地場産業

 新宿といえば、何の商売を思い浮かべるでしょうか。場所として思い浮かべるのが「歌舞伎町」であるように、職業もその地域に関連するような夜の商売を思い浮かべる人が多いでしょう。私が、保育園を新宿で開園したと聞くと、その保護者は、その関連の職業の人であるとか、または、勤務地が新宿にある保護者であって、そこに住んでいる人たちのことは余りイメージをしません。しかし、新宿区にも立派な「地場産業」があるのです。地場産業とは、地域と密接に結びつき、存在基盤の多くを地域に依存している産業のことをいいます。そのひとつは、容易に理解できますが、「印刷・製本関連」の事業です。いわゆるさまざまな印刷屋があるのです。それは、明治19年(1886)年に、秀英舎(現大日本印刷の前身)が中央区から市谷加賀町に移ってきて以来、市谷、神楽坂周辺に出版、印刷、製本関連の事業所が多くなったのです。今は、文京区と並び東京都を代表する集積地となっています。もうひとつ、意外な地場産業があります。この産業は、私の園がある高田馬場・落合を中心に、事業所が立地している染色業です。経済産業大臣指定の伝統工芸品である「東京染小紋」「東京手書友禅」、東京都指定の伝統工芸品である「江戸更紗」「江戸刺繍」「東京無地染」などです。園の開園式のときのパンフレットの下地には、この小紋の模様を使いましたし、園の保育室にぶら下がって札の下地にも江戸小紋を使っています。その染色業者の歴史は、大正の中頃、染色業者が水源として神田川の清流を求めて神田や浅草にあったのですが、その地域が繁華街に呑み込まれ、行き場を失った染屋は神田川をさかのぼり、江戸川橋、早稲田戸塚周辺から高田馬場あたりにかけて、まず大規模な浴衣(注染そめ)工場の進出があり、その後、規模の大きい東京染小紋、江戸更紗の工房が進出し、その染の関連業種が続いて進出してきたのです。そこに一つの染の集散地が形成されると、東京手描友禅の職人さんもやってまいりました。ここ新宿・神田川流域に東京で一番大きな染の主産地が出来、全国の染の産地と披見される場所になったのです。昭和に入って西武線が開通してからは、神田川、妙正寺川をはさむようにして、工場等の数も増え、川のあちこちで、染工場の職人たちが染めた反物を水洗いする様子が、昭和35年まで見ることができたそうです。私が住んでいる八王子も、織物の町で、近くを流れる浅川でも、上流で反物の水洗いをしているようで、川の水が赤や青に染まっていたのをなんとなく覚えています。この新宿にも、着物を仕上げるまでの多くの作業工程に関連して、下絵、模様、引き染、蒸し、刺繍、箔置き加工や洗張、染色補正、湯のし等があり、それぞれの業種に伝統技が行き続いています。新宿といえば、超高層ビル群や繁華街のイメージばかりが強調されがちですが、一方にはこういった伝統産業が地場産業として息づいているのです。しかし、もともとは、「お江戸神田紺屋町」などに代表される地名でもあらわされるように、神田川流域の神田から隅田川周辺の浅草に染屋の集散地は広がっていたようです。そして、全国から集まる大名や商人や、また、物流の中心である大都市江戸市街はその時代の流行の中心でもありました。そこには越後屋などに代表される大呉服店が日本橋界隈に点在し、そこで生み出された流行はすぐに神田の染屋に注文されたわけです。新宿では昭和52年に、印刷・製本関連行と染色業を地場産業として位置付け、その振興を図っています。「地産地消」「地場産業」これからは、地域がキーワードです。