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2007年06月30日 [近頃思うこと]
佐世保バーガー
いつからか町にハンバーガーショップが並び、どこに行ってもその変わらない味で、何か食べようと思ったときには、そのバーガー食べる安心感があります。その値段の安さでも、若者には特に人気があります。ハンバーグという食べ物は、わりと以前から子どもの人気メニューのひとつでした。そのハンバーグをパンにはさんだものがハンバーガーですが、私からすると、バーガーに挟まれているハンバーグは、まったく違うものの気がします。普通、ハンバーグというと、牛肉とか豚肉をひき肉にして、パン粉と一緒に練って焼いたものですが、バーガーに挟まれている肉は、ひき肉(主に牛肉)を薄い円形に固めて(パティという)焼いたハンバーグを、同じく円形に成形して2つ割にしたパン(バンズという)にはさみ込んだものです。ですから、ハンバーグの一番の魅力の肉のジューシー感はありません。その分、ケチャップ、マスタード、マヨネーズなどで味付けし、味に厚みを出しています。そして、ハンバーグとともに、レタス、トマト、タマネギ、ピクルス、チーズなどをパンにはさみ込んであります。私の子どものころは、まず、レタスという野菜はありませんでした。そういう時はほとんどキャベツで、キャベツが高いときは、白菜です。また、たまねぎとかきゅうりをパンに挟むことは思いもしませんでしたし、きゅうりの漬物は糠みそとか塩漬けで、酢漬けなどしませんでした。それらは、もちろんすべてアメリカから入ってきた食習慣です。味覚というのは不思議なもので、長い間の食文化や味文化が、すぐに異国のものに征服されてしまうのですね。このハンバーガーも、アメリカだけでなく、中国やロシアを始めとして、他国でも人気があるのですから、人気のある味は世界共通なのかと思います。ただ、外国でマクドナルドのハンバーガーを食べたときに、少し日本と味が違い気がしました。その国に微妙にあわせているそうですが。そんなわけで、ハンバーガーはアメリカから入ってきたのですが、ショップの拡大路線として進出してきたわけではなく、日本に駐在しているアメリカ兵によってもたらされたと言われています。米海軍佐世保基地の米兵相手に1950年代初め、地元の人たちが出店したのが始まりといわれています。今では、佐世保市には現在、約60軒のバーガー店があるようです。この数年、チェーン店とは違った個性的な味がテレビや雑誌で取り上げられ、全国に知られるようになっています。長崎空港には、長崎名物としてちゃんぽんに並んで紹介されていました。

今、ハンバーガー伝来の地を売り物にして「佐世保バーガー」の味を守ろうと、長崎県佐世保市で佐世保バーガー認定委員会ができ、ブームで新規店が乱立するなか、「本物」にお墨付きを与えようとしています。一方で、特需にあやかろうと市内には新規店が乱立し、観光客から「並んで買ったのにおいしくなかった」という声も聞かれるようになっています。しかし、もともと発祥の地ということで、味に独特なものがあるわけでもなく、他のバーガーと特に違うわけでもなく、これを観光の目玉にするにはもう一工夫する必要がある気がします。私は、各地の町おこし企画が大好きなのですが、それには、いくつかの要素が必要ですね。このたび、ブログで何度か取り上げ応援していた島根の「石見銀山」の世界遺産登録決定おめでとうございます。島根は、温泉も多いし、歴史もあり、やたらと観光客に踏み荒らされないような町おこしを計画して欲しいと思います。
投稿者 fujimori : 16:23 | コメント (2)
2007年06月29日 [新聞記事より]
プロジェクトX
地方に行くと、地方で過疎化が進んでいるのを実感します。これから地方分権が進むと、地域間格差がますます広がるのではないかと懸念します。その地その地での文化、特色、よさがたくさんあります。そのれを引き継いでいかなければならないでしょう。しかし、逆に、私が多摩ニュータウンで園を開園したころは、周りにはなにもありませんでした。園の前も空き地です。ニュータウンという街づくりは、街を再開発していったわけではなく、里山であった野山を切り開き、整地し、そこに街を作っていくというやり方です。ですから、そこには特に伝承されたものはなく、その地に以前から住んでいた人もいず、まったく新しく移り住んできた人々で構成されます。しかし、計画された街であるだけに、景観は美しく、大きな緑の公園はあちらこちらに点在し、人と車の動線は交わらない工夫がされています。しかし、いくら景観や設備、施設は計画できますが、人の心は計画できません。開園した当初は、なんとなく、無機質な、人の気配が感じられない、生活感のない街でした。最初のころは高層マンションだけでしたので、犬を連れて散歩する人もいず、猫も歩かず、みんな車での移動だけでした。そんな中で、街づくりを一生懸命にしようとした人たちが何人か現れました。富永さんもそのうちの一人でした。今は、街づくりとそこに住む人の暮らしを応援するNPOを立ち上げ、指定管理者としてネイチャーセンターの館長をしています。彼とは、縁があって、一緒に街づくりを手伝うことになりました。そのいきさつが、以前、新聞に掲載されました。「緑豊かな真新しい街で休日を楽しもう」というタイトルです。この記事を改めて読むと、なんとなく懐かしくなります。ちょっと、記事の書き方が、以前、NHKで放送されていたプロジェクトXのようです。「富永一夫が、多摩ニュータウン(八王子市の長池地区)の団地に引っ越して来たのは94年だ。外資系の飲料容器メーカーの営業マンで、職場は都心。富永はニュータウンでのゆとりある暮らしを思い描いていた。だが、しばらくすると不満が募った。近所の住民同士、目が合ってもあいさつをしない。人間関係に不安さえ感じた。「定年後に一杯やれる仲間をつくりたい」 団地の管理組合で役員になった富永は、子供と父親が一緒に集えるような企画を練った。 95年夏、アニメ映画「平成狸(たぬき)合戦ぽんぽこ」の上映会を開いた。夏休み最後の日曜日は大いににぎわった。人間関係の希薄さに不安を感じていた人がほかにもいた。 「せいがの森保育園」の園長・藤森平司(55)だ。97年春、藤森は長池地区に保育園を開いた。街に住民が集まれる場所がないことに驚き、園内に誰でも使えるコミュニティールームを設けた。藤森は子供の頃、神社の境内や路地が遊び場だった。「地域社会で子は育つ」が持論だ。大学を卒業して小学校教師をしていた当時、父親たちを集めて懇談するなど、地域ぐるみの子育て活動に取り組んだこともある。「長池地区にも顔の見えるコミュニティーが出来ないだろうか」。藤森はずっと考えていた。「長池公園で夏祭りを開くのですが、保育園のトイレを貸してもらえませんか」。藤森の保育園を、富永が訪ねたのはその年の夏だった。藤森は快諾した。2人は地域活動の話で盛り上がった。「運命的な出会いだった」。藤森は、その日の日記に記した。」なんだかこの書き振りには、照れてしまいますね。みんなに、日記を書いているのですか?と聞かれるたびに、「心の日記に記したのです。」と答えたものでした。今は、ブログを書いているので、そこに書いたかもしれません。
投稿者 fujimori : 23:50 | コメント (3)
2007年06月28日 [近頃思うこと]
朋
「子曰く、学びて時にこれを習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋遠方より来たるあり。また楽しからずや。人知らずして憤らず。また君子ならずや。」今日は、「学びて時にこれを習う。また説ばしからずや。朋遠方に在り。また楽しからずや。人知らずして憤らず。また君子ならずや。」という心境の長崎でした。私なりの解釈はこうなります。「人の人たる道を学び、いろいろな時と場で実践をしていく。そして、自己の理解程度や実際の実践をしてその効果を知ることで喜びを感じます。また、それを共有する友が現れ、そんな友が遠方にもいて、交流が始まるのもとてもうれしいことです。その友と会って、また共に切磋琢磨できます。そのようにともに学んでいくと、例え世の中に広く知れ渡らなくても、なかなか自分の考えを理解してもらえなくとも、何も嘆くことはないのです。名が広がるよりも自分の道を貫いていくことこそ立派な君子なのです。」長崎大会に出席して、そんな思いを強くしました。もとの文は、論語の最初にある学而篇の最初に出てきます。この「朋」という字は、もともと数個の貝をひもでつらぬいて二すじ並べたさまを描いたものです。それが、同等のものが並んだ意を含み、のち肩を並べたとものことを指すようになります。ですから、今日のともは、「友」というより「朋」という字を当てたほうがいい気がします。それは、同じ理念を持った仲間ということだからです。「朋」には次のような意味があります。ひとつは、この学而篇にあるような「対等の姿で肩を並べたともだち」という意味です。二つ目は、「朋党」とか使うように「なかま。いっしょに組んだなかま。」という意味です。ですから、今日、長崎で、オフ会が開催され、そこで会ったともは、「朋」なのです。

私は今、保育の理念を同じくする仲間とメーリングリストの中で、意見交換をしています。以前のブログで書いたように、「オフ会」とは、「off-line meeting」ということで、パソコン通信やインターネット上で活動するグループに所属するメンバーや、ネットワーク上の特定の掲示板・チャットなどによく出入りする人々が、実際に集まって行なう会合のことをいいます。ネットワーク上、すなわち「オンライン」に対し、現実世界を「オフライン」としてこのような呼び方がされています。ネットワーク上で名前を知り、その考えを知ることによって、まだ直接に出会ったことがないお互いでも、親しい知り合いのような気になります。ですから、実際に顔を合わせると、イメージ通りの人、イメージと違う人とさまざまな印象を受けますが、それでも、すぐに親しくなります。実際には面識がなくても、ネットで事前に色々と情報のやり取りをしているため、打ち解けやすいのです。このオフ会は、「オフミ」とか、「オフ」等と略されることもあります。今日は、30人以上も集まりました。会食しながらメンバー共通の保育に関する話題で盛り上がりました。大会自体は、さまざまな考え方の人が集まり、必ずしも自分の考えを主張することは出来ません。というのも、意見が違うとか、考え方が違うとか、そういう人と意見交換することは意味がないということではなく、もっと基本的なことに共通認識がないと、違う意見でもかみ合わないということです。やはり、議論をするとか、意見交換をするとか、提案をするとか、その意見が参考になったりするのは、その基本のところが同じでないと難しいことです。オフ会では、あらためて、朋がさまざまな地にいることを知って、大きな喜びでした。
投稿者 fujimori : 23:57 | コメント (4)
2007年06月27日 [研修]
龍踊り
今日から3日間、長崎で第50回全国私立保育園研究大会が行われます。長崎といえば、昨年4月から10月まで7ヶ月間にわたり、日本で初めてのまち歩き博覧会「長崎さるく博“06」が行われたところです。私も妻とこれに参加をし、何回かブログにも登場しました。このイベントは、なかなかよい企画だと思ったのですが、やはり好評だったようで、今年の4月から年間を通して「長崎さるく」として楽しめるようになっています。この「さるく」とは長崎の方言で「ぶらぶら歩く」ことを意味していますが、長崎には歩いてみるところが町全体にずいぶんとたくさんあります。長崎のもつ独特の歴史や文化があり、そのせいかわかりませんが、今回の大会参加者も全国から2500人も参加しています。今日の午後のシンポジウムに、数日前のブログで書いた、オランダから来た、リヒテルズ直子さんと一緒にシンポジストとして参加しました。その前に、オープニングとして「龍踊り(じゃおどり)」がありました。これは、長崎くんちに奉納する踊りとして伝わってきました。長崎くんちは、地元では一般的に「くんち」と呼ばれますが、長崎県長崎市のお諏訪様(諏訪神社)の祭礼で、敬意を表し、年配者や商売人には「おくんち」という人もいます。10月7日から9日までの3日間催され、いまは、国指定重要無形民俗文化財に指定されています。「くんち」には「宮日」「供日」という字があてられることが多いですが、その名称は旧暦の重陽の節句にあたる9月9日(くにち、九州北部地方の方言で「くんち」)に行ったことに由来するという説が有力だそうです。この「おくんち」は、博多おくんち(福岡市櫛田神社)、唐津くんち(佐賀県唐津市)と並んで日本三大くんちと呼ばれています。この祭礼には、この踊りのほかに「鯨の潮吹き」「太鼓山(コッコデショ)」「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」など、ポルトガルやオランダ、中国などの影響を受けた南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、独特でダイナミックな奉納踊りが特徴です。
古来より中国人は正月十五日を「元宵節」といって「舞龍灯」(wu long deng=龍の踊り)でその年の最初の満月を祝い、五穀豊穣を祈る雨乞いの神事を行う習慣がありました。今も世界中のチャイナタウンでこの文化習俗はうけつがれています。その龍踊りは、日本では長崎市の歴史が一番古く、江戸時代、鎖国政策の中、長崎に唐人屋敷を作り、中国の人たちの居留地として日本と中国の文化交流が行われました。そこの「唐人」たちに、この屋敷に隣接していた本籠町の人たちが、「舞龍」(wu long=龍のおどり)を受け継いだものです。中国人にとって、「龍」は自らを「龍的伝人」(long de chuan ren=龍の子孫)として「トーテム」(祖先)と位置付けて来ました。伝説の「四霊」(si ling=他に麒麟・鳳凰・霊亀)の1つで中国人にとって最も大切な「瑞獣」でもあります。ですから、何か祝い事があるとこの「龍」を使って舞うという習俗が古くからあるのです。2000年前の漢代の書物にはもうすでに「舞龍」の記載があるそうです。
オープニングは、この龍踊りで始まったのですが、銅鑼(風)、太鼓(雷)、龍声ラッパが鳴るなか、龍衆によって操られる龍が、金の玉を追いながら登場しました。そのあと舞台の上で、ある時は怒涛の様に激しく、ある時には凪の様に静かに、生き物の様に踊る迫力と踊動感には、会場内の参加者から大きな歓声が上がりました。
踊りは、龍が月を飲み込み、闇夜にして雨を降らすさまを表現しています。このブログのタイトルも龍に関係しているので、とても興味深く見ることができ、少し感動してしまいました。
投稿者 fujimori : 23:44 | コメント (3)
2007年06月26日 [近頃思うこと]
都庁
園の私の部屋の窓から外を見ると、マンションとマンションの隙間から都庁のビルが見えます。都庁の建物を見ていると、新宿の園にいる実感がわいてきます。しかし、私が初めて園と関わり始めたころは、都庁は東京駅のそばにありました。今の建物もそうですが、以前の建物も丹下健三氏の設計です。そのころの都庁は二棟あって、行く課によって棟が違いました。それは今も同じで、やはり訪ねる課によって棟が違っていますが、当時の二棟は線路をはさんでありましたので、わりと離れていました。そのころの建物も、今の建物も、使う身にとっては使いにくいという評判を聞きますし、建てられた当時は、贅沢であるとかいろいろと言われましたが、私は好きなデザインです。都庁前の大きな広場と、そこから見上げる建物の形、それをはさんでの議会棟、そこを結ぶ通路がぐるっと広場を囲み、もぐりこむように入っていくエントランス、まあ、こんな贅沢な建物は今では無理だなあと思いつつも、なんとなく感動してしまいます。
私の家族は、子どもが小さかったころ、よく「ウォークラリー」に参加をしていました。今年の遠足で少し真似事をし、それをブログにも書きましたが、コマ地図という今いる場所と、そこから進む方向だけを記した地図を見ながら歩くというものです。ですから、全体像はわかりませんので、最終的にどこに行くのか、どの道を通るのかわかりません。ですから、知っている地域でも、普段は通らないような道を発見することがあります。また、ところどころにポイントがあり、問題を解いていくので、普段は気をつけていなかったこと、知らなかったことに気づかされます。住んでいる八王子市は、町の中に彫刻がおかれています。ですから、よく「彫刻ウォークラリー」が行われていました。市内にある彫刻をめぐっていきます。家族では、確か3回くらい、園の職員で1回参加しました。園の職員でいくつかグループを作って参加したのですが、そのうちのあるグループが入賞して、賞状をもらったことがあります。私の家族が3位入賞を果たしたのは、「国分寺の遺跡めぐりウォークラリー」でした。国分寺跡地を中心に、歴史的な遺跡を回るというものでしたが、圧巻は、道をたどっていくと、西国分寺の駅に着き、そこでの次の課題が、「そこでオレンジカードをもらって、赤い電車に乗り、東に向かい○○目の駅で降りること」というものでした。そのとおりに行ってみると、なんと新宿駅に着きました。そこから、コマ地図をたどって歩いていくと、なんとゴール地点が、あの都庁前に大きな広場でした。そこに向かう途中、大勢の人がなんとなくそちらの方向に歩いていきます。その日は、東京全域で、一斉ウォークラリーを実施しており、たとえば、「両国をめぐるウォークラリー」では、国技館を中心に回り、やはり最後のゴールが都庁になっているのです。どのコースもゴールが都庁になっているようでした。バラバラ多くの人が都庁前の広場に集まってきます。そして、みんなが集まったころ、成績発表があり、私たちの家族が3位に入賞したのです。賞品として、新宿のデパートの商品券を家族4人がそれぞれもらいました。せっかくの記念なので、帰りにウォーラリーに使うものということでウエストポーチを買って帰りました。子どもが小さかったころ、子どもがいるからこそ楽しめたイベントでした。園の窓から、都庁を見るたびに思い出す思い出です。
投稿者 fujimori : 22:51 | コメント (2)
2007年06月25日 [近頃思うこと]
入梅宣言
先のことはよくわかりません。なにが、どうなるか、なにがおきるかわかりません。しかし、先を読んでいかないと対策を練ることができません。ですから、予想を立てるのです。それは、過去のデータなり、今の状況なりから判断して、先を予測していくのです。しかし、あくまでも先の予想なので、必ずしも当たるとは限りません。その代表的なものに「天気予報」があります。当たり前のように毎日天気予報を聞いて、その日の洗濯をしたり、傘を持つか決めたりします。それは、あたることが多く、傘を持ってよかったと思うことがあります。しかし、その予報が長い先のことになると、なかなかわからないことがあります。長期予報は難しいものです。しかし、外れるとずいぶんと文句を言われるようです。よくあたりはずれが言われるものに、「今年の冬は暖冬です。」とか、「今年の夏は冷夏です。」とか、「今年の梅雨は空梅雨です。」という予想とか、毎年非難されるのは、「入梅宣言」です。
今年の梅雨も、なかなか予想が難しいようです。宣言した途端に晴れの日が続くと非難の声がごうごうです。今年はそういう梅雨でした。19日には、「今年は空梅雨?14日に中国~関東甲信地方まで達した「梅雨入り宣言」直後、15日は30・9度を記録し都心で初めての真夏日、16日は今年一番の暑さで31・2度と晴天が続いた。」という記事が掲載されていました。これに対して、気象庁は「梅雨前線が一時的に南下しただけ」と説明しています。気象庁が「梅雨入りしたとみられる」と判断した途端に日本海上の高気圧の張り出しが強まり、梅雨前線は逆に南下して不活発になり、フェーン現象も後押しし、特に都心で夏のような好天となっているのです。それでも気象庁は「今年は平年並み」と分析していました。それが、次の日の記事では、「この夏、全国的に渇水の可能性が高まっている。昨冬からの少雨傾向で慢性的に水不足状態が続いているのに加え、梅雨入り後の降水量も少なく、最も深刻な四国では取水制限が始まった。関東では今週末から梅雨空が戻るとの予報だが、真夏を乗り切るだけの恵みの雨は期待できるのだろうか。」と書かれています。それが21日には、「梅雨入り:気象庁「予報外れた」…修正は必至 苦情相次ぐ」という見出しの記事が各新聞に掲載されました。「関東地方で梅雨とは思えない天気が続いている。14日の「梅雨入り宣言」以来、雨が降ったのは宣言当日だけ。梅雨入りは例年9月ごろ、降水量などの観測データを分析して確定することになっている。苦情を訴える電話などが相次いで寄せられている気象庁は「結果的に見れば、予報が外れたと言わざるを得ない」と判断ミスを認め、修正は必至だ。」といっています。ところが、25日には、今年の夏は全国的に平年より気温が高めになり、降水量はこれから梅雨らしい空模様が続き、全国的に「平年並み」と予想しています。予報によると、7月は本州に梅雨前線が停滞し、梅雨らしい曇りや雨の天気が続き、梅雨明け後は、日本付近にある太平洋高気圧の勢力が強まり、平年より気温が高くなる見通しだというのです。もともと梅雨入り判断は、難しいとされています。ですから日付は、断定せずに「日ごろ」としており、5日間程度の幅を見込んでいます。気象庁は1950年代から梅雨入りや梅雨明けを「お知らせ」という形で伝えていますが、63年に梅雨入りが特定できなかった地域もあったほどだそうです。それでも、一般からの要望が強く、86年から正式に発表を始めました。たかが梅雨ですが、梅雨によって大きく左右される職業もあるのでしょう。
投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (3)
2007年06月24日 [研修]
保育施設
今日は、聖徳大学で行われた「生涯学習フォーラム」の分科会に参加しました。参加した分科会は第2分科会で、「子どもの育ちと生活空間」というテーマでのパネルディスカッションです。私のほかのパネリストとして、日本女子大学名誉教授の「小川信子」氏と、二葉すこやか園(二葉幼稚園・二葉保育園)園長の「大竹節子」氏です。小川氏は、もともとは日本女子大の家政学部を出ますが、建築事務所勤務を経て、東大の建築学科吉武研究室研究生として、研究者と設計計画者として活躍していました。その後43年間に渡り、保育所を中心に設計も手がけています。私も少し設計をかじったので、小川氏の設計された施設を学んだり、その園に見学に行ったりしました。また、小川氏は、20年余り前にスウェーデン王立工科大学の客員研究員でもあったこともあって、最近、「子どもの生活と保育施設」という本を障国社から出され、今日は、その本をいただきました。北欧は、このスウェーデンをはじめとして、学力が高いことで注目されているフィンランド、ノルウエー、昨日のブログのリヒテルズさんが紹介しているイエナプランのオランダやワークシェアリングの代表的実践国といわれるベルギーなど、とても成熟していく国々です。このなかで、スウェーデンにおける保育施設計画の立案に一貫して流れる共通の問題が書かれています。「個人の自立を重視する拠点を確保」「国での生活における保育内容を、その生活行為別に受け止める空間の確保」「小集団から広がりのある人間関係が作れるような空間計画」「個人の生活が守られるように自由行動が出来る場の確保」「地域社会とつながりを持った施設作り」の5点です。これを解釈してみると、とても面白いものが見えてきます。まず、第1に掲げられていることは、最近のどの国においても課題である「自立」です。日本でも平成15年に出された「学校施設整備指針の改訂について(幼稚園編)」の中でも、第2節「幼稚園施設整備の課題への対応」での第1の課題は、「幼児の主体的な活動を確保する施設整備」と書かれています。そして、その1として「自発的で創造的な活動を促す計画」をするように言っています。これは、このような施設を作ればよいというわけではなく、そのような保育をする必要であるということなのです。しかし、その具体的な環境は、スウェーデンのほうが優れている気がします。日本では、「その際,幼児の遊びの場を十分に確保すること」とか「小グループや一人一人の特性に応じた活動を可能にする多目的な空間を計画すること」とか「保育室と遊戯室や図書スペース等の連携に配慮すること」などが提案されていますが、これらがどうして自発的な活動を促すようになるのかが見えてきません。その点、スウェーデンでは、次の項目を見るとよくわかります。「保育内容を、その生活行為別に受け止める空間」とあります。これは、いわゆる「コーナー」と呼ばれているものです。それとか、ゾーニングと呼ばれている計画です。主体的な活動とは、子ども自ら環境に働きかけ、自ら活動することです。簡単に言うと、子どもがこんなことをしたいと思い(意欲、動機)、それを実現しようとすることが実現できるような空間、やりたいと思うことを受け止めるような空間を用意するべきだということです。単に、「幼児の遊び場の確保」とか、「多目的な空間の用意」ではない気がします。また、日本の「集団生活をおくる中で,信頼感や思いやりの気持ちを育て…」よりもスウェーデンの「小集団から広がりのある人間関係が作れるような空間」のほうがより保育内容が見えてきますね。
投稿者 fujimori : 20:48 | コメント (2)
2007年06月23日 [近頃思うこと]
情緒の安定と自立
今日は、以前のブログで紹介した「父親保育の日」でした。それぞれの日案に沿って保育が行われました。毎年思うことが、父親のパワーがすごいと思う以上に、子どもたちがすごいと思います。0歳児は、いつも接したことのない父親に抱かれて、安心して眠ります。

そのときに思うのは、担当制という「子どもと接する人が代わると子どもは情緒が安定しない」という考え方です。この日に父親たちに抱かれる子どもたちを見ていると、ある日に誰に抱かれたかが情緒を安定させるのではなく、普段、十分と大人から受容され、かかわりを持つことで、大人への信頼感が生まれます。しかし、当然、母親と違うことはわかっています。しかし、その好きな母親が安心して自分を託す人には、子どもも安心して身を託すようになります。母親が、不安を持ったり、不信感を持ったりすると、子どもにそれが伝わります。また、保育者と関わる中で、子どもが自分の存在を受け入れてもらっていないと感じると、泣いたり、情緒が安定しません。愛着関係とは、子どもを抱くことではなく、子どもが抱っこから降りて、信頼できる人から見守られている中で、一人で遊びに夢中になることが出来る情緒のことなのです。
先日、オランダ教育研究者の「リヒテルズ直子」さんから、「うちの子の幸せ論」という本をいただきました。サブタイトルとしては、「個性と可能性の見つけ方、伸ばし方」というもので、6名からのインタビューによるメッセージで構成されています。6名の方は、「教育評論家 尾木直樹」さん、「NPO法人東京シューレ理事長 奥地圭子」さん、「白梅学園大学教授 汐見稔幸」さん、「学校法人シュタイナー学園校長 秦理絵子」さん、「青山学院大学教授・小児精神科医 古荘純一」さんと、リヒテルズさんです。その中で、リヒテルズさんは、オランダの子育てを紹介しています。「彼らに共通していえることは、子どもが考えるよりも先に、親が先回りして手を出すようなことはあまりしない、ということです。」こうとも言っています。「オランダの親たちは、子どもが自分でしたいことを選んだり、それを自分で考えて言葉にするのを待っている、という感じがします。とても小さいころから、子どもに選択肢を与えているし、子どもが自分の言葉で答えなければいけないような会話の機会を努めて作っているように思います。」これは、すでに子どもが2歳児ころから始めます。このような関わり方は、オランダだけでなく、私が毎年行っているドイツでもそうですし、すべてのヨーロッパや英語圏での課題でもあるのです。いわゆる「子どもの幸せは“自立”から」というものです。リヒテルズさんは、日本にいたときを振り返ります。「自分勝手に“これは子どもにとってためになることなのだから”と一方的に思い込んで子どもに押し付けることが多かったのではないか、とよく思います。」だからといって、子どもを放っておくのと違います。「小学校高学年くらいの、すっかり大きくなった男の子でも、何か悲しかったりつらかったりして母親のところに寄ってくると、母親は他人が見ているものお構い無しに、ひざに乗せてしっかり抱擁してやります。」いつでも受容され、自分の存在を認めてもらえているという確信が、自立を促していくのです。「人間の幸せとは何でしょうか。自分が自分で本当に好きだと感じられることを見つけて、それでもって世の中で自立して生きていけることではないでしょうか。」こう言っているリヒテルズさんが、明後日私の園に来ます。
投稿者 fujimori : 22:43 | コメント (2)
2007年06月22日 [近頃思うこと]
昼ね
今日は、環境のために電気を消してろうそくの明かりで過ごそうという運動がありました。この運動は、環境のためですが、夜にろうそくの明かりで過ごすというのは、違う意味もあります。人は大昔、電気がなかったときは、太陽の光と、月、星の光の中で生活をしていました。昼間は、太陽の光のもと活動します。その太陽は、頭の上から照らします。しかし、太陽は動いていますので、朝は、東から上るので、東に向いていると前から照らされます。夕方も西に傾いた太陽の光を浴びます。そして、夜は太陽が沈み、暗くなります。家の中では、ろうそくであったり、燭台であったり、床に置いた明かりに照らされます。または、囲炉裏のようにやはり下からの光を浴びます。と言うことは、どこから光を浴びるかによって、1日の流れを感じます。同時に、その明るさによって、一日を感じます。それが、電気が発明されると、基本的には、常に頭の上からの光を浴びます。また、照度が増したおかげで、夜でも昼間の明るさを浴びます。すると、どこか体にはよくない影響がある気がします。朝の光はとても大事です。朝日を浴びないと日光の刺激で生成されるメラトニンのタイミングが遅れ夜眠るタイミングが遅くなるので注意が必要だそうです。朝日を浴びることで、体内時計の狂いがリセットされ、正常に戻ります。光の刺激で体内時計を調整するからです。また、1日に1回は、横から光を浴びることも必要だと言われていますし、夜は、下からの光を浴びる必要もあるということも言われています。照度についても同様なことが言われます。夜に、昼間の明るさの光に当たると、体の調子を崩してしまうとも言われています。昼間の照度を持ったものとしての代表的なものとして、コンビニの店内の明るさや、自動販売機の明るさと言われています。この光に子どもを夜あたらせると、昼間の活動に影響すると言うのです。そんなことが言われていることを考えると、昼寝のときに部屋を暗くするのはどういうことかと考えてしまいます。保育園などは子どもに昼寝をさせます。最近は、特に4,5歳児には昼寝をさせない園が増えてきました休息をさせるだけでよいとも言われ始めています。スペイン語圏を中心に、シエスタ(Siesta)という生活習慣として社会的に認められている昼寝があります。Siestaという言葉は、ラテン語のHORA SEXTA(第六時)におけるSEXTA が由来だといわれているように、日昇を基準として「第6時」、つまりだいたい正午辺りの時間帯を指します。かつては、日本でも炎天下での農作業は疲労を増大させるため、夏季には早朝に農作業をして、昼間以降は午睡を含む長い休憩をし、夕方になってまた屋外の作業をする農家が見られました。最近、昼寝の効用について研究が行われています。昼寝を行うことにより、事故の予防・仕事の効率アップ・自己評価のアップなどが期待されるため、職場・学校などで昼寝が最近、奨励されるようになっています。また、昼寝により、脳が活発になるため、独創的なアイデアが浮かびやすい環境になるともいわれています。昼寝におけるその他の研究報告では、30分以下の昼寝を習慣的にとる人は、それ以外の人に比べてアルツハイマー病にかかる危険性が0.3倍になるという報告が、国立精神センターからされています。広島大学の研究では、昼寝後と前では最大血圧で平均8.6mmHg、最小血圧で平均15.6mmHgも血圧が降下したという報告もあり、生活習慣病予防も期待されるといっています。ただ、昼寝は、昼間に寝るので、余り長く寝ないこと、余り暗くしないことなど、夜に寝るのと区別する必要があるようです。
投稿者 fujimori : 23:46 | コメント (2)
2007年06月21日 [近頃思うこと]
すだれ
日本の夏の風物詩といったら、なにを思い浮かべるでしょうか。蚊取り線香をはじめとして、さまざまなものを思い浮かべると思います。その中のひとつに、私は「すだれ(簀垂れ、簾)」があります。すだれは、糸で竹や葭を編み連ねたもので、窓にたらし、日よけや目隠し、虫よけなどに使われるものです。すだれは、日差しを避けつつ風を通します。以前の日本の住宅は軒が深く、軒先にすだれをかけることによって広範囲の日陰を作ることができました。しかも、窓と10cmほど離して垂らすことで、窓との間に空気層を作り、熱を遮る効果が生まれます。このように、すだれによって、家の外と中を分けるところに使って、日差しをさえぎっているのです。しかし、すだれは、必ずしも部屋のうちと外を分けるのに使うだけでなく、部屋と部屋の仕切りにも使っていました。平安時代の貴族の住宅では、現在のドア・引き戸のような部屋同士の仕切りがありませんでした。そこで、御簾〔みす〕と呼ばれる、現在の簾の原型となるもので部屋と部屋を分けたり、部屋の内と外を分けていたのです。を使っていました。「御」という接頭語が示すように、現在のすだれに布地でできた縁をつけ、房を垂らした高級なものでした。寝殿造りの住宅ではすだれを、簾台(簾を掛けるための木の枠。簾をかけたものを目隠しや仕切りとして使用した。)に掛けたり、長押〔なげし〕(障子や襖〔ふすま〕の上や和室の柱と柱の間に架かっている横材)にかけて使用していました。先日、このすだれを買いに行きました。それは、日よけのためではなく、虫除けでもなく、部屋の中の仕切りとして使うためです。
子どもの空間を作るうえで、以前のブログで書いたゾーニングを計画するときに、隣のゾーンとを仕切るためです。このように使うすだれを、「内掛け」といいます。日差しを除ける、あるいは、目隠しにする為などに、掛けて使う物を、掛簾と呼び、この掛簾には、窓の外、戸外に掛ける外掛けと、窓や戸の内側や、屋内の間仕切りや屋内装飾として掛ける内掛けが、あります。この他、日除けとして立てて使う立簾(たてず)や、建具等の中に入れて使う簀、寿司巻の簀といった業務用・工業用の簀(す)があります。この立簾も一緒に買いました。こちらは、プールが外から見えないようにするために取り付けました。これは、「葭簾(よしず)」といいます。よしずとは、字の如く葭材で編まれた掛簾・日除けの立簾(たてず)全てをいいます。ちなみに、葭(よし)と葦(あし)とは同じ物ですが、物の善し悪しに掛けて葭=善し、葦=悪しに通じるとして、葭(よし)は、縁起が良いと喜ばれ、以来葭屋・すだれ屋など多方面で、葭(よし)と呼ばれ続けています。日本人が、仕切りに使ったさまざまな素材は、今、外国でも高く評価されています。ドイツに行くと、このすだれが仕切りに遣われている園を見かけました。もちろん、東洋的な、エキゾチックな感じがするということもあるでしょうが、そのすだれ越しに漏れてくる光と風に癒しを感じるようです。それと同じように漏れてくる光に癒しを感じる素材として「障子紙」があります。障子紙を貼った照明は有名ですね。私の園の学童の部屋にもその照明があります。
そして、今回は、その障子紙を貼った仕切りを使っています。もちろん子どもたちはすぐに穴を開けたり、破ってしまいます。そのたびに花形に切った障子紙をその穴に貼っています。次第に穴を開けなくなっています。年末に、子どもたちと障子の張替えをするのが楽しみです。
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2007年06月20日 [地域を知る]
めだかと睡蓮
それぞれの地域には、それぞれの特性があります。それは、風土と呼ばれるものであったり、伝統と呼ばれるものだったりします。その地域性を生かした保育が必要です。特に自然環境は、地域によって大きく違います。八王子の園は、ニュータウンということで、人工的ですが、自然が整備され、保全型の自然公園が作られています。園の園庭も広く、園庭の端には、ビートープがつくられ、川が流れ、水辺の植物が繁茂し、水の中の生き物が泳いでいます。それを覗き込む子どもの姿がよく見られました。それが、最近は水が流れなくなり、ただの草むらに覆われています。そこで、今、そのビオトープを水辺の植物の畑にしようと計画をしています。それに引き換え、新宿の園には園庭がほとんどなく、木を植えたり、ビオトープなど作ったら子どもの遊ぶ空間などなくなってしまいます。そんな中で、子どもたちのどのように自然と触れ合わせようか、身の回りに自然を自然に感じさせようかと思案中です。そこで、ある試みをしようとしています。それは、園の裏に「おとめ山公園」があり、そこには湧き水が出ています。その湧き水は、園の壁からも吹き出ています。その水の処理を考える上で、処理と言うより、活用という道を考えることにしました。とりあえず、地下に大きな水槽を作りいったんは湧き出てくる水をそこにためることにしました。そして、その水をタンクで上まで上げます。よく考えるのは、その水をトイレに使うとか、再利用を考えますが、その水を再利用しても利用料はただとしても、下水に流すのであればかなりの水道料を払わなければなりません。そこで、上にポンプアップした水を下に流す間に蒸発させてしまえば、下水管は使いません。蒸発する方法は、草木にその水をあげて、草木に吸い上げてもらうとか、土に保水させ、徐々に蒸発させるのです。その草木の一部を、園の壁に段差をつけて、そこに植えました。道行く人も楽しめるようにです。そして、その一番下の、子どもたちが覗き込める段には水をはって、水草を入れ、めだかを放しました。
そのめだかが、たくさんの赤ちゃんを産みました。小さなめだかが群れをなしています。しかし、最近は梅雨に入ったと言うのに、暑い日が照り付けています。直射日光の下で、水は温かくなり、水草では日陰がありません。そこで、今日はそこに「睡蓮」を買ってきて植えました。睡蓮の学名は水の妖精といわれるほど人を魅了します。画家のモネも睡蓮に魅了され、多くの絵画を残しています。そして、睡蓮は、ハスと違って、葉が水面に浮いた状態になっており、花は水面近くで咲きます。ですから、めだかには日陰を提供します。その花は、開いて閉じてを3回繰り返します。これを人間のサイクルに例えて 日中(開く=目覚める)夜(閉じる=眠る)というところから、「睡眠する蓮」→「睡蓮」と名づけられたそうです。その下を行き来するめだかは、日本で一番小さな淡水魚ですが、かつては、北海道を除く、主として稲作地帯に広く分布して、どこででも見ることができました。ところが、最近身近なところでは見かけなくなってしまいました。そして、1999年には旧環境庁から「絶滅危惧種」に指定されました。
毎朝、この脇を通る子どもたちはここを覗き込んでいます。たまに小学生が手を突っ込んでいますが、本当はこの風景は昔見た姿かもしれません。また、地域の人からは、「この水辺はとても心が癒されていいねえ。」とか、「めだかが赤ちゃんをいっぱい産んだよ。」と教えてくれたりします。ほんの小さなことでも、大きなかかわりがうまれます。
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2007年06月19日 [近頃思うこと]
フィンランド
経済協力開発機構(OECD)の国際学力調査(PISA)で世界トップの成績を示したフィンランドの教育を日本の子供たちに紹介しようと、同国大使館が、インターネットの教育サイト「プロジェクト・フィンランド」を開設していますこのサイトは、同国の人気キャラクター、ムーミンと「自ら学ぶ教育」を疑似体験できるようになっています。フィンランド大使館では「自ら考える大切さを伝えたい」とアピールしていますし、このサイトからフィンランドという国を学ぶというのではなく、フィンランドという国を通して日本の進むべき道、あるべき姿を探ってほしいというものです。これは、私が毎年ドイツに保育を見に行っているのと同じで、決してドイツをまねようとするのではなく、ドイツから学ぼうというものです。このサイトの対象は小学5年~中学3年生です。フィンランドという国は、2003年に行われたOECDの学習到達度調査(15歳対象)で、読解力と科学的能力で参加41カ国中トップとなった(日本は読解力14位、科学的能力2位)。このため日本を含む各国の教育関係者から注目が集まり、各大使館などに問い合わせが相次いでいる国です。このサイトの紹介に「フィンランドでは教育の大切さをつねに意識しています。私たちフィンランド人にとっての教育とは、子供たちが自分から学ぼうとする力や自分で考える力を育てることです。」と書かれています。この内容は別として、その中にフィンランドを紹介しているところがあります。そこに書かれているフィンランドと日本の違いを考えてみました。「子どもたちは、仕事になにを求めているのでしょうか?やりがいがあり、たのしく働けること、そしてチームワークなどです。よいお給料がもらえることも、もちろんです。実際に働いているおとなたちも同じように考えています。安心して働ける職場であること。就業時間がきちんと決まっていて、残業がないこと。フィンランドの人にとって、家族とすごす時間はとても大切だからです。ふつうは夕方の4時から5時には仕事が終わり、そのまま家にまっすぐ帰ります。仕事をえらぶときは、休暇も重要です。働いているおとなにもふつうは4週間ほどの夏やすみがあり、冬にも1週間ほどのやすみがあります。ちなみにフィンランドの学校では夏やすみが2ヶ月半もあって、しかも宿題がありません。ほかに託児所などの育児ケアシステムが充実していることや、健康管理のための福利厚生があること、仕事をやめたときの条件なども仕事をえらぶときのポイントになります。」「フィンランドでは「職場ではだれもが平等である」と法律で定められています。世界にはまだ、女性は家にいるべきだと思っている人たちもたくさんいるようですが、フィンランドの女性は働くことをのぞんでいます。しかし、同時に子どもにもたくさんの権利があります。たとえば教育を受けたり、保育所や健康管理のためのサービスは無料か、もしくは安く利用することができます。また、小さな子どもや病気の子どもがいる人には、子どもと家ですごす権利があります。小学校2年生までの子どもがいる家庭では、子どもが病気になったら、どちらかの親に会社をやすむ権利があるし、就業時間を短くすることもできます。」、最近改めて日本の働き方を考えることがあります。女性の社会進出はこれからも増えるでしょうが、そのためには、基本の「楽しく働けること」がなければ、良い働き方を模索することができない気がします。
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2007年06月18日 [近頃思うこと]
ゾーニング
今日、午後新宿で行っている保育業者の展示会に行ってきました。展示会では、さまざまな商品が並べられ、ある場所では保育室を再現してあったり、体験することができます。その並べ方をいろいろと考えているでしょうね。見に行く人も、見やすかったり、興味のあるものを順に見ていけるるような並べ方をしていると、欲しかったものと一致をして、それを買おうとしますが、並べ方がバラバラですと、後でもう一度見ようと思っていながら、結局はもう一度見なかったり、もう買う意欲がなくなったりしてしまいます。そんな並べ方で重要な観点がふたつあります。ひとつは、動線計画です。この言葉は、何度もブログに登場しますので、もうわかっていると思いますが、人が移動する道筋である動線を計画することです。これは、保育室を考える上でも、子どもの動線を考え、その動きによって保育を意図していきます。保育室のおける動線計画とは、必ずしも機能重視の必要はなく、その動線の交わりによって、子どもが関わるということを演出することも出来ます。もうひとつ考えなければならないことは、「ゾーニング」と言われているものです。ゾーニングとは、簡単に言うと、機能や用途などを考えて空間を分けて配置することです。展示会場では、展示内容を考慮した最適なゾーニングを計画していく必要があります。各分野の相乗効果を実現するだけでなく、各分野を明確に区分することで、来場者にとってわかりやすいレイアウト、出展者にとっては自社の出展製品を明確に訴求できるゾーニングで、効率的なPR空間を計画しなければなりません。展示会場だけでなく、都市計画や建築プランなどで、関連のある機能や用途をまとめていくつかのゾーンに分け、それぞれに必要な空間の大きさを考慮し、相互の関係を考え、位置関係を決める作業のことをいいます。建物の上下階にわたって垂直に空間を配置していくことをバーチカルゾーニング、水平的に空間の配置を行うことをフロアゾーニングという。住宅のプランニングにとっても、建物の配置や間取りなどの大まかな計画を立てるうえで欠かせない作業といわれており、例えば、家族全員や来客などが利用する空間をパブリックゾーン、個室など個人的に利用する空間をプレイベートゾーンなどとし、各空間の適切な配置を考える作業のことです。そのほか、ゾーニングは、いろんなジャンルで使われている用語です。売場の棚割を決める。住宅の間取りを検討する。未成年に過激なビデオの販売や貸出を規制する。このような、『区分』する行為はいずれも、ゾーニングと呼ばれるものです。もっと大きく、まちづくりにもゾーニングも必要です。市街地活性化計画で、エリア内を商業ゾーン、ビジネスゾーン等に区分する手法であり、多くの計画に盛り込まれているものです。また、区分するためだけではなく、同じ機能を一箇所に集めて、魅力や利便性を高め、それによって、中心市街地を昔のように活性化させるということも、ゾーニング計画です。そう考えると、わたしは、保育室は、動線計画とこのゾーニング計画が必要な気がします。よく、昔から「コーナー保育」とか、アメリカなどでは、「インタレストセンター」などという計画を言いますが、わたしは、「コーナー(かど)」でも「センター(中心)」でもなく、ゾーンを計画するゾーニングが必要な気がします。このゾーニングによって、関連のある機能や用途をまとめることで、その活動をより魅力的なものとし、活動を活性化し、各分野の相乗効果を実現させていく必要がある気がします。
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2007年06月17日 [講演先にて]
新渡戸家
5000円札で有名な新渡戸稲造については、お札の絵柄になったときにかなりの人がびっくりしたと思います。と言うのも、わたしがびっくりしたからです。彼については、歴史の教科書ではほとんど習ったことがなかったからです。それよりも、彼について調べて、またびっくりしたのは、彼の偉業というよりも、彼の家系における代々の性格の激しさにびっくりしました。この受け継いだ性格が、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)という、流麗な英文で書かれた名著と言われている書籍を書かせたのだろうと頷けるところがあります。今回盛岡に行ったとき、合間を見て彼の生誕の地に行ってみました。
彼の曽祖父「新渡戸維民」は、南部盛岡藩の兵法学者でした。しかし、この盛岡藩の花巻城を縮小するという藩の方針に対して強く反対し、川内(現青森県下北郡)に流されます。そのとき、彼の息子「新渡戸傳(つとう)」は、27歳でした。傳は、花巻に生まれています。彼は、父親が川内に流されたとき、川内で商売をはじめます。44歳で商人をやめるまで、材木商として活躍し、任官後は勘定奉行などをつとめ、特に開拓事業に力を発揮します。花巻近辺で多くの開田に成功した後、62歳の時三本木原開拓を藩に願出て新田御用掛として1855年(安政2)着手します。当時、十和田市を中心とした「三本木原大地」は“三本の木しかないので「三本木」という地名になった“といわれるほどの荒野原でした。この土地の開拓事業に着手したときに、傳はすでに62歳となっており、当時の平均寿命50代をはるかに超えてからの挑戦でした。当時、農民たちは、何度も繰り返される凶作や飢饉に苦しみ、出稼ぎや逃亡が絶えませんでした。そこで傳は、米の生産を安定させ農民たちの生活を救うため、奥入瀬川から水を引き、不毛の三本木原台地に水田を開発する計画をたてました。資金は、藩からの出資金のほか沢山の出資者を募り、傳の私財も充てられました。高度な土木技術の導入・多くの農民の労役により、硬い岩盤を貫くトンネル工事など難工事の末、4年もの歳月をかけて、不毛の荒野原に水を引くことに成功しました。この水路の完成により、1860年の秋、この地にはじめて米の収穫がもたらされたのです。その後も開拓事業は地域の人々に受け継がれ、水路は太平洋岸まで達し、支流も合わせた総延長は60kmとなりました。最晩年には七戸藩設立を策し成功、七戸藩家老、後大参事となり、78歳で三本木において逝去しています。傳は負けん気根性で上記の事業を成功させ、結果として藩主に「私が悪かった」と頭を下げさせる離れ業を成し遂げ、重臣に列挙されていますが、東北人には珍しく熱い感情を表に出す家系だったようです。この事業を受け継いで行ったのが、傳の息子の「新渡戸十次郎」更にその息子で、新渡戸稲造の兄の「新渡戸七郎」の三代です。十次郎は、幼少のころから兵学の才能をみとめられていましたが、22才で中奥小姓、32才の時には盛岡藩主・南部利剛の兵学御相手をつとめています。33才で奥御勘定奉行、43才で側用人などの重職をつとめ、そのあと傳の後継者として三本木での開拓に従事するため三本木新田御用掛となり開拓に尽力しました。しかし、47歳のとき(諸説ありますが)不祥事があったとして切腹を命じられています。その息子の稲造ですから、東大へ入学面接の折「太平洋の架け橋になりたい」という有名な名言をはいたことはわかりますね。
しかし、後年、「橋は決して一人では 架けられない。 何世代にも受け継がれて はじめて架けられる 」と言って、 後代の私たちに 夢を託しています 。彼に対する評価はさまざまありますが、保育に関わっている私は、素直にこの言葉はうなづけますね。
投稿者 fujimori : 21:34 | コメント (4)
2007年06月16日 [講演先にて]
盛岡
今、NHKの朝の連続テレビ小説で「どんど晴れ」を放送しています。このテレビドラマの舞台は盛岡ですが、この言葉は、盛岡地方の民話の最後に使う「どんどはれ」(めでたしめでたしの意味)から取ったことはよく知られています。NHKのタイトルの由来には、こう書かれています。「民話の世界では、人間本来の感情をむき出しにし、ぶつかり合うことで「どんと晴れ」が訪れます。このドラマは、豊かな伝統と雄大な自然を舞台に、民話のエピソードを象徴的に絡めながら、困難とぶつかり合いながらも、周りを明るく照らすような頑張りによって、物語は「どんど晴れ」を迎えるのです!」最後には、「めでたし めでたし」になるというのです。この舞台である盛岡に今日来ました。駅に着く少し手前で、新幹線から岩手山が頭を雲の上に出して迎えてくれました。
今回の訪問は、午後からの講演のためですが、出発するときに職員から、「盛岡に行ったら、冷麺ですか?」と言われました。若い人からすると、盛岡の麺というと冷麺のようですが、有名なのは、「わんこ蕎麦」です。あの小さいおわんに次から次へよそり、それをどんどん食べ、食べ終わったおわんを積み重ねていくというものです。わたしは、それには挑戦しませんでしたが、その店に連れて行ってもらいました。隣の席では、おわんが積み重ねられていました。一人70杯以上食べているようです。
ところで、「どんどはれ」は、昔話の終わりに使う言葉ですが、昔話は、話し始めるときと、話が終わる最後に、決まったせりふを言うことが良くあります。私の出身は東京ですので、普通に「むかしむかし あるところに」で始まり、「めでたしめでたし」で終わりました。最近、園では、お話の最後は、「これで おしまい!」と言っています。これらの言葉は、あるリズムがあり、そのリズムが物語りの導入をより効果的にし、終わってからのリズムは、その物語の結末に対するほっとした気持ちの余韻となります。とてもリズムが大切であるということは、子どもが自分で本を読んで、その字面をなぞるだけでは味わえません。いわゆる、口承といわれるような、寝るときに話して聞かせるときとか、語りべが語るのを聞くときとか、絵本の読み聞かせとか、声を出して話して聞かせる場合に効果的になるものです。ですから、最近は、余り使わなくなりました。今の子どもたちは、たぶん知らないでしょうね。また、この言葉は、地域によってずいぶんと違いがあります。この盛岡の「どんど晴れ」に似たものでも、「どーんとはれ」「どんとっぱれ」「どっとはらい」「とってんぱらりのぷう」「そればっかり」「どっとわれえ」などがあります。青森あたりでは、「とっちばれ」を使うところもあるそうです。そして、始まりは、盛岡では、「むかしっこあったけずー…」を使うことがあります。これが、広島では、「まっか」とか「まっかひとむかし」「まっこと昔」と始まります。高知では、「むかしまっこうさるまっこう」と使う地方があるかと思えば、岡山などでは、ずいぶんたくさんの言い方があるようです。「昔こっぷり」「昔こっぷりどじょうの目」「昔こっぷりどじょうの目くそ」「昔こっぷりどじょうの目玉」「昔こっぷりさんしょの芽」「昔こっぷりとびのくそ」「それ昔こっぷり」「せえで昔こっぷりじゃ」「こりゃまあ、これだき」「これもこれも一昔」こうなると、昔話を語るおばあさんのキャラクターによって使う言葉が違う気がします。英語にもいくつか決まった言い方があるようです。「むかしむかし」は、「once upon a time」とか「long time ago」と言い、「めでたしめでたし」は、「ended happily」とか「and they lived happily ever after」などというようです。
投稿者 fujimori : 20:47 | コメント (4)
2007年06月15日 [評価]
無駄
今日は、法人の監査でした。監査のための書類作りが大変です。印鑑が一箇所押していないとか、日付記入が1日抜けているだけで指摘されます。わたしたちの法人は、確かに公金を使用しています。幼稚園にしても、直接の補助だけではなく、保護者が施設に保育料を納めるにしても、その保護者へ就園奨励金とか、児童手当という公金が支払われています。まして、保育園には運営費全額補助金ですので、公金が使われます。ですから、監査というその使途についての調査があるのです。しかし、当たり前かのように思える監査に少し疑問が残ります。いわゆる公金といわれる国民の税金が、どのように使われることが無駄遣いではないのでしょうか。たとえば、印鑑を押していないことが、どういうことなのでしょうか。もちろん、公正な使い方を、客観的に判断できるような表現が必要なのでしょう。しかし、無駄遣いかどうかは、まず、その公金が、何のために支給され、自治体は、何をすることを委託しているのでしょうか。わたしたちに対しては、それは、もちろん「幼児教育」です。幼児教育に使われていないとしたら、それは、無駄遣いです。たとえば、幼稚園教育要領では、幼稚園教育の基本として、「(1)幼児は安定した情緒の下で自己を十分に発揮することにより発達に必要な体験を得ていくものであることを考慮して,幼児の主体的な活動を促し,幼児期にふさわしい生活が展開されるようにすること。(2)幼児の自発的な活動としての遊びは,心身の調和のとれた発達の基礎を培う重要な学習であることを考慮して,遊びを通しての指導を中心として第2章に示すねらいが総合的に達成されるようにすること。(3)幼児の発達は,心身の諸側面が相互に関連し合い,多様な経過をたどって成し遂げられていくものであること,また,幼児の生活経験がそれぞれ異なることなどを考慮して,幼児一人一人の特性に応じ,発達の課題に即した指導を行うようにすること。」と書かれています。ということは、この基本を行うために公金を投入しているとしたら、(1)を見ただけでも、幼児が安定した情緒を図っていないとしたら、「無駄遣い」です。ましてや、幼児の主体的な活動を促しておらず、大人の価値観を押し付け、子どもを指示し、一斉に、言うとおりに活動させ、または、すべてやってあげ、子どもたちの自らの活動を阻止しているような保育に公金を使っているとしたら、それは「無駄遣い」です。(2)でも、遊びを通しての指導を中心にせず、ただ、座らせて早期教育を行ったり、(3)に書かれているような、一人ひとりの特性に応ぜず、個々の発達の課題に即さず、画一的な、発達の課題を無視した保育は「無駄遣い」です。将来を担う子どもたちを保育し、教育し、そのために公金を投入しているのであって、公金を使って、事件を起こし、問題を起こし、自立していかない若者を作っているのはそれこそ指摘されるべきことです。これを検査するのが「監査」や「評価」なのです。ニュージーランドでは、公金を出して、その使い道を監査するのではなく、子どもたちに対して、きちんと国が示したカリキュラムに沿った保育をしているところに対して公金を投入するのです。そして、そのカリキュラムは、「有能で自信に満ちて学ぶ人、コミュニケーションを取れる人に育ち、心身ともに健全であり、精神的な拠り所を持ち、社会に対して価値ある貢献をしているという意識を持てるように育ってほしい」という願いがこめられています。保育は、書類や印鑑のためではなく、もっと「崇高」な仕事なのです。
投稿者 fujimori : 23:21 | コメント (3)
2007年06月14日 [行事]
父親保育
昨日のブログで少し触れていますが、今月の23日土曜日は園で「父親保育」の日です。この日は、園を父親に明け渡し、園長代理をはじめ必要な仕事を父親だけで分担し、丸々1日保育をしてもらいます。朝晩から、遅番まで、各時間内は子どもの人数によって国基準の保育士配置でシフトを組んでもらいます。それを園長代理が組みます。そして、各クラス担任が、日案を立て、それにしたがって、いつもの園の保育を体験してもらいます。もちろん、わが子のいるクラスの担任にはなりません。主に、小さいクラスの父親は、大きいクラス担任になります。「わが子も、こんなになるんだ。」と希望が持てますし、大きいクラスにわが子がいる父親は、「わが子も、こんな時代があったんだ。」と懐かしく思い出し、わが子を改めて見直すことが出来ます。その計画を、お互いに忙しいので、メールでやり取りをします。そのメールを見ていると、なかなかおもしろい発見があります。まず、園長代理の仕事です。さすが、普段会社で仕事をしているノウハウを使い、シフトの組み方もエクセルを使って、きちんとそれぞれの時間内における配置を合理的に決めていきます。ただ、ちゃんとこんな注意書きもついています。「状況に応じて変更を行いますのでご協力をお願いします。」「当日何か(人手が足りない、○○が欲しいなど)ありましたら、お知らせください。」「当日の状況により勤務体系を変更することがあります。」子どもによってフレキシブルな面も持っています。保育者としての仕事のほかには、これらの園長代理の仕事のほか、「主任代理」「用務代理」も用意されています。昨年も、用務代理の父親は、トイレ掃除を一生懸命にやってくれました。総勢27名の父親が定員100名の園の子どもたちを保育します。各クラスの担任による日案にも、保育士では思いつかないような計画を見ることが出来ます。今年の0歳児の担任から、こんな提案がありました。「0歳児クラスのお子さんのお母さんの写真を、撮っていただき、A4サイズくらいに印刷して、そのお母さんのA4の写真を、0歳児組のお子さんのベッドの真上の天井にそのお母さんの写真を貼りたいのです。0歳児組のお友達が、「ねんね」する際に、自分のお母さんが真上にいれば、おちつくかなぁ。。と思いまして。。。」こんな思い付きに対して、園の職員はこんな心配をします。「「中々、興味深い事を考えますね!果たして、どうなるか…。母親を思い出して泣くのか、それとも、見守られて安らかに眠るのか。ただ、今の0歳児の子ども達は、抱っこで寝かしつけて、寝たところでベッドに入っています。ですので、ベッドに入った時には既に夢の中、なんですね。」こんな会話も保護者とのやり取りとは思えませんね。1歳児のクラスの計画は、「お絵かきピンで、ボーリング大会!」というものです。「画用紙に好きな絵を描き、その画用紙をペットボトルに貼り付け、ボーリングのピンを作る。そして、机を並べ変えて、レーンを作る。そして、子どもを誘導して、ボールの投げ方(押し方)を指導する。そのときに、途中で落ちないよう補助しながらボーリング大会をする。」というものです。ちょっと1歳児では早いかなと思いますが、父親たちがやると、何とかなってしまうものです。2歳児の計画は「くるくる紙プロペラ」というものです。「貼り合わせた2枚の紙プロペラを2階から落としたり、下から眺めたりする。」これは、園内のブリッチと呼ばれている2階の通路から、作った紙プロペラを落とし、子どもたちが下で受け止めるというものですが、やはり、施設をダイナミックに使い、子どもたちは大喜びです。職員では、なかなか発想しない使い方です。3,4,5歳児クラスは、園で普段やっている保育形態のひとつの「選択性の保育」です。やる内容を、年齢で分けるのではなく、子どもたちがやりたいことを選びます。この保育を、父親たちも経験します。子どもたちは、自分で選択したものは真剣に取り組みます。今回は、次の3つの選択肢を用意しています。「バルーン風船、ストロー飛行機、パッチンカエル」の3通りです。ねらいにはこう書かれてあります。「簡単な工作を通じて、工作の楽しさや、工作の工夫による成果の改善結果を共有する。」「新入り保育士(お父さん達)とのコミュニケーションを通じて、人との関わり方、意思伝達方法などを考えさせる。」子どもにとっても、父親にとっても、園にとってもとても貴重な体験ができる「父親保育の日」です。
投稿者 fujimori : 23:59 | コメント (2)
2007年06月13日 [記念日]
もうすぐ
もうすぐ「父の日」です。私は園便りの中で、父親のことを書くことがよくあります。その中で、かつて書いたものを一部拾ってみました。
子どもとの時間(2001):ゴーン氏は、日産自動車を立て直すために、社長として招かれた人です。とても重い任務を背負い、社員の整理を含め、会社を立て直すことに成功している人であるので、世間では、彼はバリバリの企業マンであるという印象をもっています。しかし、意外なことがあります。「日産リバイブルプランの作成に着手した当初、解決策を見つけなければならない問題が山積し、一日中会議や議論に追われる日々が続いた。しかし、どんなに多忙を極めていても、家族と過ごす時間だけは必ず確保するように努めた。…中略…父親にとって子どもたちと一緒に過ごし、彼らに愛情と関心を注ぐことは大切なことだ。子どもたちに、安定した、落ち着いた家庭環境を与えるために、リタと私は育児に多くの時間を割いてきた。子育てには子どもたちの判断力を養う基礎を作るという仕事も含まれている。…中略…旅立つときに、子どもたちが優れた判断力を発揮できるかどうかは、ある意味で育て方の問題である。」彼には、四人の子どもがいます。彼はいったん帰宅すれば、決して仕事を家に持ち込まないそうです。「リタも子どもたちも、私が玄関を開けたとたんに家族の時間が始まることが分かっている。」とも言っています。仕事ができる人は、家庭もきちんとできるのですね。そろそろ、生き方を考え直す時代かもしれません。
父親の役割(2002);最近、世界的に、少年が起こす犯罪が多くなってきています。特に男の子の起こすトラブルに対して、対応に苦慮している母親が多くいるようです。そうした状況の中で、「男の子ってどうしてこうなの?」(スティーブ・ビダルフ著)という本が、世界でベストセラーになっています。『6歳以下の子どもにとっては、性別は大きな問題にならないし、問題にすべきでもない。この時期、一般的には母親が主要な役割を演じるが、父親が母親代わりをすることもできる。重要なのは、一人ないし二人の鍵になる人物が、子どもを愛し、最初の数年間、子どもを中心に据えるということである。そのようにすれば、子どもは自分の中に安心感をつちかい、子どもの脳は親密なコミュニケーションの技術を獲得し、学ぶことの楽しさを覚えるようになる。これらの年月はすぐに過ぎ去ってしまう。小さな子どもとの生活を楽しめるうちに楽しんでおこう!』このなかで、乳幼児が最も必要にしているのは、母親と特別な絆を結ぶことであるとしていながら、父親も、授乳を除けば、赤ん坊のすべての欲求に答えることができるとしています。だがやり方は異なっているそうです。『さまざまな研究があきらかにしているところによれば、父親は子どもたちと遊ぶときに、母親より活発である。父親が子どもたちを興奮させるのを好むのに対して、母親は、子どもを落ち着かせようとする傾向がある。』
父親することの意味(2003):90年代以降、父親論が盛んに行われるようになりました。最近、アメリカでは、子どもの教育が未来社会のための最も重要な投資であるという認識のなかで、子どもの社会化環境に対する危機感の強さから父親政策に力を入れています。ある書物(It takes a Village)では、父親をすることの意味は?との問いに対する答えとして、以下の5つがあげられています。母親だけでなく、父親もかかわることで、子どもの発達によい影響をもたらす。父親がかかわることで、母親の子育てにゆとりをもたらす。(母親にとって)父親の生活に幅と厚みをもたらす。(父親にとって)以上の点は、よく言われることですが、以下の二つは、これからの時代にとても大切なことです。そして、それが、保育園で行われる「父親保育」の目的なのです。父親をするというのは、家庭を閉ざしてわが子の父親をのみするのではなく、家庭を社会に開き、地域の親たちとかかわり、地域の子どもたちの父親になるということが重要なのです。親たちが地域のネットワークの中にしっかりと足場を持っていることは、子どもたちに安心感をもたらすのです。父親をすることで、夫婦の、あるいは男女の新しい関係の構築につなげるのです。育児について、母親、父親どちらか一方が主役ではなく、柔軟な男女の関係が子どもに伝わることが必要なのです。
投稿者 fujimori : 21:27 | コメント (2)
2007年06月12日 [近頃思うこと]
パプリカ
最近のスーパーの生鮮野菜のコーナーは、とてもカラフルな野菜が並びます。特にその色の鮮やかさで目を引くのが「パプリカ」です。赤や黄色のほかに、オレンジ、紫、白、黒、茶、合計7色あります。私たちの世代で「パプリカ」というと、香辛料を思い浮かべますし、あのカラフルな色のパプリカを見るとピーマンが熟したものと思ってしまいます。しかし、それらはまんざら間違っているとはいえないようです。パプリカが出回り始めたころは、これをカラーピーマンと呼んでいたところもあったようです。しかし、ピーマンと呼んでいるものは、日本では実が熟する前に採取する緑色のものをさしますが、木につけたまま放っておくと赤色や黄色に変わり、味も緑色のときよりも甘みが増します。日本で売られているカラーピーマンはこれを指すようです。また、香辛料のパプリカは,ピーマンの一品種の熟して赤くなったものを乾燥させて粉末にしたものです。しかし、本来のパプリカはカラーピーマンとは似ていますが、パプリカより肉厚で果実の部屋数が3~4に分かれた綺麗なベル型になる別の栽培品種で、よく見かける大型のものはオランダ産で,オランダ・パプリカと呼ばれるものです。学名から見れば,これはとうがらし(唐辛子)やピーマンと同じで,品種が違うのです。日本名の「ピーマン」はフランス語のpiment(発音はピマンとピーマンとの中間)(とうがらしの意)が起源と考えられています。またはスペイン語のpimiento(ピミエント)がなまったものという説もあります。英語ではベルペッパー、緑色のものはグリーンペッパーといいます。その名前のとおり、ピーマンはペッパー(とうがらし)の仲間で、辛みのないものです。とうがらしの辛みの成分はカプサイシンといいますが、ピーマンにはほとんど含まれていません。熱帯アメリカ原産のとうがらしがヨーロッパを経て日本へ渡来したのは、16世紀のころ。江戸時代にはかなり普及していたようです。明治初期になって、ピーマンも含めてさまざまなとうがらしが欧米から導入されましたが、どうもピーマンは独特の香りが強いため、日本人の口に合わなかったせいか、敬遠する人も少なくありませんでした。ですから、今でも子どもの嫌いな食べ物に挙げられるのも無理はありません。一般家庭の食卓にものるようになったのは戦後のことです。そして、消費が急速に伸びたのは、昭和30年代後半です。つややかに輝く緑色のピーマンは栄養たっぷりで、カロチンやビタミンCが多く含まれます。ピーマン100グラム中のビタミンC含有量は約80ミリグラムで、中ぐらいの大きさのピーマン4個で1日の所要量をとることができます。一方パプリカは、ビタミンCが豊富で、ビタミンAも含まれます。栄養的にはピーマンとほぼ同じですが、緑色のピーマンに比べ、赤などのパプリカは肉厚で甘味があり、栄養価もやや高くなっています。赤い色素であるカプサンチンは、トマトのリコピンに匹敵する抗がん作用を持つと言われています。またお肌をきれいにするビタミンCも、レモンの約2倍(200mg/100g)とたくさん含まれています。そのほかの効能として、夏ばて、疲労回復、動脈硬化によいといわれています。パプリカの食べ方は色々とありますが、カロチンの吸収を高めたい場合は、油で炒めて食べると良いです。通常、ビタミンCは、加熱すると壊れてしまうのですが、パプリカは果肉が厚いため、加熱してもビタミンCが破壊されにくいという特徴をもっています。先日の遠足の私の弁当の中にもパプリカの油いためが入っていました。これからの季節にはうってつけの食べ物かもしれません。
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2007年06月11日 [講演先にて]
飯山線
一昨日は飯山で講演があったために飯山線に乗りました。千曲川沿いを走るこの路線は、なかなか味があります。この飯山線は、長野県長野市の豊野駅から新潟県北魚沼郡川口町の越後川口駅に至る東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線です。列車の発着の長野駅から豊野駅まではJR信越線と同じ線路を走り、豊野で分かれて飯山線が始まります。長野県内では千曲川に沿い、新潟県内に入ると千曲川から名を変えた信濃川に沿って日本有数の豪雪地域を通ります。私は、富山からの移動でしたので、この飯山線には豊野から飯山まで乗り、帰りは飯山から長野駅まで乗りました。路線のほとんどが谷沿いの山間部を通るために、主に夏季は大雨による土砂災害、冬季は大雪による雪崩や除雪作業等によりしばしば運休することがあるそうです。飯山から少し新潟に行ったところには、温泉地やスキー場として有名な野沢温泉があります。飯山の駅のホームには、鐘楼「七福の鐘」があります。寺の町飯山にちなみ、商売繁盛、人望福徳、結婚安産、勤労勤学、延命長寿、勇気援福、愛敬富財の七つの願いを込めたといいます。一度訪れる度に一つの願いが叶うといいます。
文豪・島崎藤村が「小京都」と呼んだ飯山には飯山城址を中心に22の寺があるそうです。その飯山駅からふたつ長野よりの駅は、「替佐駅」といいます。この駅に電車が到着すると、唱歌「ふるさと」のメドレーが流れました。また、駅の駅名版のはじにはその歌の楽譜が掲載されています。
この駅で放送される曲は季節のよって違うということで、「おぼろ月夜」「春の小川」「もみじ」などがあるそうです。どれも、文部省唱歌で、日本の心のふるさとを歌った歌詞として有名で、私が好きな歌が並びます。ですから、これらの歌詞についてのブログを何回か書いた覚えがあります。これらのすべての曲の作詞をしたのが、この替佐駅のある長野県中野市で生まれ、ここに記念館のある文学博士「高野辰之」です。彼は、明治九年(1876年)農家にうまれ、幼少時代を豊かな自然の中で育ちながら学問の道を志し、苦学の中からわが国近代の国文学に大きな功績を残した人物です。そして、小学唱歌の作詞者として著名です。彼の代表作として、そのほかにも「春がきた」「春の小川」などがあります。先日駅で流れた「ふるさと」は、高野辰之作詞・岡野貞一作曲で、大正五年(1914)「尋常小学唱歌(六)」にはじめて登場しました。歌詞はとても有名ですが、耳で聞いているので、意味を思い違いしていることの多い歌のひとつです。「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は 今も めぐりて 忘れがたき 故郷 如何にいます 父母 恙なしや 友がき 雨に 風に つけても 思い出ずる 故郷 志を はたして いつの日にか 帰らん 山は 青き 故郷 水は 清き 故郷」作詞の高野の幼少時代を過ごした故郷の風景・望郷の思いを描写したと伝えられています。兎を追った山は、大平山・小鮒を釣った川は斑川であるといいます。「うさぎを追う」とは、単に野山でこの小動物と遊ぶことではなく、肉食が禁じられていた中、うさぎを、跳ねることから鳥に見立てて1羽2羽と呼んで食べていましたが、そのうさぎを食べるために狩ることです。2番の「友がき」(友垣)とは、友だちのことで、垣をしっかりと結ぶように、人と人とのまじわりを、かつてはこう例えていました、「いかにいます父母」というフレーズは、スコットランド民謡に大和田建樹が作詞した「故郷の空」を思い浮かべます。「夕空はれて、秋風ふき つきかげ落ちて、鈴虫鳴く 思えば遠し、故郷の空 ああ、わが父母、いかにおわす」父母は遠くにいていつも自分を見守ってくれており、時たま、どうしているだろうかと思い出す存在は、ふるさとに似ているのですね。
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2007年06月10日 [講演先にて]
牛
今日は講演の帰りに、長野で途中下車して、「善光寺」に行きました。
私はよく訪れるのですが、その圧倒的なボリューム感には圧倒されます。ただ、残念ながら、重要文化財である山門は平成の大修理ということで、その姿をすべて覆ってしまっていて、見ることは出来ませんでした。しかし、本殿はその奥に見えてきます。この善光寺といえば、「牛に引かれて善光寺」という言葉を思い浮かべます。境内に「春風や 牛に引かれて善光寺」という小林一茶の句碑がありました。
この言葉から連想されるのは、犬を散歩するときのように牛に首輪をつけて、そこに綱をつけ、その綱を手で持っていたら引っ張られて、どこに行くのかと思って善光寺に着いてしまったという姿ですがそれは違います。以前、角に布キレをつけ逃走する牛を追いかけている図を見たことがあります。このいわれは、このようです。「むかし、信濃の国に若い後家さんが住んでおりました。その後家さんは、夫を数年前に亡くして失意のあまり、もはや神も仏も信じられなくなっていましたので、寺にお参りすることもありませんでした。ある暑い日、手ぬぐいをあねさんかぶりにして畑仕事をしていると、突然、大きな牛が何処からともなく現れ、突進してきました。後家さんは、大きな叫び声を上げ、脇に飛びのき、何とか牛を避けることはできましたが、しばし茫然としていました。すると、牛の頭に手ぬぐいが引っかかっているではありませんか。牛は畑を二度廻ると、角に手ぬぐいを引っ掛けたまま走り去りました。怒った後家さんは、手ぬぐいを取り戻そうと牛を追い駆けました。やがて見失ってしまいますが、回りを見まわしてみると、そこは善光寺の境内でした。ふと下を見ると、牛のよだれで、「お釈迦さまを信じなさい。地獄行きか極楽行きかは、人がお釈迦さまを信じるかどうかにかかっているのだから」と書かれていました。そして、聞こえてくるお経を聞いていると、お経の内容はほとんどわかりませんでしたが、安堵感を覚えました。そして、じきに涙があふれてきました。「何と罰当たりな日々を過ごしたことでしょう!」ということで、それ以来、仏を信じるようになり、足しげくお寺にお参りし、亡き夫と自分の後生をお祈りしました。」というものです。
そういえば、天満宮にも牛がいます。
それにはいろいろな説があるようです。「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在します。これらによって、牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれているのです。
そういえば、インドのヒンズー教徒は牛は神聖な動物として食べません。牛は最高神の一人シヴァの乗り物とされており、そのため食べることは恐れ多いとされているからです。牛はアジアでは、農耕や運搬にとても役に立ち、昔から人間のよき協力者でした。ですから、大切にされたのでしょう。インドでは、牛を食べないだけでなく、糞も大事に扱われます。神聖な動物が出した糞ということで、これも又神聖なものとなっており、道で牛が糞をすると、すかさず人々はそれを拾い集めるそうです。各国の理由は違っても、同じように「牛」を大切にするというのは面白いですね。
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2007年06月09日 [講演先にて]
直江津
直江津の駅に何年かぶりに降り立ちました。大学生のころの、佐渡を旅したときにこの直江津から佐渡に渡りました。佐渡へは、やはり大学生であった弟と一緒にテントも持って一周する旅に出かけたのです。そのときの思い出は、テントを張る場所についてです。弟と二人旅でしたので、毎日、交代で張る場所を決めました。そのときに二人の違いを感じました。私が選んだ張る場所は、水があったり、トイレがあったり、自炊が出来る場所を選びます。ですから、わりとキャンプ場のようなところを選びます。それに引き換え、弟の選ぶ場所は、人家の庭先とか、神社の境内とかを選びます。私は自分で余り人の助けを借りずに過ごそうとしますが、弟は、その地の人から水やトイレを借りたり、うちに泊まりに来たら?と声を掛けられたりして、触れ合いを求めます。これは、私が長男で、弟は末っ子ということもあるような気がします。人に甘え、可愛がられることをうらやましく思ったものでした。
そんな思い出の直江津ですが、今、駅前に大きな横断幕がかかっています。
それは、「2009年の大河ドラマは天地人!」というものです。この「天地人」とは、原作は火坂雅志氏の小説です。ドラマの主人公は、直江津がある上越市ゆかりの直江兼続(なおえ・かねつぐ)で、少年時代、上杉謙信から「天下を取ることなどは小事に過ぎず、それよりも“義”を貫いて生きることの方が「大事」と諭され、謙信の死後、越後の命運を握ることになった上杉景勝を支えながら、「義」を貫く生き方を志した人物です。面白そうですね。織田信長が天下統一を進める中、若き兼続は「愛」の兜を掲げ、越後の民を守る戦に挑んでいきます。そして信長の死後、豊臣秀吉からその才気と人間性を惚れ込まれた兼続は、家来に誘われますが「主君は景勝様ただ一人」と秀吉を袖に振り、その結果、上杉家の家老でありながら米沢30万石の領地を与えられます。そんな兼続を伊達政宗はライバル視し、また真田幸村は師と仰ぎ、前田慶次郎は上杉家の家来にしてくれと直談判しにくるなど、「義」を掲げる戦国の猛者たちが続々と兼続のもとに集まってきます。時代になびかずに「義」に生きる兼継を最も恐れたのは徳川家康でした。また、この直江兼続の人生は、年上の妻・お船との夫婦愛により、激しい戦国時代にあって、自らの理想と、大切な人の幸せのために強く生き抜き「日本の品格」を守り通した波乱万丈だったようです。彼は、「義」の意味を自分なりに解釈し、慈愛の「愛」と言う言葉にたどり着きます。そして、兜に大きく「愛」の文字を掲げ、「利」になびかず、主君のため、民のため、そして家族のため、「愛」を貫く生き方を志します。私は、「天地人」を呼んでいないので、なぜ、この小説の題名が「天地人」というかわかりませんが、とても深い意味を感じます。この間、ある人がこんなことを言っていました。「人は壁にぶつかって、その壁を打ち破ってこそ大きくなれる。」これは、漢字の形を見ればわかります。「人」という字が、「―」という壁を破ると「大きい」という字になります。そして、もっと大きな壁を知り、それにたどり着くことで「天」を知ります。これは、「大」という字の上にもうひとつの壁「―」を書くと「天」という字になります。なかなか面白い考え方ですね。
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2007年06月08日 [記念日]
バイキング
6月8日は、「バイキングの日」だそうです。なんだかこじつけのような日ですが、793年のこの日、バイキングの活動が初めて記録に現われたからだそうです。この日くらいから300年以上に渡って西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィアの武装船団(海賊)を指す言葉でした。しかし、これはキリスト教徒からの一方的な見方であり、後の研究の進展により「その時代にスカンディナヴィア半島に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容し、中世ヨーロッパの歴史に大きな影響を残しています。バイキングは海賊、交易、植民を生業としていたのではなく、故地においては農民であり、漁民であった。特に手工業に秀でており、職人としての技量は同時代においては世界最高のレベルであったということです。この「バイキング」という言葉は、日本では、食べ放題の飲食サービスを指す和製英語として使われています。昭和32年(1957年)、帝国ホテル内にオープンする新レストランをどのようなコンセプトとするかを考え続けていた当時の支配人は、新しく開設されたスカンジナビア航空の東京-コペンハーゲン航路でコペンハーゲンにわたり、宿泊地で“スモーガスボード”というスカンジナビアの伝統料理に出会いました。それはもともと友人知人が有り合わせの食べ物を持ち寄って、大勢で賞味したことから発展したもので、魚介料理や肉料理、薫製、酢漬けなどを豊富に用意し、好みの料理を自由に食べるご馳走でした。魚介類を始め日本人にもマッチする味覚、豪華なボリューム、好みのものを自由に食べるスタイルのユニークさに、日本でもこのスタイルが取り入れられないかということで、総料理長にこのスモーガスボードの研究を指示しました。そして翌年帰国して、帝国ホテル第2新館地下1階に、わが国初のスモーガスボード専門レストランが誕生させたのです。そして、北欧の海賊の名にちなんだ「インペリアル・バイキング」と名付けられたスタイルは、連日満員の人気を博しました。このときのネーミングである「バイキング」が、やがてわが国の“食べ放題”スタイルの代名詞となりました。しかし、あくまでも和製英語なので、外国ではこの言葉は通じません。早く、日本でも本来の「ビュッフェスタイル」という言い方に変えたほうがいいと思います。しかし、日本では、ビュッフェというとカウンター式の軽食堂のことをさすことが多いようです。また、外国では、ビュッフェとは、「立食:正式に食卓につかず,客がセルフサービスで食べる食事」のことを言い、食べ放題という意味はあまり強くないようです。私は、好き嫌いがまったくなく、返っていろいろな珍しいものを食べたく、量は余り食べないほうなので、このバイキング形式は余り好きではありません。先日も、宿泊先で、山菜のてんぷら盛り合わせが食卓に並びましたが、こういうほうがいいですね。しかも、黙って自分のお皿に乗せて、席に戻って黙って食べるというのも好きではありません。わたしは、このバイキングスタイルとスーパーでの買い物スタイルが人々のコミュニケーション能力を奪ってしまっている気がします。我慢をしたり、人に合わせたりすることを避け、また、他人と会話をすることを避けることを望むようになった為に、よりこのようなスタイルが好まれるようになってきたのかもしれません。わずらわしいかもしれませんが、人との会話は脳の訓練にはいいかもしれません。先日の山菜のてんぷらも、傍らで、一つ一つ何の山菜かを説明してくれました。
コシアブラ・山うど・こごみ・ぜんまいなど
投稿者 fujimori : 20:21 | コメント (3)
2007年06月07日 [新聞記事より]
坂上田村麻呂
平安初期の武人で上級貴族だった坂上田村麻呂の墓を、京都大大学院文学研究科の吉川真司・准教授(日本古代史)が文献調査で特定したというニュースが先日報道されていました。1919(大正8)年に京都市山科区で発掘された「西野山古墓(こぼ)」の可能性が極めて高いといいます。田村麻呂が創建したという京都の清水寺に残る平安後期編纂の「清水寺縁起」に墓の位置が記されていたようです。新聞によると、行政の最高機関が土地を管理する民部省に送った文書で、田村麻呂の墓地に「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があったので、平安時代の図を基にした「山城国宇治郡山科地方図」と照合すると、今の山科区西野山岩ケ谷町にあたり、西野山古墓の場所と一致するといいます。この西野山古墓の内部から、武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が出土しています。こうした研究から時代と位置と身分が一致し、田村麻呂の墓と特定したものです。田村麻呂は、伝説が多いのですが、正三位・大納言・参議となった高官だったので、日本後紀は散逸した部分が多いものの、幸いにして田村麻呂の薨伝(こうでん)が残っています。薨伝とは、三位以上の貴族が亡くなった時に、国家が編纂した正史にその人の業績と人柄を偲んで記録された追悼文です。ここには、業績と人柄を偲んで書いているので、良く書いたり、大げさに書いたり、半ば軍神として神格化したように書いたりはしているものの、大方、その人を知ることが出来ます。そこに書かれてある風貌は、「赤ら顔で黄色の鬚のある容貌で、人には負けない力を持ち、将帥の量があった。」とあります。そのかわり「往還の間、従う者が限りなくあり、人馬を支給し難くなったことがあり、往還の路費は莫大なものであった。」というほど人望があったのでしょうか。群書類従にも、田邑麻呂伝記が収録されています。そこには、風貌がもう少し詳しく書かれています。「身の丈五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸の堂々とした姿である。目は鷹の蒼い眸に似て、鬢は黄金の糸を繋いだように光っている。体は重い時には二百一斤、軽い時には六十四斤、その軽重は意のままであり、行動は機に応じて機敏であった。怒って眼をめぐらせれば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった。」体が、重くなったり軽くなったりするのは変だと思いましたが、ここのところの原文は、「動静合機。軽重任意。」ということで、動静とは「立ち居振る舞い」のことで、それが、機(道理)に合っているということであり、軽重とは、「物事の価値判断」のことであり、その基準を意(心の中)に任(にな=とどめる)うということのようです。そして、笑うと稚児も懐に入るということは、「懐く(なつく)」ということです。それは、「丹款顕面」ということで、丹款(まごころ)は面(おもて)に顕(あら)われるということです。子どもは、それがすぐにわかるようです。しかもそれは、生まれながらのもののようです。「桃花不春而常紅。勁節持性。松色送冬而獨翠。」とあるのは、「桃の花は春ならずして常に紅いし、松の色は冬を送りて獨(ただ)翠(みどり)のように、勁節(つよい意志)は性(うまれながら)にして持っているもののようです。比較するのもおこがましいのですが、私もよく顔が怖いとか、近寄りがたいとか言われますが、子どもはすぐに寄ってきて懐いてくれます。子どもは表面よりも心の中を見て信頼してくれます。
投稿者 fujimori : 23:12 | コメント (2)
2007年06月06日 [近頃思うこと]
バイオマス
昨日の6月5日は環境の日です。これは、1972年6月5日からストックホルムで開催された「国連人間環境会議」を記念して定められたものです。国連では、日本の提案を受けて6月5日を「世界環境デー」と定めており、日本では「環境基本法」(平成5年)が「環境の日」を定めています。今ドイツで行われているサミットでも、また、最近の世界の課題は環境についての課題が中心を占めています。この考え方は、発展途上国においては難しい問題があり、中国、アメリカなどもいろいろな問題が絡んでいて難しいですね。しかし、人間が壊してきた自然は、結局は人間にその仕打ちをします。もう一度、次世代のために、良い環境を取り戻す努力をしていかなければならないでしょう。
最近、水俣に行ったときに「バイオマス(Biomass)」についての取り組みを紹介している施設を見学しました。バイオマスとは生態学で、特定の時点においてある空間に存在する生物の量を、物質の量として表現したものです。通常、質量あるいはエネルギー量で数値化します。なんだか難しく聞こえますが、私たち日本人は、バイオマスを日常的に活用して暮らしてきたのです。たとえば、木を炭にして燃料にしたり、落ち葉や人や家畜の糞尿を肥料として使ったり、さまざまなバイオマスを大切に効率的に利用して無駄のない生活を営んできました。そういう意味では、日本は先進国だったのです。しかし、近代化の中で、大量生産、大量消費、大量廃棄物型の社会、石炭や石油などの化石資源に依存して得られるようになったエネルギーと製品によって、一見豊かな、便利な社会を手に入れました。その見返りとして、大量の廃棄物、環境汚染、地球温暖化など、自然界の浄化能力を超えた問題が起きてきました。化石資源の利用は有限です。再生が難しく、また廃棄も難しいものです。そこで、「バイオマス」に大きな期待がかかっているのです。その中で、最近いろいろな問題をはらんでいますが注目されているのは、バイオマスを用いた燃料であるバイオ燃料(biofuel)またはエコ燃料(ecofuel)と呼ばれているものです。トウモロコシなどの植物から作る燃料「バイオエタノール」を自動車燃料として利用する計画に、政府・民間が本腰を入れ始めています。植物由来のバイオエタノールは、燃やしても二酸化炭素の総量が増えないため、京都議定書で義務づけられた二酸化炭素などの排出量抑制に役立つからです。ただ、価格がガソリンより割高になるとか、原料としてのとうもろこしとかサトウキビが高騰してきているとか課題も残っています。燃料だけでなく、環境負荷の低い自動車として、ハイブリッドカーなどありますが、最近新幹線にもハイテク車両が登場しています。
ハイテクというと、もちろん最速であるということが一番の関心事でしたが、最近は「快適性の向上」があげられ、それ以上の関心事が「環境性能の向上」ということで、環境への適合、省エネルギー化の推進があります。「N700系」は、東海道・山陽新幹線直通用車両として最速を目指す(速達化)ことに加え、それとは一般的にはトレードオフの関係にある車内快適性、環境適合性、省エネルギー化をも最新の技術を採用することにより両立化を図った、トータルバランスの極めて優れた車両なようです。まず、車両間に全周ホロを採用するとともに、床下機器の低騒音化などにより、車外騒音の低減を図ります。そして、通常のブレーキ力は全て電力回生ブレーキで賄う方式を採用することにより、大幅な省エネルギー化を実現します。知恵は、採算、効率に使うよりも、地球のために使ってほしいものです。
投稿者 fujimori : 22:57 | コメント (2)
2007年06月05日 [近頃思うこと]
両立から調和
こんなDMがきました。「あなたの家に家政婦が来ると、生活はこれだけ変わる。年収1000万円を超えたら、掃除・洗濯は自分でやるな!!」というチラシです。このチラシの片面には、ゴロゴロしてテレビを見ている父親に子どもが話しかけています。「せっかくの休日なのに、掃除、洗濯に追われて家族で出かけることもなかなか出来ない…。家事が終わるまではお出かけはお預け。唯一家族がそろう休日なのに、家からも出ず、結局朝から晩まで掃除と選択とゴロ寝で1日が終わる。休みの日なのにぜんぜん休んだ気がしない。これじゃ体も気持ちも休まりません。」それが、こうなるともう片面には子どもを肩車した父親と、その子に笑顔で話しかけている母親の写真と共に「掃除と洗濯に使っていた時間をこれからは大切な家族の為に、自分の自由な時間に為に使ってください。他愛のない話に、思わずこぼれる笑顔と、時間に終われることなくゆったりと過ごす時間が手に入ります。時間と手間のかかる掃除と洗濯は私達家政婦に任せて、家族で出かけたり、読みたかった本を読んだり、掃除と洗濯の義務から解放されて、その分、家族・子ども・自分の時間が手に入る。」と書かれています。よく、「仕事と育児の両立」といいますが、夫婦の年収の合計が1000万くらいの収入になると、育児と仕事がなかなか両立はしません。しかし、園に苦情を言ってきたり、イライラしているのは高収入の人のほうが多い気がします。何事も完璧にしようとし、結局どっちつかずになってしまって悩んだり、どちらかが犠牲になることも多いようです。どんなに忙しくても、仕事がたくさんあっても、子どもが熱を出しても、子どもが本を読んでとねだっても、1日は24時間しかありません。これは、地位にも、収入にも関係なく、平等です。ですから、この24時間をどう使うかがその人の能力かもしれません。それを、何でもかんでも欲しがるとか、すべてをパーフェクトにしようとか、すべてを欲しがっても無理なのです。OECD(経済協力開発機構)でまとめられた「スターティング・ストロングⅡ」乳幼児期の教育と養護「ECEC」(2006,9,11)のなかで、女性参加の考え方を「女性にとってより公平な基準に則った仕事と家庭責任の調和(仕事と家庭のバランス)」といっています。両立ではなく、「調和」とか「バランス」といっています。私も、日本で政府の施策として「育児と仕事の両立支援」という言い方をしますが、これを「育児と仕事の調和支援」とすべきだと思います。自分として、人生をどうバランスをとっていくかが、どういう生き方をするかということです。今月の夜9時ごろの南の空に、とても明るく光る「木星」と、ぽつんと光る「アルクトゥールス」が見つかりますが、この「木星」と「アルクトゥールス」のあいだの4つの星が「てんびん座」です。ギリシア神話に出てくる正義の女神アストレイアがつかっていた、人の善悪をはかる「てんびんばかり」が星座になった、とされています。その時々に、育児と仕事をてんびんにかけてどちらをどのくらい選択するかが、その人の能力になります。二兎追うものは一兎も得ずということで、追っている二羽の兎が、それぞれ違う方向に逃げていくときは自分だけで両方追おうとすると両方とも逃がしてしまいます。イライラせず、誰かにあたったりせず、もっと心豊かに日々を過ごして欲しいと思います。二度と来ない「今」を大切にして欲しいと思います。
投稿者 fujimori : 22:48 | コメント (2)
2007年06月04日 [近頃思うこと]
6月の夜空
今年は遅いようですが、もうすぐ入梅です。今年はどうも雨が少ないようで、水不足に悩みそうです。水不足だったある年に、子どもたちのプール遊びも、自粛するような通達があったことがあります。光化学スモッグ警報が出るだけでもプールに入れないのが、それに水不足、夏休みのない保育園では、毎日子どもたちは暑い室内で、窓もあけられずに過ごすことになるのでしょうか。そういう意味では梅雨はありがたい季節ですが、星空を眺めるのにはちょっと残念な夜空です。ですから、この時期の七夕には星空でおりひめ星、ひこ星を探すことはほとんどできません。その二つの星を含めて、6月の星空は、春の大曲線から、夏の第三角形へと移り変わる時期なので、両方とも見ることができます。まず、この時期には、「北斗七星」を、北から西の空の高いところに見ることができます。対称的な位置にあるカシオペア座とどちらかが高い位置に上るのですが、6月は「北斗七星」のほうが見やすい位置にあります。これは大きな7つの星がひしゃくの形をしていますが、星座で言うと「おおぐま座」のシッポのところの星です。学校時代に習った見つけ方の「北斗七星」のスプーンの先を5倍にのばすと、「北極星」が見つかります。この「北極星」は季節に関係がなくいつも夜空の同じところに光っていますが、北斗七星から見つけるのは今の時期に限ります。そして、「北斗七星」のシッポのカーブをのばしていって、アルクトゥールスをとおり、「おとめ座」のスピカまでのばした線を「春の大曲線」と呼んでいるのです。「アルクトゥールス」は、南の空の高いところにある「うしかい座」の目じるしの星です。そして、南の空で明るくかがやいている星は「木星」です。その右がわに、「S」の字のようにまがって星がならんでいるのは、夏の代表的な星のひとつである「さそり座」です。サソリの心ぞうのところにある赤い星はアンタレスといいます。同じように赤い惑星である火星(ターレス)に対抗して、アンチターレスということで、アンタレスといいます。この「さそり座」の右がわに四角くならんんでいるのは「てんびん座」です。そんなころに、東の空から上ってくるのが「夏の大三角」です。東の空の「こと座」のベガ、「わし座」のアルタイル、「はくちょう座」のデネブを結んでできる三角の「夏の大三角」です。ベガは七夕の「おりひめ星」、アルタイルは「ひこ星」です。この北と東のあいだの空に見える明るい星の「ベガ」は、「こと座」の中の星です。こんな星座ですが、もうひとつ今月に宇宙ロマンが見られます。この6月は、太陽がしずんだあと、西のゆうやけ空に、金星があかるくかがやいています。もうすこし時間がたって、空が暗くなってくると、金星のななめ左上のほうに、土星が見つかります。西の空の低いところに、「金星」と「土星」がななめにならんでいますが、6月のはじめから毎日少しずつ、土星は、だんだんと金星に近づいていき、7月1日には土星と金星がくっつきそうなほど近くにならんで見えます。そのあと、今度はだんだんと離れていきます。今月の末のゆうやけ空で、土星と金星が大接近を見ることができるのです。その前に18日には、三日月と金星が並び、19日には、三日月と土星が並びます。それから今月の22日は、「夏至の日」で、一年でいちばん昼間の時間が長い日ですね。梅雨の合間を縫って、晴れた日には空を眺めてみてください。星空は、どんな季節でも私たちにロマンを感じさせます。
投稿者 fujimori : 20:18 | コメント (2)
2007年06月03日 [散歩]
百合
今日は、少し早かったのですが、西武球場前の「ゆり園」に行ってみました。園は、西武線沿いにあるので、いつも「ゆり園」のポスターを眺めていて、余りのすばらしさに一度見てみたいと思ったのです。
ところが、まだほとんど咲いていないので、今日の入場料は無料でした。このすばらしい一面のゆりの写真は、ポスターのものです。百合の姿は、美人の美しい歩く姿にたとえられたことは以前のブログで書きましたが、そのほかにも、吉永小百合さんのように女性の名前に使われたり、歌の歌詞にも登場します。歌詞に登場する百合の姿で、どんなイメージを持っているかがよくわかります。まず、私がすぐに思い浮かべるのは、「北上夜曲」です。この歌詞には百合の匂いがイメージされます。百合は、姿だけでなく、その匂いも好き嫌いがあるようですが、独特なものがあります。「匂い優しい 白百合の 濡れているよな あの瞳 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 月の夜」うたごえ喫茶などで、ずっと作者不明の愛唱歌としてよく歌われていましたが、作曲者の安藤睦夫が原作の名乗りをあげ、レコード化され、映画化もされました。昭和16年に水沢農学校に通う菊池規と八戸中学校の生徒だった安藤睦夫が水沢(現 奥州市)で偶然出会って意気投合し、この歌が誕生しました。私が初めて岩手の水沢に行ったときにカラオケで歌った思い出があります。
その次に思い出す歌は、あのザ・フォーク・クルセダーズのメンバーである北山修が作詞し、加藤和彦が作曲した「白い色は恋人の色」です。この曲はさまざまな色をイメージしており、1番の歌詞では、白百合から白い色は恋人の色をイメージしています。「花びらの白い色は 恋人の色 なつかしい白百合は 恋人の色 ふるさとのあの人の あの人の足もとに 咲く白百合の 花びらの白い色は 恋人の色」歌っていたのは、「ベッツィ&クリス」というハワイ出身のベッツィとアイダホ出身のクリスによるフォークソングデュオで、その声もなんとなく白百合のイメージがあって人気がありました。同じように白く咲く花といえば百合をイメージしたものに「圭子の夢は夜ひらく」(石坂まさを作詞)があります。圭子とは、もちろん「宇多田ヒカル」の母親である藤圭子です。「赤く咲くのは けしの花 白く咲くのは 百合の花 どう咲きゃいいのさ この私 夢は夜ひらく」原曲は、練馬少年鑑別所で歌われていたものだそうで、自分がどうすればいいか迷って、少し捨て鉢になっている気持ちが藤圭子の投げ捨てるような歌い方ではやりました。なんと、藤圭子版のこの曲の歌碑が、新宿区の花園神社に建てられているそうです。捨て鉢な自分に比べて、高貴なイメージの百合の花は、こんな歌にも書かれています。「あざみの歌」(横井弘作詞)の2番の歌詞です。「高嶺の百合の それよりも 秘めたる夢を ひとすじに くれない燃ゆる その姿 あざみに深き わが想い」山百合の姿は、「高原列車は行く」(丘灯至夫作詞)に楽しげに描かれています。「みどりの谷間に 山百合揺れて 歌声ひびくよ 観光バスよ 君らの泊りも 温泉の宿か 山越え 谷越え はるばると ララララ ララ ララララララ 高原列車は ラララララ 行くよ」
百合というと、白い色を思い浮かべますが、黒百合となると、激しい熱情を感じるようです。映画「君の名は」の第2部主題歌「黒百合の歌」(菊田一夫作詞)では、各番の歌い出しでこんなイメージを持っています。「黒百合は 恋の花」「黒百合は 魔物だよ」「黒百合は 毒の花」ドイツ民謡に吉丸一昌が歌詞をつけた「故郷を離るる歌」では、故郷のイメージとして「園の小百合、撫子、垣根の千草」を思い浮かべるように、なににしても「百合」は代表的な花なのでしょう。
投稿者 fujimori : 22:52 | コメント (3)
2007年06月02日 [近頃思うこと]
びわ
先日、「びわ」をいただきました。長崎から、重い思いで持ってきていただきました。日本一の生産量を誇る長崎県のびわで、有名な「茂木びわ」です。「びわ」はバラ科の植物で中国から伝わってきました。きれいなオレンジ色で、卵型の形が楽器の「びわ」に似ていることから名づけられました。最近の食べ物は甘みが強いので、食べ始めたときその甘さに少し物足りなさを感じますが、食べているうちに、その甘さの優しさを感じるようになります。びわは、野生種がわが国の山野にも自生していたのですが、本格的に栽培が始まったのは今から170 年ほど前、長崎で茂木びわが生まれてからだそうです。茂木びわは江戸時代末期の天保・弘化年間、長崎に女中奉公に来ていた三浦シオが長崎の出島から唐びわの種を持ち帰り、畑(現在の長崎市北浦町)に播いたのが始まりといわれています。今は値段が高い果物ですが、意外と普通に庭にびわの木があります。
そのびわが、家の庭に植えられているのは、びわの葉や種子が漢方薬の素材として利用されていたからでしょう。果実の90%位は水分ですが、その甘みの主成分は果糖とショ糖で、酸味の部分はリンゴ酸とクエン酸です。栄養面からみるとビタミンA、カルシウムや食物繊維が豊富に含まれる健康食品です。びわに多く含まれるβ-カロチンは、食べるとビタミンAに変化し免疫力を高めます。目や皮膚を健康に保ちたい人、生活習慣病を予防したい人におすすめです。カリウムは調理すると失われやすいため、そのまま食べるびわはカリウム摂取に最適です。カリウムはナトリウムの排泄を促し、血圧を正常に保ちます。また、ペクチンやセルロースなどの食物繊維は6番目の栄養素とも言われコレステロールの上昇を抑え、腸内の有害物質の排泄、善玉菌と呼ばれるビフィズスの増加促進により生活習慣病の予防に効果があります。皮をむいてしばらく置くと褐変するのはポリフェノールの仕業ですが、これは果物の味に深みを与える成分で抗酸化作用があり、いろいろな生活習慣病の予防に効果があります。漢方ではびわの果実は口の渇きを癒し、吐き気を止め、五臓をうるおすとされています。また、びわは種が大きく食べるところが少ないとよく言われますが、バナナ、スイカ、メロンより果実の廃棄割合の少ない果物です。咳がひどい時は、びわの汁に葉と氷砂糖を入れて煮詰めたものを飲用すると良いと言われていますし、葉を利用したびわ茶は、利尿効果、疲労回復、食欲増進効果があると言われています。仏教医学としてインドからわが国に伝えられたびわの葉療法として、おそらく生のびわの葉で体の痛い所をなでたり、患部に貼ったりしました。体温によってびわの葉が温められ、葉効成分が少しずつ皮膚から浸透していき関節の痛みや腫れがとれたのです。また、びわの葉二十枚ほどを、幅二、二cmに刻み、あみの袋に入れ、水のときからお風呂に入れておくと「びわの葉風呂」が楽しめます。皮膚病などの皮膚のトラプルや日焼け(特に、焼きすぎて小さな火ぶくれができたとき)によく効きます。また、びわの葉の効用の陰に隠れてあまり利用されていませんでしたが、その利用価値が見直されつつあるのが、「びわの実」です。この実に、びわ葉百枚以上のビタミンB17(アミグダリン)が含まれているのです。これは細胞を活性化させ、ガンにも効くと言われています。びわの種は丸ごと粉末にして小さじ1杯食するのも良く、元気のもとと言われ、また花粉症などのアレルギーに即効性があり、さらに、免疫力を高める効果もあるそうです。これらは、祖母のころは生活の知恵として活用していたようです。
投稿者 fujimori : 20:27 | コメント (2)
2007年06月01日 [近頃思うこと]
地場産業
新宿といえば、何の商売を思い浮かべるでしょうか。場所として思い浮かべるのが「歌舞伎町」であるように、職業もその地域に関連するような夜の商売を思い浮かべる人が多いでしょう。私が、保育園を新宿で開園したと聞くと、その保護者は、その関連の職業の人であるとか、または、勤務地が新宿にある保護者であって、そこに住んでいる人たちのことは余りイメージをしません。しかし、新宿区にも立派な「地場産業」があるのです。地場産業とは、地域と密接に結びつき、存在基盤の多くを地域に依存している産業のことをいいます。そのひとつは、容易に理解できますが、「印刷・製本関連」の事業です。いわゆるさまざまな印刷屋があるのです。それは、明治19年(1886)年に、秀英舎(現大日本印刷の前身)が中央区から市谷加賀町に移ってきて以来、市谷、神楽坂周辺に出版、印刷、製本関連の事業所が多くなったのです。今は、文京区と並び東京都を代表する集積地となっています。もうひとつ、意外な地場産業があります。この産業は、私の園がある高田馬場・落合を中心に、事業所が立地している染色業です。経済産業大臣指定の伝統工芸品である「東京染小紋」「東京手書友禅」、東京都指定の伝統工芸品である「江戸更紗」「江戸刺繍」「東京無地染」などです。園の開園式のときのパンフレットの下地には、この小紋の模様を使いましたし、園の保育室にぶら下がって札の下地にも江戸小紋を使っています。その染色業者の歴史は、大正の中頃、染色業者が水源として神田川の清流を求めて神田や浅草にあったのですが、その地域が繁華街に呑み込まれ、行き場を失った染屋は神田川をさかのぼり、江戸川橋、早稲田戸塚周辺から高田馬場あたりにかけて、まず大規模な浴衣(注染そめ)工場の進出があり、その後、規模の大きい東京染小紋、江戸更紗の工房が進出し、その染の関連業種が続いて進出してきたのです。そこに一つの染の集散地が形成されると、東京手描友禅の職人さんもやってまいりました。ここ新宿・神田川流域に東京で一番大きな染の主産地が出来、全国の染の産地と披見される場所になったのです。昭和に入って西武線が開通してからは、神田川、妙正寺川をはさむようにして、工場等の数も増え、川のあちこちで、染工場の職人たちが染めた反物を水洗いする様子が、昭和35年まで見ることができたそうです。私が住んでいる八王子も、織物の町で、近くを流れる浅川でも、上流で反物の水洗いをしているようで、川の水が赤や青に染まっていたのをなんとなく覚えています。この新宿にも、着物を仕上げるまでの多くの作業工程に関連して、下絵、模様、引き染、蒸し、刺繍、箔置き加工や洗張、染色補正、湯のし等があり、それぞれの業種に伝統技が行き続いています。新宿といえば、超高層ビル群や繁華街のイメージばかりが強調されがちですが、一方にはこういった伝統産業が地場産業として息づいているのです。しかし、もともとは、「お江戸神田紺屋町」などに代表される地名でもあらわされるように、神田川流域の神田から隅田川周辺の浅草に染屋の集散地は広がっていたようです。そして、全国から集まる大名や商人や、また、物流の中心である大都市江戸市街はその時代の流行の中心でもありました。そこには越後屋などに代表される大呉服店が日本橋界隈に点在し、そこで生み出された流行はすぐに神田の染屋に注文されたわけです。新宿では昭和52年に、印刷・製本関連行と染色業を地場産業として位置付け、その振興を図っています。「地産地消」「地場産業」これからは、地域がキーワードです。