池や水場は地域にとって癒し空間になります。それは、都会の中ではなおさらです。また、野生の生き物もとても癒しになります。しかし、それを子どもがいたずらをしたり、生き物を取ったり、その池や川に人が落ちたりすると、そこに柵を作れとか、池に網をはれという話になります。そのようなことをしないと、人は自然と共生する事はできないのでしょうか。私からすると、小川に柵をつけるとか、水の表面に網をはってしまうと、癒し効果は薄れる気がします。それは、自然ではなくなるからです。どうでしょうか。ドイツでは、学校の周辺で自然体験学習をする学校は多くあります。生徒が小川の里親になったり、あるいは川の清掃などを行なっているところもあります。学習用に様々な道具を詰めた「自然体験かばん」を用意すれば、近くの森への遠足もちょっとした冒険に早変わりします。森の探偵になった子どもたちは動物の足跡を探し、土のサンプルを取り、顕微鏡やルーペを使って自然を研究します。かばんには課題を書いたものや、資料、工具などを入れておきます。子どもたちは金槌ややすりの使い方を楽しく覚えることができ、嗅覚など全ての感覚を使って自然を体験します。近くに小川があれば、生徒たちは若き研究者として反応器を使った水質検査をし、プロのように水質分析ができます。飲料水に粘質の汚染物質が入っていることを一旦自分の目で発見した生徒は、水質改善への取り組みにこれまでとは全く違うモチベーションを持つことになります。そういった生徒が将来、山道の奥に使用済み油を廃棄するようなことはおそらくないでしょう。 また、水の中や森の中の生き物にいたずらしたり、いじめたりはしないでしょう。また、家族で森の遊び場へ遊びに行こう、自然キャンプで休暇をすごそうという呼びかけを行っています。ドイツでは、数多くの環境学習センターや国立公園が後押しする環境と自然を楽しむ休暇が流行となっています。滑り台、シーソー、ジャングルジムなどがあり、綱遊びもできる森の遊び場では、子どもたちは大喜びで遊び、近くの草地ではピクニックやバーベキューができます。またドイツの国立公園には数多くの自然体験歩道があり、日曜に散歩しながら、あるいはハイキングをしながら、自然環境についてよりよく学ぶことができるようになっています。バイエルンの森の自然体験歩道では、ハイキングをする大人や子供が立ち止まって、生き物の生息空間である森についての知識を様々な方法で得られる場所が、途中の9ヶ所に作られています。森の音に耳を澄ましたり、自然のなかにあるものを使って音楽を楽しんだり、植物に触れて匂いを確かめたり、動物と一緒に木登りや幅跳びの競争をしたり。疲れたら、木のあずまやで休むこともできます。大きな蜘蛛の巣などのわかりやすい素材を使って、森の生態系が多様に絡みあっていることがわかります。このようにドイツでは、家庭、学校、市町村、連邦といった様々なレベルで環境教育が行なわれています。「魚を取るな!」「保護するために網をはる」「ごみを川に捨てるな!という対策では無理のような気がします。環境を守るとか、ごみを捨てるとか、道徳や倫理観は、決して言われてするものではなく、罰せられるからするのでもなく、覚えこまされるものでもなく、そのものへの愛着とか、それが自分にとってどういうことであるかという認識とか、それらと楽しく過ごした経験などから生まれてくるものなのです。
今日のブログに書かれている通り「決して言われてするものではなく、罰せられるからするのでもなく、覚えこまされるものでもなく、そのものへの愛着とか、それが自分にとってどういうことであるかという認識とか、それらと楽しく過ごした・・・」が大切だと思います。「机上の空論」という言い方がありますが、現在の学校で行われていることは、環境保護や道徳を「教育」という何か特別なことのように教え込む、学ばせる、ということをしているような気がします。やっていることが「机上の空論」的な感じがします。今日電力会社の人から発電所付近のビオトープや環境保全の取り組み等を子どもたちに知らせたい、という提案を受けました。「本物」を体験できる、ということで学校の教室よりは子どもたちのためになるかな、とその提案を嬉しく思いました。ドイツの学校のような取り組みができるのはいつのことやら・・・。お粗末なわが国の教育環境に、自己卑下ではなく、本当に拙い、という気持ちを抱かざるを得ません。
大切にしろと言われたら大切にするようになるのではなく、愛着を感じるから大切にする。言われるとおりだと思います。環境によくないことをしそうになった時でも、過去の楽しい体験を思い出すことができれば、思いとどまることができるような気がします。時間がかかり大変で遠回りな方法かもしれませんが、ドイツのような自然体験を教育に取り入れる方向に進んでもらいたいと強く思います。