘茶蔓の茎の汁と思われる)をかけたとして「削り氷にあまづら入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」と記述されています。こだわるの氷の質だけでなく、そこにかけられるシロップの質もあります。八王子の園の近くにある氷やさんのかき氷はとても私好みです。氷の質はもちろん、シロップがとてもおいしいのです。たとえばイチゴ氷の場合は、本物のイチゴを煮て、まだ少し形が残っているくらいのイチゴジャムをかけます。抹茶氷も、本物の抹茶をといたものを使います。色だけをつけたようなシロップはなんだか合成着色料を食べているような気になります。そして、次に、そのシロップのかけ方があります。例えば、大阪では氷の上にタレをからめる手法が普通ですが、東京ではタレを先に入れて氷を上からかけます。東北ではタレの上に氷、そしてさらにその上にタレでサンドするといわれますが、やはり店によるのでしょう。園の近くでは、別の容器に入れて持ってきて、自分でかけます。そろそろ氷の季節が終わるのは少しさびしい気がします。

見附

 私は、高校に通学するのに「赤坂見附」の駅で降りていました。なんとなく、当然のようにその駅を利用していたのですが、たまたま以前この近くを散歩していたところ、「赤坂見附跡」という指標を見つけました。
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当然ですが、ここに赤坂見附があったのです。見附は、江戸時代、枡形をもつ城門の外側の門で、見張りの者が置かれ通行人を監視した所です。枡形とは、直角に設けられた二つの城門と城壁とで囲まれた四角い空き地のことを言い、敵の直進をさまたげ、勢いを鈍らせる効果があるといわれています。江戸城には、内郭・外郭の城門を含めて俗に36見附と呼ばれていました。しかし、実際は50とも90とも言われるこの見附は数が多いということで通称36見附といわれたようです。よく言われるものに、赤坂見附のほか、喰違見附・四ツ谷見附・市ヶ谷見附・牛込見附・日比谷見附そして、浅草見附等々があります。紀尾井坂を登ると左にホテルニューオータニの正面玄関があり、それを過ぎると正面に石垣があり道はT字路になっています。この左に下るところが喰違見附跡です。喰違門跡を通り抜け、外堀方向へ行くと左眼下に弁慶濠が見え、そこには弁慶橋が架かっています。
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この弁慶濠は、ボートが浮かんでいます。高校1年生のとき美術の時間に私のそこを写生した絵が、しばらく校長室に飾られていました。私の出身高校はとても自由で、美術の時間は、200分間、自分の好きなことを好きな場所でやってよいということで、私は写生をしたのですが、模型を作っていた人もいたり、室内でデッサンをしたりしていた人がいました。ここから少し行くと、赤坂見附交差点が見えます。赤坂見附は寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、枡形石垣が作られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直、小川安則によって門が完成しました。堀からの石垣は高く、当時の技術の高さが分かります。江戸時代の赤坂御門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。明治時代に門は撤去され、石垣も大部分が撤廃されましが、現在は一部が復元され、保存されています。また、JR四ツ谷駅の市ヶ谷方向口を出たところに四ツ谷見附跡があります。そして、JR総武線が走っている上を「四谷見附橋」が架かっています。この橋が広げられるときに橋梁が貴重ということで保存しようという運動の末、移築保存されているのが何度もブログに登場した多摩ニュータウンの「長池見附橋」です。
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 この橋のほとりにある園にこの3月まで勤務していたからです。四ツ谷見附跡から、JRに沿って土手を市ヶ谷のほうに歩いていくと、市ヶ谷駅に出ます。そして、靖国通りの横断歩道を渡ると見附交番があり、その裏側の公園の入り口に市ヶ谷見附跡があります。 更に土手を歩いていくと、右手に法政大学が見えてきます。そして、もう少し行った飯田橋駅の市ヶ谷寄り駅前交差点のはす向かいに、牛込見附の説明パネルがあります。江戸時代の牛込見附は田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。その後、明治35年に石垣の大部分が撤去されましたが、現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。四谷から飯田橋にかけて大学から、怪談、そして見附など歴史を偲ぶいろいろなものが碑として残されています。テーマを決めて歩くのもいいですね。

情報の確かさ

 Gooベビーの記事にこんなことが書かれていました。「少し前までは、早期教育といえばごく一部の熱心な親が、わが子に芸術や運動の分野において早くから一点集中型の徹底した指導を行うことを指していました。しかし今では早期教育イコール早期の教科教育であり、もっと換言すれば赤ちゃんあるいは胎児のうちから数学と英語(国語、ではない)を教えること、になりつつあります。これは地域を超えた、一種世界的な流行のようです。」
こんな記事が流れると、親たちはあせるでしょうね。確かに以前のブログで書きましたが、ドイツなども英語教育とか数学教育が盛んになってきています。そして、OECDなどでもプレスクールの必要性を謳っています。しかし、ここにはこう書かれています。「乳幼児教育及び小学校システムの両者においてより統一された学習方法が採用されるべきであり、また就学児童が直面する移行課題に注目すべきだ、と調査研究は提案する。より統一された方法の探究は、異なった政策選択をもたらした。フランス語や英語圏は「学校準備」方法を採用した。この方法は、広範囲に規定されているが、乳幼児年齢での認知発達訓練と、広範囲な知識・技術・気質の獲得に焦点をあてている。この方法に内在する欠点は、児童の心理と自然学習方策にあまり相応しくないプログラムと方法を使っていることだ。社会教育伝統を内在する国々(北部・中部ヨーロッパ諸国)では、就園年齢は人生に対する幅広い準備と生涯学習の基礎段階とみなされている。子どもの移行を容易にすることは全てのシステムで政策課題となっている。子どもの移行は一般的に成長発達への刺激となるが、突然であったり、安易に扱われたりすると、とくに児童にとっては退行や失敗の危険性を帯びることになる。」いわゆる早期教育の危険性を世界では訴えているのです。この危険性について「子どもの脳の発達 臨界期・敏感期」(榊原洋一著 講談社+α新書)でも同じようなことが脳科学的にも書かれています。「早期教育の実態について、文部科学省などが行った調査研究では、事例報告として、早期教育を厳しく行ったために情緒障害を起こしてしまった子どもがいることが報告されている。最近、日本と同じく早期教育が盛んな韓国から、早期教育が子どもの発達に及ぼす弊害の可能性について報告が出されている。早期教育が子どもの発達に及ぼす弊害の可能性には二つの種類がある。ひとつは、過激な刺激が、もともと刺激に敏感な乳幼児の脳のオーバーフローとなってしまうという可能性だ。臨界期に過剰な刺激が加わると、脳の発達のプログラムが障害される可能性がある。一部の早期教育は、休まずに乳幼児に刺激を与え続けることを進めている。そうした早期教育を受けた子どもたちが、将来刺激のオーバーロードによる何らかの障害を呈さないかどうか、きちんと検証する必要がある。もう一つは、早期教育への過度の期待が、子どもに大きな身体的・精神的ストレスを与えてしまう可能性である。親子の愛着関係が重要な磁気に、厳しい訓練や練習を強制された子どもたちの中に、情緒障害を引き起こしてしまった例はすでにある。また、早期教育への過剰な期待が、親子の関係に影を落とすこともある。」最近は、このような研究があり、世界的にもこのような傾向にあるはずですが、どうして冒頭のような記事になるのでしょうか。人々は、情報をある一部分のところから得ます。そして、それがあたかも正しいかのように思います。情報を発信するところは、もっと慎重に、責任を持って出してほしいものです。

怪談

 暑い暑いといいながらも、時折吹く風の冷たさに驚くことがあります。しかし、先週の日曜日は暑かったですね。ということで、ドイツから来ていたお客さんを、涼しいところに連れて行ってあげました。そこは、浅草花やしきの「お化け屋敷」です。(もちろん、私は入りませんでした)
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この時期、各地でそれぞれ趣向を凝らした「お化け屋敷」があるようです。それでもだいぶ以前より少なくなりましたが。お化け屋敷にも大きく西洋系と東洋系がありますし、古典的なものと現代的なものがあります。外国では、「ゾンビ」とか「エイリアン」とかホラー系で、東京ディズニーランドなどの「ホーンテッドマンション」などもそうですね。また、最近のものとしては、「リング」とか「呪怨」のように映画とのタイアップのものも見られます。日本独特のものといえば、妖怪ものや、寺や夜の校舎を舞台としたもの、作家の「水木しげる」や「楳図かずお」ものもあります。そういう怪談ものの映画の新作がまた公開されるようです。落語や歌舞伎の人気演目「真景累か淵」で、原作を初代三遊亭圓朝が書いています。圓朝は、落語家と称しても、「お笑い」の分野より、自ら創作した噺、講談に近い分野で独自の世界を築いています。当時、日本に導入された速記法により記録された文章は新聞で連載され人気を博しました。この文章は、作家二葉亭四迷に影響を与え、有名な「浮雲」を口語体(言文一致体)で書いて文壇に衝撃を与えたのです。また圓朝は、海外文学作品の翻案にも取り組んでいます。彼の有名なものには、「牡丹燈籠」「四谷怪談」「真景累ヶ淵」など怪談ものなど多数の自作演目を創作しました。派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博します。しかし、こんな負けじ魂があるのです。彼の作品に創作が多いのは、師匠に援助出演を頼まれて、その講座のために準備していた演目を、先にかける仕打ちを受けたのを機に、「人のする話は決してなすまじ」と心に決めたのです。以降、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開きました。その中にもある「四谷怪談」「皿屋敷」「牡丹灯籠」の三話は日本三大怪談とされています。今回、お化け屋敷に招待?した(もちろん、私は入りませんでした)手前、古典的な怪談を知っているかと聞いたところ、やはり若い人は知らないようです。前日連れて行った「東京江戸博物館」に行ったときに、歌舞伎の四谷怪談の仕掛け舞台の模型があり、舞台裏を見ることができるようになっていました。四谷怪談とは、元禄時代に起きた事件を元に創作されたもので、東京都四谷が舞台となっているためにこの名がついています。「東海道四谷怪談」は、4世鶴屋南北作の歌舞伎狂言で、代表的な生世話狂言であり、怪談狂言、夏狂言です。舞台裏が見えるようになっていた場面は有名な舞台面で、「岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き、悶え死ぬところ」と、「岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚くところ」と、「蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に取り殺される場」です。この場面を思い起こすだけでも背筋が寒くなる思いです。私が子どものころ、髪を振り乱して変な顔をして「お岩さん!」などと叫んだり、冷やかしたりしていました。今度、残暑厳しい夜、三大怪談のあらすじでも書いてみます。部屋で一人で声を出して読んでみると、少しは涼しくなるかもしれません。

大学発祥

 私の住んでいる八王子市は、その周辺部も含め、23の大学・短期大学・高専があり、11万人を超える学生が学んでいる全国でも有数の学園都市です。ですから、いろいろな地域の人から、学生時代に八王子市に住んでいたことがあるとか、息子さん、娘さんが今八王子市に住んでいるとか言われます。そんな町を学園都市と今は言うのですが、私の学生のころは、「学生街」と呼んでいました。その中心は、神田駿河台地区あたりで、ここは日本国内で最も大学が集中している地区でもありました。明治時代に千代田区神田駿河台へ学問所が集積した名残から「神田駿河台学生街」と呼んでいたのです。昌平坂学問所などもありましたね。この地区には「日本のカルチェラタン」という別名もあります。カルチェラタン Quartier latinとはパリ大学(ソルボンヌ)あたりのことを指します。「ラテン語がよく喋られる町の一角」という意味ですが、なぜそう呼ばれたかというと、かつての西欧では学問はラテン語で行われるのが基本だったからです。神田駿河台あたりには、今は八王子市に移転しましたが、かつては中央大学もあり、一方で、大学の医学部や付属病院、および一般の市中病院が多く立地しており、医療地区でもあります。このような山の手の医療集中地区を、英語ではPill Hillというそうです。それよりもっと以前は、どうも飯田橋あたりが発祥の地のようです。このあたりには、「○○大学発祥の地」という碑が何本か立っています。その碑には、そのいきさつが書かれています。
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 東京女子医科大学:吉岡彌生は明治33年(1900)12月5日、この地にあった至誠医院のなかに東京女医学校を創立しました。翌34年4月、同校は牛込区市ケ谷仲之町に移転。のちに市ケ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。吉岡彌生の至誠医院は明治41年(1908)に旧飯田町四丁目31番地に移り、関東大震災までありました。
 日本大学:明治22年(1889)、ここ皇典講究所内に維新の志士、吉田松陰門下、時の司法大臣である山田顕義により日本法律学校が創立されました。これは、日本大学の前身にあたります。明治28年(1895)に三崎町に移りました。
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 東京農業大学:明治24年(1891)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の前身育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治25年(1892)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農場用地取得のため大塚窪町に移転しました。
 東京都府立第四中学校:明治34年(1901)、東京府立第四中学校が、この地にありました。同所は明治15年(1882)に国学を研究する目的で設けられたもので、明治21年(1888)に同じ地内に開設された補充中学校が、共立中学校、東京府城北尋常中学校と名を変えて府立第四中学校となったものです。その後、府立四中は明治37年(1904)に市ケ谷加賀町に移転し、戦後は新宿区戸山町に移り東京都立戸山高等学校となっています。
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 國學院大學:明治15年(1882)、この地、旧飯田町5丁目に国学を研究する皇典講究所が設けられました。明治23年(1890)、皇典講究所を母体として、所長山田顕義によって國學院が開校しました。現在の國學院大學です。大正12年(1923)、渋谷に移りました。
それぞれの大学の発祥は歴史的にも面白いものがありそうで、今度調べてみたいと思います。